2019年8月31日土曜日

ホームステイ③画家の母

 9泊10日の滞在中に一度、車でダニエル夫妻をいわき市暮らしの伝承郷と海へ案内した。海からの帰り、画家阿部幸洋の実家へ寄って、画家の母に会った=写真。画家の妻・すみえちゃんの霊前に線香を手向けた。ダニエルにとっては忘れられない思い出になったことだろう。
 ホームステイ4日目の8月18日、日曜日。「キッズミュージアム2019in伝承郷」が開かれた。カミサンは伝承郷の事業懇談会委員をしている。毎年、ボランティアスタッフとしてこのイベントに参加する。今年(2019年)はスタッフではなく、ダニエル夫妻を案内する側に回った。

 ダニエルと私は勧められて(「的を当てないとかき氷が食べられない」というので)、園内の広場で縄文人になって弓を射った。当たらなかったが、ごほうびのかき氷を受け取り、かやぶき屋根の民家に移動して4人で食べた。民家だけでもちょっと前まであった日本の農村の暮らしの一端を体験できたはずだ。

ひととおり園内を見て回ったあとは、海へ、塩屋埼灯台へ――。大津波の被害に遭った豊間を通り、薄磯へ出て、高い防波堤と防災緑地の続く現在の姿を見せた。

昼にはまだ早い。カミサンが「どこか四倉あたりでコーヒーでも」という。ドライブを兼ねて県道小名浜四倉線を北上した。コーヒーを飲ませる店といっても、なかなか思い浮かばない。四倉の内陸部、山麓線(県道いわき浪江線)沿いの店は遠いし……。

そんなことを頭の片隅で反芻しているうちに、藤間から下大越へ抜けた。スペインに住んでいる画家の実家が田んぼの中にある。それを思い出した瞬間、ハンドルを切ってわき道へ入った。「ユキヒロの家に行く」というと、ダニエルが「ワオッ」と反応した。よほどうれしかったのだろう。

 家の前に着く。カミサンが車を降りて庭へ回り、家の中にいた母親にあいさつする。玄関が開く。私とダニエル夫妻の顔を見るなり、母親は「あららら。上がって、上がって!」。ダニエルらを促して家の中に入る。まずは仏壇に焼香する。すみえちゃんの写真がある。ダニエルたちもカミサンに教えられて線香をあげた。

画家の母とは、すみえちゃんの新盆以来、9年ぶりの対面だ。この間に東日本大震災があった。90歳になったという。足は少し衰えたが、頭はシャープなままだ。昔のことも今のこともよく覚えている。「どうしてた?」というから、「区長をやっている」とかなんとかいう。「それは大変だ」

スペインの画家とは時折、国際電話で連絡を取り合っているようだ。「ラサロの弟が来てるっては、聞いてたんだ」。それで連れて来た、ドライブ中に思い出して――とは、むろんいわない。

 ダニエルの兄の話になった。すみえちゃんが亡くなった翌年2月、画家とともにラサロが来日した。わが家へも遊びに来た。「ラサロは1カ月もウチにいたんだよ」。母親はそういって、離れを案内した。母屋並みにしっかりした2階建ての家である。アトリエは2階、ラサロが泊まった寝室は1階にある。母親にいわれて遠慮なく2階に上がり、阿部の日本でのアトリエを見学した。

あとですみえちゃんの最期の様子を、拙ブログで確かめる。2009年9月25日、友達と近くのバルで茶飲み話をしていたところ、めまいに襲われ、救急車で病院に運ばれた。意識不明のままトレドの大きな病院へ転送されたが、5日後の30日昼ごろ(現地時間)、息を引き取った。享年53。生前、臓器提供を決めていたので、心臓と肝臓がそれぞれ、スペインの市民に提供された。

 すみえちゃんは阿部の妻だけでなく、マネジャー・通訳・運転手でもあった。毎年、個展を開くために帰国すると、夫婦でわが家へやって来た。今はトメジョーソの墓地に眠る。

ダニエルはそのへんの経緯を知っている。なんといっても、日本語の先生だったのだから。画家の母親は別れるとき、ダニエルに「ユキヒロをよろしくね」といった。やはり、何歳になっても母親は母親だ。私ら夫婦にとっても、胸のつかえがとれるような母親との再会になった。

2019年8月30日金曜日

ホームステイ②まずは乾杯

 もう着いてもいい時間なのに。タクシーは使わない。電話は来ない。草野駅に降りたとなれば、歩いてわが家へ向かっているのか。やきもきしながら同駅へ車をとばし、カラ戻りの途中、暗い路上でダニエル夫妻をピックアップした――というのが、きのう(8月29日)のブログの顛末。
 2人を泊める家はわが家の道路向かいの住宅地にある。カミサンの伯父(故人)の家で、これまでにもときどき、いわき市国際交流協会から連絡があると、1泊2日とか2泊3日とかのホームステイを引き受けてきた。仲間うちの飲み会もこの「ゲストハウス」でやることがある。そのままふとんにもぐりこめるので、タクシーや代行を呼ぶ必要がない。

今回は9泊10日だ。食事は自分たちでまかなってもらう(妻のラサレットはベジタリアン)として、最初の晩(8月15日)くらいは歓迎の小宴を開きたい――。

ちょうどいい具合に、大学生の “孫”と母親が加わった=写真。“孫”が東京から里帰りし、17日に帰京するというので、あいさつに来た。アイルランド人やアメリカ人、インド人などが泊まったときにもたびたび合流している。というより、高校の英語教師である母親を助っ人に呼ぶ。今回も一緒になってスペイン人夫妻を歓迎することにした。

 まずは乾杯である。20歳になった“孫”も缶ビールを手にした。一緒にアルコールを飲むのは初めてだ。母親のおなかに宿ったころから知っているので、いささか感慨深いものがある。在京スポーツ新聞社で電話番のアルバイトをしているという。少しメディア論をたたかわせた。

 それはまぁおいといて、ダニエルとラサレットだ。本人の口からいろいろ聞いておきたいことがある。日本語と英語まじりでやりとりしたなかでわかったのは、日本国内を移動しながら市民にインタビューをしているということだ。富士宮~名古屋~京都~大阪~広島と巡り、北海道にも渡った。

8月6日は広島に原爆が落とされた日、そして平和祈念式が行われる日。その日、広島でダニエルは誕生日を迎えた。北海道の白老ではアイヌの社会・歴史に触れた。富士山の見える富士宮市ではラサレットにプロポーズをした。なんと新婚ほやほやではないか。

あとで知ったのだが、ダニエルは地元のローカルテレビ局で自分の番組を持っている。インタビューはその番組のためのものだった。後日、いわき市民にもインタビューした。私もあれこれ質問を受けた。

