2018年6月30日土曜日

「尻から俳句」とか

 おととい(6月28日)の「あさイチ」で、俳人の夏井いつきさんが、出演者に俳句づくりを指導した。ポイントは「尻から俳句」だという。
 俳句は上五・中七・下五の五七五音からなる。素人は下五から入るといいそうだ。一番下に季語ではない五音を持ってくる。真ん中の七音は、下五を描写したものにする。一番上に全体の気分に合った季語を据える。

 キャスターの一人、博多華丸さんが“モデルケース”になった。下五、「ボールペン」。中七、「半分黒い」。上五、「青嵐」。「青嵐 半分黒い ボールペン」。なるほど。

 テレビを見ながら、同時進行でつくってみた。身の回りを眺めて五音の名詞をさがすと、新聞があった。下五、「新聞紙」。新聞をパラパラやったら、「廃炉」の言葉が目に留まった。中七、「廃炉伝える」。上五は「梅雨曇り」。

 事故を起こした1Fだけでなく、2Fについても、東電はやっと廃炉の意志を示した。廃炉には何十年という時間がかかる。「廃炉」と口にするだけで重苦しくなる。それを「梅雨曇り」に重ねた。「梅雨曇り 廃炉伝える 新聞紙」。確かに尻から積み重ねていけば、かたちにはしやすい。

 きのうは「梅雨曇り」どころか、晴れて猛烈な暑さになった。戸を全開し、扇風機をかけても、茶の間の空気はよどんだまま。朝から室温が上昇し、午後1時すぎには32.5度になった。庭のプラムが熟しかけてきたので、先日、籠にいっぱい採った。残りをと思って、朝食後、庭へ出たが、熱風にやる気が失せた。(けさ6時過ぎ、カミサンに尻を叩かれ、幹にはしごをかけて残りを採った。朝日に照らされ、汗がにじんだ)

 日中は外へ出る気になれない。室内にいても熱中症が心配だ。こまめに水分を補給しながら、座業を続けた。

 カミサンに「リクエストしていた本が入った」と、図書館から連絡がきた。夕方出かけて、エアコンの効いた世界でほてりを冷ました。これを「尻から俳句」でどう表現するか。<6月29日室温32・5度>の前書を添えたら、よりつくりやすくなったが、人に見せるレベルではない。

 まだ6月なのに、関東甲信地方が梅雨明けした。東北南部のいわきは、気候的には「東海・関東型」だから、梅雨が明けたも同じだが、来週後半には天気が崩れる。そんな日々の自然と人事に対応し、記録するには、「尻から俳句」が適しているかもしれない。ひまつぶしにもなるので、ちょっと続けてみようかな。

2018年6月29日金曜日

ヒヨドリの巣

 ヒヨドリにはすまないことをした、と思う。
 いわき市の春の「清掃デー」(6月3日)に、カミサンが家の周りの生け垣を剪定したら、造りかけで「逆とっくり」型のコガタスズメバチの巣があった。危ないので、夕方には除去した。
 
 そのとき、ハチの巣から3メートルほど離れた同じ生け垣に、ヒヨドリも営巣していた。卵が四つあった。ヒヨドリは結局、巣を放棄した。卵もいつの間にか消えた。カラスが失敬したか。あとで、カミサンが剪定を再開し、巣を枝ごと切って=写真、テレビのわきに飾った。

 私が目撃した例では、ヒヨドリはわりと人家のそばで営巣する。夏井川渓谷にある隠居の庭のクワの木に巣があった。同じ庭木のカエデで抱卵中のヒヨドリを見たこともある。

 わが家の近く、義伯父の家の玄関前のナンテンにも巣をかけた。カミサンが剪定してわかった。計測したら、長径13センチ、短径9センチ、深さは4センチほどだった。外側基部にはビニールテープやレジ袋のきれはし、枯れ草を使い、産座にはシュロが敷き詰められていた。
 
 今度切り取った巣も、外側にはビニールがびっしり敷かれている。長径・短径もナンテンの巣とほぼ同じだった。
 
 生け垣と家の距離は1メートルもない。コガタスズメバチの巣は風呂場の前に、ヒヨドリの巣は店から続く「かべや文庫」の窓越しにできた。春~梅雨期は、めったなことでは窓を開けない。人間が軒下に近づくこともほとんどない。ヒヨドリはヒヨドリなりに観察して営巣場所を選んだのだろう。

家の周りをきれいにする「清掃デー」が設定されなかったら雛はかえっただろうが、人間の暮らしの場に近すぎた。思えば、朝、そちらの方でよくヒヨドリが鳴いているときがあった。巣材運びに忙しかったか。

 義伯父の家のクスノキにカラスが営巣したことがある。業者に木全体の剪定を頼んだとき、古巣を壊さないように切ってもらった。巣は直径40センチほどあった。ハンガーが6~7個、組み込まれていたのには驚いた。すっかり都会生活になじんでいる。

 わが家の庭木も「緑の鬱蒼」になりつつある。カラスその他が巣をかけてもおかしくない。そろそろ業者に剪定を頼まないといけないか。

2018年6月28日木曜日

「みそかんぷら」ほか

 春に種をまいたり、苗を植えたりした野菜が収穫期に入った。
 わが家、といっても夏井川渓谷にある隠居の菜園のことだが、少し前にジャガイモを収穫した。4月に入るとすぐ、家の台所に置き忘れて芽が出たのを植えた。2カ月半がたって地上部の葉が枯れたので、掘り起こしたら子芋がいっぱい取れた。“みそかんぷら”にした=写真。カミサン流なので、油が多く、少しギトギトしていたが、子どものころの「おふくろの味」を思い出した。

 わが菜園では、常時栽培している三春ネギのほかには、春に植えたのがこのジャガイモとキュウリ苗2本だ。キュウリ苗は地元・平の種屋から買った。芽かきを終えた。あとは花が咲き、実が生(な)って収穫するのを待つばかり。
 
 秋の播種のためにネギ坊主から三春ネギの種を採ったが、これは直接口に入れるものではない。代わりに、お福分けが途切れることなく続いている。

 大葉(青ジソ)が届いた。カミサンが、別のところからもらったニンニクも使って、「あぶらみそ」にした。暑い時期にご飯にのせると食が進む。

 もらった青梅を甕に漬けた話は前に書いた。あした(6月29日)あたり、白梅酢があがっているかもしれない。赤ジソをもんで発色をよくするための大事な調味料でもある。赤ジソは菜園にある自然発生の“ふっつぇシソ“を利用しようか、買おうか迷っている。“ふっつぇシソ”はどうしても発色が悪い。

 キュウリにはブルームとブルームレスがある。ブルームとは、実から自然に出てくる白い粉のようなロウのことだ。ブルームキュウリは皮が薄くてやわらかい。糠床に入れるとすぐ漬かる。

 カミサンがコープに注文したキュウリが届いた。ブルームだった。スーパーから買ってきたブルームレスのキュウリもあったので、両方を同時に糠漬けにして食べた。ブルームレスの硬さがはっきりわかる。ブルームがあればそれを育てる。それを買う。

 ファストフードが主流の時代だが、現役を退いた世代にはスローフードを取り戻してほしい。といっても、相手は野菜だ。時期を逃すと来年まで手に入らない、秋まで栽培ができない、なんてことになる。スローライフを実践しようと思えば、けっこう忙しい。
 
 ただし、「そのとき」にちゃんと手当てをしてやれば、あとは自然がじっくり味を育ててくれる。漬物、中でも梅干しの土用干しはその典型だろう。私は好みで干さずに梅漬けにするが。

2018年6月27日水曜日

47年前のテレビ番組「老人の山」

「<昨日>の新聞はすこしも面白くないが/三十年前の新聞なら読物になる」(田村隆一)。この詩句を痛感する日々だ。古新聞をネタに書くことが増えた。書きたい材料が次々に現れる。“古新聞シリーズ”とでも開き直るか――。 
 いわきの作家、故吉野せいの短編に「凍(し)ばれる」がある。せいの夫・吉野義也(三野混沌)の詩友、猪狩満直が北海道へ移住したあと、ハガキをよこす。その便りの中に「凍ばれる」という言葉があった。
 
 初出は、昭和46(1971)年3月13日付のいわき民報だ。夫・混沌が亡くなって7カ月後の同45年11月16日、不定期で「菊竹山記」と題したせいの連載が始まる。その5回目に載った。――ある朝起きると、「しばれる」寒さだった。それで、一昨夜見て「しばれた」テレビ番組<現代の映像「老人の山」>を思い出し、老人が住むあばら家と老人たちを事細かに紹介しながら感想をつづる。
 
 単行本化された作品集『洟をたらした神』所収の「凍ばれる」は、しかし新聞掲載時の骨格は残しながらも、かなり文章が練り直される。「けさ」と「一昨夜」は同じ日の朝と夜になった。新聞と違って、雑誌、あるいは本にするとき、せいは「身辺雑記」を越えた「作品」、つまり小説表現を意識したということだろう。
 
 いわき市立図書館のホームページを開き、電子化されたいわき民報を閲覧して、「老人の山」の放送年月日を確かめる。昭和46年3月5日だった。テレビ・ラジオ欄に番組案内記事が載っていた=写真。新聞の文章と、「老人の山」の放送年月日を重ねると、「凍ばれる」の最初の原稿が書かれたのは、同年3月7日ということになる。

