2018年11月30日金曜日

共同作業

 わが家から道路と駐車場をはさんだ向かいの奥に、故義伯父の家がある。家の裏に義弟が次郎柿を植えた。家の前、庭の入り口にケヤキの若木がある。義父が隣家との境にツツジを植えた。そのとき、土にケヤキの種が交じっていたらしい。実生(みしょう)で育った。
 次郎柿は甘柿だ。今年(2018年)は、実が鈴なりになった。近所の公民館で放射線量を測ったら、NDだった。

「柿の実をもぎってよ」。カミサンからいわれたが、なかなか腰があがらない。土曜日(11月24日)、業を煮やしたのか、私に米屋の店番を頼んで、近所の家から「高ばさみ」を借りて柿の実をもぎり始めた。いつの間にか、高ばさみを貸してくれた若いご夫婦、その向かいの家の88歳のおじいさんも手伝ってくれた=写真上。

 共同作業は、それだけで終わらなかった。翌週水曜日の28日。今度はケヤキの若木を伐採した。柿の実収穫のときと同じおじいさんと奥さんが手伝ってくれた。また店番をした。あとでカミサンが撮った写真を見る。若木といえども、切って倒すと庭を覆うほどの大きさだ=写真下。それをまた細断して、「燃やすごみ」に束ねてくれた。
 話は変わる。地域社会のトラブルの例として、ごみ出し問題のほかに、こんな話を聞く。猫が好きな人の家と嫌いな人の家が隣り合っている。飼い猫、あるいはえさだけやる野良猫は、家と家の間を勝手に越境する。それで摩擦がおきる。

 隣家の庭の木をうっとうしいと思う人がいる。時間的に日光がさえぎられる。カラスが巣をかける。落ち葉が降ってくる。木や動物による“不都合”にいらだつ。近隣関係は、ある意味ではそれぞれの価値観による「主張」と「我慢」の綱引きだ。もちろん、ベースに互助の精神があってのことではあるが。

 さて、伐採したケヤキの幹は、若木とはいえ結構な太さだ。たまたま受注の品を持ってきた本店の義弟がケヤキの伐採に気づき、幹は師走に行うもちづくりの燃料にするという。切って「捨てる神」もあれば、「拾う神」もある。これもプラスαの共同作業にはちがいない。

2018年11月29日木曜日

線香花火のようなカビ

 キノコの観察・採集を始めたころ、カビに侵された虫の死骸を何度か見かけた。あるとき、カマキリが死んで節々が白くなっていた。「冬虫夏草」にくわしい“同業他社”氏に話すと、「『冬虫夏草』ではなく『虫カビ』ではないか」といわれた。10年余り前のことだ。そのとき(2008年3月)の拙ブログの抜粋・要約。
――冬虫夏草と虫カビの違いは菌類でいう「柄」があるかないか、だという。そういえばカマキリには柄がなかった。ただの虫カビというわけか。後日、ネットで調べたら「昆虫病原糸状菌という意味では冬虫夏草の仲間だが、冬虫夏草のようでない虫カビ。蚕の硬化病の原因となる白きょう病菌の仲間」とあった。

 日本冬虫夏草の会のHPは、冬虫夏草研究の第一人者、故清水大典氏の見解として、未記録の寄主例としてカブトムシやクワガタ、カミキリムシの成虫などがあり、これらの虫から不完全型ではない、子嚢(しのう)果(「柄」の先にできる袋状の結実部=普通のキノコで言えば「傘」か)の生じた冬虫夏草が見つかれば間違いなく新種、という話を紹介している。

 夏井川渓谷にある隠居の庭では、カマキリのほかに、イナゴ、ガなどの虫カビも見つかっている。唯一、トンボだけは節から「柄」が出ていたから、冬虫夏草のヤンマタケ(不完全型)だった。

 2008年も正月明けに隠居の庭をじっくり見て回ったら、木の幹にぴたっと止まった状態で菌にやられたカミキリムシがいた。図鑑に当たるとキボシカミキリの雄らしかった。一瞬、「新種の冬虫夏草?」と胸がときめいたが、そうは問屋が卸さない。これも虫カビである――。

 先週の土曜日(11月24日)、いわき地域学會の市民講座が開かれた。昆虫が専門の鳥海陽太郎幹事が「生きものたちの息づくいわきの自然」と題して話した。最後の最後に紹介したのが、「スポロディニエラ・ウンベラータ」という「ケカビ」だった=写真。要は虫カビ?

 チョウだかガだかが葉裏に止まった状態で息絶え、その体から白い菌糸が伸び、先端で「線香花火」状に開いている。去年(2017年)8月14日、いわき市好間町北好間で発見、撮影した。「線香花火」というタイトルで今年の「日本の自然」写真コンテストに応募したら、みごと入選した。

 写真の出来栄え以上に、私には「スポロディニエラ・ウンベラータ」の、いわきでの発見は大ニュースのように思われた。まず和名がないほど、珍しいケカビだ。

インターネットで情報を探る。インドネシア、エクアドル、台湾と発見例は少なかったのが、ネット時代に入ると、日本の各地からも報告されるようになった。ハネナシコロギス、ヒグラシ、アケビコノハ、ミンミンゼミ、キチョウなどの「線香花火」の写真がアップされていた。日本も夏はより熱帯化しつつあるということだろうか。カビやキノコを含めて、まだまだ知らないいわきがそこに息づいている。

2018年11月28日水曜日

ウラジオストクの「ダーチャ」

 火曜日は夜8時から、BSプレミアムで「世界ふれあい街歩き」が放送される。だいたい晩酌をしながら見る。先週(11月20日)は、宵にいわき昔野菜保存会の役員会があった。帰ったら、親子がいる夕暮れのシーンで番組が終わった。どこの街かはわからなかった。
 きのう(11月27日)朝、再放送があった。ロシアのウラジオストクだった。途中、ウラジオ郊外に場所を移して、「ダーチャ」を紹介していた。

おととし(2016年)の8月初旬、高専の同級生4人でロシアのサハリン島(樺太)とシベリア大陸(ウラジオストク)を観光した。ウラジオでは、日本語ガイド氏からたびたび「ダーチャ」という言葉を聞いた。家庭菜園付きのセカンドハウスだという。庶民が当たり前にダーチャを持っているともいう。

 そのとき、拙ブログにこんなことを書いた。――ウィキペディアによると、ダーチャは、第二次大戦後の食糧不足対策として市民に土地を与えるよう、州政府や国に要求する運動が起きたのが始まり。ピョートル大帝が家臣の貴族たちに菜園付き別荘を下賜したことに由来するそうだ。
 
 広大な平原を貫く道路の左右にときどき集落が現れる。なかには都市部の市民が週末を過ごすダーチャ群だったりする。特に夏場は盛んに利用される。ソ連崩壊後はダーチャの売買も行われ、豪華な家も建つようになったのだとか――。

ダーチャという言葉が4人の脳髄に染みた。夏井川渓谷の隠居に仲間が集まって飲み会をやる。その隠居がまさしく「ダーチャ」だと。

日本では、家庭菜園は趣味の世界に入る。が、ロシアでは生存のために必要なものだった。そう思っていたが……。所有者の妻がいう。ウラジオストク大の事務職員だ。夫は建設会社の社員。「市場で野菜を買う方が簡単で安いのよ」=写真上1。

