2018年2月10日土曜日

ボルヒェルト全集

 いわきの作家・吉野せいの短編集『洟をたらした神』には、16編の作品が収められている。うち「水石山」など6編の原型はいわき民報に掲載された。
 新聞では「菊竹山記」という通しタイトルが付けられた。先日、昭和45(1970)年11月16日付の第1回「水石山」を読んでみた。初回からいきなりボルヒェルト(1920~47年)の名前が出てくる。末尾に「筆者=三野混沌夫人」とあるが、混沌さえ知らない読者はどこのだれだかわからない女性の文章にとまどったのではないか。

 混沌の新盆のあと、せいは家族で水石山へ行く。山頂の風景を眺めているうちに、昔読んだボルヒェルトの「タンポポ」を思い出す。

 ボルヒェルトはドイツの作家だ。第二次世界大戦直後のわずかの間に、詩と短編小説を書いて27歳で亡くなった。小松太郎が日本語に翻訳して、早川書房から『ボルヒェルト全集』を出したのは、昭和28(1953)年。そのとき、せいは50代半ばだった。

「毎日三十分の運動にひき出される囚人が、通路の傍らにみつけたいじけた一輪のたんぽぽの黄色。これは生きてるのだと息をのんだそれのように、スロープのもうせんの中に、処々細々と咲いた河原撫子(かわらなでしこ)の田舎びたピンクの花の高貴さ! それを走り寄って、嬉々と摘みとる人の姿を悲しく眺めた」
 
 この新聞初出形は、単行本では次のように加筆される。「毎日三十分の運動にひき出される死刑囚人が、ある日通路の傍にみつけた一輪のたんぽぽの黄色、ああこれは生きている。自分よりもきっと長く生きつづけられるだろう。憎らしいほど羨ましいけれど、何で又こんな場所をえらんでいじらしく咲いたのだ。俺の前をつながれて歩いてゆくなかまたち、どうかよろけてあの花を踏まないでくれ」

 ボルヒェルトを読まねば――。「タンポポ」を収めたボルヒェルトの本は常磐図書館にある。総合図書館に取り寄せてもらうか、直接常磐図書館へ行くかしよう、と考えていた矢先だった。近所の故義伯父の家に分散しておいた本棚を眺めていたら、『ボルヒェルト全集』全一巻(早川書房、1973年)があった=写真。

 忘れていた。2回目の全集が出たとき、雑誌「現代詩手帖」かなにかで紹介されたにちがいない。そのころ、同誌を毎月買って読んでいた。以来45年間、“積ん読”ままになった。

 主人公(つまり、ボルヒェルト)は獄庭を集団で散歩中、こっそりタンポポを摘み取って部屋に持ち帰り、湯のみに差して、「すっかり解放されて幸福な」気分になる。そういう終わり方だった。せいが描いた「たんぽぽ」にはその先があったのだ。

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