2018年1月24日水曜日

交通死亡事故発生

 先日、1月3回目の回覧資料を振り分け、行政区の役員さんに届けた。なかに、いわき中央署の「速報」チラシがあった=写真。1月13日夜、隣のそのまた隣の行政区で交通死亡事故が起きた。歩行者とドライバーに注意を促すものだった。
 事故は国道6号で発生した。新聞報道や地元の区長さんなどの話によると、午後7時すぎ、国道を横断中の78歳の女性が車にはねられ、亡くなった。近くに交差点と押しボタン式の横断歩道があるが、そこまで行かずに横断した。

 後日、現場近くを通ったら、電線(電話線?)支柱の根元に花が供えられていた。カミサンが地元の知り合いから聞いたことだと言って、盛んに「プリウス(販売会社)の近く」と言っていた。「プリウス? レクサス(販売会社)でないの」「そう、そう」。車を運転しない者はこんな調子だが、やはり死亡事故はグサリとくる。

 現場を、西から見ると――。いわき市の中心市街地・平を抜けて夏井川を渡り、鎌田山の切り通しで北に向きを変えた国道6号は、今度はまっすぐに東進する。片側2車線の幹線道路だ。平市街の混雑から開放された車は、いきなりアクセルを踏み込む。

 神谷地区8行政区のうち、塩・中神谷西・同南区を抜け、次は草野地区、さらに四倉地区につながるわけだが、この区間はセスナ機ならいつでも不時着できるような幅と直線を保っている。
 
 まだ記憶に新しい交通死亡事故がある。震災前の2010年1月11日夜9時半ごろ、自宅前の国道6号横断歩道を渡っていた人が途中で転倒し、最初の車にひかれた。ひいた運転手らが救護活動中に、今度は別の車にひかれて、全身を強く打って死亡した。隣の区の出来事だった。
 
 車対車、車対人の死亡事故多発地帯でもある。横断中にはねられて亡くなるのはたいてい近所のお年寄りだ。とりわけ神谷地区の国道6号沿いは、いわきでも交通事故遺族が多い地区ではないだろうか。
 
 押しボタン式の交差点では、人ばかりか車も、国道の信号をいったん赤にして車の流れを止めないと合流できない。そこでもちょっと前、わきから国道に合流しようとした車が直進してきた車と衝突した。ひとごとではないのだ。

2018年1月23日火曜日

春の雪が少し

 外は雪。初雪だ。庭に背を向けて茶の間で晩酌するから、「雪見酒」の風情はない。ただ、日課として酒を飲むだけ――。そこへ、「あした(1月23日)は朝、雪かきしてね」。雪より重いことばが突き刺さる。
 きのう、下校中の小学生がわが家の前を通るころ、雪が降り始めた。同じ下校時間に東北地方太平洋沖地震が起きた。午後2時46分。静かな揺れが始まり、やがてものすごい揺れが繰り返し押し寄せた。すぐ外に飛び出した。少し収まったところでカメラを持ち出し、通りに出たら、隣のコインランドリー駐車場の真ん中で、小学生たちがかがみこんで泣いていた。
 
 それを思い出したのは、わが家の店のなかにある「かべや文庫」で客人としゃべっているうちに、子どもの声がしたからだ。外を見たら雪が吹っかけている。降り始めの時間がそれでわかった。

 けさ見ると、拍子抜けした。庭の車の屋根の雪は8センチほどで、昨夜の就寝前と変わっていない=写真。これから小一時間、家の前の歩道=通学路の雪かきをする。すでに近所からは、スコップで雪を払う音がしている。

 いわき地方では春先、ときどき雪に見舞われる。南岸低気圧が本州付近を東進しながら雪を降らせるのだ。今度の気象概況も「低気圧が四国の南海上にあって、東北東に進む。それで雪になる」「浜通りでは、22日夜遅くから23日未明まで暴風雪に警戒を」だった。

 例年、冬場は国道6号の常磐バイパス沿いに、国土交通省平維持出張所と福島県いわき中央警察署連名で「凍結・積雪道路のノーマルタイヤ走行は道交法違反(福島県道路交通規則)」の看板が立つ。スタッドレスタイヤに切り替える前は、看板を見るたびに罪意識を感じたものだった。

 ま、しかし、きょうは家で静かに過ごそう。そのために、きのうは朝から動き回った。

 けさの路面はどうか。アイスバーンになっていないか。車道には車のわだちができていた。凍ってはいない。歩道は少しシャーベット状だ。スコップですくうと重い。でも、量が思ったより少ないから、作業はわりと早く終わった。

 いわきは冬もノーマルタイヤの車が多い。ちょっとした雪でもスリップ・衝突事故が多発して、交通網は寸断される。救急車がピーポー、ピーポーと鳴り続かないように。それだけを祈る。

2018年1月22日月曜日

専称寺の屋根が見える

 先週半ばに平・専称寺関係のフェイスブックで知った。「本堂を覆っていた囲いが全て撤去されました!」。やっと、本堂が修復されたか。
 きのう(1月21日)、夏井川の対岸、神谷(かべや)側から囲いの取れた専称寺を眺めた。銅板葺きの屋根が一部、午後の日を反射していた=写真。

 専称寺は東北地方太平洋沖地震で大きな被害に遭った。本堂は「危険」、庫裡は「要注意」、ふもとの総門もダメージを受けた。いずれも国の重要文化財に指定されている。

 震災の翌年、総門と本堂の大規模工事が始まる。秋には本堂がパイプで囲われ、解体作業のための足場が組まれた。以来、本堂の姿は、ふもとからも対岸からも見えなくなった。その囲いがおよそ5年ぶりにはずされた。

 私は、檀家ではない。が、専称寺の歴史と文化を学び、敬愛する一人ではある。参道入り口に石柱が一対。一方に「奧州總本山専偁寺」、もう一方に「名越(なごえ)檀林傳宗道場」と彫られている。東北の浄土宗の元締めであると同時に、同宗名越派の大学でもあった。以下は、前に拙ブログで書いたことの再録・要約・書き加え――。

 この大学で学んだ高僧・名僧は数多い。江戸時代前期の無能上人(1683―1718年)と貞伝上人(1690―1731年)。それに、私もいささか研究のまねごとをしている幕末の良導悦応上人こと俳僧一具庵一具(1781―1853年)などだ。一具は出羽に生まれ、専称寺で修行し、俳諧宗匠として江戸で仏俳両道の人生を送った。

 無能上人は今の福島県玉川村に生まれた。山形の村山地方と福島の桑折・相馬地方で布教活動を展開し、31歳で入寂するまで日課念仏を怠らなかった。淫欲を断つために自分のイチモツを切断する、「南無阿弥陀仏」を一日10万遍唱える誓いを立てて実行する――そういったラディカルな生き方が浄土への旅立ちを早めたようである。

