2019年6月30日日曜日

アニメ映画「薄暮」の地元では

 見ていないアニメ映画をうんぬんするのは気が引ける。が、舞台になったところが“地元”なので、いろいろ情報が入ってくる。それを伝えるのも一興かと思う。
 最初は小学校の孫から。父親に連れられて山の陰の下片寄(しもかたよせ)へ行って来た、という。「ハクボ」、と使い慣れないことばも口にする。片寄がアニメ映画「薄暮」の舞台であることを、それで知った。

 先週木曜日(6月27日)の夜、青少年育成市民会議の神谷(かべや)支部総会が公民館で開かれた。終わって、公民館長がチラシを見せながら、「薄暮」を紹介した。アニメ映画製作に協力したいわき市内の団体がチラシを置いていったそうだ。

 神谷は、旧国道6号(現国道399号)と旧々国道を幹線道路とする鎌田・塩・上神谷・中神谷西・同南・同北のほか、ひとつ山陰の上片寄・下片寄の8行政区からなる。旧神谷村である。

 上・下片寄は平市街の裏山、石森山(224メートル)の南東に広がる農村だ。下片寄は上片寄の下手、東西にのびる標高90~70メートルほどの丘の間に位置する。上片寄の山の中腹には私立昌平中・高校がある。毎年、そこで神谷地区の球技大会が開かれる。

 公民館長が紹介したチラシに、山と家と水田を背景にした「下片寄バス停留所」が描かれている=写真。高校生が主人公のアニメ映画では、高校と合わせて重要なスポットらしい。このバス停が紹介されたとき、苦笑が広がった。

 現実には、下片寄バス停はない。上片寄の学校と、主にいわき駅前を結ぶスクールバスがあるだけだ。しかし、アニメのバス停を目指して宮城や山形ナンバーの車がやって来る。映画が公開されて、きょう(6月30日)で10日。会合では、「聖地巡礼」がこれからさらに熱を帯びてくるのではないか、野菜の直売でもしたらどうだ――といった軽口まで飛び出した。

 石森山への行き帰りや、知り合いの家に用があるとき、よく上・下片寄を通る。一帯はどこにでもある農村かもしれないが、ほっこりするような景観が保たれている。その風景がどんなふうに描かれているのか、興味がある。いわき駅前のポレポレいわきでは、きょうは、午後2時50分から上映される。朝から雨。夏井川渓谷の隠居へ行ってもやることがない。骨休めを兼ねて出かけてみようかな。

2019年6月29日土曜日

サクラメントの娘さん

 カミサンの同級生が、アメリカ西海岸、カリフォルニア州のサクラメントに住んでいる。その娘さんが母親の故郷のいわき市へやって来た。
別の同級生の母親が今年(2019年)2月18日、満100歳の誕生日を迎えた。カミサンが花束を贈った。ほかにも花束が届いていた=写真。サクラメントの娘さんがその家を訪ねるというので、招集がかかった。運転手を兼ねて出かけた。サクラメントの娘さんからみると、祖母―父母―本人の世代がそろったことになる。

 娘さんは、日本のどこにでもいそうな若い女子の顔立ちをしている。日本語を話し、立ち居ふるまいも日本人と変わらない。でも向こうでは、家のなかで日本人(父親も日系人)、外ではアメリカ人として暮らしている。英語が母語のバイリンガルだ。

 彼女は、いわきで親しくしていた母親の友達に、向こうでの近況を語った。いわきの友達はアメリカへ嫁ぐ前の母親の様子を話した。

 それぞれの“近況報告”がすんだあと、彼女もよく知っているカリフォルニア米の話になった。「コクホーローズ」は、現いわき市小川町出身の「ライスキング」国府田敬三郎(1882~1964年)が育てた。「いわき出身だよ」というと、彼女は握りこぶしをつくってガッツポーズをとった。初めていわきとのつながりがわかったのかもしれない。

 それから、アメリカの詩人ゲーリー・スナイダー(1930年~)の話をしたかったのだが、名前が出てこない。「あれ、あれ、あのアメリカを代表する……」で終わってしまった。それを察して、フロストとかギンズバーグ、あるいはディランといってほしかったが、詩人の名前はついに出なかった。

 スナイダーの詩集『絶頂の危うさ』(原成吉訳=思潮社刊)は妻の故キャロル・コウダにささげられた。キャロルの母はジーン。ジーンは日系アメリカ人で、カリフォルニア州ドス・パロスで農業を営んでいた日系二世のウイリアム・コウダと結婚し、メアリーとキャロルをもうけた。つまり、キャロルは敬三郎の孫ということになる。

 こんなこともあった。11年前に会社を辞めたとき、サクラメントから手紙が届いた。中に入っているカードを取り出して開けると、急に英語の歌が始まった。英語のメッセージのほかに、日本語で「退職おめでとうございます」とあった。

英語の歌は意訳すると、こんな感じだった。「新しいダンスを始めるときだ/新しいリズムを学ぶときだ/新しいステップを学ぶときだ/今が最高なんだから」。要するに、人生を楽しみなさい――そういう意味なのだと思った。だから、「ご苦労様」ではなくて「おめでとう」。

この11年の間には原発震災があった。それでも毎日、新しいリズムで暮らしている。サクラメントの娘さんに会い、母親からの励ましを思い出して、また元気が出た。

2019年6月28日金曜日

草野心平と吉野せい

いわき市教育文化事業団は昭和53(1978)年、いわき市の埋蔵文化財や古生物の発掘調査と、いわき市史編纂(へんさん)事業を手がける組織としてスタートした。昨年(2018年)、設立40周年を迎えたことから、記念論集(研究紀要第16号)が発刊された=写真。同事業団の評議員をしているので、事務局から恵贈にあずかった。
同事業団が指定管理者になっている、いわき市立草野心平記念文学館や考古資料館、生涯学習プラザなど9施設の学芸員ら13人が11本の論考を寄せた。個人的には「資料紹介 吉野せい・草野心平書簡翻刻―吉野せい『暮鳥と混沌』刊行に至る経緯を解く資料として―」(長谷川由美)に興味を持った。

同文学館が所蔵するせい差し出し9通、心平差し出し21通の封書・はがきを翻刻した。「せいの最初の単行本『暮鳥と混沌』(歴程社 昭和46年10月)刊行に至る経緯、作品には描かれなかった心平の励ましや助言、せいの直截な心情などを読み解く資料」だ。

これまで断片的にはがきや封書は紹介されていたが、『暮鳥と混沌』、次の『洟をたらした神』(昭和49年11月初版)刊行に至る経緯がよくわかる構成になっている。

せいのはがきに「事件」ということばが出てくる。『洟をたらした神』が反響を呼んで、同50年春、田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。その前後に、マスコミが取材に殺到する。そのことを指しているのか、いや違うだろう、というのが、翻刻と「註」を読んでの私の感想だ。

