2018年5月29日火曜日

住宅団地とズリ山と梨畑

 吉野せいの作品集『洟をたらした神』に収められている「水石山」は、なかなか調べがいのある作品だ。文末に記されている「昭和三十年秋のこと」、つまりいわき市が合併する11年前、高度経済成長が始まる直前の光景が描かれる。
「村を横ぎり、鬼越峠の切り割りを越えて隣町に出たが、いつか見た高台の広い梨畑地区は住宅団地に切りかえられはじめて、赫(あか)い山肌が痛ましくむき出していた」

「鬼越峠」は北の好間村(当時)と南の内郷市(同)をつなぐ丘の切り通し。阿武隈高地から東へ指状に延びる丘陵の一角をカットして(いつの時代かはわからないが)、好間と内郷との往来を容易にした。丘の東方には戦国大名・岩城氏がよりどころとしていた好間・大館が、近世に入るとさらに指状の丘の先端に磐城平城が構築される。

 峠というほどのものではないが、鬼越を過ぎて「隣町」の内郷へ出ると、左手は平の街と水田地帯。右手にむき出しの「赭い山肌」が見えたのだろう。そこはのちの高坂団地だったか。

「いわき市内郷高坂町は、かつては常磐炭鉱のズリ山となっていた場所で、ズリ山を崩して住宅団地が造成された」。震災後の温泉噴出を調査した論考のなかに出てくる。それは分かるのだが、すべてがズリ山だったわけではない。

 きのう(5月28日)、いわき市内郷支所で「内郷学講座運営委員会」が開かれた。委員になっているので参加した。
 
 かつての支所長室の前に、昭和36(1961)年秋の内郷市街を空撮した大型写真パネルが飾られている=写真。高坂団地(東に「現・高坂一丁目」、西に「現・高坂二丁目」のラベルが張ってある)が開発される前の写真のようだが、書きこまれた道路網がすごい。
 
 昔を知る地元の委員に尋ねたら、ズリ山を切り崩して住宅団地にしたのは高坂二丁目らしい。写真には南北に伸びたズリ山が映っている。西側は白っぽく輝き、東側にうっすら影ができているのでわかる。一丁目の方は木々が茂っている。せいのいう「梨畑地区」はこちらか。
 
 この空撮写真とせいの文章を重ね合わせて思ったことだが――。『洟をたらした神』の世界を調べれば調べるほど、せいの文章の正確さが浮き彫りになる。その正確さはどこからきているのか。記憶だけでは、そうはいかない。自分の記録だけでもそうはならない。書くために“調べ”もしたのではないか。もしかしたら協力者がいた?

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