2018年3月31日土曜日

バイパスが4車線に

 きょう(3月31日)で2017年度が終わる。あしたからは2018年度――。
 厳冬がソメイヨシノをはじめとするサクラの「休眠打破」を早め、最近の好天も手伝って、一気に開花した。サクラだけではない。庭のプラムもほぼ満開だ=写真。今年のいわきは、人間界の年度替わりと自然界の移り行きが一致したようだ。
 
 きのうは午後、平市街へ出かけたあと、草木台の直売所で買い物をした。内郷から常磐へ抜ける道路に「堀坂(ほっつぁか)トンネル」が開通した。そこを通ってみたい、とカミサンが言う。単なる好奇心だが。
 
 街からわが家へ帰るのに反時計回りのルートをとり、堀坂トンネルを抜けて湯本に入り、浅貝から草木台へと進んだ。道沿いの家や街路のサクラが咲き、モクレン、レンギョウなどが満開だった。

 直売所で買い物をしたあとは、国道6号常磐バイパスにのった。先日も書いたが、同バイパスでは、平市街の出入り口から終点・平下神谷までの4車線化工事が進められていた。それが、ちょうどこの日午後、供用開始になった。

 すると、あす4月1日からは、常磐バイパスはすべて国道6号になり、今まで国道6号だったところは県管轄の道路に変わる。わが生活圏(神谷地区)の場合は、いわき市から山形県南陽市に至る阿武隈高地縦断ルートの国道399号だ。十五町目交差点から神谷の常磐バイパス交差点に起点が移る。

 ここしばらくは、旧「ロッコク」を利用するたびに「サンキュウキュウ」と口ずさんで、頭を切り替えねば――。

2018年3月30日金曜日

明治37年の「平町謡曲連」

 この半月、仲間と収支予算・決算、事業報告・計画書をつくったり見たりしながら過ごした。年度末には欠かせない作業だ。きのう(3月29日)、ようやく峠を越した。4月になれば年度初めの行事がある。が、3月後半ほどではない。
 きのうの午後は気分転換を兼ねて、知人からあずかってデータ化した、明治~昭和時代の写真をながめて過ごした。前から気になっていた集合写真がある=写真。裏に「平町喜多流謡曲連」「明治三十七年三月写」とあって、写っている人間の名前と年齢が書き込まれている。

 知人の曽祖父が前列左端に写っている。「小島藤平 65歳」。平・三町目に「十一屋」があった。本店の「洋物・十一屋」の向かい、「染物・十一屋」の主人だが、当時、既に長男の寅吉に家業を譲っていたのではないだろうか。

『いわき市史 第6巻 文化』(1978年)の<能楽>編に、この「謡曲連」に関する記述がある。「平町喜多流謡曲会」は明治28~9年に発足した(「謡曲会」が正式な名称だったか)。それから8~9年後の記念写真だ。

「山崎與三郎 40歳」(中列左から3人目)はいわきの史書や人物誌に名を残す。同市史にも「現在の平二町目谷口楼のわきに大正3、4年ころ、協楽亭とよぶ寄席がつくられた。これはおもに本町通りの商店の主人公たち、しろうと衆の芸事の発表に使用された。浪花節・常磐津・小唄もりたくさんであり、塩屋の山崎与三郎、長橋町の川崎文治の父木沢常松などが中心とされた」とある。

 本町通りの商店主は芸事に熱中した、そのための寄席まであった――とは、尋常ではない。江戸時代、商家のあるじのなかには、一日の仕事を終えたあと、趣味の俳諧に興じたり、調べ物をしたりする人間がいた。これを「余力学問」という。その気風が明治の世になっても引き継がれ、発展した(病膏肓=やまいこうこう=に入るところまでいった?)、ということだろう。
 
 さて、「謡曲」だが――。能楽の「仕舞」に連動した「せりふ(謡い)」のことをいうようだ。素人には、抑揚をつけてうたう「高砂や、この浦舟に帆を上げて……」くらいしか思い浮かないが、本町通りの商店主がこの謡いに熱中した。

 大正4(1915)年には「平喜多流謡曲会」を発展解消して、「平喜多会」ができる。会の趣旨として「謡曲ハ能楽ノ基礎ヲ為スモノニシテ純日本ノ国風ヲ示シ、日本的風景ノ美ヲ謡ヒ日本的人情ノ粋ヲ写シ」た高雅な趣味である、とうたっているそうだ(いわき市史)。集合写真の表と裏を交互に眺めては、この時代の、平のダンナ衆のすごい「ゆとり」を思う。

2018年3月29日木曜日

段差が気になる年に

 散歩をやめたら、足の筋肉が衰えた。近所のコンビニへ買い物に行くのはともかく、2時間も歩くようなイベントはきつくなった。
 散歩をしていて足がしっかりしていたはずのときにも、階段で、茶の間と台所の段差で、親指をぶつけてとび上がることがあった。加齢による運動能力の低下はいたしかたない。家で足を屈伸するくらいの今は、座布団の端を踏んだだけでもこけそうになる。「家庭内転倒事故」の心配が増した。

 玄関にある靴やサンダルは、外向きにそろえられている。親からしつけられ、子どもにもそうしつけてきた。ところが最近は、靴は外向き・サンダルは内向き=写真=にするようにしている。

 靴は上がりかまちに座って履くから外向きでもいい。が、サンダルは若いときのようにまっすぐ足を下ろしてつっかけることが簡単ではなくなった。柱につかまりながら、くるっと体を半回転させてサンダルを履く――それが習慣になりつつある。土間から上がりかまちまでの高さを計ったら、32センチ強あった。ざっと一尺だ。

 近所の幼稚園が新年度から「幼保連携型認定こども園」になる。新園舎が建設され、先日、落成式が開かれた。2階建ての広々とした保育室などを案内されたが、なんとなく落ち着かない。それはそうだろう。ゼロ歳~5歳の幼児に合わせた建物なのだから。玄関と床がほぼフラットだ。わきの下駄箱(今もそういうのか)も低い。フラットすぎて、かえって靴を脱ぐのに苦労した。

 一人の人間のなかでも、段差はない方がよかったり、ある方がよかったりする。年をとるということは単純なのに面倒なことが増える、そういうことなのだろう。

2018年3月28日水曜日

アカヤシオとアケボノツツジ

 おととい(3月26日)は夜7時半から、BSプレミアムの「にっぽん百名山『祖母山』」を見た。同山は大分・宮崎県にまたがる1756メートルの霊峰だそうだ。稜線に咲き誇るアケボノツツジがアップされた。
 アケボノツツジを見てすぐ思い浮かんだのが、いわき市の夏井川渓谷に自生するアカヤシオだ=写真(2015年4月4日撮影)。同時に、大久川・三ツ森渓谷のアカヤシオ、いわきの北隣の町にあるという“アケボノツツジ”のことも。
 
 前にも触れたが、いわき地域学會図書5『夏井川流域紀行』(1989年)に、いわきの植物学の先生・湯澤陽一さんが書いている。

 アカヤシオとアケボノツツジは変種関係にあるが、「残念ながらアケボノツツジは東北地方はもちろん、関東地方にも産しない。(略)紀伊半島を北限とし、四国・九州に分布する暖地系の植物だ」

「アカヤシオは花柄にみつに腺毛があり、雄しべのうち半分の5本に白毛がある。アケボノツツジは、すべて無毛なので、この点に注意すれば簡単に区別できる」

 ざっと30年前、年に何回か日曜日に花を観察する「山学校」が開かれた。湯澤さんが先生だった。いわき、あるいはその近辺に自生するのはアカヤシオであって、アケボノツツジではない――単に方言で「岩ツツジ」と言っていたころ、湯澤さんに話を聴き、文章を読んで、胸に刻んだことだ。

 祖母山のアケボノツツジのテレビを見た翌朝、庭に出たら、プラムが開花していた。冬の背広で出かけようとしたら異様に熱がこもる。あわてて夏の背広に着替えた。夕方、街から帰ってくると、プラムの花は満開に近かった。

 街ではハクモクレンの花が咲いていた。平中央公園のソメイヨシノも咲き出した。すると、夏井川渓谷のアカヤシオも――。パソコンを開けてフェイスブックをのぞいたら、渓谷に住む友人が「アカヤシオが咲きだした」と伝えていた。
 
 この週末、平地ではソメイヨシノ、渓谷ではアカヤシオがピンクの花をいっぱい付けていることだろう。

2018年3月27日火曜日

ガケを移動する重機

 それを見たときには仰天した。大きな鉄のかたまりが急斜面に張りついている=写真。ありえない光景だ。なぜ落下しないでいられるのか?
 おととし(2016年)1月中旬、いわき地方を暴風雨が襲った。県道小野四倉線で土砂崩れが発生し、小川町塩田字平石地内から田村郡小野町夏井地内まで、渓谷を中心に42キロ区間が全面通行止めになった。土砂崩れ現場は渓谷ではなく、平地から渓谷へと分け入ったばかりの小川・高崎地内のガケだった。
 
 コンクリート吹き付けをした上からワイヤネットが張られている。そのモルタルが土砂とともに一部剥落した。やがて片側だけで通行が再開された。
 
 2年たった今年、片側交互通行のまま工事が始まった。車の落石被害を防ぐために、ガケ側に鉄板が打ち込まれた。ワイヤと古いモルタルをはがしてのり面がカットされる。井形が組まれ、コンクリートが吹き付けられる。縦・横が交差するところにアンカーが打ち込まれる。その打ち込み用の重機だろう。
 
 90度に近い急傾斜だ。人が乗って操作できる場所ではない。なんという機械なのか、ネットで検索したらあった。
 
「アンカーロックマシン」。忍者よろしく人間がガケの上から垂れたロープにつながれて作業する。それと同じように、上から強靭なワイヤで支えられた重機らしい。写真を拡大すると、重機はキャタビラ式で操縦席のようなものはない。リモコンで動くのだろう。
 
