2018年11月13日火曜日

カエデ紅葉、サクラ落葉

きのう、月曜日(11月12日)の夏井川渓谷――。晴れたり曇ったりの天気に、紅葉目当ての車がポツリポツリとやって来る。
 カエデは紅葉の見ごろを迎えたが、ヤマザクラなどの広葉樹はかなり落葉した。赤・黄・茶と彩り鮮やかだった対岸の森からサクラやツツジの赤が消え、地味な茶系の葉が残るだけになった=写真上。裸木が目立つ。

渓谷の隠居の庭のはずれで土いじりをしていると、そばの県道を行き来する行楽客のひとりから声がかかった。「オジサン、なにつくってるの?」。オジサン? 声の主を見ると、私と同年代かもしれないオジサンだ。「秋まきネギ」「ヘェー」

あとでまた通りがかりながら、「ここに住んでるの?」と聞く。「週末だけね(といっても、きょうは月曜日か)」「ヘェー」。日曜日だろうが月曜日だろうが、そんなことは、そちらのオジサンにはどうでもよかったようだ。渓谷は人里離れたところにある。でも、動物園のサルよろしく人間がいる。先入観と現実のギャップに好奇心がわいただけ、らしい。

朝9時半に土いじりを始めた。芽ネギの根元から落ち葉と草を抜き、白菜に取りついている黒虫・青虫を10匹近く退治した。終わると正午少し前。あっというまの3時間だった。芽ネギ=写真下=も白菜もこれで少しはせいせいしたか。
ネギの苗床は、風が吹けばすぐ落ち葉に覆われる。白菜も隠れていた黒虫・青虫が現れる。また今度の週末、芽ネギと向き合い、白菜の葉をチェックする。その繰り返しだ。

行楽客の目当ては県道沿いのカエデ。ところによっては緑から黄、赤へと変わってきた。最も鮮やかに燃え上がるのは、週末でいえば今度の17、18日か。隠居の近くのカエデに例年、三脚をかついだカメラマンが殺到する。日曜日は特に、朝9時前から人間が県道を行き来する。18日にはなにも予定が入っていない。行楽客が現れる前に土いじりをすませたら、マンウオッチングをしよう。

2018年11月12日月曜日

今年初めての「サンマ刺し」

日曜日に行事が入ると、頭の切り替えができなくて困る。現役時代もそうだった。
「人間と人間の世界」にどっぷりつかってへとへとになった週末、夏井川渓谷の隠居へ行くと、V字の谷や樹木の緑に圧倒されて「自然と人間の関係」に思いが至る。そのなかで土いじりをしているうちに、元気が戻る。
ところが、この秋――。10月下旬からは、28日を除いて日曜日には隠居へ行っていない。平日、気になって、とんぼ返りで様子を見てくるだけだ。

きのう(11月11日)も、いわき地域学會の巡検があって、いわき駅裏側の物見ケ岡(磐城平城跡)を歩き回った。<きょうはオレの日曜日ではない>と自分に言い聞かせて、主催者の一人として参加した。

歩き疲れてクタクタになった。そこへ、巡検担当でもある事務局次長が「11・12月の市民講座開催、会報「潮流」原稿募集の案内チラシを印刷してしまいましょう」といってきた。予定より一日早い。急に親戚の葬式が入ったのだという。それもこなして、さらにクタクタになった。あとはもう、焼酎をグイッとやって、カツオの刺し身をつついて、寝るだけ――。

いつもの魚屋さんへ行ったら、顔を見るなり「カツオ、はずれたー」という。仕入れたのはいいが、さばいたらカネをもらえるようなものではなかった。「(ほかには)なにがあるの」「マグロ、サンマ、タコ、……」。サンマとタコの刺し身にした=写真。

サンマを食べるのは、実は今シーズン初めてだ。カミサンも、かなり前からサンマを焼いて食べたかったようだが、カツオが入荷し続ける限りは「カツ刺し一辺倒」の私に遠慮していたのだろう。

味は? 甘くてうまい。しかし、カツオと違ってボリュームがないから、どんどん数が減っていく。満足感はカツオに遠く及ばない。やはり、カツオが入荷するうちはカツオ刺しで――を再確認した。
 
きょうは曇りだが、あとで夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをする。一日遅い“マイ日曜日”だ。カエデの紅葉が見ごろだろう。

