2018年4月30日月曜日

三つ葉入り雑煮もち

 夕刊のいわき民報でいわき市三和町の直売所「ふれあい市場」の<春・元気まつり>を知った。「昭和の日」の4月29日朝9時半から、「三つ葉入り雑煮もち」と「生産者自慢の一品料理」をふるまう――。試食サービスに目がくらんで、朝ご飯を食べずに出かけた。
 ほぼ5カ月前、師走最初の日曜日(12月3日)朝、夏井川渓谷の隠居へ行く前に、山をはさんだ「ふれあい市場」へ直行した。「暖暖まつり」が開かれた。けんちん汁(いわき地方では味噌仕立て、いわゆるトン汁)と生産者の一品料理をふるまうというので、やはり朝ごはんを食べずに出かけた。自分のブログで確かめた。われながら恥ずかしい。

 栽培ウド・ウルイ(ギボウシ)・梅干し・フキの油いため・あんこもち・じゅうねんもち……。まずは買い物をする。予定より30分早く、9時には夫婦で試食サービスの第1号、2号客になった。一品料理の子芋の煮っころがし・寒天のパイナップルあえ?・ウドとフキの油いため・たくあん・ウルイの酢みそあえ、その他。そこに吸い物の三つ葉入りの雑煮もちが加わる=写真。

 雑煮を食べ始めたら、次々にシルバー夫婦が試食コーナーに現れた。見ると、駐車場に車が並んでいる。8時50分ごろには4、5台だったのが、わずか10分で満パイ状態になった。

 今はマチ場に住んでいる。が、農山村で生まれ育ったという人が多い。春は親が採ってきた山菜を食べ、秋は同じようにキノコを食べた。マチ場とは違ったおふくろの味。とりわけ、団塊の世代から上の人の味蕾(みらい)には、農山村の食文化の記憶が色濃く刻まれている。で、私らと同様、試食サービスに引かれて車を走らせた夫婦が多かったのではないか。

「ふれあい市場」の側には、大型連休で遠出するマチ場の人たちを少しでも呼びこみたい、という思惑がある。シルバー世代は、長距離ドライブには二の足を踏む。三和地区は、平のマチから車でおよそ30分圏内だ。この30分が大きい。あれこれ考えないですむ。「安・近・短」でドライブ気分を味わえる。

「ふれあい市場」で朝めし代わりの雑煮もちを食べたあとは、山を越えた夏井川渓谷の隠居で、Tシャツ一枚で土いじりをした。大型連休2日目の日曜日、「昭和の日」は快晴・薫風の、気持ちのいい一日だった。

2018年4月29日日曜日

朝日歌壇の選者回顧

 新聞歌壇・俳壇は時代を映す鏡のひとつ。東日本大震災と原発事故が起きたあと、しばらく「新聞歌壇・俳壇」をウオッチした。
 庶民は災禍をどう受け止めたのか。朝日歌壇に最初の震災詠が現れたのは2011年3月28日。<二日目につながりて聞く母の声闇の一夜をしきりに語る><陸地へとあまたの船を押し上げし津波の上を海鳥惑う><原発という声きけば思わるる市井の科学者高木仁三郎>。それはしかし、被災地から離れた土地に住む人たちの作品だった。

 被災者自身の作品が登場するのは4月に入ってから。それからさらに1カ月後の5月16日、いわき市在住読者の俳句<被災地に花人のなき愁いかな>(斎藤ミヨ子)と、短歌<ペットボトルの残り少なき水をもて位牌(いはい)洗ひぬ瓦礫(がれき)の中に>(吉野紀子)が目に留まった。

 短歌の評。「小名浜の人、仏壇にあった位牌を瓦礫の中から拾い上げた。飲み水も乏しい中でペットボトルの水で洗う。絆への切実な思いが伝わる」(馬場あき子)――。

 おととい(4月27日)の朝日「文化・文芸」欄で、朝日歌壇選者歴40年の馬場さんと同30年の佐々木幸綱さんが対談し、この40年の歌壇代表作を社会や時代の変化のなかで取り上げていた。2011年の「東日本大震災、原発事故」には2首。1首が<ペットボトルの……>だった=写真。

 作者の吉野さんはカミサンの高校の同級生だ。3年前の2015年6月中旬。シャプラニール=市民による海外協力の会が扱っているフェアトレード商品のPRと販売を兼ねて、カミサンがアリオスパークフェスに出店した。たまたま吉野さんが来場した。30年ぶりの再会だった。何日かあとの夜、電話で長々と話をしていたようだった。

 そのあとの、カミサンの話。吉野さんは俳句を詠む。が、震災直後はなぜか<ペットボトルの……>の短歌が生まれた。それを「朝日歌壇」に投稿すると、複数の選者が選んだ。年間の優秀作品に贈られる「歌壇賞」にも選ばれた。

 自分自身の体験ではなく、大津波で壊滅的な被害を受けた豊間方面へ出かけ
たときの実景を詠んだそうだ。3・11の巨大地震は東北地方の沿岸部に甚大な被害をもたらした。その惨状は五七五では詠みきれない、プラス七七が必要だったのだろう。

 私らは内陸部に住んでいるから、沿岸部の“地獄”はほんの一部しか見ていない。が、<ペットボトルの……>には被災者すべての感情を代弁する悲しみが感じられた。

 ついでにいうと、俳句にすぐ現れた<原発忌>や<福島忌>、あるいは一般の文章の<フクシマ>には、私は同意しない。2011年7月30日付の拙ブログを一部再録する。今も同じ気持ちだという意味を込めて。
                 *
 年4回発行の浜通り俳句協会誌「浜通り」第141号が届いた。<東日本大震災特集号>である。多くの俳人が3・11の体験を記し、句を詠んでいる。招待作品も載る。通常は50ページ前後。それより十二、三ページ多い。渾身の編集だ。

 招待の黒田杏子さんの作品に「原発忌福島忌この世のちの世」があった。「原発忌」と「福島忌」。新しい季語だ。「原爆忌」は夏(ヒロシマ)、秋(ナガサキ)。「原発忌」「福島忌」は3月11日。春(フクシマ)の季語、というわけだ。

 同誌所収の黒田さんのエッセーに、選を担当する「日経俳壇」に掲載した句がいくつか紹介されている。「おろかなる人知なりけり原発忌」「広島忌長崎忌そして福島忌」。早くも外野の人がおかしなこと(造語=季語)を詠みだした。

 新季語にやりきれない思いがわいてくる。外部から、ヒバク地に住んでいるのだという認識を強いられる。季語の消費ではないか――俳句の門外漢は静かに、しかし気持ちは激しく逆らってみたくなる。

2018年4月28日土曜日

ファクトを支える集合知

 さきおととい(4月25日)、拙ブログで江戸時代、磐城平の城下町と外海を結ぶ水上交通システムがあったのではないか、ということを書いた。
 すると、天明の大飢饉のあとの寛政元(1789)年に描かれた絵地図を所蔵するAさんから、「ここでつながっている」と、絵地図の写真付きでコメントをもらった。平城の外堀と、さらにその南の外堀を兼ねた新川とが、城下町の西端、土橋(今の才槌小路付近)~鍛冶町の水路でつながっていた=写真。

 もう一人、若い仲間が①(土橋~鍛冶町の水路の橋は)絵地図でも太鼓橋②(幕末、片寄平蔵が新川上流の内郷白水で石炭を発見する。のちに、領内の年貢米積出港として四倉の仁井田浦に港を築く。年貢米だけでなく、石炭積出港にも利用しようとした? そのルートとして)白水―新川―夏井川―横川―仁井田浦―銚子―横浜を想定?、というコメントを寄せた。

 太鼓橋は、小船が通れるように架けられたのではないか。港までの石炭運送も、馬で石炭を詰めた叺(かます)を振り分けにして運ぶより、河川交通の方が合理的ではないか。そういう視点、仮説もあり、だろう。

 ほかの絵地図も見た。いわき市文化財に指定されている「正保城絵図」(個人藏)には、外堀としての新川はまだ描かれていないが、今の南町あたりを堀が東西に伸びている。

 内藤家が延岡に転封後、家臣が故郷を思い出して描いた「奥州磐城平城下絵図」(個人藏=市指定文化財)には、開削された新川と南町の堀のほか、城直下の外堀から東に伸びる堀が見える。本町通りをはさんだ二つの堀は城下東側で愛谷江筋と連結している。Aさん所蔵の絵地図にも南町の堀が描かれている。

 荒川禎三『明治百年史』(マルトモ書店、1966年)にこんな記述があった。「平町には下水道がなかった。新田町(紅小路)や南町通り(略)は用水堀であった。愛谷堰(江筋の勘違い?)から五丁目にひき、そこから一丁目に向けて流した。(略)雑用水はこの溝川であった。東から西へ、自然の川の流れとは正反対であった」

 いろいろ情報を重ねてみると、平の城下町には堀のネットワーク(運河を兼ねていたかどうかはともかく)ができていた。

 ついでに、もうひとつ。きのう、「いわきとガンダム」の話を書いたら、いろいろ貴重なコメントが届いた。あいまいだったモノゴトの輪郭がはっきりした。「いわきとガンダム」の関係がより明瞭になった。「いわきはガンダムのまち」と言ってもいいのではないか、という思いを強くした。

