2020年2月29日土曜日

川内村の友の訃報

 きのう(2月28日)早朝、ブログをアップしてフェイスブックをのぞいたら、「2月26日午後5時17分に、父志賀敏廣が永眠いたしました」という娘さんの報告が上がっていた。いきなりの訃報に愕然とした。
 夫婦で、アポなしで双葉郡川内村の陶芸工房を訪ねたのは平成5(1993)年10月。同じ昭和23(1948)生まれ、いわきに共通の友達(彼の中学校の同級生=私の高専の同級生)がいる、いわき市三和町から古民家を解体・移築する予定……。初対面なのに、たちまち意気投合をした。

以来、互いに川内といわきを行ったり来たりすること26年。個展やコンサート、マツタケを食べる会と、彼と奥方の志津さん(やはり陶芸家)が企画した催しが懐かしく、めまぐるしく脳内をかけめぐった。

彼は画家でもあり、木工作家でもあった。いわきでの油絵展のときに、チラシに小文を書いたことも思い出した。

夏井川渓谷の隠居の庭に、彼がつくった木製のテーブルとベンチがある。テーブルの脚は2代目だ。丸太(脚)と板(テーブル)、支えの角材だけの組み合わせが気に入って、「欲しい」というと、山を越えて運んできた。

この10年余、ブログで次の5回の展覧会について触れた。
・2009年5月15日付:いわき市平・エリコーナでの「花」をテーマにした油絵展
・2012年4月26日付:エリコーナでの「『残された花々』展~川内村へ帰ります~志賀敏広+土志工房 絵画と陶器展2012」
・2014年6月5日付:いわき市久之浜での「土志工房展」
・2015年4月15日付:川内村の志賀林業ログハウスでの「ちゃわん屋の木工展」
・2016年10月1日付:いわき市久之浜での「額の中の小さな宇宙展」

 東日本大震災で川内村は全村避難を余儀なくされた。その1年後、エリコーナで開かれた個展のときのブログを再掲する(土志工房は2人の仕事場、これに今は娘さんも加わる)
              ◇
「『残された花々』展~川内村へ帰ります~志賀敏広+土志工房 絵画と陶器展2012」が4月24日、いわき市平のエリコーナで始まった。29日まで。「二絃三絃のしらべ」と銘打ち、27日午後6時半から二胡とピアノ、翌28日午後2時から三味線と尺八のコンサートが同会場で開かれる。

志賀さんは浪江町で生まれ育った。父は旧小高町、母は双葉町の生まれ。ご両親とも花が好き。庭で草花も育てていた。今、志賀さんが居を構えているところは阿武隈高地の川内村。山野に木の花、草の花が満ちる。その双葉郡が放射能で汚染された。

あの日3・11のあと、原発の建屋が爆発する。たぶんその前からだろう。「隣の町から、村の倍以上の人が、川内村に逃げ込んできた。さらに爆発が続き、避難して来た人たちは更に、我々も又、村を離れなければならなくなった」

志賀さんは避難するとき、「家の庭に咲く花をひとかかえ切り取り、荷物で一ぱいになった車に積み込むことにした。絵具と画用紙とともに。/それがこの、花の絵画展の始まりである」と記す。

2011年秋。「この半年間、前半は災害にまきこまれ、後半は体調にめぐまれなかった。でもどちらも花を描くのに問題はなかった。ほとんど毎日のように花を描いても飽きることはなかった。日課になってくると描くものがなくなるととても淋しくなってしまう。/川内村に帰ろう、と思う」

そうした心の軌跡を経て、3月に郡山展、福島展が開かれた。最後のいわき展だ。会場はざっと3部構成になっている。画用紙に描いた草木の花、富士山=写真=をモチーフにした絵、陶器。

「2011、10月『富士』」と題された文章を抜粋する。「体調を崩した頃より、なぜか強く富士を意識するようになった。/富士山には、多くの人があこがれをもっていたようで、富士の傑作を描いた先人は、北斎、大観、操、球子ときりがないほどである」「やはり一度は挑戦してみたいテーマではあったので、この際、と思い私なりの富士を描いてみた」

富士をテーマにした作品を数えたら、121点あった。北斎の「富嶽百景」を越えているではないか。驟雨の向こうにそっと富士が顔を出している絵を求めた。富士は、ときには屹立する孤絶の存在だが、志賀さんの富士は庶民的で親しみやすい。「イメージとしての富士、模様と化した富士をテーマにしぼって表現」しているからだろう。
               ◇
ここ9年、「方丈記」の世界が頭から離れない。原発震災のあとには列島のあちこちで大災害が続き、去年(2019年)は台風19号でいわきも、彼の工房も水に浸かった。今年の年賀状には、人間がひとり、二輪車で山の向こうへ向かう版画が刷ってあった。私にとっては、額に入る彼の最後の「小さな宇宙」になった。

2020年2月28日金曜日

空のカーテン

 街のホームセンターへ行くのに、田んぼ道を利用した。朝10時。照り曇りがいそがしいなか、西の山並みを見ると、真ん中だけかすんでいる=写真下。
  家が火事になると白煙が立ち込める。それに似る。どこから煙が? それらしいところはない。地上からの煙ではなく、空から降ってくる雨か雪のカーテンだった。

西の山並みと私の住む平・神谷の間には、鎌田山と夏井川をはさんで内郷~平の市街が広がる。空のカーテンは絹のように薄い。後ろの山並みがかすかに見える。ホームセンターで買い物をすませると、雨がぱらつきだした。天気雨だった。

「汽車に乗って/あいるらんどのやうな田舎へ行かう/日が照りながら雨のふる/あいるらんどのやうな田舎へ行かう」。こんなときには決まって丸山薫の詩句が思い浮かぶ。

あとで知ったのだが、山里の三和では雪、平市街では昼にみぞれ(夕方のテレビでは「雪あられ」といっていた)が降った。神谷に戻ってからは家にこもっていたのでわからなかったが、夕方、外へ出ると、地面がずいぶん濡れている。結構な量の雨かみぞれが降ったようだ。

 昔から神谷で暮らしている人たちは、西の山並みを見て天気を測る。曇天で山がかすんでいるとやがて雨になる、雨が降っていても西の山の稜線が見えると、やがてやむ――。このごろは土地の人の“経験知”にならって、気象台の予報と、西の山のかすみ具合を重ねて、天気を測るようになった。今度の天気雨も、一過性のようだった。

