2018年12月2日日曜日

ズリ山が住宅団地に

 吉野せいの短編「水石山」に、「炭鉱のまち」から「ベッドタウン」へとカジを切る前の、昭和30(1955)年ごろの内郷市(現いわき市内郷)の様子が描かれている。
せいの自宅は好間村(現いわき市好間)の菊竹山にある。「村を横ぎり、鬼越(おにごえ)峠の切り割りを越えて隣町に出たが、いつか見た高台の広い梨畑地区は住宅団地に切りかえられはじめて、赫(あか)い山肌が痛ましくむき出していた」。半年前にも拙ブログで取り上げたが、鬼越峠は北の好間村と南の内郷市を結ぶ。

「いつか見た高台の広い梨畑地区」とはどこだろう。鬼越峠を下ったあと、せいは「どこをどう歩いたのか。目当てもなく憤りみたいなものを抱えただけで、出来るだけ人の通らぬ田圃を辿りとある川岸の細い堤防に出た」。ヨシがいっぱい生えた川からはもうもうと湯気が立っている。

内郷では炭鉱全盛期、地下の温水をポンプアップして、夏井川の支流・新川に排湯していた。「川岸」が新川べりであることは容易に想像できる。

 鬼越峠と新川を結んだラインを車で通ってみた。内郷を代表する住宅団地といえば高坂だが、そこは新川を上流の方へ進まないと見えない。それよりなにより高坂団地は、昭和30年どころか同36(1961)年ごろにはまだ影も形もなかった。

 市内郷支所に、昭和36年秋、内郷市街を空撮した大型写真パネルが飾られている。ズリ山のところに「現・高坂二丁目」、東隣の丘陵地に「現・高坂一丁目」と、ラベルが張ってある。団地の造成工事が始まるのはその年以降ということになる。

 鬼越峠と新川を結ぶライン沿いで梨畑があった地区は? 高坂にもあったが、その東の御台境(鬼越峠を含む一帯)にもあった。昭和7(1932)年の古新聞に、御台境に梨泥棒が現れたが、梨農家が見張っていて捕まえた、という記事が載っている。それでわかった。

グーグルアースによると、丘陵の一角と思われる場所には集合住宅の御台団地がある。同団地はいつ造成されたのだろう。高坂団地に先行するとしたら、せいが見たのはこの団地の造成現場か――。そんなことを思いめぐらしていたときに、いわき総合図書館で平成30(2018)年度前期常設展「鳥瞰(ちょうかん)図にみる『合併前のいわき』――磐城・勿来・常磐・内郷・四倉」が始まった。6月26日~11月25日が会期だった。

ポスターとチラシに、内郷市役所が昭和32(1957)年に発行した「内郷市鳥瞰図」が使われている。ズリ山と東隣の丘陵の関係が一目瞭然だ=写真。せいが昭和30年に見た団地造成現場は、高坂ではないことがこれからもわかる。「展示終了後、廃棄するならほしいのだが」と館長氏にお願いしていたら、1枚確保してくれた。これもリサイクルの一環だろう。

せいの「水石山」を読み解くうえでは欠かせない“資料”だ。ときどきポスターを眺めてはあれこれ想像をめぐらせて楽しんでいる。

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