「日本の山村には、その昔、老いた親を、息子が背負い、山にはいったと言う『姥捨(うばすて)』の伝説が残されている。そして、現代――働き手が都会に出稼ぎに行くにしたがって、一人残された老人たちは、誰にも見とられることなく、病死していく。『姥捨』の伝説は、いま中国山地に見ることができる。(以下略)」(番組案内記事の冒頭部分)

 山中の孤独な生、孤独な死――番組を見て、せいは心が「しばれる」。その生々しい感覚が、新聞の文章から立ちのぼってくる。が、単行本ではそれがやわらげられ、「生誕の時の光りに反してこの終りの暗さは、これが一生というものなのか」という詠嘆にまで昇華される。

 こうして、作品集『洟をたらした神』の細部にまで分け入っていくと、作品の構造、せいの心理、時代状況といったものが、少しずつだが見えてくる。
 
 高度経済成長末期の47年前、日本の山村ではすでに「限界集落」化が始まっていた。この「姥捨」状況は、半世紀近くたった今、どうなっているだろう。少子・高齢化が進行した結果、孤独な老人は「山」にも「町」にもあふれている。さらに深刻さが増しているのではないか。
 
 というわけで、古新聞も使いようだな、「昔」を訪ねて「今」を、「未来」を考える材料にはなるのだから――と、元ブンヤは胃に重いものを感じながらつぶやく。

2018年6月26日火曜日

グミとオカトラノオ

 きのう(6月25日)の続き――。夏井川渓谷の森の中に住む友人は、仕事のほかに趣味の芸能活動と土いじりにも忙しい。 
 家の前の斜面に黒々とした土の畑が広がる。今あるのは大根・ニンジン・アスパラガス・キャベツなど。秋にはまた、白菜その他の冬野菜がそろう。小流れにはワサビ。林と隣接する畑の一角にはクリ、梅などの果樹。ほかにグミ、ブルーベリー、キウイなども。

 車で林間の狭い坂道を駆け上がって家の前まで行く。近くでグミが真っ赤に熟していた=写真上。つい歩み寄って、もぎって食べた。グミはグミだった。今風に言えば、「シブアマ」(渋くて甘い)。でも、その渋さが少年時代の記憶をよみがえらせる・
 
 グミを食べた最初の記憶は小学校の低学年。近所の家にスモモ(プラム)があった。それを食べたのも同じころ。スモモもグミも家にはなかった。ガキ大将がチビどもを引き連れて、もぎりに行った。怒られなかったから“公認”だったのだろう。
 
 友人の家のすぐ下はロックガーデン。今は緑に覆われ、オカトラノオが咲いている=写真下。梅雨の渓谷を彩る、清楚な白い花だ。「摘んでもいいよ」というので、カミサンが2本手折った。
 友人の案内で畑を歩く。自分の畑だけでなく、近くの休耕畑も借りてジャガイモや落花生を栽培している。この熱心さはどこからくるのだろう。
 
 耳に飛び込んでくるのはウグイスの「ホーホケベキョ」。ウグイスも土地によってさえずり方が異なる。渓谷のウグイスは「ホーホケキョ」と「ホーホケベキョ」の2パターンがある。

 さてさて、青梅をいっぱいもらったので梅漬けをつくることにした、ということを、きのう書いた。夕方、雑誌「きょうの料理」を参考にしながら、約2キロの梅を水で洗い、布巾で水分をふき取り、甲類35度の焼酎を街から買ってきて、塩をまぶして甕に漬け込んだ。
 
 そばかすや茶色い傷がある青梅は除外した。それが3分の2.こちらは梅酒にでもするか――と考えていたら、近所の知り合いが欲しいというので、半分をあげた。前は庭のプラムが佐藤錦に化けた。巡りめぐって、今度は何になるか。期待しないで待っていると、きっといいことがある。

2018年6月25日月曜日

青梅をもらう

 いわき市小川町の夏井川渓谷には、10戸前後の小集落が三つ点在する。最上流の牛小川集落にわが隠居がある。その隣、椚平(くぬぎだいら)集落の森の中に住む友人から、平のわが家に電話がかかってきた。
「梅をあげる。あした(6月24日)朝9時半までに来なよ」。用があって、9時半には出かけるという。日曜日にはマチから離れて隠居で土いじりをする。10時に行くのも8時に行くのも同じだ。9時前、友人の家に着いた。梅漬けにするには十分の量の青梅をもらった=写真。ニンニクもお福分けにあずかった。

 梅干しは完熟して黄色くなった梅を漬けて干す。梅漬けは、カリカリが持ち味。青梅を漬ける。干さない。梅干し同様、あとで赤ジソを加えて鮮やかな赤紫色にする。少年時代は梅干しと梅漬けの区別がつかなかった。が、結婚してからは家の数だけ食文化があることを知った。

 口にふくめばとろける梅干しより、カリッとした梅漬け(実が大きめだから、会津の高田梅だったか)が好きなのは、小さいころからなじんだ「おふくろの味」だからだろう。
 
 で、梅漬けをつくるために、隠居の庭に高田梅の苗木2本を植えた。今は1本に減った。初めて実を収穫したとき、実がそばかすだらけだった。そばかすは一種の傷。そこから硬化したり腐敗したりする。結局、梅漬けをあきらめて梅ジャムにした。

 もらった梅は高田梅より小さいが、小梅よりは大きい。普通の青梅だ。畑を覆うように枝を広げていた。今年(2018年)は生(な)り年で、整枝を兼ねて青梅を収穫したという。

 スーパーから黄色い梅を買って来て、梅干しをつくったことがある。そのときの参考書、NHK「きょうの料理」2006年6月号を引っ張り出した。それを見たカミサンがけげんそうな顔でいう。「どこにあったの?」。料理の本は台所にある。それとは別に、漬物特集の「きょうの料理」を自分の本棚に差し込んでおいた。たぶんポケットマネーで買ったのだ。

今までの失敗を参考に、梅漬けに挑戦してみる。まずは手順を思い出さねば――。

2018年6月24日日曜日

アレッポの石けんが効いた

 洗髪・洗顔・ボディ、すべてにシリアの「アレッポの石けん」=写真=を使っている。
 理由は簡単だ。シャンプーで頭を洗うとすぐかゆくなる。フケがこぼれる。アレッポの石けんに切り替えたら、フケもかゆみも止まった。それだけではない。2年前からは足の裏も洗うようにしている。その効果が出て、水虫による症状が消えつつある。

 オリーブオイルとローレル(月桂樹)オイルのほかは、水と苛性ソーダを加えただけで3昼夜釜たきし、1年以上かけて熟成させた石けんだ。添加剤や合成香料は一切入っていない。これが肌に合った。汚れを落としながら脂肪酸を補うので、皮膚に潤いが残る。

 この石けんの使用歴はもう二十数年になるだろうか。顔も体も洗いながら、足の裏だけはほったらかしにしておいた。ところが、足の裏も洗うときれいになることを、NHKの「あさイチ」で知った。
 
 左の足裏は問題ないが、右の足裏はどういうわけか、若いころからかかとが角質化してひび割れができたり、皮膚がボロボロはがれたりしていた。小指と薬指の間がジュクジュクして裂け、痛がゆかった。
 
 足の裏とふち、指の間を石けんで洗い続けること2年、じんわりと殺菌・潤い効果が出てきた。足を洗うのが楽しくなった。指の間のジュクジュクもほぼ消えつつある。ツルツルになった、といえるまでもうちょっとだ。
 
 シリアでは内戦、日本では東日本大震災がほぼ同時に起きた。酒井啓子著『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』(みすず書房)によると、シリアから「国外に逃れられた人々はまだいい方で、国内で居場所を奪われた国内難民は、760万人にも上る。国外、国内を合わせると、シリアで難民化している人たちは、人口の半数を超える」

 シリアの人口は2200万人。その半分が難民化した。「第二次世界大戦以来の危機的状況」と言われるゆえんだ。
 
 日本の輸入会社が取引している製造業者は内戦下のアレッポを脱出して、ラタキアというところへ移った。アレッポの南西に位置する港町だ。そこで石けん製造を再開した。1000年の歴史を誇る石けんはかろうじて命脈を保った。とはいえ、ほかの製造業者は廃業や、トルコなどへの移転を余儀なくされた。
 
 カミサンが、店でこのせっけんを扱っている。一時販売を中断していたが、震災後、輸入会社から連絡が入り、再開した。おかげで心配なくアレッポの石けんを使い、その薬効を実感することができる。この一点だけで、ニュースに触れるたびにチラリと思う。戦争は、人命・財産だけでなく、文化を、歴史を、生業を、生活を破壊する。平和あってこその石けんだ――と。

2018年6月23日土曜日

「ぶな石」の白い線

 前にも書いたが、日曜日(6月17日)朝、いわき市三和町の直売所「ふれあい市場」で買い物をしたあと、山をはさんだ夏井川渓谷の隠居へ行くのに差塩(さいそ)の山道を利用した。
 差塩で寄り道をした。標高667メートルの一本山毛欅(いっぽんぶな)に「市乾草供給センター」がある。車で行ける。目当ては山頂部の巨岩「ぶな石」。「宇宙石」だの「パワースポット」だのといわれているが、それはなぜ? とにかく見ないことには始まらない。

