2018年6月21日木曜日

いわきの芸妓史

 芸妓(げいぎ)はみずから輝き、日本の宴会や遊びを支え、社会の動きに寄り添ってきたにもかかわらず、決して表舞台に出ないという稀有な存在だった――。レジュメの前文の一部だ。
 土曜日(6月16日)、いわき市文化センターでいわき地域学會の市民講座が開かれた。小宅幸一幹事が「花街の盛衰②―華やかな夜を彩る芸妓の時代①」と題して話した=写真。芸妓の形態、社会的位置づけ、日常などを取り上げながら、いわき地方の芸妓の歴史を紹介した。以下はA3コピー12枚(A4で23ページ)のぶ厚いレジュメから。

 いわきでは明治時代以降、ヤマ(炭鉱)とハマ(漁業)が繁栄して、芸妓が増加した。明治40(1907)年現在の統計書によると、石城郡内の芸妓屋と芸妓の数は平町22軒・57人、湯本村11軒・23人、小名浜町5軒・11人など、計44軒・111人に及んだ。

 芸妓が一人前になるには時間とカネがかかる。それを支えたのは政財界の重鎮。パトロン(旦那)としても芸妓の成長を支えた。そういう“寛容さ”が社会にはあったという。

 ところが、大正後期から昭和初期には関東大震災、世界恐慌の影響もあって、芸妓よりカフェーの女給が手っ取り早い享楽の相手になる。戦時色が濃くなると、歌舞音曲に浮かれるときではない、となって、芸妓まで軍需工場に動員される。

 戦後は――。高度経済成長期に活況を呈するが、やがて新人の補給に窮するようになる。それを補うようにホステス(社交員)が登場し、ますます芸妓は減っていった。

 吉野せいの作品集『洟をたらした神』の注釈づくりをしている。小宅さんの話を聴きながら、ふと思った。大正~昭和初期に限定して、芸者のいるマチと開拓農民のムラを比較したら、なにが見えてくるか。芸者を支える旦那衆から底辺で生きる庶民まで、同時代の人間の息づかいが聞こえるような注釈づくりができたらおもしろい。

 小宅さんは元市職員。現役のころは自分を「B級職員」と評していた。地域の歴史に関しても、歴史専攻の「A級研究者」とは別に、花街や平七夕まつり、鉱山鉄道など、どちらかといえばマイナーな世界に分け入り、独自の論考を積み重ねている。「B級職員」になぞらえれば、これはほめ言葉でもあるのだが、「B級研究者」の本領発揮といったところだ。

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