 いずれのコメントもフェイスブックを介していただいた。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は、「フェイク」を拡散・増殖させる負の面もあるが、本来は集合知による「ファクト」の共有を目指すものだろう。活字メディアでは味わえなかった、リアルタイムでの反応に感謝したい。

2018年4月27日金曜日

いわきとガンダム

 週末の夜、平の街で30~40代の若い仲間と飲んだ。なにがきっかけだったか、アニメの「機動戦士ガンダム」の話で盛り上がった。とはいえ、私はほぼ「かやの外」だったが。
 私が子どものころ、ヒーローといえば、漫画雑誌に連載された「月光仮面」や「赤胴鈴之助」。「月光仮面」はテレビドラマ化され、「赤胴鈴之助」もラジオドラマや映画になった。
 
「ガンダム」は、息子が子どもののころ、放送が始まった。息子はすぐ夢中になった。ガンダムのプラモデル、いわゆる「ガンプラ」が今も家に残る。
 
 まだアニメがセル画(セルロイドの透明シートに描かれた絵)でつくられていたころ――。平にガンダムのセル画を描く、下請け工房のようなところがあったそうだ。飲み仲間の1人が高校生のとき、ごみとしてセル画が出されていた。「もったいなかったなぁ」。もう1人は同じ理由かどうかはわからないが、「いわきをガンダムのまちにしたい」という。
 
 それなら、まず「いわきを月光仮面のまちに」だな――。若い仲間の話に耳を傾けながら思ったものだ。
 
 元福島民報記者遠藤節(俳優中村敦夫の父親)が独立して、平で「三和新報」、のちに改題して「夕刊ふくしま」を発行した。「月光仮面の」作者・川内康範(潔士)は終戦後、一時、いわきで暮らした。遠藤とは「刎頸(ふんけい)の仲」になった。その関係で「月光仮面」が広く知られるようになると、遠藤を応援する意味合いもあってか、昭和34(1959)年6月から「夕刊ふくしま」に絵物語「月光仮面」を連載する。
 
 連載を告げる新聞社告に作者の言葉が載る。「私は、いまから約7年程前に平市や湯本町に住んでいたことがあり、海岸通りの各土地にはたくさんの知人がおります だから、『夕刊ふくしま』に私の作品を発表することは、第二の郷土である福島とのつながりをさらに深めることになると信じてます。少年少女諸君、どうぞ応援して下さい」
 
 「いわきを月光仮面のまちに」という理由がここにある。しかし、若い人は「月光仮面、なにそれ?」だろうな。
 
 ガンダムの話に戻る。飲んだ翌日は日曜日。上の孫(小5)の誕生祝いの買い物に付き合った。そのために、アルコールは控えめにした。目当ての品はガンプラ=写真。親子二代のガンダムマニアだ。前夜のガンダム談議と、翌日の孫のガンプラ買い。世代を超えてガンダムは支持されている。月光仮面は、そうはならなかった。

2018年4月26日木曜日

「見守り隊の人ですか」

 大型連休前に整理・準備しておきたいことがいくつかある。土曜日(4月28日)までは、それでバタバタが続く。
 郊外へ足を運ぶとコイノボリ=写真=がはためく季節。連休はのんびり過ごしたいと思っても、浮世の義理がある。地元の神社の祭礼参加。月初めの月曜日、古巣の新聞に連載しているコラムの原稿書き。連休明けに行政区内の危険個所検分をするための準備。ほかに、いわき地域学會の会員宛ての資料発送作業。

 月曜日(4月23日)、地元の小学校で「見守り隊の顔合わせ会」に参加した。翌日は三つの銀行を回って、地域学會のカネを下ろしたり、振り込んだり、郵便振替を現金に換えたりした。いやあ、慣れない手続きにすっかり疲れた。

 それでもまだ“仕事”が残っている。連休明けに公民館の市民講座でおしゃべりが始まる。レジュメのデータはメールで送った。が、手元にも指定した「A3」のレジュメを持っていないと、話がかみあわない。近所のコンビニでA4コピーを2枚ずつ並べてA3コピーにしたあと、店を出たら――。

 小学生の下校時間になっていた。駐車場に止まっているワゴン車の中から、声をかける子がいる。「見守り隊の人ですか」「そうだよ、元気かい」。車内には子どもが3人いて、こちらを興味深そうに見ている。声をかけた子は小学3年、いや2年生か。

 前の日、小学校の体育館で行われた「顔合わせ会」で自己紹介をした。「米屋のおじさんです。米屋のおばさんも見守り隊員です。なにかあったら、いつでも来ていいですよ」。見守り隊員のうち、十数人が対面したなかで、たまたま私を覚えていたのだろう。
 
 子どもの見守り隊かもしれないが、子どもに見られてもいるのだ。「声かけ」をする側が、子どもから声をかけられて、疲れが吹っ飛んだ。うれしかった。そういうことなのだろう、世代や性別を超えて、人と、地域の子と向き合うということは。

2018年4月25日水曜日

明治のごみは平成の宝物

 今から12年前のこと。いわき駅前に再開発ビル(ラトブ)が建つとき、いわき市教委が市教育文化事業団に委託して立会調査をした。江戸時代の絵図によれば、磐城平城の武家屋敷と外堀にあたるところだ。調査の結果、堀跡が絵図どおりの位置で発見された。ラトブの建物でいうと南側の4分の1、1階駐車場の出入り口側だ。
 外堀は、江戸時代には定期的に浚渫(しゅんせつ)された。庶民がごみを捨てることなど考えられなかった。が、戊辰戦争で城が炎上し、あるじを失った明治維新後はごみ捨て場と化する。そのごみ捨て場も、明治30(1897)年の常磐線開通に伴う敷設計画によって、そばのお城山を切り崩した土砂で埋め立てられる。つまり、堀跡に眠るごみ、いや埋蔵文化財は平(現いわき)駅開業前の30年間に廃棄されたもの――とはっきりしている。

 立会調査で発見された遺物は荷札木簡・椀・桶・箸などの木製品、陶磁器、ランプ・ガラスといった明治初期の工芸製品などだ(いわき市埋蔵文化財調査報告第127冊『平城跡―旧外堀跡の調査』2008年)。

 なかに三町目・十一屋の荷札木簡がある。「岩城平三丁」「小島忠兵衛殿 行」「東京」などの文字が読める(釈読文による)=写真。明治40(1907)年に創刊された地域新聞「いはき」の広告では、十一屋の当主は「小島末蔵」。忠兵衛は末蔵の先代ということになる。

 東京からの荷物とはいえ、まだ鉄道が開通する前だ。船で運ばれてきた。中之作に荷揚げされたという。出土した荷札に「海上安全」の文字が見える。「道(通)中安全」を祈願した木簡も、もちろんある。

 調査報告書には、さらに興味深い記述がある。「堀内からは、調査範囲の南側に、船着き場状の土留めの柵とそれを支える杭が検出され」た。船着き場? 浚渫のための船の発着場? それとも、城下町~夏井川~太平洋へと通じる水上交通ネットワークがあった?

 古代のいわきでは、夏井川下流域に磐城郡衙(ぐんが=郡役所)を中心とした水上交通ネットワークが形成されていた。古代でさえそうなら、近世にはもっと水上交通が充実・強化されていたはずだ。江戸の町がそうだったように、磐城平の城下町に“運河”があったとしても不思議ではない。

 市埋蔵文化財調査報告第75冊『荒田目条里遺蹟』(2001年)に、その水上交通ネットワークのことが書かれている。「夏井川やその他の河川の船運については、中世・近世における資料や文献も、ほとんどないのが現状である。佐藤孝徳氏によれば、17世紀には夏井川上流の塩田・高萩地区まで船が上がったことが、文書により知ることができる」。塩田・高萩は阿武隈高地と接する平野の最奥部だ。

 立会調査をした職員にあれこれ聞いたり、上記の文章を読んだり、仲間と議論したりしたうえでの、これは私の妄想だが――。
 
 江戸時代になると、外堀のさらに外堀として「新川」が開削される(今は埋め立てられて「新川緑地公園」になった)。夏井川とつながっている堀は、絵図の上ではこの新川しかない。新川が運河の役割を果たしていなかったかどうか。

城直下の外堀の「船着き場状の土留めの柵」が、どうにも気になってしかたがない。

2018年4月24日火曜日

土地に根をはやした人の言葉

 暑くて茶の間のガラス戸を開け、Tシャツ1枚で過ごした前日とは打って変わって、きのう(4月23日)は長そで・チョッキ・コールテンのズボンに戻った。おとといは7月、きのうは4月――。若いときと違って、年寄りは天気に合わせて服装を替えないといけない。
 きのう午前、地元の小学校で「子ども見守り隊の顔合わせ会」が開かれた。冬の服装で出かけた。体育館で児童と対面する前、校長室で見守り隊のメンバーと顔を合わせて、しばらく雑談した。

 隣接する区長さんはふだん着だった。「子どもはふだんの姿の大人と向き合うのだから」。なるほど。右ならえをしてネクタイをはずした。2人の娘が近くに住んでいる女性は、4年生を除いて孫が6年から1年までそろっているという。「授業参観のときは10分おきに五つの教室を回らないといけない」

 先日、未明に激しい雷雨があった。隣接する区に雷が落ちた。それで、電子レンジが壊れた家もあったそうだ。

 そんな話を聴いたあと、体育館で全児童と向かい合った。自己紹介の段になって「米屋のおじさん」であることを告げ、同時に私よりは子どもたちと接している「米屋のおばさん」のことも伝えた。「なにかあったら、いつでも来ていいよ」と。この何年か、顔合わせ会のたびに子どもたちに伝えていることだ。

