2018年9月30日日曜日

第4回いわき学検定・1次試験

 いわき地域学會の新事業、「いわき学検定」も今年(2018年)で4年目を迎えた。きのう(9月29日)午前、いわき市生涯学習プラザで今年の1次試験が行われた。応募した23人のうち、21人が参加した=写真。
 同検定は、いわきの歴史や文化、自然を学び、知る楽しさを体験するとともに、得た知識をまちづくりや観光に生かしてもらおうと、平成27(2015)年に始まった。

内容からして行政が主催しそうな事業だが、いわきにはいわきを総合的に調査・研究している市民団体・いわき地域学會がある。地域学會の“総合知”が問題作成の源泉だ。「難しい」という声も聞こえるので、4回目は時間と問題数を減らし、60分・70問4択で実施した。

1次試験を突破した人が「いわき学博士号」取得をめざして、10月20日の2次試験に挑む。1次、2次と“難関”を超えて博士号を取得した人は、最初の年が4人、おととしが5人、去年が2人だった。

 受験した21人のうち、最高齢者は92歳。生涯学習のお手本のような人で、「自分の力を試したい」と挑戦を続けている。遠くは石川県白山市、静岡県焼津市からも参加した。白山市の受験者はインターネットで、焼津市の受験者は前にいわきへ来たときに検定を知った。前泊して午前の試験に備えたという。

去年、博士号を取得した2人は市外出身者だった。1人は大阪府。奥さんがいわき出身の縁で近年、いわきの住人になった。もう1人は山形県鶴岡市。高校を卒業したあと、いわきの企業に就職した。「きっつぁし」(いわき語で「よそから来て住みついた人」)ゆえに、いわきを知ることには人一倍意欲的なのだろう。

 今年は担当の副代表幹事が別用のため、私ともう一人が“試験官”になった。たった1時間とはいえ、気を張って会場にいたせいか、試験が終わると疲れがどっと出た。

2018年9月29日土曜日

「うえいぶの会」解散式

 いわきの総合雑誌「うえいぶ」が最終50号を出して休刊してから1年半。おととい(9月27日)、発行母体の「うえいぶの会」の解散式がいわき湯本温泉・古滝屋で開かれた。運営・編集に携わった14人が出席した。
「うえいぶ」は、いわき地域学會が発行母体となって昭和63(1988)年6月、創刊された。途中から「うえいぶの会」に引き継がれるが、どちらも同学會初代代表幹事、故里見庫男さんが牽引役になった。里見さんは古滝屋の先代社長。里見さんへの報告も兼ねて、古滝屋で最後の会合を持った。

 創刊号から50号までが会場に展示された=写真。年2回発行で20年、年1回発行に切り替えて9年、合わせて29年のうち最後の9年間を編集担当としてかかわった。

 最終号を出してから1年半後の解散式になったのは、購読・広告代金の回収・精算があったからだ。結果的には、赤字見通しから10万円ほどの黒字決算になり、剰余金は最初の発行母体・地域学會に寄付されることになった。

編集経験者の鈴木英司さん(市職員からのちに副市長)が30号発行を記念して、「文化福島」第380号(福島県文化センター、2003年)に寄稿した文章のコピーが本人から配られた。

「『うえいぶ』の目標は、それは課題でもあるのだが、如何(いか)に多くの人々に、その人その人の持っている『いわき』への熱い思いを文章といった表現手法で語って貰えるかということにある。そしてそのことが実現すれば、その時に、いわきの文化は、恰かも波紋が広がるように少しずつ少しずつではあっても、広まっていくのではないか」

平成21(2009)年4月、里見さんが68歳で亡くなり、追悼号を出す過程でわかったことがある。

なぜ里見さんが雑誌発行にこだわったか。大正時代の幕が開けると同時に、詩人山村暮鳥がいわき(旧平町)にやって来る。詩の雑誌を発行するなどして、いわきの詩風土を耕した。文学の伝道者だった。そこから三野混沌、猪狩満直、草野心平、吉野せいらが育った。

 その伝統を里見さんは大事にした。「いわき地域学會も、暮鳥が大正初期にまいた地方文化創生の一粒であると思っている。雑誌『うえいぶ』には、暮鳥の血が流れている、そう思いながら『うえいぶ』の発行を続けている」(里見著『地域の時代へ』2000年刊所収「山村暮鳥と東北」)

解散式では、それぞれが奇しくも里見さんとの出会いや、里見さんから与えられた課題・役割について、「ひとこと」コーナーのなかで開陳した。ネットワーカーである里見さんのおかげで、今はそれぞれが自律的につながり、それぞれが自分のネットワークを形成している。

雑誌名が「うえいぶ」と決まるまでには、「パッション」とか「だっぺ」とかが議論されたという話も披露されて、わいた。

「波(うえいぶ)は、眩暈する程の永劫性と、人為の及ぶ術のないエネルギーをもって、岸に打ち寄せ、わたくしたちに多くのものをもたらす」(鈴木)。平成23(2011年)には実際に大津波に襲われた。それでも、未来へと若い人たちにいわきの文化の波をつないでいくのが残された仕事のひとつ、という思いを新たにした。

2018年9月28日金曜日

庭を舞うヤマトシジミ

この長雨には生きものも難儀しているのではないか。雨上がり、庭へ出て草木を眺めていたら、紙きれみたいなチョウが飛んでいた。草には水玉がびっしりついている。止まろうとするとぬれている。少し動いて止まろうとすると、そこもぬれている。翅を休めようにも休められないといった感じで、低くひらひらと飛び続けていた。ヤマトシジミだった。
ヤマトシジミは本州以南に分布する。ネット情報によれば、最も普通に見られるチョウで、春から秋にかけて5~6回は発生する。夏は1カ月くらいで交尾~産卵~孵化(幼虫)~蛹化~羽化(成虫)が繰り返される。

すると今、庭を飛んでいる成虫は、親が8月下旬に交尾・産卵し、その親も7月下旬に産み落とされた卵からかえったもの、ということになる。7月29日朝に庭の草の上で交尾中のヤマトシジミを撮影した=写真。同じ血が流れているとしたら、今の成虫はこの7月の成虫の“孫”だ。

交尾している写真を撮り、それを拡大してスケッチし、図鑑に照らし合わせてヤマトシジミとわかった。翅裏は雌雄ほぼ同じで、灰褐色の地に円形または「く」の字の黒色紋様が並ぶというが、円形はハート形だったりする。識別が難しいときにはとにかく模写する、つまり細部までよく観察することだ。

翅が、赤みがかっているのが雌というから、写真では左がそれらしい。幼虫の食草はカタバミ。目立つほどではないが、庭に少し生えている。

デジタル写真の面白さは「針小」を「棒大」にできることだろう。スケッチとは別の意味で細部がよくわかる。触角と脚先には、白地に黒い縞模様が入っている。肉眼ではそこまでは識別できない。