 改修後もガケには凹凸が残る。その凹凸に合わせて這い上がり、横に動き、下りて上がる――。最初に見たのは3月11日。その1週間後には右端の方に止まっていた。作業は間もなく終了という感じだった。

 鉄道マニアでも重機マニアでもないが、こういう想定外の風景には引かれる。世界には、庶民の想像力=創造力をはるかに越えてモノをつくりあげる人たちがいる。おもしろいものだ。

 話は変わるが、けさ(3月27日)、庭のプラムが開花した。きょう、一気に満開になるだろう。ソメイヨシノも開花が早まるのではないか。

2018年3月26日月曜日

正座と鬼瓦とシイタケ

 きのう(3月25日)は昼前、義母と義伯父の十七回忌の法事を行った。寺の本堂で住職の読経中、正座をしていたが……。うながされて焼香に立とうとした前列の男ども4人が、私を含めてこけたり前のめりになったりした。いやはや、年をとったものだ。
 法事の前、少し時間があったので、墓地をぶらついた。そのうち孫もやって来た。4月から5年生になる上の孫に、本堂の屋根に鬼瓦=写真=があることを教える。あとでその子が「富岡に行って来た」という。孫の母親の母親は双葉郡富岡町出身だ。
 
 富岡町は2013年春、避難指示区域が解除され、日中の出入りができる避難指示解除準備区域と居住制限区域、立ち入りができない帰還困難区域に三分された。それから4年後の去年4月、帰還困難区域を除いて避難指示が解除され、帰還が可能になった。
 
 孫の母親の親戚が帰還した。帰還困難区域のそばなので、帰るのをためらっていわきに住んでいる親戚もいる。帰還した親戚の家をみんなで訪ねたのだろう。
 
 上の孫はそこでなにかを感じたからこそ、「富岡に行って来た」と私に告げたにちがいない。私は「そうか」と答えただけだが、少し大人の会話ができたように思った。
 
 法要のあとはカミサンの実家で一休みした。茶の間の窓越しに庭を眺めていたら、来月から小3になる下の孫と目が合った。庭の木の下に置かれた榾木(ほだぎ)からシイタケが出ている。指をさしたら気がついた。「シイタケだ」。孫は母親を呼んで一緒に見た。
 
 榾木は最近、そこに置かれたようだ。まだ3月。厳冬が過ぎて、急に暑い日があったりする。それで、かえって目覚めが早まったか。それとも、いわきの平地のシイタケは、3月の下旬になると生えるのか――。(これは食べられるだろう)
 
 昼食会に移り、富岡町の家の話になった。周囲は除染された。が、家の中の線量が高い。結局、屋内の除染・改造が行われた。畳から冷たいフローリングの床に替わった。
 
 原発事故は人災、しかも自然災害の範疇をはるかに超える。一世代、二世代はおろか、その先になっても廃炉作業は終わらない。
 
 先日、事故を起こした1F(いちえふ)に最も近い福島地裁いわき支部で、東電を相手取った集団訴訟の判決が出た。避難住民は怒りと落胆を募らせたことだろう。
 
 福島民報は論説でこう書いた。「先の前橋地裁の判決より責任の評価を後退させたようにも見える。ふるさとの全てを、将来にわたって奪い続ける責任は、そんなに軽いのだろうか」「原発事故による避難は地域の破壊そのものであり、強奪であり、終期の見えない強制的な移住であり、突き詰めれば命を奪うという数々の人権侵害だった」

富岡町の建物の話を聴き、知り合った原発避難者の一人ひとりの顔を思い浮かべながら、しばらく論説の核心部分を反芻した。

2018年3月25日日曜日

上・下小川村の鳥獣虫魚

 昔の小川地区(現いわき市小川町の夏井川左岸域)の地図が出てきた=写真。昭和初期、小学校の教職員が調査・編集した『郷土誌』に収められていたのを、コピーして手元に置いておいたように記憶する。それが正しければ、作製された昭和7(1932)年当時の、上・下小川村の主な生物の分布図だ。
 日本の地図は、今は北が上だが、左が北になっている。つまり、現代の感覚からいうと、90度左に転回したかたちで文字が書き込まれている(「神楽山」だけは今回、私が書き加えた)。
 
 山名や地名は黒字、鳥・獣・虫・魚は赤字。たとえば、左=北の戸渡には、山鳥・カジカ・カナ蛇・イワナ・カジカ蛙のほか、木鼠(きねずみ=ヤマネ)・蛍・晩鳥(ばんどり)が生息する。馬もいる。右岸域・赤井村と境をなす夏井川には、下流・下小川から上流・高崎にかけて鯰(なまず)・鮭・鮎・ウグヒ(イ)・鱒(ます)がいた。
 
 晩鳥は、小学生のころ、大人がよく口にしていたのを覚えている。ムササビのようで、しかしそれよりは小さい。モモンガのことらしいが、昔は両者をどのくらい区別していたか。モモンガもムササビも一緒くたにしていたのではなかったか(むろん、これは大人になってあれこれ考えるようになってからのギモンだが)。
 
 地図の上部=東には隣接自治体の木戸(村)・大久村・広野村・大野村・平窪村が書き込まれている。大久と広野は位置が逆だろう。
 
 木戸村は昭和31(1956)年、竜田村と合併して楢葉町になる。広野村は同15(1940)年、広野町に。大久村は同41(1966)年、大同合併していわき市の一部に。平窪村は同12(1937)年、平町と合併して平市の一部になる。つまり、昭和12年以前の地図ということだから、同7年までに調査し、作製された『郷土誌』(だとして)所収の地図と重なる。
 
 夏井川に絞っていうと、サケ・マスが遡上してきた。それを住民が捕らないはずはない。地図に記されたいきものは、ホタルやカジカガエルを除いて“漁猟対象種”だったか。
 
 前にも触れたが、夏井川渓谷の左岸域、神楽山系に風力発電用の風車が立ち並ぶ計画がある。それが地元の人間の暮らしに、自然の営みにどう影響するのか――そんな思いから始まって、手持ちの資料をあれこれ見ていたら、ざっと90年前のものと思われる“生物分布図”が出てきたのだった。

2018年3月24日土曜日

小学校の卒業式へ

 寒暖の波はあっても、自然界は着実に春に向かっている。春分の日の前日(3月20日)、夏井川の堤防を通ったら、土手に菜の花が咲いていた=写真。たぶんセイヨウカラシナ。あと半月もすると、土手は黄色に染まる。むろん、ソメイヨシノも咲いている。
 きのう(3月23日)、小学校の卒業式が行われた。毎年、学区内の区長や民生委員などが招待される。小学校の入学式と卒業式だけは出るようにしている。
 
 区長になって5年、地区球技大会や体育祭で保護者とかかわり、それで知った子どもがいる。子どもはむろん、こちらを知らない。私もふだんは忘れている。
 
 が、たとえば足が速い、ということで、毎年体育祭のリレーに出てくる子がいる。元陸上競技部の人間としては、卒業する年になったのか、中学ではぜひ陸上を――なんて勝手な感慨が浮かぶ。

 もう一人。知人の孫で、たまたま卒業式の前日、学校に頼まれて回覧資料をわが家へ持って来た子がいる。応対したカミサンに呼ばれて初めて話した。母親(知人の娘)も小さいときから知っている。三世代のつながりだ。
 
 東日本大震災の1年後――2012年4月、子どもたちは小学校に入学した。それから6年間、いろんなことを学んで成長し、次のステージへと踏み出した。
 
 小学校の卒業式は年度最後の学習発表会なのかもしれない。卒業生が在校生代表の5年生とエールを交換する。ともに校歌を歌い、5年生は「ビリーブ」を、卒業生は「さよならは言わない」を歌う。知人の孫が「さよならは言わない」を、別の子が校歌をピアノで伴奏した。それも成長したあかし。
 
 今年(2018年)初めてはかま姿の女の子を見た。よその学校でもはかまの子がいたことを、夕方のテレビと夕刊で知る。はかま姿の子がいて、いちだんと厳粛さが増したようだった。

2018年3月23日金曜日

「一町目横町」のカフェタヒラ

『目で見るいわきの100年――写真が語る激動のふるさと』(郷土出版社・1996年)に、「カフェタヒラ」が載る=写真。大正14年の撮影とある。この写真の場所はどこなのか、ずいぶん前からわからずに悶々としてきた。太陽光線の影が決め手になる。東西だったら午後の日差し、南北だったら昼前の日差し――。
 大正12(1923)年11月13日付常磐毎日新聞に載った広告を見ると、カフェタヒラは当初、平町紺屋町(「住吉屋本店前」というから、現せきの平斎場の西隣付近)にあった。そのあと、「一町目横町」に移る(ふと思ったが、それは経営者が同じという前提に立ってのことだ。違う可能性も否定できない)。
 
 前にも書いたが、その横町がわかった。いわき市暮らしの伝承郷で、あさって(3月25日)まで「伝承郷収蔵品展 いわきのいろいろ」が開かれている。なかに「大日本職業別明細図之内 信用案内 福島県」(大正15年、東京交通社)の複製が展示されている。平町・一町目の本町通り南側に「カフェタヒラ」の文字が見える(今のひまわり駐車場の東隣あたりのようだ)。

 平の本町通りは東西に延びている。横町はそれと交差して南北に延びる。その角にカフェタヒラがあった。本町通りの建物は間口が狭く奥行きが長い。カフェタヒラのような横長の建物が本町通りにあるとは思えない。横町の角なら同じスペースでも横長に利用できる。つまり、カフェタヒラは南北に長い東向きの建物で、横町沿いに出入り口があった。日光の影もそれで説明がつく。

 やっと写真についてあれこれ想像することができる。――店は2階建て。屋根には「(サッ?)ポロビヤホール」の看板。2階の窓には、欧米の街角を行くテレビの旅番組でよく見かける花台・手すり。真ん中の窓ガラスには「カフェータヒラ」と「西洋御料理」の文字。1階は、通りに自転車立て。出前用らしい自転車が1台止まっている。入り口の前には木製のプランターが二つ。若い針葉樹が4本ほど植わっている。一種の目隠しなのだろう。

