2020年7月31日金曜日

カツオの摺り流し

調理師免許を持つ若い仲間がいる。定例飲み会の場所を、街からわが家の向かい、ゲストハウス(故義伯父の家)に切り替えた。台所の調理台が男性向きの高さだったのが気に入って、2回目は「魚料理をやる」という。飲み物は各自が持ち寄った。しゃべっているそばから次々に魚料理が出来上がり、食卓が華やかに彩られた。

 カツオとスズキを1匹まるごと持参した(代金は7人の会費でまかなった)。「刺し身」と、バーナーで皮をあぶった「火山(ひやま)」のほかに、スズキの「洗い」、カツオの「摺(す)り流し」が出た。カツオの刺し身一本やりの人間としては、火山も、洗いも、摺り流しも、“宅飲み”では初めてだ。味は文句なし、だった。 

「器もごちそうのうち」という。スズキの火山を盛った皿=写真上1=は、川内村の故志賀敏広氏がつくった。いわきでの展示会だったか、川内の工房だったかでカミサンが購入した。真ん中が青みを帯びた清流を思わせる磁器が、今が旬のスズキを引き立てる。夫婦2人だけでは使うチャンスがない。「使い初め」でもあった。「器も喜んでいる」といわれてみれば、確かにそうだ。

蛸唐草(たこからくさ)風の模様がサッと描かれた韓国製の大きな煮物鉢には、前もって作ってきた豚の角煮。これも器とマッチして豪快な感じがよく出ていた。やや濃い味も酒に合った。

最後に出てきたのがお椀(わん)に入ったカツオの摺り流し。マグロでいえば、骨のすきまに残った赤身(中落ち)をこそげ取って「ネギトロ」にするのと似ているか。調理に立ち会ったカミサンの話だと、ネギトロと違うのは、片栗粉をまぶして加熱したこと。そのあと、摺り鉢でよく摺り、みそ仕立てにして、小口切りの細い葉ネギを散らした。これがまた舌を喜ばせた。

刺し身も摺り流しも余った。刺し身は調理した本人が持ち帰り、摺り流しはそのまま冷蔵庫で保管した。

 後日、晩酌にあわせて冷たい摺り流し=写真上2=をすすった。ぜんぜん生臭くない。長梅雨で寒いくらいなのに、“冷製スープ”としても繊細な味わいだった。粗汁も好きだが、摺り流しは熱くてよし、冷たくてよしと、万能なところが素晴らしい。カミサンは残りを冷凍したようだ。梅雨が明けたら、今度はジェル状のものを食べてみるか。


2020年7月30日木曜日

梅雨が明けるのはいつ?

  きのう(7月29日)は、カミサンが早起きして衣類を洗濯した。そのあと、隣のコインランドリーで乾かそうとしたが、先客がいた。ふだんは姿をみせない高齢男性も利用していたという。洗濯物が乾きにくいのだから、主婦でなくてもランドリーに駆け込むことになる。

曇雨天続きで頭のなかまでカビが生えそうだ。梅雨の晴れ間が広がったのは7月19日の日曜日。久しぶりの入道雲を写真に収めた。それ以外は、川霧とか山霧を撮ってお茶を濁している=写真(7月26日の二ツ箭山)

東北南部の過去の梅雨明けがいつだったか、拙ブログで確かめた。記述のない年もある。今年(2020年)はいつになるのか、どの年に似ているのか。2009年は不明、2017年は「特定できなかった」。そうなっても困るが……(気象庁の確定値は「○月〇日ごろ」と「ごろ」が入るが、省略した)。

【2008年】7月19日=梅雨入りは6月19日で平年より9日遅く、梅雨明けは平年より4日早かった。梅雨期としては、31日間は短い方だろう。期間中の降水量は101.5ミリ、平年の7割弱だった。

【2009年】記述なし=気象庁の確定値でも「――」、つまり不明。

【2010年】7月18日=「短梅雨(みじかづゆ)」。そんな言葉が思い浮かぶ。梅雨入りは遅く、梅雨明けは早かった。東北南部の梅雨入りは6月14日。平年は6月10日だから、4日遅い。梅雨明けは7月18日。平年の7月23日(のち25日に変更)より5日早い。要するに、平年より9日、梅雨の期間が短かった。「長梅雨」はよくあるが、「短梅雨」はほとんど記憶にない。

【2011年】7月9日=東北南部も北部も同時に梅雨が明けた。南部が北部と同時に梅雨入りしたのは6月21日。翌日は「夏至」。平年より9日遅かった。随分遅い梅雨入りだった。梅雨明けは平年より14日早い。

【2012年】7月26日=梅雨が明けて暑さが戻ってきた。福島地方気象台が発表するいわきの気温は、マチとヤマの人間には「ずいぶん体感温度と違っている」となる。測候所があったハマ(小名浜)の気温がいわきの気温になっているからだ。ハマは、日中は海風が吹いて涼しい。

【2013年】8月7日(発表時は8月3日)=やっと北陸・東北地方の梅雨が明けた。東北南部は平年より9日遅い。あさって7日はもう立秋だ。暦の上では暑中見舞いを言う間もなく「残暑」に入る。

【2014年】7月25日(気象庁の確定値)=ブログでは触れていない。

【2015年】7月26日=関東甲信地方は7月19日。「西から東へ」の順序が崩れ、中国・近畿・東海は関東甲信より一日遅い20日ごろに梅雨が明けた。九州北部と四国、北陸、東北は遅れた。

【2016年】7月29日=平年より4日遅い。朝から急激に気温が上がった。昼前の室温が32度。「在宅ワーク」をするどころではない。

【2017年】不明=カラ梅雨気味に推移したが、終盤ぐずついた。東北の梅雨明けは南部・北部含めて8月2日。これがのちに「特定できなかった」に。

【2018年】7月14日=梅雨明け前から“災害”級の暑さが続く。7月に入ると、気象庁が「命にかかわる危険な暑さ」と注意を喚起するまでに。朝5時ごろ起きていたのを、1時間早めて4時ごろには起きるようにした。

【2019年】7月30日=日照不足と多湿が長引き、東北南部の梅雨明けが発表されると、今度は猛暑が始まった。

2020年7月29日水曜日

シャクナゲ増殖10年計画

夏井川渓谷の隠居へ行くたびに、なにかしら“発見”がある。道端でヤマユリが咲き出した、庭にアミガサタケが生えた、上空をオオタカが旋回している……。絶えず流動してやまない自然の営み、というより自然と人間のかかわりが生み出した変化に驚く感性(センス・オブ・ワンダー)は、まだ残っているようだ。
隠居は戸数9軒ほどの小集落の一角にある。日曜日(7月26日)、山際に住むKさんの案内でKさんの家の裏山を見た。杉林だが、間伐して林内が明るくなっていた。そこにシャクナゲの苗木を植え始めた=写真上1。「シャクナゲ増殖10年計画」だという。薄暗い杉の林内をシャクナゲの花で明るくする――そんな決意を軽く口にする。

