2020年3月31日火曜日

イタリアからの電話

 イタリアの新型コロナウイルス感染が深刻だ。3月28日付の朝日新聞=写真=によると、3月27日現在で死者が約8200人、それから2日ほどしかたたないのに1万人を超えた。(30日現在、1万1591人という報道も)
 おととい(3月29日)の夜9時前、国際電話がかかってきた。イタリアに住むカミサンの同級生からだった。3月25日付の拙ブログで「カミサンの同級生がミラノの東、『ロミオとジュリエット』で知られるベローナに住んでいる。向こうの日中の時間に合わせて電話をかけているのだが、まだつながらない」と書いた。

イタリアで拙ブログの唯一の読者である彼女が、それを読んでカミサンに連絡してきた。まずは無事だったことにホッとする。

 冒頭の新聞記事は、イタリア北部パドバに住む日本人漫画家ヤマザキマリさんに現地の様子を聞いたものだ。記事では、なぜイタリアで死者(高齢者が多い)が急増したのか、についても触れている。イタリアの国民性、文化と習慣はさておき、ヤマザキさんは日本の若者の危機感のなさに警鐘を鳴らす。「高齢者に感染させるリスクをもっと意識してほしい」

 記事を読んだあと、ネットでイタリアの情報を集めた。原則外出禁止だという。薬局と食料品店以外の店は閉鎖、宅配はOK、外出許可書には「感染していない」という申告項目が追加された――。

 カミサンのメモによれば、同級生はベローナの山の上の村に住んでいる。人口は約2500人。スーパーはない。代わりに移動販売が来る。予約すると品物を届けてくれる。食料品の買い物だけは許されている。小麦粉30キロを買いだめして、自分でパンをつくっている。散歩に出ればパトカーに止められ、外出許可書の提示を求められる。牧師も医師も亡くなっている。

同級生は最後に、こう忠告したという。「新型コロナウイルスを甘く見てはいけない」

「志村けん!」。若いころ、実家に帰省すると、姪たちが私の頭を見てはやしたてたものだ。最初は長髪の加減から、その後は髪の毛の減り具合から。いわきの知人の娘も、遊びに行くたびに「志村けん!」と、同じことをいった。それで、「いわきの志村けん」を自称することもあった。

ご本人が3月29日、新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった。報道によると、17日に倦怠感があって自宅で静養し、19日発熱・呼吸困難となり、20日に肺炎と診断されて入院、23日に新型コロナの陽性と判明、人工心肺装置などを付けたが、意識は戻らなかった。自覚症状からわずか13日目、あまりにもあっけない死だ。

アメリカの俳優トム・ハンクスはオーストラリアで感染したが、無事退院した。「日本の喜劇王」も頑張って退院してほしい、そう願っていたのだが、かなわなかった。享年、70。私より1歳小さい。「新型コロナウイルスを甘く見てはいけない」。イタリアからの言葉が脳内で残響する。

2020年3月30日月曜日

みぞれのアカヤシオ

 きのう(3月29日)は朝、いわきの平地(平)では雨だった。予報では、午前9時~正午が雪。夏井川渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)は、谷側の“前山”が満開にちがいない。雨でも雪でもいい、それを確かめねば――。
この冬は暖かかった。タイヤはノーマルのままだった。極寒期を過ぎ、春を迎えたと思ったら、今の時期に特有の、南岸低気圧による春の雪だ。しかし地温が高いから、雪でも道路には積もらないはず――そう考えて、早く出かけて早く戻ることにした。

 渓谷に入ると、すれ違う車の屋根に雪が載っている。「いわき」ナンバーだから、渓谷沿いの川前(標高280メートルほど)ではなく、山地から下りて来た車だろう。桶売(同500メートルほど)や小白井(同650メートルほど)は銀世界に違いない。

 渓谷の隠居までは雨、やがてみぞれに変わったが、周囲の山も家も道路も白くなることはなかった。

対岸のアカヤシオは思っていたとおり、満開だった=写真上1。その“奥山”は、稜線がおぼろに見えるだけ。縁側からアカヤシオの写真を撮ったあと、傘をさして、庭のシダレザクラの樹下に発生するアミガサタケを探した。半分立ち枯れた庭木の幹にはアラゲキクラゲが発生する。それもチェックしたが、どちらもまだだった。

近くの小流れにはコゴミ(クサソテツ)が出る。例年、4月下旬に摘む。いくらなんでも早すぎる。そこはノーチェック、となれば、あとはやることがない。カミサンがせっつくので、1時間もたたずに街へ戻った。図書館へ寄って本を借り、家に帰って一休みしているうちに雨(みぞれ)が上がった。
4時過ぎ、いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行く。「今年一番のカツオです」。うれしい気分で戻ると、西の山並みがうっすら白くなっている。ひとつ山寄りの道へ入って、神谷耕土から湯ノ岳を写真に収めた=写真上2。この雪も太陽が顔を出せばすぐ消える。

フェイスブックにアップされた写真を見ると、同じいわきの平地でも、高台、あるいは沿岸部では白くなったようだ。いわきでは、雪は非日常、格好の被写体になる。

2020年3月29日日曜日

磯の味、土の味

 きょう(3月29日)は3月最後の日曜日。例年、行政区の総会を開く日なのだが、新型コロナウイルスの問題が起きたために、一堂に会するやり方は中止した。代わりに、4月1日付で総会資料を回覧し、電話で質疑を受けることにした。規約にはない緊急・例外的な措置だ。
 東京方面への移動だけでなく、地元いわきでも静かにしていた方がいい――。年寄りなので、「週末外出自粛」の呼びかけに応じて、きのうは家で本を読んで過ごした。

そんな日の夕暮れには、なにかうまいものを食べたくなる。といっても、「レストラングルメ」ではない。山菜・キノコの「サバイバルグルメ」。

 先日、カミサンが近所の故伯父の家の庭からフキノトウを摘んで、油で炒めて「ふき味噌」にした。「食べる」というよりは「なめる」に近い春の味だ。ご飯のおかずにも、晩酌のつまみにもなる。強い香りが鼻腔をくすぐり、ほろ苦さが舌を喜ばせる。これが、サバイバルグルメには「うまいもの」になる。

焼酎と「ふき味噌」をなめながら、3月に口にした「磯の味」と「土の味」に思いをめぐらせる。

 3月初旬、いつもの魚屋さんへ行くと、「茎ワカメの味噌漬け」=写真上1=があった。ワンパック200円。カツオの刺し身と一緒に買い求めた。「魚を買いに来る人から話を聞いて試作してみた」という。