 大正14(1925)年9月8日夜、会費50銭で詩の会が開かれ、開拓農民吉野義也(三野混沌)や、中国から帰国したばかりの若い無名の草野心平が詩を朗読したのは、この建物の2階ではないか。

『目で見るいわきの100年』では、カフェタヒラについて「大正から昭和初期にかけて、客の接待をする女給のいた西洋風の酒場である」と説明している。

 カフェタヒラに関する当時の新聞記事と、カフェタヒラが出した新聞広告を照らし合わせてみる限り、「西洋風の酒場」と言い切るのはどうかと思う。そういう一面もあったが、本筋は西洋料理店で、「酒場」、つまり風俗営業の色合いが濃くなるのは昭和に入ってからではないか、という感じがしてきた。

 大正時代の広告は「カキフライ1枚20銭」(紺屋町の時代)、「牛なべ 上なべ 一人前40銭」(一町目横町に移ってから)などと、洋風料理の値段の宣伝がほとんどだ。昭和2年11月には、財界が不況なので値下げを断行、といった広告も載る。カツレツ・メンチカツ・カレーライスなどみんな20銭――。

 やがて、カフェは風俗取り締まり対象の店になる。記事の見出しだけ紹介する。「私服密行して……/夜の街を取締まる/酌婦とカフェーを/五日夜平町を始め一斉に」(昭和4年10月8日付常磐毎日新聞)。これはカフェ一般について書いたものだが、こんな記事もある。「カフェータヒラの美人女給/実は家出のお尋ね者/福の神を奪はれてがっかり」(同4年10月2日付磐城時報)「カフェーの主人と女給/七名処罰さる/客に対し酌婦行為をして」(同10月26日付磐城時報)

「カフェ」といっても、カフェタヒラは最初から風俗営業の店ではなく、アルコールも飲ませる洋風料理屋としてスタートしながら、時代の波にもまれて女給の接待で売る「酒場」性を強めていった――ということだろう。

2018年3月22日木曜日

暑さ寒さは彼岸を過ぎても

 彼岸の中日のきのう(3月21日)はずいぶん冷え込んだ。午後から雨になった。いわきの内陸部の山田町では、1週間前、最高気温が20度を超えたのに、きのうは日中、5.4度にとどまった。「暑さ寒さも彼岸まで」というが、実際には春の彼岸を過ぎても寒さは続き、秋の彼岸を過ぎても暑さは続く。 
 今は寒さの冬と光の春が綱引きをしている。寒さの冬が強いときもある。最近の例では2010年。4月の下旬にいわきの山間部が雪に見舞われた。平地のソメイヨシノが満開になっても、寒さの冬はなかなか去らなかった。
 
 3月も、もう後半。年度末を迎えて事務的な仕事が増えてきた。この時期は庭の草木をながめるゆとりもない。たまたま外の空気を吸いに行ったら、足元にスミレの花が咲いていた=写真。クリスマスローズもキズイセンも満開だった。花を見るだけでも気分転換になる。
 
 間もなく区内会の総会が開かれる。今年(2018年)は例年より1週間ほど早いペースで準備を進めた。おかげで、去年よりは気持ちの上で余裕がある。

 1カ月後にはいわき地域学會の総会が開かれる。きのうは午後から、休日でないと時間が取れない若い仲間と、総会案内の往復はがきを印刷した。去年(2017年)は、往信面と返信面を間違えた。ありがたいことに、郵便局で「返信」の字の上に「往信」のシールを張ってくれた。その失敗を思い出しながら、注意して印刷した。
 
 次の休日からは総会資料づくりが待っている。決算にけっこう時間が取られる。会計はもちろんいるが、前処理が必要なものがある。慣れないカネ勘定でくたくたになる。

 あしたは小学校の卒業式。区を代表して臨席する。年度が替わるとすぐ小学校の入学式がある。これにも臨席する。合間に、行政がらみの会議が続く。この何年かは、3月後半から4月後半までの1カ月間がとりわけ忙しい。
 
 今朝、起きるとまだ雨。西の山は雨で煙って見えない。しばらく降り続くというサインだ。昼間は電卓をわきに置いてカネの勘定をしよう――そう自分に気合を入れる。

2018年3月21日水曜日

「そよ、そよそよとないている」

 夏井川渓谷の隠居に、メモ用に使っている紙挟み(クリップボード)がある。B4判と、普通のA4判よりは大きい。何年も前から、福島県の地図や渓谷の観光チラシなどをはさんだままだ。20年前に家庭菜園を始めたときの野菜栽培図や、行政が委託した業者による庭の放射線量測定記録がある。
“孫”の落書きもはさまっていた=写真上。紙いっぱいにキノコとネコ、女の子が描かれている。右上には「そよ風や、そよ、そよそよとないている」の“俳句”、右下には「2009年10月11日(日)」の日付が書き込まれている

“孫”はこの4月、東京で大学生になる。9年前は小学4年生だった。若い仲間の娘だが、生まれたときから知っている。私のことを「たかジイ」と呼ぶ。拙ブログを参考にして、“孫”たちの成長過程を見てみる。もう1人の“孫”は2歳下。4月には高2になる。

【2008年3月】“孫”は小3と小1。わが家へやって来て、ネコどもを抱いて「いじくりこんにゃく」にする。長女は作詞をする。それに母親が曲をつけた。最初は照れていたが、「タカじい」のために歌ってくれた。次女は絵をかくのが好き。「タカじいの顔をかいてよ」と催促すると、「かけない。だって、おでこツルツルだもの」

【2008年9月】夏井川渓谷の隠居で晩酌を始めると、電話が鳴った。「たかジイ、だれだか分かる?」。上の“孫”だった。あとで下の“孫”が出る。「もう酒を飲み過ぎてんでしょ。飲み過ぎると頭がばかになるよ。戸を開けていると蚊が入って来るよ」。

【2010年7月】若い仲間一家4人、長男一家4人がやって来た。夫婦2人だけの夕餉が、その晩は一挙に10人になった。小5、小3の“孫”が、3歳、1歳の孫の面倒をみる。

【2012年6月】中1と小5の“孫”が「父(ジジ)の日」イラスト応援メッセージを持って来る。「いっしょにハゲ毛(もう)!」は妹、「いっしょにはげもう」は姉。(妹はハゲにこだわっている)

【2014年8月】中3の“孫”が家に来るなり、「いわき生徒会長サミット」の一員として訪れた広島・長崎でのことを話し始める。止まらない。マシンガントークだ。それだけ深く心にしみる体験だったのだろう。中1の“孫”は読書感想文に行き詰まっていた。いろいろ話したら、即興で4コマ漫画をかいてくれた=写真下。
【2016年6月】5月の終わりに高2の“孫”が「クラブソニックいわき」でギターの弾き語りをする。初ステージだというので、夫婦で出かける。

【2016年11月】上の“孫”が授業で福島大生の「いるだけ支援」を知り、「大学生になって、もし機会があればやってみたい」とフェイスブックでコメントしていた。「『来るだけ支援』もあるぞ」と書いたら、「なんだって!? 私がいつも吉田家に長年にわたり実施してきた支援(?)のことかしら……?」。そうだ。

 18歳、巣立ちのとき――。去年の暮れにカレーライスを食べに来た。高校卒業式の日には、はかま姿で現れた。母親は巣立ちを喜びながらも、「もう戻って来ないかもしれないね」とつぶやいた。一時帰省はともかく、大学を卒業していわき以外で仕事に就けば、そうなる。

 戻ってよし、戻らなくてもよし。そよ風が鳥のようにそよそよと鳴いている日ばかりとは限らない。あらしのときもある。それでも、そよ風の精神で大学生活を楽しめばいい――9年前の落書きを手に、そんなことを思った。

2018年3月20日火曜日

赤いウソだった

 夏井川渓谷の隠居にシダレザクラが2本ある。日曜日(3月18日)。庭にいると、頭上で、板をたたくような乾いた音がした。シダレザクラのこずえに見慣れないスズメ大の鳥が3羽止まっていた。
 日曜日には、いつものカメラのほかに、300ミリレンズのカメラを持っていく。それを取りに隠居へ戻ってまた庭に立つと、鳥は消えていた。が、10分もしないうちにまた現れた。いちいち焦点を合わせながら撮った一枚がこれ=写真。あとで拡大したら、ウソの雄だった。シダレザクラの新芽をくわえている。

 ウソは、スズメ目アトリ科ウソ属の野鳥。いわきでは冬に飛来する「漂鳥」だ。渓谷に通い続けて二十数年、初めて出合った。

 利害関係のないとき、つまり傍観者でしかなかった記者時代、ウソは勿来の関公園、あるいは石森山あたりで桜の新芽をついばむ害鳥、取材対象のひとつにすぎなかった。が、現にわが隠居の庭に現れ、せわしくシダレザクラの新芽をついばむ姿を見ると、心穏やかではいられない。今年(2018年)はシダレザクラのてっぺんだけ花がない、といった状態になってしまうのか。

 ただ、雄はうっとりするほど美しい。頭と尾、翼が黒色。背中は灰青色。頬とのどは赤色――と鳥類図鑑にあるが、実際には赤は桃色に近い。写真を拡大したら、腹の方まで赤みがかっていた。ウソはウソでも亜種の「アカウソ」らしい。ほかに、のどから胸や腹まで赤い、やはり亜種の「ベニバラウソ」がある。日本野鳥の会いわき支部の『いわき鳥類目録2015』で知った。

 ウソにまつわる行事として「うそ替え神事」がある。ウソが「うそ」に通じることから、災厄・凶事を「うそ」として、「吉」となることを祈るものだそうだ。国会がやっているのは、この逆のパターンか。「真っ赤なうそ」は論外として、「赤いウソ」のふるまいはまあ、眼福にもあずかったから許すか。