大学で教えているのは、日本の1980年代以降の歴史だという。つまり、現代史。ということは、社会学の領域とも重なる。画家阿部幸洋の妻・すみえちゃん(故人)に学んだ日本語は、まだ片言レベルだが、それがかえって若い人たちには親しみやすかったかもしれない。私の場合はいちいち質問の趣旨を確かめながらのやりとりになったが。

2019年8月29日木曜日

ホームステイ①顔を合わせるまで

発端は3年前――。スペイン中部のラ・マンチャ地方、トメジョーソに住む画家阿部幸洋が毎年、ふるさとのいわきで新作展を開く。彼とは20代からの付き合いだ。「ラサロの弟が大学で日本の歴史を教えている。いわきに来たいと言っている。そのときはよろしく」
ラサロは、阿部の妻・すみえちゃんが亡くなる前、かわいがっていた近所の子だ。36歳になった今は、「アート&デザイン」の仕事をしている。すみえちゃんが亡くなって間もない平成22(2010)年2月、阿部の個展に合わせて来日し、わが家へも顔を出した。

その弟・ダニエル(32)は高校生のとき、すみえちゃんに日本語を習った。日本に興味があって勉強を続けたらしく、今は地元のUCLM(カスティーリャ=ラ・マンチャ大学)で教鞭をとっている。大学はトメジョーソから西に100キロほどの県都シウダー(ド)レアルにある。車ならトメジョーソから2時間の距離だ。

ダニエルはこの2年間、夏休みを利用して日本、そして去年はいわきを訪ねている。3年目の今年(2019年)は、いよいよわが家(正確には、道路向かいの故伯父の家)へ――となった。

まずは、5月下旬。グラナダといわきを行ったり来たりしているヤヨイさんから、フェイスブック経由で阿部がメールアドレスを知りたいといっている、と連絡が入った。東日本大震災が発生したとき、ラサロからメールをもらったが、こちらの連絡先がわからなくなったのだろう。ヤヨイさんにアドレスを送り、転送してもらう。

 6月24日、ダニエルから最初のメールが入る=写真。8月15日から25日(実際には24日)までいわきに滞在したい、幸洋さんが「たかはるの家に泊まれる」といっていた、とてもうれしい――といったことが、超文法の文章で書かれていた。

 翌25日、今度はラサロからメールが届く。スペイン語で書いた文章を自動翻訳機にかけて出てきた日本語の文章をそのまま送ってきたような印象だ。一度会って話したことがあるだけに、意味はなんとか読みとれる。メールの末尾には、9年前にいた猫が生きているなら、こんにちはといって、とあった。

 7月下旬には、「1週間前に日本に着いた、私たちはスペインのテレビのためのドキュメンタリーに取り組んでいる、日本中を旅行している」というメールがダニエルから入る。私たち? 妻と一緒だった。そして8月13日早朝、「あさっていわきに着く」、15日朝には「札幌からいわきまで10時間半ぐらいかかる、いわき駅には夜の7時過ぎに着く」というメールが――。

 問題はいわき駅からわが家までの足だ。夜、私が街で酒を飲んだときそうするように、駅前からタクシーに乗る、運転手に「かべやの旧道、お願いします」という、降りるときは――と、メールで手順を説明したが、通じなかったようだ。「あとは電話で」と念を押しても、電話もかかってこない。

そのうち7時半になった。タクシーを使えばとっくに着いていい時間だ。パソコンを開いてメールをチェックする。ん!「いわきに着いています。草駅にも行きます」。草駅? 草野駅か。常磐線の時刻表を確かめると、いわき駅発19時25分、草野駅着同30分の広野行きの電車があった。不意を突かれた。

まだアルコールを口にしていなかったので、あわてて草野駅へ車を走らせた。が、駅には車も人もいない。改札口に立って暗いホームを見る。と、事務所に駅員がいる。窓ガラスをトントンやると、やって来た。「外国人が降りなかったですか」「降りた、男と女」。了解! 歩いてわが家へ向かっているのだ。お礼を言って、車に戻る。

2人は最初からタクシーには乗らず、電話もかけずに、歩くつもりだったのだ。スマホで確かめたら、わが家まではいわき駅より草野駅の方が近い。何分かかろうが、とにかく歩けばいつかは到着する。そんな判断をしたのだろう。

すでに夜である。道は暗い。それらしい歩行者を探しながら、ゆっくり進むと、草野駅とわが家の中間、神谷マルト店の手前右側歩道を、大きなトランクをガラガラ引いて進む2人が目に入った。車を止めて大声で尋ねる。「ダニエル?」「そうです!」。時間にすると小一時間、気をもんで、もんで、もんだ末にやっと2人をピックアップした。

2019年8月28日水曜日

4年ぶりの「ヤトイ」

 日曜日(8月25日)、夏井川渓谷の隠居の畑で三春ネギを掘り起こし、4年ぶりに「ヤトイ」という作業をした。ヤトイとは、溝を斜めに切り、ネギを伏せ込む(寝かせる)ことをいう=写真。
ネギは砂漠生まれ。乾燥には強いが、湿気には弱い。地下水位が高かったり、作土が少なかったりする土地では、ネギの白根(葉鞘)を長くするためにヤトイをする。須賀川の「源吾ネギ」、郡山の「阿久津曲がりネギ」、仙台の「曲がりネギ」がそうだ。

渓谷の小集落で栽培されている三春ネギは、夏井川の最上流、田村郡から伝来した。「阿久津曲がりネギ」と地続きの同郡(田村市も含む)では、8月中旬、定植したネギを掘り起こしてヤトイをする。今年(2019年)はそれにならった。ならわざるをえなかった。

今年の梅雨は日照不足と長雨で土中の湿気が高まり、ネギの根が酸欠状態になってかなりとろけた。晩春に300本を定植したのが、掘り起こして数えたら70本、4分の1に減っていた。

8月に入ると一転、猛暑が続いたが、月遅れ盆が過ぎたらまた曇雨天が戻ってきた。このままほうっておくと、ネギは全滅しかねない。

植物は一般にまっすぐ天をめざしてのびる。斜めに植えられたネギは、葉が天をめざす。自然と曲がりネギになる。曲げることには別の意味もある。ネギにとってはストレスがかかることから、それに負けまいと糖分を蓄える。つまり、甘みが増す。

 隠居の庭は盛り土をしてつくられたとはいえ、すり鉢の底のようなところに位置している。地中に水がたまりやすい。ネギの栽培を始めてからずっと、田村地方にならってヤトイをしていたが、ネギの苗と種を分けてくれたおばちゃんに聞くと、曲がりネギにはしない、という。する必要もなかった。畑は斜面にある。土に浸み込んだ雨はすぐ下方へ去る。

ヤトイを省略してまっすぐな三春ネギにできるなら、それにこしたことはない。手抜きをした3年間は天気がまあまあだったので、作柄を気にする必要はなかった。が、今年は梅雨にやられた。今朝も雨。森のキノコにはいいが、畑のネギにはよろしくない。

2019年8月27日火曜日

岩山が崩れたワケは?

