2019年1月14日月曜日

映画「喜びも悲しみも幾歳月」

 映画「喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)」は、昭和32(1957)年に公開された。阿武隈高地の山里で見たのは、公開から1年ないし2年たってからではなかったか。
 昭和30年に小学校に入学した。年に1回か2回、「映画鑑賞教室」(たぶんそういう名称だった)が開かれた。児童が隊列を組んで町の映画館へ出かけ、映画を見た。ディズニーの漫画映画「空飛ぶゾウ ダンボ」は低学年のときに、「喜びも悲しみも幾歳月」は高学年のときに見た記憶がある。

町に映画館が2館あった。実家は床屋で、知り合いの映画館主から頼まれて店にポスターを張っていた。おかげで、学校の映画鑑賞教室とは別に、小学校の高学年のときには、ちょくちょく映画を見に行った。東映時代劇の若いスター、中村錦之助のファンになった。

「喜びも悲しみも幾歳月」は別の映画館で上映された。主演の高峰秀子・佐田啓二と、錦之助の弟で息子役の中村賀津雄の名前を脳裏に刻んだ。

 映画の原作は、田中きよさんの手記「海を守る 夫とともに二十年」。夫がいわきの塩屋埼灯台長だった昭和31年、雑誌「婦人倶楽部」に掲載された。これが映画監督木下恵介の目に留まった。田中さん夫妻は退職後、いわきをついのすみかに選んだ。各地の灯台を勤務したうちで、いわきが一番住みやすかったからだった。

 その映画がきのう(1月13日)、いわきPITで上映された。劇場へ出かけてこの映画を見るのは、それこそ60年ぶりだ。いわきロケ映画祭実行委員会が「イワキノスタルジックシアター」第3弾として企画した=写真(チラシ・チケットなど)。第1弾「洟をたらした神」のときに実行委員会に加わった縁で、詩人山村暮鳥と塩屋埼灯台の小文を書いた。招待を受けて夫婦で見に行った。

 夫婦愛、家族愛の究極の姿を描いているだけではない。戦時下の総動員体制を描写することで逆に平和の大切さをも説いている――今度、それを痛感した。先の太平洋戦争で殉職した職員を、灯台の映像とともに追悼するシーンがある。塩屋埼灯台がこのときだけ、空撮で映し出された。映画の最後のシーンのような記憶があったが、違っていた。2部構成のうち、1部の終わりのころのシーンだった。

塩屋埼灯台は明治32(1899)年12月15日に初点灯をした。今のようにまっ白い「一本の指」(暮鳥)ではなくて、下から白・黒・白の縞模様だった。

 この灯台は昭和13(1938)年11月5日に発生した福島県北方沖を震源とする地震で大破し、爆薬を使って解体される。鉄筋コンクリート造りの2代目は1年半後に完成したが、終戦間際の昭和20(1945)年6月5日、爆撃機によりレンズが大破、8月10日には艦載機の攻撃を受けて職員一人が殉職した。

 そして、東日本大震災。大地震でガラスが全壊するなどの被害に遭い、応急的にLED灯器で小さな光を届けていたのが、およそ9カ月後の11月30日夕に復旧した。

初点灯をしてから、今年(2019年)でちょうど120年。偶然にも、ノスタルジックシアターで「喜びも悲しみも幾歳月」の上映企画がかたまった段階で、灯台を管理する福島海上保安部とコンタクトがとれたという。

 上映会では冒頭、同海保の次長氏があいさつを兼ねて灯台の色や「埼」という字のミニ解説をした。

塩屋埼灯台の「埼」が、なぜ「岬」や「崎」の字ではないのか。海図では「埼」に統一されている。呼び方も濁らない。つまり、「塩屋埼灯台」は「しおやさきとうだい」と呼ぶという。灯台の色が縞模様だったりするのも濃霧のときにわかりやすくするためだとか。塩屋埼灯台は確かに夏場、霧に包まれることが多い。初代の灯台が縞模様だったわけが理解できた。この“豆知識”だけでも見に行ったかいがあったというものだ。

田中さん夫妻の三女、作山葉子さんが塩屋埼灯台の受付をしている。映画終了後、作山さんにインタビューした特別映像「ロケ地の今を巡る“イワキノスタルジックリポート”」が流された。この映像で、映画が、田中さん夫妻がよりいっそう身近なものに感じられた。

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