2018年3月19日月曜日

わが“農はじめ“

 三春ネギの栽培サイクルは2年。初夏にネギ坊主から種を採り、保存し、秋に苗床をつくって種をまき、翌春、定植する。収穫はその年の秋・冬――。
 きのうの日曜日(3月18日)は、ほぼ快晴無風。朝10時前、夏井川渓谷の隠居に着いて、庭の菜園で土いじりをした。三春ネギが数十本残っている。越冬したからには、食べずに残して種を採りたい。うねに追肥し、アルミ柄の立鎌で草引きを兼ねて土寄せをした=写真。足かけ2年に及ぶ栽培計画を頭におきながらの土いじりという点では、今年(2018年)の“農はじめ”でもある。

 三春ネギを、辛み大根を引っこ抜く。生ごみを埋める――冬でもそうして土いじりをしてきたが、もう春だ。今年は、来年の三春ネギの栽培を考えて、いつもの年の3倍は種を採ることにした。
 
 去年秋に種をまいた三春ネギの苗が、芽生えのときの5分の1くらいしか残っていない。歩留まりとしては最悪だ。種をつなぐためには、今年は新・三春ネギを食べずに来年の晩春、ネギ坊主ができるのを待つしかない。
 
 たまたま、この冬はネギの“お福分け”が多かった。その分、三春ネギを採る回数が減った。初夏、ネギ坊主を摘んだあと、分げつして伸びた旧・三春ネギの子を植え直して、これを秋に食べよう。そんなことを考えながら立鎌を握った。汗がふきだした。
 
 一服中には、どこに何をどのくらいつくるか、紙に図を描いて確かめる。昼食後は再び菜園に出て、土手から地下茎を伸ばして地上に現れたササの根を、スコップを差し込んで断ち切り、除去した。
 
 午後3時前にはマチへ戻った。いつもの魚屋さんへ行く前に、種苗店に寄った。まだ3月中旬。ジャガイモ(種イモ)のほかには、これといったポット苗はない。それでも、農家のおばあさんが野菜の種を買いに来ていた。店主とのやりとりを聞くともなく聞く。種屋をのぞくのが楽しい時節になった。

日曜日、夕方5時半。早い晩酌を始め、カツオの刺し身をつつきながら「笑点」を見る。少し疲れてはいるが、指先にまで心地よい気分が満ちていた。

2018年3月18日日曜日

昭和3年、平劇場全焼

 詩人山村暮鳥とその仲間たち(三野混沌、猪狩満直、吉野せいら)を調べている。それで、ときどき大正~昭和初期のいわきにタイムスリップする。学芸員として同じように昔のいわきと今のいわきを行き来きしている若い人から、昭和6(1931)年発行の「平町職業別明細略図」のコピーをもらった。
 
 ちょうど1カ月前、拙ブログで明治39(1906)年2月におきた「平大火」を取り上げ、平(現いわき)駅前にあった「平座」が焼失した話を書いた。昭和6年の略図には、今の世界館ビルあたりにひときわ大きい字で「平劇場跡」とある=写真上。コピーをくれた若い人が「平座のことですかね」という。「いや、平劇場とあるから、平座ではないね」。今度は平劇場について知りたくなった。
 
 このところ必要があって、『いわき市史 第6巻 文化』(1978年)をパラパラやったり、図書館のホームページで昔の地域新聞をスクロールしたりしている。偶然、ほんとに偶然、別件で昭和4(1929)年1月1日付常磐毎日新聞を開いたら、2面に平劇場火災の記事が載っていた=写真下。労せずして知りたい情報が飛び込んできた。
 昭和3年12月30日午前1時50分ごろ、平町白銀町の「平劇場から発火し/全焼5戸半焼4戸/大建築物が密接し/負傷5名を出す/原因は未だ不明」。2段5行見出しと目立つ扱いだ。5面には出火おわび広告、近火見舞いお礼広告が載っている。
 
 昔、地域新聞は欄外日付の前日に夕刊として配達された。元日付は12月31日に届いた(これは今もそうだが)。ただの新聞ではない、めでたい元日号である。年賀広告で増ページされている(常磐毎日新聞は通常の3倍、6ページ)。
 
 それぞれのバックナンバーでチェックする。27日付ないし28日付社告で各紙は、これで年内発行は終わり、元日号の準備・印刷に入る、31日(実際には30日)まで休む、といったことを読者に知らせている。
 
 つまり、1月1日付の新聞は、どこも29日までに印刷を終え、31日に配達するばかりになっていた。ところが、30日未明に劇場火災が起きた。類焼もあった。大ニュースだ。他紙は元日号をいじらずにそのまま配達したが、常磐毎日新聞だけは一部記事と広告を差し替え、印刷し直した――そんなことが読み取れる。経営兼編集トップ・川崎文治のプロ意識には脱帽だ。

 念のために『いわき市史 第6巻 文化』を開く。<演劇>の項にこうあった。明治44年、平駅前に有声座が開業し、やがて今の「世界館ビルのあるところに移転再建され、平劇場と称した」「ビザンチン様式のトタン瓦葺のモダンな建物」だったが、「正月興行の準備なった暮(れ)の30日に不運にも焼失した」。

 <映画>の項には「関東大震災の時、たくさんの避難民が東北にもおよび平で途中下車するものが多く、避難民の立ち寄る宿泊所として、有声座をはじめ聚楽館・平劇場・平館は一斉に休業し、施設を提供した」とある。

 同じ筆者が<演劇>では、有声座が平劇場になったとし、<映画>では「昭和10年(略)、有声座が世界館へと変ってゆく」と書いている。ところが、今度手に入った昭和6年の地図には、平駅前・住吉屋支店の西隣に有声座が書き込まれている。平劇場が焼けたあとも営業しているということは、両者が共存していた時期があったわけだ。この矛盾をどう解釈したらいいのか。新たなギモン、宿題が生まれた。

 そうそう、平劇場火災では歴史家諸根樟一(1893~1951年)の家が類焼している。諸根はこの火災で貴重な資料を焼失し、破産して、上京せざるを得なくなったという。関東大震災で各劇場が一時避難所になったことを誇らしく思う一方で、著述に命をかけた歴史家の無念さが波紋となって広がる。

2018年3月17日土曜日

街のブルボンへ

 カミサンを街へ送り届けた。すぐ用事がすむようなので、いわき駅前のラトブにある総合図書館で待ち合わせることにした。ケータイが鳴る。急いで図書館の外へ出る。「今、ブルボンにいるの」。一瞬、新舞子海岸の喫茶店が思い浮かぶ。そこへ行くはずはない。店も閉まったままだ。街の西、紺屋町の姉妹店に寄り道したのだった。
 新舞子店には20代半ば、同業他社の記者たちとよく出かけた。みんなで行けば抜かれない――。仲がよかったことは確かだが、一緒ならひとまず特ダネに泣くことはなさそうだ、という思いがあった。ざっと45年前の話だ。

 平店は逆に、職場に近すぎる。歩いて5分ほどのところにある。入るところを見られると、またさぼっているといわれかねない。そのうち、1階の駐車場に変わったオブジェが並びはじめた。ますます入りづらくなった。
 
 海のブルボンにもオブジェはあった。素材は海岸に打ち揚げられた流木だ。マスターがそれを拾ってきて、仕事の合間にオブジェに仕上げた。そのころは外の置き物、控えめなインテリア、という程度だった。

 やがて海のブルボンは営業を休止する。2011年3月11日。新舞子海岸を大津波が襲う。さいわい建物は残った。街のブルボンもマスターが亡くなり、店を閉めていたが、最近、お孫さんと仲間たちによってよみがえった。

 知人が小川町でカフェを開く準備を進めている。その一環として、街のブルボンを借りてひとり修業中だ。で、カミサンが店を訪ねた。私も呼び出されて初めて入った。

 聞いてはいたが……。オブジェの中にテーブルとイスがある。オブジェに囲まれて飲むコーヒーは、それはそれは格別な味だった。聖と俗、具象と抽象がごちゃまぜ。そのときそのときの気持ちのままに、キッチュで純粋な作品をつくる。ただただその一念には脱帽するほかない。

 カウンターの上にジャコメッティ風の黒いオブジェがあった=写真右側。これだ、マスターの作品の原点は。元は、大雨の日に川の上流から流れ下り、新舞子の海岸に漂着した丸太だろう。足と腕が同じ半円状だからわかる。私はデビ夫人のような美女より、単純化されたこのオブジェのような作品が好きだ。味がある。

 ま、ここでくつろげるようになるには、何度も通って“異風景”になじむしかない。あるいは、なにか日常から抜け出したくなったらブルボンへ行けばよい――そんなことを考えさせる不思議な店ではある。

2018年3月16日金曜日

勿来の関と源義家

 もう1カ月も前のことになる。いわき地域学會の市民講座で馬目聖子会員が「勿来関と源義家の受容について」と題して話した=写真。
 
 先行研究を踏まえて、勿来の関と源義家がどう結びつき、どう世間にイメージが定着したかを、四つの視点から紹介した。すなわち、①本人・子孫のヨイショ②説話集によるヨイショ③神話・伝説的なヨイショ④近世以降のヨイショ――が積み重なって、「山桜・勿来の関・源義家」のイメージが流布し、根づいた。8世紀に及ぶヨイショの歴史に踊らされていたのか、われわれは……。

 今の勿来の関は、江戸時代、磐城平藩を治めた内藤の殿様が藩の儒臣葛山為篤に命じて編纂(へんさん)させた「磐城風土記」に初めて登場する。その流れのなかでヤマザクラの植林などが行われ、「勿来の関は磐城の地にある」ことが定着した。歌枕としての「勿来の関」と史実としての「菊田関(実際には、左に戈ふたつ、右に刀の別字)」は違う。勿来の関は宮城県利府町にあったのではないか、ということは地域学會の先輩の論考で知った。

 ここは「勿来の関」「源義家」両方の「虚」と「実」を押さえておかないと――。この1カ月、いちいち参考資料名は上げないが、図書館から本を借りて読みあさった。

 基礎の基礎として、①「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山ざくらかな」は、辺境に向かう心細さをうたった「作者不明」の伝承歌だったらしい②月詣和歌集(1182年)、その6年後にできた千載和歌集に義家作として収載されたのは、義家に対する編者のヨイショ(今はやりの言葉でいうとソンタク)らしい――ことがわかった。