 きのう(8月26日)の続き――。先端に摩崖仏のある岩山が、土曜日(8月24日)深夜、崩落した。いわき市平と小名浜を結ぶ基幹道路・鹿島街道沿いで起きた大事故だ。さいわい人的被害はなかった。
 夕刊・いわき民報=写真=で事故の詳細を知る。岩山では戦前から戦後にかけて、石が切り出された。内部に大きな空洞ができていた。岩質は砂質凝灰岩。もろいために自然風化と崩壊が著しかった。これに鹿島街道拡幅工事による岩肌露出、通行車両の微震、排気ガス、度重なる地震や近年の集中豪雨など、さまざまな要因が重なって大崩落が起きたらしい。

 近隣住民が事故のおよそ1時間前(午後9時50分ごろ)、「“ダダダダ”という大きな物音を二度ほど耳にした」そうだ。市指定文化財の「久保摩崖仏」を所有・管理する地元の金光寺住職なども、岩山は空洞化して内部の支えが弱く、「疊大の岩が落下することがしばしば」といっているから、内部の崩落が絶えなかったようだ。

 事故の一報が入ったとき、真っ先に思い浮かんだのが風化した摩崖仏の姿だった。それから、そばの旧道が脳裏に浮かび、住職の心痛を思った。

半世紀以上も前の昭和30年代後半、平―小名浜間をほぼ直線的に拡幅する工事が行われていたころ、平高専(現福島高専)が沿線に開校した。私は3年目に入学した。学校から平寄りの新・鹿島街道はまだ工事中で、未完成の道路を利用して平(現いわき)駅前へ遊びに行くのに、今でいうヒッチハイクでダンプカーに乗せてもらったこともある。

バスはくねくねして狭い旧道を通っていた。初期の通学生はこのバスで街と学校の間を往復した。

それよりさらに10年ほど前の記憶――。祖母に連れられて阿武隈の山里から汽車で平(現いわき)駅に着き、鹿島街道経由の路線バスで小名浜へ行ったことがある。小名浜に叔父が住んでいた。平市から磐城市鹿島町に入ると、それこそ当時はやった歌謡曲、♪田舎のバスはおんぼろ車(ぐるま) デコボコ道をガタゴト走る……(三木鶏郎作詞・作曲、中村メイ子歌「田舎のバス」)そのものだった。

山裾を縫うようにして狭い道をくねくねと進んだバスは、摩崖仏のある岩山の先端を回りながら鹿島・御代~小名浜へと向かったように記憶している。

摩崖仏を所有する寺の住職とは、若いころ、職場を共にした。私より2歳年上だが、職場へは少し遅れて入ってきた。早々と記者を辞めて、京都へ茶の修行に行った。それもあって、今度の事故ではヤジウマではいられない。

2019年8月26日月曜日

鹿島の摩崖仏無残

 きのう(8月25日)の早朝、ツィッターとNHKニュースで知って、愕然とした。いわき市平と小名浜を直線的に結ぶ県道(鹿島街道)沿い。小名浜寄りの鹿島・久保と船戸の境にある「久保摩崖仏」(2009年、市指定文化財)が、いや正確には4体の摩崖仏を刻んだ岩体の先端が崩落した。
 鹿島に住む2人の知人のブログによると、崩落前の岩体はこんな状況だった。家の土台石や石塀に使うため、昭和30年代初めまで岩体から石の切り出しが行われた。そのため、内部には空洞部分があった。鹿島街道が直線化されるとき、岩体のすそ野が削られた。岩質は凝灰岩なのでもろい。鎌倉時代に彫られた摩崖仏もかなり風化が進んでいた。

 市の文化財に指定された当時から、「岩体崩落への強化処置」が課題になっていた。目の前の県道を通る車の振動、排ガスの影響も懸念されていた。で、道路に面して落石防止用のフェンスが設けられ、立ち入り禁止の看板も立てられた。

 いわき民報がホームページを「臨時更新」して速報した。それによると、24日午後11時ごろ、山崩れが起き、約40メートルにわたって道路をふさいだ。付近1・5キロが交通規制された。人的被害はなかった。暫定復旧には1週間がかかるという。

 もう28年前になる。大谷石を採掘した栃木県大谷町の地下の廃坑で、大規模陥没事故が起きた。大谷石(軽石凝灰岩)の採石場をうたった、作家で詩人の伊藤桂一の散文詩「石の国の風景」を思い出した。当時、いわき民報で連載していた拙コラム「みみずのつぶやき」から引用する(かぎかっこ部分が詩)。

 ――大谷石は地下から切り出される。崩落防止のため、五間四方を掘っては同じ容積だけ残していくのだが、百メートルも下に掘り進むと、「五間四方の石の柱は、まるで線香でも立てたように、細く、たよりなくみえる。石の柱は、風化し、微動し、なにかの作用でふいに崩れる。すると、石の奈落の底にいる人たちは、石の大破片の下敷になり、そのまま石のなかにはめ込まれてしまうのである」――

 鹿島の岩体の内部にある石の柱も、「風化し、微動し、なにかの作用でふいに崩れ」たか。その「なにか」のひとつが、2011年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震だったかもしれない。

きのうの夕方、用があって出かけた帰りに現場を見た=写真。道路の片側を土砂と岩のかけらが埋めていた。あとで、知人のフェイスブックで知ったが、摩崖仏は無残な姿をさらしていたという。

2019年8月25日日曜日

堤防の草刈り

 夏井川は大滝根山の東南麓から始まる。その裏側、同山の西北麓で生まれ育った。夏井川は、ふるさとと現住地のいわきをつなぐ“紐帯(ちゅうたい)”だ。
 散歩していたころは毎日、夏井川と対面した。今は平の街へ行くときか帰りに、堤防を利用して夏井川と向き合う。春、ウグイスがさえずり、ツバメが南から渡って来る。夏、堤防の草が生い茂る。秋、ハクチョウが北からやって来る。冬、水鳥の数が増える。夏井川の“定線観測”をしていると、季節の移り変わりがよくわかる。

 住民と夏井川とのかかわりも、行政区の役員を引き受けてから見えるようになった。早春の夏井川の堤防と河川敷の野焼き、そして定期的な草刈りを、近隣の行政区が河川管理者から委託されて実施している。

 野焼きには、対岸・下流の住民から苦情が寄せられることもある。今年(2019年)はそれで、わが区の隣の区では野焼きを中止した。枯れて脱色したヨシ原が広がったままのところへ、新しいヨシが生え、育ち、今では丈がそろって、緑色の髪に黄土色のメッシュが入ったようだ。