 きのうは気温も上がらなかった。「光の春」と「寒さの冬」でいえば、「寒さの冬」が勝った。しかし、ホームセンターの帰りに夏井川の堤防を通ると、新川が合流する平・塩地内にはハクチョウが2羽しかいなかった。夕方に見ても数は少ない。だいぶ北へ渡り始めたようだ。
台風19号の大水でなぎ倒され、枝にいっぱいごみを付けた岸辺のヤナギも、うっすら緑をまとい始めた=写真上。光の春と寒さの冬の綱引きを続けながら、季節は春に向かって進んでいく。

2020年2月27日木曜日

ガラケーからスマホへ

「2月末でポイントが失効する」「修理受付が終了となる」。このところ矢継ぎ早に封書が届く。そろそろ、かな――。日曜日(2月23日)、予約した時間に夫婦でドコモショップへ行って、ガラケーからスマホに切り替えた。
 ガラケー自体、電話できればいいのだからと、簡単なものにした。他人とのやりとりだけでなく、どちらかが外出したときに家の固定電話を介して連絡する。このごろはカミサンから連絡がきて迎えに行くことが多い。その程度だから、「夫婦で1台」で十分だ。スマホも同じ。通話第一でいい。ほかの機能は、ゆるゆると、おいおいと覚える。

 夫婦で説明を聴き、必要な初期設定をしてもらい、カミサンが知人に電話して、約束の時間を過ぎるかもしれないことを伝えた。電話のかけ方はそれでわかった。電話がかかってきたら……。その知人に目の前でかけてもらった。なるほど、こうやって電話がかかってくるのか=写真。

そのあと、手元に置いて3日目の夜。若い知人から電話がかかってきた。話が終わるころ、「実はガラケーからスマホに……」というと、「道理で、音がクリアになっていました」。そういうものなのか。

 ひまを見つけては取扱説明書を読んでいる。タッチパネル操作のページにはプレス・ロングプレス・タッチ・スライド・ドラッグなどのやり方が書いてある。これも慣れて覚えるしかない。

インターネットにつないで、検索のまねごとをする。このあたりはノートパソコンで“在宅ワーク”をやっているので、なんとなくわかる。大きくて重いノートパソコンがてのひらに納まったと思えばいいのだろう。

カメラには「花認識モード」がある。カシャッとやったらAIが候補の名前を出してくれる、とある。

キノコはどうか。「キノコ認識モード」はもちろんない。きのう(2月26日)、たまたま移動図書館から借りた佐久間大輔著『きのこの教科書――観察と種同定の入門』(山と渓谷社)を読んでいたら、スマホを利用した撮影法が載っていた。デジカメと併用することにする。

 ほかには、辞書を引く、計算機を使う、そんな機能の一つひとつを確かめるようにいじっている。ワンタッチダイヤルはガラケーでもやっていたので、いずれ登録する。地図アプリの使い方は、これから若い仲間にじっくり聴く。

ガラケーよりは重い。耳にあてて長話をすると、手が疲れてくる。疲れない方法はあるのかどうか。それと、問題はスマホの表面がツルツルしていることだ。ズボンのポケットに入れて取り出すとき、あわてて落っことさないともかぎらない。

ガラケーから「ちりめんふくろう」のストラップを外して取り付けた。もう8年前(2012年)になる。双葉郡富岡町から避難していた、当時93歳のおばあさんからもらった手づくりの品で、初代は翼が赤、2代目は青だった。今の3代目はピンクで、色もだいぶくすんだが、滑り止めにはなるだろう。

2020年2月26日水曜日

15歳が聞いて書いた戦争

2月のあたまに、いわきロケ映画祭実行委員会がいわきPITで「ガラスのうさぎ」の上映会を開いた。映画のあとのトークショーで、原作に出てくる「勿来のおばさん」と平空襲について話した。それ以来、時折、東京大空襲関係の本を読んでいる。
前に紹介したが、ロナルド・シェイファー/深田民生訳の新装版『アメリカの日本空襲にモラルはあったか 戦略爆撃の道義的問題』(草思社)には、焼夷弾による無差別攻撃が行われるようになった経緯が記されている。戦争を早く終わらせるため――殺される側からすれば、なんとも複雑な思いがぬぐえない。

焼夷弾の攻撃にさらされた市民の側の記録も読んだ。女子学院(東京・千代田区)は中学3年生を対象に、「戦争体験聞き書き学習」を夏休みの課題にしている。その聞き書き作品から東京大空襲に関する16編を選んで刊行されたのが、『15歳が聞いた東京大空襲――女子学院中学生が受け継ぐ戦争体験』(高文研)=写真。出版された年は2005年、東京大空襲・終戦から60年の節目の年だ。

読み始めてすぐ、「おやっ」と思った。聞き書きの「レポート」を想像していたのが、ちゃんとした「物語」になっている。小説と変わらない構成だ。よほどていねいに聞きとり、調べたうえで文学的な工夫を凝らさないと、人に読んでもらえる「作品」にはならない。

ウィキペディアで、レベルの高い中高一貫校であることを知って納得した。福島が初任地のNHKアナウンサー合原明子さん、おはよう日本の和久田真由子さん、フリーアナウンサーの膳場貴子、馬場典子さんらも聞き書き学習の経験者だろう。

2004年には『15歳が受け継ぐ平和のバトン――祖父母に聞いた235の戦争体験』(高文研)を出し、戦後70年の2015年にも『戦争しない国が好き!――女子学院中学生が綴った日本の戦争22話』(高文研)を出した(総合図書館にあるので、近く借りて読むつもりだ)

同じ私立の灘中では、3年間、伝説の国語教師橋本武が中勘助の「銀の匙」を教科書にして国語の授業をした。作品に出てくる語彙や事件などをキーワードに総合学習を進め、調べる力、考える力などを養う――それと響きあうような夏休みの調べ学習だ。

小説風の文章には臨場感がある。たとえば、すぐそばに落ちた焼夷弾の描写。「ひときわ大きくザーッという音がしたかと思うと、啓子たちが逃げていく道に降ってきた。熱い油脂が頬にかかった。あわててそれをぬぐうと、おぶっている妹の頭に火の粉が飛んだ。髪がちりちりと焼けているのに気づいた。さっきから泣いていたのはそのせいだったのだ」

7歳の少女ちさとの体験。「ちさとは自分の家を早く見てみたかった。立ち上がったが、足の痛みに驚いて足の裏を見た。裸足で走ったために、足の裏をやけどしてしまったことを思い出した。歩き出そうとしたが、地面は熱した鉄のように熱かった」

雨あられと降ってくる焼夷弾の火の海のなかで、人々は逃げまどい、倒れ、傷ついた。燃える髪の毛、地面の熱さ……。個別・具体の描写が戦争のむごさをリアルに伝える。

2020年2月25日火曜日

今年最初のカツ刺し

 日曜日(2月23日)の夕方、マイ皿を持っていつもの魚屋さんへ行く。顔を合わせるなり、若ダンナが「あります」という。ん!? 「きょうは何があるの」と聞いても、「あります」。二度も「あります」ということは、そうか!「カツオがあります」ということか。
 今年(2020年)最初のカツオの刺し身=写真=を頼む。「いやあ、久しぶりににんにくおろしで食べられる」。つい声が弾む。

実は、魚屋さんへ着く直前、「カツオを食べたいなあ」というと、カミサンが「何いってんの」と一蹴した。しかし、早春にはカツオを食べている。体が覚えていて、脳内にカツ刺しの映像が点滅した。

 秋になってカツオが南へ去ると、タコやマグロ、イワシ、イカなどの刺し身に切り替える。年が明けて少したってから、若ダンナが「解凍カツオならあります」といったが、それは断って、やはり近海もののタコやヒラメの刺し身で我慢してきた。

解凍したカツオではなく、生のカツオが入ったからこそ、「あります」「あります」となったのだろう。「休み(日曜日)だから来ると思って取っておきました」。ありがたいことだ。

ほぼ4カ月ぶりのカツ刺しだ。壺に入っていたニンニクを取り出すと、緑色の芽が出ている。暖冬で春機が発動した。芽をとっておろす。それにわさびを加えて醤油をたらす。最初の一切れを口にする。2月にしてはまあまあの味だった。

自分のブログで確かめたら、2016年は2月7日にトロガツオを食べている。2018年は2月3日に食べた。体が覚えていた、というのはこのことで、これからは毎週ということはないものの、カツ刺しの回数が増えていく。

 ただし、若いころと違って、全部をペロリということがなくなった。隣に住む義弟も交えて3人でつつくのだが、毎回、5~6切れは余る。余ったら「敷きづま」の大根を刺し身にかぶせ、冷蔵庫に入れて、翌朝、“海鮮丼”にして食べる。「あしたも食べられます」と若ダンナがいうように、刺し身の色はあまり変わらない。にんにくで揚げるときもある。なにかのコマーシャルではないが、カツ刺しは二度おいしい。

2020年2月24日月曜日

「草刈りに行きます」

 若い知人(林業女子)からカミサンに電話がかかってきた。「日曜日(2月23日)に草刈りに行きます」。夏井川渓谷にある隠居の下の庭が枯れたヨシで覆われている。それをご主人と一緒に刈ってくれるという。街で用をすませたあと、弁当を持って行くので、終わっても待っているようにと、カミサンが念を押す。
 隠居の庭は分教場の校庭くらいはある。その下の庭はさらに広い。放置していたらヨシが生え始めた。2年前までは年に2回、知り合いの造園業者に頼んで庭の草刈りをした。それを1回にしたら、下の庭がヨシで覆われるようになった。

 隠居に着くと、下の庭の枯れヨシはきれいに刈り払われていた=写真。午後1時を過ぎようという時間だったので、すぐ昼食にする。茶飲み話になって、なぜこの日に枯れヨシ刈りをしたかがわかった。

 ご主人は市民ランナーだ。去年(2019年)、いわきサンシャインマラソンに出るつもりで準備をしていたら、雪で中止になった。今年こそは――。2年分の闘志を燃やしていると、大会(2月23日)の4日前に、新型コロナウイルスのために、またまた中止が決まった。フルマラソンにエントリーしていた。草刈りの電話がかかってきたのは、その翌日ではなかったか。

 マラソン中止の話を受けての、私の想像――。ご主人の脳内にはフルマラソン挑戦というエネルギーが充満していた。そのエネルギーをどう発散したらいいものか。考えあぐねているうちに、前に一度草刈りに行った渓谷の家の庭を思い出した。枯れヨシ刈りに意識を切り替えながらも、脳内ではフルマラソンに挑戦していたのではないか。

「『三度目の正直』というから」。ご主人の話を聴きながら、カミサンが慰める。私は逆に、2月の気象の不安定さが気になるので、「『二度あることは三度ある』かも」といってしまう。「サンシャインいわき」は青空が続く冬のいわきのことを指す。しかし春先、南岸低気圧が東進するとき、天気が崩れる。雪になりやすい。時期が悪いのではないかといっても、1万人も人が集まるような大会は2月にしか組めないのだろう。

 2人を見送ってから平地へ下りると、1人、また1人、道路を走っているランナーとすれ違った。サンシャインマラソンにエントリーしていたかどうかはもちろんわからない。が、“ひとりサンシャインマラソン”を敢行した市民ランナーは多かったにちがいない。

2020年2月23日日曜日

新型コロナウイルス

飲み会があるので、夕方、バスで出かけた。バス停までは古くからの家と畑のそばを通る。ある家の道沿いに「冬柏(ふゆがしわ)」があった=写真。柏は、葉が枯れても枝に付いたまま越冬する。
柏には「葉守の神」が宿っているという。人間にも神が宿っているといいが、今は神ではなく、新型コロナウイルスの感染を警戒しないといけなくなった。飲み会でその話になり、タクシーで帰ってくるときも運転手とその話になった。

新聞(2月22日付)を開いただけでも、「白い恋人」製造1カ月停止(観光客減で販売が落ち込む)、2月前半の百貨店売上1割減、テレワーク・時差出勤、J1選手とのハイタッチイベント中止、屋内遊園地休園といった文字が目に留まる。

福島県内も事情は同じ。バドミントン教室やJAEAの成果報告会(いわき)、講演会などが中止になった。いわきでは、本来ならきょう開催されるいわきサンシャインマラソン大会が中止され、地域の植田公民館まつり、内郷公民館まつりの中止が決まった。

日本でも「市中感染」が始まったらしい。中国へ渡航したことのない人が発症するケースが増えている。陰性でクルーズ船を下り、帰宅した人も発症したと、今朝、NHKがニュースで伝えた。となると、日本ではこれから感染のピークを迎える。国内のどこにいても発症する恐れがある。

おととい、いわき地域学會の若い仲間と、これからの行事について相談した。3月21日に市外から参加者が集まる地域学と地理学を融合したイベントを企画していたが、延期を決めた。4月下旬に予定している総会・記念講演会・懇親会も1カ月ほど遅らせ、懇親会は中止する方向で検討することにした。

3月末には行政区の総会・懇親会が開かれる。こちらも、総会は開くものの懇親会は中止の方向で役員会に諮ることにしよう。

もう「対岸の火事」ではない。触らぬ神、いや新型コロナウイルスにたたられないよう、咳エチケットと手洗いを励行するしかない。

2020年2月22日土曜日

電車が遅れたおかげで……

おととい(2月20日)の夜、いわき湯本温泉の古滝屋で福祉と文化のまちづくりを目的にした「ブッドレア会」の総会・懇親会が開かれた。
  行きはいわき駅から湯本駅まで電車。帰りはタクシーか電車だが、午後9時過ぎの特急で帰ってくるつもりで出かけた。それだと、料金がタクシ―の3分の1ですむ。

懇親会は午後9時に終了する。そのあと、2次会が行われる。昔は飲み始めるとブレーキが効かなかったが、今は少しでも遅くなると心配の電話が入る。

特急は品川発いわき行きのスーパーひたち。湯本発午後9時10分で、懇親会を30分早く切り上げて古滝屋を出た。駅で乗車券を買い、当直の駅員に「平、いやいわきまでの特急券を」というと、「今、2分遅れで普通列車が入ってきます」。「えっ!?」。あわてて自動改札をすませてホームに出ると、電車がやってきた。

なんと、なんと、ダイヤ通りならとっくに内郷駅へ向かっている特急の前の電車(水戸発いわき行き=湯本発午後8時45分)に間に合ったのだ。乗車券200円と湯本―いわきの特急券760円の計960円が、乗車券代だけで済んだ。

調子に乗って10時過ぎまでいると、次の特急ないし普通のほかに、いわき駅前から自宅までのタクシー代がハネ上がる。特急プラス自宅までのタクシー合わせて3000円強の計算が、2000円弱に――。普通電車が遅れたおかげで、帰りの交通費をかなり浮かせることができた。

 湯本で飲んだら特急で帰る――これを学んだのは、東日本大震災直後、時期をずらして開かれた同会の総会・懇親会のときだった。湯本駅前から内郷へタクシーで帰るという知人から、特急で帰ることを勧められた(内郷駅には特急は止まらない、それでタクシーを選んだ。知人も特急に乗れば、平の田町で飲み直すことになる)

 懇親会では恒例のビンゴゲームが行われた。どういうわけか今回はすいすい穴が開いて、最初に「ビンゴ!」になった。帰宅して景品を見たら、いやあ、男では気づかないような品物(アトピー用の衣類洗剤、除菌風呂釜洗い、せっけんを入れて洗えるネットブラシ、お玉ほか)が入っていた=写真。みんなカミサンに進呈した。

2020年2月21日金曜日

阿久津曲がりネギが届く

田村市の実家から宅配便が届いた。前日、電話があって、「阿久津曲がりネギを手に入れたので3束送る」という。箱を開けると、みずみずしいくらいに白く輝いている曲がりネギが入っていた=写真下。1束6本、計18本。今季初めて拝む郡山市の特産品だ。
実家の兄は少し前、ガラケーからスマホに替えた。弟かだれかに私のブログを読めるように設定してもらった。私が栽培している「三春ネギ」は天候不順でほぼ全滅した。すると電話がかかってきて、春になってネギ苗が店頭に並ぶころ、人に頼んで確保しておく――という話になった。

郡山市が本社のヨークベニマルの店がいわきにもある。冬になると、いわきの店でも郡山の阿久津曲がりネギが買える。

しかし、台風19号の影響で阿武隈川沿いの産地が水をかぶり、根腐れを起こした。いわきの分までは確保できなかったのだろう。1週間前に、この冬はとうとう曲がりネギを食べずに終わった、と書いたら、店が休みの日に郡山へ出かけて、直売所かどこかで阿久津曲がりネギを手に入れた。生産者も居合わせたという。
おととい(2月19日)の朝、ジャガイモと阿久津曲がりネギの味噌汁にした=写真上。私にとって最良の組み合わせがこれ。お椀を口に持ってくると香りが立った。かむと軟らかい。甘みととろみがある。とろみは、葉の内側にあるぬめり(蜜)が加熱して変化したものだろう。ジャガイモもいい具合にほぐれて、ネギのとろみとよくからみあう。久しぶりにネギで幸せな気分になった。

曲がりネギの産地・阿久津は、郡山市に編入・合併するまで田村郡の一部だった。阿武隈川の右岸に位置している。三春町とは地続きだ。三春ネギの本場の田村地方でも、阿久津と同じように、夏に斜めに植えなおす「やとい」という作業をして、曲がりネギにする。秋に種をまくのも同じ。このため、三春ネギと阿久津曲がりネギは親戚、ないし同一種、と私はみている。

きのうの朝は、豆腐と曲がりネギの味噌汁が出た。ジャガイモと違って、豆腐は豆腐、ネギはネギといった感じで、味のハーモニーはない。ま、それはそれでさっぱりとして、穏やかな味だ。

ネギひとつでこうも脳内が刺激されるのはなぜだろう。子どものころ、三春ネギとジャガイモの味噌汁を食べて育った。その味が味蕾に刷り込まれているらしい。品種の違うネギが手に入ると、まずはジャガイモとネギの味噌汁にする。それで良しあしを判断する。

この前は西日本の広島の根深ネギが手に入った。味噌汁にしたら、まあやわらかいことはやわらかいが、甘みはなかった。淡泊な味だった。やはり、阿武隈高地で生まれ育った人間には三春ネギ、ないし阿久津曲がりネギが一番ぴったりくる。

2020年2月20日木曜日

図書館利用術

田村隆一の詩句にある。「<昨日>の新聞はすこしも面白くないが/三十年前の新聞なら読物になる」。いわきでは30年前どころか、113年前の明治40(1907)年の新聞が読める。
いわき市立図書館のホームページに、いわきの新聞や地図、絵はがきなどを収めた「郷土資料のページ」がある。平のまちの豪商が開設・運営した私立図書館「三猿文庫」に収蔵されていたいわきの郷土資料のうち、36紙の新聞がデジタル化されて、いつでも、どこからでも閲覧できるようになった。

おかげで、明治40年以降のいわきの近代文学や社会の動きなどを、家にいながら、すぐ探れるようになった。

「図書館『いわき学』講座」=写真(チラシ)上1=が1月29日から2月26日まで、いわき総合図書館を会場に毎週水曜日・全5回の日程で開かれている。きのう(2月19日)の4回目を担当した。「吉野せい『洟をたらした神』を読み解く」と題して話した。

『洟をたらした神』の注釈づくりをライフワークにしている。図書館の開架・閉架資料と、ホームページのデジタル新聞などを利用して、それぞれの作品の時代背景を調べ、史実と作品を比較・検討している。そのなかから、好間・川中子のネギ栽培や北海道への移民制度などを、近現代史のなかで解説した。併せて、『洟をたらした神』はノンフィクションかもしれないが、フィクション性も高い――そう感じるようになった根拠を、例を出して説明した。

内容は、これまで拙ブログで取り上げてきたことが中心だ。注釈づくりのために図書館をどう利用してきたか、ということも話したので、そのことを書きとめておきたい。

私は、講座ではプロジェクターを使わない(使えない)。図書館の担当者とやりとりするなかで、当日朝、指示してもらえばリアルタイムでプロジェクターを使い、「郷土資料のページ」から新聞を拡大・投影できるという。それをやってもらった。壁に映し出された新聞記事を、これも初めての経験だが、指し棒を使ってあれこれ説明した。
自分のパソコンから図書館のホームページを開く→郷土資料のページを開く→新聞の項目を開く=写真上2→必要な新聞の紙面を開く、といった手順のほか、昔の地域新聞は夕刊として配られたが欄外にある発行年月日は翌日になっている、その違いを頭に入れておかないと事件・事故の起きた日を誤認する、といったことを最初に話した。(私の話に合わせて、担当者がパソコンを操作し、プロジェクターで投影したので、思った以上にわかりやすく見せることができた。話している私自身も説明がしやすかった)

普通の図書についても、自宅で検索をして本の有無、貸出中かどうか、などを確かめる。一般の本を読んでよくわからないときには、児童図書に当たる――そんな話もした。

今すぐ読みたいのにラトブの総合図書館にはない、内郷あるいは四倉図書館にはある、となれば、そちらへ出かける。勿来へ用事があったついでに、植田の勿来図書館から借りてきたこともあるが、こちらはやはり遠い。すぐ行く範囲は内郷・四倉までだ。要は自由に本に接する、図書館の垣根を超えて利用する、ということだろう。

講座が終わったあと、図書館利用術のような講座をやる場合はしゃべってもいいよと、担当職員に押し売りしたが、それには、ラトブがオープンしたその日から図書館を利用してきたことへの恩返しの意味もある。

2020年2月19日水曜日

踏切改修工事

いわきの平地(街)で暮らしているかぎりは、影響は皆無だろう。これが一歩、山里に入るとたちまち移動に支障をきたす、ということになりかねない。
日曜日(2月16日)に夏井川渓谷の隠居へ出かけたら、道路に看板が立っていた=写真上。「迂回路のご案内」「踏切改良工事のため」「2月20日~2月23日」。

渓谷の幹線道路は夏井川に沿う県道小野四倉線だ。浜通りのいわき市と中通りの田村郡小野町を結ぶ。この道路と交差しながら、JR磐越東線が走る。

いわき市川前町川前字荷付場地内に関の沢踏切がある=写真下。その踏切で改良工事が行われるために、県道が4日間通行止めになる(列車は普通に運行するようだ)。迂回路は一山超えた南の国道49号~同349号と、看板の地図に記されていた。
  別の立て看によれば、通行止めの時間は初日20日が午後9時から、最終日23日が午前6時半までの終日だ(日中に限っていえば、21、22日が通行止めということになる)。列車ダイヤに変更はないものの、最終列車のあとから工事に入り、4日目の早朝、一番列車が通過する前に工事を終える、ということらしい。

関の沢踏切は、渓谷の小集落・牛小川(小川)と竹島(川前)の間にある。中通りへ行くならともかく、踏切のちょっと先、川前駅周辺に用があるときには、牛小川から神楽山へ向かう林道を利用すればいい。わざわざ国道49号から三和の差塩を越えて川前へ下るルートを大回りする必要はない(ただ、街から川前の小中学校へ通勤している先生たちは大変だろう)。

とはいえ、台風19号の影響がどのくらい残っているか。神楽山側の林道が利用できるという保証はない。

県道も、牛小川から関の沢踏切までの間だけで何カ所か、谷側の路肩がえぐられている。特に、山前踏切と関の沢踏切の間の約700メートル区間は、建物でいう犬走りのようなところに山・線路・道路・川が並行している。そこでも1カ所、谷側の路肩がえぐられたままだ=写真右上。

おととい(2月17日)は雨になった。きのう見ると、水石山が雪をかぶっていた。ふもとの国道49号は、わき道の差塩は大丈夫か。いわきの平地では梅が開花しても、山里ではまだまだ雪に見舞われる。

2020年2月18日火曜日

梅前線は足踏み状態?

 いわきの平地の白梅が満開になった。旧小名浜測候所の標本木が、先週木曜日(2月13日)に開花したと、小名浜まちづくり市民会議が発表した。平年より6日、去年(2019年)より12日早いそうだ。
 毎年、夏井川流域のうち、平地の市道・国道399号沿いから渓谷の県道小野四倉線沿いまでの「梅前線」をチェックしている。

日曜日(2月16日)の朝、時折、小雨がぱらつく曇天下を渓谷の隠居へ向かった。1月25日以来3週間ぶりなので、梅前線はさぞかし渓谷まで、と思いながら進んだが……。

平地の平・上神谷の白梅満開。扇状地のはじまり、小川町・空木(くうぎ)の紅梅・白梅満開。やや高台(段丘)、同・高崎の白梅満開=写真上。その先は渓谷だが、江田~椚平~牛小川と白梅には気づかなかった。

極寒期まで暖冬で経過した。2月も少し入ってから寒くなった。これが影響して、梅前線は小川・高崎あたりで足踏みしているのだろうか。

3年前(2017年)の拙ブログを見ると、2月19日には椚平に梅前線が到着していた。その上流の小集落、牛小川の隠居でも梅が1、2輪咲き出していた。それに比べたら、今年は意外と歩みが遅い。
 道路沿いの隠居の白梅はまだつぼみ。それも小さい。ついでにそばの木たちを見たら、斜めになっている木の幹に直径1センチ強の黒い粒々が生えていた=写真上。キノコ図鑑で確かめると、クロコブタケらしい。シイタケの害菌とある。クロサイワイタケ目クロサイワイタケ科に属する。枯れ幹に夏~秋、発生する。漢字では「黒瘤茸」。クロサイワイタケという言葉には引かれるが、漢字は不明らしい。黒幸茸?

クロコブタケを含めてさまざまな胞子が谷間を行き交っている。菌の寝床になったからには、これからどう変化するか、梅ほかの花前線とともに見てやろうと思う。「沈黙の春」を著したアメリカの生物学者、レイチェル・カーソンのいう「センス・オブ・ワンダー」(不思議さに目を見張る感性)だ。

2020年2月17日月曜日

イナダのバターソテー

 ある日の夕方、高専の後輩が魚を持って来た。次の日、フェイスブックで知ったのだが、お福分のお福分けだった。後輩はイナダを刺し身と粗汁に、サバをブツ切りの味噌煮にした、という。
発泡スチロールの箱にイナダが1匹、サバが2匹入っていた。氷と水につかっている。うろこはとってあるようだが、内臓はまだ。晩酌を始める時間だったので、一晩おいて翌日昼前、魚をさばいた。頭を取り、内臓を取り出したら、イナダとサバ1匹から小魚(イワシ?)が出てきた。食物連鎖を目の当たりにして、脳みそに稲妻が走った。

 東日本大震災と原発事故の前は、広野町の歯医者さんの奥さんが、ご主人が沖で釣ってきたスズキをときどき持って来た。うろこと内臓を取り、三枚におろすことを“自習”した。

震災後は、それが途絶えた。あるとき、近所の歯医者さんの奥さんがヒラマサを持って来た。三枚におろした一部で、歯医者さんの友人が日本海で釣ったものだという。原発事故後、中通りへ避難した広野の歯医者さんは日本海で沖釣りをするようになった、と聞いていた。もしかして友人とはその歯医者さん? いやいや、そこまで詮索する必要はない。皮をはぎ、刺し身にして、ありがたくちょうだいした。

 試験操業が始まってからは、久之浜の知人からお福分けが届いたこともある。それ以来の鮮魚だ。自分のブログを読み返したり、ネットで魚のさばき方をおさらいしたりしてから、台所に立った。イナダは三枚におろし、サバは開いただけにした。いずれも身はギザギザ、惨憺たる姿だ。

 イナダは、カミサンがブツ切りにしてバターソテーにした=写真。淡泊な味だが、ニンニクが効いている。なかなかいい味だった。サバは? カミサンが1匹を近所の若い奥さんに進呈した。竜田揚げにしたそうだ。最初は後輩にならって味噌煮をと考えたが、醤油ベースのたれに漬けて片栗粉で揚げる竜田揚げもいい。きょう(2月17日)の晩酌のさかなはそれか。

こういうときにはいつも「プロシューマー」(生産消費者)とか「6次化産業」とかいう言葉を思い出す。
 
「プロシューマー」は『第三の波』の著者、アルビン・トフラーの造語だ。「コンシューマー」(消費者)であって「プロデューサー」(生産者)――カネではなく、家族や自分の満足のために生産する消費者のことを指すらしい。いわき昔野菜フェスティバルで江頭宏昌・現山形大教授が紹介した。

「6次化産業」は、例えば自分で野菜をつくり、漬物にして売る、あるいは魚を捕って干物にして売る、といったことをいう。生産と消費の間に「加工」(調理)・「販売」が加わる。

この「販売」が「贈与」に変わることもある。今度のイナダとサバがそうだ。ただの消費者でも「加工する」が加われば、「6次化産業」いや「6次化生活」の一端を楽しめるのだが、「加工」のウデはさっぱり上がらない。

2020年2月16日日曜日

玄関のサンダル

 玄関の履物がときどき、きれいに外向きになる。カミサンがそうする。革靴やスニーカーは、上がりかまち、といっても茶の間の疊だが、そこに座って履くから外向きの方がいい。
 サンダルはどうか。新聞を取り込む。コンビニに行く。庭に出る。しょっちゅう家を出たり入ったりするので、向きはおろそかにできない。若いときは外向きでも内向きでもかまわなかった。最近は外を向いていると、段差が気になってしかたがない。

外を向いたサンダルに合わせて足を下ろす。もう一方の足がぐらつきそうになる。畳と玄関のたたきまでの段差を測ったら、約33センチ(1尺)あった。古希を過ぎた人間にはなかなか手強い高さだ。

散歩にドクターストップがかかって以来、足が目に見えて弱くなった。こたつの座布団につっかかる。座布団のへりを踏んでこけそうになる。わずかな段差でも足の爪先をぶつける。その先にあるのは家庭内事故(骨折など)か。

玄関の靴やサンダルがそろって外を向いている分には、見た目はきれいで気持ちがいい。しかし、足を上げ下ろしするのがきつくなった人間には、ちょっと困る。ある日、宣言した。「サンダルは内向きのままでいいから」=写真。

外から戻り、サンダルを脱いで上がる。サンダルは内向きのままだ。外へ出るときは、うしろ向きになって玄関の柱につかまって足を下ろす。その方が、流れがスムーズだ。腰を痛めて、こたつから立ち上がるのが難しいようなときには、なおさら柱を支えにしないと、足を下ろせない。

隣の家にカミサンの弟が住む。やはり古希を迎えた。義弟は私より背が低い。朝・昼・晩と、わが家で食事をする。日に3回、玄関から茶の間への上がり下りが難儀そうだ。

どうしたものかと考えているうちにひらめいた。玄関のたたきに高さ15センチくらいの踏み台(式台)を置けばいい。それがあれば、私も義弟も楽に上がり下りができる。踏み台になるものは、木材が一番だが、それが手に入らないときには古くて大きな辞書でもいいか。ま、辞書はともかく、なにか代用品を考えるとしよう。

2020年2月15日土曜日

「会話のドッジボールはだめ」

「ひきこもる人が一番いやがるのは『押しつけ』。会話のキャッチボールを。会話のドッジボールはだめ」。相手にぶつけるような言葉は逆効果だと知る。
 先週の金曜日(2月7日)、いわき市文化センターで教育文化講演会が開かれた。市青少年育成市民会議平地区推進協議会が主催した。埼玉県の田口ゆりえさんが「ひきこもりは誰にでも起こり得るもの」と題して話した。子どもたちの育成活動に携わっている平地区の各支部役員やPTAなどが受講した。

