2020年9月30日水曜日

江川卓の母親と「養父」のこと

 おととい(9月28日)のNHK「ファミリーヒストリー」は見ごたえがあった。元・巨人のエース江川卓のルーツを追った。江川家は、江川の父が10歳のとき、新潟県から福島県いわき市の炭鉱へやって来た。そこに福井県から出てきた母の家族(川端家)がいた。

江川はいわき市好間町で生まれた。番組では前半、祖父母の出身地や父母、家族、父母の出会い、古河好間炭鉱の様子などを紹介した。炭鉱や地域史に詳しい知人2人も出演した。そこまでは「想定内」だった。

そのあとに「衝撃」が待っていた。江川の母・ミヨ子さんは生まれて間もなく、「浅川藤一・ノブ」夫婦の養女になる=写真。浅川藤一の名に記憶があった。吉野せいの短編集『洟をたらした神』の注釈づくりをしている過程で、何度も頭をよぎった坑内の指導夫だ。殉職坑内作業員を主人公にした、せいの「ダムのかげ」のモデルは江川の母・ミヨ子さんの「養父」だったのか!

ミヨ子さんが浅川家の養女になったのは、藤一が川端家と仲が良く、浅川家に子どもがいなかったからだ。しかし、藤一の「娘」になってすぐ、藤一が坑内で殉職したため、ミヨ子さんは赤ん坊のうちに川端家に復籍する。そのことを番組に教えられた。

「殉職之碑」には浅川藤一の名前が刻まれているという。これは好間のどこにあるのか。碑の前にぜひ一度、立ちたいものだ。

「ダムのかげ」は浅川藤一がモデル――と“断定”したワケを、拙ブログ(2019年11月17日付「吉野せい作品のフィクション性」)で書いている。抜粋して次に再掲する。

――吉野せいの作品集『洟をたらした神』は、昭和50(1975)年春、田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。前者は「女流作家の優れた作品」、後者は「各年の優れたノンフィクション作品」に贈られる(田村俊子賞は同52年で終了した)。

 この何年か、『洟をたらした神』の注釈づくりをしている。注釈が増えていくにつれ、ノンフィクション/フィクションのゆらぎが大きくなる。ノンフィクション作品には違いないが、フィクション的な要素もかなり入っているというのが、現段階での私の結論だ。

 2019年7月、せいの新しい評伝が刊行された。茨城県北茨城市出身の作家小沢美智恵さんが書いた『評伝 吉野せい メロスの群れ』(シングルカット社)だ。一読、ノンフィクション/フィクションのゆらぎという点で、問題意識を共有できると感じた。

 作品「ダムのかげ」に、私と同じ疑問を抱いてフィクション性を探っている。「作品末には『昭和6年夏』のことと記されているが、当時の新聞等を調べても、せいの住む近隣で、その年には炭鉱事故は起きていない」「昭和4年(1929)8月には、近くの古河好間炭鉱で出水事故が起き1名殉職者が出ているが、作品のように彼が最後まで職責をつらぬき非常ベルを鳴らしつづけたという事実は確認できない」

 それはそうだが、同4年8月の出水事故では「勇敢にも坑内に居残り、他入坑者の救助に努めた為め逃げ場を失ひ、遂ひに溺死した」(磐城新聞)人間がいる。新聞記事には、非常ベルうんぬんの話は出てこないが、他者のためにわが身を投げ出した、という点では作品と通底する。

 新聞記事にある殉職者の名前と、「ダムのかげ」の主人公の名前を比較・検討すると、間違いなく彼が「ダムのかげ」のモデルだった、という確信が生まれる。

「浅川藤一(あさかわ・とういち)」。これが殉職者の名前だ。「ダムのかげ」では「尾作新八(おさく・しんぱち)」。アサカワを早口で繰り返していると、アサカー→オサカー→オサカ→オサクに変化する。トウイチに対するシンパチ、これも「一か八か」から容易に連想できる。(以下略) 

2020年9月29日火曜日

石油ランプと「ばっぱの家」

                                
 いわき市暮らしの伝承郷で、「収蔵品展 灯りの道具」が開かれた=写真(チラシ)。最終日の日曜日(9月27日)午後、ギリギリに入館した。

目当ては石油ランプに行灯(あんどん)、提灯(ちょうちん)――。阿武隈高地は鎌倉岳(976メートル)の東南麓、現田村市都路町岩井沢字北作地内にかやぶき屋根の「ばっぱの家」があった。昭和30(1955)年前後でも、夜の明かりは石油ランプと角行灯、提灯だった。