「ふれあい市場」からの流れで、「差塩良々堂(ややどう)三十三観音参道入口」の先から左折して山道に入った。間もなく山頂というところで、北方の山の稜線に風車群が見えた。大滝根山に近い「滝根小白井ウインドファーム」の風車だろうか。ほかにも阿武隈の山々が遠望できた。
 
 山頂のなだらかな傾斜を利用した牧草地に、でんと巨大な岩の塊がある=写真上。「ぶな石」だとすぐにわかった。地元では「一本山毛欅石」、略して「ぶな石」と呼び習わしているそうだ。さすがに存在感がある。 

 広い牧草地と巨岩の組み合わせに、アメリカの画家アンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」を連想した。もとはしかし、うっそうとした森林だったろう。

「ぶな石」の上に立つ。幅2~3センチの白い線が一本走っている=写真下。その線の先には水石山が見える。地続きの別の岩には、並行する二本の白い線を斜めに横切るかたち(字でいうと片仮名の「キ」に近い)で白い線が走っている。
 白い一本の線の方だと思うが、線の先から春分・秋分の日だか夏至・冬至の日だかに朝日が昇ってくる――なんて話があるようだ。実際の方角はどうなのか。

「ぶな石」―水石山のラインを地理院地図とグーグルアースで確かめる。南東―北西だ。春分・秋分の日、夏至の日の朝日と「ぶな石」の白い線は無関係だろう。冬至の朝日がそれに近いところから現れるかもしれないとしても、それは偶然で、神様が意図したわけではない。

 鉱物に詳しい知人に聞いた。「ぶな石」は花崗岩で、白い線(岩脈)はペグマタイト(大きな結晶岩からなる火成岩の一種)だという。石英・長石などからできている。地下深部で固まる過程でひびが入り、そこへ石英などが入りこんだ――単純化していえばそういうことらしい。花崗岩にはよくあるのだとか。

 阿武隈高地は大昔、地層が隆起し、長年の浸食作用の結果、老年期の山々になった。人は年をとれば丸くなる。それと同じで、山も年をとればなだらかになる。一本山毛欅もそうした「残丘」のひとつで、周囲より硬かったために岩が残った、

 そうそう、差塩で遺跡発掘調査をした渡辺一雄さんの文章がある。

「差塩の遺蹟は場所柄、花崗岩の巨大な石がごろごろしており、その間から縄文時代の住居跡や祭りの遺構などが、検出されることが多い。平地の遺構にくらべると、規模はずっと小さい。小規模な遺構が川沿いに点在するのである。恐らくは、狩りのためのキャンプ地として利用した所であろう」(いわき地域学會『あぶくま紀行』1994年)

「宇宙石」うんぬんより、こちらの方に心が躍る。

2018年6月22日金曜日

街の根上がりケヤキ

 いわき駅前大通りの街路樹はケヤキ。しょっちゅう車で駅前再開発ビル「ラトブ」へ行くものの、ビルの外へ出て歩くことはそうない。目の隅で南北にのびるケヤキの緑を感じるだけだ。
 この街路樹はムクドリの集団ねぐらになっている。夕方になると小群が次々に現れ、絶えず形を変えながら旋回したあと、ケヤキの枝葉の中に消える。たまに飲み会があって、バスの終点のいわき駅とラトブの2階を結ぶぺディストリアンデッキを歩いているときに、ねぐら入りするムクドリたちを目撃する。

 いわき駅の南方、旧国道6号のひとつ先の通りに、大通りと直角に交差する「新川緑地」がある。江戸時代、平城の外堀の外堀として新川が開削された。今は下水管を暗渠にして、地表にケヤキなどが植えられている。
 
 この緑地を歩いていると、足をとられて転びそうになる。いつからか、ケヤキの根上がりによる通行障害に注意を促す赤い円錐形のロードコーンが置かれるようになった。緑地の南側に立つ市文化センターの広場のケヤキも一部、根上がりがおきて、ロードコーンが置かれている。
 
 樹木は年輪を重ねて幹と枝が太く大きくなる。地上部を支える根も広く深く張る。それが阻害されるとき、根上がりがおきるようだ。
 
 先日(6月10日)、平・本町通りの中心地の三町目で「三町目ジャンボリー」が開かれた。ラトブに車を止めてひと巡りしたとき、大通りのケヤキの根元を見て驚いた。若木を植えたときに設けられた鉄製の保護板が持ち上げられて浮いている=写真。そばの歩道のレンガも少し盛り上がっている。周りには注意を促すロードコーンとスライドバーの囲いがあった。
 
 孫悟空の金輪・キンコジ、囚人の足かせ……。このまま放っておくと、鉄板が根元に食い込むのではないか。そうなる前に鉄板をばらせないものか。

2018年6月21日木曜日

いわきの芸妓史

 芸妓(げいぎ)はみずから輝き、日本の宴会や遊びを支え、社会の動きに寄り添ってきたにもかかわらず、決して表舞台に出ないという稀有な存在だった――。レジュメの前文の一部だ。
 土曜日(6月16日)、いわき市文化センターでいわき地域学會の市民講座が開かれた。小宅幸一幹事が「花街の盛衰②―華やかな夜を彩る芸妓の時代①」と題して話した=写真。芸妓の形態、社会的位置づけ、日常などを取り上げながら、いわき地方の芸妓の歴史を紹介した。以下はA3コピー12枚(A4で23ページ)のぶ厚いレジュメから。

 いわきでは明治時代以降、ヤマ(炭鉱)とハマ(漁業)が繁栄して、芸妓が増加した。明治40(1907)年現在の統計書によると、石城郡内の芸妓屋と芸妓の数は平町22軒・57人、湯本村11軒・23人、小名浜町5軒・11人など、計44軒・111人に及んだ。

 芸妓が一人前になるには時間とカネがかかる。それを支えたのは政財界の重鎮。パトロン(旦那)としても芸妓の成長を支えた。そういう“寛容さ”が社会にはあったという。

 ところが、大正後期から昭和初期には関東大震災、世界恐慌の影響もあって、芸妓よりカフェーの女給が手っ取り早い享楽の相手になる。戦時色が濃くなると、歌舞音曲に浮かれるときではない、となって、芸妓まで軍需工場に動員される。

 戦後は――。高度経済成長期に活況を呈するが、やがて新人の補給に窮するようになる。それを補うようにホステス(社交員)が登場し、ますます芸妓は減っていった。

 吉野せいの作品集『洟をたらした神』の注釈づくりをしている。小宅さんの話を聴きながら、ふと思った。大正~昭和初期に限定して、芸者のいるマチと開拓農民のムラを比較したら、なにが見えてくるか。芸者を支える旦那衆から底辺で生きる庶民まで、同時代の人間の息づかいが聞こえるような注釈づくりができたらおもしろい。

 小宅さんは元市職員。現役のころは自分を「B級職員」と評していた。地域の歴史に関しても、歴史専攻の「A級研究者」とは別に、花街や平七夕まつり、鉱山鉄道など、どちらかといえばマイナーな世界に分け入り、独自の論考を積み重ねている。「B級職員」になぞらえれば、これはほめ言葉でもあるのだが、「B級研究者」の本領発揮といったところだ。

2018年6月20日水曜日

ダッカからの手紙

 シャプラニール=市民による海外協力の会が南アジアで展開している事業のひとつに、家事労働に従事しなくてはならなくなった少女たちの支援プログラムがある。
 
 きのう(6月19日)、バングラデシュのダッカ事務所駐在員から活動の現況を伝える手紙が届いた=写真。ダッカは、街の発展が見て取れる。でも、その変化から「取り残された人々」がいる。シャプラはそうした人々への支援活動を続けている。
 
 具体的な取り組みとしては、児童労働削減のため、現地のパートナー団体とともに、ダッカ市内3カ所でヘルプセンターを運営し、14歳以上の家事使用人の少女には縫製、絞り染め、ブロックプリントなどの職業訓練を、さらに全員を対象にした授業では刺しゅう、調理実習、ペーパークラフト、アクセサリ―作りなど行っているという。

「習得したスキルを披露することで雇用主との関係が良好になる少女が多く、表情が明るくなっている様子が見て取れます」

バングラデシュには「ノクシカタ」という伝統刺しゅうがある。センターで「刺しゅうが好きな人は?」と聞くと、全員が手を挙げた。その写真が同封されていた。支援者の浄財が現地でなにに、どう使われているか――シャプラらしい報告でもあった。

 ダッカ駐在員は、東日本大震災後、シャプラがいわきで交流スペース「ぶらっと」を運営していたときのいわき駐在経験者だ。わが家の近くにある義伯父の家を宿舎にしていた。いわき駐在を経験した初めてのダッカ駐在員だけに、身内のような感覚で手紙を読んだ。