2018年11月11日日曜日

「週刊だいどころ」とは妙

いわき市立図書館のホームページに収められている「「地域資料のページ」が11月1日、拡充された。家にいながら閲読できる明治・大正・昭和の地域新聞が、18紙から36紙に倍増した。新資料のうち東北日日新聞を真っ先に読んだ話を、先日、ブログに書いた。
 昭和4(1929)年8月、ドイツの飛行船「ツェッペリン伯号」がシベリアを横断し、日本の樺太・北海道・東北を南下して、19日、霞ケ浦(土浦市)に着陸する。いわきでは、東北日日新聞が平町(現いわき市平)の東端、神谷村の上空を小名浜方面へ向かって山沿いに飛行したことを伝えている。
 
ほかに磐城調査新報・磐城立憲新報・平新聞(福總新聞)・磐城中正新聞などがある。現在唯一の地域紙いわき民報とはライバル関係にあった戦後の常磐毎日新聞も読める。2、3日、時間をつくってはこれらの新聞をスクロールして、見出しを読んだ。

そのなかから“古新聞シリーズ”9として、「週刊だいどころ」=写真=を取り上げる。題名に引かれた。

昭和30(1955)年10月8日に創刊された。題字の下に「毎週土曜日発行」、前後に「石城地方で一番発行部数が多い」「発行所 だいどころ新聞社 平市新川町」とある。第2号に発行人の名前(金子源三)が載る。婦人層を対象に、料理・子育てなど日々の暮らしに役立つ情報を提供するのが狙いだったようだ。今でいう情報紙だろう。

写真で紹介した第15号(昭和31年2月12日付)は、しかし“台所情報”と違って、「いばらの道こえて 人生勉強」を特集している。平の経済人5人を取り上げた。ひげの世界館主鈴木寅次郎に引かれた。記事後半、人生も後半のくだり――。

「大正15(1926)年秋、17年にわたる茶屋商売の足を洗い、当時経営不振の映画館“有声座”を引(き)受けた。競争相手の平館が20銭なら、こっちは10銭。型破りの興行で客足を奪い、平日夜1回限りの上映を連日昼夜2回立てに改革、林長二郎の『雪之丞変化』、松竹不朽の名作『愛染かつら』などで馬鹿当(た)りをとった」

 終戦間際に試練が待っていた。「昭和20(1945)年7月、強制疎開で館は跡かたもなく取(り)壊され、1カ月過ぎて終戦。『よし、もう一度やるぞ』。悲運のドン底から起(た)ち上(が)り、翌21年10月7日、世界館として復活した」。今のポレポレいわきにつながるいわきの映画館史の重要なトピックだろう。これだけでも「週刊だいどころ」を読んだかいがある、というものだ。

2018年11月10日土曜日

地図に魅せられて

 このところ、気になる場所の地図を眺めては、いろいろ情報を読み取る訓練をしている。そもそも地図記号がよくわからない。にわか勉強ながら、地図の本をそばにおいて、ああでもないこうでもないとやっている。
 刺激になったのは、いわき地域学會の8月の市民講座。事務局次長の渡辺剛広幹事が「地図の見方」と題して、ネット(主にスマホ)で利用できる地理院地図のほか、地理情報システムや地図アプリなどについて解説した。地図もまた情報の宝庫だと知る。

「またかよ」と言われそうで恐縮なのだが、吉野せいの作品集『洟をたらした神』は、いわき市好間町北好間、菊竹山腹の開拓集落が主な舞台だ。

一帯の地質や土壌について、せいは次のように記している。「土は粘土まじりのごろごろです。掘り散らかされてある石も取り集めねばなりません。藪のうちは解らなかったが、平地にして見ると乾地湿地の無様な高低がはげしく目立ちます」(「春」)「親芋からにょきにょきと分かれてのび出した子芋の間へ、じっくり食い込んだ粘土質の重い土」「目の前に広い赭土(あかつち)の畑が沙漠を見るように無言で続いている」(「赭い畑)

 科学的・客観的にはどうか。福島県農地計画課が編集・発行した『土地分類基本調査 平』(1994年)の地図に当たる。すると、菊竹山一帯は①地形分類=中位砂礫段丘②表層地質=礫・砂・泥(中位段丘堆積物)③傾斜区分=傾斜15度以上20度未満④土壌=乾性褐色森林土壌(菊竹山頂周辺)/適潤性褐色森林土壌(山腹南東の西側)/黄色土壌(細粒黄色土=吉野家の周辺)⑤土地利用現況=集落と広葉樹林――とあった。