 田口さんはNPOのKHJ全国ひきこもり家族会連合会理事、同埼玉けやきの会家族会代表を務める(Kは家族会、Hはひきこもり、Jはジャパンの略)。自身の体験をもとに、各地で講演活動を続けている。

国の実態調査によると、ひきこもりは全国で推計100万人を超える。15~39歳より40~64歳の方が多い。きっかけは、4割近くが退職・人間関係・病気・職場になじめなかった――で、4分の3が男性だという。

ひきこもりの高じたものを「とじこもり」という。同じ家で親が20年も会っていなかった、だれとも話をしないからのどの機能が退化して声が出ない、食事がとれない、救急車で病院へ運ばれた――そんなケースもある。

 田口さんは複合化して深刻さを増すひきこもり問題を、事例を踏まえて紹介しながら、家族として、また支援者としてどう向き合ったらいいかを話した。

そのひとつが冒頭の言葉、「会話はドッジボールではだめ」。「学校へ行かないならバイトくらいしてほしい」「わがままだ」「このまま家にいられたら迷惑だ」などと、ひきこもりを否定・非難・批判しているうちは、気持ちの通い合いは難しい。

非受容・非共感ではなく、まず親が学習して「ひきこもらざるをえない本人の苦しみ、葛藤に寄り添う」。そうすることでいつか回復への道筋がみえてくる。ひきこもりが起きたとき、地域で孤立しないよう、家族を支援することも重要になる、という。

 支援者がやってはいけないこともある。田口さんは大きく4点を挙げる=写真(資料から)。①訪問支援など本人が望まない援助は暴力と同じ②本人が返答に困るような質問や詰問はだめ③指示・命令、良かれと思っての先回り、強引な提案もだめ④支援機関の都合で本人を引っ張らない――。あくまでも本人の意思や事情や状態に寄り添うことだという。

受容し、共感することが大切、という点で思い出したことがある。東日本大震災のあと、シャプラニール=市民による海外協力の会がいわきで交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。津波被災者や原発避難者が利用した。

スタッフとボランティアがいわき明星大(現・医療創生大)に出向き、臨床心理士でもある教授から「災害支援者のための傾聴技法」を学んだ。

最近読んだ認知症関係の資料にも、話は否定せずに聞くことが大切、とあった。「ゆっくりと共感し、話を聴く。共感的に聞くだけで被害妄想が消えることも珍しくない」。ひきこもりであれ、認知症であれ、「共感力」が大事になる、ということなのだろう。

それともうひとつ、田口さんのアドバイスで印象に残った言葉がある。「ゲームは一時的にも苦しさを解放してくれる手段になる。ネットはたったひとつの社会とのつながり」。「ゲーム・ネット依存」をばっさり切り捨てるのは簡単、しかしそれではひきこもる人の苦しみに寄り添ったことにはならない。画一的な見方が少しほぐされた。

2020年2月14日金曜日

「生活の伝統の研究」

 ざっと1年前、若い友達がポリタスに「『津波と村』――なぜ人は原地に戻るのか」を寄稿した。論考の前半で地理学と民俗学に橋を架けた、会津出身の山口弥一郎(1902~2000年)の『津波と村』を紹介し、後半で復興のビジョンの根底にあるものを見すえながら、東日本大震災と原発事故について書いている。
前半と後半の間に山口のメモを引用している。このメモに感銘を受けた。書き写して、ときおり読み返してきた。

『津波と村』は東日本大震災の直後、復刊された。まずはそれを読んだときの拙ブログ(2011年8月10日付)を抜粋する。
                 ☆
いわき総合図書館の新着図書コーナーに山口弥一郎の『津波と村』(三弥井書店)があった。帯に<1933年の三陸大津波による集落移動を分析した地理学と民俗学の狭間に生きた著者60年に及ぶ研究成果の集約>とある。3・11を経験して「名著」が再び日の目を見ることになった。

 山口弥一郎とくれば、磐城高女、磐城民俗研究会だ。地理の教師として磐城高女に赴任し、昭和10(1935)年9月、柳田國男門下の高木誠一(北神谷)、同僚の岩崎敏夫、高木の甥の和田文夫(四倉)らと「磐城民俗研究会」を創設する。

 山口はその年の師走、昭和8(1933)年3月3日に発生した「昭和三陸津波」による村の荒廃、移動調査を始めた。学校の冬休みを利用しての旅だったろう。数次にわたる現地調査のあと、戦時下の昭和18(1943)年、柳田のアドバイスで一般人向けの『津波と村』を出版する。

「昭和十五年には民俗研究の學友である磐城の和田文夫君を岩手へ呼び、三陸海岸一巡の途、特に一日両石の民俗採集を依託した。これは柳田國男氏指導の下にある民間傳承の會が、特に漁村の生活研究資料採集の為作った手帖によった」。<両石の漁村の生活>の項がそれに当たる。
                 ☆
山口の没後、山口の遺品の一部であるノートや原稿、写真などの調査研究資料が磐梯町の慧日寺資料館で保管されている。そのなかに、阪神・淡路大震災が起きたときの新聞記事を張り付けたスクラップブックがあったのだろう。次のような添え書きを、若い友達が引用していた。

「神戸海岸・横浜海岸には勿論原子力発電所はない/然し日本の原子力発電所は海岸に分布し海底地震の真正面にある/これは今までのリアス湾頭の災害と全く様態の異なる被害を及ぼすであろう/そのメカニズムを研究した人は未だ世界中に見当らない」

 山口はこのとき92歳。その5年後、97歳で亡くなる。山口の危惧が現実のものになるのはそれから16年後。90歳を過ぎてもなお旺盛な山口の問題意識、学問的良心に打たれた。

 それからしばらくたって、復刊本とは別に『山口弥一郎選集 第6巻』(世界文庫)に収められている「津波と村(抄)」を読んだ。「津波と村」のテーマは、若い友達が指摘しているように「なぜ一旦移転した集落が原地(元の場所)に戻ってしまうのか」だ。

