2018年11月14日水曜日

“戊辰落城”の跡をめぐる

日曜日(11月11日)の午前、いわき駅北側の物見ケ岡(旧城跡)でいわき地域学會の巡検が行われた=写真下。駅北口で午前9時に集合――それだけの案内だった。会員を主に10人ほどが参加した。
物見ケ岡は夏井川の支流・新川左岸に位置する段丘だ。江戸時代には磐城平城が築かれた。戊辰戦争で落城したあと、「お城山」はあらかた住宅地に変わった。それでも、城の石垣やクランク状の小道などが残っている。

巡検前日の土曜日、いわきPITで上廣歴史・文化フォーラム「戊辰戦争150年記念講演・講談会」が開かれた。上廣倫理財団が主催し、地域学會が共催した。講談師の神田京子さんが幕末の岡っ引き、「青龍刀権次(ごんじ)」と明治の「炎の歌人与謝野晶子」を口演し、地域学會の夏井芳徳副代表幹事が「いわきの戊辰戦争 六間門の戦い 相馬将監胤真と中村茂平」と題して講演した。

夏井副代表幹事ほかがガイド役を務め、「六間門の戦い」を現地で“体感”する巡検になった。

 いわき駅西側の平跨線橋からお城山の磐城桜が丘高校(旧磐女)へ上る坂は、江戸時代は堀だった。それを埋め立てて道にしたという。その道を境に、東が本丸側、西が六間門側だ。六間門の先、高麗橋(幽霊橋)を渡ると飯野八幡宮がある。さらに、昔は地続きだった寺町へと橋を渡り、欣浄寺にある新政府軍の戦死者の墓石群=写真右=と、良善寺にある磐城平藩の戦死者の墓域を巡った。

 まずは本丸側に残る石垣を見、塗師門跡から城坂門・黒門へと進む。石垣は7年前の東日本大震災で大きく崩れた。まだ修復はなっていない。
スマホならその場で「磐城平城下復元図」「岩城平城内外一覧圖」などと照合できる=写真上。が、私は持っていない。帰宅後、パソコンでこれらの絵図に当たった。独身時代に住んでいたアパートは「城坂門」のところにあった。今もある。「黒門」はその先。魚屋があったところは駐車場に変わったが、後ろはどうやら丹後沢の西のはずれ、「武者落とし」の崖らしい。今度歩いて初めてわかった。

「六間門の戦い」では高麗橋をはさんで、八幡宮そばに新政府軍が陣取った。銃器の性能がまるで違う。新政府軍の銃は飛距離十分だが、平藩の銃は旧式でそこまで届かない。良善寺の山門にも新政府軍の銃弾痕があった=写真左。

良善寺を最後に、坂を下る。城下の古鍛冶~紺屋町~才槌小路~田町をたどって、ラトブ前で解散した。「田町会所」跡や、今は道路になった外堀兼水路に想像をめぐらせる。

さてさて、“現場”を巡った成果か、戊辰の戦いはなんだったのか、江戸城と同じく無血開城はできなかったものか――などと、頭のなかにさざ波が立ってきた。

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