 貞伝上人は津軽の人。今別・本覚寺五世で、遠く北海道・千島のアイヌも上人に帰依したという。そこまで布教に出かけたのだろう。太宰治が「津軽」のなかで貞伝上人について触れている。貞伝上人が忘れ難いのはそれもある。

 無能上人は、江戸時代中期には伴嵩蹊が『近世畸人伝』のなかで取り上げるほど知られた存在だった。今は岩波文庫で読むことができる。

 佐藤孝徳著『浄土宗名越派檀林 専称寺史』(1995年)で知ったのだが、専称寺は東北地方に200以上の末寺をもっていた。著者にいわせると、「専称寺こそは東北文化の交流の場であり、新たな文化の発信地にもなっていたのである。近世東北文化の生みの親が専称寺であった」。
 
 民衆救済を目的とする宗教であれば、非常時にはいっそうその精神が発揮される。3・11に被災した寺は別として、沿岸部では多くの寺が住民の避難所になり、交流の場になり、遺骨の保管所になったのではないか。専称寺の旧末もそうして被災者の心のよりどころとなったはずである。

 専称寺を眺めるとき、本末のネットワークだけでなく、蝦夷へも布教に出かけた僧侶たちの心に思いが至る。いわきの歴史が内包している大きな知的・文化的財産だ。まだ庫裡の改修が残っている。が、再び境内に立って、山門からふもとの山崎を、太平洋を、対岸の神谷を遠望したいと切に思う。
 
 修復過程は時々のイベントを通して公開されている。境内を彩る梅も、限定公開される。けさ、パソコンを開けたら、今年(2018年)は3月24日(土)、25日(日)に公開されることがフェイスブックで告知されていた。

2018年1月21日日曜日

湯本で酒を飲んだら常磐線で帰る

 現役世代にとっては、師走・忘年会が終わって正月・新年会が始まった。というところだろうか。
 いわき地域学會の初代代表幹事・里見庫男さんが生きていたころ、飲み会の場所がいわきの中心市街地・平から、徐々に里見さんの地元・湯本温泉街に移った。

 考えるまでもない。平で飲み会をしていたときには、平が職場の人以外は電車か奥さんに送られるかして会場に来た。帰りは電車、カネのある人はタクシー、タクシー代がバカにならない人はビジネスホテルに泊まった。いわきはそれほど広い。

 常磐・湯本で飲めば、常磐以外の人間には泊まるか、電車か、タクシーで帰るか、となる。飲み仲間の教授が東京に転勤するまでは、彼が車で来て、代行を呼んだのに便乗して帰った。といっても、平でまた飲む、また代行で送ってくれる、というパターンだったが。

 あるとき、夜9時前に飲み会がお開きになった。JR常磐線湯本駅前から自宅のある内郷へタクシーで帰るという知人と一緒に駅へ行き、ダイヤを見たら、いわき行きの普通電車は10時前後、その前に「スーパーひたち」が止まる。知人から特急で帰ることを勧められた。

 湯本駅前からいわき駅前までだと、タクシーで3,000円以上かかる。「スーパーひたち」なら特急券・乗車券込みで1,000円にも満たない。タクシー代わりに特急を利用するという手があった。

 なんでこんなことを書く気になったかというと、おととい(1月19日)の日中、常磐線柏駅に止まった電車の中で女の赤ちゃんが生まれた、というニュースに接したからだ。おめでたい。なにはともあれ、おめでたい。

 この師走、やはり常磐で懇親会があり、夜10時ちょうどの普通電車に乗った。乗った車両には、眠っている男性と婦人、スマホをいじっている若者の3人がいた=写真。「あとの祭り」、いや「祭りのあと」のようなわびしさが夜更けの電車にはあった。いのちの誕生を知って、そのわびしさがとろけた。

2018年1月20日土曜日

“冬ごもり”は終わり

 1月も残すところあと11日。つまり、年があらたまってもう20日。きょう(1月20日)は午後、「神谷(かべや)地区新春の集い」が開かれる。地区区長協議会が主催する。
 世間はとっくに動き出している。が、わが家は年末から年始にかけて、夫婦で風邪を引き、それが尾を引いて“冬ごもり”状態が続いた。

 とはいえ、浮世の義理がある。5日、野口雨情記念湯本温泉童謡館の開館10周年記念式典・コンサートに顔を出した。14日、カミサンが小名浜大原の徳蔵院で開かれた「かんのん市」に参加し、シャプラニール=市民による海外協力の会のフェアトレード商品を展示・販売した。運転手を務めた。9日には小名浜の1年先輩の家で一泊飲み会をした。

 かんのん市では、必ず境内にあるマンサクとロウバイをチェックする。やはり咲いていた=写真(ロウバイ)。今年(2018年)もいつものように花が咲き、年がめぐってきた。哲学者内山節さん流にいえば、木の時間は循環し、蓄積する。それが年輪になる。

「新春の集い」が終わると、週明けから行事がめじろ押しだ。研修会(行政区の役員として)、新川ワークショップ(いわき地域学會の一員として)、隣接地区との区長合同新年会、次の週はさらに公民館関係会議、自主防災会研修会、公民館市民講座の講師、行政区の役員会、昔野菜フェスティバルと続く。

“冬ごもり”のおかげではかどったものがある。中央公民館から頼まれた新年度の市民講座(5月から月に1回、計4回)の中身をあらかた詰めることができた。拙ブログで何度も書いているが、作家吉野せいの短編集『洟をたらした神』の注釈づくりをしている。おかげで、せいの、あるいは夫・吉野義也(三野混沌)の、その時その時の心に少しだが触れえるような感覚を抱けるようになった。

 このところ、“洟神”のことを書きすぎるので、抑え気味にしているが、今もこれはこういう背景があった――ということを書きたくてうずうずしている。
 
 で、話は変わる。昨夜の食卓に出たさかなは文字通りサカナ。カレイの煮つけだった。久之浜の知人からもらった近海魚が三日連続、食卓に上った。まず、スズキのバター炒め。次の日はイシモチとカナガシラのから揚げ。そして、カレイの煮つけ。うまいサカナも、連夜では舌に重くなる。

2018年1月19日金曜日

久之浜から魚が届く

「この4倍の魚をもらったの」。いわき市久之浜町の知人がスズキ・イシモチ・カナガシラ・カレイを持って来た。半分を近所の知人におすそ分けした。残ったのはスズキ1匹、イシモチ1・カナガシラ4・カレイ3匹=写真。カナガシラは近所の知人が頭を取ってくれた。
 写真を撮ったのは、久之浜の知人からもらった量の半分、知人が地元の人(たぶん漁師)からもらった量の8分の1、ということになる。知人の家に届いたのは写真の8倍はあったわけだ。

 知人は量が多すぎておすそ分けに悩んだ。で、たまたま亡き夫も本人も同僚だった私を思い出したのだろう。それで4分の1はさばける、と。

 近海魚は久之浜――が、いわきの北部・平あたりの定番だった。平の飲み屋街、田町や白銀町、その周辺でも久之浜産の魚を売りにしている店があった。私らも久之浜産の魚を目当てに飲み行くことがあった。