 詳しい説明は避けるが、菊竹の段丘は13万年前に隆起によってできた、菊竹山腹の表層地質には粘土が含まれている、菊竹は緩傾斜に近い、地味に乏しく、生産性が低いため、耕地には不向き、ということがわかった。吉野夫妻は長年、「やせ土」と闘ってきたのだ。作品のなかに描かれた土壌や地質は、県発行のこの地図からも裏付けられる。

では、わがふるさとの「アカジャリ(赤砂利)」はどうか。図書館から同じシリーズの『常葉』編を借りてチェックした。

アカジャリは南東の大滝根山を水源とする大滝根川が北西に流れて来て、田村市常葉町内でΩ状に曲流=写真(グーグルアース)=した下流(写真でいうと左側)の屈曲部にある。右岸は水田。左岸は、10メートル以上はあろうかという砂利の断崖だ。そこは好間・菊竹と同じ中位砂礫段丘で、土は細粒褐色森林土壌・粘質だという。「アカジャリ」といわれるワケがやっとわかった。「断層」ではなく、段丘であることも。

かつて、小学生は夏休みにこのアカジャリで水浴びをした。先日、中学校の同級会が開かれ、町内の小学校出身者が「アカジャリと(そこにあった)『坊主石』は、今どうなってる?」と町在住者に聞いていたが、答えはあいまいだった。すでに暮らしから遠い存在になっているのだろう。

さて、また別の話に移る。あした(11月11日)は「地図の見方』の実践編、地域学會の巡検がいわき駅周辺で行われる。

磐城平城が駅裏の物見ケ岡にあった。スマホを持っている人は地図アプリを利用し、持っていない人でもそれを見せてもらいながら、平城への登城ルートや戊辰戦争の様子などを現地で体感できる。あした午前9時、いわき駅北口集合で、参加費無料で実施する。興味のある方はぜひ一緒に“登城”しませんか。

2018年11月9日金曜日

石に刻む怖さ

 車でいわき市南部へ出かけた帰り、あるところで信号が赤になった。そばの石材置場にたまたま目をやると、「水徳六訓」と題する碑があった=写真。水鳥・川・海・雨だれ……。「水」写真コレクターなので、思わずパチリとやって、データをパソコンに取り込んだ。
「あらゆる生物に生命力を与えるものは水なり」「常に自己の進路を求めて止(や)まざるは水なり」などと、水の特性にからむ文章が彫られていた。

その会社の社訓だろうか? 社長の人生訓だろうか? 硬いものを扱っている商売だが、企業としては、あるいは個人としては水のように融通無碍な生き方をしたい――そんな思いが込められている? ネットで調べたら、原作者として大物右翼(故人)の名前が出てきた。

文章のなかに1カ所、直したい文字(助詞)があった。といっても石だ、消しゴムで消して書き直せるようなものではない。

 石に文章を刻む怖さを、先日、知った。頼まれて撰文原案を直し、「あとはそちらでどうぞ」と言って渡した。それが甘かった。文法的な間違いはない。誤字があるわけでもない。あとで付け加えられた部分だけ、文章のリズムが違っていた。

私は舌頭で音読しながら文章のリズムをととのえる。それが崩れた。たとえれば、同じペースで歩いていたのが、そこだけ急につかえて足踏みさせられたような感じ。碑文を読んだ人は、そこまでは気づかないかもしれない。が、文章づくりにかかわった人間としては、詰めの甘さに落ち込んだ。

 記者をやっていたので、誤字・誤植があると穴の中に入りたくなる。テレビ・ラジオと違って、紙媒体は紙がある限り、誤字・誤植も残る。石に刻まれたものは紙より恐ろしい。100年、200年と人の目にさらされ続ける。文章のリズムもそうだろう。

石に刻む文章を扱っている、という自覚が足りなかった。撰文を引き受けた以上は最後の最後まで責任を負うべきだった。同じリズムで通すべきだった。そうすれば、より完成度が上がり、後味もよかったのに。写真に撮った碑文を読むたびに脂汗がにじむ。

2018年11月8日木曜日

芽ネギと11月の蚊

 夏井川渓谷にある隠居の菜園に苗床をつくり、三春ネギの種をまいた。それでも半分以上余ったので、育苗トレーに埋めたのを自宅の軒下に置いた。ほぼ1カ月たった今、芽が7センチほどに伸びた。
 週に1回、隠居へ行って見るだけだったのが、今年(2018年)は毎日観察できる。それでわかったのだが、芽は“白い線虫”状になってあらわれる=写真上。それがすぐ、日光を浴びて緑色に変わる。