「学び成長するという当たり前の権利を一人でも多くの子どもたちが享受できるよう」に引き続き支援を――と締めくくっている。

 きのうはさらに、大学生と高校生の“孫”の母親から父の日プレゼントの焼酎セットが届いた。早速、この焼酎をなめながらダッカからの手紙を読んだ。終わって、サッカーワールドカップロシア大会の日本―コロンビア戦を見た。心が晴ればれするような一夜になった。

2018年6月19日火曜日

大阪北部地震

 間もなく朝ドラが始まるという時間帯だった。6月18日午前7時58分。ゴジラのテーマソングに似たアラーム音とともに、テレビ画面に緊急地震速報が表示された。大阪北部を中心に最大震度6弱の地震が襲った。朝ドラどころではない、すぐ特番に切り替わった。
 
 いわきでは、あの2011年3月11日、そして1カ月後の4月11、12日に6弱を経験している。そのときのわが家と周囲の状況を思い浮かべながら、画面に見入った。
 
 けさの新聞によると、6弱を記録したのは大阪市北区、高槻市、枚方(ひらかた)市、茨木市、箕面市。この1区4市の人口はざっと130万人、いわきの4倍だ。面積は逆に4分の1の約300平方キロメートル。人口密度はいわきの15倍、人口集中地域だ。
 
 東北地方太平洋沖地震と大津波、それに伴う原発事故が起きたあと、国際NGO・シャプラニール=市民による海外協力の会が、いわきで支援活動を展開した。いわきを起点にした被災地訪問ツアーを今も行っている。リピーターの一人、Sさんが大阪最北端の能勢町に住んでいる。前は箕面市に住んでいた。
 
 テレビ画面=写真=を見続けながら、Sさんの安否が気になった。やがて、フェイスブックで本人が無事であることを伝えてきた。「ワインが棚から落ちて割れたぐらい」ですんだという。能勢は震度5。家も「田舎の大きな古民家」だ。なにはともあれ、よかった。
 
 7年前の6弱のとき、わが家は――。食器棚から皿などが、本棚から本がなだれ落ちた。2階は1階よりひどかった。本棚から落下した本と倒れた本棚で足の踏み場もない。大阪の被災者も言っていたが、「家の中がグチャグチャ」になった。家そのものも大規模半壊に近い半壊の判定だった。
 
 近所の家の石塀が歩道に落下した。ちょうど小学生が下校中だった。たまたま何秒かの差で下敷きになるのを免れた。大阪では登校中に犠牲者が出た。屋根の頂部の“グシ”が壊れ、瓦が割れたり落ちたりした。大阪でもこれからブルーシートが屋根を覆うようになるだろう。停電、断水もあった。水洗トイレが使えない。都市ガスが使えない。大阪では新幹線も在来線も私鉄も止まった。
 
 ライフラインのシステムが巨大化した大都市圏では、その寸断による影響もケタ違いに大きい
 
 前日の日曜日午後3時27分には群馬県で震度5弱を記録した。群馬と大阪の関連性はないにしても、日本のまち・むらはどこでも被災地になりうる。“地震列島”に暮らしていることを再認識させられる一日になった。

2018年6月18日月曜日

これも新ネギ・新ジャガ

 きのう(6月17日)は、梅雨が一休みして曇天になった。朝、いわき市三和町の直売所「ふれあい市場」で買い物をし、山の上の差塩(さいそ)で寄り道したあと、夏井川渓谷の隠居で遅い朝食をとった。それから午後3時まで、昼食抜きで庭の菜園で過ごした。これほど集中して土いじりをしたのは久しぶりだ。曇天だからこそできたことでもある。
 4月の声を聞くとすぐ、わが家に放置してあって芽が出たジャガイモを植えた。燃えるごみとして出すのはしのびない。小芋が再生産されたらもうけものだ。2カ月半がたって収穫期を迎えた。肥料は1回やっただけ。まずはこれを掘り起こす。小芋がいっぱい取れた=写真上1。ゆでてから味噌と砂糖をまぶして油で炒める「味噌ジャガ」を食べたい。そのためだけの手抜き栽培だった。
「昔野菜」(在来作物)の三春ネギも掘り起こして“分解”した。ネギは、ネギ坊主を形成しながら、古い皮の内側に新しいネギを胚胎している。“分げつ”という。古い皮と硬い花茎をはがして新ネギを植え直した=写真上2。5月下旬に定植したネギ苗とは別の、役目を終えた古いネギの“分身”だ。こちらは夏でも秋でも、必要なときに引っこ抜いて食べる。

 隠居の庭は東西方向にひょろ長い。菜園は西端にある。東端は庭木に囲まれている。そこに梅雨期、マメダンゴ(ツチグリ幼菌)が発生する。土いじりの合間に、東端の庭で手のひらを地面に触れ、マメダンゴ発生の有無を探った。感触はなかった。来週以降の楽しみにとっておく。
 ジャガイモ掘りもネギの分解も、収納ボックスにタイヤの付いたフィールドカートに座ってやった。新ネギも同じようにして植えた。それでも今朝は腰の周り、太ももが心持ち重い。筋肉痛だろう。

 それよりなにより、5時間も野菜と向き合っていると、植物の生き方に思いがめぐる。土と空と虫を利用したその戦略、その形態、その色彩……。人間はもっと植物の生命力に学んでもいいのではないか。

 そうだ、収穫したネギ坊主のその後をお伝えしよう。すべて採り終えたのが1週間前の日曜日。水・木曜と続いた晴天にネギ坊主を干して種を採った。今は小瓶に入って冷蔵庫で眠っている。この20年余で最大の量を確保した=写真左。自分の菜園では手に余る量だ。種をまく時期は10月10日前後。それまでに“お福分け”することも考えなくては。

2018年6月17日日曜日

「君といつまでも」

 若い人に会ったら、「いわきで見た映画の思い出」を募集しているという。去年(2017年)秋、いわきロケ映画祭実行委員会がイワキノスタルジックシアター第一弾として、いわきPITで吉野せい原作の映画「洟をたらした神」を上映した。その主催者の一人だ。
 今年は第二弾として8月5日、同じPITで本木雅弘主演の「遊びの時間は終わらない」が上映される。

 おととい(6月15日)は、小名浜に大型商業施設「イオンモールいわき小名浜店」がオープンした。4階に最新鋭機器を備えた「ポレポレシネマズいわき小名浜」が入った。いわきの映画館史に新しい1ページが書き加えられた。その節目にいわきで見た映画の思い出と歴史を振り返ろう、というわけだ。

「いわき限定」では、15歳以降に見た映画ということになる。平に高専ができて3年目の昭和39(1964)年、阿武隈の山里から夏井川を下って浜通りを代表するマチにやって来た。校舎のそばの学生寮に入った。街へ遊びに行くのは土曜日の午後か日曜日。加山雄三の「君といつまでも」は、街へ映画を見に行って覚えた。
 
 2年生、3学期、真冬――。それ以外は覚えていない。「君といつまでも」を主題歌にした映画は、昭和40年師走に封切られた「エレキの若大将」だ。
 
 市立図書館のホームページを開き、いわき民報で上映年月日を確かめる。同年12月の広告にはない。翌41年1月1日付の広告に「3日封切り」とあった=写真。上映館は平・紺屋町(材木町?)にあった「東宝民劇」。4日付の「民報映画案内」によると、上映期間は14日までの12日間だ。すると、冬休みの終わりに故郷から寮へ戻り、3学期が始まったばかりで見に行ったことになる。
 
 歌詞こそ岩谷時子だが、自分で曲をつくり、ギターを弾きながら歌う、シンガー・ソング・ライターとしての加山雄三に引かれた。映画を見て寮に戻り、ギターでまねをしたらちゃんと弾けた。シンプルでも心地いいメロディーだから、耳に残っていたのだろう。
 
 ザ・ベンチャーズの「ダイヤモンド・ヘッド」がはやっていた。「エレキの若大将」もそれに便乗したものだ。寮生でベンチャーズのコピーバンドをつくった。内郷公会堂(現内郷コミュニティセンター)で、高校生を前に演奏したこともある。

 先輩には「文学少年」が多かった。後輩はベンチャーズとビートルズの影響からか、年ごとに「音楽少年」が多くなった。「本を読む」から「レコードを聴く」へ――。日光・戦場ヶ原で、星由里子相手に加山雄三が「君といつまでも」を歌ったころが、10代の人間の文化的転換期だったように思う。

2018年6月16日土曜日

キジのつがいに遭遇

 朝晩、いわき市平中神谷地区の夏井川左岸堤防を散歩していたころ、右岸から聞こえる「ケン、ケーン」の鳴き声を手がかりに、雄のキジの縄張りがいくつあるか“計算”したことがある。2008年5月23日付の拙ブログをなぞって書くと――。
 右岸の平山崎地区は田園地帯だ。当時、河川敷には竹林と畑が連なっていた。1羽が鳴くと、必ず少し離れたところで別の1羽が鳴く。対岸だけでなく、こちら側に来ているときもある。左岸もまた縄張り内なのだろう。

 ある朝6時ごろ、いつものように堤防の上を歩いていると、右岸の3カ所からキジの鳴き声が聞こえた。音源を探ると1羽は畑の真ん中に、ほかの2羽はそれぞれ離れて河川敷の砂地に近い草むらにいる。