 久之浜に限らない。東日本大震災に伴う原発事故が、そんな食文化を断ち切った。それから7年。除染や自然減衰も含めて、いわきの魚や米、野菜は問題がないことがわかってきた。年齢が年齢だからなんでも食べる、ではなく、うまいから食べる、に変わってきた。

 そんななかで届いた魚だ。スズキは刺し身にしよう。そう決めたが、おすそ分けした人から、刺し身よりは焼いた方がいいというアドバイス。

 うろこを取る・頭を切って内臓を取り出す・三枚におろす――。震災前、広野町の歯科医師さんが沖で釣ったスズキを、奥さんがときどき持ってきてくれた。で、三枚におろして、刺し身にすることを覚えた。それを思い出しながら、さばいた。

 バター炒めにしてもらった。西洋流にいうと、ソテーか。淡泊で、上品な味。出刃包丁で中骨をバキッバキッと刻んだものをあら汁にしてもらう。これまた淡泊で上品な味だ。

 行きつけの魚屋さんから、前はカツオのあらをよくもらったものだ。が、スズキやカナガシラ、ヒラメのあらをもらったあとは、はっきりカツオ以外のあらなら――というふうに変わった。
 
 まず、晩酌にスズキのソテーが登場した。次の日はイシモチ・カナガシラのから揚げ。連日はさすがにきつい。うまくてもきつい。きょう(1月19日)はカレイの煮つけか。

2018年1月18日木曜日

戊辰戦争と目明

 いわきでの戊辰戦争について、小名浜の「二ツ橋の戦闘が東西両軍の勝敗の大勢を決した観」があると、考古・歴史に詳しい八代義定(1889~1956年)が書いている。
 八代の論考や短歌・俳句作品を収めた『残丘舎遺文 八代義定遺稿集』(菊地キヨ子・八代彰之編、2001年)を読んでいたら、西軍は平潟上陸以来、作戦が巧妙を極めた、西軍の勝因は諜報機関の利用活用よろしきを得たことによる、というくだりに出くわした。

 その秘密を解く鍵を握った――と、八代は書く。「それは西軍の参謀堀直太郎と小名浜在住の若松鉄五郎父子の関係であります」として、堀ら西軍から小名浜の目明(めあかし)・鉄五郎父子に贈られた賞金や賞状など4種類の史料を紹介している。史料には、官軍のために探索・道案内に尽力した、という意味のことが書かれている。

 鉄五郎とその子・明(妙)五郎(のち誠三郎)は、作家吉野せいの曽祖父と祖父だ。昨年(2017年)10~12月、いわき市立草野心平記念文学館で開かれた企画展「没後40年記念 吉野せい展」では、小名浜の生家や誠三郎の関連写真が紹介された。

 写真は①「若松(旧姓)せい生家 いわき市小名浜下町 昭和30年代」②「せいの祖父若松誠三郎の顕彰碑『北辰真武一刀流師範/若松誠三郎源尚之翁碑』地福院常福寺 いわき市小名浜 戊辰戦争の折、誠三郎は、目明役だった曽祖父鉄五郎とともに活躍した」③「若松(旧姓)せいと兄真琴 大正10年」――などで、誠三郎は剣術使いとして知られていた。

 新藤謙『土と修羅 三野混沌と吉野せい』(たいまつ社、1978年)には、曽祖父は「目明し鉄五郎」と呼ばれた侠客肌の男で、官軍の奥州征討の際、道案内を務めた。祖父・誠三郎も同行した。誠三郎は剣術を学び、のちに道場を開いている。門弟は数百人を数えた、とある。若松家の史料や八代の小論「戊辰戦争」には目を通していなかったようだ。
 
 誠三郎は江戸で千葉周作門下の小栗篤三郎に学んだ。この線から鉄五郎父子が西軍の手引きをするようになったのではないか、と八代は推測する。「若松父子が生前発表すれば勤皇家として格別の沙汰があったと思われるのでありますが、是非善悪は別として、異郷の人に土地の情報を提供したという点に遠慮があって、遂に生涯この事を他に漏らすことをしなかった」のだろうという。
 
 賞状が八代によって紹介された背景には、八代がせいと吉野義也の結婚を仲介したこともあるのではないか。若松家としては八代への信頼が厚かった、それで史料を提供した、ということがいえるのではないか。いずれにしても、目からうろこのような史料にはちがいない。

2018年1月17日水曜日

凍土は5センチ

 夏井川渓谷の隠居に小さな菜園がある。辛み大根と三春ネギ=写真=が収穫のピークを迎えた。ところが……。暖冬気味とはいえ、渓谷の最低気温は氷点下になる。「小寒」の今、表土から5センチほどがカチンカチンに凍っている。
 ネギを収穫するために、スコップを溝に差し込もうとすると、はね返される。そこをガチャガチャやって凍土にスコップをグイッと入れる。やっと土が割れる。でも、土は固まったままでほぐれない。

 三春ネギは、田村地方では曲がりネギにする。夏井川渓谷の牛小川ではどうか。私は生まれ故郷の例にならって曲がりネギにしていたが、まっすぐのネギにするという。

 そのためには、溝を深く掘って白根を長くする。ところが、わが菜園では溝を深くすると、雨の多い年には根腐れを起こしやすくなる。曲がりネギが合っているのだが、定植し直すのが面倒だ。まっすぐのネギにするため、溝を浅く、盛り土を高く、というやり方に変えた。
 
 すると、厳寒期の今、盛り土のかなりの部分が凍土化した。溝にスコップを入れて土を起こしたら、ネギを芯にした独楽(こま)のように土のかたまりがついてきた。それをまたスコップを使って割り、ようやくのことでネギを取り出した。

 空いたうねには生ごみを埋める。ところが、凍土を掘り起こすのは容易でない。たまたま盛り土をしたままになっていたところにスコップを入れたら、グサッと入っていった。今回は生ごみを埋めることができたが、「大寒」になると、凍土はさらに7センチ、10センチと厚みを増す。そうなると、鶴嘴(つるはし)で凍土を割るしかない。

 三春ネギはまだ50本ほどある。この際、3分の1は採種用に越冬させるか。春にネギ坊主が15個もできれば、かなりの種が確保できる。種が多いほど安心感が広がる。昨秋まいた種は芽生えこそよかったが、モグラ道ができてかなり枯れた。波がある。それをならすためにも種は多いい方がいい。

2018年1月16日火曜日

ハクチョウの数が最大に?