これには笑ってしまった。同じではないか! わが隠居の菜園でつくる野菜も、肥料だ、なんだとカネがかかる。「経済」だけだったら、やっていられない。それを、ウラジオの夫は「魂」という言葉で表現した。週末、ダーチャで過ごすことが自分自身を取り戻すことになるのだ、という意味だろう。

そのダーチャには電気もガスも水もない。しかし、新鮮な空気がある。水は、湧き水を汲みに行く。洗い物は雨水を利用する。そのための「天水桶」があった。ガスは携帯ボンベを持ち込んで対応している。電気は、自家発電? 冬場は、渓谷の隠居がそうであるように、地面がカチンカチンに凍るはず。なにせシベリア大陸の東端だ。ダーチャが「サマーハウス」でもあるのは、冬には土いじりができないからだ、きっと。
夫婦がつくっている野菜はトマト、ナス、ニンジンなど。ベリーも栽培している。細長いインゲン=写真上2=がアップされたときにはビックリした。「十六ささげ」ではないか! 「十六ささげ」はどこから来たのだろう。

2018年11月27日火曜日

渓谷の露地売りゴボウ

 夏井川渓谷の紅葉が見ごろになると、JR磐越東線江田駅前にテント村ができる。ちょっと離れた道路沿いにも、田村郡小野町のNさんが日曜日、露地の直売所を設ける。
 拙ブログで、今年(2018年)の紅葉が始まった10月下旬、Nさんがパイプの支柱を立てた、長芋と曲がりネギが並ぶ――と書いた。が、さっぱりNさんの姿を見なかった。

 日曜日は朝9時ごろ、渓谷の隠居に着く。Nさんはまだ来ていない。帰りは、遅くとも午後3時ごろには直売所の前を通る。それでも、直売所にはパイプの支柱が寂しく立っているだけだった。

 おととい(11月25日)朝、出かけたら、江田駅前のテント村はすでに今季の営業を終え、撤収していた。午後1時前、内郷の「しらみずアーツキャンプ」へ向かうため、江田駅近くを通ったら、直売所に人が群がっていた=写真。

今季初めてNさんと言葉を交わす。「ネギは?」。こちらの顔を思い出したのか、<ああ>とうめいて、「持ってこなかった」。「きょうが初めて?」「何回も来てますよ」。遅く着て早く帰るのだろう。

私は「三春ネギ」を栽培している。それも収穫期に入ったが、ほかのネギも食べたい。Nさんの曲がりネギは、あれば袋ごと20~30本は買う。

短い会話ながら、10年以上のやりとりからわかったことは――。Nさんのネギは郡山市の阿久津曲がりネギと同じ苗だ。甘くてやわらかい。Nさんは勤め人。栽培の主力は両親だった。おととし(2016年)は秋に父親が入院したとかで、直売所も1回か2回オープンしただけだった。去年は母親が腰を痛めて、直売所に出すほどのネギの量を栽培できなかったらしい。

今年も、母親と奥さんの具合がよくない、という。ナガイモとゴボウが並んでいるだけだった。カミサンが袋にいっぱい入ったゴボウを買った。ネギを持ってこなかったおわびの意味もあるのか、安くしてくれた。

生産者が年をとって病気になる、あるいは亡くなる――となれば、栽培量も品種も減る。栽培そのものが終わってしまうこともある。「来年はネギを持ってきますよ」といわれても、「二度あることは三度ある」かもしれないし……。師走に入ると、郡山市が本社のスーパーに阿久津曲がりネギが並ぶ。それを待つしかないか。

2018年11月26日月曜日

「ドヂ車」を見に行く

吉野せいの代表作「洟をたらした神」の主人公ノボルは、数え六つの男の子。家が貧しいので、独楽(こま)や竹トンボなどは自分でつくる。ヨーヨーが欲しいのに、親は買ってくれない。で、山からまるく盛り上がった“こじれ松”の枝を取ってきて、ヨーヨーを自作した。その出来栄えの見事なこと――。昭和5(1930)年夏のことだ。
ヨーヨーの話は、わきにおく。文中に、当時の開墾集落の子どもたちの遊びと遊具が登場する。「竹馬」「ねんがら打(ぶ)ち」「ペッタ(メンコ)」「ビー玉のかっきり」……。ほかに、斜面を「辷(すべ)りおちる快適な土地(どじ)車のゆさぶり心地」とある。

「土地車」ってなんだ? 検索してたどり着いたのが、2012年・いわき総合図書館レファレンス事例だった。「暮らしの伝承郷に照会した結果、好間町在住の男性78歳から回答があった」。その要旨を次に記す。

「四輪台車のようなもので、幅30~40センチ、長さ100センチほどの木の板1枚と、杉や松の丸太を切って作った厚さ4~5センチのタイヤ状のものを4個用意し、丸太の真ん中にドリルで穴を開け、2個ずつ芯棒に通す。これを板の下に置いて前後のタイヤにする。フジづるで輪をつくり、前のタイヤの芯棒の元にしばって置き、ハンドルにした」

どうもよくわからない。「これを急な山の斜面に担いだり引いたりして持って行き、下に向かって滑る。舗装されていない山の斜面を滑ったので、石をよけて滑らなければゴトンゴトンと揺れた。男の子の遊びで、たいした遊びだった」。四輪台車のようなモノ――雪の斜面ならソリがある。緑の斜面だから、ソリに似た形状の四輪車だろうか。

きのう(11月25日)、内郷・白水小と近くの「みろく沢炭砿資料館」を主会場に、「しらみずアーツキャンプ」というイベントが開かれた。

なかに、90歳を越えたみろく沢炭砿資料館主・渡辺為雄さんの歴史を振り返る催しがあった。ノボルがヨーヨーなどを自作したように、為雄さんも幼少期、「ドヂ車(手作り木製三輪車)」を製作ウンヌンと紹介文にあった。

ドヂ車=ドジ車(土地車)だろう。強い磁力に引っ張られて資料館を訪ねた。知人が何人かいた。そのひとり、いわき地域学會の仲間のNさんに聞くと、「ドヂ車は資料館にある」という。すぐ案内してくれた。かなり精巧な三輪車だった=写真。

たまたま見学に来ていた年配者と一緒になった。ドヂ車に詳しい。「四輪車はなかったですか」「三輪車だよ。ペダルがないので斜面を滑りおりた」という。為雄さんの三輪車は店で売っている三輪車のかたちに近い。どうやら改良された「現代風のドヂ車」ということになるらしい。「すわるところもこんなに板で覆われてはいなかった」と年配のおじさん。

なるほど。内郷では三輪車、ひとつ丘を越えた好間では四輪車――どっちかひとつに絞る必要はない。子どもは子どもなりに、身近な世界で調達できるもので「ドヂ車」をつくったのだろう。内郷のドヂ車は炭鉱で使われた資材その他の廃物、たとえばタイヤは丸い板状の木片を利用した、と年配のおじさんは説明してくれた。

ノボルは昭和5年で「かぞえ六つ」だから、平成30(2018)年の今は「かぞえ94歳」ということになる。為雄さんよりひとつ上か同年齢だ。ノボルはタメオで、為雄さんもまた「洟をたらした神」だったか。

2018年11月25日日曜日

“南北混交”が複雑に

いわき地域学會の第342回市民講座がきのう(11月24日)、いわき市生涯学習プラザで開かれた。
 昆虫が専門の鳥海陽太郎幹事が「生きものたちの息づくいわきの自然」と題して話した=写真上。毎年この時期、市民講座は自然部会の阿武隈山地研究発表会を兼ねる。阿武隈の発表会としては26回目だ。

