2018年10月9日火曜日

“画家”猪狩満直

きのう(10月8日)の続き――。いわき市立草野心平記念文学館開館20周年記念秋の企画展「生誕120年記念猪狩満直展」が同文学館で開かれている。
 20年前にも同文学館で生誕100年展が開かれた。前の企画展と今度の企画展とでは、どこがどう違うのか。おととい(10月7日)、朝一番で文学館へ行って来た。詩集や詩誌、原稿など、満直文学の骨格をなすものは今回も展示されていた。親や家族の写真、高等小学1年(現在の小5生)のときの毛筆画などは、現物(拡大版を含む)を初めて見た=写真上(図録)。

『猪狩満直全集』(同全集刊行委員会、1986年)に収録されているものも少なくない。が、この初見の資料を通じて、より深く満直像を再構築できるのではないか。

一例が、満直の母サタの写真。満直は母親似だ。そのことに、妙に納得がいった。満直が妻子を連れて北海道へ渡ったのは大正14(1925)年4月。北海道で病死した母方のいとこで最初の妻・大谷タケオの16歳の写真もある。清楚で整った顔立ちに引かれた。二番目の妻・小沼たかは、目に力がある。

満直とタケオ・たかの間には9人の子がいた(うち2人は1歳前後で死亡)。上3人はタケオが、あとの6人はたかが産んだ。末っ子の光代さんを知っている。たかの目の力を受け継いだことがわかる。

満直は絵を描くのも好きだった。大きな更科源蔵らの素描、自画像、木版画などが展示されている。「余技」というよりは「心の糧」だったのではないか、詩人というよりは「画家・満直」こそが本分だったのではないか――繊細でていねいな毛筆画に触れて、そんなことを思った。

宮沢賢治の遺言によってつくられた「国訳妙法蓮華経」が、賢治の弟清六から贈られている=写真下。賢治と満直は心平らが創刊した詩誌「銅鑼」を介して知り合った。会ったことはない。満直は賢治を高く評価し、仲間と創刊した文芸誌「みみず」第4輯(しゅう=1933年11月号)に「宮沢賢治氏の逝去を悼む」と題して書いている。

 全集にも収録されているが、図録のガリ版刷りの方が脱字を含めて身近に感じられる。「芸術に対して常に真厳(全集では峻厳)であった氏の訃を手にした時、さすがに僕はドキンと胸を打たれた。氏は確かに日本詩壇の一異才であった。日本が氏の如き詩人を亡くしたことは、一大損失であると僕は思ふ。氏は死に到るまで芸術に対する真厳(同上)な態度を失はなかった(と)いふ」

最後に、追悼の短歌三首を添える。

歳若き北なる友の逝きしといふ 悲しき報せ馳せ来たりけり
友の訃の封書掌になし み上ぐるに一片
                    の雲の空にまよへる
逝ける君 君に贈らん辞(ことば)なし 只目をつむり衿を合はする

歌としては平凡だが、同じ世界(農業・農村、文学)に生きた者同士の友情が感じられる。満直は心平同様、最初期の賢治理解者でもあった。

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