 いわきで越冬するハクチョウは、1月中旬にピークを迎えるのではないだろうか。日本野鳥の会いわき支部もこの時期、全国一斉ガン・カモ調査に合わせてハクチョウの数を調べる。
 2年前、知人から同支部の会報「かもめ」とともにガン・カモ調査の結果が送られてきた。ハクチョウを含むガン・カモ類の総数は3808羽、前年(2015年)は6959羽、前々年は6386羽。前年より「大幅に減少した。これは山野の鳥と同様に温暖化の影響と思われる」とあった。

 いわきのコハクチョウの越冬地は、南部・鮫川の沼部、北部・夏井川の平窪(平)・三島(小川)・塩(平)の4カ所。2016年の野鳥の会のカウントでは、沼部80羽、平窪167羽、三島79羽、塩171羽の計503羽だった。前年の668羽、前々年の704羽に比べると、漸減している。

 土曜日(1月13日)、夏井川渓谷へ行った帰り、同川の3カ所のハクチョウ越冬地を巡った。といっても、岸辺に立ってカウントしたわけではない。対岸の県道、橋の上、堤防から写真を撮って、あとでパソコンに取り込み、概数を調べただけだが。いつも実際の数より20羽前後多かったり少なかったりする。

 で、おおざっぱな把握だが、三島・130羽くらい、平窪・200羽くらい、塩・150羽くらい=写真=とみた。

 平窪では2009年以降、えづけを自粛している。というのは、2008年の晩春、十和田湖畔や北海道の野付半島、サロマ湖畔で、北帰行途中のハクチョウが死んで見つかり、鳥インフルエンザウイルスが検出されたからだ。
 
 今シーズンも師走の下旬に平窪ではネットが張られ、看板が立てられた。フェイスブックにアップされた看板の文章には、フンを踏まない・パンなどをあげない・強風時にはマスクをする・帰宅後はうがいと手洗いを――とあった。距離を保ってハクチョウと向かい合うのが一番、ということだろう。

2018年1月15日月曜日

白菜が高い

 いわき市小名浜大原の徳蔵院できのう(1月14日)、「大観音大護摩祈祷初大祭」(初観音)が開かれた=写真。境内では同時に、フリーマーケット「かんのん市」も開かれた。毎年、カミサンがシャプラニール=市民による海外協力の会のフェアトレード商品を展示・販売する。
 わが家からお寺までは、国道6号常磐バイパスを利用して20分くらいだろうか。前はカミサンと荷物を送り届けて帰宅し、ころあいをみて迎えに行ったものだが、このごろは市の終わりが早くなった。時間も燃料も無駄なので、帰宅せずに寺の駐車場でそのまま待機するようにしている。

 3年前から同じ平・神谷に住む知人が「かんのん市」に参加するようになった。白菜などを売る。ちょうど山間地から買って、漬けた白菜が切れる時期だ。今年(2018年)もカミサンに頼んでおいたら、よその人に買われたあとだった。1玉200円だったという。

 昨秋の長雨と台風の影響で冬野菜の生産量が減り、店頭価格がべらぼうに高くなっている。白菜は1玉700円近い。4分の1株でも200円以上する。で、「かんのん市」で先を越されたからには、遠回りしてでも直売所で白菜を買わねば、という気になった。

 知っている直売所は平藤間の田んぼの一角にある。そこを訪ねると、小さな玉の白菜が二つあった。1玉200円だという。通常なら100円程度の小玉だが、大きくて安い白菜が手に入るような状況ではない。買ったら、小さい大根1本をおまけにくれた。一瞬、ミニ野菜の世界に入り込んだか、と思わないでもなかった。

2018年1月14日日曜日

しぶき氷はまだ赤ちゃん

 元日以来、2週間ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。
「西高東低」の冬型の気圧配置が続いている。日本海側では大雪、太平洋側はカラッ風の晴天。いわきが「サンシャインいわき」と胸を張るのは、この冬の日照時間の多さによる。

 二十四節気でいえば、今は「小寒」(1月5~19日)。次が「大寒」(1月20日~2月3日)だ。いちだんと寒さがきつくなる。

 隠居があるのはV字谷の小集落。何枚か田んぼがある。それを潤すために、夏井川の支流・中川から集落の田んぼ~夏井川へと用・排水路がのびている。どのくらい寒いかは、この水路を見ればわかる。きのう(1月13日)見たら、枯れ草にしぶき氷ができていた=写真。

 気温が下がる夜間、枯れ草に付いたしぶきが凍り、肥大し、やがて針のようになったのだろう。氷はまだ半透明だ。氷の赤ちゃんだ。
 
 本流の夏井川でみごとなしぶき氷が見られるのは篭場の滝。ここ何年かはしかし、暖冬気味のために氷の壁が少ししかできない。
 
 東日本大震災が起きた2011年は厳冬だった。1月中旬なのに岩盤がしぶき氷で厚く、広く覆われていた。パソコンに写真を取り込んだら、走査型電子顕微鏡で何かを見ているような印象だった。

 隠居の対岸の森の中に「木守の滝」がある。「大寒」に入ると、この滝の氷をかち割って持ち帰る。夏の行事に6月30日の「氷室開き」がある。それまで冷蔵庫に保管しておくのだ。およそ5カ月がたって暑さがつのるころ、焼酎のオンザロックにする。それもしばらくやっていない。

 さて、この冬はどこまで寒さがきつくなるのか、ならないのか。わが家でもまだ風呂の蛇口が凍って水が出ないということはない。今年(2018年)も暖冬で終わったら、木守の滝の天然氷はお預け、ということになる。

2018年1月13日土曜日

10円切手不足

 きのう(1月12日)の夕方、前日に投函した年賀はがきが郵便局から戻ってきた。紙が張ってあった。「1月8日以降に差し出された場合は、62円です」=写真。よかった、相手に迷惑をかけないですんだ――。
 前の日の夕方、10円切手を張らずに年賀はがきを投函した。晩酌を始めると、カミサンが尋ねた。「年賀はがきは? 10円切手を張らないと」「出しちゃったよ」

 今年(2018年)の年賀はがきは、1月7日まで差し出した場合は額面通り52円でいいが、8日以降は通常はがきと同様、10円切手を張って出さないといけない――頭ではわかっていた。

 11日も、わかっていた。ところが夕方。ふと、家の斜め向かいにあるポストが4時に開けられ、郵便物が回収されることが、頭をよぎった。投函が4時以降になると、配達がさらに一日遅れる。切手を忘れて、あわてて投函したのだった。

 半分は年のせい、半分は風邪で頭がうすぼんやりしていたせいだろう。前にも書いたが、行政区としては実施していない正月様送りが気になって、つい副区長さんに確認の電話まで入れた。

 元日から置き薬の風邪薬を飲み続けたが、さっぱりよくならない。きのう、持病の薬をもらいに行ったついでに、ドクターから風邪薬を処方してもらった。熱があるわけではない。ときどき痰が絡んで咳が出る。で、新たに咳止め・去痰・抗生の3種類を飲みはじめた。

 ともかくも、年賀はがきは戻ってきた。相手方に10円を払わせる失礼をしないですんだ。「風邪は万病のもと」。万病には「意識レベルの低下」の入っている?

