2017年11月12日日曜日

「火山一代」

 戦時下の昭和18(1043)年暮れから20年秋にかけて、北海道・洞爺湖近くの村で大地が盛り上がり、「昭和新山」ができた。その形成過程を追った記録図「ミマツダイヤグラム」で知られる三松正夫は、延岡藩内藤家御用人の血筋――という話を書いたら、すぐ若い仲間から反応があった。
 志賀伝吉著『元文義民傳―磐城百姓騒動』(元文義民顕彰会、1976年)に、磐城平藩御勝手御用人三松金左衛門の記述があるという。「元文三年戊年(1738)正月、国家老内藤治部左衛門とその弟内藤舎人(とねり)、同じく中根喜左衛門、御用人三松金左衛門等相謀り、藩財政危機打開策として不時の御用金徴収を計画した」。結果、百姓たちの反発に遭い、大一揆が発生した。

 一揆を指導した百姓は死罪になった。御用金徴収を画策した側のひとり、三松金左衛門は「隠居」「役儀召上げ」になった、という。内藤家はこのあと、延岡へ移封される。

 正夫の祖父は延岡藩内藤家の御用人を務め、明治維新後は宮崎県官吏になった。父親もまた官吏の道に進み、北海道開拓使の属官として渡道し、曲折を経て、やがては正夫が引き継ぐ郵便局長になった=正夫の養子・三松三朗著『火山一代――昭和新山と三松正夫』(道新選書、1994年2刷)。

 まずは『火山一代』を再読しないと。どこにあるかな、ここかな――珍しく本の壁から一発でホコリまみれの『火山一代』=写真=を取り出すことができた。「祖父は三松林太郎百助(略)、内藤藩の侍で、御番頭、社寺奉行、町奉行、郡(こおり)奉行、御用人」などを務めた、とある。

『いわき史料集成4』(いわき史料集成刊行会、1987年)によれば、延岡へ移封される直前の「家臣分限帳」に8人の三松姓がいる。家老は専務、組頭は常務、年寄は部長、用人は課長……と言えるなら、御用人は藩の幹部職員だろう。石高の上位3人は400石・三松仁衛門、300石・三松勝衛門、200石・三松幾衛門だ。その3人のいずれかが正夫の先祖かもしれない。
 
 正夫の祖父・百助は幕末・維新期、九州の幕領預かりという難題が起きたとき、郡奉行として同じ日向の隣藩と折衝する役目を担った。ネットでそんな論考に出合った。

とりあえず昭和新山と三松正夫、正夫の祖父と延岡藩、祖父の先祖と磐城平藩という流れでわかったことは、そんなところ。あとは、歴史が専門の先輩に聞こう。

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