ときには、庭を舞う小さなチョウを見て、「おまえのジイサンとバアサンを知ってるよ」なんて話しかけてみる。「魚だって人間なんだ」。草野心平の詩ではないが、「チョウだって人間」とつぶやきながら。――けさは久しぶりの青空。

2018年9月27日木曜日

白いヒガンバナに出合う

夏井川の堤防で今年(2018年)最初のヒガンバナを見たのは、2週間前の9月13日だった。
 そのとき、こんなことを書いた。いわきの平地のヒガンバナは、夏が天候不順だと9月になるかならないかのうちに咲き出す。今年は猛暑が続いたと思ったら、秋雨前線が停滞した。前に堤防を通った日から間隔があいて、花を見たのが遅れただけで、いつもの時期に咲き出したか。

 その秋雨前線が今も停滞している。間もなく9月が終わるというのに、いわきの大地は湿ったままだ。福島地方気象台のホームページで確かめたら、いわきの山田ではこの9月、きのう26日までに少しでも雨の降った日が17日、小名浜でも14日を数える。日照は、一日3時間以上が山田で7日、小名浜で9日。「五風十雨」には程遠い「五照十風」といったところだ。けさも雨。

 これもヒガンバナの赤い花を見たときに書いたことだが――。初夏、夏井川渓谷の隠居の庭にある菜園に、苗床で育てた三春ネギ苗とは別に、ネギ坊主をつくったあとに分げつした三春ネギを植え直した。その古いネギがいつの間にか数を減らしている。秋雨前線の停滞で土中の水分が多くなり、根腐れをおこしたか。

 その後もいっこうに空は晴れない。土中の水分が増えれば根腐れをおこすネギも増える。根腐れの心配が頭を占領しはじめたころ、好間の龍雲寺の駐車場そばでおよそ20株の白いヒガンバナを見た=写真。

植物のアルビノかと思ったら、そうではなくて、ヒガンバナと同じヒガンバナ科のショウキズイセンとの交雑種らしい、とネットにある。シロバナヒガンバナ、あるいはシロバナマンジュシャゲという。

ショウキズイセンがわからない。中国の暖地、日本では四国~九州の山野に生える多年草だそうだ。ネットの写真を見たかぎりでは、花は黄~オレンジ色で、一見カンゾウに似る。ヒガンバナよりは一回り大きいという。本州から東には自生していないから、イメージがわかないのも当然だ。

さらに検索すると、ショウキズイセンとの交雑種を提唱したのは「日本の植物学の父」牧野富太郎、日本のヒガンバナは不稔性(種ができない)だから、稔性のある中国原産のコヒガンバナが親ともいわれている、というあたりまでたどりついた。

調べれば調べるほど疑問は深まる。それ以上に、“マイ写真館”に白いヒガンバナを加えることができたことで、よどんだ心がちょっと晴れた。

2018年9月26日水曜日

「ポポー」と「ゴボウ」

きのう(9月25日)の福島民報1面コラム「あぶくま抄」は、北米原産の果樹「ポポー」の話だった=写真下。ポポーってなに? 先日、首をひねったばかりなので興味深く読んだ。
コラムは、詩人谷川俊太郎の随筆集『ひとり暮らし』(新潮文庫)をまくらに、ポポーの実の香りと食べ方を記し、しかし詩人が取り上げているわりにはどれだけの人がポポーを知っているのだろうかと問いかける。

コラムの筆者自身、見たことはないらしい。話には聞くのだが、「果実が傷みやすく流通が難しいことから、幻のフルーツと呼ばれて」いる。その「ポポーもちょうど旬を迎えたという。どこかで出合えないものか。せめて一口でも味わえれば『果物王国』への思いも一層増すのだが」と締めくくる。

 私も、友人の女性がわが家に来て、カミサンとポポーの話をするまで知らなかった。話を聞いていてもピンとこなかった。ポポーは「ポポ」、あるいは「ポーポー」ともいう。友人は「ポポ」派だ。

――地元では知られた種屋へ庭に植えてある「ポポ」の肥料を買いに行った。ところが、種屋のおやじさんは「ポポ」を「ゴボウ」と聞き間違えた。「作付けして何年?」「(作付け? 植えて)15年かな」「(ゴボウ根の)長さは?」「(樹高)2メートルぐらい」。“問診”すればするほど話がかみ合わなくなる。店の若い人がネットで調べて、やっと「ポポ」のことだとわかった。種屋のおやじさんも「ポポ」には思いが至らなかったのだろう。

 ネットの情報によれば、ポポーは春に腐肉臭のする紫色の花をつけ、秋に黄緑色の薄い外果皮をもつ果実をつける。完熟すると木から自然に落ちる。それから数日後、香りが強くなったときが食べごろ、果肉はとても甘いそうだ。外観がアケビに、種が柿に似るため「アケビガキ」とも呼ばれる。
 そういえば、先日、口を開けたばかりのムラサキアケビが届いた=写真上。ポポーも今が旬だという。コラムの筆者同様、ポポーの名前を知ったからにはぜひ一度口にしたいものだが、こればかりはだれかの思いやりを待つしかない。

2018年9月25日火曜日

秋の彼岸の墓参り

 おととい(9月23日)は秋分の日。午前中は久之浜・大久地区の「東日本大震災追悼伝承之碑」除幕式に参加し、午後はカミサンの実家へ出かけて墓参りをした。振替休日のきのうも、午後、「平・三町目 十一屋」小島(こじま)家ほかの墓参りをした。小島家の血を引く知人が訪ねて来たのがきっかけだ。
十一屋が登場する、不破俊輔・福島宜慶の小説『坊主持ちの旅――江正敏と天田愚庵』(北海道出版企画センター、2015年)は、心の動き以外は事実に基づいて組み立てられているようだ。

それによると、小島家は幕府に仕えた士族で、磐城平藩主安藤信正の引きで平城下の三町目に旅館・雑貨・薬種・呉服などの店を出した。21歳の新島襄が函館から密航してアメリカへ留学する途中、磐城平の城下に寄ってこの十一屋に泊まっている。大正時代には詩人山村暮鳥と十一屋の大番頭さんが昵懇(じっこん)の間柄になった。いわきの幕末~近代史を調べるうえで十一屋は欠かせないスポットだ。

好間町下好間字大舘~平の「寺町」に、カミサンの実家の菩提寺がある。小島家の菩提寺もその一角にある。連休最後のきのう午前、吉野せいの「洟をたらした神」の注釈づくりをしていて、1歳にならずに死んだ吉野義也(三野混沌)・せいの娘・梨花が埋葬された“父ちゃんの生家の平窪の墓地”がどこか調べていたところだった。

知人の話では、参道をはさんだ小島家の墓=写真=の向かいに、吉野夫妻の盟友・猪狩満直家の墓がある。せっかくの秋の彼岸、小島家の墓にも猪狩家の墓にも線香をあげたい、ついでに吉野家の墓にも――日ごろ、ああでもないこうでもないと勝手に“対話”している相手に感謝の気持ちを添えて。