いわきは「北方系の寒地性生物と南方系の暖地性生物がともに生きる混交地域」(鳥海幹事)だ。が、「いわきの平地・里山・山地、河川・池沼・湿原などの四季に息づく昆虫・動物たち」を観察・撮影していると、暖地系の北上・山地から平地への寒地系の適応など、混交度合いがいちだんと進んでいることがわかるという。

 北上中のものは、甲殻類ではクロベンケイガニ。茨城県の大洗あたりが北限だったのが、いわきでも見られるようになった。いわきを北限とする蝶のアオスジアゲハ、モンキアゲハ、ツマグロキチョウ、ウラギンシジミ、ムラサキシジミ、ツマグロヒョウモン、ホソバセセリ、チャバネセセリなども、年々分布を北に広げている。

世界中に分布するヒメアカタテハは、いわきでも秋になると個体数を増す傾向がみられる。2000キロの旅をするアサギマダラは、芝山や水石山への飛来が定着した。特に、ツマグロヒョウモンは、いわきでは台風が運んでくる「迷蝶」だったのが、近年は繁殖するようになり、着実に分布を北へ広げているという。セイタカアワダチソウの花に留まって吸蜜する。その繁殖を手伝っている虫の一種ということになる。

 逆に、寒地性種ながら暖地の気候にも適応して分布を拡大しているのがウスバシロチョウ。数年前からまれにいわきの山間部でも記録されるようになった。トンボでは、高地の湿原などに見られるオオルリボシヤンマやルリボシヤンマが、いわきの丘陵地(石森山など)でも確認されるようになったという。

 こぼれ話がおもしろかった。虫の撮影のためにかがんでいると、いつのまにかイノシシの“うり坊”たちに囲まれた。当然、母親が近くにいる=写真右。カメラを構えながら後ずさりした。熊対策に鈴が要るように、イノシシにも鈴が必要になったという。

ときどき翅がぼろぼろの蝶を見かける。野鳥から逃げ延びたのだという。“南北混交”の実態は絶えず流動している。古い“南北混交”観をアップデート(最新化)するいい機会になった。

2018年11月24日土曜日

十一屋の一升徳利

 いわき市平の本町通り(五町目)に、平七夕まつりに合わせて古本屋「阿武隈書房」がオープンしてから3カ月半。行くたびに古本その他が増えて、店内が雑然としてきた。
 若いころ、職場の近くに「平読書クラブ」という古本屋があった。昼休みにしょっちゅう立ち寄って、本の背表紙をながめながらおやじさんと雑談をした。書棚と書棚の間が狭かった。阿武隈書房も、平読書クラブのたたずまいに似てきた。足元に本が積んである。空いていた棚もすっかり埋まった。古本屋らしくなってきた、ということだろう。

 先日、車で店の前を通ったら、カミサンが叫んだ。「十一屋の徳利がある!」。店頭の隅っこに「十一屋」(と読んだが、それでいいのかどうか)の名が入った一升徳利が置いてあった=写真。

 十一屋は、江戸~大正期の平の歴史を彩る旅館兼雑貨・薬種・呉服などの店だ。幕末には函館からアメリカへ密航するため、船で太平洋岸を北上中の新島襄が上陸して泊まった。戊辰戦争時には、宿泊した幕府の人間からフランス式の砲術を学ぶために磐城平藩の若者が十一屋へ通ったという。大正時代になると、詩人山村暮鳥が出入りする。

明治40年代前半には、本町通りに十一屋が3軒あった。三町目に本家と染物屋、四町目に分家の染物屋(のち料理店)。昭和初期の地図を見ると、十一屋は四町目の料理店だけになる。

一升徳利はどこの十一屋がいつつくったのだろう。単純に考えれば、本店(本家)がつくり、お得意さんに酒やしょうゆの買い物用に配ったのではないか。十一屋が酒かしょうゆを売っていたとするなら、「また買いに来てくださいね」という“つなぎ”になるが、そのへんのところは、私にはわからない。

 ふだんは買い付けに飛び回っている阿武隈書房の店主がいたので、店頭に飾るまでの経緯を聞いたが、徳利などはたくさん出てくる。いつ、どこから手に入れたか、は覚えていないそうだ。いずれにしても、十一屋物件だとすると、謎、いや調べる材料がひとつ増えた。街の古本屋をのぞく楽しみがこんなところにある。

2018年11月23日金曜日

甘柿の線量を測る

 いわき市平の神谷(かべや)公民館には、3人の職員とは別に放射能簡易検査をするスタッフが常駐している。事務室とは別の部屋にいる。
非破壊式検査なので、500グラム以上あれば刻まなくてもいい、およそ10分で結果が出る――と聞いたので、きのう(11月22日)、近所の故義伯父の家にある甘柿をとって持ち込んだ。結果は「出ませんでした」、つまり「検出下限値未満(キロ当たり20ベクレル未満)だった=写真上。

 心配して測りに行ったわけではない。“放射線量測定室”が近くにあるなら気軽に利用すればいい、スタッフの顔も見てみたい――好奇心から駆けつけた。

 この公民館で線量を測定できるのは、前から知っていた。私が測りたいのは野生キノコだが、これを量的に確保するのは難しい。現に日曜日(11月18日)、夏井川渓谷にある隠居の庭から採取したハイイロシメジ=写真下=は200グラムしかなかった。
 このキノコは食べられるが中毒もする(嘔吐・下痢)という、ややこしいキノコだ。で、500グラムもないのだから、線量を測ってまでは――と食欲が失せた。厚労省も「よいだしが出て、味もよいことから食する事があるが、食用にすべきではない」と言っている。

代わりに、甘柿で線量測定“初体験”をしたのだが、「不検出」には拍子が抜けた。おかげで、胸を張って「お福分け」ができる。

 義伯父は埼玉に住んでいた。およそ30年前、姪っ子であるカミサンが面倒をみるからというので、やって来た。家を建てるとき、カミサンの弟が「次郎柿」の苗木を植えた。それが育った。新築祝いの記念樹にはちがいない。

今年(2018年)、この次郎柿が生(な)りになった。もう少したつと、さらに甘みが増すはずだ。

2018年11月22日木曜日

スペインの阿部幸洋展

 スペインのラサロがフェイスブックに、現地で開かれている「阿部幸洋展 光(Luz)」の情報をアップした。同時に、ユーチューブに載った現地テレビ局(だと思う)のインタビュー映像=写真=を紹介した。
 阿部はいわき出身で、スペイン中部、ラ・マンチャ地方のトメジョソに住む。そこにアントニオ・ロペス・トーレス美術館がある。

同美術館で4年前、阿部の個展が開かれた。いわき市立美術館の佐々木吉晴館長がプライベートで個展を見に行った。彼によると、アントニオ・ロペス・ガルシア(1936~)というスペインの現代美術を代表する画家がいる。トーレスはその叔父さん。スペイン現代美術の世界で阿部が画家として評価されたからこその、現地での個展だった。

 ラサロは、阿部の奥方・故すみえさんがかわいがっていた近所の子で、35歳になった今は「アート&デザイン」の仕事をしている。「3D」で大きな倉庫のデザインなども手掛ける。すみえさんが亡くなって間もない2010年2月には阿部とともに来日し、わが家へも顔を出した。

 今度の個展も同美術館で開かれている。動画には、阿部のアトリエでの版画制作、展覧会の作品のほか、会場での阿部、ラサロへのインタビューが盛り込まれた。作品のタイトルのひとつがアップされた。「Tiempo 時」。スペイン語と日本語で表示されている。ラサロと2人で付けたのだろう。