2018年1月12日金曜日

昭和21年の農地委員選挙

 作家吉野せい(1899~1977年)の夫は詩人三野混沌(吉野義也=1894~1970年)。開拓農民として、いわき市好間町の菊竹山で一生を終えた。が、家業も子育ても、結果的に妻であるせいにまかせきりだった。
 戦後はすぐ、GHQによる農地改革が始まる。改革の骨子は「直接、国が地主から農地を買収し、小作人に売り渡す」というもので、地主・自作農・小作農で構成された農地委員会が改革業務を遂行した。

 義也は、地元・好間村だけでなく、福島県の小作側農地委員にも当選した。すると、ますます家業を忘れて改革を進めるために奮闘した。夫婦仲は冷え込んだ。作品集『洟をたらした神』所収の「水石山」に、せいが書いている。

「彼が歩いた道は、福島県内をぐるぐる何千里とつづけられただろう。5年近い歳月を、いわき双葉相馬の海岸線は殆ど隅から隅まで、阿武隈の裏表、安積平野から白河高原の県境、猪苗代から奥会津まで、いつも人と人とがいがみ合う田畑の中で、血走る目で憎む山道の境目で、吐息つく青ぶくれた小作人の上がりかまちで、見、聞き、話し、菊竹山を忘れて遠く離れた道から道を歩きつづけた」

「家族のためには役立たぬ彼。もう今は、これからさきもこの家を支えるものは自分の力だけを頼るしかないという自負心、その驕慢の思い上がりが、蛇の口からちらちら吐き出す毒気を含んだ赤い舌のように、私の心をじわじわと冷たく頑なにしこらせてしまった」

 で、夫・義也が好間村と県の農地委員に当選したのはいつか――当時の文献・新聞に当たったら、ひとつは特定され、ひとつは訂正されるべき点がわかった。

 まず、訂正すべきことから――。いわき市立草野心平記念文学館編『三野混沌』展図録年譜に「昭和22年(1947) 53歳 3月 福島県農地委員会小作委員に当選」とあるが、当選したのは3月ではなく2月だった。2月25日投票・26日開票と、福島縣農地改革史編纂委員会編『福島縣農地改革史』(昭和26年)にある。
 
 したがって、せいの『暮鳥と混沌』年譜に「昭和23年(1948) 55歳 4月、福島県農地委員会小作側委員に当選、県下をあまねく歩きつづける」とあるうち、「23年」「4月」はせいの誤認で「22年」「2月」に直す必要がある。義也の図録の「3月」は最初の県農地委員会が開催された月、というふうに解釈するしかない。

 もうひとつ、特定できたこと――。市町村の農地委員選挙は、昭和21年12月20日、全国一斉に行われた。石城郡内では定員340人に対して398人が立候補した。その結果が同年12月27日付のいわき民報に掲載されていた。

 いわき民報は同年2月5日に創刊され、5月から日刊化された。図書館のホームページを開いて、昭和21年のいわき民報を逐一、チェックし続けた結果、その年の最終号に至って、やっと「吉野義也」に出会えた=写真。
 
 昼前から始めたチェック作業が終わったのは、宵の6時過ぎ。晩酌の時間までくいこんだ。でも、この何日間という短い間でふたつの事実が確認できたことは幸運だった、というほかない。

2018年1月11日木曜日

側溝清掃始まる

 わが行政区内でも新年第2週の始まりと同時に、道路側溝の清掃が始まった。
 いわき市は昭和57(1982)年から年2回、いわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動を実施している。6月と10月のある週、金・土・日の3日間、テーマを決めて環境美化活動が展開される。ふだん出す「燃えるごみ」や「燃えないごみ」とは別に、総ぐるみ運動では剪定枝や雑草などの植物系ごみ、道路や側溝の土砂も回収する。

 ところが、原発震災で状況が一変した。放射性物質を含んだ土砂の受け入れ先が確保できないので、側溝清掃は原則実施しないように――となった。以後、今も側溝の土砂上げは自粛が続いている。
 
 7年も放置していれば、土砂はたまる一方だ。大雨時に歩道が冠水しやすくなる、害虫の温床になる、といった心配が出てきた。で、市が国に要望した結果、1回だけ国の予算で市内全域の側溝堆積物を除去することが決まった。
 
 土砂上げは小名浜から始まった。現在は平地区の原高野、鎌田・塩・下神谷・泉崎・中神谷のJR常磐線南側の区域を対象に、3月下旬までの日程で実施されている。

 おととい(1月9日)は近所の県営住宅で作業が始まった。ミニバックホーが出ていた。きのうはわが家の道路向かい側でも側溝の土砂上げが始まった。こちらはミニバックホーの代わりにトラックが横付けしてあった。3人がチームを組み、大きなちりとりのようなプラスチック容器に2人がスコップで土砂をすくい、それを1人がトラックに空ける=写真。

 側溝の堆積土砂は想像以上だった。50センチもたまっているところがあった。夕方、年賀はがきを出しに行くと、10メートルほど先まで進んでいた。作業員に聞く。「今度は(前のところより)大したことない?」「大したことあります」。スコップがズボッと入っていく。

 手作業だから、なかなか距離は稼げない。しかし、作業員から話を聞いただけでも、そのすごさわかる。便秘状態が改善されて通じがよくなる大腸をつい想像した。

2018年1月9日火曜日

泉駅前にある照島

 いわき市泉町下川字大畑地内の海岸から約250メートル沖合にある照島は、断崖絶壁の小さな島だ。ウの生息地として昭和20(1945)年2月22日、国の天然記念物に指定された。
 以前から、崖の崩落が進んで島全体が小さくなっている――とは指摘されていたが、7年前の東北地方太平洋沖地震では、「ソフト帽(台形)」が「とんがり帽子(三角形)」に変わるほど激しく崖が崩落した。

 バードウオッチャーには、照島は特別な場所だ。照島を観察できる陸地はゴルフ場に変わったが、会社の協力で毎年12月、震災後も変わらずに日本野鳥の会いわき支部がコースわきで観察会を開いている。
 
 ソフト帽型の照島は昔の写真で見るしかなくなった――そう思っていたら、なんとJR泉駅前に照島のモニュメントがあった=写真。わきを通ったとき、昔の照島のかたちをしていることに気づいた。
 
 平成11(1999)年、泉駅が橋上化されて、常磐線をまたぐ自由通路が完成したときに、照島に似た自然石がモニュメントとして設置された。岩の上にはウミウが2羽。ウミウは鈴木博之さんが平成16(2004)年に制作――と銘板にあるから、5年後に付け加えられたか。作者の鈴木さんには記憶があるようなないような……。顔も思い出せるのだが、どうだろう、自信がない。
 
 昔、泉駅から小名浜へと通じる臨港鉄道を利用して、学校の1年先輩の家へ遊びに行ったことがある。きょう(1月9日)は夕方、その家へ車で出かける。昔と同じように一泊飲み会をする。あしたのブログはそれでお休みします。