やはり、百聞は一見にしかず、だった。梨花が両親のもとに戻っていた。墓が改装された際、梨花の弟である当主がそうしたのだろう。「よかったな、梨花」。なんとなくほっかりした気分になった。

帰宅すると、5時を過ぎていた。きのうが中秋の名月」、十五夜であることをすっかり忘れていた。気づいて東の空を見たときにはすでに雲に覆われていた。夜8時、黒雲といわし雲の間に名月が輝いていた。

2018年9月24日月曜日

東日本大震災追悼伝承の碑

 いわき市久之浜・大久地区の沿岸部に、3・11の大津波と火事に遭遇しながらも、奇跡的に流・焼失を免れた小祠(しょうし)がある。稲荷神社という。隣には、それよりさらに小さなちいさな秋葉神社がまつってある。
 東日本大震災から7年半――。海岸堤防はかさ上げされ、それに接続して防災緑地が設けられた。稲荷神社(秋葉神社)は、防災緑地をかき分けて進む船のように海と向かい合っている。久之浜の「希望のシンボル」でもある。

その境内に犠牲者を追悼し、津波への教訓を刻んだ「東日本大震災追悼伝承之碑」が建立され、秋分の日のきのう(9月23日)、除幕式が行われた=写真上。碑文の作成に少しかかわった縁で参列した。

 同地区を北西から南東に流れて太平洋に注ぐ大久川の源流部に、三つの頂きを持った「古里のシンボル」三森山(656メートル)がある。神社のはるか右手奥に見える「あの山がそうか」と知人に聞けば、「そうだ」という。モニュメントは、それを模したわけではないだろうが、三つの碑から成る=写真左。中央に「追悼伝承之碑」、向かって右に「碑文」、左に「犠牲者御芳名」。碑文の一部を紹介する。

「いわき市久之浜地区でも最大震度6弱の激しい揺れが5分ほど続き、多くの家屋が損壊するとともに、急激な引き潮で海中の岩礁がむき出しになった。やがて午後3時23分ごろ、東南方向から津波の第一波が押し寄せた。海岸堤防が浸水を防ぎ、安堵したのも束の間、同3時30分ごろ、今度は波高7.45メートルの巨大津波が家々を襲い、田之網、久之浜、金ケ沢、末続地区の津波被災世帯数は607世帯を数え、59名の尊い命が失われた」

 久之浜はわが孫の母親の出身地だ。市街の一角に実家がある。幸い、ぎりぎりのところで津波と火事の被害を免れた。とはいえ、いわきのなかでは久之浜は1Fに最も近い。碑文は続く。「翌日午後には、久之浜の北30キロメートルに位置する東京電力福島第一原子力発電所の建屋が水素爆発を起こし、全地区民が避難を余儀なくされた。避難先等で亡くなった住民も10名に及んだ」

 震災直後、国際NGOのシャプラニール=市民による海外協力の会がいわきで支援活動を始めた。会員でもある当時徳島大の森田康彦さん(歯学博士=いわき)が久之浜で線量調査を続け、6月下旬には市久之浜・大久支所で報告会を開いた。これが久之浜復興への第一歩だったように思う。

 除幕式は、地元復興対策協議会長、市長らのほか、遺族代表、地元小中学生が参加して行われた。終わって主催者、来賓あいさつが行われ、遺族代表の高木京子さんがあいさつに立った。碑に刻まれた犠牲者の名前を見て、「『やっとみんな会えたね』という声が聞こえるようだ」と述べたくだりで、統計としての数字ではなく、それぞれの無念の死に思いが至った。

2018年9月23日日曜日

アカイカタケその後

 9月の第2土曜日(8日)午前、いわき市小川町の山中でキノコ観察会が開かれた際、“超珍菌”のアカイカタケを採集したことを報告した。以下はその要約。
いわきキノコ同好会が主催した。案内はがきには書いてないが、小川町の林道で女性会員が日本固有のトリュフ「ホンセイヨウショウロ」を発見した。イノシシがミミズを探して土を掘り返したらしいあとに転がっていたという。会報といわき民報の報道でそれを知り、がぜん、トリュフが発生した環境に立ちたいと思った。

林内には入らず、林道を行ったり来たりして写真を撮るだけにする。それがよかった。林道へりの草むらに妙ちくりんなかたちをした赤いキノコが生えていた。アカイカタケだった。

 パッと見には16本の触手を持った赤いイソギンチャクで、一口大のケーキのようにも見える。平たい頂部には、凝固しかかった血液、あるいはゼリーのような層がある。かぐと腐臭がする。これが、胞子の運搬役のハエを呼ぶ。

いわきキノコ同好会会長の冨田武子さん(いわき市)に見せ、同会会員で福島きのこの会会長でもある阿部武さん(石川町)にも聞いて、「福島県内にも関東にも記録はない、非常に珍しいキノコ」(阿部さん)であることを知った。

観察会から2日後、阿部さんから手紙が届いた。吉見昭一著『おどるキノコ――イカタケのひみつ』(岩崎書店、1983年)という児童図書があることを知って、図書館から借りて読んだ。以下はその感想。

ざっと40ページの、写真を主体にした本で、前半はもみがらに生える白いイカタケの生長記録、間にカゴタケが入り、「あとがき」を含む残る10ページをアカイカタケの観察記録に当てている。

卵型の幼菌が割れて触手が伸長する様子は――。午前2時ごろ、表皮が割れる。しかし、そのあとは変化がなく、翌日の夕方にやっと開いて終わったという。アカイカタケは腕を開いてから2日も残っていないそうだから、小川の山中で見た個体は最も生きいきとしていた状態のときに撮影・採集ができたようだ。

併せて、ネットで1983年以降の採集例を探ってみた。1995年山口県、99年京都府・埼玉県・愛媛県、2003年京都府・神奈川県、04年榛原町(静岡県、奈良県どっち?)、07年京都府、09年神奈川県、13年京都府というあたりまではわかった。東京以北、少なくとも東北地方では初めての採集らしい。

『おどるキノコ』のあとがきでアカイカタケの希少性を再認識する。「イカタケ・カゴタケ・アカイカタケやシマイヌノエフデタケ(3種)・キヌガサタケ・ウスキキヌガサタケなどは、熱帯の地で発生する腹菌類というキノコです。その分布や生活はくわしくはわかっていません。どのキノコも短いいのちです。よほど注意し、見つけたらすぐ研究しないとわかりません。大勢の人の協力が必要です」

熱帯産の腹菌類(傘や柄とはかなり異なった特徴を示す菌類を便宜的にまとめた呼び名)がいわきでも見られるようになったことの意味を考えねば――。

2018年9月22日土曜日

隠居に泊まれば新聞が届く

夏井川渓谷の隠居に泊まると、翌朝には玄関先に新聞が置いてある。渓谷の小集落へ配達に来た旧知の新聞販売店主Mさんが、庭に車が止まっていると届けてくれるのだ。泊まり込みでミニ同級会を開いた3連休最後の朝(敬老の日=9月17日)もそうだった。
 二十数年前、義父に代わって隠居の管理人になった。街なかで仕事をしていたので、週末は一泊二日の山里暮らしで気分転換を図った。

