2018年6月6日水曜日

石森山からの眺め

 本屋の外商さんが毎月、岩波書店のPR誌「図書」を届けてくれる。お勧めの本も一緒に持って来る。5月は寺尾朱織(かおり)『今、なぜ種が問題なのか 食卓の野菜が!?』(歴史春秋社、2018年)を買った。
 6月は『墨東奇譚を歩く』といったタイトルの本を持って来た。東京の“文学地理”までやっているヒマはない。「図書」2018年6月号だけを受け取る。巻頭に、日本文学者ドナルド・キーンさんが書いていた。

「梅雨の季節に最も心を惹かれる」という。「小雨の降る中を息子に手を引かれて、傘を片手に近所の寺の境内を歩くのは、なんともいえず気持ちがよい。(略)紫陽花が咲いていれば文句はない。私の墓がこの寺にある。雨に濡れた墓石に向かって手を合わせると、心が洗われるような気がする」

 生前に自分の墓を用意するのは珍しくない。が、“ついのすみか”に眠る自分を想像して墓参りをするというのは、なかなかできることではない。「終活」力の強さに感じ入った。

 カミサンが、知人から教えられてバラの花を見たいというので、平・石森山(224メートル)のフラワーセンターを訪ねた。どこにその花があるかはわからなかった。が、久しぶりに山から太平洋を眺めた=写真。
 
 今は夏井川渓谷に通っているが、20~30代は石森山が森歩きのフィールドだった。日曜日だけでなく平日の昼休みにも車で駆け上がり、1年に100日以上は遊歩道を巡って鳥・花・キノコを観察した。いわきの平地の里山の環境がそれでだいたいわかった。
 
 フラワーセンターに接して山寺の墓地がある。そこに“ついのすみか”を買ったのは40代、いや50歳を過ぎてからだったか。現住職が職場の後輩だった。墓から海が見える。森にも思い出が詰まっている。それが“ついのすみか”を山寺の墓地に決めた理由。ただし、キーンさんのように墓石はまだない。畳1枚分くらいのスペースがあるだけだ。

 人はオギャーといったときから死に向かう、矛盾に満ちた生きものだ。そう教えてくれたのは「鬼平犯科帳」の池波正太郎。墓を買ったのも、この「終活」の一環だった。
 
 カミサンがいうバラの花を私は見たいとは思わなかった。かといって、車でじっとしているのもバカらしい。同行した。墓地の近くの散策路を通ったとき、そろそろ自分の墓と向き合ってもいいかな、と思った。
 
 そのあとのキーンさんのエッセーだった。自分の墓の前に立って何を思うだろう。「心が洗われる」ところまではいかなくても、なにか感じるものがあるかもしれない。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 先日は、事故にならなくてよかったですね。
 ドナルドキーンさんのエッセイが月1回くらい東京新聞に連載されています。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/list/