 二十数年見てきた芽生えの記録――。種は地中2、3ミリのところで眠っている。黒い殻を破った芽(根と茎の部分がある)はいったん上向きに伸び、やがて根の部分が屈曲して下へ、下へと向かっていく。茎は屈曲した状態で上へ伸び、ヘアピン状のまま地上に現れる(“白い線虫”はこの最初期の段階)。

 不思議なのは、土のふとんをかぶった黒い種がまた、茎に引っ張られて地表に出てくることだ。初期の芽ネギは、ポヤポヤの“緑毛”の先端に黒い殻をのせている=写真下=ために、「7」あるいは「?」のように見える。次の段階には黒い殻が脱落し、茎も根もピンと一直線になる。
 さて、と。ここからは11月の蚊の話――。朝9時前後、自宅で歯を磨きながら、かがんで芽ネギの様子をチェックする。と、飛び交う虫がいる。11月2日に手の甲をチクリとやられた。蚊だった。11月に入って蚊に刺されたのは初めてだ。

 30年余に及ぶ“定点観測”の結果として、わが家では毎年、5月20日前後に蚊が現れて人間を刺し始める。姿を消すのは10月20日過ぎ。ところが、4、5年前から11月に入っても、耳もとでブンブンやっている。11月に刺されたら、わが家では“歴史的な大ニュース”だ。その大ニュースになった。

 おととい(11月6日)は夜、茶の間でカミサンが手の甲をピシャッとやったら、赤い血が広がった。やはり蚊だった。(日中活動するのはヤブカ、夜はイエカだという)

 テレビでは、今年の夏は記録的な猛暑だったため、蚊もげんなりして活動が鈍った、それで蚊取り線香の売り上げが減った、というニュースを伝えていた。酷暑はともかく、地球温暖化が進んで、産卵~孵化(ボウフラ)~蛹~羽化(成虫のメスは吸血)のサイクル期間が延び、11月に入っても飛び交うようになったか(けさも現れた)。暦の上ではきのう、立冬だった、というのに。

2018年11月7日水曜日

足をけがしたコハクチョウ

 最近は普通のカメラのほかに、300ミリ望遠レンズ付きのカメラを車に持ち込んで移動する。夏井川にハクチョウが飛来した。あれだけの大きさだ。人間嫌いなのに、人間とつかず離れず生きているスズメよりは撮りやすい。それだけの理由で街からの行き帰り、夏井川の堤防を通って、ハクチョウがいればカメラを向ける。
 会津の猪苗代湖、あるいは中通り・福島市の阿武隈川にハクチョウが飛来すると、1週間~10日後には阿武隈の山々を越えて浜通り南部のいわきへやって来る。

今年(2018年)は10月9日、猪苗代湖に初飛来した。それから10日後、いわき市の夏井川に3カ所ある越冬地の最上流、小川町・三島で翼を休めているハクチョウを見た。野鳥の会に入っている知人は、日曜日(10月14日)に平で空飛ぶハクチョウの群れを目撃した。それが初飛来ということになる。

わが生活圏の平・塩~中神谷では、少し遅れて10月22日に飛来を確認した。11月に入ると落ち着いたのだろう、12羽のコハクチョウが姿を見せるようになった。つがいと子ども合わせて4~5羽が一単位のようだから、3家族の群れだろうか。そのグループに誘われるように、おととい(11月5日)午後3時過ぎには、50羽前後が川の中州や浅瀬にちらばっていた。

きのうは午前11時ごろ、12羽が休んでいた。座りこんだ1羽と幼鳥2羽を除けば、9羽が一本足で昼寝の最中だった。

へたりこんでいた1羽が立ち上がる。と、歩くたびに体が左に傾く。ほかの仲間が片足を翼に隠しているのに、彼(あるいは彼女)は両足のままだ=写真。左足をけがしていて、上げられないのか。どこでけがをしたのだろう。シベリアは生まれ故郷、白夜のツンドラで? 渡りの途中のサハリン(樺太)で? 北海道のクッチャロ湖で?