一度、Mさんが新聞の勧誘に来た。Mさんとは初対面だった。あとで利害関係者(地域紙の記者と、その地域紙を受託配達する某系列新聞販売店主)であることを知る。そのとき、「冷たく購読を断られた」とMさんに皮肉を込めて言われた。以後、隠居に泊まるとサービスで新聞を数紙、置いていってくれるようになった。

 11年前に会社を辞めたときには、あいさつするひまがなかった。後日、隠居へ泊まった晩、「いつもありがとうございます 少しですがみなさんで食べてください 元気でやっています」というメモとともに、お茶菓子類を入れた紙バッグを玄関先に置いたら、「ありがとうございます いただきます」の書き込みがあった。Mさんとはメモを介して9カ月ぶりに“対話”した。

先の敬老の日に届いた新聞は全国紙、県紙、スポーツ紙の3紙=写真。スポーツ紙の1面には「カッコよかった名女優 樹木希林さん さよなら」という文字が躍っていた。「やっぱり」という思いと、「早すぎる」という思いがないまぜになって脳内をかけめぐった。

ゆうべ(9月21日)は「ぴったんこカン・カン」で希林さんの追悼番組(再放送)を見ながら、BSプレミアムで放送された「温故希林」を思い出していた。古民芸収集家・尾久彰三さんと希林さんの骨董を尋ね歩く番組で、カミサンにおつきあいしてほぼ毎回見た。台湾の旅は特に興味をそそられた。骨董品を飾るのではなく使う、リサイクルを徹底した女優さんでもあった。

2018年9月21日金曜日

「当地方の人の声は重苦しい」

7月下旬以来、およそ2カ月ぶりの“古新聞”シリーズ。7回目は今から94年前の、大正13(1924)年11月19日付常磐毎日新聞で、ほんとかいな、といいたくなるような話。
見出しに「当地方の人達の声は/海音の影響を受けて/重苦しくザラザラしている/音楽家の耳に響く」(旧漢字は新漢字に、歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに、熟語や送りも現代の表記に替えた)=写真=とある。

常磐毎日の記者が、磐城高等女学校(現磐城桜が丘高)の音楽演奏会を前に、音楽教師田中金三郎氏を取材した。授業を通して痛感している地方色=特色を尋ねると、次のように答えた。

「私が当校に赴任して初めて異様に感じた事は当校の生徒達が関西地方の生徒等と全然異なった声のリズムを有している事です。何となく重苦しい圧迫を感じさせるような声で全然華やかさがありません」

「生徒達の歌う声を聞いていると極めてザラザラした感じです。これは当地方が海岸に接近しているために海の音の影響を受けているのだと思われます。自然そのものの影響が確かにそこに生い立つ人々の体はもちろん精神にまで及ぼす事は言うまでもないのですが、声の量や調子にも異なった趣きを持たせる事は非常に興味深く感ぜられます」

磐城高女の生徒たちの声、広くいわき人の声の特色は、重苦しくザラザラ(原文見出し「サラサラ」は誤植)していることだという。重苦しいのは、なんとなくわかる。が、ザラザラが海の音の影響というのはどうか。高女に通学しているのは沿岸部の生徒ばかりではない。逆に、海岸から離れた内陸部の生徒が大半だろう。当時も、首をかしげる読者はいたにちがいない。

 むしろ面白いのは、「教授の際に全く困る事は発音の誤りです」という最後の部分。

「当地方の生徒にはイやエ、ヘやヒの使い分けが全然出来ません。そのために歌の感じが出なくて困る場合があるのです。これは国語教授の普及と相まって矯正して行く必要があると思います」

 生徒だけではない。大人である記者自身も「ヘやヒ」の使い分けができていない。記事原文に「ヘやヒの使へ分け」とある。「使へ分け」は「使ひ分け」の誤りだが、記者自身それに気づいていない。この記事に限らず、多くの古新聞に「使へ分け」的な誤用がみられる。音楽教師のこの指摘の方こそ、当時のいわき地方の言語実態をよくあらわしている。

2018年9月20日木曜日

イノシシの箱罠

 いわきの里では今もイノシシと人間のバトルが続いている。先日、小川町の山中でキノコ観察会が開かれた。途中、林道にイノシシの箱罠が仕掛けられてあった=写真。初めて見た。
原発震災後は人の気配が消えた双葉郡、その西に連なる阿武隈高地の山里、あるいはいわき市でもイノシシ被害が増えた。肉からセシウムが検出され、イノシシを捕るハンターが減った。ハンターが減れば、イノシシは増える。増えれば農地や農作物が荒らされる。電気柵を張り巡らせた田んぼが年々増えていった。

 その対策として行政が報奨金を出してイノシシを捕獲する事業を始めた。わが生活圏内のうち、山の手の行政区では免許を持つ住人が罠猟を行っている。去年(2017年)は、警備会社が双葉郡内を主にイノシシ捕獲事業に参入することになり、市町村から仕事を受注するためにスタッフ7人が「罠猟」の免許を取ったことがニュースになった。

 いわき市のホームページで平成30(2018)年度のイノシシ捕獲報奨金制度を確かめた。細かいことは省略する。報奨金は①「鳥獣捕獲等許可」の場合、1頭当たり1万2000円(別途、市鳥獣対策協議会から成獣・最大8000円、幼獣・最大1000円を交付)②「狩猟」による捕獲の場合は成獣2万円、幼獣1万3000円――を支給する。対象頭数は2200頭だ。農作物や農地への被害を防ぐため、市では罠猟免許取得者に箱罠の無料貸し出しも行っている。

 もう5年前になる。双葉郡富岡町の旧警戒区域(居住制限区域=現在は解除)に入ったとたん、平地の住宅街で、ペットの犬か猫のような感じでイノシシ母子が道路を歩いていた。事態の深刻さに驚いた。

 わが家の近所でも2年前にイノシシが現れて大騒ぎになった。人家が密集する旧国道と国道6号(現国道399号)の間に少し畑が残っている。両方の道路を連絡する脇道に入ると、おまわりさんが「長い棒」(刺又=さすまた=だろう)を持って小さいイノシシを追いかけていたという。

 小川の山中で箱罠を見た瞬間、イノシシにからむ記憶がパッチワークになって脳内に現れた。同時に、檻の中のイノシシと対峙する狩猟者の心理も。相手は怒り、怖れ、興奮している猛者だ。成仏させるまでが一苦労だそうだ。殺生を合理化するのは余すことなく食べることだが、それができないもどかしさもあるらしい。

