2018年2月18日日曜日

明治39年の平大火

 およそ100年前のいわきのことを調べている。磐城平時代の山村暮鳥と仲間を追っているうちにそうなった。同時に、いわきの今の文化状況の根っこには暮鳥がいる、今のいわきを知るには100年前のいわきを知る必要がある――このごろはそんなことも意識するようになった。100年単位でモノゴトを考える習慣を身につけねば――哲学者の内山節さんが言っていたことも大きい。
 これも100年単位の範疇には入るだろう。明治39(1906)年2月18日、つまり112年前のきょう昼前、平・新田町(しんたまち)の料亭から出火し、折からの北西風(きのうの夜と同じような強風だったにちがいない。けさもまだ吹いている)にあおられて大火事になった。

 斎藤伊知郎『写真で見るいわきの歴史 懐郷無限』(1978年)=写真=によると――。火の粉は数カ所に飛び火し、たちまち新田町一円を焼き尽くしたあと、本町通り、平駅前、白銀町まで燃え広がった。火勢は夕方5時ころには鎮まったが、新川町、月見町、南町、十五町目、中町、大町、大工町までひとなめにした。
 
 新田町の火元のすぐ近くに日本聖公会平講義所があった。里見庫男『地域の時代へ』(2000年)によると――。平講義所は明治36(1903)年、まず紺屋町に開設された。2年後には新田町に移転し、被災する。暮鳥が平に着任するのは、平大火から6年後の大正元(1912)年秋だ。
 
 講義所は、火事のあとも新田町にあった。焼け残った家の一角でも借りたのだろうか。暮鳥は赴任後、結婚する。講義所はあまりにも狭い。で、平・才槌小路に家を借りて教会兼住まいにした。隣は弁護士の新田目(あらため)善次郎宅。すぐ向かいは清光堂書店才槌小路分店だった。この分店で生涯の友となる吉野義也(三野混沌=のちに若松せいと結婚)と出会う。

 災後7年目の平の町に立った暮鳥の内面を、東日本大震災から7年がたとうとする今のわれわれの気持ちを重ねて想像してみる。『懐郷無限』には、「町長は幸い日露戦争の炭鉱景気の絶頂期を利用して一応復興を成功させた」とある。すでに大火の痕跡は消えて、通りは真新しくなっていた? それだけだったか――“100年思考”で問いかけの幅を広げることで見えてくるものがあるのではないか。

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