 これに、江戸時代の磐城平藩の文化政策が加わり、さらには住民による歌碑の建立、文人墨客の来訪などのほか、現JR常磐線が開通するときに地元の熱意が実って「勿来駅」が開設される、村から「勿来町」へ、さらに「勿来市」へと自治体名が改称される、といったことが共振・伝播して、勿来の関と源義家と山桜のイメージが定着した。

 これらのヨイショには、こうあったらいいなという単純な願望、そうあることによる観光・経済効果への期待だけではない。義家を「軍神」とあがめる一部の人々の意思のようなものも感じ取れる。

 いわき地域学會が図書を刊行する際の“戒め”がある。その一節。「われわれは、われわれが現に生活している『いわき』という郷土を愛する。しかし偏愛のあまり眼を曇らせてはいけないとも考える。それは科学的態度を放棄した地域ナショナリズムにほかならないからである」。この戒めを思い出した。

2018年3月15日木曜日

「“山抜け”が心配だ」

 きのう(3月14日)の続き。夏井川渓谷の小集落で区の総会があり、終わって懇親会に移った。雑談の中で聞いた言葉が今も耳に残っている。「国有林で伐採が行れている。母成(ぼなり)林道の奥に行ったら、ハゲ山だった。“山抜け”が心配だ」
 3月11日、日曜日。朝、渓谷にある隠居へ向かうと、道端に伐り出したばかりの杉の丸太があった。その一角で伐採が始まったらしい。懇親会で話に出た場所は、しかし、それとは別の、ひとつ隣の沢の奥だった。
 
 夏井川と並走する県道小野四倉線沿いに小集落が点在する。V字谷だから山が家に迫り、谷が深い。土石流の警戒区域に指定されている沢もある。わが隠居がその区域に入っている。
 
 用があったので、夕方、懇親会を途中で抜けたあと、江田から横川へ母成林道を利用して帰った。渓谷が落石などで通行止めになると、同林道が迂回路になる。東日本大震災のときがそうだった。今は年に一度くらいしか通らない。ハゲ山の話を聞いたからには見ておかないと――。峠付近の斜面がハゲ山になっていた=写真。
 
 磐城森林管理署のホームページで確かめる。去年(2017年)7月、入札が行われた。スギ・アカマツ・モミ・クリ・ミズナラ・コナラ・ホオノキ・サクラなどの皆伐事業だった。県道沿いの現場は10月に入札が行われた。
 
「あそこはマサ土だから」。マサ土は花崗岩が風化してできた砂のことで、もろくて崩れやすい。それで、地元の人間は“山抜け”、つまり土砂崩れを心配しているのだ。
 
 水源かん養保安林が“5円ハゲ”のようにあちこちで皆伐されると、やがては沢の下流の集落に影響が出てこないか――そんなことを思いながら、先日のあらしで杉の落ち葉が延々と続く林道を抜け、国道399号を利用してマチへ戻った。

2018年3月14日水曜日

アライグマがすみついた?

 日曜日(3月11日)の夏井川渓谷。「梅前線」はわが隠居の隣、錦展望台にまで到着していた。隠居の庭の梅はまだつぼみだ。門のそばにアセビの若木がある。こちらは花をつけ始めていた=写真。暖冬だと1、2月には咲き出す。今年(2018年)は遅い。でも、年輪を重ねた県道沿いのアセビはけっこう開花していた。
 その日午後、住民が自宅の敷地内につくった“コミュニティスペース”兼カラオケハウスで寄り合い(区の総会・懇親会)があった。連絡がきて参加した。震災後は初めてだ。4月のアカヤシオの花見を兼ねた「春日様」の祭礼と合わせ、渓谷の自然と人間の関係を具体的に知る絶好の機会だ。今回もびっくりする話を聞いた。
 
 アライグマがすみついたらしいという。至近距離で住民が目撃した。「タヌキではなかった。尾に輪っか(黒い横縞)があったから」(映画「アラモ」でジョン・ウエインがかぶっていた尾っぽ付きの毛皮の帽子を思い出す)
 
 アライグマは北米原産。近年は飼い主が捨てたり、自分でケージをあけて脱走したりして野生化し、全国で問題になっているという。いわき市では平成18(2006)年に生息が確認された(市のホームページ)。ハクビシン同様、屋根裏への侵入による糞尿などの生活環境被害が出ているそうだ。防除対象の外来生物が渓谷に現れ、すみつき、繁殖を始めたとしたら、コトだ。
 
 渓谷へ通いはじめてから23年。侵略的な外来生物をいくつか見てきた。セイタカアワダチソウは一度、岸辺のヨシ原が刈り払われ、稜線の送電鉄塔を高くするための資材置き場になったあと、生えてきた。これは、すぐヨシ原が復活して姿を消した。
 
 アレチウリは、種が風で飛ばされてきたか、上流から流れ着いたかして一部に繁殖している。のり面の種子吹きつけ工事では、イタチハギが生えてきた。籠脱け鳥のガビチョウも留鳥化して、谷間にやかましい声を響かせている。そして、今度はアライグマだ。生態系の攪乱がやまない。

2018年3月13日火曜日

サーフィン、希望の物語

 見出しには「泣かない ただいま/この浜辺に戻ったよ」とある。が、泣かせる記事だな、うまくまとめたな――。一読、そう思った。
 毎日新聞の東日本大震災関連企画のひとつ、「明日を探して」の5回目。おととい(3月11日)は、いわき市平薄磯地区で今夏、カフェ「サーフィン」を再開する女性の物語だった=写真。

 福島支局の20代の女性記者が取材した。半年前、東日本大震災6年半企画「復興断絶」の取材に、わが家へやって来た。福島から何度も足を運んだ。9月14日、5回連載の最後に「避難者と本音出し合う」というタイトルで記事が載った。

 半年前に知りあってからは、いわきへ取材に来ると、たまにカミサンに連絡をよこす。わが家へ寄っていくこともある。今度の取材では、とんぼ返りが続いた。電話をかけてきただけで終わった。別の日には、取材の一環なのか、私を指名して電話であれこれ聞いてきた。

 カフェを再開する女性を知っている。カフェの仕事の合間にパッチワークをやっている。それで、震災前からカミサンとつきあいがあった。

 2011年3月11日。彼女はたまたま大津波から逃れることができた。そのへんのいきさつは記事に詳しい。

 同年7月。日曜日にかぎって通れるようになった海岸沿いの道を行くと、海に面した防波堤のそばに、1階部分の壁は抜けながらもちゃんと立っている家があった。そこに彼女がいた。以前は家に接続して、海側に1階は車庫、2階はカフェ「サーフィン」の建物があった。それは跡形もなかった。
 
 大津波が押し寄せてきた当時の様子を生々しく語ってくれた。防波堤で津波の来るのを眺めていた住民はそのままさらわれた。義理の弟夫婦など身内を6人いっぺんに失った。

 一時、内陸部の常磐でカフェを開いた。そのころの印象。海に手ひどい仕打ちを受けながらも、海とともにあった暮らしが忘れられない。いつかは薄磯に店を再建するつもりだ、と語った。その思いがこの夏、実現する。
 
「復興断絶」よりは、というべきか、「明日を探して」はいいテンポで文章が展開している。希望の物語だからだろう。それに、この半年で若い記者は急成長した? 福島での経験はまちがいなく次のステージに生かされる。ママも、記者もがんばれ。

2018年3月12日月曜日

谷間の里の3・11

 きのう(3月11日)午後、夏井川渓谷の小集落で区内会の総会が開かれた。渓谷に隠居がある。日曜日に隠居で過ごす。週末だけの半住民にも連絡がきて参加した。世帯主8人、それに私を加えて9人の、隣組がそのまま区内会を構成する小さなちいさなコミュニティの集まりだ。
 総会からすぐ懇親会に移った。三日かけてつくったという「モツ煮」がふるまわれた。モツがやわらかい。臭くもない。お代わりしながらウーロン茶をすすった。

 7年前のこの日、東北地方太平洋沖地震(災害名・東日本大震災)がおきた。やはり、そのときの話になった。渓谷では、あちこちで落石があった。「落石注意」の道路標識が立つところだ。ふだんから小規模落石が発生している。目に見える限りで最大の落石(岩盤崩落)が、わが隠居の対岸でおきた。それは、しかし一般の人間の生活には支障がない。

 渓谷の“動脈”県道小野四倉線が通行止めになった。ロックシェッドから上流へ100メートルほど行ったところで落石がおきた。ワイヤネットがかろうじてそれを受け止めた。隠居へは迂回路=国道399号~母成(ぼなり)林道~江田=を利用した。小野四倉線と並走する磐越東線もしばらく運行が止まった。

 今は――。巨大地震のつめ跡は、わが隠居の庭の石垣の崩れをのぞいて、渓谷の集落ではひとまず解消された。放射能の影響も軽微だった。ところが今度は、別の問題が浮上した。集落の北方にある神楽山(808メートル)で風力発電計画が進められている=写真。飲み水も田んぼの水も同山が水源だ。集落の裏山までゾーンが迫っているという。まさか谷間の里のてっぺんに風車が立つようなことはないだろうな。

 以前、拙ブログにこんなことを書いた。――平成26(2014)年11月、経産相と福島県の新知事が会談し、福島県内で発電された再生可能エネルギー買い取りを東電に求めることを明らかにした。東電の送電網を活用して、関東方面に送電する、と県紙が報じていた。その後、県の産業復興計画「イノベーション・コースト構想」に基づいて、その流れが具体化しつつあるわけだ。
 
「その流れ」のひとつが、阿武隈高地東側丘陵のあちこちで展開される風力発電事業だ。谷間の里の3月11日、急に風車問題を突きつけられた気分になった。これについては、また日をあらためて――。

