2019年10月9日水曜日

詩人新藤涼子さんの講演を聴く

 詩人新藤涼子さん(87)の講演を聴いた=写真。講師のプロフィールに、1953年ごろ、「詩誌『氾』に加わる。同人に堀川正美、三木卓、小長谷清美」とあった。10代後半は鮎川信夫、20代前半は堀川正美の詩に引かれた。
鮎川の全集が家にある。堀川の詩集もある。が、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)で棚から本が雪崩を打った。断捨離をし、本棚に戻すものは戻した。堀川の詩集はどこへ置いたものか。震災で一度出てきたが、今またわからなくなった。

 福島県の第42回詩祭「講演と朗読のつどい」が日曜日(10月6日)、いわき市平の生涯学習プラザで開かれた。県現代詩人会が主催した。

 詩祭は県内持ち回りで開催しているようだ。同詩人会理事長の斎藤貢さん(いわき)から案内がきたので、出かけた。いわき方部の竹林征人さんが司会を、大会実行委員長のわたなべえいこさんがあいさつをした。副委員長の天野行雄さんとは、前日の土曜日、いわき市立草野心平記念文学館の事業懇談会で再会している。旧知の人たちが老骨に鞭打って詩祭開催の準備を重ねてきた。

 講演は午前、午後は県内詩人たちによる自作詩の朗読だ。午後の部は、用事があるので失礼した。

 新藤さんは「心平さんと私の周辺」と題して話した。「心平と新藤涼子」と、「2人とその周辺のこと」の二つに切りわけながら聴いた。心平が亡くなったとき、毎日新聞に求められて追悼文を書いた。そのコピーが配られた。新藤さんは、ほぼこの追悼文に沿って話した。ものおじしない新藤さんと心平の出会いがおもしろかった。

 なかでも刺激を受けたのが、「周辺のこと」で名前が出た堀川正美だ。新藤さんと同年代で、なぜか50歳前後に詩壇から姿を消した。

 心平記念文学館がオープンして以来、文芸評論家の粟津則雄館長らを囲む飲み会が定期的に開かれた。いわき地域学會の初代代表幹事で、湯本の温泉旅館社長だった故里見庫男さんが主宰した。たまたま粟津さんと向かい合ったとき、堀川正美の消息を尋ねたことがある。粟津さんもその後はよくわからないようだった。

 ネットで検索すると、「カミキリムシ類」に関する「堀川正美コレクション」が「農業環境技術研究所昆虫標本館に寄贈」された、という文章に出合う。そのコレクションは「非常に良質な学術研究用昆虫標本」だという。詩を書くのをやめて、昆虫研究に転じたのか。同一人物だとしたら、詩人はアマチュア昆虫研究家としてもハイレベルなところまで到達した。それこそ詩人的な生き方ではないか。

詩集『枯れる瑠璃玉』は、鮎川信夫、田村隆一ら「荒地」派とは異なる、新しい言葉に満ちていた。以来、「瑠璃玉」という植物が気になっていたが、それがルリタマアザミだと知ったのは、たしか2010年の夏。ある店に飾られていた。径3~4センチほどの青紫色の涼しげな花だった。

金井美恵子の最初のエッセー集の題名にもなった、堀川の詩句がある。<明日があるとおもえなければ/子供ら夜になっても遊びつづけろ!>(「経験」)。この「夜になっても遊びつづけろ」を真に受けて、仕事が終わると街の飲み屋に直行して、夜更けまで遊び続けたことがある。

気分が高揚しているうちに、思潮社の現代詩文庫『堀川正美詩集』と『枯れる瑠璃玉』を探し出さねば。これまでにも二度、三度とやって探し出せなかったのだが。

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