2020年6月21日日曜日

発信者の倫理

インターネットの時代がきて、マスメディアが独占していた情報の発信が個人でもできるようになった。結果、真偽の定かでない情報があふれ、誹謗(ひぼう)中傷に苦しめられる人が出てきた。ときにはそれでいのちが失われるような事態にもなっている。
 東日本大震災が起きた2011年から17年までの足かけ7年、「マスコミ論」(のち「メディア社会論」)を選択したいわき明星大(現医療創生大)の学生に、これだけは覚えておいてほしい、と強調したのが「発信者の倫理」だった。

 日本新聞協会は「新聞倫理綱領」を定めている。2000年に制定された新綱領ではなく、旧綱領(1946年制定)の「第2 報道、評論の限界」の4番目(ニ)にこうある=写真。「人に関する批評は、その人の面前において直接語りうる限度にとどむべきである」

 ワープロが出始めたころ、市民の表現手段の可能性に思いをめぐらせた。いわき市の山里、三和町で農林業を営みながら作家活動を続けていた草野比佐男さん(1927~2005年)から、手づくりの句集と詩集が届いた。それがきっかけだった。

「ワープロで遊びながらの感想ですが、ワープロの出現は、表現の世界の革命といえるんじゃないかという気がします」「世の中が妙な具合になった時に、武器にもなるはずです」

 草野さんの手紙から30年以上たった今、市民はインターネットで世界とつながり、いながらにして情報を収集・発信できるようになった。市民は確かに権力への抵抗の「武器」を手に入れた。が、その「武器」はまた市民を攻撃する「凶器」にもなり得る。草野さんもそこまでは想像が及ばなかったのではないか。

SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス=ツイッターなどの会員制交流サイト)で検察庁法改正案への猛抗議が起きた。この抗議が奏功して法案は棚上げにされた。一方では、SNSで誹謗中傷にさらされた女子プロレスラーが死を選ぶという痛ましい出来事もあった。

ネットリテラシー(ネットを適切に使いこなす能力)という言葉がある。ネットの情報の質を見極めること。同時に、安易に同調・便乗したり、うっぷん晴らしにネットを使ったりしないこと、などをさす。

匿名だから特定されないだろう、責任を問われないだろう――そんな軽い気持ちでアクセルを踏み込むと、たちまち誹謗中傷の沼にはまる。そうならないように、発信者の倫理(限界)=対面批評を戒めにすること。市民から新聞購読料をもらい、市民に代わって情報を収集し、吟味し、「新聞倫理綱領」の枠内で発信してきた者としては、今もそう自分に言い聞かせ、人もまたそうあってほしいと願っている。

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