肝心のはがきの一部――。「おはがきは疾(と)うに頂いておりました 御返事を書くひまがなかったのです 自分の大嫌いな マスコミとやらに 追いまくられて 疲れて辛うございました。/自分では考えてもいなかった 今度のような事件が持ち上ってしまって 心中 途方に暮れています。」

 取材攻勢にあったことも「事件」には違いない。が、それとはまた別の問題が持ち上がっていた。

心平にあてて、せいが前掲はがきを投函(昭和50年3月28日消印)する6日前の、心平の日記(昭和50年3月22日)。

「津曲さんからデンワ。『洟をたらした神』のうち『なくなった紙幣』が土地で問題になり、名誉キ損だと言はれたりして目下寝こんでゐるらしく、その分だけ取除いて欲しいと言ってゐる由。(略)田舎はうるさいから私も同意し、その事を大宅壮一ノンフィクション賞の委員に知らせて了解を得て欲しいと答える」

津曲さんとは発行元の彌生書房社長、「なくなった紙幣」は、正確には「飛ばされた紙幣」だ。『洟をたらした神』は最初、17篇を収めて刊行された。しかし、その後「飛ばされた紙幣」を削除した普及版が出され、現在の文庫本もそれを踏襲している。「事件」とは、このトラブルを指しているのではないか。

ま、それはさておき、「自分の大嫌いなマスコミとやらに」というくだりを目にするたびに、同年3月7日、田村俊子賞受賞の報を受けてせい本人を取材した私としては、胸にさざ波が立つ。

せいは、夫・混沌の死後、自分から願い出て、地元のいわき民報に「菊竹山記」というタイトルで、随筆を連載している。なかに、『洟をたらした神』に収められた作品の原形がいくつかある。「大嫌いなマスコミ」(いや、マスコミと思わなかったのかもしれないが)を利用しているではないか、そのことばとの整合性はどうなのか――という思いは消えない。

しかし、そのことも含めて、『洟をたらした神』を読み込み、注釈づくりを続けているためか、せいの内面をいくらか想像できるようになった。自尊、剛毅、緻密。翻刻された書簡からは、自他に厳しいせいの性格の一端が読み取れる。

2019年6月27日木曜日

6月の生物ごよみ

 まだかな、まだかな――。6月は7日の梅雨入り後、夏井川渓谷の隠居へ行くたびに、ホタルブクロが咲いているかどうかをチェックした。先の日曜日(6月23日)、やっと道端に咲いているのを確認した。
  いわきの平地の庭で咲き出したのは、5月の終わりから6月初めにかけて=写真上。標高200メートルの渓谷で咲くまでには、3週間ほどの“時差”があったことになる。

 フェイスブックで若い仲間が今年(2019年)の、いわきのホタル出現状況をアップしている。たまたま夕べ、家に来たので聞いてみた。水田地帯のホタルには、ゲンジボタルとヘイケボタルがいる。先に現れるのはゲンジ。「まだゲンジ」という。

 ホタル情報が載り始めたのは、ちょうど平地でホタルブクロの花が満開になったころだ。ホタルブクロとはよくいったもので、ゲンジボタルが現れる、ホタルブクロの花が咲く、となれば、昔の子どもたちは夜、近くの用水路でゲンジをつかまえては釣り鐘状の花に閉じ込めて、点滅する光を楽しんだものだ。

 いわきでは、それが6月前半。標高が高くなるにつれて6月後半、あるいは7月前半にずれ込む。阿武隈の山里で生まれ育った私は、ホタル狩りをしたのは、7月も夏休みに近いころだった記憶がある。蚊帳(かや)のなかにホタルを放して、点滅するなかで寝入ったものだ。そのころはもうヘイケボタルだったかもしれないが。

 前置きが長すぎた。いきものといきもの、いきものと人間の関係は、「場所」によって異なる。福島県は会津・中通り・浜通りに区分される。西から越後山脈・奥羽山脈・阿武隈高地が屏風のように立って、それらを分けている。その山並みにもまた、垂直的ないきもののすみわけがある。

6月は、9日に磐梯熱海温泉でミニ同級会が開かれた。その前後、奥羽山脈を越えて会津を巡った。

白虎隊が自刃した飯盛山の近くにある「会津武家屋敷」を訪ねたとき、茶室のそばの小さな池で、野太く明朗なカエルの鳴き声を聞いた。見ると、池にかかる低木にモリアオガエルの卵塊があった=写真右。

モリアオガエルといえば、阿武隈高地の川内村・平伏沼(へぶすぬま)が、産卵地として国の天然記念物に指定されている。森があって水たまりがあれば、モリアオガエルはその上の木の枝に卵塊をつくる。今年(2019年)も産卵のピークを迎えたと、先週金曜日(6月21日)の新聞が伝えていた。阿武隈だけでなく、会津の山々にもモリアオガエルは生息しているわけだ。

会津日新館では、駐車場の車止め兼花壇に白いキノコが点在していた=写真左。幹事が「食べられるの?」と聞く。「もう食毒は超えた。形とか色に引かれて調べるのが楽しみ」と返したものの、キノコの名前がわからない。傘裏が紫褐色なのでハラタケの仲間らしいと見当をつけて1本を持ち帰り、図鑑で調べたら、その通りだった。食菌だ。

ホタルを例に出すまでもない。風土が異なる以上は、同じいきものでも出現時期や開花時期が異なる。会津旅行から1週間後の16日には、いわきの芝山を訪ねた。夏井川渓谷ではピークを過ぎたヤマボウシが、ふもとの三和町上三坂では雪が積もったように花盛りだった=写真下。
  山並みの向こうとこちら側、川の上・中・下流域、あるいは渓谷林そのもの……。場所や標高の違いによってすむいきものが変わってくる。わかりやすいのが植物の分布だろう。観察を重ねることで、いつか、これは同じ、これは違う、といったこともわかってくる。そうすることで、さらに地域の環境や生活文化への理解が深まる。

人間と自然がかかわりあって生きている地域=風土はローカルなものだ。ローカルだからこそかけがえがない、という思いを新たにした6月でもある。もう半年が終わる。

2019年6月26日水曜日

スペイン人兄弟からメールが

 夏井川渓谷のマタタビの葉が白くなってきた=写真。マタタビの葉を猫に与えると、ゴロゴロのどを鳴らして恍惚感にひたる。「猫にまたたび」という。が、最近はそうでもなくなった。日曜日(6月23日)に葉を少し持ち帰って猫に与えたが、まったく関心を示さなかった。
 10年前にいた猫も反応が分かれた。拙ブログで確かめると、雄猫の「レン」はゴロニャン、ゴロニャンと興奮した。が、不妊手術を受けてぶくぶく太った雌の「さくら」は無反応だった。