もう12年前になる。隠居の隣にある古い家を所有者のTさんが解体し、谷側の杉林も伐採して展望台をつくった。すると次は、山側、県道小野四倉線とJR磐越東線の間に植えられた杉の苗木を、所有者のKさんが伐採した。マイカー族も、列車の乗客も杉林に邪魔されることなく景観を楽しめる。

自然景観と環境に対する土地所有者の考え・行動がなにか新しいステージに入ったように思ったものだ。その延長で、今度はシャクナゲ増殖作戦が始まった。

夏井川渓谷は春のアカヤシオから始まり、初夏にはシロヤシオ、トウゴクミツバツツジ、ヤマツツジなどが咲く。集落の裏山の頂きには、伐採されていなければ天然記念物に指定されてもいいようなシロヤシオの古木がある。

シャクナゲ増殖作戦の“現場”を見て、阿武隈高地の主峰・大滝根山(1193メートル)を思い出した。山頂北西部にシロヤシオが群生し、その樹下にアズマシャクナゲの海が広がる。劇作家の故田中澄江さんが『花の百名山』で紹介している。ちょうど花の時期に、いわきの仲間と登った。「この花の下で死んでもいい」。田中さんが書き記している気持ちがよくわかった。
 さて、苗木がポツン、ポツンと植えられているだけではない。Kさんの家の真裏に当たる一角には、4本の脚をもつ変なオブジェが設けられた=写真上2。「イノシシ威(おど)し」だという。

畑の逆U字型支柱2本を交差して立て、真ん中から殺虫剤の空き缶などを取り付けた一斗缶やヤカンをつるしている。それらはロープで家とつながっている。イノシシが「出たな!」となったら、家からロープを引いてガランガラン音を鳴らす、というわけだ。

渓谷で暮らすということは、日々、自然にはたらきかけ、自然の恵みを受ける、ということだ。その一方で、自然からしっぺ返しをくらうこともある。自然をどうなだめ,畏(おそ)れ、敬いながら、折り合いをつけるか、ということでもある。その折り合いのつけ方が、今回はシャクナゲ増殖計画、イノシシ威しとなってあらわれた。

2020年7月28日火曜日

葬儀場での再会

 日曜日(7月26日)に詩人粥塚伯正(みちまさ)クン(69)=平=の葬儀が行われた=写真。若いときにはつるんで飲み歩いた。目が覚めたら粥塚クンの家だった、ということもある。頼まれて弔辞を読んだ。前段で次のようなことを述べた。
  ――7月24日、端正な面立ちで眠る粥塚クンと対面した。いつもの日常を過ごしていた粥塚クンが急に体調を崩し、帰らぬ人となった。その急変を想像すると言葉もないが、目の前の粥塚クンはとても穏やかな表情をしていた。

 去年(2019年)は粥塚クンの詩集『婚姻』を共同で仕上げるという得難い経験をした。今年は3月8日に、いわき市立草野心平記念文学館で詩人吉増剛造氏の講演会が企画されたが、これは吉増氏と交流のある粥塚クンがいたからこそで、粥塚クン自身も「聞き手」として参加することになっていた。残念ながらコロナ問題で講演会は中止になった。

 詩集『婚姻』は令和元年度いわき民報ふるさと出版文化賞の特別賞を受賞した。3月25日に授賞式が行われたが、それに続く祝賀会はやはりコロナ問題のために中止になった。これには私も出席を予定していたので、席を共にして喜べなかったことが今も残念でならない。

 そして今回、コロナとは無関係ながら、コロナを警戒する医療態勢のなかで、体調の急変を食い止めることができなかった。その意味では、私は2020年のコロナ問題とともに、粥塚クンの死を記憶することになると思っている――。

 喪主を務めた奥方(彼女も昔からの知り合いだ)によると、7月20日に発熱し、翌21日未明、苦しみながら亡くなった。最後は救急車でいわき市医療センターへ運ばれたが、間に合わなかった。急性心筋梗塞(こうそく)だったという。無念の死にはちがいない。

 コロナ問題が収束するどころか、東京を中心に第二波の様相を呈してきた。葬儀場も“3密”を避けるため、会場のイスを限定し、マスクを用意した。ほとんどの人はマスクをしてやって来た。どこのだれか、すぐわからない人もいた。相手がわからないときには、マスクをあごまでずらし、それで「おおっ」となる。

昭和40年代後半から10年ほど平で開業していた草野美術ホールの“同窓生” と一緒になった。結婚して商売を始め、子育てを終え、店を閉じた。あとは好きな美術に没頭しようと、再び絵筆を執った。私より1歳上のはずだから、今年(2020年)72か73歳だ。彼とはこの数年、美術のイベントでよく顔を合わせる。「朝起きたらすぐ、(私の)ブログを読む。アップが遅いと、前の晩に飲み過ぎたんじゃないか、なんて思う」。確かに、そういうときもある。

すでに鬼籍に入った人間の話になり、その数の多さにあらためて驚いた。同ホールの“同窓生”だけでも、画家の山野辺日出男、松田松雄、陶芸家の緑川宏樹、詩人の加瀬隆之、そして年下の林(松本)和利クン。

林クンは、高校で美術部に所属し、短大でデザインを学んだ。社会人になってからは「育児無死グループ展」を開催し、若い美術仲間と「スタジオCELL」を結成した。粥塚クンは実験的・挑戦的な彼らと交流があったのではないか。

生き残りの“同窓生”としては、コロナ時代であろうとなかろうと、日々、絵筆を執る、文章を書き続ける――それだけ。お互いそんな思いを再確認して葬儀に臨んだ。

2020年7月27日月曜日

カワガラスとサンコタケとイワタバコ

 世間では4連休の最終日ということになる。きのう(7月26日)の日曜日。2歳年下の友人の葬儀から帰ったあと、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。
 相変わらずの曇天、時折の小雨ないし霧雨。隠居の庭の菜園でキュウリを3本摘んだら、やることがない。長梅雨で、森の中ではキノコのカーニバルが開かれているにちがいない――そう思うと、いてもたってもいられなくなった。

