2019年10月8日火曜日

金田正一投手、逝く

 金田正一投手、逝く――。享年86だが、イキのいい現役のころの印象が強い。新聞の死亡記事=写真=を見ても、「さん」ではなく「投手」になってしまう。新人の長嶋茂雄三塁手、しかり。61年前の「あのとき」の「ありえない出来事」が2人セットでよみがえる。
 昭和33(1958)年4月5日、土曜日。プロ野球が開幕する。読売ジャイアンツの相手は国鉄(現ヤクルト)スワローズ。新人の長嶋がデビューするというので、家(床屋)のラジオの前に陣取った。9歳4カ月。4月から小学4年生になったばかり。とはいえ、学校は始まったか、春休み最後の土曜日だったか、記憶は定かではない。

スワローズの開幕ピッチャーは金田。終わってみれば、長嶋は4打席4三振。金田の速球と大きく曲がるカーブにきりきり舞いさせられた。

テレビが普及する前だ。ラジオは子どもにとっても身近な娯楽メディアだった。アナウンサーの声を介して、球場の雰囲気を、金田と長嶋の表情を想像する。しかし、三振、また三振、またまた三振……。ありえないことが起こった。ラジオの実況放送に、一喜一憂どころか“四憂”し、スワローズファンは“四喜”した。

あのとき、多くの人が今も語り継がれるレジェンド(伝説)の誕生に立ち会った。金田と長嶋だからこそできる“はなれわざ”だったのかもしれない。

そのころ、プロ野球、大相撲のほかは、月~金曜日の毎晩6時半から15分、NHK第一のラジオドラマ「一丁目一番地」を聴いた。主題歌の歌詞は忘れたが、メロディーはいまもはっきり覚えている。

昭和34年春には、『週刊少年マガジン』と「週刊少年サンデー」がほぼ時期を同じくして創刊される。春休みが終わって新学期が始まる、そんな時期の発売だった。ラジオ、漫画、やがてテレビ――。団塊の世代にたちまち新しいメディアが浸透する。幼年から少年に脱皮する時期と、高度経済成長期とが重なったことも大きい。

今回、ネットで検索してわかったのだが、金田対長嶋の初対決試合はスワローズが勝った。金田は翌日も登板して連勝した。この年は31勝14敗(今では想像もできない登板数だ)で、最多勝利投手になっている。長嶋もまた最多安打(153本)を記録し、本塁打王(29本)、打点王(92点)に輝いた。もちろん、最優秀新人賞に選ばれている。やはり、2人とも傑出したタレントだった。

 ついでながら、この年、セ・リーグはジャイアンツが優勝し、日本シリーズを西鉄(現西武)ライオンズと戦った。3連勝をして王手をかけたのはいいが、その後、4連敗してライオンズに優勝をさらわれる。稲尾和久投手はこの日本シリーズだけで4勝2敗という、とてつもない記録をつくった。「神様、仏様、稲尾様」といわれた。稲尾もまた怪物だった。

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