隣家から100メートル以上、一番奥の隣家まではさらにそれ以上ある「ポツンと一軒家」だ。ふだんは祖母が一人で住んでいた。母親に連れられて泊まりに行く。夜になる。石油ランプに灯がともる(昼はよくランプのほや=ガラス製の筒=の掃除をさせられた)。

風呂は便所と隣り合わせで外にあった。手持ち棒付きの提灯で足元を照らし、それを明かりにして風呂に入った。枕元には寝る前、角行灯がともされた。

夜、向かい山からキツネの鳴き声が聞こえてくる。ランプの明かりがつくる自分の影が大きくなって動く。寝床にもぐると、すぐ行灯が消されて真っ暗になる。小学校低学年のころまでは、この三つがとても怖かった。

「灯りの道具」展では、展示解説書を開きながら、それぞれの照明具を見て回った。石油ランプは西洋から輸入され、大正時代に入ると全国的に普及した。「明治時代の文明開化を象徴する新しい灯り」だったという。角行灯は、江戸時代に最もよく使われた屋内用の行灯だ。周りは和紙で囲われており、中に火皿が置かれていた。

昭和に明治が、江戸が共存していた「ばっぱの家」。明かりの道具の歴史と仕組みがよくわかると同時に、新たな疑問も生まれた。角行灯の燃料は菜種油だったとしたら、祖母はそれをどこから手に入れていたのか。小さな社会、つまりローカルな世界のなかで必要なものを調達する仕組みができていたのではなかろうか。

母親に連れられて街道から小集落に入り、家が見えるあたりから「来たよー」と大声を出す。すると、祖母が家から顔を出す。帰るときには逆に、畑の間の小道を歩きながら、振り返り振り返り「さいならー、また来っからねー」と大声を出して祖母に手を振る。祖母は家の前からずっと孫の姿を見送り続ける――。

そうそう、「ばっぱの家」の右手には、上の沢から木の樋で水を引いた池があった。そこで鍋釜や食器を洗った。ご飯つぶを食べるコイもいた。樋の水を手桶にためて運んだ。池の水が流れ出る先は小さな林で、その中の小流れで笹舟を流したり、木の枝で水車をつくったりして遊んだ。怖い夜の記憶は楽しい昼の記憶の裏地のようなものだった。

三つか四つのころ、夕食を食べようというときに、ゆるんでいた浴衣のひもを踏んで囲炉裏の火に左手を突っ込んで大やけどをしたことがある。左の小指と薬指のまたが今も癒着してちゃんと開かない。

「ばっぱの家」は、今は杉林に変わった。東日本大震災と原発事故が起きたときには放射性物質が降って、一帯の住家では除染が行われた。

7年前(2013年)のゴールデンウイークに、実家へ帰る途中、「ばっぱの家」の跡を訪ねたときには、杉林の後ろに黒いフレコンバッグが仮置きされていた。2年前(2018年)、またゴールデンウイークに寄ってみたら、フレコンバッグは消えていた。

 今風にいえば、毎日がキャンドルナイトでスローライフ。いいことも悪いことも含めて、黄金のような記憶が詰まっている場所だ。毎週日曜日、夏井川渓谷の隠居へ行って土いじりをする。その原点は、鎌倉岳東南麓の「ばっぱの家」――。

2020年9月28日月曜日

「ハンカチなしでくしゃみをするな」

                    
 若い仲間が「出張キッチン」と称して、カツオとスズキを丸ごと持ち込んだ。メニューは、カツオとスズキの刺し身、スズキの炙(あぶ)り刺し身、カツオのたたき、鯛(たい)めし、カツオの摺(す)り流し汁、そしてホヤの塩辛、鶏の唐揚げ――。これを7人でつつきながら、飲んで、語り合った。

カツオとスズキの刺し身以外はほとんど口にしたことがない。摺り流し汁は前回の飲み会のときに初めて味わった。下準備が大変なのは、手伝ったカミサンがこぼしていたのでわかる。だからこそというべきか、うまい。うまさがのどにしみとおる。粗汁の大胆・素朴な味に比べると、繊細で上品だ。