 3羽の距離を歩いて測った。AキジとBキジの間は240歩(一歩90センチとして216メートル)、BキジとCキジの間は100歩(同じく90メートル)。真ん中のBキジの縄張りは、中間で線引きをすると108メートル+45メート=153メートルになる。

 少し余裕をもたせて200メートルごとに縄張りがあるとすると、オスのキジは1キロメートルに5羽いることになる。これは多すぎるか。
 
 それから10年。雄はちょくちょく見かけるが、雌を目撃したのはまだ2回しかない。砂地に雄といた、単独でいた――岸辺だからわかったことだ。
 
 それが、2週間前、堤防を車で行くと、はるか前方を雌が飛んで横切り、人間の住む側の土手に消えた。減速して近づき、止めてそのへんを見回したら、砂浴びを繰り返していた。10日後、今度は反対側の土手の下に雄がいた。写真を撮って拡大すると、手前に雌がいる=写真。肉眼では気づかなかった。
 
 キジの雌は雄の縄張りを渡り歩く習性があるという。雄から見ればみんな妻だが、子どもの父親は母親にしかわからない、いや母親もわからない? ペアでいたということは、子孫をつくる作業中なのかもしれない。でも、人の目に触れるところに雌がいるということは、猫や犬、キツネなどから狙われやすいということでもあるのではないか。

同じ場所で抱卵を始める可能性は、あるのかないのか。堤防からいきものをウオッチングする楽しみが増えた。

2018年6月15日金曜日

種さえあれば

 日曜日(6月10日)に東北南部が梅雨入りしたあと、おととい(13日)、きのうと青空が広がった。摘んだネギ坊主を干すには最高の天気だ。
 雨になる前に種を選り分けないと生乾きのままずるずるいってしまう。朝起きるとすぐ、車の屋根にネギ坊主の入ったカゴを載せた。日中は車を使うので、軒下へ。夕方にはまた車の屋根に、夜は室内へ。これを次の日もやって、夕方、乾いたネギ坊主をやさしくもんだり、振ったりして、小さな花序から黒い種を分離した。

 きのう確かめたら、花序には三つのベッド(子房)があって、それぞれ種が二つ、抱き合うように眠っている。つまり、種は花序の数の6倍、花序が200あれば種は1200個ということになる。

 論より証拠、本より経験だ。殻やごみはフーフーやって取り除く(風選)、と本にあるが、息が切れるだけで効果はそれほどでもない。ところが、ネギ栽培の師匠に伝授された“水選”だと、一発で簡単に種だけ選り分けられる。

 先日も書いたが、ボウルにステンレス製のザルを重ね、そこに種もごみもまとめて入れて静かに水を注ぐ。すると、殻や実の詰まっていない種は浮く。それを取り除くと実の入った種だけがボウルの底に残る=写真。水を切って新聞紙に種を広げ、一晩おいて乾いたら、乾燥剤とともに小瓶に入れて冷蔵庫で保管する。

 けさは起きると鉛色の空だ。雨の予報だったので、前夜、寝る前に種を広げたカゴを縁側から茶の間に引っ込めた。量が多かったせいか、まだ乾ききっていない。雨模様(雨はまだ降っていない)で湿度も少々高そうだ。でも、きょうのうちにはまとめて小瓶に詰められるだろう。(雨は6時過ぎに降り出した。種が乾ききるまで時間がかかりそうだ)

 ネギの種の元は「三春ネギ」という昔野菜(在来作物)だ。中通りの田村地方からいわき市小川町、夏井川渓谷の小集落まで伝来した。いわきの平地の千住系とちがって「秋まき」だ。10月10日ごろに苗床をつくって種をまき、翌春、定植する。収穫は秋から冬。一部を採種用に残して越冬させたあと、初夏に種を採る。種屋では売っていない。
 
 ネギの種は寿命が短い。冷蔵庫で保管しても、持って2年だ。病気や根っきり虫にやられる、原発事故で避難しているうちに採種のサイクルが断ち切られる、といった理由で、種切れになることもありうる。実際には危うい環境のなかで栽培を続けているにすぎない。でも、種さえあればなんとかなる。

2018年6月14日木曜日

来年は真尾悦子生誕100年

 吉野せい(1899~1977年)の作品集『洟をたらした神』には、「ダムのかげ」「いもどろぼう」など、炭鉱作業員を扱ったものがある。
 私は炭鉱の仕事や暮らしを知らない。作品の“注釈づくり”をするには地底の世界になじまねば――という思いで、せいと交流のあった作家真尾悦子(1919~2013年)の『地底の青春 女あと山の記』(筑摩書房、1979年)=写真=を繰り返し読んでいる。
 
 同書は炭鉱の“女あと山”(地底から石炭を運び出す女性労働者)を取材したノンフィクション作品だ。せいが夫と開拓に血汗を流したいわき市好間町・菊竹山とは、好間川や国道49号、市街地をはさんだ対岸、直線でざっと2キロ先の丘に地底に下りて働く暮らしがあった。悦子はそこへ通って“女あと山”の話を聴いた。

「好んで坑内なンどに入ったわけではねえよ。親にドシナラレて(怒鳴られて)、何とも仕様なくて入ったんだけンど、そこはソレ、同じ人間のあつばりよ。わりイことばっかもありゃしめえし――」

 戦後の昭和24(1949)年3月から同37年11月までの13年余、一家4人で現いわき市平に住んだとはいえ、悦子は東京生まれだ。ここまで「いわき語」を文字化できる筆力に恐れ入った。これから「いわき語」を研究する人間には、この『地底の青春』が格好の教材になるのではないか。ちなみに、「あつばり」は「集まり」のことだ。

 平成16(2004)年夏、いわき市立草野心平記念文学館で「真尾倍弘(ますひろ)・悦子展 たった二人の工場から」が開かれた。夫の倍弘(1918~2001年)は詩人。平時代には夫婦二人で印刷工場を営み、いわき地方の出版・文化活動に貢献した。それを振り返る企画展でもあった。

『地底の青春』に書かれている悦子の略歴をながめていたら……。来年(2019年)は悦子生誕100年ではないか。倍弘は悦子より1歳年上だから、今年が生誕100年だ。

 先の企画展から14年。倍弘は企画展の前に亡くなり、悦子は東日本大震災の2年後にこの世を去った。

 去年、「吉野せい 没後40年展」が開かれた。平成11(1999)年の「生誕百年記念―私は百姓女―吉野せい」展に続く企画だ。倍弘・悦子についても続・企画展、それが無理ならスポット展示くらいは考えてもいいのではないか。

2018年6月13日水曜日

高倉健の映画の記憶

 いわき市立美術館で「追悼特別展 高倉健」が始まった(7月16日まで)=写真(チラシ)。
 日曜日(6月10日)、窓口に運転免許証を見せて、65歳以上の市内在住者は無料の特典を生かして入館した。いくつにも仕切られた壁面に予告編風の映像が映し出される。前も後ろも、右も左も、映像。同年代の元青年がいっぱいいた。

 高倉健の映画の記憶は、私のなかでは学童・思春期、青年期、壮年期で全く異なる。20歳前後のときには「網走番外地」と「侠客伝」シリーズに熱狂した。結婚して子どもが生まれると、劇場へは足が遠のいた。“テレビ劇場”で見るだけになった。「幸福の黄色いハンカチ」も「居酒屋兆治」も「鉄道員(ぽっぽや)」も、そうして見た。

 今も鮮明なのは、小学生のときに見た美空ひばりとの共演映画だ。美術館でもらった「高倉健 出演全205作品のタイトルと公開日」のチラシに、自分の記憶を重ね合わせると、初めて「高倉健」に出会ったのは昭和33(1958)年、小学4年生のときらしい。この年、ひばりとは5本共演している。「娘十八、御意見無用」「恋愛自由型」「「ひばりの花形探偵合戦」「希望の乙女」「娘の中の娘」。どの映画かは覚えていない。が、邦画量産時代だった。

 同じ東映でも人気があったのは時代劇だろう。東千代之介と中村錦之助(のち萬屋錦之介)の「曽我兄弟」を覚えている。「錦チャン」のファンだった。そこへ現代劇の高倉健が登場する。背広姿にネクタイ、オールバックの髪型が深く胸に刻まれた。

 平成26(2014)年11月10日、高倉健死去――。1週間後に死を伝えるニュースに接して、やはり最初に見た背広姿のシーンがよみがえった。

 中学生になって間もなく、こんなことがあった。ブログに書いた文章を引用する。「阿武隈の山里にある中学校へは、3つの小学校の生徒が集まる。同級生になった別の小学校の人間たちと校庭で遊んでいると、一緒にいたその小学校の先輩が目を丸くした。『おめぇ、タカクラケンっていうのか』。同級生が『タカハルクン』といったのを聞き間違えたのだった」

 これはしかし、正確ではなかった。「タカクラケンっていうのか」は「タカハラケンっていうのか」だった。すでに子どもたちには映画スター高倉健が広く認知されていた。その連想で1年先輩は「高原健」と勝手に誤認した。現代劇では赤木圭一郎の次に好きな男優だった。