送電線に触れて翼を折り、「ハクチョウおじさん」に何年もえさをもらって過ごし、最後はどこかへ姿を消したハクチョウがいる。それ以来の傷病ハクチョウだ。足のけがは何が原因か。翼は大丈夫なようだから飛べるだろうが、離・着水はどうか。彼(あるいは彼女)から目が離せなくなった。

2018年11月6日火曜日

「父親に会いに来た」のだ

 いわき市立草野心平記念文学館で、同市好間町川中子(かわなご)出身の詩人猪狩満直(1898~1938年)の生誕120年記念企画展が開かれている=写真(チラシ)。おととい(11月4日)、同文学館で吉野せい賞表彰式が行われたのに合わせ、再観覧した。
満直は若いとき、妻子を連れて北海道へ渡り、開拓農民として苦闘の日々を送った。常設展示室と企画展示室の奥、アートパフォーミングスペース入り口で、今年6月、学芸員が撮影した釧路国阿寒郡舌辛村二十五度線(現釧路市阿寒町紀ノ丘地内)の「猪狩満直開墾地跡」の動画がエンドレスで流れている。

 以前は草刈りをしてくれる人がいたらしい。生えている木々は少なく若い。画面やや右奥にシラカバが1本、左手にはカシワの木が何本か。ササが覆う林床にはエゾブキが繁殖している。

 満直の最初の妻は、過酷な暮らしのなかで病死する。2人の間には3人の子があった(1人は1歳ちょっとで亡くなる)。二番目の妻は心身が強かったのだろう、6人の子をなした(1人は7カ月で彼岸へ渡る)。彼が40歳でこの世を去るとき、4男3女が残された。

 三女S子さん(89)と四女で末っ子のM代さん(82)を知っている。いわき地域学會の初代代表幹事、故里見庫男さんが中心になって満直の顕彰活動を続け、全集1巻の発刊、北海道といわきでの詩碑建立などを実現した。“里見旋風”に巻き込まれて冊子づくりなどに関係した。その過程で二人と親しく言葉を交わすようになった。

 おととい、企画展会場でS子さんとM代さんに会った。連絡し合ってきたのかと思ったら、そうではなかった。小名浜に住むS子さんは友達と、平にいるM代さんは息子の嫁さんと孫の3人でやって来た。M代さんとは動画=写真下=を見ながら話した。
 M代さんは満直の北海道時代を知らない。父親が亡くなったとき、M代さんは1歳5カ月だった。父親の記憶もないに等しい。父親の症状が悪化し、身体の衰弱が進んでいたころ、M代さん自身、「死んでもおかしくない状態で生まれてきた」。遺品も「文学館に寄贈されたからない」という。

 そのとき、脳内に電気が走った。<そうか、そうだったのか。S子さんも、M代さんも、「父親と父親の形見に会いに来た」のだ>。私らは詩人猪狩満直と遺品を見に来たのだが、彼女たちは違っていた。

それから、「猪狩満直開墾地跡」の動画に映っている草木の話になった。「ここにシラカバらしいものが1本ある。これはカシワの葉ではないか。シラカバが生えるような厳しい環境のところで暮らしたんだねぇ」と私。すると、M代さんがヤチダモの話をした。

 あとで、『猪狩満直全集』に当たる。詩集『移住民』のなかに、伐り出した材木を馬橇(ばそり)で運ぶ詩がある。「ヤチダモの十尺/十尺の二〇/この材は何に使ふんだろ/そんなことは考へなくったっていい/ただ橇にのっけて引っぱればいい」。ヤチダモを20本も運ばないといけない、そんな気持ちを詠んだ詩だろう。ヤチダモは家具や装飾材に使われた。バットにも。利用価値の高い木材だった。

「開墾仲間」と題した短編小説にこんなくだりがある。「七月の太陽は、北国の奥地をも酷熱の光で焼くことを忘れなかった。/白樺はそのみどりを、白雲の流れるコバルトの空へ噴水のやうに撒(ま)き散らした。畑の中では大豆小豆が青々と繁り、そのこわきの楢の大木では、りーじじじじじと、蝦夷蝉が鳴いた」

動画のなかで盛んに鳴いている蝉がいた。「エゾゼミではないか」。そうM代さんに告げたが、「開墾仲間」を読んで確信した。チラシの裏面にその開墾地跡の写真が使われている。ヤチダモらしい木も写っていた。湿っぽい土地でもあったらしい。開墾に血と汗を流さざるをえない環境だったことがうかがえる。

2018年11月5日月曜日

吉野せい賞受賞者と話す

 きのう(11月4日)、いわき市立草野心平記念文学館で第41回吉野せい賞表彰式が行われた。5人の選考委員を代表して選評と総評を述べた。
今年(2018年)は、正賞(せい賞)、準賞の該当作品はなかった。それらに次ぐ奨励賞に3編が選ばれ、中学生以下の青少年特別賞には2編が入った。

表彰式に先立ち、受賞者5人と昼食を摂りながら懇談した。そのときのやりとり、あるいは表彰式での受賞者あいさつ=写真、記者発表時での受賞者コメントから、作者の志向や動機などを知ることができた。