2018年9月19日水曜日

「終わり初物」のキュウリ

夏井川渓谷の小集落には「終わり初物」という言葉がある。「初物」は文字通り、シーズン最初に収穫・採取、あるいは買って口にする野菜・果樹・山菜・キノコなどのことだ。「終わり初物」はその逆で、収穫・採取が「これで終わり」というときに使う。
今年(2018年)はキュウリが当たった。4月29日、街の種屋で買った苗2本を渓谷の隠居の庭に植えた。7月6日に初めて3本を収穫すると、カミサンが「初物だから」と床の間に飾った。

それからは週2回のペースで収穫した。毎回8本前後が採れた。9月に入るとさすがに葉が疲れてきたが、それでも花を咲かせた。3連休真ん中の日曜日(9月16日)、見ると曲がったり、先っちょだけ肥大したりしたものが5本ぶら下がっていた。いよいよこれで株の元気が尽きた、終わり初物だ=写真。

 ちょうどこの日、隠居でミニ同級会が開かれた。いわきの魚屋の刺し身、いわき産のナシ、ブドウのほかに、このキュウリの浅漬けなどを出した。魚屋はこうで、種屋はああでと、能書きを語るのもホストの特権ではある。

その能書き、あるいはブログに描かれた庭の畑とはどんなものか。同級生の一人が「畑を見たが……」と言いかけるのを制して答える。「『どれほど広いかと思ったら、たいしたことないじゃないか』と言いたいんだべ」。面積としては6畳二間くらいある。が、実際に使っているのはその半分だ。

原発震災前は狭いながらに少量・多品種を実践した。隠居へ遊びに来たオーストラリア人から「ベジパッチ」という言葉を教えられた。なるほど、野菜のパッチワークの場か。震災前のようにそれができればいいが、そこまでにはいっていない。

ま、それはともかく、今年はキュウリが1株当たり最低でも50本は生(な)っただろう。7~8月は猛暑続きで、キュウリには過酷な環境だったが、収穫するたびに根元にたっぷり灌水した。追肥もした。やり方次第ではもっと生らせることができたかもしれない。

イメージにあるのは、同じ種屋にブルーム苗を大量に注文して栽培している篤農家Sさんのキュウリだ。ブルームとは、実から自然に出てくる白い粉のようなロウのことだ。ブルームキュウリは皮が薄くてやわらかい。糠床に入れるとすぐ漬かる。Sさんの家の糠漬けは絶品だ。

 カミサンがコープに注文したブルームキュウリと、スーパーから買ってきたブルームレスキュウリを同時に糠漬けにして食べたことがある。ブルームレスの皮の硬さがはっきりわかった。わが菜園のキュウリは、白い粉はふかなかったが、皮のやわらかさからするとブルームに近い。

次に菜園へ行ったとき、感謝をしつつキュウリの株を引き抜こう。跡を三春ネギの苗床にするために――。

2018年9月18日火曜日

いわきの秋の食

 日曜日(9月16日)は夕方から、夏井川渓谷の隠居でミニ同級会を開いた。参加したのは6人。古稀を「いわきの秋の食」で祝うことにした。
メーンはカツオの刺し身と、ビンチョウマグロ・イカ・タコの刺し身の盛り合わせ=写真。これに、デザートとして小川町下小川産のナシ、川前町産のブドウを加え、隠居の庭で採れたキュウリの浅漬けと古漬けを用意した。うどんの薬味には庭で栽培している三春ネギを使った。オンザロックには、真冬に対岸の滝から切り出して冷蔵庫の冷凍室に保存しておいた天然氷を利用した。

昔はこのほかに、塩蔵しておいたキノコを調理して出すということもあったが、原発震災後は採集を自粛している。それでも「いわきの秋の食」は堪能してもらえたと思う。

日曜日は朝からせわしく過ごした。近くの出羽神社で例大祭が行われ、神事に出席した。

帰るとすぐ、夏井川渓谷の隠居へ車を走らせた。途中でナシを買い、隠居を通り越して川前でブドウを調達し、夕方からのミニ同級会の準備をしたあと、中学の同級生で近所に住む大工のM君の到着を待った。

台所に接する茶の間のへりが沈んでいるらしく、歩くたびに茶箪笥が揺れる。彼が畳をはがして調べると、案の定すき間ができていた。すき間に板を差し込み、ノコではみ出した部分を切り落として畳を戻すと、揺れが収まった。

3時過ぎには街へ戻り、4時に魚屋へ刺し身を取りに行ったあと、かかりつけ医だった86歳のドクターの通夜へ。それから喪服のまま隠居へ直行した。

着替えて痛飲し、旧交を温めたのはいいが、最後は酔って足がもつれ、茶の間の二月堂机のへりに胸をしたたか打ちつけた。かがんだり咳をしたりすると痛い。好事魔多し。今週中には薬をもらいに医院へ行く。そのとき、レントゲン写真を撮ってもらおう。

2018年9月16日日曜日

乳香と没薬を嗅ぐ

 8月は「地図の見方」。9月(きのう15日)は「香りの文化史」。いわき地域学會の市民講座は異色のテーマが続く。これまでは講師の話を聴く・レジュメを読む・画像を見る――が中心だったが、340回目にして初めて「嗅ぐ」が加わった。いい体験だった。
 吉武利文会員(香りのデザイン研究所)が、香りと人間のかかわり(古代の香料・古代のアロマセラピー・クレオパトラと香り・日本の香り・蒸留酒とアルコールの発見)とアロマセラピーについて話した。

 人間は火の発見とともに香りを活用するようになった。ものによっては煙とともに香りが出る。宗教が生まれると、それが人間と神の世界の橋渡しをする香(こう)に昇華する。香水を意味するperfume(英語)はラテン語のper funum(煙を通して)に由来するという。

吉武さんは小瓶に入った精油に細長い紙片をちょっとひたして、受講者に匂いを嗅いでもらった。乳香・没薬・麝香(じゃこう)・白檀(びゃくだん)・ラベンダー・橘(たちばな)・ヤブニッケイ。それぞれ個性的な香りが鼻腔を刺激した。

 香りの本やキリスト教関係の本を読んでも、「乳香」と「没薬」はさっぱりイメージがつかめなかった。その乳香をまっさきに嗅いだ。例えが当たっているかどうかはさておき、硬く鋭く強い香りがした。没薬は逆に重くて穏やかな感じだった。

精油のついた紙片を持ち帰り、カミサンに渡す。そのあともそばに置いて晩酌をやる。ときどき乳香の香りが鼻腔を刺激した。この香りの持続力もまた聖性を帯びる根拠になったのか。けさも時折、乳香の香りがする。

 吉武さんはハワイアンズの「与市」の薬草蒸し風呂も担当している。9月は初めていわき産のエゴマ(ジュウネン)を使った。どこから調達しているのかと思ったら、いわき昔野菜保存会の仲間のNさん(大久)の畑だった。野菜を含むいわきの植物がこんなかたちで活用されるというのもおもしろい。