 きのう(6月25日)、スペインの青年ラザロからEメールが届いた。9年前の2月、同地に住むいわき出身の画家阿部幸洋と一緒にわが家へやって来た。その半年前に急死した阿部の奥さんが、小さいときからわが子のようにかわいがっていた青年だ。さくらがラザロのそばでずっと丸まっていた。「(まだ生きているなら)猫にもこんにちは(と)言って」とメールにあった。

マタタビの葉とラザロのメールから、さくらを思い出した。さくらは今、渓谷の隠居の庭に眠る。

 さて、スペインからのメールは、日本語で9年前のことを振り返りながら近況を伝えている。スペイン語で書いた文章を自動翻訳で日本語に変換したらしく、文法や意味がおかしいところだらけだ。文意をくみとるしかない。

中に「もう私の兄と話しましたね」とあった。彼の兄は日本にいて、大学で歴史を教えているらしい。「私の兄弟は先生で、彼は自動翻訳機なしで日本語を話すことができます」

前日の24日、ラザロの兄のダニエルから、やはりEメールが届いた。まだ会ったことはない。この8月15~25日、いわきに滞在したい、阿部が私の家に泊まれると言っていた、返信を待つ――というものだった。もちろん、OKの返事を出した。

9年前の拙ブログによれば、ラザロは、英語はディズニーのアニメ映画で学習した。日本語は、ちゃんと学んだことはない。が、英語、日本語、阿部によるスペイン語の通訳で、ほとんど違和感なくコミュニケーションが取れた。

当時、27歳。職業は「アート&デザイン」で、コンピューターを駆使して、いまはやりの「3D」で大きな倉庫のデザインなどを手掛けている。猫が大好きだといっていた。さくらをかわいがるしぐさからして、それがよく分かった。

 実は先日、グラナダといわきを行ったり来たりしているヤヨイさんから、フェイスブック経由で阿部がメールアドレスを知りたいといっている、と連絡が入った。東日本大震災が発生したとき、ラザロからメールをもらったが、アドレスと機器を変えたかしてこちらの連絡先がわからなくなったのだろう。

 阿部からはここ数年、いわきで個展を開くたびに、ラザロの兄(どういうわけかずっと「弟」と思い込んでいた)がいわきへ行きたがっている、という話を聞いていた。いよいよそのときがきた。兄と話せばお互いになにかおもしろいものが見つかると思う、といった意味のことも、ラザロのメールにあった。この年になっても、いろんな人が来てくれる。おもしろい。どこかに「招き猫」がすんでいるのかもしれない。

2019年6月25日火曜日

アジサイと夏至とマメダンゴ

 故奈良俊彦さんの『阿武隈のきのこ』(阿武隈の森に親しむ会、2008年)を読んでいたら、<ツチグリ(幼菌時食)>の項にこうあった。「アジサイの花が咲く頃、土の中に隠れているマメダンゴを拾い起こし、お吸物や、炊込みご飯にすると最高の味がする」
 阿武隈の山里では、ツチグリの幼菌をマメダンゴと呼ぶ。なるほど、アジサイの花が咲くころか――。確かに、今年(2019年)はそのとおりになった。というより、アジサイとマメダンゴが頭の中でつながった。

 わが家のアジサイが青い花を咲かせている。きれいなので、金曜日(6月21日)の夕方、パチリとやった=写真上1。翌日は夏至。翌々日の日曜日早朝には、夏井川渓谷の隠居へ出かけて2時間ほど土いじりをした。ついでに、ツチグリの菌糸が張り巡らされている隠居の庭の一角に腰掛け用のカートを持ち出し、三本熊手で潮干狩りよろしく土を軽く引っかいた。

 マメダンゴは地表すれすれのところにできる。生長して一部が地面から露出するころには、胞子が形成されるようになる。胞子ができはじめると、内部は黒っぽくなる。そうなると、もう食べられない。内部が“白あん”であれば、コリコリ(外皮)、グニュグニュ(内部)の食感が楽しめる。

 2013年の冬、庭が全面除染された。翌年はあきらめてチェックする気にもならず、翌々年も期待せずにいたら、7月になって地表にマメダンゴが露出していた。マメダンゴ採りを再開した。

去年(2018年)までは、歩きながら靴底で、あるいは這いつくばりながら手のひらで地中の感触を探った。ところが、去年、カミサンにマメダンゴのありかを教えると、ためらわずに五本指を熊手にして地面をほじくり返した。小さなマメダンゴがころころ現れた。

 で、今年初めて、三本熊手を使った。カートに座って、手の届く範囲で土をガリガリやると、あっという間に22個が採れた。
 毎年一度はマメダンゴご飯にする=写真上2。大きいのは四つに、それより小さいのは二つに割り、もっと小さいのはそのまま加えて炊きこむ。ゆうべ、カミサンがこれをつくり、「阿武隈の珍味」を味わった。

 アジサイが咲き、夏至になったら、マメダンゴが採れる――私のなかにある“生物季節カレンダー”に、新たな経験則が加わった。

2019年6月24日月曜日

映画「浮草日記」

 いわきでロケをした映画を紹介するイワキノスタルジックシアターがきのう(6月23日)、いわきPITで開かれた。4回目の今年(2019年)は、昭和30(1955)年公開の「浮草日記」が上映された。
 内郷、好間その他でロケが行われた。冒頭、川で子どもたちが水遊びをしている。好間川らしい。北好間の炭住が映る。炭鉱の西方に位置する阿武隈の山並み。このスカイラインには送電鉄塔も無線塔もない。きれいなものだ。映画の中盤、内郷の常磐炭砿住吉坑のズリ山がアップされたときには、満席の場内から「オーッ」と歓声がわいた。

炭鉱育ちだという知人が、子どものころ通った私塾仲間と来ていた。映画が撮影されたころは6~7歳。それから60年以上たった今、ズリ山や炭住は跡形もない。だからこそ記憶の底に眠っている“原風景”を確かめたかったのだろう。

悪徳興行主にしぼりとられる一方の旅回り一座が、炭鉱の劇場で公演する。同じころ、炭鉱でも労働者がストライキを始める。劇場が拠点になる。最初はぶつかりあった両者だが、やがて“同居”し、協力し合う関係になる。搾取に対して団結して闘おう――そんなメッセージを秘めた映画だ。

非正規雇用が増えただけでなく、「夫婦で65歳から10年間生きるには、老後の資金が2000万円足りない」などと言われる時代になった。それもあって郷愁と共感を呼んだのか、「内容がおもしろかった」という知人もいた。