2018年1月8日月曜日

松が明けた

 2018年も、明けてはや8日目。元日に夏井川渓谷の隠居へ行って正月様を飾り、山を仰いだ=写真。きのう(1月7日)、正月飾りをはずして燃やすつもりでいたが……。風邪が治りきらないのでカミサンからストップがかかった。
 まだ頭がすっきりしない。ふだんだったら簡単にできるはずの情報整理がうまくいかない。土曜日(1月6日)、「あしたはもう松送りですよ」という仲間のことばを耳にしてドキッとした。区として何の準備もしてないぞ――。冷静に考えれば、何の準備もしてなくて正解なのだが(区として松送りをやっているわけではないので)、急に気になりだした。
 
 8月の月遅れ盆には区の役員が精霊送りを主催する。そのための準備が何日か前から続く。斎場用に4本の竹と杉の葉、ホオズキを調達する。前日には集積所の草刈りをして、斎場をつくる。当日早朝は、区の役員が当番でお盆様を斎場に積み上げる。ぼんやりした頭が、それと正月の松送りをセットにしたため、松送りの「指示を忘れた」と少しパニックになった。
 
 いわき地方には松の内の7日早朝、人々が持ち寄った正月飾りや古いお札を、方形の小屋とともに焚く「鳥小屋」行事がある。きのうの朝は、いわきのあちこちでこの「鳥小屋」が勢いよく燃えたことだろう。
 
 区の行事を頭でたどってみる。正月の松送りに伴う寒い記憶がまるでない。近所で鳥小屋行事があって、そこへ松飾りを燃やしに行った記憶はある。区としては鳥小屋行事も、ただの松送りもやっていない。それを確かめたうえでなお、副区長さんに電話をかける。「区としては、松送りをやってませんよね」「やってません」。やっと安心する。
 
 鳥小屋行事は、一般にはこんな感じだろうか。朝6時すぎ、松飾りその他を新聞紙に包んで、鳥小屋の立っている田んぼ(あるいは空き地)へと向かう。東の空はうっすら明るみ始めたとはいえ、頭上はまだ黒みがかった群青色。

 6時半。稲わらで囲われた小屋に火が放たれる。火はたちまち大きな炎に成長して、周囲に熱を放射する。そのうち、骨組みの青竹が「ボム、ボム、ボム」と音を発し始める。中の空気が熱で膨張して竹を裂くのだ。鳥小屋はあっという間に燃え落ちる。勢い良く燃える鳥小屋に長い竿にさしたもちを差し出し、焼いて食べて帰路に就くと、空は白銀色に変わっている。
 
 お盆の「しゃんがら念仏踊り」、正月の「鳥小屋」はいわき独特の年中行事でもある。鳥小屋で焼いたもちを食べると風邪を引かないというが、もう何年も鳥小屋行事には参加していなかった。

2018年1月7日日曜日

母から聞いた野口雨情

 いわき市常磐の野口雨情記念湯本温泉童謡館がおととい(1月5日)、開館10周年を迎えた。記念式典とコンサートの間に、雨情の孫である山登和美さん(栃木県鹿沼市)が「祖父雨情のこぼれ話」と題してミニ講演をした=写真。
 山登さんは雨情の次女千穂子の息子。戦後生まれだから終戦直前の昭和20年1月27日に亡くなった祖父については知らない。母に聞いたことと断って話した。
 
 母親は子どものころ、妹と一緒に雨情からいわれて墨すりをした。これが嫌で仕方がなかったという。おかげで、雨情の字はだいたいわかるようになった。真贋鑑定に持ち込まれる作品の半分は偽物だったそうだ。
 
 大ヒットした「波浮(はぶ)の港」だが、雨情は写真を1枚見せられただけで、ふるさとの平潟あたりを思い出しながら詞を書いた。すると、伊豆大島の人たちから指摘された。「磯の鵜(う)の鳥」は波浮にはいない、「夕焼け小焼け」は西側が山になっているので見えない――。

「証城寺の狸囃」にはモデルの寺があった。歌が発表されると、さっそく寺からクレームがついた。「実際の『證誠寺』ではなく、心の中の寺である。その証拠に『誠』は『城』と字が違うではないか」。やがては寺から感謝されるようになったという。 

「シャボン玉」は幼くして死んだわが子を詠んだ歌――巷間、言われていることだが、山登さんはこういった話をきっぱりと否定する。「わが子のこと、家族のことを歌ったものは一切ない」

 山登さんは、実は9年前に開かれた童謡祭にも出演している。童謡のまちづくり市民会議の久頭見淑子会長を相手に、質問に答えるかたちで雨情のエピソードを披露した。

 9年前は山登さんの好意で雨情愛用の旅行カバンと帽子が童謡館に展示された。今回は小川小学校が所蔵する「青い眼の人形」が展示されている。名前は「メリー」という。

2018年1月6日土曜日

雨情記念童謡館が10年に

 野口雨情記念湯本温泉童謡館は平成20(2008)年1月5日、オープンした。きのう(1月5日)、開館10周年記念式典・コンサートが開かれた。案内がきたので何か手伝いでも――と出かけたら、一番前の列に座らされた。
 
 童謡館は昭和モダンの建物=写真。かつては銀行だった。「童謡のまちづくり市民会議」(九頭見淑子会長)が入館料をとらずに、ボランティアで運営している。

 雨情は妻と離婚後、常磐湯本温泉でしばらくくすぶっていた。童謡詩人として大成する前で、温泉旅館古滝屋社長の故里見庫男さん=いわき地域学會初代代表幹事=が湯本温泉時代の雨情について調べ、資料を収集してきた。その資料約1400点を里見さんが寄贈して、童謡館がオープンした。里見さんが初代館長に就いた。今は盟友の矢内忠さんが館長を引き継いでいる。
 
 私は、童謡にも雨情にもほとんど関心がなかった。たまたま会社を辞めた時期と童謡館の開館準備時期が重なり、里見さんから頼まれて目録づくりを手伝った。それを機に、雨情を調べ始め、情に厚い人となりを知るにつけ、全集だけでなく関連する本も読み漁るようになった。

 里見さんからはそのほかに、こんな宿題も出された。「毎月1回、文学教室をやってほしい。最初は金子みすゞ。あとは自由」。あわてて調べ始めた。調べてゆくうちに、水戸で生まれ、いわき市平で育った島田忠夫が金子みすゞと双璧をなす新進童謡詩人であることを知った。

「全国区」の童謡詩人であっても、どこかでいわきの人間とかかわっていないか、いわきとゆかりのある人間とつながっていないか――そういうネットワークの観点から、みすゞのほかに、みすゞの師匠の西條八十、八十の弟子のサトウハチロー、あるいは竹久夢二、そして雨情、暮鳥ゆかりの人々を調べては報告してきた。