 隠居の対岸、つり橋を渡って100メートルほどのところに「木守の滝」がある。そこまでは年に2、3回、足を運ぶ。その先の遊歩道へはこの10年近く、ほとんど行ったことがない。理由は二つ。原発事故が起きたこと(キノコを採っても食べられない)。散歩にドクターストップがかかったこと(今の時節は少しの距離なら、と変わってきた)。

 キノコのカーニバルの主役はタマゴタケ、そしてチチタケ、イグチ系のアカヤマドリタケなど。発生するところは決まっている。崖(がけ)際の遊歩道の奥の奥だ。そこを目指して歩きだしたものの……、半分の300メートルほどで足が止まった。

 そこは木々に覆われた“テラス”。去年(2019年)秋の台風19号では冠水した(土砂が薄く残っているのでわかった)。人が行き来している気配がないのは、ところどころクモの巣が顔に張り付くことでわかる。“テラス”の先は、張り出した尾根に沿って、上って下るデコボコ道。枝葉が垂れて薄暗い。昔、その先の林床で生乾きのイノシシのフンを見たことがある。原発事故以来、森から人間の気配が消えて、日中も歩き回っているのではないか――そんな恐れが初めてわいた。

“テラス”までの間に見たものでよしとしよう。眼下の渓流の岩場にカワガラス(水中でカゲロウなどの水生昆虫を捕食する)がやって来た=写真上1。遠く離れていても人の姿を見ただけで飛び去るのに、距離を縮めても動かない。こんな無防備なカワガラスは初めてだ。普通のカメラでもそれなりに撮ることができた。
 木守の滝のそばにはキノコのサンコタケが生えていた=写真上2。岩壁にはイワタバコの花が=写真下。
 サンコタケは柄が中空で、新鮮なうちは薄いゴム管のように弾力がある。乾燥すると、それこそしおれてへなへなになる。それがわかっただけでも、採取し、観察したかいがある。イワタバコもまた岩壁という厳しい環境を選んで生息している。それだけで大したものだと思う。

渓谷へ行っても隠居の庭をうろつくだけでは、渓谷の自然に触れたことにはならない。「モリオ・メグル氏」になるからこそ、複雑・精妙な森の生態、仕組みの一端がわかる。今回はなかでもカワガラスとの遭遇に心が躍った。

2020年7月26日日曜日

八茎のヤマの歌「鉱山野郎」

 先日、いわき市四倉町の日鉄鉱業八茎鉱山と住友(磐城)セメント工場の記録映画を見た。八茎で働く人間の姿、鉱山の内部、山元と四倉駅そばのセメント工場を結ぶ専用鉄道の様子が、初めて具体的な映像として頭に入った。
 今春閉校した大野一小は、八茎鉱山の最盛期、大半が「日鉄区」の児童で占められた。その社宅跡は、今はコンクリート資材置き場になっていると、映画はいう。四倉・玉山を起点、小川・高崎を終点とする「福島県広域農道」約10キロ区間が思い浮かんだ。

県道八茎四倉線と接続する字炭釜地内の起点部=写真=に、確かにコンクリート資材置場がある。グーグルアースでそのへんの台地を巡ったら、「新八茎鉱山玉山社宅配置図」の看板に出合った。そこから大野一小までは2キロ強。子どもたちには道草も含めていい通学路だったろう。

 さらに別の日、八茎に「鉱山野郎」というヤマの歌があることを知った。ネットで日鉄鉱業の採用サイトにたどり着いたら、歌詞の字幕とともに歌が流れた。

 同じいわき市内ながら、石炭の「常磐炭坑節」はよく知られている。銅・鉄・石灰石などの八茎に「鉱山野郎」があるのは初耳だった。

 歌詞の1番。「親の代から 鉱山暮らし/北はサハリン 南はホンコン/流れ歩いたこともある/一目見たときゃ 威勢はいいが/本当は淋しい 本当は淋しい/鉱山野郎」

 採用サイトには、「2番、3番は新しく作詞した」とある。2、3番どころか4番までの原詞が日鉄鉱業の『四十年史』(1979年発行)に載っている。

 4番。「流れ流れて 東北いわき/どこに住もうと 短かい命/かける発破が 心意気/遠く遥かな あの山峡(やまあい)に/今日も生きてる 今日も生きてる/鉱山野郎」

『四十年史』によると、八茎鉱山の操業がようやく軌道に乗った昭和30年代後半ごろから、「従業員の間で“鉱山野郎”が歌われるようになった。この歌詞はやがて全社的に共感を呼び、ひろく愛唱されるようになったが、この歌は同鉱山が発祥の地である」。作詞・佐藤忠雄、作曲・関みのる、とあった。

「常磐炭坑節」が元気な歌なら、「鉱山野郎」は哀切な歌だ。歌詞もメロディーも演歌調。似たような歌詞があったな……。思いめぐらしていたら、「カスバの女」の歌詞とメロディーが浮かんだ。嫌いではない。むしろ、思い屈しているときなどに、自然と口ずさんでいる、そんな歌だ。

 しかし、この曲調もまたアレンジされたものだった。昨夜(7月25日)、原歌を聴いた。採用サイトの「鉱山野郎」よりずいぶんテンポが速い。「カスバの女」から、「バタやん」こと田端義夫の「島育ち」のような雰囲気の歌に変わった。

 広域農道は、終点部の高崎で県道小野四倉線とJR磐越東線をまたぐ。その架橋工事が進められている。完全に開通するのはまだ先だが、広域農道を利用すれば、わが家から夏井川渓谷の隠居まで、どころか、隠居から草野の魚屋さんまでは時間距離がぐんと短縮される。

 特に起点部は土地の歴史に無知だったこともあって、単に通過するだけだった。が、往時は「玉山社宅」があって人が住んでいた、と知れば、違った感慨もよぎる。社宅の宴会ではバタやん風の「鉱山野郎」が歌われていたに違いない。

2020年7月25日土曜日

「黒い半纏」の話に

 いわき市鹿島町のギャラリー創芸工房で、あした(7月26日)まで「私が学んだ針仕事 斉藤静子展」が開かれている。
 斉藤さんは、同市小川町に工房を構えていた刺繍(ししゅう)工芸家望月真理さんの教え子の一人で、インドの刺繍「カンタ」などの技法による自作品と、現地で購入した作品などを展示している。

 たまたまきのう(7月25日)朝、知人がフェイスブックに展覧会の写真をアップしていた。壁にバングラデシュの伝統刺繍「ノクシカタ」らしいカバーが掛かっている。カミサンに教えると「行きたい」というので、昼食後、いつものように運転手を務めた。

 ギャラリーの入り口ドアに、「カンタとの出会い」と題する斉藤さんのあいさつ文が張られていた。望月さんとの出会い、望月さんのカンタへの思いなどを紹介したあと、望月さんとともにインド、中国、カンボジア、タイ、韓国へ研修旅行に出かけた思い出などがつづられている。

「本物を見なさい、本を読みなさい」が望月さんの口癖。そうして現地で、本物のカンタや少数民族の生活などを目の当たりにして、ワクワク、ドキドキ、楽しかった、と斎藤さんは振り返る。

 拙ブログによれば、同ギャラリーで2008年冬、「望月真理・刺繍教室展――布に遊ぶ・アジアに遊ぶ」が開かれた。たぶんそのときだったと思う。「赤いちゃんちゃんこよりは黒い半纏(はんてん)がいい」といって、還暦の記念に望月さんの作品を購入した=写真。タイの少数民族の衣装をアレンジしたものだった。「半纏を着て街を歩く男はかっこいい」。望月さんに持ち上げられて買う気になった記憶がある。

 それから4年後、望月さんから家に電話がかかってきた(以下は拙ブログから)。たまたま私が出た。「男性から頼まれて半纏をつくっているけど、袖口が気になって。試着してくれないか」。望月さんが持ってきた制作途中の半纏に袖を通す。望月さんの目の色が変わる。私から見ても袖口が広すぎる。そのことを言うと、納得して待ち針を刺した。

望月さんはアジアの少数民族の刺繍コレクターでもある。インド、バングラデシュ、ベトナム……。そのへんを踏まえてベトナムの話を聴いた。ベトナムには8回も行っているという。「10回は行きたいが、足が(悪くて)ねぇ」

このとき、ベトナムに絞ったのは、同級生と“修学旅行”に出かける直前だったからだ。カンボジアにも行くと言ったら、「アンコールワットね」。観光旅行であることを見透かすように切り返された。刺繍を求めて、地を這うようにアジアの山岳に分け入ってきた望月さんにとっては、定番のパック旅行など、お気軽な、旅ともいえない移動でしかなかったのだろう。

辛辣(しんらつ)だがユーモラス、80歳代ながら、ときに少女のように純粋で率直。水、食べ物、織物、市場、屋台……。旅のベテランからたっぷり1時間、ベトナム文化について貴重な情報を得ることができた(それから8年、ということは、現在90ン歳か)

 さて、同ギャラリーもコロナ問題と無縁ではなかった。3カ月も休業を余儀なくされた。7月上旬に再開したばかりだという。店主と、12年前の「黒い半纏」の話になった。袖口の折り返しはぼろぼろだが、今も秋にはこの半纏を着る。きのう、カミサンが見たら、長梅雨でカビが生えていた。

2020年7月24日金曜日

絵本「せいだイモのはなし」

 岐阜の高山出身でいわきに住む峠順治さんから、山梨で発行された絵本『せいだイモのはなし』をいただいた=写真。高山、いわき、山梨、そして「せいだイモ」とくれば、ジャガイモと江戸時代の幕府代官中井清太夫だ。
 清太夫は天明8(1788)年から寛政3(1791)年までの3年間、幕領の小名浜代官を務めた。

その前は、甲斐国(山梨)の代官職にあった。天明の大飢饉(ききん)対策として、九州からジャガイモを取り寄せ、村人に栽培させた。それで、山梨ではジャガイモを「セイダユウイモ」、あるいは「セイダイモ」と呼ぶ人がいる。

小名浜でもジャガイモの栽培を奨励した。清太夫はその後、関東代官を経て飛騨に赴任する。高山周辺の年配者は今もジャガイモを「センダイイモ」と呼ぶ。いわきではどうか――。

 峠さんは高山、いわきの縁から「セイダユウイモ」の方言について調べ、高山市で年2回発行していた総合文芸誌「文苑ひだ」第13号(2017年7月)に、レポート「ジャガイモ考――いわきの方言にも『センダイイモ』があったよ」を載せた。その後も調査を続け、山梨から取り寄せた絵本の恵贈にあずかった。

山梨県の東端、上野原市の龍泉寺に「芋大明神」の碑がある。清太夫に感謝して、毎年、「芋大明神祭」が執り行われる。絵本「せいだイモのはなし」(文・丘修三、絵・西村繁男=2015年発行)は、お年寄りがジャガイモを「せいだイモ」と呼ぶいわれを、清太夫の事績を通じて伝える。

峠さんが絵本とともに届けてくれた資料によると、平成29(2017)年4月29日には、芋大明神祭と同時に、平和観音祭、東日本大震災の被災者追善法要も行われた。浜通りの浪江町から山梨県に原発避難をした人が話したり、「せいだイモ」などからつくった芋焼酎(「せいだ焼酎 芋大明神」)が紹介されたりした。

絵本の末尾に山梨の郷土料理「せいだのたまじ」の作り方が載っている。この料理は、福島県の「味噌(みそ)かんぷら」、高山市の「ころいもの煮付け」に似る。

「ころいもの煮付け」は醤油味だが、「味噌かんぷら」と「せいだのたまじ」は味噌味だ。東西の食文化の違いはあっても、未熟な小芋を捨てることなく、大事に、しかもおいしく食べられるようにと、庶民は工夫した。遠く離れた三つの地域だが、清太夫を介して似たような食文化が根づいて郷土料理になった。小芋料理の“清太夫サミット”くらいはできるかもしれない。

2020年7月23日木曜日

キュウリの古漬けづくりを始める

 ナスやキュウリのお福分けが続く。自分で育てている苗も実をつけ始めた。きのう(7月22日)は2人から、おとといは1人からキュウリその他が届いた。
 キュウリは、しおれるのが早い。時間がたつと水分が飛んで内部が綿のように白くなる。こうなったら、浅漬けにしても古漬けにしてもまずい。大根は逆に、水分が飛んでしんなりした方が漬けやすい。スーパーから買って来て、すぐ漬けても硬いままだ。たくわんをつくるには、まず大根を干す。それから漬け込む。糠(ぬか)漬け、つまり浅漬けも原理は同じだろう。

大根は大根、キュウリはキュウリ。キュウリは摘んだりもらったりしたら、すぐ漬ける――漬物歴ン十年の“経験則”だ。

お福分けが重なる時期には、食べ方を工夫する。糠(ぬか)漬けだけでは芸がない。サラダ、味噌汁、油炒め。冬から春先の保存食として、塩漬け(古漬け)にもする。

 キュウリの糠漬けは、今の時期なら朝、糠床に入れると晩には食べられる。朝に食べようと思ったら、前の晩に入れる。水分がたっぷりのもぎ立ては、漬かってもあおあおと美しい。そのうえ、シャキシャキしてやわらかい。夏の暑さにぴったりの一品だ。一度に3~4本漬けたら、冷蔵庫に置いて1本ずつ取り出して食べる。

わざわざ糠床に寝かせてあめ色にした古漬けもうまい。食べるときには薄切りにして水にさらし、適度に塩分を抜く。これもシャキシャキした食感がいい。新鮮なキュウリだからこその歯ごたえだ。

 漬物の殺菌用に、今年(2020年)は大辛と激辛のトウガラシ苗を1本ずつ植えた。青い実を付け始めたので、大辛を焼いて先端を少し口にした。とたんに舌がやけどしそうになった。見た目は「万願寺とうがらし」だが、中身はやはり大辛だった。干して古漬け用の甕(かめ)に入れることにした。

 冬、白菜漬け用に使う甕がある。台所の奥の方にあって取り出すのがめんどうなためか、カミサンが代わりにホーローのキッチンポットを出してきた。最初のお福分けが届いたころ、これに塩をいっぱい振って、何本かキュウリを入れ、押し蓋(ぶた)をして重しをのせた。

おとといに続いて、きのうもキュウリを足した=写真。すると、1時間もしないうちにまたキュウリが届いた。これも加えたので、キュウリの本数は写真に写っている数の倍になった。

 預金通帳は2カ月にいっぺん、年金が入るだけでだんだん目減りしていくが、キッチンポットのキュウリは、8月の中旬あたりまではどんどん増えていく。これをカネに換えるようなことはもちろんしない。が、冬に向かって保存食の“貯金”が増えていくと思うと、なんだか豊かな気持ちになる。古漬けの本数が日増しに増えるこの時期こそ、作業としては一番楽しいのかもしれない。

2020年7月22日水曜日

タオルが必要なとき

古い布やタオルが手に入ると、義弟が利用しているデイケア施設に贈る。施設では、利用者の体の一部をふくのに布類が欠かせない。いくらあってもいいという。
前にも書いたが、ダンシャリで古本が出ると、取りに行くか、持ってきてもらう。それを古本屋で換金する。額は微々たるものだが、何回か繰り返してたまったら、シャプラニール=市民による海外協力の会に寄付する。あるとき、同じダンシャリで出てきた使用済み切手を送ったら、6万円近くになった。れには驚いた。

 布類は、シャプラとは関係なく、リサイクル(再生利用)かリユース(再使用)に回す。

 先日、未使用のタオルが届いた。その一部を、カミサンがわざわざ私に見せた=写真。白地に「平工業高等専門学校」「第1回東北地区国立工業高等専門学校体育大会」と染め抜かれている=写真。

平高専は、現福島高専。昭和37(1962)年、全国に12ある1期校のひとつとして、東北地方で初めて開校した。翌年には八戸・鶴岡・宮城(現仙台)高専、翌々年には一関・秋田高専が開校した。

私は同39年、平高専に入学した(やがてシャプラの創立メンバーのひとりになる人間も翌年入学し、寮で一緒になった)。最初はバレーボール部に入り、あとで陸上競技部に移った。平で初めて東北地区体育大会が開かれた記憶はある。が、それがいつだったか、1年のときか2年のときか。

今年(2020年)は第57回だが、コロナ禍のために中止になった。それから逆算すると、第1回は昭和39(1964)年、私が1年生のときだったことになる。バレーボールの競技でボール運びのようなことをした記憶があるが、それもあいまいだ。開催時期もよく覚えていない。

陸上競技部での記憶ははっきりしている。夏休みに入って少したってからだった。八戸へ行き、仙台、鶴岡へ行った。八戸の飲み水とイカのうまさ、十和田湖への観光、なかでもバスガイドの名前「目時洋子」さんは、50年以上たった今も覚えている)

第1回東北大会のタオルは記念品としてつくられたものだろう。ということは、学生ないし教職員だった家に半世紀以上も眠っていたことになる。黄ばみ加減がそのことを物語る。誰のタオルかはむろん、わからない。が、それを見た瞬間、ふるさとを離れて平市(現いわき市)に移り住んだ15歳の春と夏の記憶がよみがえった。

豪雨災害に見舞われた九州では一時、清掃用にタオルなどの布地が必要だった。今はタオルからトイレットペーパーやキッチンペーパーといった生活用品に替わったという。

一方で、いわきのある施設では、コロナ問題が起きて以来、施設内の消毒が欠かせなくなった。ドアノブなどを消毒するのに、全国的に品薄のガーゼタオルに代わって、家庭で眠っているタオルなどを必要としているそうだ。「ご自宅に使わないタオル等の布があれば、ぜひ寄付していただけると助かります」。そんなチラシが届いた。

豪雨災害、コロナ禍、布不足。遠くの被災地も、近くの施設もそれぞれに困難を抱えている。協力を求めている。

2020年7月21日火曜日

新・洪水ハザードマップ

 いわき市北部の夏井川水系と、南部の鮫川水系の洪水ハザードマップが改訂された。夏井川水系は支流の仁井田川、新川、好間川の3河川を含む。きのう(7月20日)、わが行政区に関係する「夏井川水系 平地区東部」版=写真=を、隣組を通じて全戸に配った。
 水防法改正に伴い、県が各河川の洪水浸水想定区域を見直したことから、いわき市ではハザードマップの改訂作業を進めてきた。蛭田川、藤原川(矢田川を含む)、滑津川、大久川についても、今後、県の見直しを受けて改訂するという。

 改訂のポイントは、想定最大規模降雨量を「70年に一度」から「1000年に一度」にしたことだ。その結果、48時間の総雨量は、夏井川流域で今までの327ミリから1.6倍の533.9ミリに、同じく鮫川流域で360ミリから1.5倍の547.2ミリに改められた、

 福島地方気象台によると、去年(2019年)秋の台風19号では、10月11日午後3時から13日午前6時までの39時間に、夏井川水系の川前で244.0ミリ、平で230.5ミリの雨が降った。「70年に一度」の想定内であっても、平・平窪地区を中心に甚大な被害が出た。

 新・ハザードマップはそれをはるかに上回る降雨量を想定している。「1000年洪水」がどんなものか、まるで想像がつかない。が、低気圧や台風が凶暴化しつつある現在、過去の経験・データは役に立たない、むしろそれにしがみついていると避難が遅れる――それだけはわかる。

