2018年3月23日金曜日

「一町目横町」のカフェタヒラ

『目で見るいわきの100年――写真が語る激動のふるさと』(郷土出版社・1996年)に、「カフェタヒラ」が載る=写真。大正14年の撮影とある。この写真の場所はどこなのか、ずいぶん前からわからずに悶々としてきた。太陽光線の影が決め手になる。東西だったら午後の日差し、南北だったら昼前の日差し――。
 大正12(1923)年11月13日付常磐毎日新聞に載った広告を見ると、カフェタヒラは当初、平町紺屋町(「住吉屋本店前」というから、現せきの平斎場の西隣付近)にあった。そのあと、「一町目横町」に移る(ふと思ったが、それは経営者が同じという前提に立ってのことだ。違う可能性も否定できない)。
 
 前にも書いたが、その横町がわかった。いわき市暮らしの伝承郷で、あさって(3月25日)まで「伝承郷収蔵品展 いわきのいろいろ」が開かれている。なかに「大日本職業別明細図之内 信用案内 福島県」(大正15年、東京交通社)の複製が展示されている。平町・一町目の本町通り南側に「カフェタヒラ」の文字が見える(今のひまわり駐車場の東隣あたりのようだ)。

 平の本町通りは東西に延びている。横町はそれと交差して南北に延びる。その角にカフェタヒラがあった。本町通りの建物は間口が狭く奥行きが長い。カフェタヒラのような横長の建物が本町通りにあるとは思えない。横町の角なら同じスペースでも横長に利用できる。つまり、カフェタヒラは南北に長い東向きの建物で、横町沿いに出入り口があった。日光の影もそれで説明がつく。

 やっと写真についてあれこれ想像することができる。――店は2階建て。屋根には「(サッ?)ポロビヤホール」の看板。2階の窓には、欧米の街角を行くテレビの旅番組でよく見かける花台・手すり。真ん中の窓ガラスには「カフェータヒラ」と「西洋御料理」の文字。1階は、通りに自転車立て。出前用らしい自転車が1台止まっている。入り口の前には木製のプランターが二つ。若い針葉樹が4本ほど植わっている。一種の目隠しなのだろう。

 大正14(1925)年9月8日夜、会費50銭で詩の会が開かれ、開拓農民吉野義也(三野混沌)や、中国から帰国したばかりの若い無名の草野心平が詩を朗読したのは、この建物の2階ではないか。

『目で見るいわきの100年』では、カフェタヒラについて「大正から昭和初期にかけて、客の接待をする女給のいた西洋風の酒場である」と説明している。

 カフェタヒラに関する当時の新聞記事と、カフェタヒラが出した新聞広告を照らし合わせてみる限り、「西洋風の酒場」と言い切るのはどうかと思う。そういう一面もあったが、本筋は西洋料理店で、「酒場」、つまり風俗営業の色合いが濃くなるのは昭和に入ってからではないか、という感じがしてきた。

 大正時代の広告は「カキフライ1枚20銭」(紺屋町の時代)、「牛なべ 上なべ 一人前40銭」(一町目横町に移ってから)などと、洋風料理の値段の宣伝がほとんどだ。昭和2年11月には、財界が不況なので値下げを断行、といった広告も載る。カツレツ・メンチカツ・カレーライスなどみんな20銭――。

 やがて、カフェは風俗取り締まり対象の店になる。記事の見出しだけ紹介する。「私服密行して……/夜の街を取締まる/酌婦とカフェーを/五日夜平町を始め一斉に」(昭和4年10月8日付常磐毎日新聞)。これはカフェ一般について書いたものだが、こんな記事もある。「カフェータヒラの美人女給/実は家出のお尋ね者/福の神を奪はれてがっかり」(同4年10月2日付磐城時報)「カフェーの主人と女給/七名処罰さる/客に対し酌婦行為をして」(同10月26日付磐城時報)

「カフェ」といっても、カフェタヒラは最初から風俗営業の店ではなく、アルコールも飲ませる洋風料理屋としてスタートしながら、時代の波にもまれて女給の接待で売る「酒場」性を強めていった――ということだろう。

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