 さっそく晩酌のつまみにする。湯がいてあるからやわらかい。キュウリみたいに中まで味噌の味が浸透しているわけではない。さっぱりした味がおもしろい。酒のさかなとしては珍味の部類に入るだろう。
 それからしばらくたって、夏井川渓谷の隠居の庭から辛み大根=写真上2=を引っこ抜いてきた。こぼれ種から芽生えた“ふっつえ大根”だが、根は鉛筆程度と未熟で細い。おろさずに刻んで食べたら、味も素っ気もなかった。これは失敗。おろし器で細胞を破壊するからこそ辛みが発揮される。それがない辛み大根はタダの草の根に近い。

 けさは起きると雨。このあと、夏井川渓谷の隠居へ出かけるが、南岸低気圧の影響で、9時からお昼にかけては雪の予報が出ている。いわきに多い春の雪だが、テレビの気象情報ではみぞれの可能性もある。アカヤシオの花の咲き具合を確かめたあと、傘をさして春の土の味を探す。

2020年3月28日土曜日

プラムの花を撮る

 新型コロナウイルス感染問題に、年度末の会議や事務連絡・問い合わせなどが重なって、落ち着かない日々が続く。
庭のプラムの花が満開になっているのに気づいたのは6日前。「咲いてたのか!」。夏井川渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)や平地のソメイヨシノと違って、庭のプラムは身近過ぎてノーマークだった。そのあともじっくりプラムの花を眺めるどころではなかった。

きのう(3月27日)、ようやくプラムにカメラを向けた=写真。地面にはもう白い花びらが散っている。

 このプラムは長男の小学校卒業のときの記念樹。植えて何年後かに実が生(な)りだした。ところが、地上1メートルほどのところで幹が二またになり、片方が菌に侵された。サルノコシカケの仲間らしい硬いキノコがあちこちに発生している。上部を切断したので、枝の広がりは半分しかない。あっという間に花だらけになる。

 自分のブログによれば、2016、18、19年は3月中に、2015、17年は4月に入ると満開になった。今年(2020年)は、春分の日あたりには咲き出したようだ。平地のソメイヨシノよりは早い。データを見る限りでは、開花が早まっている印象がある。

 花を眺めると、少し元気が出る。ままならない日常に踏み込んでいく力がわく――といいたいのだが、首都圏のコロナ対策と人間の動きがいわきにどう影響するのか、はかりかねるところがある。

 この週末、感染爆発を抑えるために不要不急の外出を控えるように――。東京都をはじめ、近県の知事らが呼びかけた。同時に、トイレットペーパーも食糧も大丈夫――。メーカーやスーパーがテレビの取材に答えている。福島県知事も、きょう(3月28日)とあす、「東京方面への往来は極力控えて」と県民に呼びかけた。

巨大都市にはいろんな人がいる。過剰な不安から買いだめに走った、情報不足から当座の食糧調達が難しくなった、仕事を失った……。田舎にSOSを発する人がさらに増えるのではないか。としたら、それこそ福島県の出番ではないだろうか。

 福島県は農・林・水産物が豊富なところ。しかも、原発震災以来、科学的に安全が証明された食料品しか流通にのせていない。苦境に立たされた首都圏の消費者を救うのは、苦境に立たされてきた福島県の生産者――「常磐もの」の本場・いわきにいると、そんな思いがよぎる。

 3日前、夏井川の堤防を通ったら、今年初めてツバメを見た。花にも鳥にも元気をもらいながら、見えないウイルスと向き合うしかない。

2020年3月27日金曜日

ダンシャリの前に

 故人の本がダンシャリされる前に――。遺族が、必要な本はどうぞ、というので、友人に誘われて某家を訪ねた。書斎だけなく、納屋にも本が並んでいる。じっくり背表紙を眺めた。
駆け出し記者のころ、市役所担当になった。故人は某課の課長補佐。それが最初の出会いだった。酒の席で腕相撲をしたら、簡単にねじ伏せられた。休日には農業をしているということだった。以来、在職中は「剛腕」のイメージが消えなかった。

雑談になって、「だれそれの本を読んでいる」「なにがしの本にこう書いてあった」などと話すこともあった。読書家とは承知していたが、今回、蔵書を見てその質量がハンパではないことを実感した。

ざっと見渡した印象では、文学、特に小説が主体のようだった。若いときに読んだと思われる推理作家の本のほかに、詩人から作家に転じた同世代の三木卓の本がある。『角川日本地名辞典』や『福島民権家列伝』、『美空ひばり 燃えつきるまで』、文庫の『谷内六郎展覧会』など30冊ほどを風呂敷に包んで持ち帰った=写真。その中から何冊かを――。

『人見東明全集 別巻』(昭和女子大学光葉同窓会、1980年)。昭和女子大を創設した人見の教え子と知友の追悼集だ。人見は明治42(1905)年、加藤介春、三富朽葉らとともに口語自由詩の結社「自由詩社」を興す。詩人でもある。山村暮鳥のペンネームは人見が付けた。

大正時代、いわきの詩風土を耕した暮鳥と、地元の三野混沌、若松(吉野)せいらは密接な関係にあった。磐城平に赴任する前の、若い暮鳥の周辺を知るうえで大いに参考になる。

 粟津則雄『正岡子規』(講談社文芸文庫、1995年)。文芸評論家の粟津さんが、草野心平記念文学館の館長に就任したあと、故人に献本した。佐藤隆介『池波正太郎の食卓』(新潮社、2001年)。作家の書生を務めた著者の署名入りだ。

フランソワ・ヴィドック/三宅一郎訳『ヴィドック回想録』(作品社、1989年第三刷)。帯の言葉を紹介する。「詐欺が跳梁、強盗が跋扈、フランス大革命が生んだ悪の百科全書」「泥棒にして警察官、犯人にして探偵。いまでこそめずらしくないタイプだが、元祖ヴィドックはできたてほやほやの二重人。バルザックやユゴーのモデルとなったのもむべなるかな(略)」

この「悪の百科全書」を手にしたとき、池波正太郎『鬼平犯科帳』の鬼平こと長谷川平蔵の名せりふが思い浮かんだ。「人間(ひと)とは、妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく」。『池波正太郎の食卓』を重ねると、故人の読書傾向の一端がうかがえる。

公僕精神を貫くには人間の心の奥底にあるものを知らないといけない、それには小説が一番、とでも思っていたのではないだろうか。まずは『ヴィドック回想録』を読んでみる。

2020年3月26日木曜日

強風の落とし物

 春先は西からの季節風が吹き荒れる。強風で電車が止まる、木が倒れる、枝が折れる……。子どものころ、町が大火事になって避難した。風のうなり声を聞くたびに、64年前の火の海を思い出して心がざわつく。
 強風のあとに夏井川渓谷の隠居へ出かけると、決まって庭に木の枝が散乱している。先日はアラゲキクラゲの幼菌の付いた枝が落ちていた=写真上。木の名前がわからない。アラゲキクラゲの発生する木が庭にある。それかと思うのだが、いくら見上げてもはっきりしない。結局、どこからか飛んで来たのだろう――で終わる。

 平地では、四倉町の旧道(江戸時代の浜街道)に残る3本のクロマツ(樹高およそ19メートル、幹回り2メートル強)のうち、商店街寄りの1本の上半分がなくなっていた=写真下。事情を知る地元の知人によると、強風で倒れそうになったため、電線や周囲の家、住民に被害が出るのを恐れて、所有者が東北電力に連絡して切ってもらったそうだ。
 そばに「保存樹木」の標識がある。このクロマツは約300年前、平藩主内藤氏の時代に植えられた、「浜街道」の並木で、間隔が短いのは苗木のときに植えられたまま今日に至ったことを示す、歴史的記念物である――といったことが書かれてある。

人間が自然を収奪し、快適で便利な暮らしを追い求めた結果、地球温暖化が加速して風と雨のエネルギーを増大させ、風水害が多発するようになった。四倉の人々にとっては何代にもわたってそこにあるランドマーク、「街道の三本松」が「二本松」になった、というだけでも寂しさが募る。しかし、根は生きている。切られた幹から新しい枝が生えてくる可能性がないわけではないだろう。

 アラゲキクラゲの付いた木の枝は、家に持ち帰って水を入れた花瓶に差した。2日もたつとしぼんで形がよくわからない。“栽培”の夢は消えた。何年か前にも同じことをして、同じように失敗した。

アラゲがだめなら、次は春のキノコのアミガサタケ――。フェイスブックに上がった情報では、列島の西の方でアミガサタケが発生している。渓谷の隠居の庭にシダレザクラが2本ある。結構な大きさになった。樹下にアミガサタケが出る。去年(2019年)の師走、樹下をイノシシがほじくり返した。菌糸が無事なら4月には現れる。

クロマツも、アミガサタケもしぶとく生きていてくれよ――。今は祈るような気持ちでいる。

2020年3月25日水曜日

「コロナ失業」で仕送り

「アレッポのせっけんと米を宅配便で」。知り合いからそんな注文があったと、カミサンがいう。新型コロナウイルスの感染を防ぐため、イベントの中止や延期が相次いでいる。なかでもライブハウスなどの営業自粛は、経営者だけでなく演奏者たちの暮らしを直撃した。せっけんと米はコロナで失業したフリーのギタリストへの仕送りだそうだ。
 新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)で、オリンピックの雲行きが怪しくなった。開催の1年延長が有力だという。Jヴィレッジでスタートする聖火リレーも延期された。

Jヴィレッジはいわき市の隣郡にある、といっても、オリンピックはふだんの暮らしとは関係がない。

それより、イタリアが心配だ。カミサンの同級生がミラノの東、「ロミオとジュリエット」で知られるベローナに住んでいる。向こうの日中の時間に合わせて電話をかけているのだが、まだつながらない。いわき出身の画家が住むスペインの状況も目が離せない。

アメリカで親類が食料品店を営んでいるという人の話では、やはりトイレットペーパーなどに人が殺到している。それだけではない、お国柄なのか、拳銃が売れているそうだ。

たまたま人が来てお茶を飲むと、すぐコロナの話になる。震災と原発事故が起きたときより事態は深刻かもしれない。コンビニにもスーパーにもマスクがなかった、トイレットペーパーがなかった――。水洗トイレにも使えるちり紙=写真=を売っている、というと、買って行った人がいる。

スーパーへ買い物に行ってきた男性がいう。トイレには予備のペーパーがなかった、入り口のアルコール消毒液には鎖が付いていた――。非常時にこそ、人の本性があらわれる。

 そういえば、還暦を記念して仲間と北欧旅行をした2009年秋――。11年前にこんなことがあった。世界的に新型インフルエンザが流行していた。

旅行計画確認・旅行代金入金・旅行保険加入と、リーダーからの指示通りに手続きを済ませた。リーダーのメールにはその都度、ちゃんと健康管理をするようにと注意書きが添えられていた。「発熱があると出国不可、または到着地で隔離・待機」。全員無事に出・入国ができたが、今回は発熱に関係なく入国を制限している国もある。

基礎疾患をもつ70代としては、おこもりをして日ごろの“宿題”を片付けるチャンス――そう頭を切り替えるしかない。

2020年3月24日火曜日

カモシカが頭にすみついた

 きのう(3月23日)、ブログに夏井川渓谷で遭遇したニホンカモシカの写真をアップした。山側の道路際からこちらを見ている構図だったが、出合ったショックの大きさに比べると、1枚ではどうも物足りない。
 35秒ほどの間に、道路を横切り、立ち止まり、ガードレールのそばで再びジーッとこちらを見たあと、谷側の杉林に下りて姿を消すまで、9コマほどを撮った。午後4時ちょっと前、逆光のうえに車のフロントガラス越しだったから、色はよくない。ピントも甘い。

 ネットでニホンカモシカの生態に触れ、写真を見比べていたら、なんとか姿のわかる写真3枚を追加で見てもらいたくなった。生息数が増えて低地にも出没するようになったというから、もしかしたら夏井川渓谷にニホンカモシカがすみついたのではないか――そんなギモンも頭にすみついたので。

 写真は、上の2枚が道路を横切っているところ、下の1枚が道路を渡り切ってこちらを見ているところだ。2枚目の写真は、ウシ目(偶蹄目)らしい足の動きとかたちがおもしろい。人間と違って車への意識はない。右を見、左を見てから渡る、なんてことは当然しない。好奇心も強そうだ。警戒してこちらを見ているというより、この動くかたまりは何?といった感じで車を見ていた。
 わが「カモシカ体験」は限られる。2011年12月、阿武隈高地から舌状にのびる丘陵のふもと、草野小絹谷分校の近くの集落にカモシカが現れた。その写真を見せられた。それよりずっと前、夕刊のいわき民報社に勤めていたころ、平・閼伽井嶽にカモシカが現れ、ニュースにした記憶がある。

夏井川渓谷では去年(2019年)4~5月、友人がカモシカと遭遇している。いずれも間接情報で、この目でホンモノを見たのは初めてだ。

 できのよくない写真でも読み取れる情報はある。動物園で飼育されているニホンカモシカの成長記録が参考になった。真ん丸だった目が少し鋭くなる、角が2カ月くらいから少しずつ伸びてくる、半年で母親と同じくらいの大きさになる、親離れは1年後の春……。夏井川渓谷のカモシカはどの段階にあるのか。

角はまだ短い。顔は純白。去年目撃された個体との関係は? 同じでなければ新しい幼獣? 大きくは夏井川の支流・江田川=背戸峨廊(セドガロ)あたりから南方の険しい山々が生息エリア? 目撃された場所からして、ロックシェッドの近辺にカモシカの“けもの道”があるかもしれない。そう、生息を前提にしてあれこれ思いめぐらす楽しみが増えた。

2020年3月23日月曜日

アカヤシオとカモシカ

 きのう(3月22日)は、午後に夏井川渓谷の隠居へ出かけた。目当てはアカヤシオ(岩ツツジ)の花。思ったとおり、咲き始めていた。滞留1時間。渓谷の道を戻ると、今度は大きな犬……いや、カモシカがいた。
  おととい、平・松ケ岡公園のソメイヨシノが開花した、という情報がフェイスブックに上がっていた。夏井川の下流・平市街のソメイヨシノと、上流・渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)は、ほぼ同時に咲く。週末、渓谷へ通い続けて四半世紀。その経験則どおりになった。

 まずは籠場の滝近辺。右岸の岩場に、午後の日の光を浴びてピンクの点々が輝いていた=写真上1。今年(2020年)はずいぶん早い。次は隠居のある牛小川。対岸、「木守の滝」の右肩、私が仮にそう呼んでいる「リンカーン岩」の上部に、やはりピンクの花が光を浴びていた。

隠居からの帰り、牛小川と江田の中間、椚平の対岸を見ると、中腹に点々とピンクの色が散らばっている。花の量からすると、彼岸の中日の20日あたりには咲き出したか。

この四半世紀に、3月中にアカヤシオが咲きだしたのは一、二度しかない。最も早かったのは3月20日過ぎ。彼岸の中日に花を見たことがあるから、今年(2020年)はそれに次ぐ早さだ。

隠居の隣の錦展望台に1台、車が来て止まった。若者たちだった。下流の籠場の滝には2台。こちらも珍しく家族連れだ。子どもたちは「コロナ休校」を余儀なくされた。日曜日で休みになった親たちが、気分転換を兼ねてドライブをしているうちに、滝と花に出合った――そんな雰囲気だった。

渓谷は地獄坂で高崎の段丘に接して終わり、あとは平野が広がる。その地獄坂の手前、ロックシェッドを過ぎて夏井川第一発電所への入り口にさしかかったとき――。
道路前方の崖際に、イノシシ?いや、違う、ラプラドールレトリバー、ないしシベリアンハスキーと見間違うくらいの、黒い生き物が立ち止まっていた。車を止めて車内から写真を撮り始めると、こちらをじっと見ている=写真上2。それからゆっくり道路を渡り、再びこちらを見続けてから、谷の林へ下りていった。顔は白い。カモシカ! 

去年(2019年)4月下旬の朝、渓谷の小集落に住む友人が通勤途中、ロックシェッドの手前でうろうろしているカモシカを目撃した。5月には自宅の裏山でも遭遇している。同じ個体だろうか。だとしたら、渓谷の森に棲みついていることになる。

アカヤシオの花を見ていい気分で帰りかけたら、さらに“ごほうび”が用意されていた。こんなすごい日曜日もあるのだ。

2020年3月22日日曜日

朝ドラ「エール」

 カラオケで「なにか1曲を」といわれたら、丘灯至夫作詞、古関裕而作曲の「高原列車は行く」を歌う。小学校入学前の昭和20年代末、生まれて初めて覚えた流行歌だ。
 丘は田村郡小野町生まれの郡山育ち、古関は福島市出身。歌詞は会津の沼尻軽便鉄道に材を取ったものだという。作詞・作曲者と歌詞の背景を知ってからは、「高原列車は行く」は私のなかで一番の<福島の歌>になった。

 来週月曜日(3月30日)、古関と妻をモデルにした朝ドラ「エール」が始まる。古関・丘コンビのほかに、軍国歌謡「暁に祈る」は、作詞が同じ福島出身の野村俊夫、歌が本宮出身の伊藤久男と、福島県トリオで大ヒットした。同じ軍国歌謡「露営の歌」は伊藤だけでなく、いわき出身の霧島昇も歌手として“競作”している。朝ドラには福島県ゆかりの作詞家・歌手も登場することだろう。

今まではそれぞれの人の仕事をバラバラに見ていた。が、古関を軸にしたつながりとしてとらえたらどうなるか。まずは古関が生まれ育った時代の、福島県内の文化的状況から――。

大正時代が始まると、詩人山村暮鳥がいわき(旧平町)にやって来る。詩の雑誌を発行するなどして、いわきの詩風土を耕した。いわきは全国でも屈指の文学運動の拠点になる。そこから詩人の三野混沌(1894年生まれ、以下同じ)、猪狩満直(1898年)、草野心平(1903年)、作家の吉野せい(1899年)らが育った。

これに対し音楽(歌謡曲)組は、生まれが野村1904年、古関1909年、伊藤1910年、霧島1914年、丘1917年と、混沌らよりおおよそ一回り若い。

いわき地方の文学運動は県内他地区にも影響を与えたにちがいない。中通りの歌人が暮鳥とのつながりで詩誌に寄稿することもあった。野村と丘も若いときには詩を書いた。そんなことを頭におきながら、図書館から古関の評伝など=写真=を借りてきて、“おこもり”のひまつぶしをしていたら、ある“仮説”が思い浮かんだ。


日本でラジオ放送が始まったのは大正14(1925)年。いわき組の最年少の草野心平はこの年、22歳。すでに詩人としての骨格はでき上がっている。21歳の野村はともかく、丘はそのときまだ8歳。新聞・雑誌だけの「読むメディア」と、それらにラジオ、そして蓄音機(レコード)が加わった「読む・聴くメディア」の環境の違いが、後発の若者たちを歌謡(大正時代に起こった童謡運動も含む)へと向かわせた一因ではなかったか。

それと、西條八十の存在。フランス帰りの詩人は関東大震災を機に、作詞家の道を歩む。丘が弟子入りしたように、文学を志す若者のなかには西條の磁力に吸い寄せられる者もいた? レコード、ラジオ放送と西條の影響という“仮説”を証明できたらおもしろい。

2020年3月21日土曜日

線香なしの墓参り

 春分の日のきのう(3月20日)は、早朝から強風に見舞われた。5時10分ごろに目を覚ますと、風がうなり声を上げた。風の音で目が覚めたのではない。うなり声と目覚めが同時だった。どこかで生まれた風が5時過ぎ、轟音を伴って平・神谷へ押し寄せた――そんなイメージが浮かんだ。
風は天空の川。川が山から平地へ流れるように、気圧の高いところから低いところへ空気が流れる。その差が大きいと、川は急流になる。気流は強風になる。そういうことだろう。

昼前、カミサンの実家の墓参りをするつもりでいたが、風が強すぎるので午後にずらした。昼食は? 「平のスターバックスで。込んでいればドライブスルーでサンドイッチを」とカミサンがいう。カミサンは前に入っている。私は初めてだ。ほんとうはコンビニのサンドイッチでよかったのだが、どんなところか見たい気持ちもあって従った。

サンドイッチは、墓参りに行く人が買い求めたとかで、なかった。半熟卵のホットサンド?と、酸味と甘みの強い紅茶?を飲んだ(カミサンにまかせたら、そうなった)。新型コロナウイルスのせいか、店はすいていた。

そのあと、カミサンの実家で一休みをする。大阪府知事が突然、「この3連休は大阪と兵庫の間の行き来を自粛して」といい、兵庫県知事がこれに対抗するように「兵庫と大阪の間の行き来を自粛して」といったそうだ。それを伝える民放の情報番組で、遅まきながら3連休に気づく。毎週金曜日は下の孫をサッカーの練習場へ送っていく。父親に電話すると、父親が送っていくからきょうはいい、という。

そのあと墓地へ出かけた=写真上1。私ら夫婦のほかに人はいなかった。強風下では火を扱いたくない。線香は持たなかった。墓石に水をやり、手を合わせたあと、本堂で焼香した。
そのまま帰路に就く。電話が入った。カミサンが代わりに出ると、行政区の役員さんからだった。家のそばにある県営住宅の案内板が倒れてガラスが散乱しているという。“現場”へ直行すると、役員さんが散乱したガラス片の片づけを終えたところだった=写真上2。人や車の通行には支障がない。あとはその棟の管理人さんにまかせることにした。

春先に特有の季節風とはいえ、その威力が増している。あちこちでこうした被害が起きたのではないか。強風に振り回された彼岸の中日。天空の川は夜になってもしばらく、茶の間のガラス戸をガタリ、ガタリと鳴らしていた。けさ(5時)もガタリ、ガタリが続いている。

2020年3月20日金曜日

回覧資料がドサッと

 3月に入ると、新年度用の回覧資料がドサッと届く。全戸配布の場合は隣組ごとに枚数を数え、使用済みの大型封筒に詰めて、行政区の役員さん宅と、自分が担当している隣組の班長さん宅に配るのだが……。
  配布日の20日が春分の日で、一日早くなったきのう(3月19日)は、全戸配布に65ページほどの冊子「保健のしおり」があった。封筒では間に合わない。ほかの資料も含めると、隣組によっては広辞苑1冊分くらいになる。急きょ、捨てずに取っておいたコンビニとスーパーのレジ袋を利用した。

 ざっと300世帯、30班。ふだんは30分もかからずに区内を一巡できる。しかし、今回はマイカーが回覧物で埋まってしまう。2回に分けて家を出たり入ったりした。

新型コロナウイルス対策も兼ねて、“おこもり”の時間が増えた。回覧資料配布はウオーキングのチャンスと勇んで飛び出したのだが、やはり中層住宅の上り下りはきつかった。残りを取りに戻ると、カミサンがしぐさで感じ取ったらしい。「なに、もう息が切れたの?」。しゃくにさわるので、黙っていた。

 それでも、“定線観測”をしていると季節の変化がわかる。あと2カ所――。角を曲がって細道に入ると、満開のハクモクレンが目に入った=写真上1。前にも後ろにも車がないのを確かめてパチリとやる。

ハクモクレンの花は、1週間前に平のレンガ通りで見た。あちこちで開花となれば、ソメイヨシノもそろそろ、だ。すると、夏井川渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)も。アカヤシオは平地のソメイヨシノとほぼ同時に咲く。
火曜日(3月17日)の午前、街からの帰りに夏井川の堤防を利用すると、おばさんが土手で摘み草をしていた。日曜日に渓谷で寄り合いがあったとき、つまみにセイヨウカラシナのおひたしとたくあんが出た。散会後、余りをもらって晩酌のつまみにした=写真上2。ほどよい辛みが後を引いた。おばさんもこのカラシナが目当てのようだった。

 10日前の回覧配布のときには、ハクモクレン開花の気配は感じられなかった。花から花、摘み草、おひたし――春の連想が連想を呼んで、足は重いのだが頭は軽くなった。

2020年3月19日木曜日

台風19号㊺籠場の滝の今昔

 夏井川渓谷の名勝・籠場の滝=写真下1=が小さくなったと、土地の寄り合いで1人がいう。地質学的な時間どころか、ひとりの人間が生きている間にそれがわかるほど破壊・浸食が進んだらしい。「大水で大きな石が流れて来る。岩盤に石がぶつかる」。それで欠けたり削られたりしてきた、というのだろう。
渓流には大きな石がゴロゴロしている。巨岩といえども不動・不変ではない。大水で流され、ぶつかり、形を変えて、そこにある――そういうふうにとらえた方がいいらしい。それだけ水の力は強大だ。

 地形を研究した故里見庫男さん(いわき地域学會初代代表幹事)によると、「阿武隈高地は中生代白亜紀後期(8000万年前)に、山地全体が風化作用や河川の浸食などの準平原化作用によってほとんど平坦になってしまった。その後、第三紀における汎世界的な地殻変動によって、4回にわたって間欠的に隆起したことが知られている」(同地域学會図書16『あぶくま紀行』=1994年刊=所収「残丘」)

 阿武隈高地の東側、いわき市などの浜通りの河川は、この複数回の隆起による急流で浸食が進み、V字谷が形成された。夏井川の本流や支流(たとえば江田川、別名・背戸峨廊=セドガロ)に滝が多いのはそのため。

「前は二段になってたなぁ」。別の人間がいう。いわき総合図書館編『絵はがきの中の「いわき」』(2009年)の巻頭に、昭和30年代(1955~64年)の籠場の滝の彩色絵はがきが収められている=写真下2(部分拡大)。確かに、滝口から下にも岩があるためか、瀑布がすべるように伸びている。上の写真(2016年2月撮影)ではそれが弱い。水の落ちる角度が鋭くなっている。
 渓谷の小集落に住み、毎日のように籠場の滝を見て通学・通勤してきた住民には、学者よりも誰よりもその変化がわかる。そこは魚止めの滝であると同時に、遊びのスポットでもあった。

 一世代前の古老によると――。滝を越えて上流へ向かおうとジャンプする魚がいる。それを、籠を吊るして難なく捕った。で、籠場の滝。この話を聞いてからは、平の殿様が見事な景観に籠を止めたという「伝説」は、だれかの創作にしか思えなくなった。

「夏井川がきれいになった」。これには心当たりがある。台風19号による大雨で支流の沢では小規模な土石流が多発した。その結果、沢を覆っていたヤブや土砂がきれいに流された。できたての野性そのものといっていい沢が現れた。本流も岩が磨かれて輝いているような感じを受ける。