ラサロはディズニーのアニメ映画で英語を学習した。日本語は、多少はすみえさんを介して親しんではいただろうが、ちゃんと学んだことはない。が、耳がいいので、8年前の滞日中にもどんどん日本語の語彙を増やした。あいさつ程度の文章は日本語でもできるようだ。

SNSのおかげで、トメジョソでの阿部の日常を垣間見ることができた。10月、いわき市のギャララリーいわき(泉ヶ丘)で阿部の新作展が開かれた。そのときのいわき民報の記事に、「来月、4年ぶりに開催するアントニオ・ロペス美術館の個展で飾る予定の作品も先行披露しており、……」とあった。

スペイン語はさっぱりでも、記事を念頭に置いて映像を見たので、それなりに様子がわかった。

2018年11月21日水曜日

<二点居住>という生活のかたち

 先週末(11月17日)、早稲田大学文学学術院教授で同大地域社会と危機管理研究所長の浦野正樹さんら4人が来訪した。浦野教授らは「原発震災」後、いわきを中心に現地調査を続けている。原発避難民を受け入れている一コミュニティの、8年目の「今」を話した。
 浦野教授とお会いするのは確か、2012年(三回)、2014年(一回)以来、五度目だ。震災の年の暮れ、東京で開かれた催しで教え子のひとりと知り合い、以後、彼女がいわき明星大の客員研究員を務めたこともあって、情報収集を兼ねてわが家へ寄るようになった。その過程で“災害社会学”なる言葉も知った。彼女は、今は東洋大学社会学科助教の職にある。

 12月8日(土)午後2時から、早稲田大学戸山キャンパスで「あれから8年 わたしたちはフクシマを忘れない~<二点居住>という生活のかたち」と題するシンポジウムが開かれる=写真(チラシ)。早稲田大総合人文科学研究センター<現代社会の危機と共生社会創出に向けた研究>部門、および一般社団法人シニア社会学会「災害と地域社会」研究会が共催する。

彼女は3人いる司会進行役のひとりとなり、浦野教授はコメンテーターのひとりとして参加する。それもあって、彼女が水先案内人になって「定点観測」に来たのだろう。

 <二点居住>という言葉に興味を持った。「地域」ではなく「点」。過疎・高齢化対策と連動した「移住・定住・二地域居住」との混同を避けるための「二点居住」でもあるか。

シンポジウムのチラシから引用する。「福島県の原発事故被災地では、帰還政策によって避難指示が解除され、ふるさとに帰ることが可能になった地域が増えてきました」

その過程で「ふるさとに帰還して生活を再建した人もいますが、これまでの長い避難生活を経て、ふるさとに戻るのではなく、避難先など新しい地域を生活拠点とする人もいます。多くの避難者は、『避難先』や『避難元』など二点以上の地域と関わりながら、引き裂かれつつも、広域に分散した生活拠点をつなぎ合わせて生活を組み立てているのが実態です」。

「避難先」の東京都といわき市に生活拠点を持ちながら、避難指示解除後の「避難元」=ふるさと(浪江町、富岡町)にも通っている3人が話題提供者として参加する。「複数の地域と関わる生活の実態と苦難を学び、地域との関わり方、そして社会のあり方について考える」のが狙いだ。

いわきから参加する話題提供者のTさんとは、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわきで開設・運営した交流スペース「ぶらっと」を介して知り合った。司会を担当する助教(当時、院生)とも、シャプラがらみの出会いだった。参加費は無料。希望者はメール(jaas@circus.ocn.ne.jp)か、電話・ファクス(03-5778-4728)でシニア社会学会事務局へ申し込むとよい。お近くの方はどうぞ。

2018年11月20日火曜日

どの「紅葉」を楽しむか

 夏井川渓谷の隠居で土いじりをしていると、そばの県道を行き来する行楽客の話が耳に入る。10日ほど前――。「(ここの紅葉は)こんなものか」。行楽客の「紅葉」のイメージと実際にズレがあったらしい。
 1カ月前にも書いたことだが、夏井川渓谷が錦繍をまとうのは10月中ごろ。ところが、テレビが伝える紅葉情報はカエデだけだ。カエデはそのころ、まだあおあおとしている。カエデの紅葉がピークになるころには、ほかの広葉樹の葉はあらかた散っている。11月も半ばのこの時期、「全山紅葉」を期待して渓谷へやってくると、がっかりする。

 そのカエデも落葉が始まった。おととい(11月18日)、渓谷の隠居へ行くと、庭のカエデの樹下が赤く染まっていた=写真。冬が近づいている。

 この二十数年、夏井川渓谷に通って“定点観測”をして分かったのは、紅葉には二つあるということだ。「前期の紅葉」と「後期の紅葉」、あるいは「非カエデ」と「カエデ」。全体の紅葉を楽しむなら10月の非カエデ、顕微鏡でのぞくようにピンポイントで紅葉を楽しむなら11月のカエデだ。

 一般の行楽客は、おそらくは「全山紅葉」が目当てでやって来る。参考にするのはテレビの「紅葉情報」だろう。カエデ限定で、間違ってはいないが、親切ではない。私がテレビ局のモニターだったら、「前期」はヤマザクラの葉、「後期」はこれまで通りカエデの葉をマークにするよう提案する。カエデ一本で紅葉を表現すること自体、無理があるのだ。

夏井川渓谷の名勝「籠場の滝」のそばに、随筆家大町桂月の歌碑が立つ。「散り果てゝ枯木ばかりと思ひしを日入りて見ゆる谷のもみぢ葉」。この歌を逆から解釈するといい。カエデの紅葉が燃え上がるころには、ほかの紅葉は散って閑散としている。

行楽客のつぶやきがけっこうグサッときたので、どの「紅葉」を楽しむか、メディアにも工夫の必要があることを書いてみた。

2018年11月19日月曜日

ふれあい市場10周年感謝祭

 きのうの日曜日(11月18日)は次々に知り合いと会った。小春日のいい一日になった。
いわきの山里、国道49号沿いの直売所「三和ふれあい市場」=写真=が10周年を迎え、感謝祭を開くというので、朝、山陰にある夏井川渓谷の隠居へ行く前に直行した。

感謝祭は9時に始まった。その前に――と思いながらも、出かけるのが少し遅れた。9時ちょっと過ぎに着いたら、駐車場はすでに満パイだった。

直売所の中に入ると、レジの前に長い列ができていた。列から声がかかった。なんだ、お前も来ていたのか――とは口に出さなかったが、“ミニ同級会”の常連(わが家の水道のホームドクター)が奥さんと並んでいた。山里、直売所、野菜、漬物……。同世代の食の嗜好はたぶん一致している。

品物を選びながら、列に並んでいる同級生と少し話した。周りの人の耳に入るのはしようがない。そうしないと聞こえないほど人波で騒然としている。同じ“ミニ同級会”の常連3人が、1週間のタイ修学旅行へ出かけた。前日の土曜日(11月17日)が帰国日だ。今回はパスしたこともあって、2人で「きのう帰ってきたはず」「そうだった」。また“ミニ同級会”を開いてタイの話を聞かねば――。