2018年3月11日日曜日

「かけがえのない日常」

 きょう(3月11日)は朝起きると、庭から海の方を向いて合掌した。あとはいつもの日曜日として過ごす。夏井川渓谷の隠居へ行く。午後はそこで区の総会が開かれる。久しぶりに出席する。わが家の庭のスイセン=写真=も「それでいい」と言っていた(というのはウソだが)。
 東北地方太平洋沖地震と原発事故がおきたとき、日常がかけがえのないものだと痛感した。無事であることが奇跡なのだと知った。その確認と自分の戒めとしてブログの一部を再掲する。
                     *
(3カ月後の2011年6月8日)
 ときにいがみ合い、ののしりあいながらも、家族が向き合っていた3月11日午後2時46分以前の日常がなつかしい。恋しい。平々凡々の「無事な日々」がかけがえのないものに思える。
                     *
(1年後の2012年3月11日)
 とうとうこの日がきた。ゆうべ(3月10日)は飲んでやれと思った。が、カミサンに焼酎の一升瓶を取り上げられた。

 そうだ、二日酔いで3・11を迎えるわけにはいかない。そんなことをしたら、亡くなった人たちに申し訳ないではないか。いや、そんな物言いこそが亡くなった人たちに失礼だ。

 3月に入った途端に気持ちが落ち着かなくなった。やらないといけないことがある。なのに、それが手につかない。たかだか「半壊」の家の住人でさえそうなのだから、津波で家や家族を失った人たち、原発事故に追われた人たちは、呼吸が苦しくなるほどの思いで3・11を迎えたのではないか。

「鎮魂には死者の魂を鎮めると同時に魂を奮い起こすという意味もある」。J―CASTニュースの「被災地からの寄稿」欄をのぞいていて、胸に入ってきたフレーズだ。

 岩手からの発信だが、そのフレーズを舌頭でころがしているうちに、魂が鎮められ、奮い起こされるのは、死者だけではない。生きている人間もまた鎮魂することで鎮魂されているのだ、と知った。悲しみとともにあなたたちの分も生きる、魂を奮い起こして――それがもう一つの鎮魂の意味なのではないか。
                    *
(5年後の2016年4月18日)
 あれから5年ちょっと。胸底に澱(おり)のように沈んでいる“見えないもの”への不安を除けば、震災前の日常が戻ってきたようにはみえる。が、その日常もまた、ほんとうは危険と隣り合わせなのだ。たまたま危険と危険の間をすり抜けて生き延びてきただけ――という見方もできる。3・11を経験したからこその「日常」観だが。

(中略)おおむね人の暮らしは、朝がきたら起きる――日中は仕事に就く(子どもは学校で勉強する)――夜には眠る、その繰り返しだろう。特別なことはなにもない。それこそが日常というものだ。

 当たり前の日常にも波乱はある。大事に至らずに、小事でとどまっている分には「こんなこともあった」ですむ。東日本大震災で当たり前の暮らしが「かけがえのないもの」だったことを思い知らされた。                                              *            
 満7年後の今の気持ちも変わらない。きのう(3月10日)、「あしたは3・11か」と思ったのは朝の一瞬だけ。

 カミサンが出かけたので、店番をした。茶の間に陣取りながら座業をする。合間に電話がかかってくる。店に客が来る。いちいち立っていかないと用が足せない。自営業ってこんなにせわしいものなのか、なんて思いながら過ごした。

2018年3月10日土曜日

あす、満7年

 きのう(3月9日)は春のあらしになった。雨風がたたきつけるなか、用があって街へ三度出かけた。行きと帰りに各一回、夏井川の堤防を利用した。河川敷のサイクリングロードが水没し=写真、蛇行部、なかでも対岸・山崎地内のヤナギ林には大量のゴミが流れ着いていた。
 対岸は、土砂が撤去され、河川拡幅工事が行われた結果、サッカー場ができるくらいに河川敷が広くなった。大水のたびに上流から草の種が流れ着き、芽生え、生い茂り、土砂がたまった。結果、岸辺には前より何倍ものヤナギが繁茂した。それが、ゴミをとどめる障害物になっている。

 ただの低気圧による大水でさえこうなのだから、あのときは……。東日本大震災から3週間後、いわきの南部、岩間海岸から永崎までの沿岸部の道路を通った。分厚いコンクリートの堤防が破壊され、押し流されていた。堤防・道路・民家とつらなる海辺の風景は消え、大地がえぐられ、むき出しになっていた。小浜は海側の家並みが壊れて海がざっくり見えた。小名浜、永崎でも超現実的な風景が続いていた。

 わが家は夏井川河口から5キロほど内陸部にある。沿岸部の津波被災者、原発事故の避難者に比べたら、地震被害だけですんだ“B級被災者”だ。補助金の範囲で家の一部を改修したが、基盤はひび割れたまま。茶の間のこたつに箸をおくと、西から東に転がる。家が水平ではない。知り合いの歯科医師氏は、それで自宅を新築した。傾斜のある家に住んでいると三半規管がおかしくなるのだそうだ。

 あす、満7年。B級被災者でさえ、震災7年を伝えるテレビの特集には、当時の記憶がよみがえって息が詰まりそうになる。特に、津波の映像がそうだ。これは、被災地以外の人々に「満7年の現状」を知らせる番組なのだと言い聞かせても、目をそむけたくなる。

 3・11の直後にはむしろ、何が起こったのかを知ろうと新聞をむさぼり読み、テレビを見続けた。やがてAさんの妻と孫が、Bさんのきょうだいや親せきが津波で亡くなった――そんな話が伝わってくるうちに、冷静ではいられなくなった。

 死者1万5893人、行方不明者2553人、震災関連死3523人(2017年時点)――といったような統計から東日本大震災の被害規模の大きさはわかる。が、大事なのは2万余に及ぶ人々の、個別・具体の生と死に思いを致すことだ。あの人が、この人が……。そうなって初めて、巨大地震・津波・原発事故の災禍の本質がみえてくる。

 1週間前のTBS報道特集で、「震災7年~少女が初めて見せた涙」を見た。津波で両親と姉を失った小1(現在中2)の少女が、閉ざしていた心を開いて、カメラの前で涙を流すまでの7年間の軌跡(つまりは取材の積み重ね)を追った。こういうていねいな取材には共感がもてる。やはり、「個別・具体」でないと、見ている人間の想像力には届かない。

2018年3月9日金曜日

ヤンセン展を見にアクアマリンへ

「3・11」は、私のなかではいろんなビフォー・アフターの“計り”になっている。人生の画期のひとつであることはまちがいない。あのとき、孫は3歳と1歳だった(今は小4と小2)。野生キノコは以来、「採る」から「撮る」に変わった。
 日曜日(3月4日)に小名浜のアクアマリンふくしまへ行って来た。「震災後は初めてだね」。カミサンのことばにうなずく。あとで、2013年10月、中学校の同級会がハワイアンズで開かれ、翌日、アクアマリンを訪れたことを思い出す。私は二度目だった。(ビフォー・アフターの計りは、二日酔いなどでときどき狂う)

 テオ・ヤンセン展が土曜日3日、アクアマリンで始まった。プラスチックの円管でできた恐竜化石のようなオブジェが風を受けて砂浜を動くテレビコマーシャルを見て、深く胸に刻まれた。それが、やって来る。実物をこの目で見たい――というわけで出かけたのだった。

 入り口が前と違って駐車場の近くになっていた。入館して昔の入り口に近づくと、人ごみの中に見た顔があった。息子一家だった。予感はしていた。

私は、展覧会にはよく行く方だと思う。そんな親に連れ回された息子にも「子どもに見せたい」思いが伝播したのだろう。初日でなければ2日目の日曜日、家族で来ているはず――そのとおりだった。

 上の孫がカメラを首から提げていた。ジイ・バアを撮ってくれた。私もお礼にみんなの写真を撮る。出る・入るだったので、ちょっと話して別れた。

 エントランスホールにヤンセンの作品が展示されていた=写真。屋外の蛇の目ビーチにでも展示して、小名浜の潮風に当たって動いているのだとばかり思っていたが、“静態展示”だった(けさの福島民報で知ったが、エアコンプレッサーで作品を動かす時間もあるらしい)。では、魚を見て帰るか。カミサンはクリオネに、私はチンアナゴに引かれた。チンアナゴは鉛筆のように細くて小さかった。

 周りには幼児から小学生までの子を連れた若い親が多かった。子どもの反応が面白い。本館を出て駐車場へ向かう途中に築山がある。夏にはクズが繁茂するのか、「クズ」の表示があった。それを見た小学生の女の子が父親に言う。「人に言ってはダメなことばが書いてあるよ」

 父親は歩きながら娘に説明したにちがいない。「くずはくずでも植物のクズのことだよ。夏にはこの山がクズの葉で覆われる。それをまた見に来ようか」。女の子はこの日、「くず(屑)」と「クズ(葛)」の違いを胸に刻んだことだろう。

2018年3月8日木曜日

ハクチョウは北へ


 庭のジンチョウゲの花が咲き出したと思ったら、夏井川からハクチョウの姿が消えた。わが生活圏内の越冬地、平・塩地内には極寒期の1月中旬、ハクチョウが150羽ほど羽を休めていた。きのう(3月7日)夕方、堤防を通ったら1羽もいなかった=写真。
 
 日が長くなるにつれて数が減っていた。そろそろだなと思ってはいた。冬から一気に初夏がきたような日曜日(3月4日)の暑さには、羽毛をまとっているハクチョウもこたえたろう。そのときには十数羽になっていた。
 
 ハクチョウがいきなり姿を消したときがある。7年前の2011年3月11日午後2時46分、東北地方太平洋沖地震が発生する。その数十分後、津波が夏井川をさかのぼってきた。まだ去りかねていたハクチョウたちが波に驚いて一斉に飛び立った。

毎日、ハクチョウにえさをやっていたMさん(故人)から聞いた「ハクチョウたちの3・11」だった。対岸の山寺にいた次男の同級生も、夏井川をさかのぼる津波を目撃している。
 