 いわきでも東日本大震災後、沿岸部に防災緑地が築かれ、集落の背後にあった丘が削られて、「高台移転」事業が進められた。『津波と村』に載る旧・鵜住居村両石地区の集落移動図(斜線で囲まれた四角が以前の集落、白い四角が高台の復興集落)=写真=を見ながら、いわきの沿岸部の今後を考えずにはいられなかった。

 山口は<両石の漁村の生活>の最後に書いている。津波の大災害は漁村の古くからの生活の伝統を押し流したが、復興をとげて落ち着いてくれば再び生活の伝統がよみがえる。生活の伝統はそれほど古くから固持されている。

 災害直後、役人や指導者が机上で設計・考案しても、集団移動が行われにくい一因がそこにある。村の生活の伝統を研究することは、長い地味な仕事だ。津波災害が忘れ去られたあとも、1人や2人はコツコツと続けていていい。災害に遭ったその土地の人間こそが長く調査研究を続けるべきだ――。「生活の伝統の研究」、つまりは市民による地域学である。

きのう(2月13日)、会津若松市の福島県立博物館でテーマ展「山口弥一郎がみた東北」が始まったという新聞記事を読んで、真っ先に若い友達が引用していた添え書きを思い出した。山口の慧眼に触れてほしくて、つい長文になってしまった。

2020年2月13日木曜日

ネギの出荷も終盤

 夏井川の下流域、なかでも平・神谷地区はネギの生産地として知られる。上流から運ばれてきた土砂が広い範囲に堆積している。砂漠生まれのネギには、川の下流の砂地は格好のゆりかごだ。
 平の街から神谷のわが家へ戻るのに、よく夏井川の堤防を利用する。堤防に沿ってネギ畑が点在している。東日本大震災のあと、この風景が少し変わってきた。

ネギ畑だったところに家が建つ。ネギの栽培をやめて荒れ地化した畑がある。ネギ畑の面積が少しずつ減っている。生産者が高齢化しているのが一番の理由だろう。

 夏井川の上流、渓谷の隠居で在来種の「三春ネギ」を栽培している。三春ネギは秋まき(10月10日が目安)、下流の平・北白土で栽培されている「いわき一本太ネギ」(千住一本ネギ合柄)は春まき(4月10日が目安)だ。同じ在来ネギでも品種が違う。ただし、神谷地区で栽培されているのは、品種が改良された新しい「いわきネギ」だろう。葉が折れることもなくまっすぐ伸びている。

収穫期は晩秋から冬だが、平地のネギは真冬でも青々としている。12月には出荷が始まる。先日、堤防を通ったら、最後に残るネギ畑で老夫婦が収穫作業に追われていた=写真。

夏の定植から始まって、土寄せ、収穫・出荷と、人が出て作業をしていれば、三春ネギ栽培の参考にするため写真を撮る。

朝晩、散歩をしていたころは、ツンとネギの匂い(硫化アリル=アリシン)のするときがあった。特に冬の出荷期、皮むき中だったりすると、硫化アリルが一帯に滞留する。

皮むきは機械でする。ビニールハウスの方から「ヒューッ」と音がする。ハウスの中央にすきまがあって、青く大きなネットが外に出ている。空気を利用してむいた皮をそこへ飛ばす――今では懐かしい光景と匂いだ。

2019~20年の三春ネギはさんざんだった。平地のネギも、場所によっては台風19号の大水で根腐れを起こした。

きのう(2月12日)、カミサンの知り合いから自分で栽培している長ネギを袋にいっぱいもらった。さっそく夜、焼きネギにして酒のつまみにした。本人が言うように、少し硬い。焦げた皮だけでなく、その下の皮もむいてやわらかさとほのかな甘みを味わった。郡山の「阿久津曲がりネギ」が恋しくなったが、これもこの冬は台風19号のせいで口には入らなかった。

2020年2月12日水曜日

台風19号㊷防災研修会

 台風19号がいわき市を襲ってから、きょう(2月12日)で4カ月――。土曜日(2月8日)にいわき市文化センターで、自主防災組織と防災士の合同研修会が開かれた。市が主催した。
「災害発生情報等の取得方法及び避難行動のあり方について」と題した講座の冒頭、「近年の災害の特徴」のなかで台風19号の被害状況が報告された。最近、よく耳にする「線状降水帯」、これが近年まれに見る大災害をもたらした。

 いわきで初めて「大雨特別警報」が発表された。いわき(小名浜)の年間降水量は1400ミリほどだが、去年10月12~13日に山間部の三和では総雨量448.5ミリを記録した。山間部は小名浜よりは降水量が多い。それでも一日ちょっとで年間の3分の1近くが降ったことになる。下流の平でも206.0ミリだった。いずれも夏井川水系だ。

 9人が亡くなった。住家被害(全壊~一部損壊)は5669棟、ざっと7000世帯1万人が被災した。これに公共施設や農作物などを加えた被害総額は379億5000万円。昭和34(1959)年9月の台風、同61(1986)年8月の台風崩れなど、過去の水害4件の被害額(46億8000万円~18億円)に比べても、規模が一ケタ大きくなっている。もう過去の経験則は通用しない、ということなのだろう。

 資料に被災直後の航空写真が載る=写真。住宅地を、刈り取り時期を迎えた水田を泥水が覆っている。橋の名前を聞き、平浄水場の場所を教えられてやっと位置関係がわかった。

被災直後はカミサンの友人の家や“孫”の家、後輩の家のことしか思い浮かばなかったが、「あの家も」「この家も」と、時間がたつにつれて被災した知人の家の数が増えていった。そのときの、それぞれの家の様子を想像しながら写真を見る。

講座では主に情報の入手の仕方を学んだ。消防本部による台風19号の事例発表もあった。東日本大震災を教訓に、「大規模災害時の消防活動計画」がまとめられた。今回初めて、この計画に従って活動した。記録班も設けた。119番通報は3・11のときより多かった――。消防の話からも、今回の水害がかつてないほど甚大だったことがわかる。

同じ日、被害住民らが「夏井川・新川・好間川水害対策連絡会」を結成した。それを伝える新聞記事によると、会長に就いたSさんは「2階建ての自宅は1階部分が約1メートル水没し、2階で不自由な生活を余儀なくされている」。

友人の娘一家は、「豊間の市営団地に一時的に引っ越した」。留守の間に訪ねて来て、メモを置いていった。彼女の家も1階が浸水した。「市営団地」は津波被災者用に建てられた災害公営住宅のことだろう。マチからハマへ、一時的とはいえ不自由な暮らしが続く。