 何から子どもを守るのか。このごろは「不審者」だけではない。イノシシ・サル、そしてキツネが住宅地にも現れるようになった。サルは一時、いわき市内で目撃情報が相次いだ。イノシシは山の手を中心にたびたび出没する。雑談の中で出た「キツネが校庭を横切っていきました」には驚いた。学校の裏山とふもとの街場を行ったり来たりしていたのだろう。
 
 曇天、しかも寒い。午後、街へ出かけた際、ラトブ6階から西の山並みを撮影した=写真。曇天で西の山がかすんでいるとやがて雨になる、雨が降っていても西の山の稜線が見えるようになると、やがてやむ――土地に根をはやして暮らす人の“観天望気”だ。小雨の中、区長や利用者が参加して公民館の草むしりをしていたとき、だれかがつぶやいて、その通りに雨がやんだ。
 
 以来、土地の人の“経験知”に学んで、気象台の予報と、西の山のかすみ具合を重ね合わせて、やがて雨が降る・雨がやむ、といったことを考えるようになった。きょうは、予報では午後遅くに雨が降り出す。

2018年4月23日月曜日

渓谷の隠居で春キノコを採る

 きのう(4月22日)は、体感では“真夏日”だった。しかし、小名浜では最高気温が22.2度。沿岸部の小名浜と違って、内陸部の山田では28.2度まで上昇した。山田は「4月の観測史上最高」だった。
 さすがにコールテンでは足に熱がこもる。麻のズボンにはき替えた。足元は、急には替えられない。冬靴しかないのでそのまま過ごした。靴下も厚めだったので、蒸れるような感じがつきまとった。
 
 午前中は孫の相手をし、午後は夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。今年(2018年)初めて、Tシャツ1枚になった。それでも汗をかいた。カミサンは菜園のそばのシダレザクラの下で草むしりをした。しばらくたって、「キノコ!」と叫ぶ。駆けつけると、アミガサタケだった。その後も、「あった」、また「あった」――。踏んづけたものも含めて、9個のアミガサタケを採取した=写真上。

 去年は4月14日、平地の自宅庭にアミガサタケが頭を出しているのを発見した。渓谷の隠居では、毎年ではないが4月になると、シダレザクラの樹下にだけ発生する。おととしは4本のうち3本を採取した。去年は確認できなかった。地上10センチの世界――這いつくばるようにして見ないと、発生には気づかない。

 隠居の庭は2013年師走、全面除染の対象になり、業者が表土をはぎとったあと、山砂を敷きつめた。除去された表土より深く菌糸が残っていたか、山砂に胞子が含まれていたかして、2016年には4年ぶりにアミガサタケが発生した。水で洗って砂を落とし、油で炒めて酒のさかなにした。コリコリ感が持ち味だ。

 これまでの採取記録をみると、このところの夏の陽気とアミガサタケの発生はあまり関係がなさそうだ。というのも、寒暖に関係なく、決まった時期に発生しているからだ。今年も特段早いというわけではない。
 
 3月から4月とあわただしく過ごした。4月21日には所属するいわき地域学會の総会が終わった。アミガサタケはそのごほうびでもある。
 
 そうそう、新緑の対岸に白い点々が見える=写真。シロヤシオの花が咲き出した。こちらは夏のような陽気に誘われたらしく、開花が例年より1週間以上早い。

2018年4月22日日曜日

昆布と薬の道

 江戸時代後期、磐城平の専称寺で修行し、のちに江戸へ出て名をあげた出羽出身の俳僧に一具庵一具(1781~1853年)がいる。彼を軸にした「俳諧ネットワーク」が面白くて、いろいろ調べたことがある。
 
 俳諧ネットワークは身分を超え、地域を超えて形成された。一具のそれは、磐城・福島・須賀川・川内をはじめ、江戸、常総、出羽、はては蝦夷地の松前まで広がっていた。一方で、俳諧とは別のネットワークとも重なり合って、人は多重・多層につながっていた。
 
 一具と須賀川の俳人市原多代女(1776~1865年)は同門だ。きょうだいのように親しく交流した。多代女はまた富山の俳人とつながっていた。富山の研究者は、この俳人は「売薬さん」ではなかったか、と推測する。
 
 すでにこのころ、越中富山の「置き薬ネットワーク」が全国に広まっていた。俳句ではないが、郡山市の阿久津曲がりネギは明治時代、その売薬さんが「加賀ネギ群」の種をもたらしたのが始まりだそうだ。
 
 俳諧関連の本を読みあさっているなかで、大石圭一『昆布の道』(第一書房・1987年)に出合った。越中富山では、薬の原材料をどこから調達していたか――。北前船が関係していた。
 
 北前船による蝦夷地~富山~琉球~清国の「昆布の道」、つまり「昆布ネットワーク」が形成された。富山のある売薬商は北前船の船主でもあった。北の昆布が富山経由で薩摩に渡り、琉球で「唐物」(薬品の原材料など)と交換された。その唐物が薩摩経由で富山に流入した。
 
 さきおととい(4月19日)の夜、BSプレミアムで「英雄たちの選択」を見ていたら、この「昆布の道」が出てきた。「富山の売薬商から入手した昆布などを琉球の交易船に積み清国で販売」といったテロップも登場した=写真。それで、前に読んだ本を思い出したのだった。

 番組のタイトルは<幕末秘録・琉球黒船事件 調所広郷(ずしょひろさと)>。密貿易で薩摩藩の財政を赤字から黒字に転換した家老が主役だったが、私としては「昆布の道」=「薬の道」、そしてそこから広がる置き薬ネットワークに引かれた。
 
 江戸時代に限らないが、人はさまざまなネットワーク=コミュニティの中で暮らしている。ネットワークは多重・多層なほど面白い。寄り道を楽しめる。

2018年4月21日土曜日

夏を感じた日

 きのう(4月20日)はちょっと体を動かすだけで汗をかいた。長袖をまくって過ごした。まだ4月下旬。でも夏だ、これは――。たまに暑いときがあるとしても、早すぎる。とはいえ、観測上は平も小名浜も「夏日」にはならなかったが。
 晴天・無風の日中とは別に、未明、雷が鳴ったという。カミサンはそれで目が覚めた。私は、なにか2階で音がする――そんな程度で眠り続けた。朝、庭に出たら地面がぬれている。小名浜や山田町では降水量ゼロだから、局地的な雷雨だったようだ。
 
 朝から動き回った。午後もカミサンの用事で車を運転した。鹿島街道で用をすませたあとは、同じ道を戻りたくないので、海岸道路を利用した。
 
 すると、カミサンが思い出したようにいう。「豊間の『ほうせん』に寄って」。津波被害に遭いながらも、長屋門・母屋が残った。母屋をカフェと和服や裂(きれ)を扱う店に改装した。もとは造り酒屋だ。「豊仙」という酒を造っていた。「ほうせん」はそれに由来するのだろう。
 
 その家の庭に立っていると、上空をモーターパラグライダーが旋回した。「かもめの視線」の空撮家酒井英治さんにちがいない。あとで薄磯海岸へ寄ると、酒井さんが低空飛行をして、着地するところだった=写真。
 
 彼の空撮写真を10枚ほど、いわき地域学會が発行した『いわきの地誌』の口絵にお借りした。好間のV字谷や震災前と後の沿岸部の様子などが一目でわかる。今までにない「空からの視線」を取り入れることができた。
 
 この7年間、フェイスブックにアップされる酒井さんの空撮写真で沿岸部の変化を逐一見てきた。それに刺激されて実際に沿岸部へ出かけ、変化の激しさを確かめる、といったことを繰り返している。
 
 エンジンとプロペラを背負って歩く酒井さんはしんどそうだった。聞けば重さが40キロ以上ある。

「持ち上げてみてください」というので、「えい」とやったが、少し浮いた程度だった。カミサンは、なんとこれを持ち上げた。「さすが米屋さん」と酒井さん。空中では重さを感じないとはいえ、地上では体力がいる。夏のような日の夕暮れ近く、薄磯海岸で空を飛ぶことの大変さ、それゆえのすばらしさを少しわかった気がした。

2018年4月20日金曜日

「ぶらっと会」

 だれかがいった。「ぶらっと会」。なるほど。「ぶらっと同窓会」よりはしっくりくる――。
 東日本大震災が起きるとすぐ、シャプラニール=市民による海外協力の会が初めて国内支援に入った。緊急支援の手薄ないわき市で、以後、5年間、交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。前から夫婦で関係している国際NGOなので、2016年3月12日に閉鎖するまで、ちょくちょく顔を出した。

「ぶらっと」で地元採用スタッフとして働き、ボランティアとしてかかわった人間10人前後が、今も年に1~2回、顔を合わせる。「ぶらっと」が閉鎖してからは“同窓会”になったが、集まりはその前から続いている。ご主人の仕事の関係で5年ほど、中国で暮らすことになったTさん母娘の歓送会がきっかけだったか。その仲間の集まりがおととい(4月18日)夜、平の街なかで開かれた。

 去年までは、Tさん母娘が一時帰国するたびに声がかかった。男は私一人。幹事役は地元いわきの元スタッフのフラダンサー。今度も参加したのは南相馬市、双葉町出身の元スタッフ2人、浪江町と富岡町から避難中の元ボランティア、同じくボランティアで、いわきの海岸部で津波被害に遭った、私らと同年代のピアノの先生。全員が被災者・避難者だ。
 