 受賞作品と作者を記しておく。奨励賞=①「森と海の端(はし)で」渡部茂樹(51)・公務員(好間)②「チーズは無理にさかないようにする」宮一宇(28)・塾講師(平)③「蕨堂」高木奴馬(24)・慶応大3年生(川崎=内郷出身)。青少年特別賞=①「過去と未来の交差点」新妻野乃香(15)・草野中3年生(平)②「セザンヌ」吉田快斗(15)平一中3年生(好間)。宮一宇と高木奴馬はペンネーム、「過去と未来の交差点」が戯曲のほかはすべて小説だ。

 自分のブログを読んで思い出したのだが、平成19(2007)年=第30回までは、3人による一次選考を経て、5人全員で二次選考を行うという形式だった。私が選考委員に加わった翌20年から、5人がそれぞれ全作品を読んで一次選考通過作品をしぼり、二次選考で合議するかたちに変わった。

今年の応募作品は41編と例年より少なめだったが、一次選考通過作品は17編と多かった。飛び抜けた作品がなかったため、選考委員の判断が分かれた。

 青少年特別賞にしぼって書く。新妻さんの受賞者コメントに「私は昔からドラマや演劇が好きで、今年の文化祭劇の台本を任されたこともあり、本コンクールに応募しようと思いました」とある。受賞者あいさつでも「将来は演劇関係の仕事に就きたい」と語った。浜通りでは新たな演劇文化が花開く予感がある。ぜひその一角を担ってほしい。

 吉田君は「今年の2月、登校中に作品の発想を得た」という。「この作品は僕にとって日々の思いのはけ口でした。その日ふと心に浮かんだことをメモし、それをもとに紡ぎました」と、受賞者コメントに記している。「銀の匙」の中勘助を「心の師匠」というあたり、並ではない。

 詩人鮎川信夫が晩年の日記に記していた文章がある。「人生(ライフ)は単純なものである。人がおそれるのは、畢竟(ひっきょう)、一切が徒労に帰するのではないかということであるが、人生(ライフ)においては。あらゆる出来事が偶発的(インシデンタル)な贈与(ギフト)にすぎない。そのおかえしに書くのである。正確に、心をこめて、書く。――それがための言葉の修練である」

奨励賞の3人も含めて、5人は「平成」最後の吉野せい賞受賞者だ。将来性という点では記憶に残る年になった。とにかく、正確に、心を込めて、書く――これに徹するしかない。

2018年11月4日日曜日

「歩こう会」と「せい賞表彰式」

きょう(11月4日)は日曜日で、作家吉野せいの命日。いわき市立草野心平記念文学館で吉野せい賞表彰式が行われる。総評と選評を述べないといけない。
 その前に、朝9時から神谷(かべや)市民歩こう会が開かれる。歩こう会のコースは神谷公民館~夏井川堤防~六十枚橋~ざわみき公園(河口部)までの往復9.5キロだ。河川敷と堤防を、ごみを拾いながら歩き、ざわみき公園で昼食・自由時間のあと、公民館へ戻って景品が当たる抽選会を開いて解散となる。

 吉野せい賞の表彰式は命日の4日に近い日曜日と決まっている。去年(2017年)はどういうわけか第二土曜日(11月11日)にずれ込んだので、歩こう会に参加できた。今年はまた日程が重なった。

歩こう会は、いわき市青少年育成市民会議神谷支部の地域部会が主催する。神谷地区の区長8人が分担する充て職のひとつで、支部長を務めている。出発前にあいさつし、一行を見送ってから小川の山上にある文学館へ向かう。

夏井川の様子を見ずにしゃべるのも気が引ける。きのう午後、車でコースの“下見”をした。夏井川の堤防に出るとすぐ、川中島にハクチョウが12羽、飛来していた。そこからちょっと下流にサケのやな場がある。右岸のいけすでサケが尾びれを見せながら水しぶきを上げている=写真上1。

六十枚橋から下流側、アグリパークいわき(観光いちご園)の一画に、追尾型の太陽光発電基地がある。それを間近に見ながら行くと、堤防の天端が急に幅広くなる。東日本大震災で堤防や河川敷に亀裂が走り、津波が夏井川を逆流した。堤防をかさ上げし、補強した結果、最下流部だけ車が楽にすれ違えるようになった。

