2017年11月13日月曜日

「真実」と「しんじつ」

 吉野せい賞はいわきローカルの文学賞だ。今年(2017年)は40回の節目の年。おととい(11月11日)、市立草野心平記念文学館で表彰式が行われた。
 昼前に文学館へ行き、表彰式のリハーサル=写真=を見たあと、受賞者と会食した。表彰式では、5人の選考委員を代表して選考結果を述べた。

 表彰式のあと、福島県立博物館長赤坂憲雄さんが「吉野せいの世界」と題して記念講演をした。作品集『洟をたらした神』の<あとがき>に、「貧乏百姓たちの生活の真実」と「底辺に生き抜いた人間のしんじつ」が出てくる。漢字の「真実」と平仮名の「しんじつ」の使い分けに触れながら、赤坂さんは持論を展開した。
 
 勝手に解釈するなら、「貧乏百姓たちの生活の真実」の先にはプロレタリア文学がある。しかし、せいは農民文学でもプロレタリア文学でもない「底辺で生き抜いた人間のしんじつ」の世界を描きたかったのではないか、ということらしい。
 
 せいは赤坂さんのいうように、「真実」と「しんじつ」を使い分けていたのだろうか。実際に『洟をたらした神』の作品に当たってみる。
 
 まず、「真実」。<鉛の旅>=わが子にむしゃぶりついて母親が大泣きする「実に生々しい真実の出征風景を見た」、<夢>=「夢の中での真実の形」、山村暮鳥と三野混沌(せいの夫・吉野義也)との交流は「真実の出来事ではあった」、<信といえるなら>=「遠くから力を貸してくれた一人一人の真実の友情」、「人間同士の心の奥に流れ合う凄まじい信頼」を指す「真実の果実の味」。
 
 <老いて>には「それも真実、これも真実、その何れにも私は湖面のようなしずけさで過ぎたいと切に希(ねが)う」とある。
 
「しんじつ」はどうか。<麦と松のツリーと>=「国を挙げての存亡の糧作りと噛みつかれると、戦果のでたらめ放送にもしんじつに耳を傾けて信じ込み、出征した身近な男たちの血みどろな戦場を想い、戦死者の俤(おもかげ)を胸に浮かべる」。「真剣に」とか「本気になって」とかの意味で「しんじつに」を使っている。大本営発表のラジオ放送を無批判に受け入れる人々――の姿が思い浮かぶ。

 <あとがき>の世界では「真実」と「しんじつ」を使い分けても、<本文>の世界では「真実」をそのまま多用している。『洟をたらした神』の世界が面白いのは、こうして新たな視点を得て何度も調べ直しができることだ。

0 件のコメント: