2020年12月31日木曜日

「レコ大」で歌の1年を知る

        
 晩酌をしながら、TBSの「日本レコード大賞」の生中継を見た。最優秀新人賞は「恵比寿」の真田ナオキ、大賞は「炎(ほむら)」のLISAだった。「恵比寿」は吉幾三作詞・作曲の演歌、「炎」はアニメ映画「劇場版『鬼滅(きめつ)の刃(やいば)』無限列車編」の主題歌だという。

どちらも初めて聞いた。テレビの音楽番組はほとんど見ない。車でも古いCDをかけている。歌謡曲にはすっかり縁遠くなった。ゆうべ(12月30日)のレコ大で、ようやく今年(2020年)1年のハヤリ歌を知った次第だ。

先日、下の孫(小5)が来て、カミサンが相手をした。平積みにしてある本のタイトルを見て「香水だ」と反応し、せっけんの香りに興味を示したという。フェアトレードの一環でカミサンがパレスチナのオリーブせっけんを扱っている。そのにおいをかいで「いい香り」とかなんとかいっていたらしい。しかし、なんで香水や香りに興味を?

新聞のテレビ欄を見て、カミサンが「これか」とつぶやいた。レコ大の番組紹介文に「瑛人の香水」とあった。新人賞のなかにその瑛人が出てきて、「香水」を歌った=写真。歌詞に「ドルチェ&ガッバーナの香水」とある。この歌が子どもたちの間ではやっているのかどうか。

 11歳ともなれば胸の内もそれなりに複雑になる。60年前、同じ年ごろだった人間は、女の子を意識して、ぬか喜びをしたり、しょげたりしたものだった。そういうところまで育ってきたのだろうか。いや、待て。

 ドルチェ&ガッバーナは、イタリアを代表する高級ファッションブランドだそうだ。ミラノに本拠があるという。サッカーとの関係を検索したら、ACミランのユニホームをデザインしていた。サッカー小僧はユニホームからドルチェ&ガッバーナを知り、同じブランドの香水へと関心がふくらんでいったのかもしれない。瑛人の「香水」を知っているかどうか、年始に来たら聞いてみよう。

それはともかく、今年は後半も後半、10月以降に作曲家の筒美京平、中村泰士、作詞家のなかにし礼さんが相次いで亡くなった。番組でも追悼していたが、私ら団塊の世代にとっては青春を彩る歌の世界の中心にいた人たちだ。

筒美作曲・いしだあゆみ歌の「ブルー・ライト・ヨコハマ」は20歳、中村作曲・ちあきなおみ歌の「喝采(かっさい)」は24歳、なかにし作詞・北原ミレイ歌の「石狩挽歌」は27歳のときにヒットした。なかでも「喝采」は昭和47(1972)年のレコード大賞受賞曲だ。

そのころ、映画「バニシング・ポイント」を見た。以来、生の絶頂期にこそ死が宿り、やがてはバニシング・ポイント(消滅点)へと収斂(しゅうれん)していく――そんな思いで年を重ねてきた。この人たちもついにバニシング・ポイントをくぐりぬけて逝ってしまったか、という思いが強い。

そして、大みそかの今夜は紅白歌合戦。レコ大もそうだったが、無観客の大ホールで歌手たちが熱唱する。朝ドラ「エール」の主題歌をうたったGReeeeNは影だけの出演なのかどうか、仕掛けも含めてぜひ見ておきたい。

2020年12月30日水曜日

「避病院」という言葉

                                
 こういうご時世だから、感染症関係の本が目に入れば手に取る。国立病院機構埼玉病院精神科部長・金川英雄さんの『感染症と隔離の社会史――避病院の日本近代を読む』(青弓社、2020年)=写真=は、「避病院」という言葉に吸い寄せられるようにして、図書館から借りて読んだ。

避病院は今は死語だろうが、私が小学生になったころ、つまり昭和30(1955)年にはまだ親たちが使い、現にどこかにそういう施設があったように記憶する。阿武隈の山里の話だ。

 そのころの感染症(伝染病)といえば赤痢だった。「どこのだれが赤痢になった」「どこのだれがヒビョウインに入った」。ヒビョウインは、あとで「避病院」と書くと知ったが、子ども心にもなにか異様で、おどろおどろしい響きを持っていた。

 ふるさとの町史には、明治33(1900)年4月、避病院(伝染病隔離病舎)の管理に関する規定ができたことしか載っていない。いわき地域学會初代代表幹事・故里見庫男さんから恵贈にあずかった昭和13(1938)年5月発行の「町勢一覧」地図にも、避病院を含む病院の記載はない。当時、町には医者がいなかったのか、そんなことはあるまい。

 金川さんの本は小説や体験記録の解説としても読める。日本では明治に入ると、江戸時代末期からのコレラ流行を教訓に、全国各地に避病院がつくられる。尾崎紅葉の「青葡萄(あおぶどう)」には、コレラ対策に絡んで避病院が登場する。正宗白鳥の「避病院」は赤痢と避病院の話を扱っている。

正宗の小説の解説のなかで鳥取県湯梨浜町のウェブサイトの記事が出てくる。――昭和30年5月、倉吉市の県立厚生病院の敷地内に周辺市町村組合立の伝染病院が新築されたため、各町村の隔離病院は順次廃止された――。避病院は昭和30年代にはまだ存在していた。阿武隈の山里でも廃止されるとすれば、同じような事情からだったろう。

正宗の「避病院」では、近くの村で感染症が発生し、予防のために祭りの神輿(みこし)が禁止される場面が出てくる(コロナ禍の現代も同じ。イベントの中止や延期、規模縮小などが続く)。その分、飲み食いや賭け事はいつもより盛んになる。あっちでもこっちでも禁を犯す。結果的に、村に感染症が入り込む。

この本を読むことで、私自身の「ヒビョウイン」のイメージが変わったわけではない。が、避病院の役割と実際を知ることができた。さらに、本書とは関係ないが、幼いながらに抱いていたおどろおどろしいイメージは、石牟礼道子『椿の海の記』の、こんな記述とも重なることを検索してわかった。

「ひとたび疫病にでもかかって町のはずれのこの避病院に送りやられたが最後、身内といえどもこわがって近寄らず、枕元には狐女(きつねじょ)か夢魔が出て来るばかりだったから、避病院からそのまた先の土手を、渚へつながる火葬場送りとなることはきまっていた」

私が子どものころ、阿武隈の山里ではまだ土葬だった。火葬場はないが、避病院は水俣と同様、町のはずれにあったにちがいない。しかし、避病院が機能したからこそ、町は滅びずに今も残っている。コロナをはじめとする感染症の怖さを知るにつけて、そう思う。

そして、これはまったくの蛇足――。精神科のドクターはよく本を書く。「あとがき」にこうあった。「史料を集めるのは、砂金取りに似ている。十何万冊の本を読んだが、根気よく文章をさらっているとたまにきらりと光るものを見つける。それらを丹念に集めると一冊の本になる。ストレスがたまると本を書き、医療現場一筋で四十年がたった」。なるほど、精神科医のストレス解消法は本を書くことだったか。

2020年12月29日火曜日

ハクチョウが「密」に

        
 今年(2020年)最後の日曜日(12月27日)は穏やかな一日になった。朝9時過ぎに夏井川渓谷の隠居へ向かった。

平窪を過ぎて小川へ入ると、国道399号(兼県道小野四倉線)沿いの夏井川(三島)にはハクチョウが密集していた。ざっと200羽、いやそれ以上かもしれない。今シーズン最多の数だ。

三島を過ぎ、JR磐越東線の跨線橋を下りかけると、さらに視界の左右でハクチョウが飛んでいる。真っすぐ向かって来る一団もある。車を止めればいい写真が撮れる――そう思いながらも、後続車があるのでそれはできない。

道路両側の田んぼにもいっぱい羽を休めていた。字名でいうと、右手が上小川の表(おもて)、左手が竹ノ内。ここに舞い降りたのを見るのも初めてだ。

三島の夏井川と上流の集落裏手に広がる田んぼの2カ所だけで300羽以上になるのではないか。いわきへの飛来そのものがピークを迎えたのかもしれない。

帰りは午後2時過ぎに隠居を出た。渓谷を抜けるとすぐ、高崎の広域農道建設現場に着く。県道と磐越東線をまたぐ跨道(線)橋と、県道への接続道路の建設が進められている。そのため、県道が少し前から片側通行になっている。

それを知らせる看板の一つ(いや、向こうとこちらで二つ)が「跨道橋」ではなく「誇道橋」と表示している。「誇れる跨道橋」になるのは「跨道橋」が完成してから、それまでは「跨道橋」だろう。よけいなことながら、校正のクセが出る。直した方がよくないか。

表と竹ノ内の田んぼには、ハクチョウの姿はなかった。三島には朝の3分の1ほどが残留していた=写真上。対岸で親子がえさをやっている。いつもの日曜日の光景だ。平窪の越冬地はパスして、下流・新川が合流する塩地内に行くと、岸辺に数人が散らばっていた。こちらはえさやりよりはウオッチングといった風情だ。ここもざっと100羽以上はいる=写真下。このところ「密」の状態が続いている。

人間の世界ではコロナ、鳥の世界でも鳥インフルエンザがはやっている。先日の報道によると、ヨーロッパで見つかった渡り鳥の別系統のウイルスが、営巣地のシベリア経由で日本へも持ち込まれた。

鳥インフルは通常、人間に感染することはないが、不用意に近寄ったり、触れたりはしないことだという。

鳥インフルを意識するようになったのは2008年あたり。当時、塩~中神谷で毎日、Mさん(2012年死去)が残留コハクチョウにえさをやっていた。

 同年の晩春、十和田湖畔や北海道の野付半島、サロマ湖畔で、北帰行途中のハクチョウが死んで見つかり、鳥インフルエンザウイルスが検出された。秋に再び飛来すると、市役所の職員から「えさをやらないでほしい」と言われたそうだ。鳥インフルを警戒しての要請だが、Mさんは断った。「こっちも命がけでえさをやってんだ」

 鳥インフルへの対処法は、①死んでいる鳥や衰弱している鳥には素手で触らない②鳥の排泄物に触れたら手洗い・うがいをする③フンを踏んだら念のために靴底を洗う――などだ。私も、以前はハクチョウに囲まれて写真を撮ったことがあるが、今はずいぶん距離を保っている。

2020年12月28日月曜日

年末の大掃除

        
 壊れたこたつを座卓代わりに使っている。寒くなると足に毛布をかけ、ヒーターから筒で暖気を取り込む。ワンポイントだけだが強烈に熱くて、ほかは寒い。「電気マットを敷いて、こたつカバーをしよう」。カミサンにいわれるたびに、「あとで」「あとで」と先送りしてきた。

クリスマスイブの夜、大学生のの両親がケーキと焼酎を持参した。夏バージョンの座卓では格好がつかない。2日間かけて座いすの周りの資料や本を移し=写真上1、要らないものを処分したあと、電気マットを敷き、こたつカバーをかけて冬バージョンに切り替えた。

 座卓の上と座いすの左右に小物類や書類・資料コピーなどを置いている。コピー類は、カミサンが新しく用意した本箱に積み上げた。座卓の上の小物類も小さな箱に入れ替えられた。

それで、頭の中にあったモノと場所の記憶がいったんご破算になった。この資料はここ、あの資料はそこ――。もう一度、身の回りのモノと場所の記憶を再構築しないといけない。これはしかし、年2回、夏から冬、冬から夏へと茶の間の衣替えをするときには付いて回ることだ。それでやっと冬は足元が暖かく、夏は涼しくなる。

ついでに、古くなった電灯を取り換えた=写真上2。近所に双葉郡大熊町から会津若松経由でいわきに原発避難をしたお年寄りがいた。家を行ったり来たりする間柄になった。去年(2019年)秋、同町の大川原(おおがわら)地区に完成した町営の復興住宅に引っ越した。そのとき、「いらない」というので、カミサンが電灯を引き取った。それに替えたら、部屋が急に明るくなった。

 天井のクモの巣も払い、神棚や梁(はり)のほこりも取った。結果的に年末の大掃除になった。

 なんといってもコロナに振り回された1年だった。大学生はオンライン授業が当たり前になり、就職活動も制限される。それよりなにより、年末の帰省をあきらめ、東京にとどまっている。

 コロナ不況で失業した人、あるいは学業をあきらめなくてはならなくなった学生……。メディアが伝えるニュースを見聞きするたびに、就職もせず、勉学に励むでもなかった、21、2歳のときの寄る辺ない気持ちがよみがえる。底なしの孤独感に押しつぶされそうになった人間を支えてくれたのは朋友だった。そういう存在がいるといいが、と思う。

それから半世紀――。年金生活者の日常は、基本的には「巣ごもり」だ。3密を避ける「ステイホーム」をといわれても、普通に暮らしていればいいことだから苦にならない。しかし、若い人の気持ちになれば、世の中いったいどうなっていくのか、とも思う。そんな1年が終わろうとするクリスマスイブの夜、こたつを囲んで近況を報告し合いながら飲む田苑の味は格別だった。

2020年12月27日日曜日

台風19号 53 ヤナギ伐採

                     
 小川~平の夏井川で進められている河川敷の土砂除去工事が、いよいよ下流の中神谷(左岸)でも行われるようだ。

 クリスマスイブの日中、重機が河川敷に入って除草をしていた。そばのサイクリングロードには「除草中」の看板が立った。翌日には岸辺のヤナギの伐採も始まった。きのう(12月26日)はさらに重機が何台も投入されて、除草と伐採が行われた=写真上1。浅瀬では定期的に重機とダンプカーが入って川砂を採取している。それも並行して進められている。

字名からいうと、調練場~天神河原の河川敷だ。川がS字状に蛇行するところで、サッカーコートが複数とれるほど、土砂が広く厚く堆積している。現状は河原(砂地)とヨシ原、草原といったところだろうか。

藩政時代、磐城平藩を治めていた内藤侯が延岡へ移ったあと、中神谷村は笠間藩に組み入れられた。この分領の庶務をとるため、延享4(1747)年、浜街道沿いの苅萱に神谷陣屋が置かれた。

陣屋の裏手に藩士の兵式訓練を行うための河川敷が広がっていた。それが調練場だ。ところが、夏井川に近いため、ときどき水害に見舞われた。そこで文政6年(1823)、600メートルほど離れた小川江筋沿いの山際に移転し、明治維新を迎える。跡地は平六小として利用されている。

調練場には大水のたびに土砂が堆積する。去年(2019年)の台風19号では、堤防寄りのサイクリングロードが、部分的にだが1メートル前後、土砂で埋まった。広大なヨシ原と草原にはニセアカシアやイタチハギなどが生えている。大水のたびに上流から種が流れてきて活着したのだろう。

上流の鎌田では土砂除去工事が終わって重機が姿を消した。32年前の昭和63(1988)年6月、夏井川が建設省(現・国交省)の「ふるさとの川」モデル河川に指定された。8月20日に流灯花火大会が行われる左岸・鎌田では川幅が広げられ、親水のための広場や階段が設けられた。通路以外は堆積した土砂で盛り上がっていたのが、改修当時の姿に戻った。

ということは、中神谷地区でもサイクリングロードと同じレベルまで土砂を除去することになるのだろう。

きのうは右岸の山崎側からも工事の様子を見た。岸辺でも重機が除草・伐採作業に取り組んでいた=写真上2。

何年か前まで、毎日、首からカメラをぶら下げて夏井川の堤防を散歩した。パソコンに取り込んだ撮影データをチェックしたら、12~10年前に土砂除去・護岸工事などが行われている。わずか10年、「ふるさとの川」から数えると、30年前後で土砂がたっぷり堆積した。

海・空・山・川……。人間が向き合っている自然は恵みと同時に災厄をもたらす。大切なのは、便利な暮らしを享受するだけでなく、自然を畏(おそ)れ、敬う心を持つことではないか。暮らしのなかで川の流れを意識していると、少しはそこに近づけるかもしれない。そう思って、街へ出かけた帰りには必ず堤防を通って夏井川をウオッチングする。

2020年12月26日土曜日

冬、ナラ枯れの木は?