 吉武さんは最後に、いわきの香りを観光する「観香マップ」づくりを提案した。いわきの香りとはなんだろう。潮の香り、フラワーセンターの温室や花壇の香り、夏井川渓谷の天然林の香り、湯本温泉の湯気の香り……。まち歩き・野歩きの楽しみが増えた。
                 *
 今夜は、渓谷の隠居でミニ同級会が開かれる。というわけで、あすのブログは休みます。

2018年9月15日土曜日

「私は考える人でありたい」

いわき市平の木村孝夫さん(72)は東日本大震災以来、140文字のツイッターで「震災詩」を書き続けている。その中から67篇を選んで、ポケット詩集『私は考える人でありたい――140文字の言葉たち』(しろねこ社、2018年8月1日刊)を出した=写真。
本人から贈呈を受けて思わず声を発した。「いい題名ですね」。現役のころ、パスカルの言葉をもじって、「新聞記者は考える足である」と自分に言いきかせてきた。「足で稼ぐ」だけではダメだ、「考える足」になれ――現場を取材するのは当たり前。しかし、同じような交通事故でも1件1件違う。なぜ起きたかを深く考えよ、と。「私は考える人でありたい」は、暮らしの現場での、私の自戒でもある。

木村さんとは震災後、シャプラニール=市民による海外協力の会が平で5年間、開設・運営した交流スペース「ぶらっと」で、ともに利用者・ボランティアとして知り合った。昔、職場に届く詩誌などを通して記憶にあった「詩人木村孝夫」、その人だった。

以来、詩集を出すと恵贈にあずかる。『ふくしまという名の舟にのって』(2013年)、『桜蛍』(2015年)、『夢の壺』(2016年)、そして今度の『私は考える人でありたい』。2014年には「ふくしまという名の舟にゆられて」で、福島県文学賞詩の部正賞を受賞している。

『ふくしまという名の舟にのって』のあとがきに、「奉仕活動を通して傾聴した被災者の方々の気持ちや、毎日のようにニュースになっている原発事故の収束状況などを下地として、作品を書き上げている。今も原発周辺はそのままだ。汚染水問題もあって刻々と状況が変化している。作品はその状況の変化を、心の状況と照らし合わせながら書いている」とある。その姿勢は、『私は考える人でありたい』まで一貫して変わらない。

 序詩ともいうべき巻頭の「私は考える人でありたい」は――。「この大地に立つとき私は考える人でありたい//一Fのメルトダウンから八年目に入った/東京電力は沢山の反省の言葉を置いたが/この大地に根付く前に枯れてしまった//真実の重みを持たない言葉は一滴の滴よりも軽く/大地の上に落ちることにも躊躇し続けていた//この大地に立つとき私は考える人でありたい」

 大地に立って考えることには二つの意味があるように思う。一つは、東電(政府を含む)の「真実の重みを持たない言葉」、つまり不誠実さに対する批判を持ち続けること。もう一つは傾聴者として、生活のレベルで原発避難者(津波被災者を含む)を思いやる気持ちを持ち続けること。『ふくしまという名の舟にのって』のあとがきを重ね合わせると、作者の心意がみえてくる。

 後者の気持ちを代弁する「郷愁」――。「古里は忘れる為にあるのではない/懐かしく思う為にあるのではない/生活をしながら老いて行く場所だ//そこが都会でなくても/そこには住み慣れた郷愁がある//古里を離れて七年が過ぎる/老いたものはより老いた/寡黙な心はより寡黙になった//言葉にすると涙が止まらなくなる」。賠償金うんぬん以前に、これが“原発難民”の真情だろう。

 前者や一過性の支援への皮肉を含んだ「約束」――。「足し算していくと/増えていくものと減っていくものがある//フレコンバッグは/数える前に数えきれないほど増えてしまった//寄り添うという言葉は/寄り添われていると感じる前に減ってしまった//足し算の答えは/増えることばかりではない//増えるものがあってその裏で減るものもある/約束という手形がそうだ」

考える詩人の言葉は身の丈を越えない。「私の背中には/老いた丸みがあるから/寒さもすべり落ちていく筈だが//あの日から 冬の寒さは/すべり落ちることを知らない」(「魔法の言葉」)、あるいは「ときどき昨日の夕日の欠片が落ちていたりするから/それを拾うとポケットは限りなく膨らむ」(「秋の終わりに」)。こういった軽みを含んだユーモアが私は好きだ。

2018年9月14日金曜日

ヒガンバナの花が咲き出した

 きのう(9月13日)、街の帰りに何日かぶりで夏井川の堤防を通った。土手のあちこちにヒガンバナが咲いていた=写真。今年(2018年)は遅い? 普通?
 いわきの平地のヒガンバナは、夏が天候不順だと9月になるかならないかのうちに咲き出す。今年は猛暑が続いたと思ったら、秋雨前線が停滞した。前に堤防を通った日から間隔があいて、花を見たのが遅れただけで、いつもの時期に咲き出したか。

 土手にはほかに、野生化したニラの白い花。侵略的な植物のアレチウリも部分的に繁茂している。アレチウリは根絶やしにするのが一番だが、次善の策として花が咲く前に刈り払う。しかし、もう花は終わって結実期に入ったかもしれない。

ヒガンバナの赤が土手に燃えるころ、夏井川にはサケの簗場(やなば)が設けられる。今年はヒガンバナの花より早かった。キンモクセイの香りも漂い始めたという。

 半ズボンとTシャツの夏から長ズボンと長そでの秋へ――となれば、感慨にひたっているひまはない。

夏井川渓谷の隠居の庭にある菜園では、毎年10月10日ごろ、昔野菜の「三春ネギ」の種をまく。春にまくいわきの平地のネギと違って、三春ネギは「秋まき」だ。その準備を始めないといけない。今夏、猛暑にも耐えてよく実をつけたキュウリのつるを始末し、そこに肥料を施して三春ネギの苗床にする。今年はいつもの年の倍の種が採れたから、苗床も倍の面積が必要だ。

 心配の種もある。初夏、苗床で育てたネギ苗とは別に、ネギ坊主をつくったあとに分げつしたネギを植え直した。その古いネギがいつの間にか数を減らしている。秋雨前線の停滞で土中の水分が多くなり、根腐れをおこしたか。猛暑は猛暑で野菜の出来が気になり、秋の長雨が続けば続いたで病気が心配になる。

2018年9月13日木曜日

シリア難民俳優がいわきへ

 いわき市南部の知人から電話が入ったのは、7月の梅雨明け前後だったか。「シリア難民俳優のいわき公演の話があるんですが」「シリア難民も原発難民も同じ、やるべし」というわけで、実行委員会に加わった。
難民俳優は双子のマラス兄弟(35歳)。シリアで生まれ、演劇と脚本を学んだ。日本で原発震災がおきた2011年、内戦化したシリアから脱出し、ベイルート(レバノン)、カイロ(エジプト)、パリ(フランス)を経て、今はパリの東北部・ランスに住む。

