2020年7月12日日曜日

真尾さんの古裂㊦くらし「の」随筆

きのう(7月11日)の続き――。いわき民報の「くらし随筆」は、真尾悦子さんの夫の倍弘(ますひろ)さんの発案で始まった。まずは、2004年夏、いわき市立草野心平記念文学館で開かれた企画展「真尾倍弘・悦子展 たった二人の工場から」の図録に書いた拙文から。
                   
 倍弘さんは一時、といってもはるか昔の昭和二十四、五年ごろ、いわき民報社に記者として勤めていたことがある。私の大先輩である。あるとき、真尾さんがこんなエピソードを聞かせてくれた。

「いわき民報の『くらし随筆』はね、もとは『くらしの随筆』だったのよ、うちのダンナが名付けたの」

 いわき民報社を辞め、療養生活を経て、倍弘さんは「月刊いわき」を出す。<読者の書く楽しい郷土雑誌>がキャッチフレーズだった。その新聞版をと、小さな印刷所(氾濫社)で男たちが構想を練り、呼び出しを受けた当時の編集長(小野姓広さん)が即決して、昭和三十五年三月十五日に「くらし随筆」がスタートした。六人の読者が三カ月交代で書くルールはそのときから変わっていない。
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 おととい、あらためていわき市立図書館のホームページにある「郷土資料のページ」で、当時のいわき民報をチェックした。

 昭和35(1960)年3月14日付1面に社告が載っている=写真上1。「『くらしの随筆』欄にご期待下さい/あすから六氏が麗筆ふるう」。執筆者として言い出しっぺの倍弘さんのほかに、当時の平市助役や平商工会議所専務、NHK平放送局次長などが紹介されている。錚々(そうそう)たる顔ぶれ、ではないか(顔写真のうち、一番上の左側が倍弘さん)。
 翌15日、倍弘さんの随筆が載るのだが、そのコーナーのカットはなんと「くらし随筆」だ=写真上2。社告にあった「くらしの随筆」の「の」が抜けている。最初から“間違った”まま現在まで60年間余、「くらし随筆」が続いているわけだ。

 その「くらし随筆」第一号のタイトルは「清水港」。タイトルだけだと、あの静岡県の――となるが、中身は、「女房の従兄(いとこ)」の名前の話だ。従兄は埼玉県桶川町(現桶川市)に住んでいた。桶川を訪ねて交番で道順を聞く。「『清水港はアナタ静岡ですよ』といわれる。当の本人にその話をすると、『ほう?おれの名前を知らなかった?そりゃあ、新米のお巡(まわ)りさんだネ』当の港さんはさすがに年配者らしく答えた」。筆の運びが軽妙だ。

 本人は「ますひろ」。「説明しなければわからない名前というものは、どうにも不自由なものだ。(略)“ますひろ”という発音で舌をもつれさせたりする」と書きだしながら、末尾の氏名の読みには、わざわざ「ばいこう」と通称名を入れている。これも倍弘さん流のユーモアだろう。

真尾さんも、1年後に「くらし随筆」を担当している。こちらは先日、13回分をプリントアウトした。倍弘さんの「くらし随筆」もあとで全部プリントアウトしよう。

これはふと浮かんだ“仮説”だが、吉野せいさんがいわき民報に「菊竹山記」を書いて『洟をたらした神』へと昇華させたように、真尾さんも「くらし随筆」を経験して『たった二人の工場から』へと踏み出していったのではないか。いずれ“検証”のまねごとはしてみようと思う。

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