炭鉱を知らない私は、好間で夫と開拓生活を続けた作家吉野せいの短編「水石山」に出てくる内郷の様子を知りたくて、映画に見入った。

せいは昭和30年秋のある日、菊竹山にある自宅を飛び出す。プチ家出だ。「村を横ぎり、鬼越(おにごえ)峠の切り割りを越えて隣町に出たが、いつか見た高台の広い梨畑地区は住宅団地に切りかえられはじめて、赫(あか)い山肌が痛ましくむき出していた」

このくだりがずっと引っかかっている。内郷で大規模に開発された団地といえば高坂だが、それは昭和40年代に入ってからのことだ。時間的なズレ、矛盾がある。

「水石山」を含む短編集『洟をたらした神』で田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したせいだが、内郷に関するこの記述は、あえて時間を超えた表現になっている。つまり、事実を踏まえた作品とはいえ、フィクション性もある――。次の写真と鳥観(ちょうかん)図がその思いを補強する。

市内郷支所2階に、昭和36年秋、内郷市街を空撮した大型写真パネルが飾られている。まだ健在のズリ山に「現・高坂二丁目」、東隣の丘陵地に「現・高坂一丁目」と、ラベルが張ってある(高坂二丁目はズリ山を切り崩して造成された)。

もう一つ。昨年度(2018年度)前期、いわき総合図書館で常設展「鳥瞰図にみる『合併前のいわき』――磐城・勿来・常磐・内郷・四倉」が開かれた。ポスターとチラシに、内郷市役所が昭和32(1957)年に発行した「内郷市鳥瞰図」が使われた=写真。ズリ山と東隣の丘陵の関係が一目瞭然だ。

そして、今度の映画「浮草日記」。映画そのものを楽しんだだけでなく、せいの作品のフィクション性をあらためて確信した。せいの別の作品「ダムのかげ」や「いもどろぼう」にも、炭鉱作業員が登場する。彼らの生きた世界を具体的にイメージできるようになったのも収穫だった。

 映画のあとにロケ地を訪ねた映像リポートが流された。これもまた“炭鉱文学”を読み解くうえで参考になる。

2019年6月23日日曜日

夏至の種選り

 きのう(6月22日)は夏至だった。朝刊の見出しに「きょう夏至」とあってハッとした。この日に何かしないといけない、ということはないが、忘れていた。でも、節目の日だ。夕方、三春ネギのネギ坊主をもんで黒い種とごみ・殻を選り分けた。
 今年(2019年)は6月12日、夏井川渓谷の隠居にある菜園のネギ坊主を摘んだ。数は大小20ほど。これを家に持ち帰り、天日に干しては軒下に戻すことを繰り返した。

十分乾燥したようなので、ばらけたネギ坊主を振ったり、もんだりして種を落とす。さらに、ごみと種を選り分ける。そのあと、ボウルに金ザルを重ね、ごみと一緒に種を入れて水を注ぐと、比重が重くてこまかいごみはボウルの底に沈み、比重の軽い殻や中身のない種は表面に浮く。

表面のごみを流せば、金ザルの底には種だけが残る=写真(2018年6月14日撮影)。水を切り、濡れた種を新聞紙に広げる。一晩置くと、種は乾いている。あとは乾燥剤とともに種を小瓶に入れて、秋の種まきまで冷蔵庫に保管しておけばいい。

種を水につけてごみを除去する方法は、本には書いてない。いわきで一番のネギ栽培農家と私が勝手に思っている篤農家のSさん(平北白土)に教えられた。

 水につけて残った種を見ると、数が少ない。今年はどういうわけか、開花が遅れた。同じころ、いわきの平地のネギ坊主はかなり大きくなっていた。あまり期待はしなかった。が、その見込みさえ下回った。

 毎年必要な種を採る、というところまではいかない。去年はネギ坊主が大きく育ち、種も余るほど採れた。余った種は冷蔵庫に保管してある。2年は持つから、10月には今年の種と去年の種をまいて、それなりの量を確保することにしよう。

2019年6月22日土曜日

猪苗代湖南の港・舟津

 郡山市の阿久津曲がりネギは、同市の東端を北へ流れる阿武隈川の右岸域で栽培されている。川の手前ではなく、阿武隈高地西側すそ野の田村郡側だ。
私がつくっている三春ネギは阿久津曲がりネギの親戚、あるいは同じではないか、というのが私の考えだが、それはともに曲がりネギであること、昔は阿久津(旧西田村)も田村郡に属していたことと関係する。

10年ほど前、ルーツ探索を兼ねて三春ネギの「種の道」をたどったことがある。福島県教委が昭和60(1985)年に発行した『歴史の道 岩城街道』でルートを頭に入れておいた。磐城平城下―小野―三春―阿久津・郡山の同街道は、現在の道路でいうと、主に国道49号~同349号~県道門沢三春線~同郡山大越線だ。

その先は? 猪苗代湖南岸―湖上―会津若松の城下ともつながっていた。会津から東の阿武隈川までのルートは三つ。北から会津若松―本宮(陸路)②会津若松―湖上―浜路(はまじ)―御霊櫃(ごれいびつ)峠(奥羽山脈)ないし三森(さんもり)峠―郡山③会津若松―湖上―舟津―諏訪峠―須賀川。浜路も舟津も郡山市湖南町にある。

 半月前の6月9・10日、磐梯熱海温泉でミニ同級会が開かれた。JR郡山駅で8人が合流し、ホテルにチェックインするまで、2台の車で郡山市西南の布引高原から猪苗代湖南岸を巡り、磐梯山中腹のロープウエイを利用して湖を眺めた。

 布引高原から下って湖に近づくと、「舟津」の標識があった=写真上1。江戸時代にはこのあたりに港があった(今も観光港がある)。阿久津を探索して以来、一度は訪ねてみたいと思っていたエリアだった。舟津の北の「浜路」にしろ、西の「秋山」にしろ、当時は重要な港、結節点だったに違いない。
猪苗代湖岸=写真上2=に出て、ふと磐城平―会津の「歴史の道」をたどってきたことに気づく。阿久津曲がりネギは明治時代、越中富山の薬売りが「加賀ネギ」の種をもたらしたのが始まりだそうだ。薬売りもまた、この「歴史の道」を往来したことだろう。おそらく阿久津から田村郡内に広まった「三春ネギ」は、さらに小野町経由で夏井川を下り、いわき市の小川町上小川字牛小川までやって来た。「歴史の道」は「ネギの道」でもあった。

2019年6月21日金曜日

小学校陸上競技大会

 いわき市の小学校陸上競技大会がいわき陸上競技場で始まった。きのう(6月20日)は第一(平)ブロックの選手が、共通6種目と1000m(男子)、800m(女子)を競った。6年生の孫が80mハードルに出場するというので、久しぶりにスタンドで観戦した。
20日は、ふだんなら行政の回覧資料を振り分け、区内会の役員さん宅に届ける日だが、前回10日と同様、「配布物はありません」という連絡が市から届いた。時間的に余裕ができたのと、大昔、陸上競技をやっていたので、“いわきの陸上の聖地”に出かけた。

