2018年8月31日金曜日

自家製梅漬け

 もういいかな――。6月25日に漬け込んだ梅を見ると、鮮やかな赤紫色の梅酢液のなかで眠っている。1週間前(8月24日)、甕から1個を取り出した。カリカリ漬けにしたかったから、土用干しはしなかった。が、口に含むと、やわらかい。見た目は梅漬け、中身は梅干しと変わらない。なぜカリカリでないの?
6月24日、夏井川渓谷に住む友人から採りたての青梅をもらった。前に梅干しをつくったのは、いつだったか。10年以上はたっている。今度は梅漬けにする、そう決めて、甲類35度のアルコールなどを準備した。

6月28日、白梅酢が上がる。それから何日かして、赤ジソが手に入った。赤ジソをよく洗い、塩を加えてもみ、絞り、それに白梅酢をまぶしてから、梅の上にかぶせて重しを載せた。これが、7月2日。階段の下に甕を置いて、赤ジソの色が梅の内部にまでしみるのを待つ。

甕のふたを開けるまでは、実は不安だった。かびが生えて表面が白くなっていないか。大丈夫だった。梅酢がちゃんと殺菌効果を発揮していた。

今年(2018年)の夏は、気象庁が警告するほどの「危険な暑さ」が続いた。家にいてもたびたび氷入りの水を飲んだ。塩分補給を兼ねて梅干しジュースも飲んだ。梅干しは、塩と赤ジソだけのものを選んで、スーパーから買ってくる。それを氷入りの水に落とし、ほぐしてジュースにする。

月遅れ盆のあとに、猛暑がぶり返した。今度は自家製梅漬けがある=写真。しばらく買う必要はない。梅ジュースにすると、シンプルな酸っぱさだ。種まで赤い。

 カリカリの梅漬けにこだわるのは、それが舌になじんだ「おふくろの味」だから。梅のカリカリ漬けに出合うと、自然に手が伸びる。

JAの小川・高萩女性部が手がけている「甘梅漬」も、カリカリ漬けの一種だ。青梅の種を取り、砂糖とリキュールなどを加えて3カ月ほど寝かせたものが出回る。酒のつまみにすると、止まらない。道の駅よつくら港では、JAの甘梅漬けも、同じ小川町の大平商店の甘梅漬も売っている。赤シソからしみ出したアントシアニンの色が美しい。値段もいい。

どうしたらカリカリの梅漬けができるのか。友人にもらったときは青梅でも、熟しかけていたのか。なにか秘訣があるのか。ま、それはそれとして、やわらかい梅漬けを小瓶に入れて、友人にお礼参りをしないと――。

2018年8月30日木曜日

「西山宗因といわき」展

 江戸時代前期のいわきは“俳諧王国”だった。磐城平藩を治めた内藤の殿様が俳諧に興じた。その影響で、一族も家臣も有力町人も俳諧に手を染めた。著名な俳諧師も招かれ、土地の発句を詠んだり、句集を編んだりした(これらの資料を文学地理学的に分析するのもおもしろい)。
江戸時代後期、出羽に生まれ、いわきの寺(専称寺)で修行し、のちに俳諧師となった俳僧一具庵一具に興味がある。その時代に先行するいわきの俳諧史に触れておきたい――そんな思いで、日曜日(8月26日)、勿来の関公園内にあるいわき市勿来関文学歴史館を訪ねた。10月16日まで企画展「西山宗因といわき」が開かれている。

 松尾芭蕉が「蕉風」を確立する以前、「字余りや奇抜な趣向、速吟」などを特徴とする「談林派」がはやった。宗因は同派の祖で、連歌師としても有名だった。

寛文2(1662)年、磐城平藩主内藤忠興の招きで宗因がいわきに滞在し、松島にも出かける。忠興の嫡男・義概(よしむね=俳号風虎)も延宝3(1675)年、江戸屋敷に宗因を呼んで俳諧に遊ぶ。義概の次男・義英(俳号露沾)は、宗因門に学び、みずから門人を育てるまで俳諧に没頭し、精進した。芭蕉のパトロンでもあった。

企画展では、宗因と風虎ら関係する人物をパネルで解説し、併せて個人蔵の「内藤義概和歌懐紙」「内藤露沾俳諧懐紙」を展示している。文歴所蔵本の『宗因奥州紀行巻』の文章コピー、あるいは「宗因が歩いた東日本」と題した旅行ルートの地図入り作品集コピーは持ち帰り自由だ。こうした“資料”がいずれなにかの役に立つ。

 たまたま旧知の館長氏と顔を合わせたら、近くの吹風殿(すいふうでん)で、いわき地域学會の仲間の夏井芳徳さんが「西山宗因のいわき紀行」と題して講演しているところだという。90分のうち残り30分だったが、話を聴くことができた=写真。前にどこかでチラシを見て講演があることは承知していたが、タイミングよくその日だった。ここでも宗因著の「奥州紀行」コピーをもらった。

夏井さんは今度の土曜日(9月1日)も「俳句集『桜川』の世界」と題して話す。『桜川』は、風虎が大阪の宗因門の俳人松山玖也をいわきに招いて編ませた全国レベルの選句集だ。近世初期の延宝2(1674)年に成り、全7000余句のうちいわきゆかりの句は2割ちょっと、と前に聞いた。

さて――。文歴と小川にある草野心平記念文学館は、同じ文学系の施設だ。文学館との違いを打ち出すために、マニアックな企画が目立つ。それも個性という評価がある。「西山宗因といわき」展も、俳諧研究の“すきま”に光を当てたようなものだろう。文歴に人を呼ぶのも、学芸員のアイデア次第、もっとマニアックな企画に徹せよ、ということになる。

2018年8月29日水曜日

8月なのにカエデが紅葉

 キュウリを摘みに行った8月20日の月曜日には気づかなかった。それからおよそ1週間。同26日に夏井川渓谷の隠居へ行くと、庭のカエデの一枝が紅葉していた=写真。どういうことだ?
 7月下旬にこんなことを書いた。「渓谷のがけに生えている幼木の葉が枯れて黄変していた。隠居からの帰路、車で通り過ぎただけだからよくわからなかったが、カエデだったかもしれない。緑のトンネルが切れて、太陽に照らされるS字カーブだ。生育環境としては厳しい。そんな所から日照りの影響が出始めているのか。雨乞い祭りが必要だ」。黄変どころか、今度は紅葉だ。

