2019年7月1日月曜日

キュウリ、そしてアニメ

 きのう(6月30日)午後遅く、いわき駅前のポレポレいわきで、いわきが舞台のアニメ映画「薄暮」を見た。
  朝から雨なので、午前中はだらだらと過ごした。カミサンが、図書館で1時間、ボランティアの作業をするから早めに出かけよう、という。NHKの「のど自慢」が終わると家を出た。

映画の上映まで1時間ちょっとある。図書館で調べものをするか、夏井川渓谷の隠居へ行くか――。隠居へは往復1時間かかる。行っても土いじりはできない。庭の菜園のキュウリが気になる。それを確かめるだけだ。

図書館が入っているラトブに着くと、車の列ができていた。地下駐車場は「満車」の表示。よし! カミサンをその場で下ろし、隠居へ向かった。

キュウリが3本ぶら下がっていた。親づるが伸びはじめたばかりだから、初めは摘まねばならない花も脇芽もそのままにしておいた。結果、万年筆のカートリッジ大だった実が、本体の万年筆よりはるかに大きくなっていた。初物だ。摘んで車の助手席に置き=写真、トンボ帰りでぎりぎり2時50分の上映開始時間に間に合った。

 私が住んでいる中神谷からは、丘を一つ越えた上・下片寄が舞台のアニメ映画である。そこの私立高校へ通う女の子と、帰還困難区域からいわきに避難している別の高校男子の淡い恋物語だが、見慣れた風景がどう描かれているのか、興味があった。

 音楽部に所属してバイオリンを弾く女の子は、下片寄バス停で見る夕景色=薄暮に引かれている。男の子は絵に描いて残したい風景を探して下片寄にやって来た。

 穏やかで美しい農村景観――ということばが思い浮かぶ。同時に、その景観はそこに暮らす人々の、日々の手入れが培ったものだ、ということも。2011年の原発震災後、全村避難を余儀なくされた川内村を通ったことがある。そのときの記憶がよみがえる。

――県道沿いの田んぼの土手と畔に草が生え、ハルジオンが咲きに咲いていた。田起こしをしたものの、作業はそれで打ち切りになった。

春が来れば田を起こし、土手と畔の草を刈り、水路を修復して水を通す。やがて、そこら一帯が青田に変わる。夏が過ぎ、秋になれば稲穂が垂れる。刈り取られた稲は、はせぎに掛けられる。あるいは、わらぼっちとなって田んぼに立ち並ぶ。太陽と雨と風を上手に利用した人間の農の営みである。

 大げさに言えば、日々、人間は自然にはたらきかけ、自然の恵みを受けながら暮らしている。ときには大きなしっぺ返しをくらうとしても、自然をなだめすかし,畏れ敬って、折り合いをつけてきた。その折り合いのつけ方が景観となってあらわれる。農村景観は、人間が自然にはたらきかけることによって初めて維持されるものなのだ。

 しかし、帰還困難区域では、自然への人間のはたらきかけが中断したままだ。人の手が加わらなくなった田畑は、山林はたちまち荒れる――

恋物語であると同時に、風景物語でもあった。しかし、上映時間が52分では、展開が早すぎる。つなぎをていねいに、丹念に紡いで90分くらいにならなかったものか、という思いが残る。

映画館から出ると、日が差していた。日曜日の晩はカツオの刺し身と決めている。魚屋へ直行する。夕空に、アニメ映画に出てきたような羊雲が広がっていた。

帰宅してすぐ晩酌を始める。初物のキュウリも、味噌をつけて食べた。映画館で一緒になった元同僚や、上片寄の元区長の孫クンらの顔を思い浮かべながら。ついでに、夜9時からはテレビでアニメ映画「君の名は」を見る。冒頭、似たようなシーンが出てきた。いや、なんか同じようなつくり(顔も、演出も)をしていると感じたのは、酔っていたせいか。

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