2019年1月7日月曜日

「十中八九」5周年記念ライブ

【長文です】ステージにメンバーが勢ぞろいする、演奏と踊りが始まる、ときどきヴォーカルが加わる――。
絵を見る。音楽を聴く。でも、その絵や音楽の意味について、「コミュニケーション」を図ろうとは思わない。まずは体が反応するかどうか、具体的には鳥肌が立つかどうか。立てば「バイブレーション」(共振・共感)がおきた証拠。久しぶりに背中がゾクゾクした。

いわきの総合エンタテイメントバンド「十中八九」が結成5周年を迎え、土曜日(1月5日)夕方、いわき市平のいわき芸術文化交流館「アリオス」で記念ライブを開いた=写真。

暮れに、頼まれて同バンドのウェブサイトに文章を書いた。次のような内容だった(文章中に出てくる「ダンサー」は大学生と高校生の“女子孫”の母親)
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「まじめ」はつまらない、「不まじめ」は論外だ、「まじめ」も「不まじめ」も超えた第三の道、「非まじめ」でいこう――。20代後半に東工大の先生が書いた『「非まじめ」のすすめ』を読んで、そう決めた。非まじめを別の言葉でいうと、前例にとらわれない、新しいことをやってみる、自由に発想する、好奇心を持ち続ける――だろうか。

ダンサーにもらって聴いた「十中八九」のCDは、私のなかではまぎれもなく「非まじめな祝祭」だった。ふたつ、例を挙げる。

ひとつ。「蛙のうた~るるる葬送」は、いわき出身の詩人草野心平の詩にメンバーのひとりが、「骨太なジャズ・ファンク調が基調となる」(佐藤英輔)曲をつけた。

「まじめ」な尺度でいうと、心平クラスの詩作品は荘厳な合唱曲になるのが一般的。それでは当たり前すぎておもしろくない。新しい曲想で心平詩をころがそう――という「非まじめ」な愛が、この曲には感じられる。俳句でいう「二物衝撃」。この歌の場合は「異物衝撃」。詩とジャズ・ファンク。それで、今まで経験したことのない火花=音楽を散らす。

もうひとつ。「ブルボンじーちゃん」は、心平流の「無礼と率直は違う」という尺度でみると、最初は「無礼」=不まじめに近い印象だった。ところが、「ブルボンじーちゃん」の孫がメンバーのひとりだと知って、印象は「率直』に変わった。背景まで視野に入ることで、「不まじめ」ではなく「非まじめ」な曲になった。孫もまた知り合いだ。

「十中八九」の5年の歩みを振り返る文章を読んだとき、わが「非まじめ」観が間違っていないことを確信した。①自分の好きなもの、大切にしているものを、自由に表現してみること②互いの音を聴くこと、動きをみること、感じること③互いがいきいきと存在できる場を一緒につくること――。自由に、しかし協働して表現する。

これって、こだわってもとらわれない、自由に発想する「非まじめ」と同根ではないか。だから曲が成り立つ背景も含めて、猥雑で面白い、かわいくて楽しい、ハチャメチャな“いわき愛”が生まれた。

そう、「十中八九」は、普通に働き、暮らしている隣人が、まじめな日常からハチャメチャな非日常へとワープする非まじめさが魅力なのだ。しかも、このバンドは自己増殖をしているらしい。このごろは若いビートボクサーや弁護士のベリーダンサーの顔も見える。この2人とも震災後、知り合いになった。
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「十中八九」はただのアマチュアバンドだ。しかし、この「ただの」が「ただもの」ではないところまで進化(深化)していた。

 最初のCDでは確かめられなかったが、一人ひとりの技術の確かさが記念ライブのソロでわかった。ドラマーは、ソロに入るとそれこそ酸欠で失神しそうになるくらいに手足を動かし続けた。苦悶の表情が客席からも見えた。その真摯さに思わず熱いものがこみ上げた。

 曲もおおかたはいわきに材を取ったオリジナルだ。CDで耳なじみの「フタバスズキリュウ」。これは「十中八九」の代表曲、いや名曲だと、私は思う。イントロが始まると、つい体が動きだす(何を隠そう、私も10代後半にはベンチャーズのコピーバンドをやり、ダンスホールへ行ってツイストを踊る“不良少年”だった)。

「中の作の夜は更けて」はムード歌謡。草野心平の詩「玄玄天」につけた曲は、童謡と歌謡曲の中間、NHK「みんなのうた」に採用されそうなメロディー。いやはやいろんな曲調の音楽が続く。

 ダンサーも、ひとりはアメノウズメとはこれかと思わせるような腰のひねりを、ひとりはアールヌーボーの世界から躍り出たような衣装と踊りを披露した。

 ――「十中八九」は、管弦の盛んないわきだからこそ生まれた市民バンドだ。市民バンドが市民のために休みなく演奏すること十数曲、2時間半余。この長丁場を私は飽きることなくバイブレーションし続けた。翌日も一日、余韻にひたった。

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