 Tさんの娘のHちゃんは、初めて会ったときには幼稚園児だった。今は小学6年生だ。年ごとに成長がわかる。Hちゃんを介して、私は孫の、別の人はわが子の成長を確かめている。

 今回は、一時帰国ではない。間もなく任務を終えるご主人より一足早い「おかえりなさい」の歓迎会だ。そこへ食事会が始まる直前、Tさん母娘と一緒にフランス人の写真家デルフィーヌが顔を出した。

 震災から1年後、「ぶらっと」に彼女がやって来た。英語が堪能なTさんが以後、彼女に力を貸してきた。彼女がいわきを拠点に被災者・避難者の写真取材を重ねて1年が経過したころ、ドイツのベルリンで、同地在住の芥川賞作家多和田葉子さんと写真と詩の2人展を開いた、

 デルフィーヌは今回、たまたまTさんの家へやって来た、すぐ東京へ帰るという。ではと、全員がそろわなかったが、記念写真を撮った=写真。彼女も「ぶらっと」の仲間の一人といっていい。

 震災・原発事故という災禍はあったが、そしてそれは今も尾を引いているが、「ぶらっと」を介した新しいつながりが生まれた。「ぶらっと」は閉鎖されたが、仲間としての意識は共有している。だから、「ぶらっと同窓会」ではなく「ぶらっと会」という呼称が納得できた。

2018年4月19日木曜日

「お福分け」復活

 野菜はまず安全。山菜も“初物”くらいは自己責任で――。年が年なので、「食べられないストレス」はできるだけ少なくしたい。とはいえ、野生キノコはまだダメ。このごろは、野生キノコを含む全キノコの代表として栽培ナメコを食べる回数が増えた。スーパーへ行けば、ついナメコに手が伸びる。
 そんな限られた食環境だが、届くときには届くものだ。ネギや葉玉ネギ、わさび菜をもらった。山菜のてんぷら、ゆがいてあるワラビ、採りたてのタケノコももらった。タケノコはすぐゆでた。夫婦2人では食べきれないので、ゆでタケノコを少し近所に「おすそ分け」した。
 
 先の日曜日(4月15日)には、夏井川渓谷の小集落・牛小川で「春日様」のお祭りが行われた。1軒からおふかし、フキとタケノコ・ゼンマイの油いため、もう1軒からは赤飯をちょうだいした=写真。

 その前週には、渓谷の隣の集落に住む友人から栽培ブキ・花ワラビ・ニンジンなどをもらった。原発事故が起きた直後には考えられなかった「お福分け」の復活だ。

 栽培ブキは汁の実と油いために。ワラビはおひたしに。花ワサビは浅漬けに。タケノコは煮物に――。この時期はけっこう酒のさかなが多彩になる。

 いただきものは「福」を分けてもらったのだから、お福分け。それをまただれかにあげるのはおすそ分け。いや、どちらもお福分けでいいのではないか。これからはお福分け一本でいこう、なんてことを考えるのも、お福分けが続いて、少し豊かな気分になっているからだ。

 お福分けに刺激されて、おととい(4月17日)、糠床の眠りを覚ました。塩のふとんをかぶって冬眠していたので、まだ塩分がきつい。小糠を加えながらの捨て漬け段階だが、やがていつもの糠漬けを食卓に出せるようになる。ソメイヨシノと同じで、わが家の糠漬けも例年より10日ほど早い。

2018年4月18日水曜日

心平がつくった校歌の数々

 白い雲があちこちでわきたっている――これが率直な感想だ。いわき市立草野心平記念文学館で春の企画展「草野心平の校歌」が始まった=写真(冊子)。心平没後30年の記念展でもある(6月17日まで)。
 心平が作詞した校歌は、出身地のいわきはもちろん、全国の小・中・高・大学合わせて100を超えるという。いわき市内では、心平のふるさとの小川小学校、同中学校をはじめ、わが子が通った平六小、平二中など17校が心平作詞だ。

 私が最初に“心平校歌”を胸に刻んだのは平高専(現福島高専)で、だった。一番の出だしは「阿武隈に白き雲沸き/七浜の海はとゝろく……」、シメは「おゝ平高専 われらが母校/日輪は燦(さん)とかゞやく」。昭和41(1966)年のいわき市合併で「平高専」は「福島高専」に替わった。

 平六小の校歌にも「石森に 白き雲浮き」と、雲が出てくる。その校歌ができるまでを追ったことがある。拙ブログ(2010年7月20日)を再録する。
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 昭和28(1953)年9月24日、草野心平は平六小の校歌をつくるため、下調べにやって来た。神谷(かべや)村が平市と合併したのは昭和25年5月。村の名が消え、神谷小も平六小に改称された。それから3年余、平六小の名にふさわしい校歌を――となったのだろう。

 学校のすぐ裏手を小川江筋が流れ、学校前方南の水田には立鉾鹿島神社の森が見える。地元からの要請で心平に話を伝えた、心平のいとこの平二中校長草野悟郎さんも招かれ、一緒に学校の内外を見て回り、学校の沿革を聞いた。

 その晩、学校の近くにある大場家で歓迎の宴が開かれた。心平と悟郎先生、校長やPTA役員らがごちそうをつついてにぎやかに語り合った。このあと、心平は大場家に泊まらず、悟郎先生の家に行く。翌朝、悟郎先生の家にやって来た校長、PTA会長らに頼まれて色紙に何かをかく――という、よくある展開になる。

 昭和26年発行の『神谷郷土史』によれば、合併当時、大場家は父子で村医・校医を務めていた。若先生の夫人はPTA副会長だった。『神谷郷土史』は最後の神谷村長、神谷市郎さんが著した。

 それはさておき、『草野心平日記』を読んだ印象でいえば、いわき市内にある心平作詞の校歌のいくつかは、悟郎先生が橋渡し役になって、できた。いとこを介した依頼では断れないだろう――頼む側にはそんな期待と打算があったに違いない。要するに、悟郎先生を通せば間違いがない、ということだ。

 以上のことは『神谷郷土史』の部分を除いて、「歴程」369号(草野心平追悼号)所収の悟郎先生の追悼文で知った。
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 今度の「校歌展」では、心平とコンビを組んだ作曲家に興味を持った。小山清茂24校、渡辺浦人19校、伊藤翁介18校。これがベスト3だ。福島高専は小山、平二中、同六小は伊藤。この3人くらいは心平との交遊の程度、人となりなどに言及してもよかった。
 
 もうひとつ。展示物を見ながら「白い雲」がわきたつわけを考えた。校歌という“鋳型”のなかでどう違いを出すか、工夫と苦労を重ねながらも、つい心平の子どものころの原風景=阿武隈の雲が現れる、そういうことではないのか。いずれにしても、校歌にはそれができあがるまでの“物語”が秘められている。

2018年4月17日火曜日

暮鳥と「鬼坊(おにぼう)」

 いわきに縁のある詩人山村暮鳥は大正13(1924)年12月8日、茨城の大洗で、40歳で亡くなった。ついのすみかは「鬼坊裏別荘」。暮鳥研究者には先刻承知のことだろうが、「鬼坊」の読みがわからなかった。「きぼう」? 「おにぼう」?「裏」を入れて「鬼坊裏」を「きぼり」と読む?
 
 何カ月か前、思い出してネットで検索していたら、「鬼坊」に「おにぼう」の振り仮名のある文章に出合った。網元の屋号だという。しかし、もうひとつ、土地の人の証言がほしい。そう思っていたとき、大洗出身で今は北海道に住む知人から電話がかかってきた。これ幸いと、話が終わったあとに「鬼坊」の読みを大洗の仲間に聞いてほしい、とお願いした。
 
 日をおかずに答えが届いた。「鬼坊」は「おにぼう」だった。すると、一気にネットで網元の姓名その他の情報が手に入った。
 
 それよりちょっと前、カミサンが家の中の“紙類”を整理していたら、「山村暮鳥生誕百二十年・没後八十年記念/土田玲子・土田千草」と書かれた絵はがきセットが出てきた=写真。遺族から贈られた記念品を、いわき地域学會の初代代表幹事である故里見庫男さんからちょうだいした。2004年、つまり14年前のことだ。

 それから10年後の2014年。暮鳥の故郷、群馬県立土屋文明記念文学館で、生誕130年・没後90年記念展「山村暮鳥―そして『雲』が生まれた―」が開かれた。大洗でも、幕末と明治の博物館で「山村暮鳥の散歩道―詩と風景―」が開かれた。

 土屋文明記念文学館の企画展では、磐城平で大正13年1月に発行された同人誌「みみづく」第2年第1号が紹介された。現物は東日本大震災後のダンシャリのなかで、若い仲間(古本屋)が手に入れ、私が預かっていたものだ。
 
<おうい、雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか>。大洗で暮鳥が書いた雲の詩の代表作が載る。このときのタイトルは「友らをおもふ」で、暮鳥の愛弟子でもある斎藤千枝への“相聞歌”説をとる詩人・研究者もいるが、そうではない、という反論の、これは“物的証拠”でもある。

 で、そのことも踏まえて、「みみづく」の本物が出たことを拙ブログで取り上げたら、群馬の文学館スタッフの目に留まった。いわき市立草野心平記念文学館を介して、持ち主の了解を得て貸し出した。
 