文楽の人形遣い・勘緑(旧吉田勘緑)さんの主宰する木偶舎が今年(2018年)2月、ヨーロッパツアーを行った。ランスの劇場で、3人で人形を動かす文楽のワークショップを実施したとき、マラス兄弟も参加した。最終日、「この地球に生まれて」を上演すると、兄弟は涙を浮かべて胸中を打ち明けた。「音楽をシリアのものにすれば、この演目は今のダマスカスだ。我々は同じく、子供が死んでいくのを何度も見た」

勘緑さんは兄弟に深く感動して思った。「生まれた場所を追放され、家族バラバラに難民となりながらも、(略)平和に向けた表現活動を続けている(略)。いつか一緒に舞台に立ちたい」。帰国後、生死にかかわる手術をした勘緑さんは、麻酔から覚めるとこの思いを実現するために動き出した。(以上、チラシから)

勘緑さんは2009年、勿来の関公園内にある吹風殿で人形浄瑠璃の公演を行った。知人はそのとき、勘緑さんと知り合った。その後、東日本大震災がおきると、勘緑さんは弟子たちとともに、ボランティアとして勿来を訪れ、人形を遣ったり、泥かきをしたりした。そのつながりから文楽とマラス兄弟のいわき公演が決まった。

「勘緑 秋のツアー2018」の一環として、10月2日(火)午後7時から、平・三町目のアートスペースもりたか屋で「演劇&トーク&人形浄瑠璃」が行われる。

演目は①「二人の難民」マラス兄弟=シリアから戦火を逃れてパリに着いた2人の難民の生活②「ボーン・オン・ジス・プラネット(この地球に生まれて)」=沖縄戦をモチーフにした木偶舎の同名作品にマラス兄弟が共演③トーク「シリアの双子と知り合って」=知っておこう難民のこと戦場のこと――の三つ。

チラシの余白に「だれもが“難民”になり得る時代」と題する小文を書いた。「被災者、難民、避難者――。言葉の定義はどうあれ、家を追われ、あるいは失い、ふるさとを追われて、よその地で生きるしかなくなった、という点では共通する。原発事故もまた、家族を、コミュニティを分断した。難民と受け入れコミュニティとのあつれきも生んだ」。私たちはそうしてこの7年余、多くの経験と知見を得た。その延長線上に今度の公演がある。
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チケットは前売り1500円(学生1000円)だが、定員は50人と限りがある。問い合わせは電話0246・77・1590か090・8253・6460(室井)まで。

2018年9月12日水曜日

「洟神」講座終了

現代詩作家荒川洋治さんが平成28(2016)年11月6日、いわきで三度目の講演をした。そのなかで、いわきの作家吉野せい(1899~1977年)の短編集『洟をたらした神』を中学校の国語の授業に使うことを提案した。
荒川さんが例に挙げたのは、あの有名な灘中学校。同中で34年間、文庫本一冊(中勘助の『銀の匙』)で国語の授業をした先生がいる。101歳で亡くなった橋本武さんで、受験のための技術ではなく、作品を通読し、寄り道をして調べ、自分で考える力をつけさせる、という学習サイクルを貫いた。

「百人一首の話が出てくれば、百人一首を暗記させる。戦国時代の話が出れば、その歴史を勉強するといったふうに、次から次に引っ張っていくんですよ。作品のなかの語句ひとつも、縦に横にと、ひろげて見ていく。ものすごい勉強になる。生きた授業ですね。/この『洟をたらした神』を、橋本式の『銀の匙』にしてはどうか」(荒川さん)

 吉野せいの研究者でもなんでもない。が、昭和50(1975)年春、『洟をたらした神』が田村俊子賞を受賞したとき、本人を取材した。本が出版されたときには書評めいた記事も書いた。そんな縁からこの40年余り、間歇的に『洟をたらした神』を読み返している。「語句」の注釈づくりもしていたので、<よし、やってやる>と荒川さんの“挑発”に乗ることにした。

 たまたま中央公民館から月に1回、8月を除く5~9月まで計4回の平成30年度前期市民講座を頼まれた。『「洟をたらした神」の世界』=写真=と題して、作品に出てくる語句の注釈をしながら、「どんどん横道にそれて、遊びながら学んでいく」(橋本武)ことにした。教材は中公文庫の『洟をたらした神』一冊。

 その講座もきのう(9月11日)、無事終わった。ひとことでいえば、楽しかった。なぜ楽しかったかといえば、現在進行形でキノコの菌糸のように『洟神』(受講者には『洟をたらした神』を縮めて「ハナカミ」といってきた)の知識が増殖されていくからだった。定員20人を超える受講者も熱心に話を聴いてくれた。

 せいの夫・義也(詩人・三野混沌)が導入に情熱を注いだ中国ナシ「莱陽慈梨(ライヤンツーリー)」、詩友猪狩満直が北海道で夢見たデンマーク式農業……。横道にそれることで、これまでの評伝や作品解説では知りえなかったものが見えてきた、という自負はある。と同時に、戦争に翻弄されつつも胸に反戦の思いを秘めていたせい像も浮かんできた。

なによりも、そのときそのときのせいの心情、あるいは混沌その他の人間の内面に触れることを念頭に調べを進め、話をした。炭鉱のこと、小名浜のこと、山村暮鳥のこと――まだまだたどらねばならない「横道」がある。脳みそがとろけないうちは“ライフワーク”として『洟神』に向き合う。

2018年9月11日火曜日

キノコ観察会・下――鑑定会

山中の雑木林でキノコの採集を終えたあとは、平地の小川公民館へ移動して鑑定会が行われた。
 昼食後、テーブルに新聞紙を広げ、さらに調査票(和名・学名・科名・同定者・採集者・採集場所・年月日などを記入するようになっている)を置いて、その上に採集したキノコを並べる。同定(種の確定)がすんだものには和名が書き込まれていく=写真上。
「キノコハンター」と呼んでいいほど、人の何倍も採る人がいる。ほかにも熱心な人がたくさんいる。鑑定用のテーブルが2列半になったのには驚いた。

 キノコ図鑑に載っていないような種を列挙すると――。ホオベニシロアシイグチ、ツギハギイグチ、クロチチダマシ、シイノモミウラモドキ、アオソメツチカブリ……。知識がアミタケ、チチタケ止まりの初心者には、どれがどれだかさっぱりわからない。和名の書き込みと現物をセットで撮影して初めて、キノコの名前と顔が一致する。図鑑に載っているのは氷山の一角にしかすぎないのだ。

 そのなかで、誤食すれば幻覚症状が出る毒キノコのオオワライタケ=写真左=だけは、すぐ頭に入った。見た目はうまそうなキノコだ。「シュイボガサタケ(仮)」と「(仮)」のついたキノコもあった。これは、不明菌なので同定者がその場で仮の名を付けた、ということを意味する。