フキの油いためや梅干し、キュウリの漬物、ネギなどを買ったあと、サービズのトン汁を口にした。キノコも入っていた。お茶を持ってきた女性を見て、カミサンが声をかける。「シゲヨさん?」。「かしわもち」で知られるシゲヨさんだった。ふれあい市場に農産物を卸している生産者が総出で10周年の感謝祭を盛り上げている。ふだんは「当番でふれあい市場に来ている」そうだ。

「震災後は初めてですよ、顔を見るのは」と私。私のなかでは、ビフォー・アフターの基準は東日本大震災・原発事故だ。それから、国道49号沿いにあるシゲヨさんのかしわもちの直売所や、わが家の近所にいる知り合いの話になった。

震災後、会えずにいて気にかかる人が何人もいる。その一人の「今」がわかった。これも暮らしていくうえでの安心材料になる。

拙ブログで確かめたのだが、2009年の暮れ、シゲヨさんが突然、わが家へやって来た。近くの知り合いの家へ行く途中、かしわもちと白菜2玉、パック入り白菜キムチを持ってきてくれた。白菜はあとで漬けた。甘かった。

シゲヨさんの自宅で石窯ピザ焼きを体験したこともある。彼女にはいろいろ教えられた。「ネギは土付きでいいが、大根は取ったらすぐきれいに洗わないと」「いわきの野菜は三和。三和の野菜はうまいよ」

このあと、隠居へ行って土いじりをし、午後3時には街へ戻ってラトブの図書館へ寄る。エスカレーターで1階まで下りたら、マイクの声が聴こえてきた。いわき芸能倶楽部の古扇亭唐変木さんが落語をやっていた。聴衆にひとり、知り合いがいた。マジックの火の車太郎さんは出番を終えたところだった。マジシャンはずいぶん減量したようだ。

出演者2人としばらく話してから、魚屋さんへ直行した。もうカツオは揚がらなくなったのだろうか。ヒラメとサンマの刺し身を頼んだ。あとで気づいたのだが、店を出る・入る、ですれ違った先客に覚えがあった。知り合いだった。震災後、初めて顔を見た。元気そうでなにより――。

  おっと、忘れていた。渓谷では街へ車で戻る途中、隠居の隣の地区にある陶芸アトリエを訪ねるという高校生の“孫”と母親に会った。“孫”の顔を見るのは久しぶりだ。近々、わが家へ遊びに来る=カレーライスを食べに来ることになった。

2018年11月18日日曜日

♪月光仮面のおじさんは

 晩酌中にテレビのリモコンを押し続けていたら、「月光仮面」に出会った=写真。元主役・大瀬康一さん(81)が出演し、撮影当時の話をしている。BSテレ東の「武田鉄矢の昭和は輝いていた」(金曜日夜)という番組だった。
「月光仮面」は日本のテレビ黎明期、子どもたちが熱狂した最初のヒーローだ。原作者は終戦後、いわきに住んだこともある川内康範(川内潔士)。

わたしたち団塊の世代は昭和30年代前半、テレビ・週刊漫画雑誌の草創期に小学生だった。まだラジオ屋(家電商)にしかテレビがないとき、そこで「月光仮面」を見た。

 若い人にいわきのメディア社会史を伝えるために、月光仮面について調べたことがある。「月光仮面」はまず、月刊「少年クラブ」の昭和33(1958)年5月号に登場する。テレビ番組の制作会社が放映のために企画し、タイアップの掲載誌として棚ボタ式に決まった。うなぎ上りのテレビ人気にあやかり、「少年クラブ」の部数も伸びた。メディアミックスのはじまりだった。

今度の「昭和は~」でも紹介されていたが、原作者の川内康範は「月光仮面」について、こう言っている。「私はおこがましくも、『憎むな、殺すな、赦しましょう』のキャッチフレーズこそは、現代を背負う子供たちに対する、戦争否定の精神を植えつけ基本的な要素であると考えた」(佐々木守『ネオンサインと月光仮面―宣弘社・小林利雄の仕事』筑摩書房)。最初のテレビドラマのポイントはここだろう。

「月光仮面」は昭和33(1958)年2月24日~同34年7月5日、TBSで放送された。主題歌「月光仮面は誰でしょう」はとっくに忘れたと思っていたが、「月光仮面のおじさんは……」とくると、「正義の味方よ 善い人よ/疾風(はやて)のように 現れて/疾風(はやて)のように 去って行く」と脳みそが反応した。

 私は、熱狂するほどではなかったが、小学校に上がる前の弟が仮面をかぶり、マント代わりに風呂敷を首に巻いて、物置の屋根だか塀だかから飛び降りてけがをした。そんな子どもが続出したのではなかったか。

 ついでにいえば、いわきで発行された「夕刊ふくしま」に昭和34年6月11日から翌35年2月5日まで、この「月光仮面」が二度にわたって計182回連載された。

連載に先立ち、作者は社告にこう書いた。「私は、いまから約7年程前に平市や湯本町に住んでいたことがあり、海岸通りの各土地にはたくさんの知人がおります。だから、『夕刊ふくしま』に私の作品を発表することは、第二の郷土である福島とのつながりをさらに深めることになると信じてます。少年少女諸君、どうぞ応援して下さい」。「月光仮面」といわきの縁は深い。

2018年11月17日土曜日

偶然の贈り物

 何度も書いているので、「またか」といわれそうだが――。夏井川で越冬するハクチョウの写真をときどき撮る。
 火曜日(11月13日)の午後2時半ごろ、街からの帰りに堤防を行くと、前方上空にハクチョウの一群が現れ、旋回を始めた。どこかの田んぼで採餌しながら休んだあと、戻ってきたのだ。

ジェット旅客機、電車、沖を行くフェリー。動くものは魅力的だ。これらは焦点を合わせやすいが、飛んでいる鳥は、私のウデでは難しい。でも、ハクチョウは体が大きい。撮りやすい。着水までの様子を撮影できる、またとないチャンスだ。急いで近づき、カシャカシャやった。

 この時期、車で街へいくときには300ミリの望遠カメラを携行する。それで10コマ近く撮ったが、飛んでいるものはほとんどピンボケだった。たまたま着水する瞬間の2コマがなんとか見られる状態だった=写真上・下。
 ハクチョウが休んでいるところは何度も撮っている。しかし、動きがない。動きのある写真がほしい。はばたきでもいい。羽繕いでもいい。離・着水はそれこそ最高の瞬間だが、朝・夕張り付いているわけにはいかない。そこへたまたま午後2時半ごろ、ハクチョウが舞い戻ってきた。

出合い頭のシャッターチャンスは「偶然の贈り物」だ。狙いどおり、なんていうのはおこがましい。たまたまその時間にいわせたからこそ、カメラを向けることができたのだ。いつかはいい写真を――という一念が神様の気まぐれを誘った。

それに、と思う。越冬地のそばに住む女性が、今は「ハクチョウおばさん」をやっている。午後3時ごろ、えさやりするのを見たことがある。ハクチョウたちはえさをもらえる時間が近づいたので舞い戻ったのだろう。

とりあえずピントが合っている2コマを拡大したら、くちばしの黄色がくさび状に伸びていた。オオハクチョウだった。

2018年11月16日金曜日

山梨県立文学館報第106号

 山梨県甲府市の山梨県立文学館で、「歿後30年草野心平展――ケルルン クックの詩人、富士をうたう。」が11月25日まで開かれている。先日、いわき市立草野心平記念文学館へ出かけた際、山梨県立文学館報第106号を見て知った。
 福島の詩人和合亮一さんが「心平さんがいつも隣に」と題するエッセーを寄稿している。毎年何回か、中通りから在来線(郡山駅から小川郷駅まではJR磐越東線)を利用して心平記念文学館へ行くという。