 新・ハザードマップを全戸に配布するのに先立ち、6月下旬に平・神谷地区の区長8人を集めて説明会が開かれた。そのときの質疑応答を踏まえていうと、神谷地区は浸水深があらかた3~10メートル未満になり、戸建て住宅は2階まで浸水する。これまでは「垂直避難」(要するに、家で雨風をやり過ごす)も有効だったが、これからはそれさえ危ない、という評価に変わった。

 さらには、堤防決壊に伴う「氾濫(はんらん)流」や河岸浸食の発生が想定されることから、堤防のそばに「家屋等氾濫想定区域」が表示された地区もある。建物そのものが流される危険性があるということだ。

 いちおう、山際の平六小とその先の市北部清掃センターに併設されている北部憩いの家が近場の避難所、その先の高台にある介護老人福祉施設「ひまわり荘」が福祉避難所としては避難可能な施設だが、小学校は校庭が水没するために、車による避難はできない。

 災害弱者といわれる地域の高齢者や体の不自由な人をどうするか、という課題はあるものの、基本は「みずからの命はみずから守る」「いっときも早く安全な親類・知人・友人宅に避難する」ことだという。

逃げ遅れて2階まで水没し、かろうじて屋根にはい上がったときの光景を想像してみる。茶色く濁った“海”のなかに4階建ての中層住宅が二つ、三つ、“箱舟”のように浮かんでいるだけ――。

 マップには「大雨(台風)対応マイ・タイムライン」(自分の行動の確認など)「情報収集」(避難するタイミングの目安など)の欄も設けられている。それを参考にして、時折、シミュレーション(模擬訓練)や自習をするしかないか。

2020年7月20日月曜日

隠居の庭木の剪定終わる

 きのう(7月19日)の日曜日は朝7時半ごろ、夏井川渓谷の隠居に着いた。後輩の軽トラが先着していた。一日、隠居の屋根を覆う“いがかり”の剪定(せんてい)に汗を流した。道路沿いの高木は枝の間を電線が通っている。こちらの木を除いて、必要な剪定が終わった。すっきりした。
 先日、後輩に庭木の剪定を頼んだ。私ら夫婦が庭で土いじりをする日曜日に合わせ、7月5、12日とやって来た。平日にも1人でできる作業をした。 “いがかり”は、1人ではできない。ロープで枝を支えないと屋根の瓦を割ったり、引き込みの電線を切ったりしかねない。

 共同作業を始める前に、後輩は下の庭のへりにある木を切った。私は上の庭の菜園でキュウリを収穫し、三春ネギに追肥をした。カミサンはガス釜でご飯を炊いた。

ガス釜のご飯がうまくて、最近は朝起きるとすぐ、おかずだけを持って隠居へ行く。

「朝めし前」の仕事を終えて、濡れ縁で食事をした。やはり、ご飯がうまかった。ガス釜だけではない。飲み水は地下水。これをわかしてコーヒーを淹(い)れると、「うまい」といわれる。この水のよさもご飯がうまい理由だろうか。

 朝食後は、いよいよ屋根にかかる庭木の剪定だ。地下足袋をはいた後輩がするすると木に登り、命綱を幹にかける。ロープを使ってチェンソーを上げ下げする。さらにもう1本のロープを、別の枝を介して切断する枝にしばる。そのロープを私が握る=写真上1。後輩の指示に従ってロープを引いたり緩めたりする。

そうしてカエデとコバノトネリコの枝を切ること数時間。途中、昼食をはさんで、瓦を割ることも電線を切ることもなく、無事、作業を終えることができた。

 見上げている分には大きさを感じない。が、地面に下ろすと枝葉は長くて幅広い。それを今度は後輩がナタとチェンソーで細断する。細断された枝葉を夫婦で敷地のへりに積み重ねる。その作業を繰り返しながら、スクワットをやっているような感覚になった。立ったり、かがんだり。運んだり、積み上げたり。体をこれほどまでに動かすのは久しぶりだ。やっているうちに足が重くなっていくのがわかった。
しかし、老化を感じるだけではなかった。外での仕事だから、空の変化がわかる。飛んでいる鳥が目に入る。10時半には青空が広がり、午後2時ごろには入道雲が現れた=写真上2。さらに昼前、青空を1羽のタカが旋回していた=写真下。オオタカかサシバだ(普通のデジカメで撮ったから、データはケシ粒でしかない。それをパソコンで拡大してみたが、特定はできなかった)。
ついでに、折り畳み式のはしごで雨樋(あまどい)の枡(ます)を見てもらう。枯れ落ち葉がびっしり詰まっていた。ホースで水を流すと、ゴボゴボ黒いかたまりが排水口から現れた。これで雨が降っても雨だれの心配がなくなった。長い曇雨天のすきまの青空と眼福と安心だった。

2020年7月19日日曜日

葉の上で夜明けを迎えた虫たち

虫たちが軒下の葉の上で夜明けを迎えるのも、梅雨期ならではの光景か。きのう(7月18日)の朝7時過ぎ、店の雨戸を開けたカミサンから声がかかった。「ヤツガシラの葉の上にカブトムシがいる」
店の軒下に、飾りとして使わなくなった臼(うす)が置いてある。その上に大皿が載っている。カミサンが水を張り、サトイモの一種のヤツガシラを入れたら、芽が出て葉を開き、茎がのびてきた。その葉の上にカブトムシの雌が1匹止まっていた=写真上1。体の表面にはびっしり水滴が付いている。

平ではきのう未明、雨が降った。降ってはやみ、降ってはやみ――を繰り返す梅雨期なので、特別なことではない。飛び回っていたカブトムシがその雨に遭遇して、緊急避難的に軒下のヤツガシラの葉の上で雨宿りをしたか。

昼前、カブトムシを見ると、少し動いた気配がある。表面には微小な水滴が付いたままだ。午後2時に見ると、そのままじっとしている。夜7時過ぎには、少し動いたが、やはりとどまっている。けさ(7月19日)は5時前に見た。カブトムシはいなかった。きのうは夕方から少し空気がぬるんだから、それで元気が戻ったか。

こう書くと、ジイサンがステイホーム(巣ごもり)のひまつぶしをしているようにみえるが、この10日ほどは役所から頼まれた「〇×調査員」探しの“宿題”に追われ、のんびり巣ごもりするどころではなかった。主婦のネットワークの力を借りて人を確保し、最終的に書類を投函して宿題を終えたのが、きのうの土曜日だった。