 河口部では、釣り人が何人か糸を垂れていた。先日、河口部まで車を走らせたとき、夏井川に合流する横川(仁井田川)に地質調査のための足場が組まれていた。調査が終わったらしく、足場は解体されてなかった。
河口の磐城舞子橋を渡り、対岸の堤防をさかのぼって、平市街のはずれにかかる平大橋から再び左岸堤防にのり、川中島のハクチョウを見て帰った=写真上2。ざっと30分の間に、ハクチョウは3羽増えて15羽になっていた。

 きょうのあいさつでは、きのう見たハクチョウとサケのバシャバシャを紹介しながら、「足元のごみを拾うだけでなく、回りを、川を眺めて楽しんで」と言おう。「毎年同じことをしゃべっている」。そう受け取られても、自然にはマンネリはない、そのつど違った表情を見せるのだから、と開き直って。

2018年11月3日土曜日

ふるさとの米

 阿武隈高地のふるさと・田村市常葉町の話――。中学校の同級会が郡山市の磐梯熱海温泉で開かれた。常葉発着で旅館のバスが運行された。実家に用があったので、いわきから車で出かけ、このバスを利用した。帰りに一人、同級生を家まで送った。お礼に彼がつくった新米(玄米)=写真下1=をもらった、ということを前に書いた。
 カミサンが米屋の支店をまかされている。本店には精米設備がある。もらった玄米を義弟に頼んで精米してもらった。「品種はわからないけど、粒はしっかりしている」という。

その新米をきのう(11月2日)朝、カミサンが炊いた=写真下2。白い。米は白いのが当たり前だが、新米はこんなに白いのか、という白さだ。かみごたえもある。「粒がしっかりしている」というのがそれだろう。かんでいるうちに、ほのかなうまみが口中に広がった。
同級生が管理している田んぼは一筋町の西南、阿武隈川の支流・大滝根川に向かってのびた尾根と尾根の間に、段々になって連なる。自宅は田んぼの奥、手のひらでいえば“指また”に当たる小集落にある。山田作という――と書いて、急にいろいろ思い出した。

 まだプールがなかった時代、子どもたちは夏になると、大滝根川で水浴び(水泳ぎではない)をした。水に慣れ、水に浮くことを覚えると(小学校の高学年、あるいは中学生になりたてだったか)、自転車で町はずれの「山田作の沼」へ出かけて泳いだ。遊泳禁止のため池だった。親や先生の耳に入ると怒られる。そこで深く広い沼に浮かぶ快感と怖さを知り、必死になって泳ぐことを覚えた。

 沼への道しか知らなかった。車で送り届けた同級生の家は沼の奥にあるものだとずっと思っていた。が、そうではなかった。となりの沢(田んぼ)の奥だった。沼の道からも少し遠回りだが行ける。

もうひとつ思い出したことがある。「山田作の沼から水死体が揚がった」というので、仲間で自転車を飛ばし、見に行ったのは小学校の4年生のころだったか。沼のへりに消防団員らが輪になっていた。足元から人の左手らしいものが見えた。小さなグローブのように膨らんでいた。あとで見知ったおばさんが入水したのだと知った。

沼とも少年期とも関係ないが、後年、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」に、「エンペラー吉田」が出演した。「えらぐ(偉く)なくともただしくいぎる(正しく生きる)」と叫び、話の途中に入れ歯がのぞいて茶の間の笑いをとった。エンペラー吉田の自宅は山田作にあった。

山田作の米をかみしめながら、少年期のあれこれを思い出したのは、きっとそれがかけがえのないなにかだったからだ。そう、常葉のマチ場の子どもたちにとって、沼は、沼までの道筋も含めて冒険の世界、映画「スタンド・バイ・ミー」そのものだった。

2018年11月2日金曜日

「地域資料のページ」拡充

 いわき市立図書館のホームページをたびたび利用している。目当ては「地域資料のページ」だ。明治、大正、昭和と、いわき地方で発行されていた地域新聞18紙がデジタル化されて収められている(いや、いた)。同欄が11月1日に拡充されるというので、期待して待った。昭和初期の東北日日新聞が入っていれば、真っ先に読みたい。
 昭和4(1929)年8月、ドイツの飛行船「ツェッペリン伯号」がシベリアから東北の太平洋岸に沿って南下し、霞ケ浦に着陸した。いわきでは当時・平町の東端、神谷村の上空を小名浜方面へ向かって山沿いに飛行した――と同紙にある、という。