                     
 今年(2020年)、生活圏の夏井川流域で起きた最大の異変は「ナラ枯れ」だろう。毎週日曜日と、キュウリを栽培している夏場は週半ばの計2回、夏井川渓谷の隠居へ通った。月遅れ盆が始まった8月13日、渓谷の入り口で一部の山が点々と“紅葉”しているのに気づいた。万緑のはずの夏になぜ? それがナラ枯れを知った最初だった。

 8月下旬、いわき民報がいわき市内のナラ枯れの実態を報じた。去年(2019年)は民有林で110本ほどナラ枯れが起きた。ところが、今年はそれが数百本に急増した。景観、生態系への影響にとどまらず、「倒木、水源かん養機能の低下などから土砂災害などにつながる危険性が懸念されている」ということだった。

体長5ミリほどの小さな昆虫・カシノナガキクイムシ(カシナガ)が“犯人”だ。二井一禎京都大名誉教授によると、最初、雄が飛来し、宿主樹木に短い孔道(こうどう)を掘って、集合フェロモンを出す。すると、一斉に穿孔(せんこう)加害がおきる。雄は孔(あな)の入り口で雌と交尾し、雌が辺材へと孔を掘り始めると、孔の入り口付近に陣取り、外敵の侵入を防ぐ。

孔道壁に産みつけられた卵がかえり、終齢幼虫が掘削作業を始めると、雌は孔掘りをやめる。掘削くず(木くず)は雄の待つ孔道入り口まで運ばれ、捨てられる……。その結果、木は通水機能を失い、あっという間に枯死する。

カシナガの幼虫は孔道内で成長・越冬し、翌年6~8月、新成虫として一帯に散らばる。被害が拡大再生産されるわけだ。

夏のうちは“茶髪”のためにはっきりしていたナラ枯れだが、紅葉時期になるとどれが被害木かわからなくなった。渓谷の県道小野四倉線沿いにクヌギと思われる被害木がある。カエデも落葉した今、どうなっているかを確かめた。なんと、枯れ葉の一部がいっぱい残っている=写真。

岡山県のホームページには、周囲の木が落葉しても被害木の葉は落ちない、とある。落葉に必要な葉柄基部の「離層」が病気によって形成されないためだという。新潟県のホームページにも同じような記述がみられる。

普通の落葉樹は、秋、葉柄の根元と枝の境目に離層ができて、葉柄ごときれいに枝から葉が落ちる。ナラ枯れ被害に遭った木はこれができない。いつまでも葉柄が枝に付いている。そのうち枯れて乾いた葉が強風に引きちぎられてかたちが失われるのだろう。葉の一部だけが葉柄部分に残っていて、被害木であることを教えてくれる。

 被害木は小川の江田~高崎までの渓谷下流部に集中している。普通の落葉樹かナラ枯れかは、遠目には葉のかけらの有無で見分けるということになるようだ。

 県道沿いの被害木は直径が30センチ以上ある。カシナガの幼虫は今、孔道内で成長・越冬中だ。来年(2021年)の6~8月には、新成虫として一帯に散らばる。これだけの大径木だと、発生は数万匹に及ぶそうだ。今、現にものすごい数の幼虫が木の内部に巣くっているのだと思うと、なにか歯がゆくてならない。

2020年12月25日金曜日

ネギと辛み大根

                    
 街へ行った帰りに夏井川の堤防を利用する。アパートと休耕地が増えたが、以前は堤防に沿ってネギ畑が続いていた。

 師走も半ばに入って出荷が始まったのだろう。ある日、畑の上流側で老夫婦がネギを掘り起こしていた。きのう(12月24日)も作業をしていた=写真上1(左が上流側)。日がたつにつれてネギの列が減っていく。

 郡山市の「阿久津曲がりネギ」も11月下旬には出荷が始まったという。例年師走になると、いわき市内のヨークベニマル(本社・郡山市)にも並ぶ。義弟の病院送迎のついでに、内郷店に寄ってネギのコーナーをチェックする。去年(2019年)は、産地が台風19号の冠水被害に遭い、曲がりネギを見ることはなかった。今年(2020年)も中旬にのぞいたが、長ネギだけだった。

 夏井川渓谷の隠居で栽培している「三春ネギ」(今年は田村市からネギ苗をもらってきた)だけではまかなえない。直売所やスーパーからも買って来て、味噌汁や煮物、ラーメンの薬味にする。
 ネギを選ぶ基準は単純だ。やわらかいことと、加熱すると甘くなること。見た目は白く太く立派なネギでも、加熱しても甘みが薄く、硬いネギは敬遠する。

その意味では、この冬はまだ、小野町のNさんが江田駅前の直売所で売っていた曲がりネギと、自産の三春ネギしか食べていない。早く阿久津曲がりネギを拝みたいものだ。

辛み大根も冬の食べ物だ。ある年、夏井川渓谷の隠居の庭に、知人からもらった辛み大根の種をまいた。奥会津の「アザキ大根」ということだった。5年前までは花が咲いたあとに種の眠るさやを採り、月遅れ盆にはさやから種を取り出してまいていたが、取りこぼしたさやからも勝手に芽が出ることを知った。