 あとで土屋文明記念文学館から図録が送られてきた。結構、重要な扱いになっていた。暮鳥が新聞「いはらき」の連載や千枝への私信に「おうい、雲よ」を使っていること、しかし雑誌「みみづく」には「友らをおもふ」と題して「おうい、雲よ」が出てくることを示し、両方を比較すれば「おうい、雲よ」と詠んだ暮鳥の内面がおのずと推察できるようになっている。

 研究者でもなんでもない私の役割は、ここに何がある、あそこに何がある――そんなことを発信することだと、そのとき思ったものだ。要するに、記者の延長で何かを書き続けること。「みみづく」は、今は草野心平記念文学館が所蔵している。

2018年4月16日月曜日

雨の“春日様”

「暴風警報」が出ているうえに雨になった。朝、平地のわが家から隠居のある夏井川渓谷へ入ると、ところどころ霧がかかっていた=写真。暴風は、吹き始めるとずれば午後だろう。役所の防災メールを受け取るようになって知った“経験則”だ。そのとおりになった。暴風まではいかなかったが、雨が上がって晴れたあとに風が強まった。
 渓谷の小集落・牛小川では、アカヤシオ(方言名・岩ツツジ)が花盛りの日曜日、集落の裏山にある春日神社のお祭りが行われる。といっても、各戸から1人が出てやしろを参詣し、ヤドで直会(なおらい)をするだけだ。何年か前までヤドは持ち回りだった。このごろは、Kさんが納屋を改造した“コミュニティスペース”を会場にしている。

集落の祭り、略して“春日様”は、私にとっては得がたい情報収集の場だ。拙ブログを読むと、こんなやりとりがあった。

 集落ではマツタケを生のまま味噌に漬ける。しかし、「うまくねぇ」。マツタケを採って食べあきたあと、なんとか保存食にできないかと創意がはたらいたのだろう。道路の上の線路からイノシシが列車にはねられて降ってきた。それをすかさず拾って、さばいて食べた。水力発電所の導水路でウナギやカニを捕った。

渓谷の名勝・籠場の滝は「うなぎのぼり」の場だった。滝が行く手を阻んでいる。魚止めの滝でもある。上流へ向かうウナギは、それでわきの岩盤をよじ登っていく。籠をかけておけば、難なく魚が飛び込んで来る。「籠場の滝」の由来だ。

 ある年は、やしろへ行く途中の杉林のなかで、杉の樹皮がそそけだっているのを指さしながら、別のKさんが言った。「ムササビかリスがはがしたんだ」。樹皮をはいで巣の材料にしたようだ。

 きのうは、野鳥のウソ3羽とイノシシの話になった。3月にわが隠居の庭にあるシダレザクラのつぼみが、このウソたちに食い散らかされた。花が満開になったら“てっぺんはげ”になるかもしれない、と書いた。「その通りになった」と、自然に詳しいKさんが言う。
 
 イノシシの話はこうだった。真夜中、自然に詳しいKさんの家の庭先にイノシシが現れた。それを見て、撃退用に置いてある花火を鳴らした。イノシシは逃げた。少し離れた家の、これまたKさんが応じた。「夜中に花火を上げんなよな」。聞けば、夕食を摂るとすぐ寝る。未明の1時には起きてしまう。それで、花火の音がわかった。
 
 街なかでは考えられない、生きものたちとのたたかい、いや、人間と自然の豊かな関係。そこからもたらされる情報が私にはたまらない。渓谷へ通い続けて飽きない理由がここにある。

2018年4月15日日曜日

リサイクル本『明治文學全集』

 大放出が始まった?――いわき駅前再開発ビル「ラトブ」5階、いわき総合図書館入り口に、持ち帰り自由のリサイクルコーナーがある。ある日、本棚に『明治文學全集』(筑摩書房)が並んでいた。
 借りる人がいないので図書館所蔵の全集を廃棄したのかと思ったが、そうではなかった。市民から寄贈されたが、すでに図書館には同じ全集がある。で、興味のある方はどうぞ、ということのようだった。

 同全集は99巻、別巻1冊を加えて100冊セットだ。全部そろえると75万円余になる。古書市場でも80万円台~60万円台のようだ。一般向けではない。仕事や趣味の延長でちょっと深く知りたい、という人なら手元におきたい本だが、図書館にある。必要なときに借りて読めばいい。なにしろ1冊3800円と高いのだから。

 1回に2冊=写真、あるいは3冊と持ち帰った。布バッグにはそれくらいしか入らない。箱入りの“重厚長大”本だから、欲張るわけにはいかない。飛びとびに日をおいて出かけた4回目、きれいになくなっていた。

 引き取った本は、数えたら8冊あった。置く場所に困って床の間に仮置きした。すると、すぐカミサンにしかられた。「床の間に置かないで! 2階に片づけるから!」

 72巻「水野葉舟・中村星湖・三島霜川・上司剣集」は、三島霜川(1876~1934年)が目当てだ。霜川は富山で生まれ、14、5歳のころ、父、妹と3人で四倉に住んだ。明治後半から昭和初期に活躍した作家で、大正以後は演劇評論(歌舞伎)で鳴らした。「演藝画報」の常連寄稿家だった。総合図書館に「演藝画報」の復刻版がある。

 57巻「明治俳人集」には大須賀乙字(1881~1920年)が載る。いわき出身の漢詩人大須賀イン=竹かんむりに均=軒(1841~1912年)の次男だ。俳名・乙字(おつじ)。明治・大正期の俳論家として名を残した。「季語」は、乙字が初めて使った、つまり彼の造語、とされる。

 60巻「明治詩人集(一)」・61巻「同(二)」のうち、61巻には山村暮鳥(1884~1924年)と、仲間の人見東明(1883~1974年)、加藤介春(1885~1946年)、三富朽葉(1889~1917年)が載る。明治42(1905)年、早稲田・英文科の人見・加藤・三富らが口語自由詩の結社「自由詩社」を興し、同43年1月、暮鳥も同人となった。

 図書館の本と違って、自分の所有となった本には遠慮なく書き込みができる。自由に書き込みのできる本があるだけで少しやる気が増す。

2018年4月14日土曜日

やっとネギ坊主が

 ソメイヨシノはずいぶん早く咲いた。が、ほかの植物もそうかというと、ちょっと違うようだ。ウグイスの初鳴やツバメの初認も早いとは言えない。これはしかし、単に私の定点観測記録(定線・定面観測も含む)だけの話だが。
 今年(2018年)、最初にウグイスのさえずりを聞いたのは4月1日。夏井川渓谷で、だった。

 下流の平地では、早いときには3月2日(2012年)にさえずりを耳にした。散歩ではなく、車で夏井川の堤防を通るだけになってからは、正確な初鳴日を記録できなくなった。週末だけ通う渓谷も、決まった日が日曜日ではない。幅がある。それでも4月2日(2014年)、4月3日(2016年)初鳴、いや“初聞き”と、今年とそう変わらない。

 ツバメはどうか。4月1日に平市街に渡ってきたことをフェイスブックで知る。が、2009年の3月24日、2010年・2014年の3月28日などに比べるとちょっと遅い。私が目撃したのは、4月8日、平・赤井で、だった。

 一番わかりやすいのは、20年以上栽培している三春ネギのネギ坊主だ。だいたい3月下旬には花茎のてっぺんにふくらみができる=写真。それが、今年は4月8日になってやっと確認した。普通だったら写真の右の方にもネギ坊主が現れているのだが、まだない。ま、これから徐々に数を増やすはずだ。

 厳冬がサクラの休眠を早々と打破し、開花を早めた。一方で、三春ネギはうねが凍って地温の上昇が遅れたために花茎の形成が遅れたか。

 小名浜測候所に職員がいたころは、生物季節観測が行われていた。2008年までの観測によると、小名浜でのウグイス初鳴は3月17日、モンシロチョウ初見は4月6日、ツバメ初見は4月11日(いずれも平年)だ。ツバメは近年、平年より早く飛来していたことになる。
 
 これもまた極私的な観察記録だが――。生け垣の常緑樹・マサキの若葉を食害するミノウスバ(ガの一種)の幼虫は、新芽が展開し始める春に孵化する。今年はソメイヨシノ同様、芽吹きが早かった。それに合わせるように、孵化も早かった。なぜミノウスバが“連動”できるのかはわからない。毎朝、歯磨きしながら生け垣を見て回り、葉裏にかたまっている幼虫を何度か除去した。

 幼虫が成長して生け垣全体に散らばり、あっという間に新芽を食い尽くされて、枝だけになったことがある。今年のマサキはひとまず無事に春を迎えることができそうだ。

2018年4月13日金曜日

天変地異だった

 7年前の2011年3月11日、そして4月11日と翌12日――。いわき市民は1カ月に3回、「震度6弱」を経験した。その日がくると、思い出す。ふだんは忘れている。
 いわき市を震源とする巨大余震の様子をブログに書いた。その抜粋をまた再録する(多少は文章を修正している)。4日後の4月16日には、津波に襲われた久之浜の海岸でひっくり返っている車を見た=写真。これもふだんは忘れている。
                 ☆
 4月11日午後2時46分。家で1分間の黙祷をした。その2時間半後。夕方5時16分にまた、大きいのがきた。震度6弱。「3・11」並みだ。外へ飛び出した。しかも、今度は揺れているうちに停電した(雨で路面が濡れている、店は停電で暗い)。折から雷雨が暴れていた。「地震・雷・火事・津波、そして原発」。バキッ、バキッ。少し先で火花を散らす落雷を初めて見た。本などが少し落下した。