 いわきの作家吉野せいの作品集『洟をたらした神』の注釈づくりをしている。作品の一つ「ダムのかげ」は炭鉱の仕組みや暮らしを理解しないと注解ができない。炭鉱のことを知りたくて、逐次刊行物の「常磐炭田史研究」を読んでいたら、第5号で旧知の故・郷武夫さんの論考「いわきの空を飛行船が飛んだころ――昭和4(1929年)8月――」に出合った。図書館のホームページにはない東北日日新聞の記事を引用していた。

 炭鉱とは直接、関係はない。が、注釈づくりをしていて面白いのは、どんどん横道にそれて、まったく思いもよらなかったところへ行きつくことだ。飛行船を初めて見たいわきの人間の驚き、喜びを想像するだけでも、その時代の『洟をたらし神』の世界のエキスにはなる。

ホームページだから、11月1日午前零時にリニューアルされるのではないか。そう思っていたが、違った。朝起きてチェックするものの、トップページは前のまま。午前10時、図書館の開館時間に合わせてリニューアルされた=写真上。東北日日新聞もあった。すぐ飛行船の記事(昭和4年8月20日付=19日夕刊)=写真下=をプリントアウトした。起きてからの4時間が長かった。これを“古新聞シリーズ”8としておこう。
 新しくデジタル化された地域新聞は東北日日をはじめ、磐城調査新報・磐城立憲新報・平新聞(福總新聞)・磐城中正新聞など18紙で、現在唯一の地域紙いわき民報とはライバル関係にあった戦後の常磐毎日新聞も読めるようになった。

いわき総合図書館が収蔵する地域新聞はかなりの数にのぼる。いわきの近代史を調べるうえでは欠かせない情報の宝庫だ。諸橋元三郎の私設図書館「三猿文庫」の資料が市に寄託されたことが大きい。これだけの地域新聞をデジタル化した図書館は、ほかにないのではないか――8年近く「地域資料のページ」を利用し、恩恵にあずかっている身としては、いろんな感慨がよぎる。

 ここしばらくは当てもなく、電子新聞の森に分け入り、これまで「未読」だったエリアを巡り続けようと思う。

2018年11月1日木曜日

補修・交換・安静

 台所のガス温水器の寿命が尽きた。取り付けて21年。お湯の温度が上がらないと思っているうちに、お湯さえ出なくなった。プロパンガス屋さんに頼んで、きのう(10月31日)、新品と交換した。
「冬でなくてよかった」とカミサン。この時期、晩酌の焼酎はお湯割りだ。お湯の温度が上がらないから、やかんに入れてガスで沸かし直す。手間がかかる。数日、それを繰り返した。

 不具合は温水器だけではなかった。車の左サイドミラーが急に「ククク」とうなり始めた。運転席のパワーウインドウも、閉めようとすると途中で止まる。何回かやっているうちに、ようやく閉まる。雨が降ったり、街の駐車場に入れたりしたとき、少しあせる。

 長いつきあいのディーラーに電話で“症状”を伝えたら、すぐ来てくれた。サイドミラーはモーターが空回りしている。固定した状態でも支障はない。配線を切断してもらった。パワーウインドウは窓枠のゴムの溝にごみが詰まっていたらしい。それを取り除いたらスムーズに開け閉めができるようになった。途中で止まるのは“はさまれ防止”機能が作動するからだとか。

 夏井川渓谷にある隠居でも、台所と茶の間を行き来すると、きしみ音がする。濡れ縁も2カ所で腐っている。

 10年前、自宅の近所に住む中学校の同級生(大工)に頼んで、台所を広くし、出窓や押し入れを改修した。幅30センチほどだった縁側も、1.5メートルほどの濡れ縁にした。それで、布団が干せるようになった。だれかが来たときには語らいの場になった。夜にはテンなどもやって来る。糞でわかる。
 きしむのは、茶の間の側だった。同級生が畳をあげて見ると、敷居の下にすき間ができていた=写真上1。そこに木片をはさむと、きしみが解消された。後日、濡れ縁も腐った板を交換し、防腐剤を塗られてよみがえった=写真上2。

 自宅の温水器も、車も、隠居も、たまたま同時期に不具合があらわれた。メンテナンスに無頓着だからこそ、そうなった。

同じころ、隠居でミニ同級会を開き、酔って転んでろっ骨を折ったのも、足のメンテナンスを怠っていたからだろう。ほぼ50日、ドクターの指示に従って安静にしていた。晩酌も3週間ほど休んだ。5年ほど中断している散歩を復活しなければ――。きのう、近所を一回りしているうちに焼酎を切らしたのを思い出して、マルトに立ち寄った。帰ると、そういうことは忘れないのだから、という顔をされた。