「そのうちサケがのぼって来るようになるのでは」。地形は、いつかは消滅する。滝はそのなかでも最も短命だという。籠場の滝が消えれば、確かにサケの遡上も可能になる。

2020年3月18日水曜日

台風19号㊹道路に魚が

 きのう(3月17日)の続き――。夏井川渓谷の小集落で寄り合いが行われた。いつものことながら、マチの人間には想像を超える話が次々に出る。
大水は災厄だけでなく、ささやかな恵みをもたらすこともある。夏井川渓谷では籠場の滝のすぐ上で道路の路肩がえぐられた=写真。その道路で大水が引いたあと、魚がいっぱい捕れたという。魚にとってもそれだけの大水は“想定外”だったろう。そんなときには、食べて供養するのが土地の作法、というものだ。

12年前、同じ寄り合いで同じ話を聴いたことがある。「10年に一遍はこういうことが……」といっていた。去年(2019年)の10月、その通りになった。

 2007年秋――。籠場の滝の上、川の流れと高さがそう違わない県道小野四倉線の岸辺に、県が杉林を伐採してマイカー用の駐車場を設けた。籠マットで基礎を固め、その上に土を入れてのり面をつくり、路面がアスファルト舗装された。するとすぐ、9月5日に襲来した台風9号の大水で路肩がえぐられた。

2008年3月某日、小集落で年度末の寄り合いが開かれた。総会が終わり、懇親会に移ると、よもやま話が始まった。籠場の滝の上の駐車場が話題に上った。

「あの日(台風9号が来襲した日)の早朝、非常召集がかかって駐車場のそばを通ったら、川が増水して道にひたひたかかっていた」。そのあと、そこを通過した1人は「水が道路にあふれていて、怖かった」。どこまでが川で、どこからが道路か、わからなくなっていた。

2008年初秋――8月28~29日、上流の川前町に大雨が降った。岸辺は、籠マットが何段にも組み足されてがっちりと復旧したはずだったが……。籠マットの段数が一番少ない、下流側のはじっこがえぐられた

岸辺に巨岩が露出している。それが、増水すると「堰」になり、駐車場の側にも流れができて、籠マットの上部のアスファルトが水の圧力に抗しきれずに崩れたのだろう。道路も冠水した跡が見られた。

2019年秋――。10月12~13日の台風19号の大水で、またまた損壊した。やはり籠マット最下流部のアスファルトがえぐられ、土砂が流出した。

杉林が消えたあと、そこはポッカリと開けたビューポイント(視点場)になった。清流と巨岩にもすぐ触れられる。対岸のヤドリギをそこから見つけた。逆光の中で葉を落とした広葉樹の「光の枝」を撮影したのもそこだった。

それだけではない。駐車場が整備されたとき、道路と駐車場との境にヤマザクラの老木が残された。平地から駆け上がり、籠場の滝を過ぎると、突然、前方にこの木が現れる。幹に空洞ができているが、今も頑張って花をつける。「道路のヤマザクラ」は格好の被写体でもある。

渓流と道路の高さがそう変わらないのは、籠場の滝をつくっている岩塊が一帯で露出しているからだろう。寄り合いでは「籠場の滝が小さくなった」という話も出た。それについては、あした――。

2020年3月17日火曜日

台風19号㊸土砂流出

夏井川渓谷の小集落で行われた寄り合いでのこと――。台風19号のときはどうだったか。総会後の懇親会で聞き役になった。小川・江田の母成(ぼなり)林道沿い、川前・下桶売の城木(じょうぎ)の森林伐採がやり玉に挙がった。
 私自身は、台風19号が去って一日たった10月14日早朝、渓谷の隠居の様子が気になって出かけた。ところどころ山から土砂が流れ出して、渓谷の県道小野四倉線が茶色くなっていた。

渓谷の山中に居を構える友人夫妻は、13日、街の旧宅から帰るのに、途中で県道をUターンし、国道399号~母成林道を経由せざるを得なかった。一日たって、かろうじて車1台が通れるようになっていたのはラッキーだった。

フェイスブックにアップした友人のコメントによれば、母成林道はこんなあんばいだった。皆伐された山側から沢へとガンガン水が流れてくる。その水がアスファルトの路面から滝のように落ちる。アスファルトがどんどん沢に落ちていく――。2カ所で軽トラックがやっと通れるくらいだったという。ときどきマイカーで行き来していたので、軽トラがやっと、には驚いた。

2年前の寄り合いでも、やはり母成林道の伐採による「山抜け」(土砂崩れ)を心配する声が出ていた。そのときの拙ブログを要約して紹介する。
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 3月11日、日曜日。朝、渓谷にある隠居へ向かうと、県道沿いに伐り出したばかりの杉の丸太があった。その一角で伐採が始まったらしい。「国有林で伐採が行われている。母成林道の奥に行ったら、ハゲ山だった。『山抜け』が心配だ」。寄り合いで話に出た場所は、県道沿いの現場とは別の、ひとつ隣の沢の奥だった。
 
 用があったので、夕方、寄り合いを途中で抜けたあと、江田から横川へ母成林道を利用して帰った。話を聞いたからには見ておかないと――。峠付近の斜面がハゲ山になっていた=写真。
  
「あそこはマサ土だから」。マサ土は花崗岩が風化してできた砂のことで、もろくて崩れやすい。それで、地元の人間は「山抜け」、つまり土砂崩れを心配しているのだ。
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「川前の城木は、母成よりひどい。行って見てくるといい」とKさん。川前から川内村へと通じる県道上川内川前線は、鹿又川渓谷で通行止めになっている。集落を流れる中川沿いに川前・外門へ駆け上がり、高部へと向かう山道と、稜線を走る“スーパー林道”(広域基幹林道上高部線は大丈夫、という。

県道沿いの小集落では土石流の警戒区域に指定されているところがある。わが隠居もその区域に入っている。土砂災害要注意地帯に住んでいる以上は、周囲の環境の変化に鈍感ではいられない。

この山間部から流出した土砂が本流の夏井川を通じて下流に運ばれる。下流にはそれであちこちに川中島ができる。大水が出れば水害の要因になる。川の上流と下流、つまり流域を生きた体として見ないと――。寄り合いであらためてそんなことを思った。

2020年3月16日月曜日

渓谷の寄り合い

地域社会では年度末の寄り合いがピークを迎えている。隠居のある夏井川渓谷の小集落でも、日曜日のきのう(3月15日)行われた。
寄り合いは午後1時からで、午前中は隠居の庭の畑に生ごみを埋めたあと、こたつにもぐりこんで猫のように丸くなって過ごした。

前の日、いわきの平地では冷たい雨になった。山間部では雪に変わったところもある。一夜明けたら、わが家の北向きの店先にある大皿の水が凍っていた。西から北へ屏風のように連なる遠方の山並みも、うっすら白く雪をかぶっていた。真冬並みに寒かったらしい。

いつものルートでわが家から隠居へ向かう。水石山は、芝の広がる山頂が際立って白い。小川に入ると、二ツ箭山が肩あたりまでおしろいを塗ったようになっていた=写真。

渓谷には小集落が点在する。ポツンと一軒家ならぬ、ポツンと一集落だ。寄り合いには現住7、週末だけ1(私)、家はあるが下流の町に住んでいる1の9世帯が参加した。隣組がそのまま行政区になっている。

私が集落の戸主全員と顔を合わせるのは、この寄り合いのほかには、4月のアカヤシオの開花に合わせた「春日様」のお祭りの日しかない(今年は開花が早まりそうなので、4月最初の日曜日に決まった)。台風19号は? 川内村へのルートは? いきものたちは?――聞きたいことがいっぱいある。

先日、ヤドリギの話をブログに書いた。それを読んだSさんが「どこにあるの」と聞く。そこから話が盛り上がった。「4、5日前に、庭にキレンジャクが2羽、現れた。初めて見た」とKさん。Tさんは「昔、墓の梅の木にヤドリギがあった」という。

ヤドリギの媒介者は冬鳥のキレンジャクやヒレンジャクだ。ヤドリギの実を食べて、粘液に包まれた種を糞と一緒に出す。それが木の枝に付着して発芽すると、常緑の葉をのばして球状になる。私が見た黄緑色の丸いかたまりは、やはりヤドリギで間違いないようだ。

それをきっかけに、籠場の滝の今昔、水力発電所のモクズガニ対策、おひたしになって出た野生のカラシナなどの話が続き、メモが追いつかなくなった。

台風19号のときには、これといった被害はなかった。かえって、おこぼれがあったという。冠水した道路に魚がいっぱい残っていたことから、集めて空揚げにした。谷間の集落ならではのハプニングだ。森林伐採による土砂流出、下流の平・平窪で被災した本人・親戚などの話にも及んだ。特に、伐採時に設けられる作業道については厳しい意見が相次いだ。

2020年3月15日日曜日

ネットの生中継を初視聴

 1週間前の土曜日(3月7日)のことだが――。パソコンでツイッターのタイムラインを眺めていたら、第1回大岡信賞授賞式が生中継されるところだった。新型コロナウイルスの影響で無観客になった。それで急きょ、ネット放映が決まった? 初めてネットによる生中継を見た。
 同賞は、大岡さんが教鞭をとっていた明治大学と、「折々の歌」を連載した朝日新聞社が創設した。第1回の受賞者は詩人佐々木幹朗さん(72)と、ミュージシャン巻上公一さん(64)。朝日の2月8日付紙面に記事が載った。

のどや舌、唇を楽器のように操り、歌う人間に引かれる。ロックグループ「ヒカシュー」のリーダー、巻上さんは自身の表現活動の幅を広げるために、声の可能性を探ってきた。「トゥバ共和国の歌唱法ホーメイを習得」したと記事にある。

ウィキペディアによると、ホーメイは日本語では「喉歌」と訳される。「もともと声に含まれている倍音の高音部を、声帯の力で意識的に強調させて口笛に似た音を出し、舌や口腔を微妙に動かして美しい倍音を紡ぎ出す。非常に低い倍音を出したり、音を細かく震わしたりと、発声法が7種類以上(28種類という説も)ある」のだとか。

トゥバはモンゴルの北西に隣接する、南シベリアの小さな国だ。トゥバのホーメイは、モンゴルに入るとホーミーになる。世界の民族音楽を収録したCDに、ホーミーが入っている。時々、車の中で聴く。塩漬けされたような渋い低音、そして高音。トゥバはシベリアの森とモンゴルの草原が出会う場所、ともいわれる。モンゴル同様、遊牧・狩猟の文化が広がっている。

この1カ月余、図書館から巻上さんの『声帯から極楽』(筑摩書房、1998年)を借りて読み、その中に出てくるラルフ・レイトン/大貫昌子訳『ファインマンさん最後の冒険』(岩波現代文庫、2004年)も借りて読んだ。ホーメイの磁力というか、日本とアメリカの人間の、トゥバへの傾倒ぶりが実に面白かった。

「ファインマンさん」は『ファインマン物理学』で知られるノーベル物理学賞受賞者のリチャード・ファインマン(1918~88年)で、余暇の楽しみは金庫破りだったとか。そのうえ、ドラムをたたくミュージシャンでもあった。

ファインマンのトゥバへの関心は、子ども時代に集めた切手のデザインからだった。やがて学者になり、同僚の息子とドラムをたたいて楽しんでいるうちに、トゥバの首都のキジルの綴りには母音がないこと、同国にはホーメイという歌唱法があることを知って、俄然、トゥバに興味をそそられる。

自身はがんで亡くなるが、同僚の息子=本の著者がトゥバ旅行を敢行する。『最後の冒険』はその経緯を克明に綴る。巻上さんの本にも、ホーメイとの出合いやトゥバを目指した経緯などが記されている。

 世界は不思議で満ちている。2年前、日テレ「笑ってコラえて」の<ダーツの旅的世界一周>を見ていたら、ギリシャのエヴィア島アンティア村が登場した。村民は口笛でコミュニケーションをとる。まるで鳥のさえずりだ。

そのとき思い出したのが、作家小川洋子さんと動物行動学者岡ノ谷一夫さんが対談した『言葉の誕生を科学する』(河出書房新社、2011年)という本。鳥はなぜ歌うのか、人はなぜ言葉を話し始めたのか――。岡ノ谷さんは鳥の研究を進めるなかで、「言語の起源は求愛の歌だった」という結論に達する。鳥がうたうように、人間の先祖もうたっていた。そして「ある時『歌』から『言葉』へと、大いなるジャンプをなしとげた」。

口笛言語を話すのは、アンティアの村民だけではない。有名なところでは、スペイン・カナリア諸島のラ・ゴメラ島。谷をはさんで数キロ離れた所にいる仲間と口笛でコミュニケーションをとる。2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されたという。トルコにもメキシコにも口笛言語を話す人がいるらしい。

地域新聞社に身を置いていたので、人間のコミュニケーションの手段には関心があった。今もある。言葉、絵、文字、のろし、歌、踊り、手話……。なかでも自分の肉体を使ったコミュニケーション手段のひとつ、喉歌は敬意をもって聴いてきた。

 ネットの生中継の話に戻る。授賞式のあとは、佐々木さんが津軽三味線の高橋竹山と共演し、詩を朗読した。巻上さんもヒカシューとともに歌い、最後にホーメイを披露した=写真。だれかの審査評にあったが、現代の「梁塵秘抄」とでもいいたくなるような詩と歌謡のステージだった。