2018年6月12日火曜日

ネギ坊主を回収

 台風5号はひとまず温帯低気圧に変わって、太平洋のはるか東へ去った。
 日曜日(6月10日)は早朝、夏井川渓谷の隠居へ車を走らせた。平地の平~小川町は小雨だったが、渓谷に入ると路面が乾いている。霧状の水滴が空中に漂っているだけだった。

 隠居の庭で「昔野菜」の三春ネギを栽培している。5月27日、6月7日と、この半月に2回出かけて、黒い種がのぞくネギ坊主を回収した。まだたくさん残っている。台風が近づき、風雨が強まるとネギ坊主の茎が折れたり、ネギ坊主がばらけたりしかねない。起き抜けに出かけて残りのネギ坊主をすべて回収し、7時前には帰宅した。カゴに二つとれた=写真。例年の倍だ。

 秋、地面に種をじかまきした。見事な芽ネギの列ができた。やがてモグラが苗床の土を盛り上げたあたりからおかしくなった。倒れてとろける芽ネギが続出した。越冬するころにはすき間だらけになっていた。歩留まり率は5分の1程度と最悪だ。
 
 じかまきの苗床づくりにはもっと工夫が要る。歩留まりの悪さを考えると、冬に食べる本数を減らしてネギ坊主を増やさないといけない――そうして例年の倍のネギ坊主を確保した。

 ネギ坊主は、それぞれの小花が熟すると殻が裂けて黒い種子が見えるようになる。それが採種のサインだ。でも、毎日様子を見るわけにはいかない。風雨が強まる前にすべて回収して、自宅で天日に干し、乾燥させて、殻から黒い種がこぼれ落ちるのを待つ方が安心だ。
 
 乾けば、ネギ坊主を振ったりつついたりして種を落とす。次に、ごみと種をより分ける。
 
 ネギ栽培の師匠から簡単な方法を教わった。ボウルに金ザルを重ね、ごみと一緒に種を入れて水を注ぐと、比重の重い砂はボウルの底に沈み、比重の軽いごみや中身のない種は表面に浮く。それを流して金ザルの水を切れば種だけになる。濡れた種は新聞紙に広げて一晩置くと、すっかり乾いている。あとはさらさらした種を乾燥剤とともに小瓶に入れ、秋の種まき時期まで冷蔵庫で保管すればいい。

 きょう(6月12日)はカゴに入ったネギ坊主を縁側に出して干す。

2018年6月11日月曜日

「戊辰150年」の清掃

 土曜日(6月9日)、地元の神谷公民館で清掃作業が行われた。「春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」の一環で、区長協議会のメンバーと公民館を利用する各サークルの代表30人ほどが参加した。
 草刈り機を使える人が敷地内の草を刈る。私らはあとから刈られた草をごみ袋に詰める。そうやって1時間ほどで作業が終わった。

 区長協議会のメンバーはそのあとも、道路と田んぼをはさんだ公民館の向かい、立鉾鹿島神社の一角にある「為戊辰役各藩戦病歿者追福」碑=写真=と、平六小裏山の公園に立つ「忠魂碑」の2カ所で草刈りをし、四隅の青竹としめ飾りを新しいものに替えた。

 追福碑は、以前は道路から見えたのだろうが、今は緑に覆われて基部しか見えない。放置すればたちまち緑に飲み込まれてしまう。

 忠魂碑もまた、東北地方太平洋沖地震で被災し、倒壊の恐れが生じた。私は当時メンバーではなかったが、区長協議会が旧遺族会などから寄付を募り、修復工事をした。本来、この種の事業は遺族会が中心になって行うものなのだろうが、神谷の場合は解散してない。コミュニティの中核をなす区長協議会が清掃活動も含めて受け皿になるしかなかった、ということらしい。

 忠魂碑の隣に「殉国」碑が建つ。日清・日露戦争から太平洋戦争までの地元の戦没者138柱の霊をまつる。
 
 ふもとにある追福碑は戊辰戦争で命を落とした各藩士を慰霊する。「今年(2018年)は戊辰戦争150年だから」。年に一度のルーチンながら、二礼二拍一礼に「節目」の思いが重なった。
 
 きょうは東日本大震災から7年3カ月の月命日。このところ、いわき市内で発行された震災記録誌を読み返している。節目には原点を振り返る、再確認する、という効果がある。後世に正確な記録を残すためには欠かせない作業だ。

2018年6月10日日曜日

松阪の豪商・竹川家

 金曜日(6月8日)の朝日新聞・テレビ欄「試写室」で、「高島礼子が家宝捜索!蔵の中には何がある?」というBSTBSの番組が紹介されていた。記事に、三重県松阪市の豪商・竹川家の蔵を訪ねる、とあった。
 東日本大震災の直前だったか、ネットで嶋崎さや香さんという人の論文「幕末から明治初期における新聞受容―竹川竹斎と射和(いざわ)村―」を読んで、竹斎という人物に興味を持った。嶋崎さんは図書館情報学が専門で、現在は大阪樟蔭大学の先生をしているらしい。

 いわき市に豪商・諸橋家の「会計さん」が設けた図書館「三猿文庫」があった。それよりさらに早く、松阪市射和に竹川竹斎(1809~1882年)が開いた図書館「射和文庫」がある。経済人が事業で得た利益を地域に還元する、そのひとつのかたちが私立図書館の開設だった。
 
 嶋崎論文によると、竹斎は両替商を主業に幕府の御為替御用を務めた。江戸・大阪・京都に店を持つ一方、自宅のある射和で国学、儒学、農政学、天文地理測量などを学び、地域の殖産興業に尽力した。茶道や古美術鑑賞、歌会などの文化活動にも熱心だった。
 
 著書に「海防護国論」「賎賀雄誥」「蚕茶楮書」、ほかに「日記」(文政9・1826年~明治15年)がある。日記に初めて「新聞」という文字が現れるのは安政2(1855)年4月9日の「片仮名新聞紙」。異国船や海防についての情報を積極的に収集した。

 竹斎が生まれ育った家と風土を知りたい――その一点だけで番組を見た。人気のお宝番組に「開運!なんでも鑑定団」がある。「家宝捜索!」(家宅捜索をもじったものだろう)は「蔵」に絞って、どんなお宝が眠っているのか、その値段はいくらか、を鑑定する番組だった。今年(2018年)4月に始まったばかりだから、まだ世間には知られていない。

 竹川家の部屋の張りまぜ屏風や蔵にあるお宝は一流のものばかり。それらを暮らしの中で当たり前に扱い、使っている。いやはや「超」を頭につけてもいい豪商の家風だ。

 竹斎のすごさは、財力にものを言わせて金品を集めただけではない。情報の価値を知っていた。幕末に登場した「新聞」というニューメディアに関しては次のようなエピソードがある。これも嶋崎論文による。
 
 明治6(1873)年4月の度会(わたらい)新聞(度会は現三重県伊勢市を中心とした地域の旧地名)に載った投書によれば、竹斎は「内外新聞ハ開化ノ捷径(チカミチ)ナリ」という観点から、諸種の新聞を収集し、社中(新聞同観結社)回看後、社外有志に貸し出している。

 新聞を読むことのできない人々(明治初年代の識字率は推定で男子40~50%、女子15%)に対しては、寺に集めて講釈し、太陰暦から太陽暦への改暦を推進するなどしたともいう。村びとは「新聞を聞く」ことから文明開花の世に踏み出していった。

「三猿文庫」の資料はいわき市に寄託された。市立総合図書館で利用することができる。私は特に、明治以降の地域新聞の恩恵を受けている。射和文庫にも「諸種の新聞」が残っている。たぐいまれな情報収集者はたぐいまれな情報発信者でもあった。

2018年6月9日土曜日

えんま様の出番だ

 小学校に上がる前の記憶だ。祖母が私ら孫を早く寝かしつけるために物語を語り聞かせる。夜通し鳴き続けるホトトギスの昔話をしては、「きょうだいげんかはするな」。地獄の話をしては「ウソをつくとえんま様にベロ(舌)を抜かれるぞ」。「虚」と「実」の境がわからない幼児には、脅しが効きすぎた。「ウソも方便」のレベルを超えて、今もベロを抜かれるのではないかと恐れるときがある。
 えんま様の前に引っぱりだしてやりたくなるようなニュースが続いている。日本を代表する企業のデータ改ざん、燃費不正、不適切会計、欠陥エアバッグ……。政治の世界ではモリ・カケ、そんたく、公文書改ざん。スポーツ界ではパワハラ。この国の“病い”が一気に噴出しているのではないか――。地方の隅っこで暮らす人間にはそう思えてならないこのごろだ。

“病い”の原因はなにか。表層・中層・深層のそれぞれになにかおかしいものがあるに違いない。

 私は、本を読みながら気になったところ、大事だと思われるところに傍線を引く。そこに本からはみ出すようにしてインデックスを張る。あとでインデックス、つまりポイントを絞って、その前後を含めて読み返す。このごろはそうして、哲学者内山節さんの『戦争という仕事』(信濃毎日新聞社、2006年)=写真=を読んでいる。なぜウソがはびこる社会になったのか。原因を考えるヒントがあった。

「仕事を私たちの暮らす世界をつくるための有用性や有効性からとらえるのではなく、自分の利益や出世の道具にしてしまったのが現代ではなかったのか」(<退廃>=「戦争という仕事」)

「国家、政治、資本というものが、野放しにすれば『悪』をもやりかねない存在であることを誰もが知っている。『国家のため』と言う人ほど自分のために国家を利用しようとしている人であって、国家のことなど何も考えていないのだということも、あたり前のこととして知れわたっている」(<おわりに>)

 もう、えんま様の出番ではないか。地獄からこの世に出張してきて、ウソが蔓延する世の中を鎮めてほしい、あとで地獄が大混乱するのは分かりきっているのだから――。庶民はしかし、半分は仏様を見ている。

2018年6月8日金曜日

糠漬けの時間の目安は?