 この宿題があったために、いわきの近代史にも興味がわき、今は吉野せい『洟をたらした神』の“注釈”づくりを楽しめるようになった。

 東日本大震災では、童謡館も被害に遭った。傷みがひどく、休館を余儀なくされた。そのままにしておくわけにはいかない――「童謡のまちづくり市民会議」が市の補助制度を活用して修繕し、2012年1月5日、再オープンした。1月5日は童謡館の原点の日だ。

 今年(2018年)は児童雑誌「赤い鳥」が創刊されて100年の節目の年。大正時代、「唱歌」を超える歌をと始まった「童謡」運動は、その初期に大きなうねりとなって日本列島に広がった。雨情はそのトップランナーだった。

2018年1月5日金曜日

初仕事はごみネット出し

 年末にカミサンが風邪を引いて寝込んだ。新年を迎えると、今度は私がやられた。正月の2日はカミサンの実家へあいさつに行き、3日は孫を連れて遅くなったクリスマスプレゼントを買いに出かけた。それ以外は、世の中が年末年始の休みの間、ずっと家に閉じこもっていた。
 元日の朝こそ、カミサンが起きて雑煮をつくったものの、あとはコンビニのおにぎりやカップヌードル、鍋焼きうどんなどですませた。きのう(1月4日)朝、体重を量ったら70キロを切っていた。わずか2~3日で2キロほど減ったことになる。

 のどが痛い。鼻水が出る。ときどき寒気がする。でも、熱はそれほどではない。風邪薬が効いてそれ以上悪くはならなかったが、治りが遅い。カミサンはほぼ5日、私は3日、日中も横になっていた。こんなに長引いたのは初めてだ、年だね――ということで一致した。

 きのう(1月4日)は世間一般でいう「仕事始め」の日。10年前に会社を辞めた人間にも、コミュニティ=暮らしの場の仕事がある。木曜日は「燃やすごみの日」。ごみネットを出すのが、今年の私の初仕事になった。少し時間がたってから家の前のごみ集積所を見ると、年末年始に出たごみでこっちのネットも、あっちのネットも膨らんでいた=写真。

 そうそう、正月三が日に見た“夢”がある。年賀はがきのコメントを読んでビッグニュースかもと書いたが、あとで差出人に電話で確かめたら、周知の事実を早とちりしたとわかった。いわきの作家吉野せいの日記のことだ。

 昨年、せいの日記の一部(短編集『洟をたらした神』の「梨花」の原稿になった部分)が遺族から市に寄贈された。11月の吉野せい賞表彰式の席で、市から遺族に感謝状が贈られた。その新聞記事を読んで、知人が年賀はがきに書いてよこしたのだった。

「梨花」については、せい本人が自分の日記をそのまま書き写した、と書いている。その日記の存在は前から知られていた。それ以外の日記があるはずだ、「梨花」以外の作品にも基になった日記があるはずだ、というのが私の見立てだが、研究者からは新しい情報は得られない。そこへ寄せられた「吉野せいの日記が見つかりました」だった。

 夢から覚めてみれば、糠喜びだった。そんなものだ、人生は――と、これはあきらめではなく、現実の受容。でも、どこかに日記が眠っているはずだ、という“信念”だけはかえって強くなった。

2018年1月4日木曜日

読売も「せどがろ」

「ちゃんと『せどがろ』とルビが振ってあるよ」。年末、わが家の近くのゲストハウス(故義伯父の家)で“ミニ同級会”を開いたとき、東京の仲間が読売新聞の夕刊を持参して言う。
 昨年(2017年)11月30日に掲載された、<みなみらんぼうの一歩二歩山歩――第965話 背戸峨廊(福島)>だ=写真。みなみさんは「山口さんちのツトム君」で知られるシンガーソングライター。低山ハイクが趣味で、昔はテレビ番組にも出演していた。確かめたら、NHK教育テレビ「中高年のための登山学」(1995年)で、岩崎元郎さんが先生だった。

 みなみさんは、10月に台風21号が襲来し、背戸峨廊の登山道に架かる橋が流されたあと、チームで入渓した。その2日後の11月7日、トッカケの滝から先は入山が禁止された。今は復旧している。

「せとがろう」ではなく、本来の「せどがろ」とルビを振れるのは、地元の人々の話を素直に受け止める度量があるからだろう。

「せどがろ」から遠いナショナルメディア(全国紙・キー局)は、「せどがろ」にはなじみが薄い。地元の行政などの公式情報は今や「せどがろ」になっている。それに従うのになんの問題もない。コミュニティメディア(地域紙・FM放送)も臨機応変だ。ところが、ローカルメディア(県紙・テレビ局)はどうか。なまじ、いわき経験者がデスクにいる、校閲係になる――で、間違いを更新できないでいるのかもしれない。

 いずれにしても、ローカルメディアに対しては「せどがろ」の包囲網ができた。NHKはすでに「せどがろ」に変わった。県紙が「せどがろ」とルビを振る日が待ち遠しい。

2018年1月3日水曜日

『焼け跡のハイヒール』

 師走のある日、80代の旧知のおばさんから電話がかかってきた。その何日か前に会ったとき、今読んでいる小説の話になった。「『焼け跡のハイヒール』っていうタイトルなの」「出版社は?」「祥、なんとか。あとで電話するね」
 盛田隆二『焼け跡のハイヒール』(祥伝社)だった=写真。去年(2017年)10月下旬に出版された。早速、図書館のホームページで確かめる。3館にあって、いずれも「貸出中」だった。暮れも押し詰まった29日、再びチェックすると、いわき駅前の総合図書館に本が返っていた。夕方、車を飛ばして借りてきた。

 本の帯から借用する。「焦土と化した東京で出会い、戦後を生き抜いた両親。二人は何を見て、いかなる人生を歩んできたのか。戦前、戦後から平成へ。百年史を辿(たど)った先に小説家がたぐり寄せた、はかなくも確かな一条の光」

 30・31日・元日・2日と、年をまたいで読み終えた。東京大空襲後、母親は14歳で上京し看護学校に入る。父親は通信兵として中国大陸を転戦する。どこにでもいる市井(しせい)の夫婦の家庭、庶民の暮らしが淡々とつづられる。戦争とはどういうものか――銃後、ないし戦場を追体験するうえでとても参考になった。

 大本営発表を垂れ流す新聞。天然ゴムの輸入が断たれたために、消しゴムは魚屋からもらった紋甲(もんごう)イカの甲羅をカサカサに干したものに代わる。音楽の「ドレミ」が「イロハ」に変わり、「ソミミ、ファレレ」は「トホホ、ヘニニ」と歌わないといけなくなった。日本酒の配給は一世帯当たり一カ月にわずか4合。飲兵衛は、これはこたえるだろう。

 戦後、両親が出会う。母親は新宿の闇市で赤いハイヒールを買い、大切にしまっていた。父親に映画を見に行こうと誘われたとき、ワンピースに初めて赤いハイヒールを履いて出かける。その2年後、父親が母親の栃木の実家に出向いて、結婚を前提にした交際を申し込む――。