雨雲が海上に去って青空が広がった午前9時ごろ、うまく駐車場に滑り込んだ。メーンスタンドの下段に選手、上段に保護者が陣取っている。ちょうど開会式が終わるところだった。最初のプログラムは80mハードル。女子のあとに男子のレースが行われ、最初の組にいきなり孫が出場した。

半世紀余も前の昭和30年代中ごろ。中学校の部活でバレーボールをやっていた。体育館などはなかったから、すべて屋外での練習・試合となる。たまたま部活が始まる前に、グラウンドに置かれていたハードルを飛び越えて遊んでいたら、陸上の顧問の先生から声がかかった。

臨時に陸上競技部員を兼ねることになって、田村郡の大会に出場した。110mハードルだったのだろうが、頭にあるのは80mと、距離の記憶はあいまいだ。

その後、高専で陸上競技部に入った。高専大会では走り幅跳びとマイル(1600m)リレーに出場した。平上荒川のいわき陸上競技場は、昭和46年5月に開設した。当時の新聞によると、福島県営の施設だった。

ということは、高専時代に出かけた陸上競技場ではない。平競輪場で磐城高校だか平工業高校だかと合同練習をした記憶がある。やはり当時の新聞で競技場を調べたら、競輪場のバンク内に平市営陸上競技場があった。上荒川に本格的な競技場ができたのは、その5年後ということになる。

さて、孫の走りだが、いつのまにこんなに速くなったのかと驚くくらい、ぶっちぎりで九つのハードルを飛び越えた=写真。全体で1位になった子は、孫よりさらに0.46秒速かった。80mハードルで約0.5秒の差は大きい。孫よりもさらにぶっちぎりで駆け抜けた。

子どもたちは一度レース前に練習をする。1位になった子は、ハードルを跳び越えるときに素早く前傾して低い姿勢をとる。「速い子だな」と感じていた通りの走りを展開した。

 男子4×100mリレーにも出場するというので、いったん帰宅し、午後にまた出かけた。第2走者だった。

 水泳やサッカーは好きで続けていたが、ぜんそく持ちでもある。運動会でも成績は二の次だった。が、このところ体がぐんと大きくなって力がついたせいか、急にかけっこが速くなった。運動会でリレーのメンバーに選ばれるまでになった。その延長での平地区大会出場だったのだろう。

素直な走りをする。そのまま陸上競技を続ければ、いいところまでいくかも――“ジジばか”というよりは陸上競技の“先輩”として、そう思った。スタンドを吹き渡る風が心地よかった。

2019年6月20日木曜日

「忘れないことが大切」

日本海側の新潟県下越地方で震度6強、山形県庄内地方では6弱――。おととい(6月18日)の夜、いわきでも時計の振り子のように家が揺れた。すぐテレビを付ける。能登半島(石川県)や佐渡島を含む新潟県、山形県に津波注意報が出された=写真下。
 新潟にはカミサンの甥っ子が住んでいる。家は、家族は? 一夜明けたきのう、フェイスブックで甥の奥さんに連絡し、無事を確認した。山形県鶴岡市にある彼女の実家も大丈夫だったという。

津波被害は幸いなかったようだが、屋根のグシや瓦が落ちるなどの建物被害が相次ぎ、5県で計30人(NHKは28人)が重軽傷を負った。

テレビを見ているうちに東日本大震災の記憶がよみがえった。あのとき、いわきは震度6弱。さらに、1カ月後の4月11、12日にも6弱の直下型地震に襲われる。家の中が惨憺たる状態になった。1軒1軒が大変な状態になっていることだろう。

震災の初期対応は、どこでもいつでも同じだ。電気・水道・ガス・交通その他、ライフラインが寸断される。まずは水とトイレとブルーシート、壊れた物の後片づけだ。落ち着いたら墓石の修復も……。被災地から遠く離れた一市民としては、先の体験を教訓に復旧を見守るしかない。
 先日届いたシャプラニール=市民による海外協力の会の会報「南の風」に、今年(2019年)のいわきツアーのレポートが載っている。タイトルは「忘れないことが大切」=写真上。今度の地震にもこの言葉が当てはまる。

 いわきツアーレポートの前文。「シャプラニールが2011年から5年間、復興支援活動を行った福島県いわき市。活動は終了しましたが、つながりを持ち続け、いわきの復興の状況を知るために毎年行っている『みんなでいわき!』。今年は震災から丸8年が経(た)とうとしていた2019年3月9日、10日の1泊2日で実施しました」

 ツアーは、農作業体験・原発事故による避難指示が解除された双葉郡富岡町の訪問・「常磐もの」として評価されてきたいわきの海産物の買い物を組み合わせた内容だった。いわき駅集合・解散で、主に首都圏、遠くは大阪府、北は宮城県から計15人が参加した。夜は元現地スタッフや私ら夫婦も参加して懇親会が開かれた。リピーターが多いので、親戚に会うような感覚で“再会”した。

解散前の振り返りでは「震災を忘れないことが大切。人の輪、人のつながりをつなげていきたい」「生の声を聴くことの大切さを感じた。8年間さまざまな思いを胸に生きてきたのだということがわかった」「原発の電気は関東の人が使ってるんですよ、という(富岡町の)田中さんの言葉にハッとさせられた」といった感想が寄せられた。

同ツアーは「毎年、少しずつテーマや内容を変えながら続けて」おり、「震災から10年目を迎えるまでは続けたい」という。ありがたいことである。

ところで、三度の6弱に肝を冷やし、度重なる余震を体験したためか、今では揺れで震度のレベルと被害の程度を推し量るようになった。一昨夜は4、茨城県北部が震源の17日朝8時の地震は3――気象庁の発表通りの体感震度だった。これも体験がもたらした教訓の一つにはちがいない。新潟・山形の被害度もそうして類推したのだった。

2019年6月19日水曜日

ミニミニリレー講演500回

 1週間ほど前のいわき民報に「ミニミニリレー講演会」の記事が載った=写真。見出しは3本。「8月に節目の500回/30年近くにわたり多彩な講師/制約なく毎回幅広いテーマ」。古巣の新聞だからいうが、良くも悪くもいわき民報らしい長文記事と見出しだ。
  同講演会は、いわき市のまちづくり支援団体「いわきフォーラム’90」が平成2(1990)年に始めた。おおむね月に2回、途切れることなく続けて、8月に500回を迎える――というのが記事の骨子だ。

聴講には行っていないが、「いわきフォーラム’90」には関係している。新聞記者だからこそ、アフターファイブは市民として、いろんなコミュニティとつながっていたい――。声がかかっていわき地域学會に入り、いわきフォーラム’90に参加した。いわきキノコ同好会も、いわき昔野菜保存会も創立時からのメンバーだ。