 1週間前の日曜日(8月18日)、その区より上流の行政区で堤防の草刈りが行われた。

早朝5時過ぎ、夏井川渓谷の隠居へキュウリを採りに行った。平の街へ戻り、夏井川の堤防へ出ると、人がいっぱいいた=写真上。旧知の前々区長さんがいる。前区長さんもいる。現区長さんもどこかにいるはずだ。それぞれが草刈り機か鎌を持っている。月遅れ盆が明けて最初の日曜日、朝7時。人がひしめく間をそろりそろりと車を進めた。

翌日午後、街へ行った帰り、また堤防を通った。草が刈られてきれいになっていた=写真下。草刈りを請け負った場所はここまで――そうとはっきりわかるところがある。隣区との境がそこなのだと知る。隣区もいつか草刈りをやるのだろう。

 わが区は隣区から分離・独立した。300世帯強が加入しているが、農家はゼロ。草刈り機を持っている人は何人いるだろう。

一斉清掃や球技大会、体育祭など、どの区にも共通する行事はある。しかし、川が流れ、田畑があって農業用水路が張り巡らされている区と、サラリーマンが主体の区とでは、自然とのかかわり方がまるで違う。わが区にはみんなが出て草を刈らねばならないようなあぜ道も、堤防も、川もない。それぞれの区にはそれぞれの事情・課題がある。結局、住んでいる区が一番――という思いになった。

2019年8月24日土曜日

浅漬けと古漬けと即席漬け

夏井川渓谷の隠居で栽培しているキュウリが次々と実をつけている。間もなく終わり、という意味では今が絶頂か。
日曜日と、週半ばの水・木曜どちらかの日、採りに行く。おととい(8月22日)は苗2本から大・中14本が採れた。小さいものはすぐ糠床に入れ、形のいいものを3本、小口切りにして、ナスとミョウガ(これはみじん)の即席漬けにした。夕方の食卓に古漬け(糠床に2、3日置いたもの)と即席漬けを並べた=写真。

 夏の暑さが続くときには、浅漬けだけでなく、塩分の濃い古漬けも欲しくなる。小さいキュウリはたいていそうする。これも小口切りにして食べる。塩気が強ければ少し水にさらす。採りたてを漬けるから、どちらも歯ごたえはいい。

7月は、自産のキュウリだけでなく、カミサンの知り合いからたくさんキュウリが届く。毎年のことなので、糠床とは別の甕(かめ)を用意して、塩だけの古漬けにする。こちらは冬に食べる。

その甕が今年(2019年)はない。去年から梅漬けに使っている。梅がまだ残っている。で、糠床で浅漬けと古漬けの両方をつくってきた。

しかし、一度に14本も採れた日には、糠床だけでは間に合わない。即席漬物容器がある。おとといは夕方、思い立って即席漬けもつくった。2時間ばかりで、糠床の浅漬けとは違った鮮やかな緑色の漬物ができた。

きょう(8月24日)は朝、15日からホームステイをしていたスペインの若い夫妻が東京へ戻る。週明け早々には帰国する。ゆうべ、実質8日間のいわき滞在最後の日、少しアルコールを飲みながら話した。

奥さんはベジタリアンだ。なにかないか。自産のキュウリがまだある。即席漬けを食べさせたい。前はキュウリ・ナス・ミョウガだったが、今回はこれに大根を加え、底に小さい昆布を敷いた。夜7時、2人が外出から戻ってくる。押し蓋付きの即席漬物容器に入れてから2時間ちょっと。いい塩梅に即席漬けができあがっていた。

夕食はまだだというので、カミサンがハムソーセージ抜きの冷やし中華を出す。英語を交えて即席漬けの説明もする。2人はどちらも「おいしい」という。実際、塩と昆布でほどよくまろやかな味になった。自分でいうのもなんだが、うまくできた方だ。「おいしい」という言葉を素直に受け止めた。

2019年8月23日金曜日

車のガソリンが4分の1に

 東北地方太平洋沖地震が発生した平成23(2011)年3月11日。車のガソリンは、燃料計で見る限り4分の1もなかった。
  翌12日午後3時36分、住まいから40キロ北の東電福島第一原発で1号機の建屋が爆発する。4分の1のガソリンでどこまで避難できるか。悶々としているうちに14日午前11時1分、今度は3号機の建屋が爆発する。

15日昼過ぎ、カミサンの実家に寄り、義弟が買っておいた携帯タンクのガソリンをもらって補給し、息子一家、義妹母娘と2台の車で避難を始めた。国道49号を中通りへと向かい、同4号へ出て南下し、真夜中、白河市の奥、標高1000メートルほどの西郷村「国立那須甲子青少年自然の家」に着いた。スクリーニングを受けた白河市の県南保健所の紹介だった。

 高原の施設にのべ9日滞在した。23日に帰宅したが、帰りもまた燃料計を見ながらの運転になった。ガソリンスタンドではまだ補給が難しかった。

当時のブログから帰路の様子を振り返る。まず、車載の取扱説明書をじっくり読む。ガソリンは満タンで42リットル。燃料計は目盛りの数から一刻み当たり約1.8リットルの計算になる。車はフィット。「リッター20キロ」としてガソリン残量7.2リットル、140キロ超は走行が可能。いわきへの最短コース、国道289号を利用すればガス欠をせずに帰宅できる、とみて、山を下りた。

 ただひたすら南東方向のいわき市へ――。西郷村~白河市~棚倉町~鮫川村と進んだところで、燃料計のスタンドマーク(残量警告灯)が点灯した。警告灯は残り7リットル前後で点灯する、と取扱説明書にある。ガソリンは、思っていたよりは多くあったことになる。そのおかげで、正午すぎにはなんとかわが家へ帰還することができた。

これほどガソリンに悩まされたときはない。以後、この避難行が“教訓”になって、燃料計の針が半分を指すと、すぐ満タンにする癖がついた。

ところが、である。月遅れ盆をはさんだ今年(2019年)の8月中旬は、遠出する機会が多かった。日曜日に山里巡りをした。お盆に入ると新盆回りをした。わが家にホームステイしているスペイン人夫妻を、暮らしの伝承郷や豊間・薄磯の海に連れて行った。夏井川渓谷の隠居へキュウリを摘みに出かけた――。で、きのう(8月22日)、燃料計を見たら、半分を割り込んで4分の1しかガソリンがない=写真。あわてて行きつけのスタンドへ駆けつけた。

燃料計の針が半分を指しているときには、まだ平穏でいられる。4分の1しかない!と気づいたとたん、8年5カ月前の記憶がよみがえってきて(いや、襲ってきて、といった方が正確だ)、心穏やかではいられなかった。息苦しくなるほどではないが、落ち着かない。意識の底には、事故を起こした原発への不安がまだしこっている。