それだけではない。耕すと根に圧力がかからず、細いまま地中深く伸びる。たまたま不耕起のところから生え出たものは、土が硬くて下には行けずに横に膨らんだのか、ずんぐりした立派な辛み大根になった。それを見て以来、不耕起・不採種で辛み大根を収穫するようにしている。

先日、三春ネギと一緒に辛み大根を1本引っこ抜いた。さっそくおろして食卓に出した=写真上2。舌先にピリッときたあと、辛み成分が口内に広がる。この刺激がたまらない。辛み大根には自分で再生する力がある。たまたま辛み大根の野性に気づいたために、手抜きをすればするほど野性が増す――そんな気分が募る冬の逸品だ。

先日、たまたま「うまいッ!」(NHK)を見ていたら、群馬県の下仁田ネギが登場した。これは勉強になった。

下仁田ネギは秋まきだ。苗が伸びると、「麦踏み」ならぬ「ネギ踏み」をする。霜柱ができると根が浮く。それを防ぐために根を土に定着させるのだという。

さらに、収穫4カ月前にはいったん掘り起こし、選別して植え直す。寒さには強いが夏の暑さには弱い。「夏眠」するのを掘り起こして止め、カツを入れるのだとか。それで最終的に、加熱すると甘いネギになる。

三春ネギや阿久津曲がりネギは秋まきだ。夏場、掘り起こして斜めに植えなおす「やとい」をする。あえてストレスを与えることで甘みが増す。育て方が似てないか。

三春ネギの苗も真冬は霜柱が立って根が浮き上がる。それを防ぐために、学校の後輩からもらったもみ殻を敷いた。一部だけでも「ネギ踏み」をして、その後の様子を見てみるか。

2020年12月24日木曜日

小4の作文「茶わんと水」

        
 カーラジオを聞いていたら、女性が、「水」をテーマにした創作文で福島県内の小学4年生が全国最高賞に選ばれたことを伝えていた。その創作文も紹介した。

 ――いつも不思議に思っていることがある。祖父母の家に泊まりに行くと、2人とも朝ごはんの最後に、茶わんに牛乳を入れて飲む。さらに、曾祖母が若かったころは、箱膳を使っていた。それぞれに食器が入っていて、食事の最後にはたくあんで茶わんのよごれをとって食べ、お茶を入れて飲んだ――。

 おおむねこういう内容だった。牛乳はともかく、茶わんにたくあんとお茶ないしお湯は、私もカミサンも経験している。「そうだった」。子ども時代を思い出して大きくうなずいた。

後日(12月17日)、記事と作品全文が福島民報に載った=写真。伊達市の伊達小4年小野蒼真(そうま)君の創作文「茶わんと水」で、箱膳・茶わん・たくあんの部分を紹介する

「ひいおばあちゃんが若かったころは、箱ぜんという物を使っていたそうです。一人一人に小さな箱のテーブルがあり、茶わんや汁わん、皿、はしがセットになっていたそうです」

 わが家は町の床屋なので、私が物心づいたころには、箱膳ではなくちゃぶ台を囲んで食事をした。隣村の母の実家、電気もない「ばっぱの家」に行くと、食事はいろりを囲んでめいめい箱膳でとった(ざっと65年前の記憶)。

箱膳はいろりのある部屋の北隣、薄暗い板の間の戸棚に入っていた。小学生になると、自分の箱膳は自分で取りに行った。食べ終わると茶わんにお湯を注ぐ。それから箸(はし)を使って、たくあんで茶わんの内側をきれいにする。終わったらたくあんを食べてお湯を飲む。それで“茶わん洗い”をすませて、また戸棚に戻す。その繰り返し。

最初は教えられたのだろう。「ばっぱの家」に行くと、茶わんにお湯とたくあんを入れるのが食事の終わりの作法になった。

母屋から離れたところに池があった。そこに木製の樋で引いた沢水が注いでいた。鎌倉岳(967メートル)南東麓の沢からは、毛細血管から静脈に血液が集まるように水がしみ出していた。「ばっぱの家」の奥にもう1軒、家があったが、そこは尾根違いの沢水を利用していたのだろう。泊まりに行くと、沢水を桶に入れて運ぶ仕事が待っていた。

 小4生の作文に戻る。母親が説明する。「昔は今のような水道はなかったから、井戸や川の水を使っていたんだよ。茶わんを洗うのも大変だったから、使う食器の数を少なくしたり、茶わんのよごれを落としたりするために、牛にゅうを入れて飲んでいたんだと思うよ」。お茶から牛乳へ、というのはそれだけ暮らしが豊かになったということだ。

 小4生は、牛乳による茶わん洗いが水を減らす工夫だと知る。さらに、「昔は水を自由に使えなかったので、色々な工夫をして、水を大切に使っていた」ことを理解する。

 作文とは関係ないが、今、私は朝ご飯のあと自分の食器を水道水で洗う。水は細いが流しっぱなしだ。そのときいつも、「ばっぱの家」での食器洗いを思い出す。使った食器は何日かに1回、まとめて水がめのそばの流しで桶の水に浸けて洗った。