 カミサンはすぐ、風呂に水を貯めた。正解だった。電気はおよそ1時間後に復旧したが、水はその前に再度止まった。
       ………………………………………………………
 それから2日後のブログの抄録――。「3・11」以来となる震度6弱の強い余震が、4月11日午後5時16分ごろと翌12日午後2時7分ごろ、いわき市を襲った。11日は即停電したものの、およそ1時間後に明かりが戻った。12日は大丈夫だった。

 11日、水道は浴槽に水を貯めることはできたが、間もなく断水した。あの日からちょうど1カ月で再び振り出しに戻った。12日、平市街に用があって出かけたら、水道局本庁舎で人がひっきりなしに水をくんでいた。不安がまた広がる。

 飲料水だけではない。余震では、いわき市田人(たびと)町石住地内で土砂崩れが発生し、道沿いの民家2棟がつぶれ、3人が死亡、3人がけがをした。命まで襲いにきた。さらにもう1人、車で通行中の中通りの青年が亡くなった。
                  ☆
 文字通りの「天変地異」だった。生きた心地がしなかった。そのときの「記録」から「記憶」がよみがえる。
 
 折も折、「もりかけ問題」で「記憶の限りでは」というコメントを発して、逃げようとする人がいる。それが、その場しのぎの言い訳にすぎないことを、庶民は直観的に知っている。愛媛県側から「記録」を出されても「記憶」がよみがえらないとは……。文書は本来、「備忘録」ではないか。「記憶」なんてあいまいだから、ぎりぎり正確な「記録」を残すのだ。
 
 あれから7年。天地のふるまいに畏(おそ)れを抱く一方、人のふるまいにはつい「天知る、地知る」と言ってしまいたくなるような状況が続いている。

2018年4月12日木曜日

ガン・カモ調査/2018年

 今年(2018年)も、日本野鳥の会いわき支部のTさんを介して、支部報「かもめ」第138号(4月1日発行)と、平成29年度ガン・カモ観察調査結果が届いた。
 まず、ガン・カモ調査から――。1月7日にいわき市内3地域で同時に調査が行われた。データを見て驚いた。留鳥のカルガモが昨年、一昨年に比べて1005羽と倍増している。市内各地に分散していたのが、今年はたまたま観察地に集結していたのだろうか。特に、夏井川河口には4割が羽を休めていた。

 カルガモ以外の冬鳥では、やはり同河口にマガモ250羽、コガモ230羽。カモ類だけで夏井川河口に1000羽以上いた。壮観だ。河口の閉塞が続き、「湖沼状態になっている」ため、カモ類が生息しやすくなっているのが理由らしい。

 ハクチョウ=写真(1月22日、平・塩の下流、左岸・山崎側の堤防から右岸・中神谷字調練場の浅瀬で休息中の一群を撮影)=は、コハクが鮫川の沼部に58羽、夏井川の平窪に164羽、小川・三島に172羽、平・塩に60羽。計454羽だが、年々減少している。こちらは「給餌(きゅうじ)自粛」が影響しているようだ。

 次は、「かもめ」の年頭所感から――。いわき市内で計画が進められている再生可能エネルギー6事業(風力発電)について、川俣浩文支部長が書いている。なかでも、「市内で唯一のコマドリやコルリの繁殖地であり、その他の希少種や渡り鳥への影響、更には環境保全の観点からも問題が大きい」として、(仮称)阿武隈南部風力発電事業を危惧している。そのため、県と市に配置計画の見直しなどを求めて要望書を提出した。

 同支部発行の『いわき鳥類目録2015』によると、コマドリは、4月末にはいわきへ渡ってくる。落ち着き先は落葉広葉樹に混じって背丈の高いササが茂る800メートル級の山地だ。繁殖が局地的なこともあって、観察が難しい。

 名前の由来は「ヒンカラカラ」のさえずりから。馬のいななきのように聞こえるので「駒鳥」になった、という説が一般的だとか。「日本三鳴鳥」のひとつだが、まだ耳にしたことがない。そのためには、深山に分け入る覚悟が要る。
 
 コマドリの繁殖する山がある――そう考えるだけで、いわきの自然の豊かさ、奥深さに心が潤う。風車建設によって営巣地を失ってはならない。

2018年4月11日水曜日

明治41年の「東宮行啓」

 知人からあずかった古い写真を調べている。先日は「平町喜多流謡曲連」=明治37(1904)年3月撮影=の話を書いた。
 そのメンバーのひとり、知人のひいじいさん(平・本町通り三町目、「染物十一屋」の小島藤平)は、華道もたしなんだのだろうか。床の間の前に、松を飾った写真(円内は藤平本人)がある=写真。最初は盆栽かと思ったが、土と根の盛り上がりがない。生け花ならぬ“生け松”らしい。

 写真の裏に「紀年/東宮殿下東北行啓/明治41年10月10日/古松挿花/小島藤平/69歳」とある。左端に「大正2年1月23日死去ス」も。これは、4年後に家族が書き加えたのだろう。裏書き中の「古松挿花」から、あらためて“生け松”であることを確信した。

 俄然、興味がわいた。東宮殿下東北訪問(手元の記者ハンドブックにならって、「行啓」を「訪問」と表記)? 明治41(1908)年10月10日?

 明治の東宮(皇太子)といえば、のちの大正天皇だ。大正時代の社会や文化に関心があって、その前後の時代を含めていろいろ調べている。が、大正天皇には全く興味がなかった。世間もそうなのか、ネットで検索しても情報が少ない。いわき総合図書館にも関連図書は29冊しかない。そのうちの1冊、原武史『大正天皇』(朝日選書)を読んで、やっと東北訪問の様子がわかった。

 大正天皇は明治12(1879)年8月に生まれ、大正15(1926)年12月、46歳で亡くなっている。20歳で結婚すると、32歳で即位するまで12年間にわたって国内を精力的に旅行している。「病弱の天皇」のイメージとはだいぶ異なる。

 東北訪問は明治41年9月9日から10月10日まで、ほぼ1カ月に及んだ。今では考えられない長旅だ。

 まず、日光田母沢御用邸を出発して日本線(現JR東北本線)で白河へ。会津若松を訪ねたあと、福島から山形・秋田と日本海側を巡って青森へ至り、再び日本線で岩手・宮城を南下。10月3~8日は仙台に滞在し、9日、海岸線(現・JR常磐線)を利用して原ノ町に下車し、相馬野馬追を見学。その日は双葉郡富岡町の「郡役所」に一泊して、翌10日、海岸線で帰京――という旅程だった。(10月の野馬追とは)

 平は? 町長らが駅のホームに立って列車を見送ったかもしれないが、素通りしたようだ。とはいえ、庶民にとって皇太子の来訪・通過はありがたいものだったにちがいない。明治の世になって初めて、次期天皇が庶民と間近に接するようになったのだから。

 小島藤平はそれを記念して、しかも平を通過する10月10日に、鷲が飛び立つような、あるいはいのちが天に向かって伸びていくような“生け松”で東北訪問を祝った、ということなのだろう。明治の庶民の心がしのばれる写真だ。

2018年4月10日火曜日

春の水と土の味

 夏井川渓谷の森の中に友人夫妻が住んでいる。一昔前、敷地の一角に「ワサビ田」をつくった=写真。前はミニ水田だったという。
 ワサビ田を訪ねた10年前の記録。4月中旬というから、ちょうど今ごろだ――。夏井川渓谷の隠居にいると、夫妻が採りたての花ワサビと、茎を刻んで味をつけた「酒のつまみ」を持って来た。ピリリとした辛さのなかに甘みが漂う「酒のつまみ」は、春だけのぜいたくな逸品。カミサンがつくり方を教わった。わが家へ帰ると早速、「酒のつまみ」が出た。

 後日、森の中の家を訪ねた。そばの沢は竹林になっている。イノシシがタケノコを掘った跡が生々しかった。お土産にタケノコとクレソン、若いワサビの茎をもらった。

 それから10年――。ダンナ氏がフェイスブックにワサビ田の写真をアップし、「わさびの花が真っ盛り! 花の漬物のレシピ入りで知り合いに配っている」とコメントしていたので、思わず「葉ワサビ、大好き」と応じたら、「取りに来なよ、ご近所さん!」と返ってきた。それだけでなく、その日のうちに平のわが家へ花ワサビとレシピが届いた。ありがたや、ありがたや。

 花ワサビの漬け方と食べ方はこうだ。①洗ったら3センチくらいに切る②ザルに入れて70度くらいのお湯をかけ回す(あまり熱いと苦みが出る)③お湯を切り、ビニール袋に入れ、塩か醤油を入れてよくもむ(これで辛さが出る)④袋に入れたまま水を張った器に入れて冷まし、冷蔵庫で保管する⑤小出しで食べる(空気に触れると辛くなくなる)――。
 
 カミサンが早速、レシピに従って「酒のつまみ」をつくった。春の水と土の味を堪能した2日後、しばらくぶりに森の中の家を訪ねる。また花ワサビとミズブキ、クレソン、ニンジンをちょうだいした。
 