2019年8月22日木曜日

初めは「北加伊道」

 月に1回やって来る車の移動図書館からカミサンが借りた本に、『チコちゃんに叱られる』(小学館、2019年)があった。NHKの同番組制作班によるブックレットだ。「人と別れるとき、なぜ手を振る?」「なぜ線香をあげる?」「乾杯のカチンってなに?」など、17項目について問答形式で解説している。細部は忘れたが、全部見た記憶がある。
 最後の17問「どうして北海道だけ『道』?」はじっくり読んだ。ざっと1カ月前の7月15日夜、同じNHKで北海道150年記念ドラマ「永遠のニシパ~北海道と名付けた男 松浦武四郎~」が放送された。そのドラマのシーンを重ね合わせながら。

いわきから北海道へ開拓農民として渡り、地元の更科源蔵らと交流した詩人がいる。猪狩満直(1898~1938年)。好間・菊竹山で開墾生活を送った吉野義也(三野混沌)・せい夫妻の盟友だ。

せいの作品集『洟をたらした神』に収められている「かなしいやつ」は、満直の思い出の記でもある。その注釈づくりの過程で、政府の北海道移民政策や移住後の満直一家の暮らしぶり、満直の理想とする農業のかたちなどを知った。

更科らと発行した同人誌に「北緯五十度」がある。北緯50度は樺太(現サハリン)の中央を横切る。先の敗戦まで、そのラインがロシアと日本の国境だった。平成28(2016)年8月、学生時代の仲間と南樺太を訪ね、宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」の発想を得たとされる白鳥湖や栄浜駅跡などを巡った。

賢治だけでなく、満直、混沌・せいのことを調べていると、樺太を含めた北の大地にも目がいく。その延長で松浦武四郎(現三重県松阪市出身、1818~88年)のドラマを見たのだった。

武四郎を演じたのは「嵐」の松本潤。幕末、蝦夷地を探検し、明治2(1869)年、明治政府の開拓判官となり、政府の要請で新しい地名案=千島道・海北道・東北道・北加伊道(ほっかいどう)・海島道・日高見道の六つ=を出す。そのときの会議の様子がこれ=写真。

「チコちゃん」の本のなかで松浦武四郎記念館(松阪市)の学芸員が語っている。「加伊」はアイヌ語で「この国に生まれた者」という意味。すなわち、「北加伊道」は「アイヌが暮らしてきた北の大地」で、武四郎は「北加伊道」(のちの北海道)に、アイヌへの深い思いを込めた。

「道」はそれこそ「でっかいどう」の「どう」だ。北海道大学の教授によると、道(どう)は道(みち)であると同時に、広い範囲を表す言葉でもある。「五畿七道」プラス北海道で、政府には「五畿八道」のイメージがあった。これも「かなしいやつ」の注釈に加える。

2019年8月21日水曜日

「今年はじゃんがらを見なかったねぇ」

「今年(2019年)は、じゃんがらを見ないで終わったねぇ」。月遅れ盆が明けると、カミサンがつぶやいた。一行が道路を歩いているところは見た=写真下。しかし、新盆家庭の庭で躍動する姿はお目にかかれなかった。
「じゃんがら念仏踊り」という伝統芸能がいわきにある。研究者によれば、じゃんがらが磐城地方に伝わったのは江戸時代初期。青年会が伝承し、新盆の家々を回って念仏を唱え、踊る現在の形になったのは、近代以降のこと。それ以前は老若男女が思い思いに輪をつくって唱え踊ったらしい。

いわき市は昭和41(1966)年10月、常磐地方14市町村が合併して誕生した。当時は日本一の広域都市だった。旧市町村の垣根が残っていて、なかなか一体化ができない――議会では、そんな議論が何年も続いた。ところが、「じゃんがら念仏踊り」の網をかぶせると。いわき市はすっぽり「じゃんがら文化圏」に入る。一体化できないどころか、市民は「じゃんがら」で一つになれる。

 その点では、じゃんがらの鉦の音は「いわきの鉦の音」であり、リズムは「いわきのリズム」、歌は「いわきの歌」になる。いわきで生まれ育った人間は母親の胎内にいるときから、じゃんがらの鉦の音とリズムと歌をゆりかごにして育つ。「今年はじゃんがらを見なかったねぇ」は、いわきの夏の“芯”に触れられなかったいわき人の寂しさを物語る。

 日曜日(8月18日)に、ホームステイをしているスペインのダニエル夫妻を、「キッズミュージアム2019in伝承郷」が開かれる暮らしの伝承郷に連れて行った。常設展示室の映像コーナーで、大型スクリーンに映るじゃんがら念仏踊りを見せた。これが、私ら夫婦にとって「今年見たじゃんがら」になった。

 いやいや、それで終わりではなかった。きのう(8月20日)の夜、夏井川流灯花火大会が開かれた。いわきの夏まつりの最後を飾るイベントだ。この「送り盆」をダニエルたちに見せたい、じゃんがら念仏踊りも奉納される、というわけで、まだ明るいうちに出かけた。
彼らにとってはたぶん、最初で最後の、生のじゃんがらだ。私らもこの夏、生を見るのは初めてだ。チャンカチャンカが始まる=写真上=と、2人は動画を撮り続けた。「いわきの夏といえば、じゃんがら」。くどいくらいにこれを客人に強調した。

2019年8月20日火曜日

回顧展オープニングパーティー

前衛陶芸の「緑川宏樹回顧展/風は結晶する」が8月25日まで、いわき市平のギャラリー界隈とアートスペースエリコーナで開かれている=写真下(エリコーナ)。
初日(8月18日)の日曜日午後5時から、オープニングパーティーがエリコーナで開かれた。いわき陶芸協会、緑川を支援してきた陶友会関係者、緑川と親交のあった美術家など、ざっと40人が出席した。

 同展を主催した実行委員会のメンバー11人の半数は、元草野美術ホールの“同窓生”だ。

昭和40年代、いわきの美術シーンをリードした同ホールで、私は画家松田松雄や山野辺日出男と出会った。今はスペインにいる画家阿部幸洋を知ったのは、彼が20歳を過ぎたころ。やがて陶芸の緑川卓志・宏樹兄弟とも酒を酌み交わすようになった。そのネットワークの中でいわき市立美術館建設請願へと市民運動が始まる。松田と緑川(宏)が運動を牽引した。

主催者あいさつのあと、緑川の長女・志保さん(横浜)、いや、「さん」ではよそよそしい、志保ちゃんが謝辞を述べた。緑川宏樹といえば「紙ヒコーキ」。「48年前、母が紙飛行機をつくっていたのを父が見て、発想した」という。なるほど、日常のひとこまから前衛作品が生まれたのか。

パーティーが始まる1時間前、エリコーナのドアを開けると、志保ちゃんが駆け寄ってきて、「ごぶさたしてます、志保です」。「おおっ」。こちらも外見は変貌したが、志保ちゃんも大人になった。「私、もう50歳になります」。これには驚いた。