空は相変わらずの雨模様だが、心は肩の荷が下りて青空になった。それで、子どもみたいにカブトムシと向き合う気持ちがわいてきた。

そういえば――。早朝、台所の軒下のキュウリを見ているとき、葉の上に変な生きものがいた。まだ調べが付いていない。きのう、肩の荷を下ろしたついでにネットサーフィンをした。
7月10日に見たのは、どうやらヤガ(幼虫はネキリムシ)らしい=写真上2。その2日後に止まっていた虫がわからない=写真下。足と翅(はね)の半分が蜘蛛(くも)の巣をまとったように汚れている。
撮影データを拡大すると、足は蜘蛛の巣が絡まったような感じではなく、毛むくじゃら――そんなことがわかった。最初はクロアゲハかモンキアゲハだろうと思ったが、毛むくじゃらの足からわけがわからなくなった。現時点では正体不明というしかない。どなたかご存じの方、ご教示を。

2020年7月18日土曜日

太陽が恋しい

 7月初めは半そで・半ズボンのときもあったが……。梅雨も後半の今は長そで・長ズボンでないと寒さがこたえる。太陽が恋しい。
日曜日(7月12日)、夏井川渓谷の隠居に着くと青空が広がった。が、その後はまた鉛色の雲に覆われ、雨がちの天気に戻った。こうじめじめした状態が続くと、体にまでカビが生えたようでうっとうしい。まさに黴雨(ばいう)。

 毎朝、歯を磨きながら、台所の軒下のキュウリを観察する。葉に白い点々があるなと思ったら、あっという間に全体が白くなった。別の葉にも白い粉が広がっている。

「うどん粉」病らしい。発生初期にぼんやりしていたために、カビが蔓延(まんえん)したようだ。とりあえず、“酢水”を霧吹きで散布して様子をみた。酢水を浴びて一時的に緑色を取り戻した葉がある=写真。しかし、乾けばまたうっすら白いままのものもある。その葉を3枚ばかり除去した。

葉がうどん粉病にかかると、光合成ができなくなる。そのうえ、日照不足と低温が続く。実の生(な)りが思わしくない。

福島地方気象台のホームページで小名浜の気象データを見た。7月1日からきのう(7月17日)までの日照時間は計18.1時間だ。1日1時間しか日が照っていない計算になる。雨も多い少ないはあるが毎日降る。7月上旬の福島県内の概況は、平均気温が「平年並み~高い」、降水量は「多い~かなり多い」、日照時間も「かなり少ない」だった。

7月中旬は、気温も「低い」になるのではないか。月曜日(7月13日)、浜通りに低温注意報が発表され、今もそれが継続している。

うどん粉病の正体はカビ(糸状菌)。胞子がどこからともなく飛んできて、葉に寄生し、菌体を広げて胞子をつくる。それがまた飛散して別の葉へ、さらにまた別の葉へと拡散するらしい。

キノコに興味を持っているので、真菌(キノコ)と細菌、ウイルスの違いをときどきおさらいする。ごくごく単純化して言えば、三つの違いは大きさの違いだ。真菌―細菌―ウイルスの順で小さくなる(目に見えないなかでもさらに目に見えない小ささが新型コロナウイルスの感染防止を難しくしているのだろう)。うどん粉病の原因をつくっている糸状菌(カビ)は真菌、キノコや酵母と同類だ。

それはともかく、軒下のキュウリを見ていると、夏野菜全般の育ちが気になる。低温障害や生育不良の心配はないのか。早く太陽の光が欲しい。

 ☆追記=低温注意報は7月18日午後には解除された(福島地方気象台が16時51分に発表)。

2020年7月17日金曜日

村上編訳『恋しくて』

 ダンシャリで引き取った本のなかに、村上春樹編訳『恋しくて』(中央公論新社、2013年)があった=写真。竹久夢二の「黒船屋」を装画にしている。「甘くて苦い粒選りの10編/村上春樹が選んで訳した世界のラブ・ストーリー+書き下ろし短編小説」だそうだ。
  ローレン・グロフ(1978年~)の「L・デバードとアリエット――愛の物語」はニューヨークが舞台。2人の愛の不吉な伴奏曲のように、スペインインフルエンザ(スペイン風邪)が猛威を振るう。

1918年3月。朝刊に「カンザス州で健康そのものの兵士たちが奇妙な死に方をした」記事が載る。しかし、時は第一次世界大戦の末期。“異変”は欧州の西部戦線の戦闘の記事に埋もれてしまう。

4月。月の後半になると、奇妙な病気の記事が新聞にあふれる。ジャーナリストはそれを「ラ・グリッペ(スペイン風邪)」と呼んだ。しかし、アメリカ人はその病気には関心を払わない。

7月。病気の第二波がやってくる。「ボストンで人々が次々に倒れていく。ほとんどが壮健な年若い人々」だった。

10月。「インフルエンザの緩慢なうなりは、やがて怒号へと変わっていく。九月にはまだ暢気(のんき)にかまえていたものだが、十月にはもう冗談ごとではなくなってしまう。フィラデルフィアでは体育館が簡易ベッドで埋まっている。そこに横たわるのは、つい数時間前まで健康そのものだった船員たちだ」

11月。被害の報告は続く。しかし、「恐怖は完全に払拭(ふっしょく)されていないものの、疫病は峠を越える。一万九千を超えるニューヨーク市民の命が失われた」。

小説だから史実に忠実かどうかはわからない。が、スペインインフルエンザに見舞われた当時のアメリカ社会の空気のようなものは感じられる。

それから100年。今年(2020年)前半、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)がおきた。密」を避けるための巣ごもり中にたまたま『恋しくて』を手に取り、100年前と今を重ね合わせながら読んだのだった。

日本ではどうだったか。東京都健康安全研究センターの精密分析によると、①1918(大正7)年8月下旬にインフルエンザが流行し始め、10月上旬に蔓延して11月には患者数・死者数が最大に達した②2回目は翌1919年10月下旬に始まり、20年1月末が流行のピーク――だった。1921(大正10)年7月までもう1回流行があり、結果的に2300万人が感染して38万人が亡くなった。
 
『恋しくて』の装画が大正8(1919)年につくられた夢二の代表作なのも、「L・デバードとアリエット――愛の物語」のスペインインフルエンザと連動したものだったか。

5月中旬に緊急事態宣言が解除され、世の中が落ち着くかと思ったら、また東京などを中心にコロナの感染症者が増えている。第二波への警戒を怠ってはいけない――毎朝、新聞を手にしては自分に言い聞かせる。