誰もが講師で聴講生――。ミニミニリレー講演会に手を挙げて講師を務めたことがある。平成7(1995)年1月17日、阪神・淡路大震災が起きる。その3カ月後、どうしても被災した子どもの気持ちを代弁したくなった。

小2のときに自分の町が大火事に遭い、家が焼けた。家を再建し、借金を完済するまでの親たちの二十数年間と、自分のその後を振り返りながら、阪神・淡路の被災者のこれからを、長い年月とともに変化する子どもの心を見守っていきたい、といったことを話した。

「貧困の発生」(両親)や「無意識の我慢」(子ども)「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」などにも触れた。話が終わって雑談に入ると、聴講者の一人から「あなたは自分の体験を話すことでやっと大火事から解放されたのね」と言われた。

 最近では2016年9月、「サハリン――賢治と自然と戦争」と題して話した。その2カ月近く前の8月初旬、サハリン(樺太)とシベリア大陸のウラジオストク・ナホトカを旅した。ミニミニリレー講演会を主宰する友人から声がかかったので引き受けた。

 いわき民報の記事で友人が語っている。会の広報紙「まざりな」に1000回を目指す、とある。「これはいわき民報に言われたんだよ」「本紙がかつて取り上げた際、1000回を目標とするよう書いたエピソードを、いまでも大事にしている。『こうした声に押されてきたんだ』」

これには、私が関係している。昔も昔、いわき民報のコラムで同講演会を取り上げ、1000回をめざすくらいの気持ちで続けてほしい、といったことを書いた。

手元に24年前の「まざりな」がある。「どこ吹く風」というあとがきのような欄に「誰でもが講師で聴講生をモットーに千回めざして頑張ってます」と、もう一人のスタッフが書いている。「災害のあとに」と題して私が話すという予告も載っている。ミニミニリレー講演会が始まって5年、61回目とあるから、ずいぶん早い段階で「1000回をめざせ」と書いたものだ。

あとがきには「でも、千回目って何十年先のことだろう?(気が遠くなりそう)」とある。ざっと30年で折り返しの500回に届くところまできた。「持続する意思」には脱帽する。

民法が専門の東大名誉教授や元福島県知事から寺の奥さん、シベリア抑留を体験した元兵士まで、有名無名関係なく、地域社会を構成するさまざまな市民が講師を務めてきた。息の長い市民レベルの小講演会としては、まさしく「ギネスもの」である。

2019年6月18日火曜日

シラカバを見に芝山へ

 きのう(6月17日)の続き――。夏井川渓谷の隠居で土いじりをしたあと、川前―差塩(さいそ)―下三坂―平田村―上三坂ルートで山里を巡った。
 車を走らせてすぐ、JR川前駅近くを流れる夏井川右岸のカツラと対面した=写真上。6月9日の日曜日に国指定天然記念物の「赤津のカツラ」(郡山市湖南町)を見たばかりだ。記憶が鮮明なうちに「川前のカツラ」と比較しておきたかった。やはり、「赤津のカツラ」の方が大きい。が、「川前のカツラ」もそれに近い迫力がある。

 平田村の帰り、上三坂の芝山(819メートル)を訪ねた。目当てはシラカバ。シラカバと共生するベニテングタケが、梅雨を秋の長雨と勘違いして出ているかもしれない――勝手な期待がふくらむ。

阿武隈高地には、シラカバは自生しない。だからベニテングタケも見られない――愛菌家はそう考えていたが、偶然、ベニテングタケと出合った知人がいる。周囲をよく見たら、シラカバが十数本植えられていたという。植栽であってもシラカバがある以上は、ベニテングタケが出る可能性がある。

2016年8月、同級生4人でサハリン(樺太)を訪れ、オホーツク海側の道路を北上した。道の両側はシラカバの林だった。ベニテングタケの菌輪(フェアリーリング)を想像した。

いわき市内では、小川町の旧戸渡分校近く。道路際にシラカバが数本生えている。こちらは植栽されたものか。ベニテングタケは?5月では時季外れだった。

キノコが登場する文学や、東西のキノコ食文化の違いなどを調べている。最近は、朝ドラ「なつぞら」のオープニングが、キノココレクションに加わったアニメに併せて主題歌が流れる。シラカバ林の中に女の子が座っている。一本のシラカバの根元にはベニテングタケが――。

それもあって、このごろは頭にベニテングタケが生えている。で、「川前のカツラ」に刺激されて、芝山―シラカバ―ベニテングタケの連想がはたらいた。

芝山のシラカバは頂上へと通じる道の途中にあった=写真下。何本か生えてはいるが、林を構成するような数ではない。ベニテングタケにとっては、しかし数は問題ではない。自生だろうと植栽だろうとかまわないはずだ。林床に赤い点々がないか目を凝らしたが、緑に覆われていてよくわからなかった。
 一発でベニテングタケに出合えるほど神様は甘くない。シラカバがあるところを確認したのだ、また今度来るために――そんなふうに気持ちを切り替えて下山した。

キノコにも南方系、北方系がある。地域の自然と文化をキノコの視点で眺めると、いわきはいちだんと複雑玄妙で奥が深いことがわかる。北方系のベニテングタケは、いわきでは「憧れのキノコ」「幻のキノコ」だ。夏か秋、また芝山を訪ねて、シラカバの樹下に目を凝らそうと思う。

2019年6月17日月曜日

山道を行く

きのう(6月16日)は天気がころころ変わった。未明には雷が鳴った。前日も雨が降ったりやんだりした。8時過ぎに家を出て夏井川渓谷の隠居へ向かう。平では雨がやんだのに、平窪の坂を越えて小川町に入ると急に土砂降りになった。
隠居では、時折雨がぱらつくなか、1時間ほど土いじりをした。苗床に残る三春ネギ苗を収穫し、溝を切って定植した苗に追肥した。キュウリ苗や鷹の爪、キヌサヤエンドウにも肥料をやった。そのあと、1時間ほど持ち込みの仕事をした。

11時を過ぎると、気分転換をしたくなった。カミサンはカミサンで、平田村か同じいわき市内の田人町へ行きたいという。田人は新聞に折り込まれたフリーペーパーの記事に、平田村は民放テレビの番組に刺激されてのことだ。

渓谷から田人へは山を三つ越えないといけない。平田村なら、山を越えて国道49号に出れば、すぐだ。平田村へ行くことにした。

 49号まで川前―差塩(さいそ)―下三坂のルートを取る。差塩は天空の集落。谷底の川前から、乗用車1台がやっとの急坂を上っていく。と、ネコ、いやイタチかテンのような小動物が前方を横切って、谷側に消えた。