 糠漬けは、わが家では師走に入ると休み、ゴールデンウイークの前後に再開する。今年(2018年)は暖冬気味に推移したので、4月17日に糠床の眠りを覚ました。
 冬眠中は塩の“ふとん”をかぶせる。“ふとん”を取り除いても、糠床の底まで塩分が浸みている。新しい糠と昆布、トウガラシを加え、捨て漬けをしながら塩梅(あんばい)をよくしていく。肉じゃがの残り汁やシャケの皮も入れる。そうしているうちに味がなじんでくる。

 とはいえ、まだ塩分がきつい。さらに新しい糠を入れる必要がある。その間は漬ける時間を調整する。糠漬けは浅漬け。キュウリ=写真=なら、今の糠床では一晩は漬け過ぎだ。朝食べたいなら寝る前に、昼食用には朝起きてから、夕飯用には昼に漬ける。「半日」(6時間)が目安だ。大根はキュウリよりさらに30分ほど長く、カブはさらに少し時間がかかるだろうか。
 
 きのう(6月7日)のように室温が30度近くまで上昇する日には、糠床の乳酸菌がさらに活発になる。半日どころか4時間くらいで漬かるかもしれない。
 
 今は台所に置いているが、夏の盛りには猫がよく休んでいた風呂場とトイレの間に移そうと思う。毛皮をまとった生きものには“熱センサー”が備わっている。家の中を動き回って、そこが一番しのぎやすい場所であることを感知した。乳酸菌にも当てはまるだろう。
 
 理想的な糠漬けは、塩っ気を……と、締めくくりの文を書きだしたとたん、篤農家塩脩一さん(平北白土)の顔が思い浮かんだ。塩が塩さんを呼んだ。
 
 塩さんのキュウリはブルームだ。ブルームとは、実から自然に出てくる白い粉のようなロウのことをいうらしい。硬くて味のないブルームレスとちがい、皮が薄くてやわらかいから、糠床に入れるとすぐ漬かる。消費者はこのブルームを農薬の残りと誤解して敬遠する。で、ブルームレスが一般化した。

 先日、ブルームレスをスーパーから買ってきて糠漬けにしたが、中身がスカスカしていて苦みさえ感じられた。こんなときには「塩さんのキュウリが食べたいねぇ」となる。
 
 書きかけた文章に戻る。理想的な糠漬けは、塩っ気を感じさせない味で晩酌のつまみになるくらいにしんなりしていること――。まだまだそこまではいかない。

2018年6月7日木曜日

キノコの総合誌に引用されていた

 必要があって、ネットで自分の過去の職名をチェックしていたら、拙文を引用した文章に出合った=写真。
 一般財団法人日本きのこセンターが発行している月刊誌に「菌蕈(きんじん)」がある。キノコの総合誌だという。同センター菌蕈研究所特別研究員・長澤栄史さんが「表紙のきのこに寄せて」と題して連載している。2年前の平成28(2016年)7月号では「ツチグリ(土栗)、ツチガキ(土柿)」を紹介した。

 そのなかにこんなくだりがある。「夕刊いわき民報(2013.6.3)に掲載された吉田隆治氏の記事―『あぶくま、星の降る庭』4.マメダンゴ―によると、『梅雨期が旬、阿武隈高地では味噌汁が定番、焚き込みご飯も良い。内部が“白あん”が良く、“黒あん、白黒あん”は駄目』とある。白あん、黒あんとはうまい表現である」

 名字に記憶があった。私も使っている『きのこ図鑑』の共著者に名を連ねている、キノコ研究のプロ中のプロではないか。同い年だ。専門家から見ても、阿武隈高地の住民のツチグリ幼菌(マメダンゴ)好きは珍しいものだったらしい。でも、「あぶくま――」はネットでは読めない。どうしていわきの紙媒体にまで目が届いたのか。

「あぶくま――」は2013年3月、月1回のペースでスタートした。虫をテーマに連載中の知人が急に入院した。古巣の後輩から泣きつかれた。原発震災でわが「原郷」の阿武隈の山と里が汚された。ものいえぬ阿武隈の動植物に代わって怒りをぶつけてやらねば――そんな気持ちで「穴埋め」を引き受けた。知人は無事退院して、別の欄で連載を再開している。

「あぶくま――」の隣に、画家冨田武子さんの「いのちを描く――ボタニカルアートの世界」が載る。紙面では伏せているが、いわきキノコ同好会では冨田さんが会長、私が副会長だ。緊急の穴埋めでそうなってしまった。

 同じ阿武隈のキノコを取り上げる可能性がある。で、キノコの場合は、学術的な説明や形・色彩は冨田さんにまかせて、キノコと阿武隈の人間の関係、つまり食文化に重点をおいて書くようにしている。それが、連載を始めて4回目、最初に取り上げたキノコの「マメダンゴ」だった。

 冨田さんは全国のキノコ研究家とつながっている。その線から長澤さんのもとに新聞コピーが届いたのだろうか。プロの深い「知層」にいわきの地名と阿武隈のマメダンゴの食文化が加わった。それだけではない。「白あん、黒あんとはうまい表現である」とほめてくれた。光栄なことだ。

 きのう(6日)、近畿、東海、関東甲信地方の梅雨入りが発表された。東北南部も今朝は梅雨入りを予感させるような曇天だ(と思ったら、青空が広がってきた)。梅雨入り後の6月下旬になると、マメダンゴ採りが始まる。夏井川渓谷の隠居の庭の場合は、警察の鑑識よろしくひざまずき、地面に手のひらを当てて地中の感触を探る、地面を凝視する――そんな感じで。

2018年6月6日水曜日

石森山からの眺め

 本屋の外商さんが毎月、岩波書店のPR誌「図書」を届けてくれる。お勧めの本も一緒に持って来る。5月は寺尾朱織(かおり)『今、なぜ種が問題なのか 食卓の野菜が!?』(歴史春秋社、2018年)を買った。
 6月は『墨東奇譚を歩く』といったタイトルの本を持って来た。東京の“文学地理”までやっているヒマはない。「図書」2018年6月号だけを受け取る。巻頭に、日本文学者ドナルド・キーンさんが書いていた。

「梅雨の季節に最も心を惹かれる」という。「小雨の降る中を息子に手を引かれて、傘を片手に近所の寺の境内を歩くのは、なんともいえず気持ちがよい。(略)紫陽花が咲いていれば文句はない。私の墓がこの寺にある。雨に濡れた墓石に向かって手を合わせると、心が洗われるような気がする」

 生前に自分の墓を用意するのは珍しくない。が、“ついのすみか”に眠る自分を想像して墓参りをするというのは、なかなかできることではない。「終活」力の強さに感じ入った。

 カミサンが、知人から教えられてバラの花を見たいというので、平・石森山(224メートル)のフラワーセンターを訪ねた。どこにその花があるかはわからなかった。が、久しぶりに山から太平洋を眺めた=写真。
 
 今は夏井川渓谷に通っているが、20~30代は石森山が森歩きのフィールドだった。日曜日だけでなく平日の昼休みにも車で駆け上がり、1年に100日以上は遊歩道を巡って鳥・花・キノコを観察した。いわきの平地の里山の環境がそれでだいたいわかった。
 
 フラワーセンターに接して山寺の墓地がある。そこに“ついのすみか”を買ったのは40代、いや50歳を過ぎてからだったか。現住職が職場の後輩だった。墓から海が見える。森にも思い出が詰まっている。それが“ついのすみか”を山寺の墓地に決めた理由。ただし、キーンさんのように墓石はまだない。畳1枚分くらいのスペースがあるだけだ。

 人はオギャーといったときから死に向かう、矛盾に満ちた生きものだ。そう教えてくれたのは「鬼平犯科帳」の池波正太郎。墓を買ったのも、この「終活」の一環だった。
 
 カミサンがいうバラの花を私は見たいとは思わなかった。かといって、車でじっとしているのもバカらしい。同行した。墓地の近くの散策路を通ったとき、そろそろ自分の墓と向き合ってもいいかな、と思った。
 
 そのあとのキーンさんのエッセーだった。自分の墓の前に立って何を思うだろう。「心が洗われる」ところまではいかなくても、なにか感じるものがあるかもしれない。

2018年6月5日火曜日

ハチの巣が生け垣に

 いわき市の春の「清掃デー」(6月3日)で家の周りの生け垣を剪定したからわかったのだろう。一夜明けたきのう朝、マサキの木(よくよく見たら、マサキの生け垣に混じって生えたネズミモチないしイボタノキかもしれない)に「逆とっくり」型のハチの巣がある、とカミサンがいう。
 すぐ確かめる。風呂場の軒下近く、地上2メートルほどのマサキの枝に径7センチ、長さ10センチほどの「逆とっくり」があった=写真。常緑の葉を雨除けにしている。外観は陶器の「練り込み」といった感じ。手のひらにのるくらいの小ささだ。見た目はかわいい。