全体が鮮やかに紅変した葉、地の色の緑が残っている葉、すでにチリチリになった葉がある。別のカエデの木は紅葉こそないものの、ところどころで葉がチリチリになっていた。

渓谷の隠居へ通いはじめて24年目になる。カエデが、一部とはいえ、8月に紅葉したのを見るのは初めてだ。

同じ日の午後、隠居から山を越えて三和町に抜け、いわき三和インターチェンジから磐越道~常磐道を利用して、勿来の関公園内にある勿来関文学歴史館を訪ねた。吹風殿(すいふうでん)そばの駐車場に植わってあるカエデ、これも葉が全体に赤みがかかっていた。文歴のスタッフと、「猛暑のせいでは」という話になった。

変色したのはカエデだけではない。きのう(8月28日)夕方、テレビを見ていたら、九州の佐賀ではイチョウの葉が黄変したという。専門家の見解もわれわれの推測と同じだった。「7~8月が猛暑になり、水不足で乾燥した」結果らしい。

樹木は、動物と違って日陰には移動できない。猛暑のうえに水不足とくれば、冬と同様、葉を枯らして活動を抑えるしかないわけだ。

その樹木を相手に仕事をしている知人は「今年(2018年)初めてケツにあせもができた」といっていた。隠居の庭のマメダンゴ(ツチグリ幼菌)も、今年は7月1日に少し採っただけだ。発生が少ない。ほかのキノコも姿を見せない。猛暑の影響があちこちにあらわれている。

2018年8月28日火曜日

2年間の「会計」体験

 これはわが生活圏の例だが――。学区と一致する行政区の連合体(地区区長協議会)がある。同じ流域に属する行政区の組織(夏井川水系河川改良促進期成同盟会)がある。隣接する3行政区連合体が一緒になって道路の整備を求める組織(平窪・草野間連絡道路整備促進期成同盟会)もある。
 区長が分担して地区体育協会や青少年育成市民会議、防犯協会などの責任者になる。いわゆる充て職だ。それだけではない。各期成同盟会などにも自動的に属し、場合によっては役員の仕事が回ってくる。

おそらくは「負担は平等に」という話し合いの結果、合意が図られたのだろう。道路整備の期成同盟会は、会長・副会長・会計・監事が自動的に決まる。任期は2年。巡り合わせで2年前に会計をおおせつかった。「数字をいじるのは苦手で」などと四の五の言っているひまはない。

前任者から説明を受け、実際にやってみたら、実質的な仕事は総会前後に出納帳に記入したり、JAバンクに負担金(各区3000円)を積んだり、事務費やお茶代などを引き出したりするだけだった。足し算・引き算さえ間違わなければ、監事もすんなりハンコを押す。JAバンクというところが、地域の特色(もともとは農村地帯)をあらわしている。

総会では、事業経過・収支決算と事業計画・予算の承認がある。この予算・決算案をつくるのも会計の仕事だが、ひとつだけ誰にも聞かずにできたことがある。予算を「きれいな数字」にする――。いわき地域学會の総会資料をつくっていて、会計にも美意識があることを知り、それを応用した。ただ、前任者にも会計の美意識があった(数字からそれがわかった)ので、結果的には手法を引き継いだだけだが。

収入の科目は、負担金・繰越金・雑収入の三つしかない。負担金は決まっている。繰越金も決算から数字が出る。両者の合計が59万2154円だとしたら、全体の予算額を、わかりやすくきれいな数字、たとえば59万3000円にする。雑収入は逆算して846円。雑収入自体、不確定要素のかたまりだ。結果的には貯金利子4円程度で終わるとしても、846円を計上することは会計の裁量の範囲内だ。

ただ、出納帳の記入にはてこずった。収入の欄に支出の数字を書き込んだり、その逆をやったり……。こちらは、去年も今年も訂正印を押して、「汚れた数字」になった。

ところで、この連絡道路は、主に夏井川渓谷の隠居へ行くときに利用する。以前、車1台の通行がやっとという未整備のところがあった。だいぶ前に拡幅されたが、これも期成同盟会の要望活動の結果だったことを、会の一員になって知った。

懸案は幕ノ内地内の1カ所だけ=写真=だが、進展しない理由ははっきりしている。組織を存続し、負担金を払い続ける意味があるのか、という声も根強い。新執行部で議論したらいいでしょうと、新しい会計さんに書類を引き継ぎ、エールを送った。

2018年8月27日月曜日

9年ぶりに白菜の種をまく

 家庭菜園で白菜を栽培するとなると、結構な面積を占めることになる。原発震災後はしかし、昔野菜の「三春ネギ」以外は、秋・冬野菜は辛み大根しかつくっていない。スペースはある。9年ぶりに白菜を「自産」し、白菜漬けとして「自消」することにした。
 夏井川渓谷に隠居がある。庭だけは広い。およそ20年前、西側の4分の1を“開墾”し、趣味の菜園らしく「少量多品種」を実践してきた。その庭が、2011年の原発震災の影響で全面除染の対象になり、2年後の師走に表土がはぎとられ、山砂が投入された。庭は今も草を抜き取ると砂浜のように白い。

 三春ネギは、種を切らしたら終わり。意地でも原発事故には負けられない――その証しに栽培を続けた。除染後最初の春(2014年)には二十日大根とカブを栽培し、その2年後にはキュウリ・ナス・トウガラシもつくった。今年(2017年)はキュウリの苗2本だけにした。

 白菜はこれまでに3、4回つくった。前に栽培したのは2009年だから、震災後は初めてだ。

 9月に入ると、週末は行事が続く。肥料をすきこみ、うねをつくって種をまく時間は、8月最後の日曜日(26日)しかない。

 ところが、この残暑だ。薬をもらいに行くと、ドクターは散歩も土いじりも控えるようにいう。「水を飲まずに汗をかくと、〇×〇×がおきないとも限らない。もう少し涼しくなってから」といわれても、白菜の種まき時期は決まっている。早朝、水をたっぷり飲みながら一連の作業を続け、9時前には「耐病黄芯耐寒性大玉80日」の種まきを終えた=写真。

 種屋さんの話では、袋に入っている種はおよそ80粒。長さ2メートルほどのうねを6列つくり、株間50センチ前後で3粒の点まきにした。

 種は80粒以上あった。余った種は若芽が虫に食われたときの補植用、あるいは春の菜の花用に、ポット苗にしようか。

2018年8月26日日曜日

「うわぁ、35度を超えた!」

きのう(8月25日)は今年(2018年)一番の暑さだった? 茶の間の温度は、いくら暑くても35度を超えることはない。ところが、午後1時20分ごろ、たまたま電波時計の気温表示を見たら、35.3度だった。「うわぁ、35度を超えた!」。思わず叫んで隣の部屋に退散した。
そのあとすぐ、雨音がした。あわてて2階の窓を閉める。が、空は半分以上青い。西から雷雲が迫っていた。その先触れだろう。ところが、家の前の歩道を見ると、ぬれているのはわが家と隣家だけ=写真。ジョウロで鉢に水をやるように、わが家と隣家にピンポイント的に雨が落ちてきたのだ。