 3・11は文字通りの「天変地異」だった。北帰行の時期に変異を察知し、いのちの危険を感じたからこそ、ハクチョウはそのまま飛び去ったのだろう。が、秋にはいつものように飛来して、鳥見人(トリミニスト)を安心させた。
 
 以来、ハクチョウの北帰行は、この3・11が目安になった。3・11より早い・遅い――そう比較しながら、ハクチョウの姿が消えた日を記録する。
 
 ただ、最初に現れた日と違って、最後の1羽が飛び去った日を確定するのは難しい。北上中のハクチョウが南からやって来て、一時羽を休めることがある。1回か2回はそんなことを繰り返す。で、個人的にはとにかく最初に姿が消えた日を北帰行の日と定めている。

2018年3月7日水曜日

吉野せいと川前


 古巣のいわき民報に月初めの月曜日、「あぶくま、星の降る庭」と題して、阿武隈高地の自然と人間の営みについて書いている。58回目のおととい(3月5日)は、いわき市川前町の縄文晩期・葵平(あおいだいら)遺跡に触れながら、吉野せいが若い日、八代義定に連れられてそこを訪れたのではないか、ということを書いた。
 
 いつもはブログから新聞に“転載”するかたちを取っているのだが、今回は初めて、新聞からブログに“転載”する。写真は2009年11月1日に撮影した夏井川渓谷のものに替えた。                 
       <あぶくま、星の降る庭58・葵平遺跡>
 
 それぞれの年譜を照らし合わせると、大正9(1920)年のことにちがいない。小名浜の若松せい(晩年、『洟をたらした神』を書いた作家吉野せい)が、同年、福島県史跡名勝天然記念物調査委員会委員史跡担当になった八代義定と川前を訪れたのは。
 
 このとき21歳のせいは、義定の自宅(鹿島)の書斎「静観室」に通い、思想書や哲学書、文学書を読みあさっていた。
 
「八代氏は私をつれて、よく貝塚や土器の発掘に立ちあわせた。ある日は川前まで遠征して、帰途は人影もない夏井の渓流沿いに小川村まで歩いたこともある。水は海しかみていない私は、渓谷の美しさを、水の清らかさをはじめて見た」(『暮鳥と混沌』)

 同時期、静観室で、開拓農民で詩人の吉野義也と会う。義定が仲を取り持った。2人は翌10年に結婚する。

 先日、『橘月庵遺文 根本忠孝遺稿集』(同遺稿集刊行会、平成17年)を読んでいて、せいが川前のどこを訪ねたのか、わかった(ような気がした)。

 忠孝は川前の考古研究家だ。大正7年、自宅のある川前・下桶売字高部地区で縄文晩期の「葵平(あおいだいら)遺跡」を発見する。遺跡の前を葵川(鹿又川)が流れている。
 
 遺稿集には義定来訪の記録はないが、義定がせいを連れて川前へ遠征したのは、葵平遺跡を見るためではなかったか。
 
 せいの文章から、行きは開通して3年ほどたつ磐越東線を利用して川前駅で降り、帰りは徒歩で鹿又川に沿って川前へ戻り、夏井川渓谷を下って小川郷駅から列車に乗った――そんな道行きが想像できる。

2018年3月6日火曜日

伝承郷収蔵品展


 これも“平・本町通り物語”のひとつだろうか。一町目横町の「カフェタヒラ(ときにカフェータヒラ)」の話だから、きのう(3月5日)アップした平郵便局の話の続きのようなものだ。
 いわき市暮らしの伝承郷で3月25日まで、企画展「伝承郷収蔵品展 いわきのいろいろ」が開かれている。旧知の副館長さんから「大正15年と思われる職業別明細図を展示しています。一町目あたりにカフェタヒラが載っています」という連絡が入った。日曜日(3月4日)に朝一番で出かけた。

 カフェタヒラは、私のなかでは「いわきの大正ロマン・昭和モダン」を彩る重要なスポットだ。大正12(1923)年11月13日付常磐毎日新聞に載った広告を見ると、店は当初、「平町紺屋町(住吉屋本店前)」=現せきの平斎場の西隣付近にあった。カフェとあるが、西洋料理を出した。

 同じころ、平・三町目1番地には「乃木バー」があった。こちらも西洋料理店だ。大正14年3月10日付常磐毎日新聞に「平町西洋料理業組合」の設立広告が載る。いろは順に16店舗が並ぶ。なかに「カフェータイラ」と乃木バーがあった。

 スペイン在住の草野弥生さんは乃木バーの係累(孫)だ。東日本大震災の1カ月後に起きた巨大余震で実家の庭に亀裂が走り、母屋もレンガ造りの蔵も解体せざるを得なくなった。一時帰国後、ダンシャリの連絡を受けて夫婦で駆け付けた。乃木バーの遺品がいろいろ出てきた。

 なかに、木綿の紺地に赤く「のし昆布」が描かれ、「せ里ざわ自動車店より 乃木左(さ)ん江」という文字が書きこまれた横断幕があった。伝承郷に寄贈した。残念ながら今度の収蔵品展には展示されていなかったが。

「せ里ざわ自動車店」、つまり芹沢自動車は昭和3(1928)年創業のバス会社だ。平・三町目に本店があった。乃木バーとは同じ町内だ。乃木バーは、大正10(1921)年には営業していたから、「開店10周年」を記念して贈ったものか(と、これは私の想像)。

 カフェタヒラの話に戻る。大正14(1925)年9月9日付常磐毎日新聞。「詩の会を開く」という小さな見出しで「平町及び付近の詩歌愛好家は8日午後7時から平町二丁目カフェータヒラに於て詩の会を開き何人でも入場を歓迎するが会費は金五十銭で自作詩の朗読詩についての感想研究をなすと」とある。開拓農民吉野義也(三野混沌)や、中国から帰国したばかりの若い無名の草野心平が詩を朗読した。

 当時の夕刊紙は翌日の日付で新聞を出した。つまり、9日付は8日夕刊だ。夕刊を読んで店に行く“詩人”がいたかもしれない。ただし、「二丁目」は「一町目」の誤植か記者の誤認だろう。

 カフェタヒラが平・一町目横町に移ったのはいつか。「詩の会」の記事からすると、大正14年にはすでに本町通りの一町目で営業している。それ以前のことになる。犬も歩けば詩人に当たる――というのが、当時の平町の文化的状況だった。カフェタヒラは詩人の巣窟、いや解放区だったか。

 地図は「大日本職業別明細図之内 信用案内 福島県」(大正15年、東京交通社)といって、今は廃業した常磐湯本町の菓子店が創業100年を記念して複製したものらしい。平町の本町通り・一町目南側の並びにカフェタヒラがある(今のひまわり駐車場の東隣あたりか)=写真。

 ずっと頭に引っかかっていたカフェタヒラの場所が、これでわかった。しかし、昭和に入って何年かたつと、新聞記事に「平カフェー」(平カフェ、タヒラカフェー)が出てくる。カフェタヒラと同じなのか、まったく別の店なのか。次はそれをはっきりさせないと――。

2018年3月5日月曜日

平郵便局の写真だった


 ざっと100年前。正確には明治43(1910)年だから、108年前に撮影されたものか。モダンな洋風建築物の平郵便局(現いわき郵便局)=写真=が写っている。その建物の落成式典後の記念写真とみた。
 明治5(1872)年7月、平・二町目に郵便取扱所ができる。同37(1904)年10月には田町に移転し、39年、「平大火」に遭遇、焼失する。同・三町目に仮局が設けられ、43年5月、同じ三町目に本格的な局舎が完成する――明治時代の平郵便局の沿革だ(『絵はがきの中の「いわき」』=いわき未来づくりセンター、2009年)。

 磐城平時代の詩人山村暮鳥と地元の若い仲間の人となりを知りたい。同時に、当時の町の様子も――という思いが強くて、いろいろ調べている。それでわかったことのひとつが、大正初期、暮鳥が出入りしていた三町目・十一屋は、明治時代には分家を含めて3軒あったということだ。

 本店・十一屋の向かいに染物十一屋、四町目に分家の染物のち料理店十一屋。三町目・染物十一屋の子孫でもある知人から、古い写真と戸籍簿などを借りた。その中に平郵便局の写真があった。

 建物の前方には門松を連想させる式典用の飾り門、玄関の軒下には「落成式」の張り紙。飾り門と玄関の間に招待客らしい、はかま姿の男性たちが並んでいる。写真の裏には、染物十一屋の当主(知人の祖父)の筆で三町目の商店主と思われる23人の名前が書かれている。

 この写真の建物が平郵便局だとわかるまでには少し時間がかかった。『目で見るいわきの100年』(郷土出版、1996年)では、写真と同じ建物が「磐城・磐前・菊多郡役所」となっている。『いわき市史 第6巻 文化』(1978年)では、『目で見る――』で「平郵便局」となっている建物が「郡役所」だ。いったいどっち?