 山里と山里を結ぶ道路の周囲は、杉の人工林や田畑が続いても、人の気配はない。対向車両もまずない。静かなものだ。そのうえ、緑・緑・緑の連続だから、目にはやさしい。

 平田村の目抜き通りに入ると、ドーム型のレストランが目に入った。そこで昼食をとったあと、「道の駅ひらた」へ足を運ぶ。別に何を買うということはないのだが、平田村へドライブすると、決まって道の駅に寄る。急に糠漬け用の野菜がないことに気づく。キュウリを買った。

 薄い雲を透かすように青空が広がっていた。そのはるか下を白い雲が早足で移動していた=写真。天気雨が降ってきた。黒い雲も遠くにある。晴れているのに雨が降る。平田村も天気が落ち着かない。

 食事と買い物をすませて49号をいわきへ戻る。途中、三和町の上三坂に入り、旧道を通って「三和ふれあい市場」をのぞいた。午後も遅い時間だと主な野菜はあらかた売り切れてない。大根1本(100円)を買って帰った。

帰宅して遅い昼寝をしてから、カツオの刺し身を買いに行く。戻ってまた休んでいると、宅配便が届いた。6月16日は「父の日」だということを、すっかり忘れていた。猫の目天気の夕方、胸に青空が広がった。

2019年6月16日日曜日

フランスのクロラッパタケ

先週の木曜日(6月13日)、テレビを見ながら晩酌をしていると、カミサンがBS日テレの「大人のヨーロッパ街歩き」を見る、といって、チャンネルを変えた。フランスはブルゴーニュ地方のディジョンが舞台だった。
「大人のヨーロッパ街歩き」にも、「世界ふれあい街歩き」にも、現地の食べ物が登場する。キノコが含まれていることがある。キノコ料理が出たら、すぐカメラを手に取ってパチリとやる。

「大人のヨーロッパ街歩き」に、クロラッパタケを添えた「鶏むね肉のソテー」が出てきた=写真。フランスではこんなふうにして食べるのか――。そう思ったのには、ワケがある。

 東日本大震災から1年余りたった2012年5月中旬、国際NGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」がイトーヨーカドー平店2階で被災者のための交流スペース「ぶらっと」を運営していた。そこでフランス人写真家のデルフィンと会った。

 彼女はその後もいわきを訪れ、津波被災者や原発避難者を取材した。「ぶらっと」のボランティア仲間で、英語が堪能なTさんが協力した。2014年春には、ドイツ在住の芥川賞作家多和田葉子さんと、同地で詩と写真展を開いた。多和田さんもTさんの案内でいわき・双葉郡、その他の土地を巡っている。その体験が作品集『献灯使』に反映された。

2013年の初冬、デルフィンがTさん母娘と一緒に夏井川渓谷の隠居へやって来た。私が落葉した渓谷林を案内しながら、キノコの話をしたらしい。翌年7月末、フランスから乾燥キノコが届いた。

 平仮名がういういしいしかった(ここでは漢字交じり文にする)。「追伸 プロヴァンス産のマッシュルームを送ります。/水にしばらくさらしたあと、オムレツやグラタンなどの料理に使ってみてください。お口に合えばいいのですが……」

 ネットで調べたら、フランスでは「トロンペット・ド・ラ・モール」(死者のトランペット=和名クロラッパタケ)」で、アンズタケの仲間だった。炊き込みごはんにすると、味も歯ざわりも「コウタケごはん」並みにうまかった。一級品には違いない。

 日本でもクロラッパタケは採れる。が、まず食べない。バターとクリームには合っても、味噌と醤油には合わないのかもしれない。西欧で好まれるアンズタケも同じ理由で、日本では食べる人が少ない。

「鶏むね肉のソテー」に添えられたクロラッパタケは、乾燥品ではなく、生をクリームかなにかで加熱したようだ。ブルゴーニュ地方のキノコ食文化、というより、クロラッパタケの食べ方がわかって、なぜかホッとした。

2019年6月15日土曜日

布引高原のタニウツギ

 郡山市の中心市街地から西へ向かい、会津地方と中通りを隔てる奥羽山脈に分け入ると――。標高1000メートルほどの「郡山布引風の高原」に近づくにつれて、淡いピンク色の花が目につくようになった=写真下1。
浜通りの平地や丘陵では見られない低木の花だ。花のかたちはハコネウツギやニシキウツギに似る。が、ハコネもニシキも、最初は白、やがて紅色に変わる。だから、見た目は紅白二色の集合体(ニシキウツギの「ニシキ」は「二色」)だが、布引のウツギは最初から淡いピンク一色だ。

ミニ同級会初日の6月9日・日曜日、JR郡山駅ビルで参加者8人が合流した。磐梯熱海温泉のホテルにチェックインするまで時間がある。布引高原経由で猪苗代湖南から磐梯山麓をドライブした。磐梯山ではロープウエーに乗り、やはり1000メートルほどの中腹から猪苗代湖を展望した。ここにも淡いピンク色の花が咲いていた。ヤマツツジも満開だった=写真下2。
淡いピンク色の花はなんだろう。ウツギ系であることはなんとなくわかる。帰宅して、「布引高原 ピンクの花」で検索すると、タニウツギらしいことがわかった。仲間も調べてタニウツギだ、といってよこした。

知りたいのは分布域だ。暖地系なのか、寒地系なのか。ネット検索を続けると、前にも紹介した「山学校」の先生、湯澤陽一博士(いわき)の文章に出合った。平成11年10月号の「文化福島」に<ハコネウツギとニシキウツギ>について書いている。

その骨子は①ハコネウツギは福島県浜通りが南限と思われる②ニシキウツギは暖地系の植物で、宮城県南部が北限③阿武隈山地には初めから花が紅いベニバナニシキウツギがある。栃木県以北に分布する。いわきの矢大臣山にこの花が群生する――。

会津地方のタニウツギにも触れている。「ハコネウツギとニシキウツギが太平洋側に、タニウツギが日本海側にすみわけ分布している。太平洋側では宮城県南部でニシキウツギとタニウツギが入れ替わる」。阿武隈の主峰・大滝根山(1192メートル)の高地にはタニウツギが生育する、阿武隈山地の高地には「日本海要素域の飛び地」があることになる――。なるほど。

福島県は西から会津地方・中通り・浜通りに分けられる。その境をなすのが奥羽山脈と阿武隈山地(地理院地図では「阿武隈高地」)。大滝根山はふるさとの山だ。布引高原を歩き、磐梯山のふところに抱かれて、いわきのはるか北西、夏井川水源の故山がまたいとおしくなる。

2019年6月14日金曜日

ネギ坊主を摘む

 一泊二日のミニ同級会から帰った翌火曜日(6月11日)の朝。何かし忘れているような……。なんだろうと考えて、思い出した。
 毎週月曜日早朝、家の前の集積所にごみネットを出す。日・月曜の32時間、家にいなかった。で、カミサンがこれを代行した。もうひとつ、糠床もそのままだ。まずは糠床をかきまわして、古漬けに近いキュウリを取り出す。