 作家・雑誌編集者を経て、作家専業になった息子が両親の実人生をベースに、「戦争に翻弄(ほんろう)されつつも、数奇な運命に導かれ、鮮やかに輝いた青春」を描いた。作家の母親と読者の80代のおばさんは同世代だ。自分の人生を重ね合わせながら読んでいたに違いない。

2018年1月2日火曜日

年賀はがきと正月飾り

 怠け者なので、年賀はがきは元日以降、返事を兼ねて出す。今年(2018年)は、7日(松の内の最後の日)までなら52円のまま、8日以降は62円、つまり10円切手を張って出すようにというので、のんびりはできない。
 昔は、年末年始の休みが終わってから、印刷所に原稿を入れて年賀はがきの裏面を印刷してもらった。返事は1月半ばまでかかった。今は、プリンターがあればパソコンからデータを送って自分で印刷できる。そうして、大みそかの夕方までに年賀はがきの裏面を仕上げておく。

 今年、2018年は――。朝9時には年賀はがきが届いた。わが家は“店住一致”。ふだんは店に郵便物が届く。元日なので店は閉めている。裏の玄関をとんとんとたたく。「年賀はがきです」「ご苦労様、今年もよろしくお願いします」

 郵便受けがないので、じかに手渡しすることにしたのだろう。元日から働いている若いポストマンの顔を見たら、素直に「ありがとう」という気持ちになった(もちろん、新聞配達の人にも感謝している。ブンヤだった分、気持ちを上乗せして)。

 午前中は年賀はがきのあて名書きをし、午後、夏井川渓谷にある隠居へ「正月様」=写真=を飾りに出かけた。

「一夜飾り」はよくない。つまり、大みそかには飾るな、といわれている。とはいえ、年末にはいろいろやることがある。毎年暮れには隠居へ出かける時間的な余裕がない。で、いつも「正月様」を飾るのは元日になる。

「歳神(としがみ)様」は、大みそかの早朝にはその家に来ているそうだ。で、前年の歳神様と元日の午前零時に引き継ぎをする。玄関の正月飾りが、そのためのシグナルになるのだとか。

 わが隠居にはその時間、正月飾りがない。歳神様は素通りする。それでも、近くを行き来するほかの神様がチラリとでも目にすることはあるかもしれない。「遅れるけれども正月様を飾る家がある」と、ほかの神様が歳神様に伝えてくれればいい。なにしろ神様の数は八百万(やおよろず)なのだから、メッセンジャー役の神様もいるはずだと、勝手に解釈している。
 
 というようなことで、元日が終わった。穏やかな年明けだった。いわきでは初日の出が見られた。田人の朝日山では、肉眼では見えなかった富士山(赤富士)がちゃんとカメラに映っていた。若い仲間のフェイスブックで知った。
 
 もうひとつ。個人的には大ニュースと思われる情報が、知人の年賀はがきに記されていた。私が存在を信じて疑わない、いわきの作家「○○××の日記が見つかりました/貴君の推理が正しかったですね」。糠喜びでなければ、人生最大のお年玉になる。

2018年1月1日月曜日

新芸術祭「百五〇年の孤独」④未来の仏

「戊辰戦争150年」の最初の朝がきた。いわき市田人町の朝日山へ登った人たちよ、初日の出は、富士山は拝めたか。 
 年をまたいで最初のブログは、12月28日に見たカオス*ラウンジ新芸術祭2017市街劇「百五〇年の孤独」の感想文4回目。廃仏毀釈によって「死者」と「生者」の関係はどうなったか。

「少なくとも仏教が伝来してから千数百年の間、この国の『死者』と『死後』をケアしてきたのは仏教だった。これは信仰とか、思想とか、好みの問題ではなく、端的に事実としてそうなのだ。つまり、仏教が滅びるということは、私たち『生者』が持ち帰る、死者と死後への想像力に、大きな欠落が生まれることを意味する」

 三つの会場で渡された手紙のうち、第一の手紙に出てくる上記の文章を読んでいて思い出したことがある。

 原発震災後、東京から定期的にいわきへ来て調査を続けていた災害社会学の若い研究者と、わが家で晩酌をしながら雑談した。そのなかで、原発事故で相双地区から追われた人々の話になった。私は、震災の年に出版された哲学者内山節さんの『文明の災禍』(新潮新書)を踏まえながら、次のようなことを言った。

 先祖伝来の家と土地に住んでいた人にとっては、死者もまた家と家族と共に生きていた。家と土地を追われた今は、ふるさとに残してきた死者に対するすまなさ、墓参りも埋葬もできないいらだち、悲しさに満ちているのではないか――。
 
 賠償金をいっぱいもらっているとかいないとかの話は表層的なことであって、死者とつながっていた暮らしが原発事故で断ち切られた、そのことがほんとうは一番つらいのではないか――。
 
 廃仏毀釈と違って、ふるさとに寺も墓もある。ところが、放射性物質が寺へ行くことも墓へ参ることも許さない。死者と生者の関係を破壊した、という点でも、原発事故の罪は深い。
 
 新芸術祭「百五○年の孤独」の第三会場=生蓮寺跡玉露観音堂内には、いつかは仏像になるかもしれない寄木(よせぎ)の「未仏(みぶつ)」が置かれていた=写真。周囲には壊れたディスプレイのチカチカ。文化財保存修復研究員でもあり、仏師でもある作者の説明を聴いて、勝手に腑に落ちるものがあった。
 
 壊れたディスプレイ(作者は別人)は「光背」だ。実際、第三の手紙にもそう書いてある。「未仏」は「まだ仏ではない」のではなく、もう「未来の仏」だ。
 
 第三の手紙には、さらにこうあった。「多くの寺院が失われ、ほとんど復興しなかった泉という土地では、わずかに残されたものを見るたび、その背後にある膨大な失われたもののことを想わずにはいられない。廃仏毀釈の結果、有縁だった死者が無縁になり、仏すら打ち棄てられ、無縁になったのだから」

 泉のある地区では、寺が壊されたことで住職が去り、そこを根城にしていたドバトがいずこかへ消えた、という話を、30年近く前、故佐藤孝徳さん(歴史家)に聞いたことがある。
 
 泉からひと山越えた隣の地区を流れる鮫川では、墓石が護岸に使われた。いわき市生まれの作家河林満さん(1950~2008年)はそれを題材にして、朝日新聞出版のPR誌「一冊の本」の平成11(1999)年1月号に小説「ある護岸」を発表した。
 
 いずれも廃仏毀釈による“無縁”化が生んだトピックだが、「150年の孤独」を経た今、アートと連動するかたちで街なかにお堂が創建され、丘の中腹の寺跡では除夜の鐘が鳴り響く、という“有縁”化の動きが出てきた。現時点でのその到達点が「未仏」なのだ――と解釈することもできるのではないだろうか。