「街から山の中へ、そして川沿いへ。車窓の空の表情が少しずつ変わっていく。雄大な景色とそこに浮かぶ雲が、心平さんの心の世界を見せてくれているように感じる。眺めながら駅弁などを開くと、詩人と並んで食べているような気がしてくる。歓迎されるかのように『背戸峨廊(せどがろ)』と呼ばれ親しまれている美しい渓谷の入り口のあたりを抜けていく。ここは心平さんが名付けた景勝地である」

「背戸峨廊」に、正確に「せどがろ」とルビを振っている=写真。拙ブログで何回も指摘したことだが、誤って広まった読み方「せとがろう」が跡を絶たない。「せどがろ」派が盛り返してきたのはつい最近で、福島県を代表する現役詩人が「せどがろ」派に加わったことは心強い。

 ついでにいえば、夏井川渓谷と背戸峨廊は同じではない。磐越東線から見える渓谷は夏井川渓谷、夏井川本流そのものだ。背戸峨廊は磐越東線江田駅近くで本流に注ぐ支流・江田川。山の陰にあって列車からは見えない。

 最近の私的な関心は、背戸峨廊は「河川争奪」の結果、現在のような姿になったらしいということだ。江田川とは山を挟んで流れる加路(かろ)川は、大昔、水源が江田川の上流にあった。それが河川争奪の結果、江田川に流れを奪われた。

加路川流域の住民はそれを知ってかどうかはわからないが、江田川のことを「セドガロ」(背戸の加路川=裏の加路川)と呼びならわしていた。このセドガロに心平が背戸峨廊という漢字をあて、PRした結果、全国的に知られるようになった。

2018年11月15日木曜日

撮り菌・食べ菌・キャラ菌

 Eテレの「沼にハマってきいてみた」、略して「沼ハマ」は毎週月~水曜日夜の放送だ。先週(11月7日)、新聞のテレビ欄をながめていたら、キノコの文字が目に留まった。晩酌をやりながら、初めて見た=写真下。
 若者向けの番組らしいことは、司会者が若い人なのでわかる。その一人が松井愛莉さん(22)=火・水担当=だった。字幕で知った。いわき民報などの記事で名前は記憶していた。いわき出身ではなかったか。モデル・女優・歌手だという。

沼にハマる――。底なし沼に沈むイメージがあるが、要はナニかにハマる(熱中する)若者を紹介する番組のようだ。きのう(11月14日)は「カレー沼」だった。カレーをつくって食べ続ける女性と、カレーを食べ歩く少年の2人が登場した。ハマり具合がハンパではない。

先週の「キノコ沼」も、高度な研究レベルに達した少年と、キノコグッズに囲まれて暮らす女性が登場した。鉄道ファンは「撮り鉄」「乗り鉄」などに分けられる。キノコにも同じように、「撮り菌」「食べ菌」「キャラ菌」などという分け方があるのだとか。若い世代の「キノコ愛」の一端がうかがえる名づけ(4音略称)ではある。年寄りはつい「バイ菌」を連想してしまうが。

40年余りキノコと遊んできた。長くやっていれば思わぬ発見もある。「キノコ沼」を見た翌日、夕刊のいわき民報がアカイカタケのことを記事にしてくれた=写真右。採取の経緯は拙ブログに書いた通りだが、「人知れず現れ、人知れず消える」菌類の神出鬼没ぶりと色・形の不思議さに、あらためて感じいった。

「キノコの話をしてくれ」。夕刊が届いたころ、メールで依頼がきた。キノコに関しては、一般的な「撮り菌・食べ菌・書き菌」にすぎない。研究者ではないので、キノコそのものの話はできない。その周辺、キノコと人間の関係、たとえば阿武隈のキノコ食文化や、文献にみられる阿武隈のキノコの話ならできるかもしれない。

話をするのはざっと1年後だ。ここは「読み菌」「調べ菌」になって40年簡を振り返るのもいいかなと思っている。

2018年11月14日水曜日

“戊辰落城”の跡をめぐる

日曜日(11月11日)の午前、いわき駅北側の物見ケ岡(旧城跡)でいわき地域学會の巡検が行われた=写真下。駅北口で午前9時に集合――それだけの案内だった。会員を主に10人ほどが参加した。
物見ケ岡は夏井川の支流・新川左岸に位置する段丘だ。江戸時代には磐城平城が築かれた。戊辰戦争で落城したあと、「お城山」はあらかた住宅地に変わった。それでも、城の石垣やクランク状の小道などが残っている。

巡検前日の土曜日、いわきPITで上廣歴史・文化フォーラム「戊辰戦争150年記念講演・講談会」が開かれた。上廣倫理財団が主催し、地域学會が共催した。講談師の神田京子さんが幕末の岡っ引き、「青龍刀権次(ごんじ)」と明治の「炎の歌人与謝野晶子」を口演し、地域学會の夏井芳徳副代表幹事が「いわきの戊辰戦争 六間門の戦い 相馬将監胤真と中村茂平」と題して講演した。

夏井副代表幹事ほかがガイド役を務め、「六間門の戦い」を現地で“体感”する巡検になった。

 いわき駅西側の平跨線橋からお城山の磐城桜が丘高校(旧磐女)へ上る坂は、江戸時代は堀だった。それを埋め立てて道にしたという。その道を境に、東が本丸側、西が六間門側だ。六間門の先、高麗橋(幽霊橋)を渡ると飯野八幡宮がある。さらに、昔は地続きだった寺町へと橋を渡り、欣浄寺にある新政府軍の戦死者の墓石群=写真右=と、良善寺にある磐城平藩の戦死者の墓域を巡った。

 まずは本丸側に残る石垣を見、塗師門跡から城坂門・黒門へと進む。石垣は7年前の東日本大震災で大きく崩れた。まだ修復はなっていない。
スマホならその場で「磐城平城下復元図」「岩城平城内外一覧圖」などと照合できる=写真上。が、私は持っていない。帰宅後、パソコンでこれらの絵図に当たった。独身時代に住んでいたアパートは「城坂門」のところにあった。今もある。「黒門」はその先。魚屋があったところは駐車場に変わったが、後ろはどうやら丹後沢の西のはずれ、「武者落とし」の崖らしい。今度歩いて初めてわかった。

「六間門の戦い」では高麗橋をはさんで、八幡宮そばに新政府軍が陣取った。銃器の性能がまるで違う。新政府軍の銃は飛距離十分だが、平藩の銃は旧式でそこまで届かない。良善寺の山門にも新政府軍の銃弾痕があった=写真左。

良善寺を最後に、坂を下る。城下の古鍛冶~紺屋町~才槌小路~田町をたどって、ラトブ前で解散した。「田町会所」跡や、今は道路になった外堀兼水路に想像をめぐらせる。

さてさて、“現場”を巡った成果か、戊辰の戦いはなんだったのか、江戸城と同じく無血開城はできなかったものか――などと、頭のなかにさざ波が立ってきた。

2018年11月13日火曜日

カエデ紅葉、サクラ落葉

きのう、月曜日(11月12日)の夏井川渓谷――。晴れたり曇ったりの天気に、紅葉目当ての車がポツリポツリとやって来る。
 カエデは紅葉の見ごろを迎えたが、ヤマザクラなどの広葉樹はかなり落葉した。赤・黄・茶と彩り鮮やかだった対岸の森からサクラやツツジの赤が消え、地味な茶系の葉が残るだけになった=写真上。裸木が目立つ。