雨はそれでいったんやみ、午後3時過ぎには再び遠雷とともに大地をたたきつけた。茶の間の温度は32.6度まで下がった。

茶の間の右と左から扇風機をフル回転させても、熱風が寄せてくるだけ。カミサンは用をつくって近所へ“避暑”に出かける。私は玄関の上がりかまちに座って(そこが唯一、家の中の風の通り道)、“本読み”をする。熱のこもる茶の間がいっとき、無人になった。

夕方、気象台のホームページを開いて「今日の最高気温」を確かめた。小名浜は「最も暑い時期を上回る」30.6度、山田は34.9度だった。茨城県は浜通り以上にきつかったようだ。日立市35.5度、水戸市37.6度。これは「今年最高」。古河市は38.7度に達し、筑西市(下館)は「観測史上最高」の37.7度を記録した。

わが家も、室温35度超えは“観測史上初”だった。台風崩れの低気圧が列島に熱帯の空気を呼び込んだか。今、朝の5時前だというのに、室温30.5度。きょうは曇りの予報だが(実際には半分青い。朝日がまぶしい)、小名浜で最高気温30度の予想とか。やっぱり暑くなる?

2018年8月25日土曜日

活動写真専門館・平館

 この夏は、暑くてたまらない話ばかりブログに書いてきたような気がする。そろそろいつもの雑記に戻らないと――。
 5月から9月まで月1回(8月は休み)、中央公民館主催の市民講座で話をしている。8月は休み、そのうえ猛烈な暑さが続いたこともあって、こちらはすっかり頭がお留守になっていた。

 講座のタイトルは<「洟をたらした神」の世界>で、吉野せいの同題の短編集をテキストに、作品に出てくることばの“注釈”をしている。

 話を終えてからわかることがある。前にも書いたが、5月8日に1回目の話をしたとき、せいが友人の女性教師と映画「西部戦線異状なし」を見に行ったことを紹介した。その時点では、映画を見た年月日も上映館も不明だったが、その後、デジタル化された当時の地域新聞をめくっていて、映画「西部戦線異状なし」の広告に出合い、一気に情報量が増した。

 上映期間は昭和6(1931)年9月10~13日、映画館は平・南町の平館――。学校の先生が同行者だったことを考えると、2人は土曜日12日の晩に出かけたのではないか、という推測が成り立つ。吉野義也・せい夫妻が次女梨花を亡くしてから8カ月余りたっていた。せいが、その痛手から回復しつつあることを示すエピソードでもある。

 市民講座の会場はティーワンビル内のいわき市生涯学習プラザだ。4階エレベーターホールとロビー壁面を利用して、同プラザ開館15周年記念の特別展「写真に見るいわきの映画館――娯楽の王様映画の記憶」が開かれている。この特別展に探索のヒントがあった。

平館の写真が飾られている=写真。キャプションに「活動写真専門館・平館/大正6年 いわき市平南町」とあった。

キャプションの出典は『いわき市史 第6巻 文化』(1978年)だろう。同書の<映画>編にこうある。明治38(1905)年暮れ、いわき地方で初めて活動写真(映画)が公開される。その後、活動写真が急速に普及し、「芝居専門の劇場が兼用となり、活動写真専門の劇場が生まれてくる(略)。すなわち大正6年(1917)南町に平館が建設された」

平館のあった場所は、本町通りから南へ一つ入った通りで、以前は割烹金田がいわき駅前から改築・移転し、今はそのまま海鮮四季工房きむらやいわき店が引き継いでいる。

写真では、平館の前に堀が見える。江戸時代の磐城平城の外堀のひとつだろう。建物がなんともモダンだ。写真の左上には内部の写真がはめ込まれている。これまたしゃれた雰囲気に満ちている。同じ『いわき市史 文化』の<建築>編には、しかし残念ながら平館の記述はない。

 最初、平館の写真と吉野せいが結びつかなかった。それが、新聞広告を探り当てることで、「写真に見るいわきの映画館」展を思い出し、平館の写真とつながった。

情報はばらばらに埋まっている。掘り出せないだけだ。掘り出しても結びつけられないだけだ。前もって地力=知力がついていたら、もっともっとせいの内面に踏み込んだ話ができたはずだが、問屋は簡単には卸してくれない。

2018年8月24日金曜日

アオマツムシが鳴く

 庭で鳴く虫の主役が代わった。月遅れ盆の前は、昼、ミンミンゼミがうるさかったが、今は、夜、アオマツムシが騒々しい。「リーリーリー」というより「ギーギーギー」に近い声が木の上から降ってくる。
 火曜日(8月21日)の夕方、庭から車を出そうとしたら、後部ドアに緑色の虫が止まっていた=写真上。外来種のアオマツムシの幼虫だった。ネットで調べてわかった。成虫とちがって、幼虫にはまだ羽がない(よく見ると、伸び始めたばかりのようだ)。背中の模様も幼虫の特徴を示していた。雄なら、やがて羽をふるわせてうるさく鳴く。

そのまま車を動かし、戻ってきても、ドアに張りついたままだった。幼虫だからこそ、飛ぶこともならず、じっとしているしかなかったのだろう。それで、簡単に撮影することができた。

 わが家では、こんな感じで、いながらにしてよく虫の写真が撮れる。クモも含めた「庭の虫図鑑」をまとめようとしたら、まとめられるかもしれない。

例年、夏は朝から戸と窓を開け放し、扇風機をかけっぱなしにして、茶の間で過ごす。今年(2018年)はしかし、暑さが普通ではない。セミの声でおかしくなり、暑さでげんなりして、座業もはかどらなければ昼寝もできない。晩酌を始めると、今度はアオマツムシの鳴き声に責められる。

それでも、いきものが現れると、カメラを手に取る。この10年余、パチリとやったものは、アオスジアゲハ、キアゲハ、クロアゲハ、ハグロトンボ、ニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、クワガタ、カミキリムシ、ジャノメチョウ、アシナガバチ、ナガコガネグモ、オニグモ、スズメバチ……。鳥ではスズメ、ヒヨドリ、アオジ、ジョウビタキ、カワラヒワ、爬虫類はカナヘビ、トカゲ、両生類はアマガエル。