 わが隠居でも、庭木の下で葉ワサビの増殖を試みたことがある。道路沿いのためか、たちまち行楽客に盗掘された。庭のタラノキもばっさりやられた。10本ほど挿し芽したタラノキは、それであらかた立ち枯れた。今は、地下茎を伸ばした先に幼樹が4、5本残るだけ。先日、侵入者にとられるよりはと、若い芽を摘んだ。
 
 アカヤシオ(岩ツツジ)の花が満開の日曜日、わが隠居のある集落・牛小川でお祭り(寄り合い)が開かれる。今年(2018年)は4月15日だ。ときどき花ワサビのおひたしが出る。住民のTさんが秘密の場所に植えたら増えた。牛小川ならではの、春のごちそうだ。花ワサビは漬物だけでなく、おひたしもいいかもしれない。ツンと鼻に抜ける辛みがたまらない。

2018年4月9日月曜日

「三春」、いや「五春」

 夏井川渓谷にも春が満ちてきた。渓谷に春を告げる木の花はいろいろある。が、圧倒的なスケールで斜面全体をピンクで点描するアカヤシオ(方言名・岩ツツジ)にはかなわない。
 
 4月最初の日曜日(1日)は、谷から第一の尾根がピンクに染まっていた。きのう(8日)は第二、第三の尾根、つまり奥の奥山までアカヤシオの花が咲いていた。春は、渓谷では下流から上流へ進むだけでなく、垂直にも駆け上がる。
 
 アカヤシオの花にまじってヤマザクラが咲き始めた。谷底の小集落・牛小川では、道路沿いのソメイヨシノがてんぐ巣病にかかりながらも満開になった。梅の花は散ったが、ヤシャブシ、アセビ、アブラチャンの花が咲いている。
 
 二十数年前、渓谷へ通いはじめたころ、集落の長老に教えられた。「ここは『五春』だよ」。梅、ハナモモ、アカヤシオ、ヤマザクラ、ソメイヨシノが時を重ねるようにして咲く。それだけではない。さみどり色、臙脂色、黄色、薄茶色……。木々の芽吹きがきれいだ。今年(2018年)はそれも早い。
 
 隠居の庭に植えたシダレザクラは、1週間前はつぼみだった。これが満開になった。ところが、2本のうち1本のてっぺんは花が少ない。やっぱり。3週間前の日曜日(3月18日)、いわきでは冬に飛来する「漂鳥」のウソが3羽、こずえに止まって花芽をついばんでいた。てっぺんがはげる――心配したとおりになった。
 
 昔のシダレザクラの写真を探したら、庭が除染されて初めて迎えた2014年春のがあった。殺風景な庭を見事に彩ってくれた=写真。データを見ると、撮影日は4月20日。今年の満開はそれより10日ほど早い。

 天然木も園芸木も含めて、渓谷では1年で一番はなやぎが感じられるときだ。夏の季語に「万緑」がある。それにならえば、「三春」などといわずに「千春」、あるいは「万春」と表現したいところだが、それはいくらなんでも「白髪三千丈」になってしまう。やはり「五春」にとどめておこう、「桃源郷」は身近な所にある、という思いを込めて。

2018年4月8日日曜日

冊子『いわきの戊辰戦争』

 今年(2018年)は戊辰戦争から150年の節目の年――。いわき市内でも去年からこの戦いを振り返る講演会や戦跡巡りなどが行われている。
“語り部”のひとり、いわき地域学會副代表幹事の夏井芳徳さんが、『いわきの戊辰戦争』という冊子を出した=写真。市内各地の戦闘シーンが時系列で紹介されている。

 夏井さんは平成26(2014)年、福島県県文学賞の<小説・ドラマ>部門で正賞を受賞している。じゃんがら念仏踊りや獅子舞、袋中上人や俳諧など民俗・歴史・文学分野に通じ、人間が目の前にいるような“話芸”でファンが多い。
 
『いわきの戊辰戦争』は解説書ではない。史料を読み解いたうえで、人間と人間が対峙する読み物に仕上げ、持ち前の文章力と構成力で戦いを「見える化」した。古い世代は紙芝居を、若い世代、特に中学生、ひょっとしたら小学5・6年生はアニメを連想するかもしれない。

 それぞれのページに脚注が並び、戦争に参加した各藩の記録、藩士の日記などが参考文献として掲げられている。一般の人がこれらの文献を目にすることはほとんどない。参考文献を読んで市民が認識を新たにする、という効果も期待できそうだ。

 夏井さんから冊子の恵贈にあずかったころ、『常陽藝分』2006年12月号が家の隅から出てきた。「シリーズ・幕末から明治へ」の2回目で、<戊辰戦争「水戸藩と近隣諸藩の動き」>を特集している。「磐城平藩」の項では、当時市文化財保護審議会副会長だった故佐藤孝徳さんがコメントしている。

「安藤信正は通訳を介してではあるが幕府重役としては初めて、外国人と直接会って交渉にあたっており、『当時の幕閣にあって極めて有能・有識の人』だった。ただし、『自藩の軍事強化までは手が回らず、財政上も無理だったから、藩兵の装備は旧式、という事情もあって、平藩は敗戦を続けたようだ』という」。生きていれば、真っ先に話を聴きたい人でもある。

 夏井さんが冊子を出したのは、「戊辰戦争では、多くの若い人たちが命を失ったのです。いい方を替えれば、戊辰戦争は多くの若い人たちから、未来や夢を奪い取ってしまったのです。(略)私たちが一番しっかり学び取らなくてはならないこと、それは戦争をしてはいけないということだ」という思いからだった。
 
 この戦いでは、各地で火が放たれ、陣屋や名刹、民家などが焼き払われた。庶民にとっても迷惑な話だった。
 
 最後に、夏井さんから聴いたエピソードを一つ。平城下・三町目の旅宿「十一屋」には幕府軍が泊まっている。平藩の若者がフランス式の砲術を学ぶために十一屋へ通ったという。「装備が旧式」という孝徳さんの話と符合する。

2018年4月7日土曜日

ふるさと出版文化賞

 これは半分PRだ。平成29年度いわき民報ふるさと出版文化賞に、いわき地域学會の『いわきの地誌』が入賞した。といっても、最優秀賞、優秀賞とは別枠の特別賞だ。いわば、賞外賞。
 3月10日付のいわき民報で入賞を知った=写真。その後連絡があり、きのう(4月6日)は9日に開く授賞式と入賞作品の紹介記事が載った。

 いわき地域学會は、自分たちの住むいわきを総合的に調査・研究し、正確なデータを次代に残す――を目的にした市民団体だ。昭和59(1984)年秋に発足した。この30年余、総合調査報告書や、会員による新聞連載をもとにした図書、会報など数十冊を世に出してきた。その最新の成果として、『いわきの地誌』が去年(2017年)12月20日に発行された。

 同書編集者によると、地誌学は自然地理学と人文地理学を「ある特定の場所、範囲で系統的かつ総合的に記述して、その土地、範囲の全体像を描きながら特性や個性を構造的に示していく分野」の学問だ。「通常の地理論書に示されるような何処に何があるかという観光案内的な書き方やデータの説明でページを使うというような姿勢が少ない」うえに、表紙も情けないほどそっけない。

 だから、「地理学の多様性を意識するあまり、いくつもの地理学の柱を立て、そのなかに事象を押し込めてしまっている印象があり、一般の人が読むには柱立てが分散していて、かえって読みにくさを感じさせる気配がある。表紙や写真の扱いなど、デザインにも一工夫欲しいところである」という作品評になった。

 東日本大震災・原発事故を経験した福島県浜通りの、「いわきの今」に光を当てた。ヤマニ書房本店・鹿島ブックセンターに販売を委託したところ、静かに少しずつ売れて、何度か追加注文を受けた。興味のある方はぜひ書店へ足を運んでみてください。ありがたいことに、「今後、いわき市を研究し、あるいは知って学んでみようという人々にとって、指標的な存在になり得るもの」と作品評にあります。

2018年4月6日金曜日

きょう、入学式

 きょう(4月6日)は小・中学校の入学式。満開のサクラのなかを――といいたいところだが、ソメイヨシノの開花が早すぎた。4日夜から5日未明の風でだいぶ花を散らしたソメイヨシノもある。
 標高150メートル前後の夏井川渓谷はともかく、いわきの平地は丘陵のヤマザクラも咲いて、一気に「山ほほえむ」状態になった。丘のふもとにあるキブシも満開だ=写真。

 人間の春は、しかし――。年度替わりに伴う人間の移動(異動)が影響しているのか、このところ家の前のごみ集積所がカラスのえさ場になっている。きのうは朝、あまりの散乱ぶりにカミサンが絶叫した。ごみネットの中にちゃんと押し込まない人が現れたようだ。生ごみに空き缶――のルール違反もあった。そばの電柱にまた、「マナー順守」の紙を張らないといけないか。
 
 区内会の総会が3月最終日曜日に開かれた。終わって懇親会に移り、「カラスとごみの問題」に注意を喚起するチラシを回覧しよう、という話になった。
 
 東京都で、カラスには黄色いごみネットが有効という結果が出た。地方にもそれが普及した。ところが、今はどうか。1羽がネットをくちばしで持ち上げる、別の1羽がごみ袋を引っ張り出してつつく――というところまで、カラスが学習・進化した。役所は中身が見えるようにと透明なごみ袋に決めたが、カラスに関しては逆効果だった。生ごみを見せない工夫が要る。そこをポイントにした回覧チラシをつくろうと思う。
 