キノコに精通すればするほど分からないことが増えてくるのだそうだ。「分かる」と「分ける」は同根、分類するから知識が蓄積されていく。

これまでの観察会の経験からいえば、形状・色彩ですぐわかるもの、ルーペが必要なもの、顕微鏡で胞子を見ないと分からないものと、キノコは同定のレベルが何層にもなっている。それだけ奥が深いということだ。しかも、研究はDNAレベルでの解析というところまで進んでいる。

 何年ぶりかで観察会に参加して、会員の識別レベルが上がっていることを感じた。それを裏付けるように、採集現場では「食べられる?食べられない?」という声があまり聞かれなかった。最初は「食欲」のために入会しても、年数を重ねるうちにキノコの美しさや不思議さに引かれて、「キノコ愛」が深まるのだろう。あらためてフィールドワークの面白さ・楽しさを実感した。
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 おととい(9月9日)紹介した超珍菌のアカイカタケについて、いわきキノコ同好会会員であり、福島きのこの会会長でもある阿部武さん(石川町)から、きのう、手紙が届いた。

観察会を開いた8日の夜、阿部さんから電話が入って、「福島県内にも関東にも記録はない、非常に珍しいキノコ」だということは知った。

手紙は、吉見昭一著『おどるキノコ イカタケのひみつ』(岩崎書店、1983年)を紹介するものだった。同書にアカイカタケの発生地を記した地図が載る(静岡県までの太平洋側に多く、東日本は空白)。いわきでの採集は、「国内では14ケ所目ということになります」とあった。発行所からすると、児童図書のようだ。いわきの総合図書館に本がある。きょう、さっそく借りて来て読んでみよう。

2018年9月10日月曜日

キノコ観察会・中――雑木林

 小川町の山麓に広い駐車場がある。そこがキノコ観察会の集合場所だった。およそ20人が5台ほどの車に相乗りして、今まで通ったこともない林道を行く。現地に精通している会員が先導した=写真上。道路自体に草が茂っているので、乗用車ではちょっと厳しい。草も木の枝も幽霊のように両側から「おいで、おいで」をしている。
 やや広いスペースに出た。巨大な花崗岩が林内に散見される。あとで地理院地図で確かめると、標高は250メートル前後。山塊そのものは700メートルを超えるので、麓に近い。とはいえ、鬱蒼として見通しがきかない。独りで入山するのは禁物だ。ま、そんな環境だからキノコが生えるのだが。

途中に鉄製のイノシシの箱罠があった。イノシシがラッセルしたあともあった。イノシシの領分に入り込んだわけだ。日中だからイノシシは出ない、とはかぎらない。「クマは?」。心配する人がいたが、それはさすがにいない。

北側斜面の林に入る。ただし、すぐ上の尾根を越えないこと――地形に詳しい会員が注意した。が、林床を見ながら斜面を上り下りするうちに、つい尾根を越えてしまうことがある。同じ車の相乗り組の1人がそうなった。

私は、林には入らず、林道を行ったり来たりして写真を撮るだけにした。しばらくたって、林から下りてきた、やはり同じ相乗り組の一人と一緒になる。その人のケータイが鳴った。別の相乗り組の人からだった。どこにいるかわからなくなったという。私も加わって名前を呼ぶと、やや遠くから声が返ってきた。それでも、林道に姿を見せるまで10分以上はかかった。
 
林道へ入る前、採集場所までのルートを記した地図を渡された。ケータイのほかに磁石を持っていれば、北へ入りすぎたことがわかるはず。私も観察会には磁石を持参していたが、今回は林道を歩くだけと決めて持って行かなかった。奥山・里山に限らず、キノコ採集には磁石が欠かせない。

さて、最初の場所での観察が終わったあと、参加者が採集したキノコをのぞいて回ったが、だいたいは「夏キノコ」だった。食菌としてはヤマドリタケモドキ、チチタケ、ナラタケモドキなど。「アオネノヤマイグチ?」のように、割いてみると青変する不明菌もあった=写真左。

今年(2018年)の夏は高温・乾燥の状態が続き、梅雨キノコも夏キノコも見なかった。ここにきて林床が湿りを帯び、菌糸の活動が活発になった。けっこうな数のキノコが採れた。

2018年9月9日日曜日

キノコ観察会・上――超珍菌

 きのう(9月8日)、いわき市小川町の山中でキノコ観察会が開かれた。いわきキノコ同好会が主催した。20人ほどが参加した。
 原発震災後、朝晩続けていた散歩にドクターストップがかかったこともあって、観察会には足が遠のいた。

 去年(2017年)秋、同好会の女性会員が小川町の林道で、日本固有のトリュフ「ホンセイヨウショウロ」を発見した。イノシシがミミズを探して土を掘り返したらしいあとに転がっていた。その経緯が同好会の会報、7月10日付のいわき民報に載った。

その後、今年の観察会の案内はがきが届き、1回目は小川の山の雑木林で開かれることを知る。トリュフが発生した環境を知りたい――ドクターの言葉より好奇心がまさって、林道を行ったり来たりするだけ、写真を撮るだけと、自分に言い聞かせて参加した。

 これはその速報だ。アカイカタケという、スッポンタケ科のキノコを採取した。きのうまで存在を知らなかった。“超珍菌”だという。

 アカイカタケは、パッと見には16本の触手を持った赤い森のイソギンチャクだ。一口大のケーキのようにも見える。平たい頂部には、凝固しかかった血液、あるいはゼリーのような層がある。かぐと腐臭がする。これが、胞子の運搬役のハエを呼ぶ。

この森のイソギンチャクは林道へりの草むらに生えていた=写真上。女性の参加者が花だと思って、棒でチョンチョンやりかけたのを、「写真に撮るから」と制止した。かがんで見るとキノコだった。これまでにも観察会で風変わりなキノコを見てきたが、イソギンチャク様のものは初めてだ。

写真を撮ったあとは、昼食後の鑑定会に出すべく、根元から慎重に掘り取った。私がこの観察会で採取した唯一のキノコだ=写真左(右側のアカイカタケは老菌)。

 同好会の冨田武子会長に見せると、「イカタケは初めて」という。同好会の会員でもあり、初対面の阿部武福島きのこの会会長にも聞く。「県内ではどうですか」「帰って記録を見ないとわからないが、あっても1、2例では」

夜、阿部会長から電話が入る。冨田会長にも報告したという。「福島県内にも関東にも記録はない、非常に珍しいキノコ」だそうだ。いわき市内初、いや福島県内初ということであれば、トリュフほどではないにしても、愛菌家の世界ではビッグニュースになる。晩酌が急きょ、祝い酒に切り替わった。

アカイカタケは「南方系のキノコ」(阿部会長)でもある。それが南東北まで北上してきた、つまり地球温暖化の影響が菌界にも及んでいる、ということではないか。「ふくしまレッドリスト」には、記載はない(発見例がないので当然?)。が、西日本、たとえば京都では「絶滅寸前種」だという。

菌界は未知の領域だらけだ。普通の市民がこうした観察会で新種・珍種・貴種に出合う確率は高い。40の“キノコ目”が林道と、そばの林内をサーチしたからこその発見だった。