朝起きて暑くなりそうだと、すぐ庭の車の窓を開ける。閉め切っておくと、車内が高温になる。きのう(8月23日)は、どこからかフラフラになってたどり着いたのか、運転席の前の物入れに、翅(はね)がボロボロのアゲハチョウが止まっていた。

羽をつまんで家に入れると、バタバタ畳の上をはうようにしか飛ばない。かろうじて、座いすの裏側に止まったところをカメラに収めた=写真下。しばらくしてから外へ出て行ったが、もう精も根も尽き果てたといった感じだから、そのままいのちを終えたかもしれない。翅の紋様からナミアゲハとみた。
猫の額のような庭だが、ここには柿の木を中心にしたミニ生態系ができている。その生態系には、ときどき茶の間も含まれるらしい。いつだったか、茶の間の電球の笠とひもを利用してオニグモの子が円網を張った。朝にはいったん網を片づけ、宵になると再び網を張る、といったことを繰り返した。今年はまだ現れない。

2018年8月23日木曜日

早くもカカシが出現

平の自宅から夏井川渓谷の隠居へ行くとき、神谷~中塩~平窪と田んぼの中の道を利用する。月遅れ盆の前、平窪の“農道”から小川へ向かう国道399号へ出るところで、カカシに出合った=写真下。
 私が子どものころは、カカシといえば「へのへのもへじ」が定番だった。笠か麦わら帽子に、首に巻いた手ぬぐい、かすりの作業着。農夫の姿のカカシといえば、これ。無精ひげの「カールおじさん」もこの農夫像を受け継ぎ、麦わら帽子をかぶって首に手ぬぐいを巻いている。

 そのカカシが、いつのころからかマネキン女子に替わった。初めて見たときはドキッとした。カカシにもはやりすたりがあるのだろう。

 平窪のカカシは、女子は女子でもイスラムの「ブルカ」のように顔がわからない。つば広の日よけ帽子をかぶっている。後頭部は帽子から背中まで垂れた布、顔も布で覆われている。紫外線を気にする現代女性をリアルに表現している。

 カカシは、スズメにどのくらい効果があるのだろう。鳥たちは、動かないものにはすぐ慣れる。農家としては、「へのへのもへじ」から「マネキン女子」に替わっても、効果は一時的、「やらないよりはまし」くらいの認識ではなかろうか。

 田んぼだけではない。街なか、といってもわが家のそばのごみ集積所のことだが、そこにカカシが立ったこともある。ときどきカラスが生ごみを食い散らかす。業を煮やしたカミサンが、スタンド式の洋服掛けに服を着せて集積所に立てた。少しは効果があったかもしれないが、頭のいいカラスはすぐダミーと見抜いたことだろう。

 平窪を抜けて小川に入ると、畑にブラブラ浮いているものがあった=写真下。何を栽培しているかはわからないが、こちらも「鳥威(おど)し」だ。小さな鳥たちが恐れる猛禽類、たとえばタカを模しているようだ。
 それで思い出したことがある。真冬、事故か何かで死んだヒヨドリが1羽、畑につり下げられていた。ヒヨドリが畑の青物を狙うのは、冬が深まったとき。畑に残る白菜、キャベツなどの葉物がつつかれて、見るも無残な姿になる。効果はどうだったか。「被害ゼロ」は、もとより考えてはいないだろう。「ほどほどにしてくれよ」というサインのようなものではないだろうか。

カカシは、稲穂が垂れ、実りのときを迎えつつある――というシグナルだが、今年(2018年)はちょっと早い気がする。案の定、ゆうべ(8月22日)のローカルテレビは、会津坂下で稲刈りが始まったことを伝えていた。猛暑続きで実りが早まったという。

2018年8月22日水曜日

ネギの苗と白菜の種

 月遅れ盆が終わって、秋野菜の種まき・植え付けが始まった。田村市(郡)のネギ畑では、この時期、曲がりネギにするための“やとい”という作業も行われる。
 夏井川渓谷にある隠居の庭で、昔野菜の「三春ネギ」を栽培している。三春と名が付いているように、田村郡から種が伝わってきた。

田村郡ではお盆のころ、溝を斜めに切ってネギを植え直す。ネギは、地上部はまっすぐ天に向かって伸びようとする。それで、食べごろのネギの形はアルファベットの「J」に似てくる。曲げる=ストレスを与えることで甘みが増すのだという。

 ネギは乾燥には強いが、湿気には弱い。地中の水分が過剰だと、根腐れを起こす。曲がりネギにするのは、根を浅く植えることで根腐れを防ぐ意味もある。

 2年前(2016年)の春、三春ネギの苗を分けてくれた渓谷の小集落のおばちゃんの家で茶飲み話をしたとき――。「私は田村地方にならって曲がりネギにしてるけど、おばちゃんは」「まっすぐだよ」。ええっ、やといをやらないのか! それは楽でいい。よし、おばちゃんにならって、やといを省略しよう。3年目の今年も植えたままにしている。

 それはいいのだが、先日、隠居へ出かけたら、ネギが何本か倒れていた=写真。ネキリムシが根元にひそんで根をかみ切ることがあった。指でネギの周りの土をほじくると、幼虫が現れる。それをプチッとやる。ネキリムシの被害が少なくてすんだと思ったら、今度は風だ。

 根腐れ予防に浅く植え、高く土を寄せる――その土寄せが不十分だと、風が吹き荒れたときに倒伏する。やわらかさが特徴の三春ネギの欠点でもある。大急ぎで根元に土を寄せた。

ネギの溝のそばには4畳半くらいの空きスペースがある。久しぶりに白菜を栽培しようと思っている。冬、自前の白菜を漬け物にする。12~3月の間、夫婦2人で食べる白菜漬けは、10玉もあれば十分だ。

きのう(8月21日)夕方、車で5分ほどのところにある種屋さんへ行って、おやじさんの話を聴いた。「白菜は、どの種がいいですかね」「いつ食べるの?」「冬に漬け物にするんだけど」「では」――と、「耐病性黄芯耐寒性大玉80日」の種袋を勧めてくれた。ホームセンターでは、こうはいかない。