 きのう(3月4日)、ひょんなことから『絵はがきの中の『いわき』』を見て、「郡役所」ではなく、明治43年に落成した「平郵便局」だとわかった。『目で見る――』は写真の張り違いだった。
 
 郷土史関係の資料をあさり、分野の違う人たちと情報を交換しているうちに見えてくるものがある。拙ブログ2月13日「『十一屋』は3軒あった」、同18日「明治39年の大火」、同24日「112年前の大火で引っ越した一家」は、そうしてわかったことを書いた。きょうの写真の話もそうだ。人には会ってみよ、話を聴いてみよ――である。

2018年3月4日日曜日

北海道のビルマ豆


 ちょうど去年(2017年)の今ごろ、在来種の豆を調べている長谷川清美さんという女性が、いわきの在来小豆「むすめきたか」を調べに来た。私のところに問い合わせがあって、いわき昔野菜保存会の仲間を紹介した。仲間が生産者の住む三和町へ案内するのに同行した。
 長谷川さんから『べにや長谷川商店の豆料理』(パルコ刊)をいただいた。同商店は北海道にある彼女の実家で、本は長谷川さんが2009年に書いた。2015年で「第9刷」とあった。ロングセラーの豆料理本だ。

 まず、インゲンマメの種が登場する。北海道に数多く存在する在来種の豆のほとんどがインゲンマメ系だという。ビルマ豆もあった=写真。「むかし小豆が不作だった年、小豆のかわりに餡(あん)の材料に使われたといいます。比較的収量もあり、ご飯といっしょに炊くビルマ豆ご飯は北海道の郷土食です」
 
 生産者の声も載っている。彼女が取材した2008年時点で88歳だった女性。「ビルマ豆は病気や冷害に強い」「小豆は売り物で、もっと安いビルマ豆は自家用の食べ物だった」。ビルマ豆を煮てマッシュ(つぶして裏ごし)し、塩餡にしたものをそば粉で練った生地の中に入れて、丸めて団子にしたそうだ。

 大正14(1925)年4月、開拓農民として現いわき市好間町から北海道へ移住した詩人猪狩満直が、故郷の盟友・三野混沌(吉野義也)に手紙を出す。

「ここ二ヶ月というものは粉骨砕身、文字通りの生活だった。殆ど時間空間の意識もないはげしい労働の中に躯(からだ)を投げ込んでいた。予定通り二町歩の開墾終了。稲黍(いなきび)、ビルマ豆(菜豆=さいとう)、ソバまいた。(略)秋の霜害がなかったらこれで飢える心配はない」(吉野せい『洟をたらした神』所収「かなしいやつ」から)

 稲黍、ソバはともかく、ビルマ豆ってなんだろう。このところずっと、ビルマ豆が頭の中で残響していた。なにかヒントがあるかもしれない――長谷川さんの本を思い出してパラパラやったら、ヒントどころか答えが載っていた。

 今でこそ北海道は新潟県に次ぐ米の生産地だが、大正時代にはまだまだ稲作地域は限られていた。代わりに、稲黍とビルマ豆、ソバを栽培して、家族を養おうとしたわけだ。

 満直の未刊詩集『開墾地風景』に「イナキビ御飯」が出てくる。米に稲黍をまぜたご飯だったか、稲黍だけのご飯だったかはわからない。が、郷に入れば郷に従えで、満直一家は次第にビルマ豆ご飯やビルマ豆のそば団子といった北海道の郷土食になじんでいったのだろう。

2018年3月3日土曜日

逃げないヒヨドリ

 
 このごろの、わが家の庭の光景――。車で外出から戻ると、ヒヨドリがいる。人間の姿を見ただけで逃げる野鳥も、車には警戒心が薄い。すぐそばに止まっても、ヒヨドリは地面から動かない。別の日には、ジンチョウゲの枝に止まったままだった。
 運転席から1.5メートルほどの至近距離だ。しばらくパチパチやったが、目に星(キャッチライトというそうだ)が入っているのはこれ1枚だけだった=写真。

 冬は、いきものにとってはえさが極端に少なくなる試練のとき。夏井川渓谷の隠居で家庭菜園を始めて知ったのは、鳥たちの容赦のなさだった。白菜が1~2月、あらかたヒヨドリにつつかれて穴があいた。鳥たちは畑の持ち主をおもんぱかる、なんてことはしない。そこに食べ物がある以上はなくなるまで群がる。必死なのだ。

 縁側のコンクリートのたたきに、カミサンがネコのえさを置く。ヒヨドリは、それが目当てだ。縁側とガラス戸1枚を隔てた茶の間で座業をしていると、背後でカサコソ音がする。そっとガラス戸越しにのぞく。ヒヨドリがアルミ箔(はく)の丸鍋に残っているネコのえさをついばんでいた。スズメが群がっているときもある。

 わが家族は、私以外は“ネコかわいがり”派だ。物置の軒下にえさを置いていたときには、ネコが去るとカラスがやって来た。ムクドリも毎朝やって来てはギャーギャーいう。柿の実がなくなったのになんでムクドリが? ネコのえさが目当てだった。これはまずい、だめだ――カミサンにいって、人間の領域に近い縁側のたたきでえさをやることにした。

 おかげで、カラスは姿を消した。ムクドリも来なくなった。ヒヨドリだけは相も変わらず通い続けている。えさがちょうどいい大きさなのだろう。

2018年3月2日金曜日

文芸誌「風舎」第12号


「いわきの総合文藝誌」と銘打った同人誌「風舎」第12号(3月1日発行)=写真=を手に取りながら、いささか複雑な思いになった。
 いわきの文学賞「吉野せい賞」の第40回受賞全6作品が載っている。去年(2017年)までは、トップの作品がいわきの総合雑誌「うえいぶ」に掲載された。その「うえいぶ」が50号をもって休刊した。42号から編集を担当した。休刊の編集後記を書いて1年。受賞作品をこの手で扱いたかったという寂しさがよぎる。

 2011年発行の「風舎」第6号から、「うえいぶ」掲載作品以外の受賞作品が載るようになった。2008年から吉野せい賞作品の選考にかかわっている。1編しか活字にならないのは残念――そう思っていたので、全作品が活字になるのは喜ばしいことだった。なかでも印象に残っているのが、青少年特別賞の「銀色のとびらを越えて」。作者はそのとき中1女子だった。今は大学生か。

 さて今度の「風舎」だが、受賞作品に先立って同人の作品が載る。わたなべえいこさんの詩集「ここは海だったんですよ」10編(第70回福島県文学賞詩の部正賞)が巻頭を飾った。

 表題と同じタイトルの作品の一部。「ここは海だったんですよ/だから/私が海の中に住んでいるのも/自然なことなのです/生活用品にも/なにひとつ不自由さは感じていません/すべてそっくり海に沈んだだけですもの/海底には/津波の影響をうけた住宅が/逆さになってひとつの町ができ/遊園地は/行方不明の子供達が遊び/お父さんは/ネクタイをして泳いで出社/お母さんの捌いた魚が/まな板の上にのっている」

 沿岸部に住んでいて津波で亡くなり、行方不明になった人々への痛切な思いが、しかし綿あめのようにふんわりとつづられる。それが、かえって深い悲しみを誘う。

 もう1編。「夢」には、私小説ならぬ“私詩”的なものを感じた。「心に境界線が引かれ/会話も遠のいていた」義兄だったが、一周忌の朝、夢に笑顔であらわれた。それで「それまでの葛藤が消え」た。作者も義兄も知っている。“私詩”と感じたゆえんだ。後味がよかった。

 実は先日、わたなべさんからこの「風舎」の恵贈にあずかった。で、書店で販売しているのを確かめて、感想をつづりたくなったのだ。個人的にはわが青春と交差する、せい賞準賞のノンフィクション作品「熱源~いわき市民ギャラリーとその時代」をぜひ読んでほしいと思う。

2018年3月1日木曜日

今度は「関係人口」?


 農文協の「季刊地域」第32号(「現代農業」2月増刊号)をパラパラやっていたら、「関係人口」という言葉に出合った。
 命名者の一人によると、「『地域に関わってくれる人口』のこと。自分でお気に入りの地域に通わなくても何らかの形でその地域を応援してくれるような人たち」も含まれるのだそうだ。一例として、特産品購入→ふるさと納税→ひんぱんな訪問→二地域居住と「関わりの階段」を上って、最後は移住に至る。

 もう20年以上前になる。やはり農文協の雑誌を読んでいて、田舎暮らしのかたちとして「定住」のほかに、「定来」「定留」という言い方があることを知った。「定来」は日帰り、「定留」は一泊から数日泊のイメージだろうか。

 そのころ現役だった私は、土曜日の夜、ひとりで夏井川渓谷の小集落にある隠居に泊まり、日曜日朝、一番列車でやって来るカミサンを江田駅まで迎えに行って、夕方には帰る、という暮らしをしていた。
 
 土いじりと森巡りを楽しんだ。渓谷の区内会にも入った。渓谷では3月最後の土曜日に総会が開かれる。終われば酒宴に移る。新聞記者にはそれが楽しみだった。山里の不思議な話が続く。酔いながらメモをとり続けた。
 
 定来・定留・定住からいうと、定来を越えて定留、週末だけ谷間の半住人、と自分を規定した。地元からみれば、もとからの人間(当時十数人、今はそれよりさらに少ない)のほかに、週末だけ人間が2人増える、ということになる。

「定来・定留・定住人口」のあとだったろうか、「交流人口」という言葉が流通するようになったのは。そして、今度は「関係人口」だ。年に3~4回、三和町の直売所「ふれあい市場」へ出かける=写真。地元からみたら、私も関係人口の一人ということになる。長期滞在をして地域のためにボランティア活動をしている若者たちもそうだろう。

 震災後、いわきとの関係性を強めた人を何十人も知っている。これも含めると、いわきの関係人口は100万人、いや数字ではあらわせないくらいに多いのではないか。

 田舎暮らしでいえば、定来→定留→定住と階段を上がるようにその密度が濃くなるわけではない。定来にとどまったり、定留から定来に戻ったりと、その人のなかでも違いがある。原発事故が起きた結果、定住さえままならなくなった――それが7年前の阿武隈高地の田舎暮らしの姿だった。
 
 関係人口論でいう関わりの階段も同様だろう。現実はジグザグなのだ。第二の人生を田舎で――とカジを切った団塊の世代にさえ変化があらわれる。土いじりを楽しんだ60代の次にくるのは、肉体的に田舎暮らしがしんどくなる70代だ。やがてマチへの再帰還が始まる……。私自身の近未来でもある。

 会社を辞めると、誘われてマチの区内会の役員になった。平日・日曜日の区別がつかなくなったうえに、土曜日の行事が増えた。渓谷へは日曜日の朝出かけて午後には帰る定来に後退した。マチの区内会の総会は3月最後の日曜日と決まっている。その準備もあって、渓谷の総会には欠席するようになった。

 そのためかどうか、今年(2018年)は半月前倒しで11日の午後2時から開催するという。日曜日だ。隠居へ行くので欠席する理由がない。いや、私が出席できるように取り図ってくれたのだろう。関わりの度合いは定来でも定住並みに扱ってくれる。また面白い話が聞ける。ありがたいことだ。