 記憶にはっきり刻まれているのは、志保ちゃんが小学校低学年のころだ。夏になると、松田一家、緑川一家、その他合わせて7家族くらいがわが家に集まって「カツオパーティー」を楽しんだ。大人はカツオの刺し身をつついて酒を飲み、志保ちゃんら子どもたちは庭で花火をやり、それにあきると茶の間の白いふすまに親公認の落書きをしたりして遊んだ。志保ちゃんが50歳なら、ほかの子どもたちも40代半ばになっている。

親は親。子どもたちもまた、それぞれの道を歩んでいる。たとえば、松田の長女・文(あや)ちゃん。今は千葉県いすみ市に住み、地域おこし協力隊の仕事をしながら、「アヤトピア」の名でシンガー・ソング・ライターの活動を続けている。最近、初のアルバムを出した。朝日新聞の千葉県版に記事が載った。その記事が月遅れ盆明けの17日、福島県版に転載された=写真右。

パーティー会場で母親、つまり松田の奥さんがマイクを向けられ、文ちゃんの音楽活動にも触れた。参会者に十分伝わったとは言い難かったので、フェイスブックでニュースに触れていた私が補足説明をした。

文ちゃんは平成27(2015)年、未刊だった父親のエッセー集『四角との対話』を入力し、同年10~11月、岩手県立美術館(盛岡市)で開かれた松田の回顧展に合わせて発刊した。
 
『四角との対話』は昭和54(1979)年、夕刊いわき民報に同題で1年間、週1回連載された。私が彼と対話しながら、原稿の事前校正をした。文ちゃんによって電子書籍化(紙本も発行)された際にも校正を頼まれた。「あとがき」と書籍PR用のコピーも書いた。そんなことも補足説明の中で触れた。

松田自身が書籍化を試み、印刷所に入稿しながら、いつの間にか作業が中断した。その後、闘病、死へと至り、単行本は幻になったと思っていたら、文ちゃんが遺志を引き継いだ。私は、胸のつかえがとれた思いがした。

 パーティーでは、草野美術ホールの“同窓生”と旧交をあたためながらも、次の世代へと作品が引き継がれていく時期がきた、生身の松田・緑川を知っている世代から、生身の作家は知らなくとも、作品を通じて松田・緑川を発見する――回顧展がそういう契機になればいい、という思いを強くした。志保ちゃんに会い、文ちゃんの話をしたことが大きい。

それと、もう一つ。スペインにいる阿部の妻・故すみえちゃんがかわいがっていた近所の子ども(兄弟)がいる。兄のラサロ(36)は、「アート&デザイン」の仕事をしている。「3D」で大きな倉庫のデザインなども手掛ける。すみえちゃんが亡くなって間もない平成22(2010)年2月には、阿部の個展に合わせて来日し、わが家へも顔を出した。

ラサロの弟のダニエル(32)はすみえちゃんに日本語を習った。スペインの大学で教えている。妻のラサレット(28)とともに来日し、日本各地を巡ったあと、月遅れ盆の15日からわが家(実際には道路向かいの故伯父の家)にホームステイをしている。ダニエルも、阿部のつながりでいえば「次の世代」の人間だ。若い力を感じるなかでの回顧展オープニングパーティーになった。

2019年8月19日月曜日

TUFの戦争特集

 知り合いの記者がいる。カメラマンもわが家へ顔を出す。で、宵の6時台はテレビユー福島(TUF)を見る。今年(2019年)の「特集・戦後74年」は、いわきがらみが2本。時間がないなかでよくがんばってつくった、というのが率直な感想だ。
 1本は8月13日放送の「いわき市にある慰霊碑 知られざる軍馬の歴史」=写真上。遠野町にある「軍馬戦没慰霊碑」にまつわる物語を掘り起こした。

先のアジア・太平洋戦争中、歩兵第85連隊(会津若松)で馬を使って弾薬などを運んだ兵士がいる。その一人、遠野町の折笠章さんが復員後、何度も「夢枕に馬が出てくる。供養してやらないとだめだ」と、同じ部隊にいた仲間たちと一緒に軍馬の慰霊碑を建てる。折笠さんの甥や地元の識者、みやぎの近現代史を考える会の長谷川栄子さんらにインタビューして番組をつくった。

もう1本は15日の「終戦直後にB29 いわきの捕虜収容所」=写真下。好間の捕虜収容所に救援物資を投下しようと飛来したB29が濃霧のために針路を誤り、現いわき市内郷白水町地内の湯ノ岳中腹に激突する。前半にそれを紹介し、後半に好間の捕虜収容所の暮らしや、落盤事故が相次いだ炭鉱労働の様子などを伝える。事故を目撃した渡辺為雄みろく沢炭鉱資料館長らが登場した。
古河好間炭鉱の捕虜収容所については、POW(プリズナー・オブ・ウォー=戦争捕虜)研究会事務局長・笹本妙子さんのレポートが詳しい。吉野せいの『洟をたらした神』に収められている「麦と松のツリーと」も引用し、さらに通訳N氏の娘さんから提供された当時の写真も掲載して詳細を極める。

その写真だけでなく、笹本さん自身にもインタビューして、番組の内容が深みを増した。個人的に『洟をたらした神』の注釈づくりをしているので、「麦と松のツリーと」の注釈に、この番組名も付け加えよう。

笹本さんは調査の過程で「(元捕虜から)会うことができないと断られた。激しい憎しみを持っている人がいるなんて知らなかった」と、戦後も苦しんでいた捕虜がいることを明かす。番組は「戦争の記憶に苦しんでいる人が世界中にいる」ということばで終わる。「戦後」が「戦前」にならないことを祈るばかりだ。

2019年8月18日日曜日

避暑を兼ねて図書館と市民講座へ

 月遅れ盆が明け、台風10号が北へ去ったとたんに猛暑が戻ってきた。きのう(8月17日)のフェイスブックに「現在、いわき駅前の温度計、点滅で39℃」とあった。先日も同所で「39℃」の表示を見た。いわき市内にあるデジタル表示の温度計では、いわき駅前が最も高い数値を出すのではないか。こんな日には、同駅前は人のうろつく場所ではなくなる。
 お盆の15日からわが家(実際には道路向かいの故伯父の家)にホームステイをしているスペインのダニエル夫妻が常磐へ行くというので、午前11時過ぎにいわき駅まで車で送り届けた。そのあとラトブへ移動し、図書館に本を返した。知り合いがたまたまカウンターにいた。つい「図書館に避暑に来た」と本音がもれる。「どうぞ、どうぞ、ずっといてください」。