 キュウリ苗もこの種屋さんから買った。大当たりだった。時期的には終わりのはずだが、まだ花が咲き続けている。実の生(な)りもしっかりしている。

苗も種もホームセンターのよりは高い。しかし、高いだけのことはある。目利きの種屋さんが近くにいるメリットははかり知れない。

2018年8月21日火曜日

Nスペ「届かなかった手紙」

 酷暑が続いたこの夏は、ふだんより1時間余り早く起きて、1時間余り早く寝る極私的サマータイムを実施してきた。自然にそうなった。月遅れ盆をはさんで、急に秋めいた今もその傾向が続いている。
 きのう(8月20日)も4時半に起きた。前の晩はしかし、NHKスペシャル「届かなかった手紙――時を越えた郵便配達」を見て、寝る時間が遅くなった。途中、目が覚めて、ベッドで本を読んでいたこともあって、日中は寝不足気味だった。

 新聞の番組紹介記事を記す。「太平洋戦争中、戦場の兵士と故郷の人々の間を行き交った『軍事郵便』は、年間4億通。しかし戦況が悪化するにつれ、届かない手紙が増えていった。米軍などに押収され、多くが返還されなかったのだ。いま、そうした手紙が国内外で次々と見つかっている。番組では、遺族などを捜して未配達の手紙を届けることにした」(福島民報)

 番組スタッフが遺族を捜し当て、戦時中に書かれた手紙を届ける――これが、この番組のポイントといえばポイントだ。

アジア太平洋戦争が終わって73年。一般的には、過去が青空になる長い時間が過ぎたが、遺族によっては、いまだに肉親の死が信じられず、あきらめきれない。死んだ肉親よりはるかに高齢となった弟や妹たちが、「届かなかった手紙」を手にし、読み始めると間もなく、うめくように、叫ぶように涙する。「戦争は嫌」。理不尽な死をもたらす戦争への悲憤、切々とした平和への思いが視聴者にも伝わってくる。

(硫黄島で死んだ私の母の兄、つまり伯父の遺影を思い浮かべながら、番組を見た。遺骨も遺品もない。後年、同島で父親が亡くなったいわき地域学會の先輩が、島へ慰霊の旅をした。そのとき持ち帰った浜辺の黒い砂を譲り受け、わが家でまつる分を除いて、実家と伯父の家に届けた。それが唯一の“遺品”だ)

 たしか、耳の聞こえない妹を気遣った兄の手紙だったと思う。番組スタッフからそれを受け取った妹は「初めて触れられる兄の残したもの ありがとうございます」。そして、「兄を忘れたことはありません 生きて帰ってほしかったです 残念でなりません」=写真、「夢の中では兄と話ができてうれしいのですが 朝がくると兄が消えてしまうのです」と続ける。このくだりに、つい、もらい泣きしてしまった。

 8月は戦争と平和を考える月だ。メディアには、「カレンダージャーナリズム」と揶揄されようと、戦争と平和に深く切り込むような記事と番組が求められる。他局の番組は知らないが、NHKに関していえば、今年はずいぶん頑張っている印象を受けた。

Nスペでは、「広島 残された問い――被爆二世たちの戦後」(8月6日)、小野文恵アナウンサーの「祖父が見た戦場――ルソン島の戦い 20万人の最期」(同11日)、「“駅の子”の闘い――語り始めた戦争孤児」(同12日)を見た。ETV特集「自由はこうして奪われた――治安維持法 10万人の記録」(同18日)も見た。

優れた番組・記事とは、私のなかでは、淡々と個別・具体に触れながら、普遍に至る――そういう組み立てができているものだ。「届かなかった手紙」は、その意味では傑作の部類に入るのではないか。番組をつくるスタッフ自身が「郵便配達人」になる。その当事者性もまた番組に誠実さと奥深さを与えていた。

2018年8月20日月曜日

2018いわきキッズミュージアム

7月から何度かいわき市暮らしの伝承郷へ足を運んだ。といっても、カミサンのアッシー君として、だが。
「伝承郷収蔵品展――明治・大正・昭和の衣類」が8月4日に始まった(10月21日まで)=写真上。伝承郷の事業懇談会委員で、裂(きれ)や陶磁器などを扱う“古物商”(本業は米屋)でもあるカミサンが、展示の手伝いをした。

 きのう(8月19日)の日曜日も、朝8時半には送り届けた。その日開催の「2018いわきキッズミュージアム」のボランティアとして、ほかの人と一緒にかき氷づくりを担当した。

同ミュージアムは東日本大震災後、滋賀絆アート支援プロジェクト実行委員会の協力で始まった。滋賀県の被災地支援の一環で、暮らしの伝承郷を会場に、「竹で遊ぼう」「消しゴム版画でエコバッグ作り」「プラ金魚すくい」などのほか、流しそうめん、カレーライス、かき氷、チヂミ焼きなどがふるまわれた。考古資料館でも開催された。

伝承郷では去年(2017年)、2年ぶりに滋賀県の協力が復活した。今年は単独開催になった。「木の枝クラフト」「消しゴム版画でエコバッグ」「竹で遊ぼう」が有料のほかは、輪投げ・ゴム鉄砲射的、水風船つり・麦わらのしゃぼん玉は無料だった。食べ物はかき氷が無料で提供された。

カミサンを送り届けたあとは、家に戻っても昼前には迎えに来ないといけない、ならば――駐車場に残って、車の中で“本読み”を続けた。9時半の開場前には、駐車場は幼児~小学校低学年生を中心にした家族連れの車でいっぱいになった。

 11時半過ぎ、民家ゾーンへカミサンを迎えに行く。会場内の空気がなんとなくゆったりしている。人はいるが、ごった返すほどではない=写真下。ボランティアに支えられた自前のイベントとしては、そんなものなのだろう。青空には秋の雲、その下にはかやぶき屋根の民家――。いかにも伝統的なムラらしい雰囲気が出ていた。
 そうそう、8月初めにアッシー君を務めたときには、民家ゾーンにある里山の尾根を歩いた。夏キノコのタマゴタケが目当てだったが、酷暑続きで乾ききっていたため、毒キノコさえ見当たらなかった。先日は久しぶりにまとまった雨が降った。切り株に秋キノコのナラタケモドキが出たかもしれない。

2018年8月19日日曜日

デジタル地図の奥深さ

ノートパソコンを使ってはいるが、目的はブログ・会議資料・メールの文章入力や「洟をたらした神」の注釈づくり、それに伴う検索がほとんどだ。日中はパソコンにふたをして雑用をこなし、合間に注釈づくりのための資料読みをしている。
ノートパソコンは、持ち運びもできるが重い。それをさらにてのひらサイズにしたのがスマホだろう。文章入力も検索もてのひらで、しかも、いつでもどこでもできる。自分が今いるところ、行きたいところ、だけではない。地図アプリによっては、昔、ここになにがあった、なにがおきた――といった歴史的情報も確かめられる。