水道ではないのでフロー(流しっぱなし)は効かない。最低限のストック(桶にくんだ水)で最大限の効果を考えるしかなかったのだろう。それが今になっても生きているというべきか。フローへの戒めが毎朝、頭をよぎる。

2020年12月23日水曜日

「平凡パンチ」の編集者

        
 きのう(12月22日)の続き――『希林のコトダマ』(芸術新聞社、2020年)の著者は椎根和(しいね・やまと)さん。昭和17(1942)年、福島県生まれだという。私よりは6歳年上だ。若いときに「平凡パンチ」の編集者・記者をしている。ということは、彼の記事を読んでいたのかもしれない。

著書に『平凡パンチの三島由紀夫』(新潮社、2007年)がある。総合図書館にはほかに、原発事故に材を取った絵本『ウリンボー』(芸樹新聞社、2013年)と小説『フクシマの王子』(同、2011年)がある。3冊を借りて読んだ=写真。

「平凡パンンチ」は昭和39(1964)年4月に創刊された。中学生たちがなじんでいた芸能誌の「週刊平凡」や「週刊明星」とは違った、ファッションや風俗、女性のグラビアなどを扱った若者向けの週刊誌だった。

阿武隈の山里から浜通りの中心都市、平市(現いわき市平)の高専に入学し、寮に入った。それと前後して「平凡パンチ」が創刊された。流行に敏感な同級生がさっそく買い込んできたのを回し読みした記憶がある。そのころ10代後半だった「団塊の世代」をターゲットにした雑誌だそうだ。

 椎根記者が女性誌から「平凡パンチ」の編集者・記者に転じるのは創刊4年目という。私が19歳のころだ。同記者は三島由紀夫が割腹自殺するまでの3年間、三島担当の編集者だった。自分から「平凡パンチ」を買うことはなかったが、喫茶店かどこかで手に取り、三島の記事は欠かさず読んだ。半世紀がたった今、若い椎根記者にたぶらかされていたのだと、『平凡パンチの三島由紀夫』を読んで思う(自分の主観で三島を茶化す特集を組み、三島もそれを黙認した――そんなことを知った)。

 今年(2020年)の11月25日は三島の割腹自殺から50年の節目の日だった。50年前のこの日、私は朋友と2人、沖縄旅行の資金をためるため都内でアルバイトをしていた。夕方、新宿駅で事件を知り、駅の立ち売りスタンドで夕刊を買った。事件の衝撃は今も覚えている。

「週刊読書人」だったかのインタビューにこたえて、三島は「文学は生の原理、武士道は死の原理」といっていたのを覚えている。割腹自殺を知ったとき、「なぜ生の原理に従わなかったのか」と反発した。

 沖縄は沖縄で沸騰していた。三島事件からざっと1カ月後の12月20日、「コザ騒動」がおきた。パスポートを持って、朋友と沖縄本島を旅した。行き当たりばったりの素泊まりか民泊頼みで、2週間が過ぎるころには朋友がカメラを質入れするところまで窮した。

もう本土へ帰るしかない――そう決めて、コザ市(現沖縄市)から那覇市へ移動した夜のできごとだった。コザ市にとどまっているべきだったと悔やんだ。

 帰京し、さらに年が明けて平へ遊びに戻ったとき、後輩のバイクに同乗して事故に遭い、前方に吹っ飛んだ。幸い一回転して着地し、手のひらをすりむいただけで済んだが、健康保険証のない気ままな生活はそれで終わりにした。平にJターンして就職したあとは、「生の原理」に従って生きてきた、といえばいえるか。

2020年12月22日火曜日

樹木希林と吉野せい

                               
「ここに吉野せいが出てくる」。カミサンが移動図書館から借りた本のページにしおりをはさんで持ってきた。椎根和(しいね・やまと)の『希林のコトダマ』(芸術新聞社、2020年)=写真上=で、サブタイトルに「希林級決定版心機の雑記帳も」「樹木希林のコトバと心をみがいた98冊の保存本」とあった。巻頭グラビアにある本棚の写真にも、彌生書房の『洟をたらした神』が確かに収まっている。

 樹木希林と吉野せい――。この取り合わせは最初、意外に思ったのだが……。考えてみると共通するものがある。

『洟をたらした神』に収められている「水石山」のなかの一節。「家族のためには役立たぬ彼。もう今は、これからさきもこの家を支えるものは自分の力だけを頼るしかないという自負心、その驕慢の思い上がりが、蛇の口からちらちら吐き出す毒気を含んだ赤い舌のように、私の心をじわじわと冷たく頑なにしこらせてしまった」

彼とは、自分の文学や他人のためにはいろいろ尽くしても、生活能力には欠ける夫・吉野義也(詩人・三野混沌)のことだ。かたや希林の夫はロックミュージシャンの内田裕也。結婚して間もなく別居し、娘が生まれる……。

若いときは「平凡パンチ」の編集者・記者、のちに作家に転じる著者は、希林と交流があった。「あとがき」によると、娘の也哉子さんの許可を得て、希林の「言霊(ことだま)」に触れるべく彼女の蔵書を全部読んだ。

『洟をたらした神』について、希林は「自分とはまったくちがう生き方をしてきた吉野せいの16編の物語に、神の啓示のような感動を受けとったのだろう」と著者は推測する。

 最初に傍線が引かれていたのは、作品「春」の終わりの6行。行方不明になっていた「にわとり」が11羽のひなを引き連れて戻って来る。「也哉子の受胎がわかった時期かもしれない。この描写から、希林は、ひっそりと也哉子を産む勇気を得た、と考えてもいい。希林は雑記帳に、この文を書きうつした」