渓谷の隠居の庭のはずれで土いじりをしていると、そばの県道を行き来する行楽客のひとりから声がかかった。「オジサン、なにつくってるの?」。オジサン? 声の主を見ると、私と同年代かもしれないオジサンだ。「秋まきネギ」「ヘェー」

あとでまた通りがかりながら、「ここに住んでるの?」と聞く。「週末だけね(といっても、きょうは月曜日か)」「ヘェー」。日曜日だろうが月曜日だろうが、そんなことは、そちらのオジサンにはどうでもよかったようだ。渓谷は人里離れたところにある。でも、動物園のサルよろしく人間がいる。先入観と現実のギャップに好奇心がわいただけ、らしい。

朝9時半に土いじりを始めた。芽ネギの根元から落ち葉と草を抜き、白菜に取りついている黒虫・青虫を10匹近く退治した。終わると正午少し前。あっというまの3時間だった。芽ネギ=写真下=も白菜もこれで少しはせいせいしたか。
ネギの苗床は、風が吹けばすぐ落ち葉に覆われる。白菜も隠れていた黒虫・青虫が現れる。また今度の週末、芽ネギと向き合い、白菜の葉をチェックする。その繰り返しだ。

行楽客の目当ては県道沿いのカエデ。ところによっては緑から黄、赤へと変わってきた。最も鮮やかに燃え上がるのは、週末でいえば今度の17、18日か。隠居の近くのカエデに例年、三脚をかついだカメラマンが殺到する。日曜日は特に、朝9時前から人間が県道を行き来する。18日にはなにも予定が入っていない。行楽客が現れる前に土いじりをすませたら、マンウオッチングをしよう。

2018年11月12日月曜日

今年初めての「サンマ刺し」

日曜日に行事が入ると、頭の切り替えができなくて困る。現役時代もそうだった。
「人間と人間の世界」にどっぷりつかってへとへとになった週末、夏井川渓谷の隠居へ行くと、V字の谷や樹木の緑に圧倒されて「自然と人間の関係」に思いが至る。そのなかで土いじりをしているうちに、元気が戻る。
ところが、この秋――。10月下旬からは、28日を除いて日曜日には隠居へ行っていない。平日、気になって、とんぼ返りで様子を見てくるだけだ。

きのう(11月11日)も、いわき地域学會の巡検があって、いわき駅裏側の物見ケ岡(磐城平城跡)を歩き回った。<きょうはオレの日曜日ではない>と自分に言い聞かせて、主催者の一人として参加した。

歩き疲れてクタクタになった。そこへ、巡検担当でもある事務局次長が「11・12月の市民講座開催、会報「潮流」原稿募集の案内チラシを印刷してしまいましょう」といってきた。予定より一日早い。急に親戚の葬式が入ったのだという。それもこなして、さらにクタクタになった。あとはもう、焼酎をグイッとやって、カツオの刺し身をつついて、寝るだけ――。

いつもの魚屋さんへ行ったら、顔を見るなり「カツオ、はずれたー」という。仕入れたのはいいが、さばいたらカネをもらえるようなものではなかった。「(ほかには)なにがあるの」「マグロ、サンマ、タコ、……」。サンマとタコの刺し身にした=写真。

サンマを食べるのは、実は今シーズン初めてだ。カミサンも、かなり前からサンマを焼いて食べたかったようだが、カツオが入荷し続ける限りは「カツ刺し一辺倒」の私に遠慮していたのだろう。

味は? 甘くてうまい。しかし、カツオと違ってボリュームがないから、どんどん数が減っていく。満足感はカツオに遠く及ばない。やはり、カツオが入荷するうちはカツオ刺しで――を再確認した。
 
きょうは曇りだが、あとで夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをする。一日遅い“マイ日曜日”だ。カエデの紅葉が見ごろだろう。

2018年11月11日日曜日

「週刊だいどころ」とは妙

いわき市立図書館のホームページに収められている「「地域資料のページ」が11月1日、拡充された。家にいながら閲読できる明治・大正・昭和の地域新聞が、18紙から36紙に倍増した。新資料のうち東北日日新聞を真っ先に読んだ話を、先日、ブログに書いた。
 昭和4(1929)年8月、ドイツの飛行船「ツェッペリン伯号」がシベリアを横断し、日本の樺太・北海道・東北を南下して、19日、霞ケ浦(土浦市)に着陸する。いわきでは、東北日日新聞が平町(現いわき市平)の東端、神谷村の上空を小名浜方面へ向かって山沿いに飛行したことを伝えている。
 
ほかに磐城調査新報・磐城立憲新報・平新聞(福總新聞)・磐城中正新聞などがある。現在唯一の地域紙いわき民報とはライバル関係にあった戦後の常磐毎日新聞も読める。2、3日、時間をつくってはこれらの新聞をスクロールして、見出しを読んだ。

そのなかから“古新聞シリーズ”9として、「週刊だいどころ」=写真=を取り上げる。題名に引かれた。

昭和30(1955)年10月8日に創刊された。題字の下に「毎週土曜日発行」、前後に「石城地方で一番発行部数が多い」「発行所 だいどころ新聞社 平市新川町」とある。第2号に発行人の名前(金子源三)が載る。婦人層を対象に、料理・子育てなど日々の暮らしに役立つ情報を提供するのが狙いだったようだ。今でいう情報紙だろう。

写真で紹介した第15号(昭和31年2月12日付)は、しかし“台所情報”と違って、「いばらの道こえて 人生勉強」を特集している。平の経済人5人を取り上げた。ひげの世界館主鈴木寅次郎に引かれた。記事後半、人生も後半のくだり――。

「大正15(1926)年秋、17年にわたる茶屋商売の足を洗い、当時経営不振の映画館“有声座”を引(き)受けた。競争相手の平館が20銭なら、こっちは10銭。型破りの興行で客足を奪い、平日夜1回限りの上映を連日昼夜2回立てに改革、林長二郎の『雪之丞変化』、松竹不朽の名作『愛染かつら』などで馬鹿当(た)りをとった」

 終戦間際に試練が待っていた。「昭和20(1945)年7月、強制疎開で館は跡かたもなく取(り)壊され、1カ月過ぎて終戦。『よし、もう一度やるぞ』。悲運のドン底から起(た)ち上(が)り、翌21年10月7日、世界館として復活した」。今のポレポレいわきにつながるいわきの映画館史の重要なトピックだろう。これだけでも「週刊だいどころ」を読んだかいがある、というものだ。

2018年11月10日土曜日

地図に魅せられて

 このところ、気になる場所の地図を眺めては、いろいろ情報を読み取る訓練をしている。そもそも地図記号がよくわからない。にわか勉強ながら、地図の本をそばにおいて、ああでもないこうでもないとやっている。
 刺激になったのは、いわき地域学會の8月の市民講座。事務局次長の渡辺剛広幹事が「地図の見方」と題して、ネット(主にスマホ)で利用できる地理院地図のほか、地理情報システムや地図アプリなどについて解説した。地図もまた情報の宝庫だと知る。