きのう(8月18日)午後、いわき市生涯学習プラザでいわき地域学會の市民講座が開かれた=写真上。渡辺剛広幹事が「地図の見方」と題して、ネット(主にスマホ)で利用できる地理院地図のほか、地理情報システムや地図アプリの「ストロリー」「マピラリー」「ひなたGIS」などについて解説した。

彼は私のデジタル師匠でもある。彼がセットアップしてくれたおかげでブログをやり、ツイッターとフェイスブックを利用することができる、パソコンがおかしくなると、すぐ来てもらう。

ときどき、彼が立ち上げたサイト「ABUKUMAPS(アブクマプス)」をのぞき、中に収められている江戸時代の「岩城平城内外一覧図」を拡大して遊ぶ。アナログの地図では小さくてわからない文字や絵が細部まで読み取れる。

掘割に架かる橋は、場所によっては太鼓状になっている。その形状から、掘割は舟運にも利用されていたのでは、といった推測が可能になる。久保町にあるカミサンの実家の場所には、当時、「権兵衛」という人間が住んでいた。権兵衛さんはなにをして暮らしていたのだろう。
 
地理院地図の存在も彼に教えられた。が、その利用は山や川の位置関係、標高の確認程度にとどまっている。

デジタル化された地図の世界は奥深い。陰影のついた地図から、たとえば好間川のV字谷の様子がわかり、小名浜にあった前方後円墳の形=写真左=が浮かび上がる。地震や津波、水害などの過去情報も地図化することで、人の生命・財産を守る一助になる――。市民講座では、そうした地図の使い方、古地図と現在の地図を比較する仕組みなども紹介した。

教えられないとわからない情報がネットにはいっぱいある。が、年寄りにはそれを見にいく技術がない。こういう講座の必要性を痛感した。

2018年8月18日土曜日

リアル古書店オープン

 店の前には「古本」と大書したのぼり=写真下。夜になると、井形の“松焚(まつた)き”を模した明かりが店頭にともる――。
 いわき市の中心市街地、平の本町通りは五町目・石川紋店跡に、若い仲間が経営する古書店が“オープン”した。

 オープンにチョンチョンを付けたのにはワケがある。すでに10年以上前、ネット古書店・じゃんがら堂を開業し、阿武隈書房と名前を変えてからは同紋店跡を拠点に、パートの従業員を何人も抱えるまでに成長した(小名浜でリアル古書店を開いていた「前史」もあった)。特に、東日本大震災後は蔵の解体や断捨離で、あちこちから声がかかる。

そうした実績を足がかりに、ネット販売だけでなく対面販売にも踏み切った。平七夕まつり(8月6~8日)に合わせて開店したという。

 夜の店頭の明かり=写真左=も平七夕まつりと関係がある。昭和初期まで、本町通りでは盆に「松焚き」が行われた。本町通りが舗装化されると、その保護のために松焚きが中止になる。松焚きに代わる集客イベントとして、昭和9年、今の平七夕まつりがスタートした。

 きのう(8月17日)、初めて店をのぞいた=写真下。スペースは12畳(6畳二間)くらいだろうか。そこに木の香りただよう本棚が並ぶ。

本人は買い付けその他に飛び回っているので、店にはいなかったが、好みが出ていた。硬派の本が多い。値段もいい。なにかを調べたり、研究したりしている市民には、背表紙をながめる楽しみができた。
リアルな空間だけに、思わぬ発見もある。「開店祝い」になにか1冊をとながめていたら、『ある小さなスズメの記録――人を慰め、愛し、叱った誇り高きクラレンスの生涯』(文藝春秋、2010年)が目に留まった。作者はクレア・キップス。知らない。

が、訳者が梨木香歩だった。ナチュラリストにはたまらない小説を書く。『西の魔女が死んだ』は映画になった。『沼地のある森を抜けて』は――その昔、駆け落ち同然に故郷の島を出た私たちの祖父母が、ただ一つ持って出たもの、それがこのぬか床。戦争中、空襲警報の鳴り響く中、私の母は何よりも最初にこのぬか床を持って家を飛び出したとか」 というくだりがうれしい“糠床小説”だ。

植物に詳しい彼女の作品に興味があるのと、値段が300円と手ごろだったので、迷わずレジに持って行った。

古書店が姿を消す中、ネットではなくリアル古書店が街にオープンするのは、地方都市では奇跡に近いのではないか。通りのシャッターがひとつ、ともかくも開いたのだ。新聞、テレビ、どこが最初にかぎつけるか。地元紙なら1面トップのニュースになる。

2018年8月17日金曜日

精霊送りで一区切り

 月遅れ盆のしめくくりは8月16日朝の精霊送り。わが区では、区の役員が県営住宅集会所前の庭に祭壇を設けて、早朝6時から“精霊舟”を受け付ける。9時前にはごみ収集車がやって来る。いわき市では環境美化の観点からそうしている。
 おととい(8月15日)の夕方、集会所の庭の草刈りをしたあと、四隅に青竹を立てて縄を回し、杉の葉とホオズキをつるした=写真上1。結界のなかには座卓を利用した安置所をもうけた。

おととし(2016年)からは祭壇正面の位置を道路側に替えた。それまでは道路に並行して正面があった。正面に立つには石段を三つ上らないといけない。足の不自由なお年寄りは手すりにつかまり、やっとの思いで焼香台の前に立つ。それを見ていた役員の発案で正面を90度ずらし、道路からじかに焼香できるようにした。

今年は「ここまで歩いて来るのさえやっとなの」という女性がいた。別の女性はバッグのなかを探しながら、「賽銭忘れちゃった、ぼけちゃって……」とあわてて帰り、あとで多大な「御仏前」を持って来た 。「ご苦労様です、皆さんでジュースでも飲んでください」と、今年も賽銭を多めに投入する人がいた。
 雨の精霊送りにならないように――。役員はいつも天気が気になる。祭壇づくりをした15日も、当日朝も大丈夫だった。精霊送りが無事すみ、のんびりしていたきのう午後、それこそ黒雲がわき出て空を覆った=写真上2。同じころ、竜巻注意情報が発表された。急に風が吹き出した。

この種の雲にはいつも心穏やかではいられなくなる。地上の人間がなにか巨大な生きものの消化器の中に飲み込まれたような感覚に襲われる。やがていっとき、風が強まり、雨がたたきつけた。雷は聞こえなかった。精霊送りのさなかでなくてよかった――。