幼い男の子ノボルが自分でヨーヨーをつくる「洟をたらした神」にも傍線が引かれていた。「希林も、生れ出た娘、也哉子に、いっさい市販のおもちゃを買い与えなかった。だから、あれほど見事な個性を持つ娘に育った」

 そして、「老いて」に出てくる夫・混沌の詩のなかの1行「なげくな たかぶるな ふそくがたりするな」にも傍線が。雑記帳にもこれを書き写している=写真上2。「呪文のようなこの句は、希林の言葉のように読める。希林は、泣いただろう。泣かせられただろう。そして、そう生きた」

せいは晩年、請われると色紙に書いた。「怒(ど)を放し恕(じょ)を握ろう」。「恕」とは相手を思いやって許すこと、と辞書にある。夫との確執から生まれた「怒」も、自分のかたくなな心も、最後は青空のような「恕」に昇華した。『希林のコトダマ』を介して、樹木希林もまた「怒」を放して「恕」を握ったのだと了解する。

2020年12月21日月曜日

冬のキャンプ場

        
 夏井川渓谷の江田~牛小川は,晩秋・初冬と紅葉目当ての行楽客でにぎわった。カエデも散って、師走はいつもの静かな山里に戻るかと思ったら――。JR磐越東線江田駅前、夏井川そばのキャンプ場は今も人の気配が絶えない。

 正式には、いわき市が管理する「夏井川渓谷キャンプ場」という。炊事場、トイレが完備し、テントなら30張ていどは設営できる。駐車場もそれに見合ったスペースがある。

 江田駅の裏山を背戸峨廊(セドガロ=夏井川支流江田川)が流れる。前はそちらでキャンプや芋煮会が行われた。山火事の心配がある、川で洗いものをするので水が汚れる――という状況になって、景勝の入り口に代替のキャンプ場が設けられた。

使用料がかからない。予約もする必要がない。先着順で使える手軽さが受けて、コロナ禍の今年(2020年)は早いうちから週末になると、車が何台も止まっていた。

師走最初の日曜日(12月6日)も、駐車場はほぼ満パイだった。牛小川にある隠居への途中、通り過ぎてから写真を撮っておくんだった、と気づく。

次の日曜日(12月13日)は、用があってマチにとどまった。そしてきのう(12月20日)、半月ぶりに隠居へ出かけると――。

江田駅前には午前10時ごろに着いた。キャンプ場はやはり満パイ状態だ=写真上1。駐車場そばまで行くと、1人が車のトランクから段ボール箱を運び出していた。バーベキュー用具でも入っているのか。駐車場の奥のキャンプ場には、何張かテントが張ってある。これからそれぞれが昼食の準備をするのだろう。

コロナ禍で「3密」を避けるため、屋外でレジャーを楽しむ人が増えているそうだ。メディアも、タレントのヒロシがソロキャンパーとしてネットで有名になっている、といったことを取り上げていた。なるほど、彼のアウトドアライフがコロナ時代にマッチしているということなのだろう。

ここ夏井川渓谷キャンプ場でも、グループだけでなく、ソロで野営を楽しんでいる人がいるのかもしれない。にぎわうキャンプ場――。去年(2019年)までは見られなかった、冬の渓谷の新しい光景だ。

この日は典型的な西高東低の冬型の気圧配置になった。晴れて風が強い。冷たい。雲が早足で駆け抜けていく。平のマチから江田までは、道路は何の問題もなかった。が、江田の先、錦展望台の手前、山側からしみ出て道路をぬらしている水が凍結していた=写真上2。いわき地方の方言でいう、「たっぺ」(アイスバーン)だ。あぶない、あぶない。スタッドレスタイヤにはきかえたとはいえ、つるんつるんの氷のスポットだ。

隠居に着くと、濡れ縁に置いた雨だれ受けの火鉢の水が凍っていた。取り出すと、氷の厚さは1センチ以上あった=写真上3。菜園の土をスコップで掘ろうとしたら、歯が立たなかった。凍土がすでに3センチほどになっていた。今年の冬はなかなか手強いかもしれない。(そして、きょうは冬至。一陽来復とくれば、寒さに向かうなかでも気持ちは明るくなる)

2020年12月20日日曜日

冬のお福分け

                       
 家庭菜園でいうと、キュウリやナスは夏野菜、白菜や大根は冬野菜だ。夏でも冬でも取れるときには取れる。友人、知人から白菜が、大根が届く。冬のお福分けだ。

 先日、三和町下永井の「いこいの学校 長居小」で買った白菜とお福分けの白菜を漬けた=写真上1。いい具合に、学校の後輩から2回目のユズが届いた。いつもだと、漬けて5日目あたりから食べるのだが、今回はタッパーに移した前の白菜漬けが冷蔵庫に残っている。それで最初の新・白菜漬けは10日近くたってから口にした。

上がった水の表面にはやはり、白く産膜酵母が張っている。白菜自体の乳酸発酵も少しずつ進んでいる。浅漬けの新鮮な歯ざわりと甘みのあとに、酸味が舌先を刺すようにからみついてきた。