 暮らしの現場=地域社会にはいろんな人がいる。だからこそ、マナーとルールが要る。この時期、特に「カラスとごみの問題」が繰り返される。
 
 今週のごみ出しは、きのうで終わった。ひとまず通学路(歩道)がきれいななかを、春休みを終えた子どもたちが登校する。そのあと、私も小学校へ行く。入学式に臨み、午後には民生児童委員と区長との懇談会に参加する。年度初めの恒例行事だ。しばらくは顔合わせを兼ねた集まりが続く。

2018年4月5日木曜日

背戸峨廊ができたワケ

 いわき市川前町の神楽山(808メートル)で風車設置の計画があるというので、ネットで検索していたら――。
 風力発電とはまったく関係のないことだが、びっくりする情報に出合った。神楽山を水源とする江田川=背戸峨廊(せどがろ――「せとがろう」ではない)は、山をはさんで隣り合う加路川を「河川争奪」をした結果、あのような滝の連続する急流ができた、というのだ。
 
 11年前の2007年、千葉県立中央博物館友の会が、紅葉の時期に茨城・福島浜通りの「滝めぐり」を実施した。背戸峨廊にも入渓した。そのときの計画書がネットにアップされている。河川争奪の書き込みがある地図を借用する=写真。
 
 夏井川支流の江田川がなぜ「背戸峨廊」と呼ばれるようになったか。山をはさんだ東側を同じ支流・加路川が流れている。加路川流域の住民は山の裏を流れている川なので、江田川を「背戸の加路(セドノガロ)」と呼びならわしていた。それが詰まってセドガロになり、詩人草野心平がセドガロに「背戸峨廊」の漢字を当てた。
 
 ところが太古、江田川が加路川の源流部を奪い取った結果、今のような奇観が生まれた。友の会計画書は、地形図からみても河川争奪は一目瞭然、なのに『いわき市史』にも現地の看板にも何も書いてない――と少し不満気だ。
 
 地図には「争奪地点」のほかに、「風隙」という文字も書き込まれている。私は最初、これを地名と誤解した。
 
 いわき地域学會が28年前に発行した『鮫川流域紀行』(1990年)で、初代代表幹事・故里見庫男さんが「河川争奪」について書いている。それを思い出して読んだら、「風隙」があった。「風隙」は地名ではなく、「ふうげき」と呼ぶ地形だった。河川争奪の結果、流れを持たなくなって残された谷間をいうそうだ。
 
 それが事実だとすれば、江田川は山をはさんで加路川に並行する「裏加路川」どころか、首根っこの部分で加路川を取り込んだ「古加路川」ではないか。
 
 近々、地域学會の仲間でもある地理学の先生と会うので、そのへんのところを聞いてみよう。どんな反応が返ってくるか楽しみだ。

2018年4月4日水曜日

「十一屋」が「土屋」になることも

 まずは明治40(1907)年5月、いわきで最初に創刊された民間新聞「いはき」の広告から――。「煙草元売捌/洋小間物商/清 平町三丁目/小島末蔵/十一屋号」が載る(「清」は丸に清)=写真。活字では「十」と「一」は離れているが、肉筆ではそれがくっついて「土」と誤認・誤記されることもあったようだ。
 大正時代に入ると、詩人山村暮鳥がこの十一屋に出入りするようになる。「十一屋」への興味・関心はここから始まった。

 幕末の元治元(1864)年、21歳の新島襄が函館から上海経由でアメリカへ密航・留学する。その前、彼の乗った帆船「快風丸」が江戸から函館へと東北の太平洋側を北上中、中之作に寄港する。新島は下船して、「龍燈」伝説で知られた閼伽井嶽を目指す。

「赤井嶽(閼伽井嶽)と云う名山を見物せんとて参りしが、折り悪しく途中にて烈風雷雨に逢い、漸く夕刻平城迄参りし故、遂に赤井嶽に参らず、その処に一泊せり。但し、旅舎は十一屋清蔵と云う。……」(『新島襄自伝』岩波文庫)。新島はちゃんと「十一屋清蔵」と認識し、記録した。
 
 それより9年前の安政2(1855)年5月、「長年の疾病(しっぺい)を癒すため、藩より休暇を得て湯治のため湯本温泉に赴いた水戸藩士」がいる。小笠原貞道。彼の『磐城温泉日記』(東京国立博物館所蔵)を、いわき地域学會の先輩・小野一雄さんが解読し、補註を加えて、同学會の会報「潮流」30報(2002年12月刊)に発表した。

 この3年ほど、十一屋に関して小野さんとやりとりをしている(実際には小野さんから情報をもらうだけだが)。先日、ご本人から、16年前に発表した『磐城温泉日記』の文中に「三町目土屋清蔵」とあるが、この「土屋」を「十一屋」と考えた、というメールが届いた。

 小笠原は湯本温泉の旅館に滞在中、閼伽井嶽へ登り、寺に一泊して、未明(寅の刻過ぎ)に「杉の樹梢に火光」、いわゆる「龍燈」?を見る。その後下山し、平城下の「三町目土屋清蔵といふ市店に寄りて午飯を調ひ、酒など酌みて旅の労を養ひて、ここを立ち去」った。

 小野さんが、この「土屋清蔵」を「十一屋清蔵」と考えたわけは――。このところ私以外にも「十一屋」関係の情報、あるいはアドバイスを求められることが少なくなかったからだろう。

 旧磐城平藩士で明治の文学史に名を刻む歌僧天田愚庵(1854~1904年)がいる。その愚庵が3歳年上の郷友、実業家江正敏(ごう・まさとし=1851~1900年)について小伝を書いた。『いわき史料集成』第4冊(1990年刊)に、明治30(1897)年刊の「江正敏君伝」(写真版)が収録されている。もう遠い昔だが、小野さんが解説を書いた。
 
 それを種本に、北海道の作家不破俊輔さんが、友人で奥さんが江正敏の血を引く福島宜慶さんと連名で、小説『坊主持ちの旅――江正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター、2015年)を書いた。作者から小野さん経由で本が送られてきた。

 その延長で、今度は一見無関係と思われた幕末の水戸藩士の日記を再吟味したわけだ。

 小野さんの新しい解釈に戻る――。原本のコピーを見ても、やはり「土屋」なのだが、もともと旅行の手控えなどから清書したらしく、文字が整然としている、という。つまり、土地勘のない旅人が後日、自分のメモを見ながら清書する段になって、「十一屋」だか「土屋」だか判然としなくなった。で、よくある名字に引っぱられて「土屋」と誤読・誤記した。そう推測していいのではないか。

 元ブンヤとしては大いに納得できる話だ。記者はメモ帳に取材したことを書き連ねる。あとで何と書いたか判然としない文字もある。わずか1、2時間でさえそうなのだから。

これは文字が発明されて以来、現代まで絶えず繰り返されている事象ではないだろうか。古文書であれ現代の新聞であれ、誤読・誤記はつきもの、2割くらいは疑問を持って接することだ。

2018年4月3日火曜日

小流れの妖精

 毎日散歩し、毎週末に森を巡っていたころは、野草の花やキノコ、樹木の芽吹き・開花・落葉などで、自然の移り行きを実感した。今はふだん、庭の草木に季節を感じる程度にフィールドが小さくなった。
 今年(2018年)は、いわきでも3月のうちにソメイヨシノが咲き出した。もう満開だ。わが家の庭では――。頭上にプラムの花、足元にスミレ、スイセン、クリスマスローズの花。これらの花はしかし、いつもの年よりぐんと早いというわけではない。

 日曜日(4月1日)に夏井川渓谷の隠居で過ごした。対岸のアカヤシオは、平地のソメイヨシノと同様、満開に近かった。隠居の庭で土いじりをする合間に、気分転換を兼ねて周囲をブラブラした。岸辺の空き地に小流れがある。スプリング・エフェメラル(春の妖精)のひとつ、キクザキイチゲが咲いていた=写真。

 森のなかでは――。同じ渓谷の別の場所だが、イワウチワが開花したという。隠居の対岸の急斜面でもイワウチワが群れ咲いていることだろう。斜面の上り下りはもう15年以上やっていない。脳内に昔見て感動した光景が映し出される。

 季節を感じる“センサー”が鈍くなっている。加齢による衰えもあるのだろう。キクザキイチゲの開花が早いのか遅いのか、わからなくなっていた。自分のブログを見て、そんなに早いわけでもないことを知る。アセビはむしろ遅いくらい。が、アブラチャン、キブシ、ヤシャブシはどうか。気づきが遅くなっているから、比較検討もできない。

 それよりなにより、小流れからクレソンが消えた。前は小流れに光がさすよう、ときどきドクダミとスギナを除去していた。震災後、それをやめたら、隣接するヨシ原からヨシが侵入してきた。昨秋、小流れを覆っていた枯れヨシを除去したが、また新芽が出てくる時期になった。

 自然の恵みを利用する渓谷の暮らしは、その恵みが最大になるよう、自然に手を入れる。クレソンを繁茂させるためには、小流れにいつも光がさすようにしないといけない。観光客は「あら、クレソンがあった」だが、住民・半住民は手を入れて繁茂する状況をつくったから、「ようやくクレソンが増えた」になる。ヨシを根から取り払い、自然にはたらきかけて、季節に対する感覚を取り戻さないと。