いずれにせよ、精霊送りが終われば、頭はあらかた夏から秋に切り替わる。あとは8月20日の夏井川流灯花火大会があるだけ。平の、いわきの夏まつりは、この灯籠流しで幕を閉じる。

しかし、センチな気分にひたってはいられない。朝、精霊送りをすませて精進あげをしているときに、「次は体育祭だね」と、役員の一人がつぶやいた。9月2日、秋の最初の行事が待っている。下旬にはその準備が始まる。

2018年8月16日木曜日

「父のカレー」を再び

 きのう(8月15日)は朝4時半に起きた。玄関の外が明るい。赤みがかっている。電灯を消し忘れたか。そうではなかった。朝焼けの色だった=写真下1。戦没者追悼の日があかあかと燃えながら明けた。
 朝食をすませてから、新盆回りに出かけた。今年(2018年)2月に亡くなった知人は、平で人気のカレー店のオーナーだった。

昔、家が近所で、子どもの幼稚園が同じだったため、朝は私が子どもたちを幼稚園へ送り届け、午後はオーナーの奥さんが迎えに行った。

葬式では、下の娘さんが喪主になった。結婚し、子どもができてからは、近くに住んで、ふだんから故人と行き来していたのだろう――と思っていたら、子ども夫婦が見つけた借家に一緒に住んでいた。盆棚の前で娘さんがふだんの暮らしぶりや発病~終末医療の様子を話してくれた。娘夫婦と孫がそばにいてよかったじゃないの――故人の遺影に胸の中で語りかけた。

2月の葬式では、通夜振る舞いにカレーライスが出た。舌が真っ先に甘みに反応し、遅れてまろやかな辛みが広がった。およそ30年ぶりでコクのある味を堪能した。

父親が入院中、下の娘さんが父親の指南でカレーを試作した。最後は父親伝授のワザをレシピにまとめて、通夜の客に出した。新盆でもカレーをつくった。カップに分けてもらって持ち帰った=写真下2。
 さて、月遅れのお盆が終わると、吉野せい賞の作品読みが始まる。毎年8月後半~9月前半の1カ月弱、朝から夕方までひたすら“市民文学”を読み続ける。夕方には目がかすみ、頭が重くなる。

毎年、浅田次郎の作品を読み、小説の醍醐味を体にしみこませ、“市民文学”の鏡とすることで、400字詰め原稿用紙換算で総量3500枚前後の文字の海を漂う。

今年は『お腹召しませ』(中央公論新社)の中の「安藝守様御難事」を読んだ。大名に課せられた変な風習「斜籠(はすかご)」を取り上げたもので、きのう、たまたま「こんな小説があるよ」と、カミサンが図書館の本を差し出した。新盆回りから帰って、浅田作品に没頭しているうちに、「よし、これを今年の鏡にしよう」という気になった。

文章が短い。リズムがある。そのうえ、人物の内面の描写が深いので、感情移入がしやすい。浅田作品は“市民文学”の鏡、つまり手本になる。

夜、晩酌をしながら「父のレシピを受け継いだ娘のカレー」を食べた。通夜のときより、いい辛さになっていた。「小説より奇なる事実」もまた、“市民文学”を読み続けるエネルギーになる。

2018年8月15日水曜日

お盆はやっぱり「じゃんがら」だが

 近所に何軒か新盆の家がある。その1軒にきのう(8月14日)朝9時半前、故人を供養するじゃんがら念仏踊りの一行がやって来た=写真。全員女性だ。鉦(かね)と太鼓の音を聞きつけて、周りの家からぞろぞろ人が出てくる。いわき地方独特の盆の光景だ。
 前にも書いたことがあるが、いわきの人間は、母親の胎内にいるときからじゃんがらにふれて育つ。じゃんがらはいわきのリズム、いわきの音だ。

いわき市内各地の青年会が踊りを継承している。その基本形は変わらない。が、最近は少子時代の影響を受けて人集めに苦慮しているらしい。青年男子の数が足りない。地域を越えて女子や助っ人が加わる――見たり聞いたりした話を総合すると、そういう状況にあるようだ。

今年(2018年)初めて、小学生が加わった青年会チームを見た。あるところでは、子どもじゃんがらチームの人数がそろわずに活動が休止になった、とも聞く。

その一方で、じゃんがらフリークは増えている。女子だけのチームができたのもそのためだろう。もともとは誰もが参加できる享楽的な踊りだったようだから、青年限定の“呪縛”が解かれただけにすぎない、ともいえるが。

私の住む神谷(かべや)地区は、江戸時代には笠間藩の分領(飛び地)だった。そのためかどうかはむろんわからないが、青年会は新盆供養に、じゃんがらではなく「笠踊り」を披露する。

おとといがそうだったように、きのうも午後、雷雨に襲われた。いったんにわか雨が去ったあとにまた雨が降り始めた6時過ぎ、笠踊りのおはやしが聞こえてきた。朝、女性じゃんがらが来た家に、宵になって傘踊りのチームがやって来た。

 150年前の戊辰戦争では、笠間藩は「勝ち組」に入った。神谷は分領の中心だった(陣屋があった)。住民としてはいささか複雑な思いで「戊辰150年」を過ごしている。月遅れ盆も、じゃんがら念仏踊りに笠踊りが見られる。いわきの中では少し変わった地域だ。

2018年8月14日火曜日

雷神もじゃんがらを!?

 月遅れ盆に入ったきのう(8月13日)、午後2時過ぎ――。家で横になっていたら、いきなり雷が鳴り始めた。
 2階の窓は、雨がぱらつき出すとすぐカミサンが閉めた。が、1階は店も奥の部屋も開けたまま。雷が落ちるごとに雨脚が強まり、西の窓は横なぐりの雨で枠が濡れてきた。南向きの玄関にも雨が吹き込みはじめる。あわてて部屋を回って窓を閉めた。

 どんどん雷鳴が大きくなる。雨が地面をたたきつける。ふと思い出して、蛍光灯を消し、扇風機を止める。テレビもパソコンもオフにしてある。

暗くなった店のガラス戸を少しだけ開けて、カメラを構えた。空から大地へと瞬時に落ちる稲妻の撮影に挑んだが、とても間に合わない。どこから光るのか、予測もつかない。家の前の歩道がたちまち冠水した=写真。わずか小一時間で側溝は雨水を飲み込めなくなった。

 天空では落雷だけでなく、雲の中で盛んに放電が行われている。落雷はやや遠い。が、放電は真上で起こり、ゴロゴロ激しく音を転がす。ガラス戸をビリビリ震わせる。

 地上では月遅れ盆が始まった。青年会がじゃんがら念仏踊りをして新盆家庭を供養する、いわき独自の盆行事も始まった。天空では雷神が太鼓を打ち鳴らしている。そうか、そうか、雷神もじゃんがらを踊っているのか。

 雷雲は、3時前には通り過ぎた。残りの雨と歩道の冠水が続くなかを、車で徒歩で新盆家庭回りの人々が行き来する。じゃんがらを踊る青年会の一行が乗ったレンタルのマイクロバスが行ったり来たりする。

 やがて歩道から水が消えた。雨量は、平で41.5ミリ、南部の山田で49.5ミリ、小名浜で14.5ミリだった。午後2時37分には、いわきに「土砂災害警戒情報」が発表された。同3時50分には解除されたが、フェイスブックにいわき駅前のラトブなどが停電になった、という情報がアップされていた。きょうはどうか。また雷神がじゃんがら念仏踊りに加わる?