 ほかには? 日曜日早朝、市民総ぐるみ運動が展開された。そのとき、ある班から新しいごみネット購入の要望を受けた。わが行政区では、ごみネットは区費で賄う。カミサンからいわれて思い出した。

 し忘れていた、というよりは、時期を失してはいけないものがある。昔野菜の三春ネギの種取りだ。水曜日の朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 自家採種用に残しておいた三春ネギが20本ほどある。隠居では真っ先にネギ坊主を摘んだ。これとは別に、今年(2019年)植えたネギ苗の余り(50センチ四方ほど苗床が残っている)から、二つかみほど抜き取った=写真。これはこれで立派な“葉ネギ”になる。

 ネギ坊主は自宅へ持ち帰って天日に干す。乾いたら、ネギ坊主を振ったりつついたりして黒い種を落とす。次に、ごみと種をより分ける。

そのあと、ボウルに金ザルを重ね、ごみと一緒に種を入れて水を注ぐ。そうすることで比重の重い砂はボウルの底に沈み、比重の軽いごみや中身のない種は表面に浮く。それを流して金ザルの水を切れば種だけになる。

濡れた種は新聞紙に広げて一晩置く。と、翌朝には乾いている。あとは乾燥剤とともに種を小瓶に入れ、10月の種まき時期まで冷蔵庫で保管すればいい。

 日・月曜と、猪苗代湖南と会津の自然・歴史を楽しみ、夜は学生時代の思い出や近況を語り合った。衝撃的な告白もあった。それらすべてがまた、日々の暮らしを営むエネルギーになる。ミニ同級会から日常に戻って、糠床をかきまわした。隠居へ出かけてネギ坊主を回収した。ごみネットを買った。あとは――と考えていたら、締め切りの迫っている原稿があることを思い出した。

2019年6月13日木曜日

會津日新館と鶴ヶ城

 会津若松市を代表する観光施設は鶴ヶ城、テーマは戊辰戦争と白虎隊だろうか。今度のミニ同級会&会津観光ドライブ2日目は、會津藩校日新館(同市河東町)=写真下=と会津武家屋敷(同市東山町)、そして鶴ヶ城(同市追手町)を訪ねた。
 東日本大震災が起きた2011年11月、「震災復興支援の集い」と銘打って、会津若松市の奥座敷・東山温泉でミニ同級会を開いた。初日に鶴ヶ城と白虎隊の飯盛山を見学し、翌日は南会津へ足を延ばして大内宿と「塔のへつり」を巡った。その2年後には、同市の芦ノ牧温泉に集結し、翌日、大内宿を再訪した。それ以来の会津行だ。

 日新館は初めて見学した。もともとは鶴ヶ城の西側にあった。戊辰戦争で焼失したのを、昭和62(1987)年、地元企業家が中心になって、鶴ヶ城の北方約8キロの旧河東町に復元したという。

藩校の規模の大きさに圧倒された。施設内の展示物は、なるほどそうか、と思わせる構成だ。藩校で学んでいた少年たちが戊辰戦争に参加する。白虎隊である。その悲劇を踏まえた展示になっている。
そのあと会津武家屋敷を見学し、昼食をとって鶴ヶ城=写真上=へ移動した。城内の展示物は日新館と同じだ。どちらも戊辰戦争・白虎隊を“売り”にしている。

外観はともかく、展示物のテーマが同じだから、日新館と鶴ヶ城を続けて見るのは考えもの。なんだ、ここも白虎隊か、戊辰戦争か、となる。実際、私はそう感じて、鶴ヶ城では展示物を見る気になれなかった。

その2日後のきのう(6月12日)、朝日新聞の福島版に<「日新館を鶴ヶ城隣へ」波紋/会津若松市長選へ 室井氏「個人的な思い」/「聞いたことない」市幹部ら困惑>という見出しで記事が載った。「8月の市長選で3選を目指す会津若松市の室井照平市長が選挙向けに唱えた構想が波紋を広げている」そうだ。

日新館の運営企業も、市役所の幹部も寝耳に水だったらしいが、権力者の発言は「個人的な思い」ですませられるほど軽くはない。会津には会津の課題がある。とはいえ、日新館と鶴ヶ城を見て来たばかりの一観光客には、驚きの報道だった。浜通りの人間ながら「波紋」の行方が気になる。

2019年6月12日水曜日

赤津のカツラ

 JR磐越東線川前駅近くの夏井川右岸にカツラの巨木がある。いわき市の天然記念物にも、保存樹木にも指定されていない。いわば無印、知られざる巨木だ。
 11年前の春、市川前支所発のネット情報で知った。それによると、十数本が密生しているように見えるが、根元は一つ。雌雄異株で、雄株という。4月下旬、対岸の県道小野四倉線から鮮やかな新緑に包まれている巨木と対面した。大きさに圧倒された。以来、県道を通るたびに巨木を仰ぐ。

 いわき市内には田人町旅人字和再松木平に市の保存樹木がある。「田人のカツラ」は高さが11.7メートル、幹回りが3.5メートル。見たわけではないが、「川前のカツラ」よりは小ぶりなようだ。

福島県内ではどうか。郡山市湖南町に国指定天然記念物の「赤津のカツラ」がある。こちらは高さが25メートル、幹回りが9メートル超だという。「川前のカツラ」は「田人のカツラ」をしのいで、「赤津のカツラ」といい勝負ではないか――データからそう感じた。

猪苗代湖周辺の観光を兼ねたミニ同級会(6月9~10日)で、初日に郡山市湖南町の「郡山布引風の高原」を訪ねた。標高は1000メートルほど。大根と風力発電で知られる山上の平原だ。

高原に近づくにつれて道はつづら折りになる。と、標高900メートルほどの沢沿いに「赤津のカツラ」の標識が立っていた。「赤津のカツラ」はここにあったのか! 驚いて、うめいたのかもしれない。帰りに、朋友が車を止めてくれた。

カメラを向けながら、無印の「川前のカツラ」と国指定天然記念物の「赤津のカツラ」=写真=を比較していた。標識のそばに案内板が立っている。「幹は地上1.2メートルの辺りから大小数十本に枝分かれしています」。川前の方は「十数本」だが、見た感じではそう負けていない。「赤津のカツラ」が横綱なら「川前のカツラ」は大関、といってもいい。

この11年間に新しくいわき市の天然記念物に指定された樹木は、「下三坂の種まきザクラ」と「本行寺のオハツキイチョウ」の2件だけだ。「川前のカツラ」はなぜ無指定なのか――「赤津のカツラ」と対面して、いよいよ疑問が増した。