2020年7月16日木曜日

マツタケが絶滅危惧種に

 国際自然保護連合(IUCN)もチコちゃんのあとに続いたか。先日(7月9日)、IUCNはレッドリストの最新版を発表した。日本では高級菌のマツタケ=写真=が初めて、絶滅危惧種として記載された。「絶滅危惧」には3ランクあって、一番下の「危急」に分類されたという(朝日)。
「マツタケが高いのは、プロパンガスが普及したから」。去年(2019年)11月8日の「チコちゃんに叱られる!」にマツタケが登場した。

高度経済成長時代に入る前、家庭の燃料は主に木炭・薪(まき)だった。松山では焚(た)きつけにするため、絶えず「落ち葉かき」が行われた。エネルギー革命で燃料が石炭から石油に代わると、液化石油ガス(プロパンガス)が普及し、落ち葉かきの必要がなくなった。

その結果、落ち葉や枯れ枝が堆積して松山が富栄養化し、ほかのキノコやカビが生えて、松の根と共生する菌根菌のマツタケがすみかを奪われ、数が減って値段が高騰した、とチコちゃんはいう。マツタケの生産量は、昭和40(1965)年1291トンが、平成28(2016)年69トンと、およそ20分の1に激減した。

朝日によると、不作だった去年(2019年)の国産マツタケはわずか14トン。激減がレッドリスト入りした理由で、専門家は「採り過ぎではない。食べるのをやめたら増えるものでもなく、松林の減少を食い止めることが必要だ」とコメントしている。

 マツタケは、今はキノコの横綱だが、大昔はどうだったのか――。岡村稔久『日本人ときのこ』(ヤマケイ新書、2017年)によると、マツタケが文献に現れるのは平安時代になってから。平安後期には、都の周辺に松林が広がり、公家たちがマツタケ狩りに出かけるようになった。

それまでは神社の森や洛外の広葉樹林でヒラタケを採る人が多かった。ツキヨタケをヒラタケと誤認して食中毒をおこすこともあった。そんなことが文献的に確認できるという。
 
鎌倉時代に入ると、マツタケは、コイやキジとともに貴人の食べ物として大切に扱われるようになる(徒然草)。しかし、京都周辺の山地からは広葉樹の原生林がしだいに姿を消してゆく。要は、奈良や京都周辺の山々が都の造営などで伐採された結果、二次林の赤松林が増えてマツタケが発生するようになった、ということだろう。

上に掲載のマツタケの写真は2009年8月中旬に撮った。カミサンの幼友達がお土産に持って来た。「匂わないマツタケ」だった。梅雨期に採れるものはサマツタケという。サマツタケはマツタケより匂いが弱い。長梅雨だったので、これが採れたらしい。

1本は近くの息子の家に届けた。残る2本のうち1本は網焼きにした。手で裂いて焼き、醤油(しょうゆ)につけて食べた。残る1本はマツタケご飯にした。ご飯が炊きあがったところに細かく裂いたマツタケを混ぜ込み、しばらく余熱で蒸らしてから食べた――と、拙ブログで確かめても、匂いも味も舌ざわりも思い出せない。

それよりなにより、いわきではまだ天然キノコを食べることも出荷することもできない。キノコの話になるたびに原発の罪深さが頭をよぎる。

2020年7月15日水曜日

みすゞと忠夫

 いわき市立草野心平記念文学館で「没後90年童謡詩人金子みすゞ展」が開かれている(9月22日まで)。春の「草野心平の詩 天へのまなざし」展に続く夏の企画展だ。この間、コロナ禍による休館や催しの中止を余儀なくされた。コロナ問題の推移を見ながらの開催でもある。
「みすゞ展」をやるからには、大正後期、雑誌「童話」の童謡欄に投稿し、選者の西條八十から、みすゞ(1903~30年)とともに「若い童謡詩人の中の二個の巨星」と評された、いわきゆかりの島田忠夫(1904~45年)も紹介しているはず――。

オープン初日(7月11日)に同文学館で事業懇談会が開かれた。会議の前に島田忠夫のコーナーがあることを確かめ、終わって全体を観覧した。展観者が何人もいて、前評判の高さを実感した。

忠夫は水戸で生まれ、平で育った。童謡詩人だけでなく、歌人であり、天田愚庵研究家であり、「俳草画」を手がける画家でもあった。

平の詩人の「中野勇雄君の新婚に賀する歌」自筆(昭和4年1月、同文学館所蔵)と、本人の肖像写真に引かれた=写真(図録から)。写真は、忠夫と交流のあった平林武雄・明治学院大名誉教授が旧蔵し、金子みすゞ記念館(山口県長門市)の矢崎節夫館長が提供したものだという。

顔写真を拝むのは初めてだ。好男子といっていい。俳優でいえば、加藤剛、オダギリジョー、竹野内豊あたりを連想させる。

 大正13(1924)年3月発行の「童話」第5巻第3号も展示されていた。見開きページの右に忠夫の「時さんと牛」、左にみすゞの「大漁」が載る。

忠夫の作品は「牛やの時さん/死にました/牧場に青草/伸びるころ。//けれども牛は/知りません。/昨日も今朝も/鳴いてます。//乳を搾(しぼ)って/下さいよう/牧場に放して/下さいよう。」

 みすゞの作品は「朝焼小焼だ/大漁だ/大羽鰮(おおばいわし)の/大漁だ。//濱(はま)は祭りの/やうだけど/海のなかでは/何萬の/鰮のとむらひ/するだらう。」

 忠夫は今や忘れられた童謡詩人だが、そのわけは、2人の作品を読み比べるとわかる。田園趣味(忠夫)と心象描写(みすゞ)。要は、みすゞの方が琴線に触れる。今も触れる。これからも触れ続けることだろう。

「大漁」の前半は、明け方の漁港の様子を描く。イワシの大漁で漁師やその家族、魚市場の関係者たちが行き来し、「祭り」のように活気づいている。イワシを漁船からおろす、箱に入れる、セリが行われる……。浜の人間は毎日、漁を続けることで生計を維持し、船主は富を蓄積していく。

後半は、イワシに視点が移る。イワシの社会に網が入り、一挙に何万もの仲間がすくいとられた。仲間を失ったイワシたちは、人間界が祭りのようににぎやかなとき、悲しみに沈みながら「とむらい」の準備をする。

相対化する視点を持つことの大切さ。他人の痛みを共有し、その痛みを社会に訴え、改善していくエネルギーに換えること。小さく弱い者たちの側に立つこと――そんなことを深く考えさせられる詩句だ。