2018年7月1日日曜日

映画「西部戦線異状なし」

 きょうは7月1日。2018年の前半が終わり、折り返しの後半初日を迎えた。わが家は2日続けての“猛暑日”。寝苦しくて未明の4時前には目が覚めた。新聞を取りに外へ出ると、きれいな朝焼けだ。2階から東の空を眺めた=写真下1。こんな景色を見ると、なにかを祈るような気持ちになる。
 さてさて――。古新聞をネタに書くことが増えた、書きたい材料が次々に現れる、“古新聞シリーズ”とでも開き直るか、と書いたのは4日前。内容としては、5月13日付の拙ブログ「『いわきの映画館』展」の続編だ。
 
 昭和初期、平町(現いわき市平)の映画館で「西部戦線異状なし」が上映された。その年月日を特定するために、この2カ月余り、わが家で図書館のホームページを開き、電子化された古新聞と向き合ってきた。その過程で面白いネタに遭遇した。ブログの材料には事欠かない。“古新聞シリーズ”になるほど多い、というのが根拠だが、“探索”もきのうで一区切りがついた。“証拠物件”にたどり着いたのだ。
 
 吉野せいの短編集『洟をたらした神』に「赭(あか)い畑」がある。なかに、「(中央公論を読んでいるだけで引っぱられた)女教師は私たちの友人でもあり、ある夜などは子供を全部混沌に押しつけて私を誘い、夜道を往復二里、町まで歩いて『西部戦線異状なし』を見て来たり、教育について平易に書かれたソビエトの本をそっと貸してくれたりする仲で、今は東京でしずかに働いているらしい」というくだりがある。
 
「混沌」は詩人三野混沌、せいの夫の開拓農民吉野義也のことだ。「赭い畑」の末尾には「昭和10年秋のこと」とある。「ある夜」がいつなのかわかれば、せいのそのころの心理・思想、さらには無実の混沌を連行していった特高、ひいては公権力をせいがどんな思いで見ていたか、がより明瞭になる。というわけで、日々の雑務をこなしながら電子化された古新聞をスクロールしてきたのだった。

 1929(昭和4)年、第一次世界大戦の敗戦国ドイツの作家、エーリヒ・マリア・レマルク(1898~1970年)が反戦小説「西部戦線異状なし」を発表し、世界的なベストセラーとなった。翌年、アメリカで映画化され、第3回米国アカデミー賞最優秀作品賞、最優秀監督賞を受賞する。日本では同年秋に公開された。
 
「赭い畑」に描かれた「昭和10年秋」のできごとに引っぱられて、「いわき地方には5年後に映画が巡って来た?」と考えていたが、甘かった。同10年、9年、8年、7年と、常磐毎日新聞に絞ってすべてのページを見る。どこにもそれらしいものはない。だが、いつかはたどり着くと楽観して見続けたら、きのう夕方、昭和6(1931)年9月10日付の「平館」の広告に出合った=写真下2。
 当時のいわき地方の新聞は、欄外にある発行年月日の前日夕方、家庭に届いた。要は夕刊だ。10日付は9日に配達された。広告には、上映は10日から4日間限り、料金は20銭とある。「エリック・マルア・ルマルケ 世界的名作の映画化」とあって、人名表記が今と違うところがいかにも戦前の広告らしい。

 昭和6年の9月は次女梨花を亡くしてから8カ月余りたった時期だ。せいはまだ32歳で、新聞や雑誌の懸賞小説にも応募している。自分の創作のために、よりよい刺激を求めて友人の女教師と平・南町の平館へ出かけたのだ。帰りはまた同じ道を、映画の感想を語り合いながら、菊竹山へ戻ったのだ。10~13日のなかで土曜日は12日だ。おそらくこの日の晩、2人は映画を見に出かけたのだろう。

 作品集の題名にもなった「洟をたらした神」のノボルはヨーヨーを買いたくて、母親のせいに2銭を無心する。せいはやんわりあきらめさせる。それが昭和5年夏のこと。ところが1年後には20銭を出して「西部戦線異状なし」を見る。幼い子の、その中の一人を失った母親である以上に、自分の文学的興味・関心から突き動かされて街へ出かけたせいの内面が見えるようだ。

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