2020年3月14日土曜日

鎖国、のような日々

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、各国で特定の国からの入国を制限する動きが強まっている。アメリカは中国、イランのほかに、13日から30日間、英国を除く欧州からの入国停止に踏み切った。日本は中国・韓国のビザなし入国を中止した。日本からの入国も35カ国で制限されている。世界経済への影響も懸念されている。
 こうしたニュースを耳にするたびに、多和田葉子さんのディストピア小説『献灯使』(講談社、2014年)=写真上=が思い浮かび、「鎖国」という言葉が脳裏をかすめる。

東日本大震災に伴う原発事故のあと、国際NGOのシャプラニールがいわき市平に開設した交流スペース「ぶらっと」で、英語に堪能な田中由里子さん(平)やフランス人写真家デルフィンと出会った。デルフィンはやがて多和田さんと、ドイツのベルリンで2人展を開く。多和田さんは田中さんの案内でいわき・双葉郡、その他の土地を巡る。

「短編『不死の島』を展開させて長編小説を書くつもりだったわたしは、この旅をきっかけに立ち位置が少し変わり、『献灯使』という自分でも意外な作品ができあがった」(講談社のPR誌「本」2014年11月号

 小説の出版と前後して、二度、いわきで多和田さんを囲む食事会が開かれた。田中さんから連絡がきて、二度とも夫婦で参加した。下の写真はそのときのひとこま。
 新型コロナウイルスによる入国制限が広がるなかで、『献灯使』を読み返した。大災厄に見舞われ、「外来語も自動車もインターネットも無くなった鎖国状態の日本で、死を奪われた世代の老人義郎には、体が弱く美しい曾孫、無名をめぐる心配事が尽きない。やがて少年となった無名は『献灯使』として海外へ旅立つ運命に……」(帯文から)。

 最初にこの小説を読んだときは、原発事故から3年ほどしかたっていなかった。現実の記憶がだぶって重苦しいものを感じた。今はだいぶ距離感が保てるせいか、多和田さん独特の比喩を楽しめるようになっていた。

「敬老の日」と「こどもの日」は、「老人がんばれの日」と「子供に謝る日」に名前が変わった。「勤労感謝の日」は「生きているだけでいいよの日」になり、インターネットがなくなった日を祝う「御婦裸淫(おふらいん?)の日」もできた。

 さらには、外来語が消えていくなかで、ジョギングは「駆け落ち」(駆ければ血圧が落ちる)と呼ばれるようになり、パン屋の主人は自分の焼くパンに「刃の叔母」「ぶれ麺」「露天風呂区」などと変わった名前を付ける(ハノーバーとかブレーメンの地名が思い浮かぶ)。

 こうした語呂合わせや言葉遊びが随所に出てくる。「カマンベールのような月」「空があざ笑うようにあおい」といった比喩も新鮮で面白い。

 最初の食事会が終わり、外へ出た多和田さんがポツリポツリと降りてきた雨を受けて、夜空を仰ぎながら「雨も〇×〇×だわ」といった。そのとき、さすがは作家・詩人(詩も書く)とうなった。生身の作家の言語感覚に感じ入り過ぎて、肝心の「〇×〇×」を忘れてしまったのが口惜しい。

 今回は特に、利休のいう「重きを軽く軽きを重くあつかう味わい」を味わうことができた。個人のレベルではおこもり、国のレベルでは鎖国、のような日々を、どう迎え撃つか――。年寄りは本でも読んで過ごすしかない。

2020年3月13日金曜日

たった5人の追悼復興祈念式

 新型コロナウイルスの感染拡大が続いている。きょう(3月13日)の新聞によると、WHO(世界保健機関)は「パンデミック(世界的大流行)」を宣言した。
そのなかで、日本はおととい(3月11日)、東日本大震災から10年目の節目の日を迎えた。政府の追悼式は中止され、福島県の追悼復興祈念式は、知事ら5人だけの出席に抑えられた。1人は遺族代表の川内村・石井芳信さん(元同村教育長)だった。県紙で知った=写真。

 石井さんは村役場のOBだ。いわき地域学會が発足して間もなく、村から『川内村史』の編纂事業を受託した。村側の担当者が石井さんで、編纂事業が終わってからも、会えば近況を伝えあってきた。同村に移住した陶芸家夫妻と、お互いに昵懇だったことも大きい。

10日前、川内村で行われた陶芸家の葬式で一緒になった。当然といえば当然だが、県の追悼復興祈念式の話は出なかった。3年前には政府主催の追悼式で、福島県の遺族を代表して追悼の言葉を述べている。今度も同じように母親への思いを伝え、生き残った者の責務を語った。

「私の住んでいる川内村は(略)東京電力第一発電所の事故のため全村避難を余儀なくされました。/私の母は、震災当時、原子力発電所のある大熊町の病院に入院しておりましたので、当然避難を強いられました」
 
「数日間、入院先の病院から何の情報も入らず、安否を心配していましたが、いわき市のある高校に移送されたらしいとの情報が入り、妻と駆けつけました。/そこには白い布に覆われ、変わり果てた母の姿がありました。妻が亡き母の顔に頬ずりし、涙を流していた様子は、今でも忘れることができません」

 石井さんは退職後、ひとり寂しく亡くなった母親の供養のため、四国八十八か所のお遍路巡りをしたという。母親の誕生日でもある平成最後の日の4月30日には、母親が好きな「魚の煮付け」と「けんちん汁」を仏壇に捧げたともいう(福島県では豚汁をけんちん汁という。味噌仕立てだ。わが家でも冬場、ときどきこれが出る)。

 村の現況にも触れた。若い人が避難先で職に就いたり、子どもたちが避難先の学校に馴染んだりして、村に戻らないケースが多くなった。昔の村の姿には程遠いが、それでも「みんなで力を合わせ、復興と再生を進めていく」。

 同じ新聞には「センバツ初の中止/新型コロナ影響 磐城、出場果たせず 高野連」「聖火出発式 無観客検討 組織委」「影響 計り知れない/新型コロナ行事自粛延長 県内観光関係者ら」。きょうも「景況感2期連続マイナス/1~3月期全国企業 新型コロナ影響」「東証、1万9000円割れ/新型コロナ 米対応に失望感」といった見出しが躍る。

地域社会では、行事の中止・延期や学校の休校、外での飲食自粛などがもろに経済を直撃する。ほんとうは震災で亡くなった人々に思いをめぐらしていたいところだが、現実はそれを許さない。地域の片隅で暮らす私でも、所属する非営利組織の1カ月先、2カ月先をあれこれ思い悩むことが多くなった。