 新たに借りる本はホームページでチェック済みだ。メモを見ながら、キノコに関係する本を探していると、たちまち1時間が過ぎた。冷房のおかげでだいぶ汗が引いた。

午後2時からはいわき市文化センターで、いわき地域学會の第349回市民講座が開かれる。役員会もある。酷暑のわが家へは戻らず、会場の視聴覚教室で借りてきた本を読みながら開講時間を待った。こちらはだいぶ冷房が効いている。

講師は小宅幸一幹事、演題は「花街の盛衰③―華やかな夜を彩る芸妓の世界②」で、酷暑の中を30人近くが訪れた=写真。

午後4時半過ぎには役員会が終わった。図書館と文化センターに滞留することおよそ5時間。この夏初めて、暑熱と無縁の空間で日中を過ごした。

さて、夕方になったとはいえ、外は熱気に包まれたままだ。文化センターの自動ドアが開いたとたん、暑く湿って重い空気がまとわりついた。画家阿部幸洋の妻すみえちゃん(故人)が夫とともにスペインから里帰りしたとき、わが家へやって来て、「日本の夏の空気は湿って重い。その中をかき分けて歩くような感じ」と、スペインの乾いた空気との違いを言っていた。

それを思い出したのはダニエルがいるからだ。ダニエルは高校生のとき、すみえちゃんから日本語を学んだ。漢字はいまひとつだが、日常会話はそれでなんとかこなせる。いい機会なので、日本の夏の湿潤と猛暑の感想を聞こうと思っている。

きょうは日曜日、18日。これからとんぼ返りで夏井川渓谷の隠居へキュウリを採りに行き、9時には2人を市暮らしの伝承郷に案内する。「キッズミュージアム2019in伝承郷」が開かれる。頭のなかで「かき氷」の旗がひらひら揺れている。

2019年8月17日土曜日

精霊送り始末

 きのう(8月16日)の朝、精霊送りが行われた。精霊流しではない。いわき市では環境美化の観点から、場所と時間を決めて盆の供え物を回収し、焼却する。
 わが区では毎年、県営住宅集会所前の庭に祭壇を設けて、早朝6時から収集車の来る9時近くまで(ほんとうは8時までだが)供物を受け付ける=写真(受け付け開始の6時少し前の様子)。区の役員が事前に役割分担の打ち合わせをし、15日夕に祭壇をつくる。16日早朝には交代で立ち会い、収集車が現れると総出で供物を積み込む。

 祭壇をつくるためには細い竹、杉の葉、ホオズキ、縄が要る。集会所前には路上駐車が絶えない。車があると、供物の受け取り・焼香に支障をきたす。14日には駐車自粛の立て看を設置する。水面下での準備がいろいろある。

立て看設置、竹・杉の葉の調達が私の役目だ。竹はちょうどいいのが、わが家の道路向かい、故伯父の家の庭にある。それを切り出す。区の役員になっておよそ10年。この祭壇づくりのために、月遅れ盆を利用してどこかへ遊びに行くようなことはなくなった。

 今年は台風10号の影響が心配された。ときどき気象情報をチェックしては、夕方5時からの祭壇づくりを3時に繰り上げようか、でもその後の予報では雨になる時間がずれ込みそうだ――気をもみながらも、予定通り祭壇づくりを行うことができた。

 当日朝の天気はどうか。風が強かった。南から北へと黒い雲が流れていく。焼香用のろうそくがたびたび消えた。雨は? 精霊送りが終わり、精進あげをすませて解散したとたん、ポツリポツリと降ってきた。タイミングとしてはドンピシャだった。月遅れ盆はこうしていつも天気が気にかかる。

 精進あげは、アルコール抜き(缶ビール1個とつまみを持ち帰ってもらった)の反省会だ。ホオズキは地元のスーパーに注文する。栽培農家が減ったために値段が高くなった。江戸時代の絵には、祭壇の正面だけに飾ったものがある。祭壇の周り全部に飾るのではなく、正面だけならホオズキは少なくて済む。来年は簡略化しよう、ということになった。

祭壇そのものも、昔は石段を三つのぼらないと焼香ができなかった。お年寄りにはそれがきつかった。で、4年前からは道路からじかに焼香できるように、祭壇の向きを90度変えた。少しはお年寄りの気持ちに沿うものになったように思う。

 いつも前例踏襲では事が進まない。前例を大事にしながら、そのときの状況に合わせて変えていく。

しかし、竹切りには注意が足りなかった。Tシャツ・半ズボンのまま、かがんで竹を切っていたら、足まで切ってしまった、蚊もいて、ノコを使うのだから、長ズボンをはくようにと、カミサンに言われていたのだが……。さいわい消毒液とバンドエイドだけで出血が止まった。ルーティンワークでも中身は毎回違う。今年は特に痛いお盆になった。

2019年8月16日金曜日

メキシコからの手紙

 月遅れの盆の入り(8月13日)に、メキシコから航空便が届いた=写真下1。いわきの画家峰丘が青春のひとときを過ごした同国へ渡って1カ月余。手紙には、世界文化遺産に登録された中央高原のまち、サン・ミゲル・デ・アジェンデに住んでいる、結婚してすぐ3年間、このまちで暮らした――といったことが書かれてある。
すると翌14日には、同趣旨の文章(寄稿)がいわき民報の1面に載った=写真下2。峰は昭和52(1977)年4月8日から翌53年3月8日まで、毎週水曜日、40回にわたって同紙にエッセー「カラベラへの旅」を連載した。私が担当した。いわば、ざっと40年ぶりの続編だ。随時、掲載されるらしい。
70歳を過ぎて、三度目のメキシコ暮らしに踏み切ったのは、昨年(2018年)秋、いわき市立美術館で企画展「峰丘展――カラベラへの旅」が開かれたことが大きい。生きているうちに“回顧展”が実現したのを機に、もう一度原点に戻って生きなおす、という気持ちになったのだろう。

 昨年の企画展に合わせて、同美術館友の会の会報で峰丘の特集を組んだ。本人の希望で以下の文章(長いです)を書いた。タイトルは「みんなカラベラになる」。峰との40年余のつきあいが土台になっている。
                 ☆
スペイン語で「骸骨」を意味する「カラベラ」という言葉を知ったのは28歳のときだ。
昭和51(1976)年11月19~24日、草野美術ホールで「峰丘 メキシコ展」が開かれる。市民は会場いっぱいに展示されたカラベラの極彩色の絵に度肝を抜かれた。
新聞記者5年目の私は、警察回りや展覧会担当から市役所担当に替わっていた。同ホールに出入りする一展観者として、同年齢の峰と出会い、メキシコのカラベラ文化を知った。日本では、忌み嫌われる「骸骨」が、メキシコでは笑いと再生の象徴として、暮らしの中に溶け込んでいる。虚を突かれる思いがした。
 人間は死ぬために生きる矛盾に満ちた存在だ。ならば、メメント・モリ、死を思いながらおおらかに生きていこう――湿っぽい「骸骨」にカラッとした「カラベラ」が融合し、死と生の意味合いが少し豊かなものになった。