2018年8月13日月曜日

十六ささげのよごし

 いわき地方では、月遅れ盆に青年会が新盆家庭を回って「じゃんがら念仏踊り」を披露する。太鼓を打ち、「チャンカチャンカ」と鉦(かね)を鳴らして、「盆でば米のめし……」と歌い踊る。いわき市民の魂にふれる伝統芸能だ。
 
 歌は、「米のめし」のあと、「おつけでば茄子(なす)汁 十六ささげのよごしはどうだい」と続く。

十六ささげは、いわきの昔野菜(在来作物)のひとつだ。さやの長さが30センチ前後になったところで収穫する。見た目はちょっと太い緑色のひも、といった感じ。さやの実が16個あるからその名が付いたという説もあるが、以前確かめたときには、実の数が22だったり、19だったりした。それだけ多いという意味での「十六」なのだろう。

このささげを、先日いただいた=写真(一番外側のひも状のもの)。カミサンが、じゃんがら念仏踊りの歌にあるように、ゆでてごまよごしにした。やわらかくてうまかった。

震災前、沼ノ内の土曜朝市で手に入れたとき、普通のインゲン同様、素揚げにしてみた。結果は「ん?」だった。生の段階ですでにやわらかいうえに、高温の油で加熱したから、ふにゃふにゃになった。やっぱり歌にあるように「よごし」にするのが一番らしい。ただし、ゴマよりも同じ昔野菜のエゴマ(ジュウネン)を用いた「じゅうねんよごし」がよりふさわしいかもしれない。

 十六ささげは、食べるだけではない。『いわき昔野菜図譜』(いわき市、2011年3月発行)によれば、お盆の供え物のひとつでもある。8月16日の盆明け朝には、盆ござで供えたものを包み、冥途のみやげとして、十六ささげで包む――とある。

 ついでに、もうひとつ。十六ささげは岐阜県の「飛騨・美濃伝統野菜」でもある。美濃地方といわき地方は「安藤の殿様」でつながる。江戸時代の宝暦6(1756)年、美濃加納から藩主安藤信成が磐城平に入封した。そのとき一緒に十六ささげの種も入って来た、という仮説はどうだろう。

 きょう(8月13日)は月遅れの盆の入り。新盆家庭のすべての盆棚に十六ささげが供えられることはないにしても、お盆中は「十六ささげのよごしはどうだい」の歌があちこちで聞かれることだろう。

2018年8月12日日曜日

戊辰戦争150年追悼法会

 旧磐城平藩士の子孫の集まり、「平安会」主催の戊辰戦争150年記念追悼法会(ほうえ)がきのう(8月11日)午前、藩主安藤家ゆかりの良善寺(平)で行われた。
 同会は毎年8月11日に同寺で戊辰戦争の戦没者を追悼する法要を営んでいる。今年(2018年)は同戦争から150年の節目の年に当たることから、歴史研究団体などにも声がかかり、いわき地域学會を代表して参加した。

 いわき市内では昨年から、戊辰戦争150年の関連企画として講演会や戦跡巡りなどのイベントが繰り広げられている。ときどき聴講し、出版された冊子を読み、巡検にも参加した。が、それでいわきの戊辰戦争の全容が頭に入ったわけではない。

 良善寺は、寺そのものも戦争の舞台になった。山門にそのときの弾痕が残っている。戦死者の墓もある。追悼法会では読経・焼香・主催者および来賓あいさつ・記念撮影のあと、墓参をした=写真上1。

 安藤家の墓のうしろに、「戊辰戦死者追福改葬浄地」があって、戦死者の墓がずらりと並んでいた。

 東日本大震災がおきた年の11月中旬、海外修学旅行を中止し、代わりに「震災復興支援の集い」の名目で、会津若松市の奥座敷・東山温泉でミニ同級会を開いた。夜の宴会に先立ち、鶴ヶ城と白虎隊の少年兵士が眠る飯盛山を見学して、会津の戊辰戦争に触れた。

良善寺の「浄地」は白虎隊の19人の墓域ほど広くはない。が、こちらは54人と戦没者が3倍近い。戊辰戦争の死者が眠るところ、という意味では、手あかにまみれた「聖地」より「浄地」ということばがふさわしい。

 この「浄地」に立つだけで、戊辰戦争の、いや戦争一般の本質が見えてくるような気がする。生が死へと瞬時に暗転する。死者の数だけ人生の、家族の崩壊がおきる。法会の「追悼の言葉」のなかで、平安会会長が「理不尽な侵略……」と述べた。ドキリとさせられた直後だけに、なおいっそう墓が身近に感じられた。

あとでネットで知ったのだが、「浄地」の一角に歌人天田愚庵の父親、天田平遊(本名・平太夫、平遊は隠居名。戊辰戦争時、妻、娘とともに行方不明になった)の墓もあった。
墓参のあとは本堂前の庭で、泉崎青年会によるじゃんがら念仏踊りが奉納された=写真上2。同踊りは、青年会が月遅れ盆に新盆家庭を巡って披露するいわき地方独特の伝統芸能だ。お盆直前の奉納だったが、これには「勝ち組」も「負け組」もない、死者をあまねく追悼するのだというメッセージが込められているように感じた。

最後に、これは素朴なギモンなのだが。毎年8月11日に法要を営んでいるのは、その日が「平城落城の日」だからだという。元ブンヤの悪いクセで、平城が落城した戊辰の年=1868年の陰暦7月13日をグレゴリオ暦(新暦)で確かめたら……。私の計算の見方、あるいは情報の取り方が間違っているのかもしれない。どなたか根拠をご教示願いたい。