「またかよ」と言われそうで恐縮なのだが、吉野せいの作品集『洟をたらした神』は、いわき市好間町北好間、菊竹山腹の開拓集落が主な舞台だ。

一帯の地質や土壌について、せいは次のように記している。「土は粘土まじりのごろごろです。掘り散らかされてある石も取り集めねばなりません。藪のうちは解らなかったが、平地にして見ると乾地湿地の無様な高低がはげしく目立ちます」(「春」)「親芋からにょきにょきと分かれてのび出した子芋の間へ、じっくり食い込んだ粘土質の重い土」「目の前に広い赭土(あかつち)の畑が沙漠を見るように無言で続いている」(「赭い畑)

 科学的・客観的にはどうか。福島県農地計画課が編集・発行した『土地分類基本調査 平』(1994年)の地図に当たる。すると、菊竹山一帯は①地形分類=中位砂礫段丘②表層地質=礫・砂・泥(中位段丘堆積物)③傾斜区分=傾斜15度以上20度未満④土壌=乾性褐色森林土壌(菊竹山頂周辺)/適潤性褐色森林土壌(山腹南東の西側)/黄色土壌(細粒黄色土=吉野家の周辺)⑤土地利用現況=集落と広葉樹林――とあった。

 詳しい説明は避けるが、菊竹の段丘は13万年前に隆起によってできた、菊竹山腹の表層地質には粘土が含まれている、菊竹は緩傾斜に近い、地味に乏しく、生産性が低いため、耕地には不向き、ということがわかった。吉野夫妻は長年、「やせ土」と闘ってきたのだ。作品のなかに描かれた土壌や地質は、県発行のこの地図からも裏付けられる。

では、わがふるさとの「アカジャリ(赤砂利)」はどうか。図書館から同じシリーズの『常葉』編を借りてチェックした。

アカジャリは南東の大滝根山を水源とする大滝根川が北西に流れて来て、田村市常葉町内でΩ状に曲流=写真(グーグルアース)=した下流(写真でいうと左側)の屈曲部にある。右岸は水田。左岸は、10メートル以上はあろうかという砂利の断崖だ。そこは好間・菊竹と同じ中位砂礫段丘で、土は細粒褐色森林土壌・粘質だという。「アカジャリ」といわれるワケがやっとわかった。「断層」ではなく、段丘であることも。

かつて、小学生は夏休みにこのアカジャリで水浴びをした。先日、中学校の同級会が開かれ、町内の小学校出身者が「アカジャリと(そこにあった)『坊主石』は、今どうなってる?」と町在住者に聞いていたが、答えはあいまいだった。すでに暮らしから遠い存在になっているのだろう。

さて、また別の話に移る。あした(11月11日)は「地図の見方』の実践編、地域学會の巡検がいわき駅周辺で行われる。

磐城平城が駅裏の物見ケ岡にあった。スマホを持っている人は地図アプリを利用し、持っていない人でもそれを見せてもらいながら、平城への登城ルートや戊辰戦争の様子などを現地で体感できる。あした午前9時、いわき駅北口集合で、参加費無料で実施する。興味のある方はぜひ一緒に“登城”しませんか。

2018年11月9日金曜日

石に刻む怖さ

 車でいわき市南部へ出かけた帰り、あるところで信号が赤になった。そばの石材置場にたまたま目をやると、「水徳六訓」と題する碑があった=写真。水鳥・川・海・雨だれ……。「水」写真コレクターなので、思わずパチリとやって、データをパソコンに取り込んだ。
「あらゆる生物に生命力を与えるものは水なり」「常に自己の進路を求めて止(や)まざるは水なり」などと、水の特性にからむ文章が彫られていた。

その会社の社訓だろうか? 社長の人生訓だろうか? 硬いものを扱っている商売だが、企業としては、あるいは個人としては水のように融通無碍な生き方をしたい――そんな思いが込められている? ネットで調べたら、原作者として大物右翼(故人)の名前が出てきた。

文章のなかに1カ所、直したい文字(助詞)があった。といっても石だ、消しゴムで消して書き直せるようなものではない。

 石に文章を刻む怖さを、先日、知った。頼まれて撰文原案を直し、「あとはそちらでどうぞ」と言って渡した。それが甘かった。文法的な間違いはない。誤字があるわけでもない。あとで付け加えられた部分だけ、文章のリズムが違っていた。

私は舌頭で音読しながら文章のリズムをととのえる。それが崩れた。たとえれば、同じペースで歩いていたのが、そこだけ急につかえて足踏みさせられたような感じ。碑文を読んだ人は、そこまでは気づかないかもしれない。が、文章づくりにかかわった人間としては、詰めの甘さに落ち込んだ。

 記者をやっていたので、誤字・誤植があると穴の中に入りたくなる。テレビ・ラジオと違って、紙媒体は紙がある限り、誤字・誤植も残る。石に刻まれたものは紙より恐ろしい。100年、200年と人の目にさらされ続ける。文章のリズムもそうだろう。

石に刻む文章を扱っている、という自覚が足りなかった。撰文を引き受けた以上は最後の最後まで責任を負うべきだった。同じリズムで通すべきだった。そうすれば、より完成度が上がり、後味もよかったのに。写真に撮った碑文を読むたびに脂汗がにじむ。

2018年11月8日木曜日

芽ネギと11月の蚊

 夏井川渓谷にある隠居の菜園に苗床をつくり、三春ネギの種をまいた。それでも半分以上余ったので、育苗トレーに埋めたのを自宅の軒下に置いた。ほぼ1カ月たった今、芽が7センチほどに伸びた。
 週に1回、隠居へ行って見るだけだったのが、今年(2018年)は毎日観察できる。それでわかったのだが、芽は“白い線虫”状になってあらわれる=写真上。それがすぐ、日光を浴びて緑色に変わる。

 二十数年見てきた芽生えの記録――。種は地中2、3ミリのところで眠っている。黒い殻を破った芽(根と茎の部分がある)はいったん上向きに伸び、やがて根の部分が屈曲して下へ、下へと向かっていく。茎は屈曲した状態で上へ伸び、ヘアピン状のまま地上に現れる(“白い線虫”はこの最初期の段階)。

 不思議なのは、土のふとんをかぶった黒い種がまた、茎に引っ張られて地表に出てくることだ。初期の芽ネギは、ポヤポヤの“緑毛”の先端に黒い殻をのせている=写真下=ために、「7」あるいは「?」のように見える。次の段階には黒い殻が脱落し、茎も根もピンと一直線になる。
 さて、と。ここからは11月の蚊の話――。朝9時前後、自宅で歯を磨きながら、かがんで芽ネギの様子をチェックする。と、飛び交う虫がいる。11月2日に手の甲をチクリとやられた。蚊だった。11月に入って蚊に刺されたのは初めてだ。

 30年余に及ぶ“定点観測”の結果として、わが家では毎年、5月20日前後に蚊が現れて人間を刺し始める。姿を消すのは10月20日過ぎ。ところが、4、5年前から11月に入っても、耳もとでブンブンやっている。11月に刺されたら、わが家では“歴史的な大ニュース”だ。その大ニュースになった。

 おととい(11月6日)は夜、茶の間でカミサンが手の甲をピシャッとやったら、赤い血が広がった。やはり蚊だった。(日中活動するのはヤブカ、夜はイエカだという)

 テレビでは、今年の夏は記録的な猛暑だったため、蚊もげんなりして活動が鈍った、それで蚊取り線香の売り上げが減った、というニュースを伝えていた。酷暑はともかく、地球温暖化が進んで、産卵~孵化(ボウフラ)~蛹~羽化(成虫のメスは吸血)のサイクル期間が延び、11月に入っても飛び交うようになったか(けさも現れた)。暦の上ではきのう、立冬だった、というのに。