2018年5月10日木曜日

全国紙の「福島」報道

 地域紙で37年近く仕事をしてきた。新聞には愛着がある。業界の最新情報は頭に入れておきたい――そんな気持ちで今も日本新聞協会発行の月刊誌『新聞研究』を読んでいる。毎月、書店から届く。(いや、読んでいた、に訂正する。支出を減らすようにいわれて、最近、何誌か定期購読をやめた。「新聞研究」もそのひとつ。5月号が来てないのでわかった)
 東日本大震災と原発事故がおきた平成23(2011)年3月以降、「新聞研究」は節目になると震災と原発事故を特集する。といっても業界誌だから、各社の編集者や記者がどんな視点から企画を練り、取材し、どう感じたか、どんな反応があったか、といったことがつづられる。

 2018年4月号は「東日本大震災7年――復興への道筋探る報道」がテーマだった。定期購読の悪いクセで、つい“積ン読”になってしまう。座卓のそばに置きっぱなしにしておいた。

 おととい(5月9日)、そばに横積みの新聞切り抜きや雑誌類を整理するなかで、まだ読んでいなかったことを思い出してパラパラやったら、見たことのある地名や名前が出てくる。最初からちゃんと読んでみたら、わが家のことを取り上げていた。

 筆者は毎日新聞東京本社社会部都庁キャップ・竹内良和さん。春まで福島支局次長だった人だ。「『福島の分断』を不断の努力で伝える――たとえ半歩でも前に進める気概で」というのがタイトルだ=写真。

 拙ブログを下敷きにしながら、次長(デスク)が取り上げた記事の経緯を振り返る。

 去年(2017年)8月中旬、カミサンに毎日新聞福島支局の記者から電話が入った。6年半の節目に合わせた連載を企画している。ついては取材をしたい、ということだった。
 
 初めて国内支援に入ったシャプラニール=市民による海外協力の会などと連携して(カミサンはシャプラの会員、私はマンスリーサポーター)、家(米屋)が「まちの交流サロン・まざり~な」になった。もともとは米屋の一角を地域図書館「かべや文庫」として開放していた。最初は地域のこどもたちの、最近は大人たちのたまり場だ。
 
 震災と原発事故のあとは、地震・津波被災者と原発避難者が加わった。それぞれに屈託がある。建前だけでは誤解の溝は埋まらない。本音でぶつかりあったっていいではないか。人によってはそれでつながりができた。

 ――月遅れ盆明け、取材にやって来たのは入社2年目の女性記者だった。以来、デスク(竹内さん)からいろいろ指摘され、福島から車で通うこと4~5回に及んだ。写真撮影にはわざわざ東京本社からカメラマンがやって来た。その連載「復興断絶・東日本大震災6年半 つながりたい」が9月8日に社会面で始まり、最終回の9月14日、「避難者と本音出し合う」という見出しで、「かべや文庫」のことが取り上げられた。

 それから半年後――。同紙の東日本大震災関連企画「明日を探して」の5回目が3月11日に載った。いわき市平薄磯地区で今夏、カフェ「サーフィン」を再開する女性の物語だ。わが家の「かべや文庫」にも来る人なので、良く知っている。取材したのは同じ女性記者だった。

 半年前に知りあってからは、いわきへ取材に来ると、たまにカミサンに連絡をよこす。わが家へ寄っていくこともあった。3月の連載企画では、取材の一環なのか、私を指名して電話であれこれ聞いてきた。
 
 事件・事故のニュース取材だけでは、新聞の面白さはわからない。日常の中に埋もれているニュースを掘り起こす連載企画や特集を手がけたときに、「記者をやっていてよかった」という思いがわく。彼女もきっとそうだったろう。

 今度の「新聞研究」を読んで、彼女のデスクとは直接顔を合わせたことも話したこともないのだが、「つながっていた」という思いを抱くことができた。「まちの片隅で起きている小さな一歩」という見方は、私自身もふだんから口にしていることなので共感できる。「デスクにこういわれた」「おれがデスクだったら」。わが家に取材に来るたびに、彼女とそんな会話を交わして楽しんだ。

 この春、デスクは東京本社へ、彼女は中部本社へ転勤した。最後は「アパートを探さないといけないんです」。そんな胸の内を話してくれるようになった。いや、取材で家に来るたびに、自分のことや家族のことを話すようになった。記者であると同時に人間として人に接する、これは得難い資質だ。

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