こうなると酸味は日を追って増す。タッパーに移して冷蔵庫に入れないといけないのだが、夫婦2人と義弟の3人では食べきれない。漬けたら“古漬け”にならないうちに、早めにお福分けをする――。そんなことも考えないといけないようだ。

もっとも、味の好みは人それぞれだ。私は新鮮な浅漬け派だが、カミサンはそうでもない、古漬け派といってよい。酸味の強い古漬けが好きな若い仲間もいる。古漬けの白菜を細かく刻んで納豆に混ぜたものは、ご飯だけでなく、酒のつまみになる。それなら私も食べる。

お福分けは野菜に限らない。久之浜の知人からは水揚げされたばかりの魚が届いた。こちらは、魚の料理が上手な近所の奥さんに回した。アジはから揚げになって戻ってきた=写真上2。お福分けがいつのまにか食べやすいように加工され、調理されて、近所を行き来する。ちょうど晩酌どきだったので、いい酒のさかなになった。

別の日には、白菜と丸大根、また別の日には長大根が届いた。こうなると、カミサンも調理法を工夫しないといけない。おろしにする。千切りにしたのを、ドレッシングのサラダにする。長い時間をかけてやわらかくした煮物も出る。

私が小さいころは山里の商家でも家の裏などで野菜をつくり、卵を採るために鶏を飼っていた。近所でお福分けが行き交った。それが貧しい食卓を温かいものにした。

少なくとも高度経済成長期以前の生活文化は、地方では『第三の波』の著者、アルビン・トフラーがいう「プロシューマー」(生産消費者)が基本だった。「コンシューマー」(消費者)であって「プロデューサー」(生産者)。経済が小さい分、消費者であっても家族や自分のために生産する、そういう循環型の地域社会が形成されていた。

その後、地方へも都市化・工業化の波が及び、自然の収奪へと突き進んでいく。その結果が地球温暖化となり、「地域温暖化」となって、今、自分たちの足元をおびやかしている。

国は「新しい生活様式を」という。が、新しいことではなくて「本来の生活様式を」と、私はつぶやいてみる。そのひとつがローカルもローカル、近所同士でお福分けの渦をつくることなのだ、と。

漬物の話に戻る。糠床は先日、冬眠させた。キュウリの古漬けは手つかずのままだ。白菜が漬かるまではキュウリの古漬けでつなぐ。そうもくろんで、半分は自産、半分はお福分けを利用して夏につくっておいたのだが、まだ食べずにいる。それも組み合わせておかずに変化をもたせるとするか。

2020年12月19日土曜日

土蔵と駐車場

                     
 台風19号の水害から1年の歩みを記録した平・下平窪地区の記録誌『てこてこ』(一般社団法人Teco発行)を、ときどき読み返す。

 国道399号沿いにコンテナハウスの「てこてこ」がある。水害直後、下平窪公民館の一角に「下平窪支援ベース」が設けられた。支援物資の配布場所としてだけでなく、住民同士が集うコミュニティサロンへと役割が広がった。同公民館の改修に伴い、地元の好意で同国道沿いにコンテナハウスを設置したという。

 それを紹介する記事のなかにある。コンテナハウスから「ひとつ裏道に入れば空き家や更地が目立ちます。解体中の家屋も多く、この地区だけで約600戸が取り壊されることが決まっているそうです」。

600戸! 住んでいる人が1人ないし2人だとしても、600~1200人が地区から離れることになる。わが行政区の戸数を基準にすると、二つの区内会が消えるくらいの衝撃的な数字だ。

 先の日曜日(12月13日)、下平窪に住むカミサンの友人宅(ここも床上浸水に見舞われた)に歳暮のもちを届けた。国道からひとつ中に入った住宅地の一角にある。

1年ぶりに訪ねたら、隣が広い駐車場になっていた=写真。1軒や2軒の広さではない。グーグルアースで確かめると、戸建て平屋の貸家らしい建物が6軒あった。平屋では……。言葉もなかった。住宅街を抜けて国道に戻るまでにもう1カ所、広い更地ができていた。そこも平屋だったか。

この日の時間を巻き戻すと――。日曜日夕方、カミサンの実家へつきたてのもちを取りに行った。当主の義弟が母屋の奥にある土蔵の改修が終わったことを告げた。この土蔵は東日本大震災で正面のなまこ壁が一部はがれ落ちた。

9年半がたって改修のために選んだ業者が、たまたまわが家の震災改修を手がけた旧知の大工氏だった。浜に自宅と作業場がある。本人はかろうじて津波から逃れたが、地区全体ではかなりの犠牲者が出た。自宅も「全壊」の判定を受けた。仕事はていねい。しかし、ていねいすぎて予算をオーバーすることがある。その通りになったようだ。

さらに午前中は、小名浜・古湊に住むいわき地域学會の先輩の家に、要らなくなった蒸籠(せいろ)を取りに行った。

震災から1カ月半後に見舞いに行って以来だ。あのとき、家の裏の水路から津波が逆流し、1階の畳の上40センチまで海水につかったという。先輩にとっては、本は財産、いや心の糧そのもの。全集のような重い本は1階に置いておいた。それが大震災でバタバタ倒れたところに津波が押し寄せた。書庫の本も駄目になった。

外回りも庭の書庫も改修した。浸水の高さがわかるように、庭に立つ柱が途中から色違いになっていた。

地震、津波、台風の爪痕は、表通りからは見えなくなったようだが、ひとつ中に入るとかたちを変えて残っている。