これは峰丘著『カラベラへの旅』(PMC出版、1986年)を読み返して思い出したのだが、メキシコの新聞「週刊日墨」に掲載された文章が個展会場に展示されていた。それを見て、私がいわき民報への連載を打診した。
(略)あえて連載企画の趣旨を述べれば、読者には、異文化に触れることで偏見・先入観をほぐし、自分たちの暮らし方を見つめ直してほしい――そんな願望があった。
 峰の文章には歩行者の視点とリズムがあった。じっくり世界を観察し、耳を傾ける。そこから立ちのぼってくる滋味を、私は好んだ。ひょっとしたら、オレは絵描きである前に物書きである峰の文章のファンなのではないか、なんて思った。
文章に触れることで、さらに「人間は服を着たカラベラである」という認識が深まった。「歩くカラベラ」「考えるカラベラ」でいこうという自覚が増した。「カラベラへの旅」を機に、「カラベラの旅」が始まったのだ。今もその旅は続いている。

平成23(2011)年3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生する。人類が初めて経験する「原発震災」だった。それから5年後、11月恒例の個展の案内に、「ここ数年の体調の変化に、自分の生き方やメメント・モリを考えることが多くなりました」とあった。3・11を機に、文明の災禍に対する深海魚の怒りが加わった。画面からカラベラは消えたが、「怒るカラベラ」が生まれた。

(略)平成28(2016)年10月23日「いわきの現代美術の系譜」と題するシンポジウムが、平・大町のアートスペースエリコーナで開かれた。
 1部では、私と書家田辺碩声(敬称略、以下同じ)、佐々木吉晴いわき市立美術館長の3人が順に登壇した。2部では、さらに写真家上遠野良夫、峰が加わり、美術家吉田重信を司会に6人で座談を繰り広げた。
 テーマは、市立美術館の建設へとつながった市民団体「いわき市民ギャラリー」の活動と、その推進力になった画家松田松雄の人と作品を振り返り、いわき現代美術黎明期の熱を次世代に伝えていく――というものだった。
 私は「市民ギャラリー・前史」を念頭に、同ギャラリーを生み出す母体となった草野美術ホールと経営者の故草野健について話した。
 草野は昭和44(1969)年、こんにゃく屋を廃業して貸しビル業に転身し、3階に大きな展示場を設けた(最初は「渡辺ホール」、1年後に「草野美術ホール」と改称)。いつかは美術館を、という夢の実現に向けて、画家たちに安く、ときには出世払いで発表の場を提供した。やがて、立て続けに個展・グループ展が開かれるようになった。
 草野はまた、人と人とをつなぐネットワーカーでもあった。新米記者だった私はそこで阿部幸洋(現在はスペイン在住の画家)と松田に会い、田辺を引き合わされ、メキシコ帰りの峰を知った。「生涯の友」といえる人間とは、学生時代を除けば、この草野美術ホールで出会った。
峰と私は「草野美術ホールの同窓生」でもあった。

それだけではない。峰は、私が代表幹事を務めるいわき地域学會の副代表幹事も務める。画家と記者というより、一個人としての付き合いが途切れることなく続いている。集まりがあれば「飲み、食い、話し、笑うカラベラ」になる。
今ふと思ったが、カラベラには悲観や絶望、あるいは偽善に押しつぶされそうになっても、それをはねかえす力、ユーモアが備わっている。人間は生きているときからカラベラなのである。カラベラに、カラベラをいわきにもたらした絵描きに乾杯!

2019年8月15日木曜日

ネギとマツタケの話に

24年前、当時の区長さんのはからいで家々を回り、“新入り”のあいさつをした。週末だけの半住民だが、隣組にも入った。その区長さんが亡くなり、新盆を迎えた。きのう(8月14日)、夏井川渓谷=写真=の自宅を訪ねて焼香し、遺族と故人の思い出話にふけった。
渓谷の小集落・牛小川に義父が建てた隠居がある。阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件がおきた年の5月末、義父から隠居の管理を引き受けた。週休2日とは縁遠い職場、仕事を終えた土曜日の夕方、隠居に直行して泊まり、日曜日にはキノコを探して森を巡った。そのうち、庭を開墾して野菜の栽培を始めた。

区長さんの家で酒盛りをし、飲み過ぎて泊まった翌朝、ご飯をごちそうになったことがある。ジャガイモとネギの味噌汁が出た。ん、うまい! 子どものころ、田村郡常葉町(現田村市常葉町)の実家で食べていたネギと同じ味だ。甘くて軟らかい。聞けば「三春ネギ」だという。

牛小川の集落では、おのおの自家消費のために自分で種を採って三春ネギを栽培している。いわゆる地ネギ(昔野菜)である。

この一杯の味噌汁から、ネギの勉強が始まった。スーパーで売っているネギが硬いためにへきえきしていたところへ、子どものころ食べ慣れていた三春ネギに“再会”した。「自産自消」を試みるチャンスだ。まずは奥さんに苗を譲ってもらい、三春ネギの栽培を始めた。

ネギ坊主から種も採ったが、保存の仕方が悪くて2年続けて失敗した。秋の種まき時期まで冷蔵庫に保管しておく、と知ったのは3年目。これでやっと種を発芽させることができた。以後は、原発震災がおきても、「種を切らすわけにはいかない」と栽培を続けている。

区長さんも奥さんも、ネギ栽培の大恩人である。麦茶を飲んだり、ゼンマイや漬物を食べたりしながら、ネギの話になった。今の「いわきねぎ」を栽培したこともあるそうだが、太くて硬い。やはり、食味のいい三春ネギに戻った、という点では、私と同じだ。

そのうち、区長さんと水力発電所で一緒だった人が、65歳の息子さんとやって来た。息子さんは、施主とは幼なじみだ。顔が隠れるくらいに大きいマツタケを手にした写真があるという。施主も持っている、と応じた。小学校に上がる前のことらしい。「自分でマツタケを採ってきたのかな」と施主。「まさか」と私。

すると、区長さんの元同僚が、若いとき、区長さんと一緒に、前の山、後ろの山、あそこの山、あっちの山……と、マツタケ採りに歩き回った話をした。渓谷の山はどこでもマツタケが採れた、しあわせな時代だった。今は、大きな松の木は松くい虫にやられてあらかた枯れた。マツタケが共生するような若い松は数えるほどしかない。

私が区長さんを知って今年で丸24年、区長さんと元同僚の間にはそれこそ50年、60年という長い時間の蓄積がある。私は三春ネギ、区長さんの元同僚はマツタケ。それぞれの渓谷とのかかわり、原点を確かめるような新盆回りになった。