 ところが、どうもそのままではおさまりそうにない。ネットで調べたら、コガタスズメバチだ。女王バチが材料を集めて「逆とっくり」をつくったあとは、働きバチが生まれてこの「逆とっくり」を覆い、最終的にはバスケットボール大の球形になるらしい。

巣が大きくなる様子を観察したい、このままにしておこう。最初はそう思ったが……。生け垣のそばを奥の家の人が通る。カミサンが知人にハチの巣の話をすると、「近所迷惑になるよ」と忠告された。
 
 カミサン自身も15年ほど前、夏井川渓谷にある隠居で草むしりをしているうちに、キイロスズメバチに刺された。痛みが引かないので、いわき市立総合磐城共立病院内にある救命救急センターへ連れて行った。「今度刺されたら救急車を呼んでください」といわれている。庭木の剪定中にまたチクリとなれば、アナフィラキシーショックを起こしかねない。

 夕方、ちょっと離れたところから観察していると、1匹のスズメバチが巣に戻ってきた。これが女王バチか。この時点では、働きバチはいそうにない。少したってハチが飛びたったあと、思い切って枝ごと除去した。戻って来たハチは、あるべきところに巣がない、どこだ、どこだといった感じで生け垣の内外を飛び回っていた。かわいそうだが、しかたがない。人間界に近づきすぎていた。

2018年6月4日月曜日

球技大会準優勝

 きのう(6月3日)は春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動最終日。早朝、一斉清掃が行われた。そのあと、神谷地区8行政区の対抗球技大会が昌平中・高校で開かれた。男子はソフトボール、女子はバレーボールに汗を流した。わが区は男女とも準優勝に輝いた。
 球技大会は神谷地区体育協会が主催した。早朝から、地区民で構成する体協の理事や行政区の役員などが出て、テントを張ったりテーブルを並べたりした。区の役員はこのほかに、裏方として選手の飲み物や弁当などの手配・世話をした。終われば、反省会がある。これも区の役員が裏方として準備する。

 優勝すると、男子は7月に平地区壮年ソフトボール大会、女子は同家庭バレーボール大会が待っている。ソフトの場合、40歳以上をそろえないといけない。いちだんと人集めが難しくなる。裏方の仕事も増える。2年前に神谷地区大会で優勝し、そのことを実感した。
 
 主にソフトを応援した。炎天下、決勝戦に臨む=写真=と、いきなり初回、2回に打線が爆発し、大量点が入った。「優勝」と「平地区大会出場」を覚悟した。ところが、回を重ねるごとに追い上げられ、結果的には17対22で逆転負けを喫した。

決勝を含めると、3試合を戦わないといけない。なかなかきつい。わがチームは3試合の合計得点が58点、優勝したチームは54点だ。実力では勝るが、最後の最後に息切れして勝ちを譲るかたちになった。別の言葉でいえば、絶妙な負け方をした。

試合中にも冗談が飛び交う住民の親睦が第一の大会で、負けが決まると、試合管理者から「区長さんの表情が明るくなりました」とアナウンスされた。実際、負けて喜んだように見えたのだろう。

 バレーも大接戦の末に敗れた。優勝すればもちろんうれしい。が、平地区大会出場の責任が伴う。準優勝にはそれがない。反省会では、座卓に二つのトロフィーを飾り、選手の子どもたちも加わって、「来年も『準優勝を!』」と盛り上がった。

2018年6月3日日曜日

清掃デーと球技大会

 きょう(6月3日)は「清掃デー」。早朝、地区民が総出で家の周りの草を引いたり、ごみを拾ったりする。そのあと、丘の上の私立昌平中・高校で神谷(かべや)地区対抗球技大会が開かれる。7時には公民館へ出かけ、軽トラにテーブルやいす、テントなどを積んで会場へ運ぶ。球技大会が終われば反省会が待っている。忙しい一日になる。
 いわき市では春と秋の年2回各3日間、いわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動を展開している。初日は「清潔な環境づくりの日」(学校・社会福祉施設・事業所・商店・飲食店街周辺の清掃)、二日目は「自然を美しくする日/みんなの利用する施設をきれいにする日」(海岸・河川の清掃、樹木の手入れ、公園・観光地・道路・公共施設の清掃)、そして最終日が「清掃デー」(家庭周辺の清掃)だ。
 
 運動が始まってから30年、いや40年前後にはなるだろうか。27年前、日本政府の「21世紀のための友情計画」で来日した中国系マレーシア人の大学生が、帰国後、現地の新聞「星州日報」に寄稿した。ホームステイを引き受けた縁で切り抜きが送られてきた。中国語に堪能な市職員氏に翻訳してもらった。ちょうど総ぐるみ運動中だった。そのことにも触れていた。

 前もって大がかりな宣伝活動をしたり、議員を呼んで儀式を行ったりするわけでもなく、“村民”はほとんど自発的に早起きして大掃除運動をした――そこに彼は驚き、地域の“美風”を感じ取った(事前に実施日を回覧で知らせ、ごみ袋を配付していることはもちろん知らない。私も当時は、新聞記者として知っていた、回覧で承知していた、という程度だった)。
 
 今年(2018年)も初日の朝、地元の小学生が神谷の商店街へ繰り出して通学路のごみ拾いをした=写真。用があって家に来た近所の奥さんが感心していた。そのあと、偶然家の前で6年生と顔を合わせた。「ごみ掃除?」「そうです」「お疲れさま」。おかげで歩道のごみは一掃された。
 
 考えてみれば、ここまで市民に浸透しているイベントは、ほかにないのではないか。区の役員としては、ごみ袋を市からもらってきて配る、実施日の案内を回覧するなど、清掃デーまでの下準備が大変だが、終わればせいせいした気分になれる。この環境美化運動は、いわき市民が自慢していい“お宝”のひとつだと、私は思っている。

2018年6月2日土曜日

老いの現場

 車を運転する自分への戒めとして書く――。きのう(6月1日)の夕方、用があって内郷へ出かけた。片側2車線の旧国道6号だから、通行車両はけっこう多い。帰りに歩道寄りの車線を利用して、ヨークベニマル内郷店角の交差点に入った。内側の車線に右折車が止まっていて、対向車線からよく見えなかったのか、軽車両が右折して来て急に目の前に現れた。
 あっ、ぶつかる! そう思ってブレーキを踏みながら左にハンドルを切り、すぐまた歩道のブロックを避けて右にハンドルを切った。それで、やっと止まった。相手も止まった。こちらとの距離は1メートルほどだったか。
 
 時速50キロ。相手が止まっていなかったら、そのまま衝突して宙を飛び、夫婦で病院か天国へ行っていたかもしれない。相手を見たら、私より年上のオジサンだった。助手席でカミサンがドキドキしていた。「ジイサンだよ」。「あなたも」と、とがった声でいわれた。老いの現場の、これはヒヤリ・ハットの一例。
 
 その1時間前、近所の診療所へ薬をもらいに行った。あとでやって来たおばさんたちが待合室で話し始めた。若い人なら<静かに話してくださいよ>というところだが、「終活」にもつながる内容だ。聞くともなく聞いているうちに、老いの現場の切実さを思った。
 
「玄関からあがるとき足をぶつけた。いつまでも痛みがとれないので(かかりつけの)整形外科で先生に言ったらレントゲンを撮ってもらった。足の指にひびが入っていたの」「自転車で買い物に行くのは、(乗るためではなくて)荷物を載せて引くため。荷物を手に持つのはきついから」「私もきつい」

「(奥さんに先立たれながらも、ちゃんとしていた男性の例を持ち出したあと、一般論として、女は)男よりは早く死ねないよね。男は身なりもかまわなくなるから」

もらった薬を待合室の長椅子に置いたオバサンが加わる。「頭のねじが緩くなって(ぺちゃくちゃ)。じゃあね」。そのあと、窓口で「薬は?」。受付の女性が出てきて、長椅子の薬を指さしながら「これですよね」。「そうだった、頭のねじが緩くなってしまって」

 それよりさらに5時間前。朝、留守番をした。生協から食材が届いた。「これは冷凍です」。受け取って冷蔵庫にしまった。あとでカミサンがいう。「冷凍室ではなくて冷蔵室に入っていたよ、解けてはいなかったけど」。なにをしても、どこへ行っても、老いの現場が現れる。

 こんな日には気持ちを静め、落ち着かせるために、なにか好きなことをしたり、思い浮かべたりした方がいい。

 パソコンを開けてヤマボウシの花を見た。平市街からいうと夏井川渓谷の入り口、磐越東線上小川トンネルと磐城高崎踏切近くの谷側にその木が自生している。先の日曜日(5月27日)、満開の花を撮影した=写真。清楚な花の写真を見ながら、エアバッグを体験しないですんだことを神様に感謝した。