いつもは、街なかの店で飲み食いしながら、情報交換をする。コロナ禍以来、静かなところで――となって、わが家の近くの故義伯父の家を会場にしている。コロナ問題が収まれば、また街に出る。街の飲み会もそれなりにおもしろい。

 雑学的な情報が行ったり来たりするなかで、いっとき美術講話になった。いわき市立美術館で開催中の「メスキータ展」では、最後の最後、出口のそばに「ハンカチなしでくしゃみをするな」というポスター作品が展示されている。それを聞いた瞬間、「しまった」と思った。

9月21日にメスキータ展を見た。同展はドイツの個人コレクション約230点で構成されている。所蔵者の好意で「撮影OK」というおまけがついている。

お目当ては木版画「ヤープ・イェスルン・デ・メスキータの肖像」だった=写真上1。鼻と口がそのまま獣の顔になっている。作品をさかさまにすれば、ちょうネクタイが黒い髪の毛の人間の目になり、ずらした眼鏡と目もカエルの顔のように見える。要は「だまし絵」だ。

 その絵と対面したあとは集中力がとぎれた。最後に「ハンカチなしでくしゃみをするな」が用意してあるとは思いもしなかった。「もういいや」。メスキータの教え子のエッシャーの作品を見ながら、出口へ直行した。

サミュエル・イェスルン・デ・メスキータ(1868~1944年)。このオランダの画家は、第一次世界大戦(1914~18年)とスペインインフルエンザ(スペイン風邪=1918~20年、日本では~21年)の時代を生き抜いたものの、第二次世界大戦下、ナチスドイツによってアウシュヴィッツ強制収容所で亡くなった。

飲み会の翌日、つまりきのう(9月27日)だが、メスキータ展の最後に展示されている作品=写真上2=を見に行った。キャプションにはこう書かれていた。「本展出品作品の所蔵者が初めてメスキータの作品と出会ったのは、1980年のソスマン・ギャラリーであった。その時に開催されていたメスキータ展のポスター。/使用された作品中の言葉の意味は、『ハンカチなしでくしゃみをするな』である」

100年前、スペインインフルエンザが世界を襲ったとき、まだウイルスが原因だとはわかっていなかった。しかし、くしゃみから飛沫(ひまつ)感染をすることは経験的に知られていたのだろう。メスキータの作品から当時の「せきエチケット」の様子がうかがえる。日本ではこのときからマスクが一般化した。

新型コロナウイルスが世界を凍らせている。日本では、人はどこへ行ってもマスクを着用している。マスクの習慣がない欧米でも、ニュースを見る限り、ハンカチからマスクへ――という流れができつつあるらしい。

この作品をメスキータ展の最初に持ってきた美術館もあるそうだ。その方が年寄りにはわかりやすかったかもしれない。100年単位でモノゴトを考えるいい「実例」になった。

2020年9月27日日曜日

明治の女性記者

                    
「ジャーナリスト」9月号を読んでいたら、福島民友OBの町田久次さんが「福島初の女性記者」について書いていた。「~明治44年、福島にいた~謎の女性記者・木村よしの」がタイトルだ=写真。

「謎」はともかく、木村は明治22(1889)年、福島市に生まれ、日本女子大英文予科で学んだあと、文芸協会演劇研究所(男女優養成所)の第1期生として女優を目指した。その後、福島に戻り、21歳で民友記者となった、とある。再上京したあとは、結婚相談の仕事を続けたらしい。

 町田さんの調査によると、明治44(1911)年5月7日付同紙に「入社の辞」が載り、その6日後には早くも3回連載の「本県師範女子部」の訪問記を書いている。内容は「相当過激」だが、「当時の女性解放論や女権拡張運動につながっていて、現代においても十分に通じる主張」だという。

 それで思い出したのが「新しい女」たちだ。平成23(2011)年、いわき総合図書館で「雑誌『青鞜』と『新しい女』たちの肖像」展が開かれた。「青鞜」創刊100年を記念した企画展示で、「青鞜」とつながる「新しい女」たちが紹介された。

会期中に、明治学院大非常勤講師岩田ななつさんが「『青鞜』と福島の女性」と題して話した。そのときの拙ブログを抜粋する。

 ――明治末に、男性につき従う「良妻賢母」の殻を破り、自我の確立を主張する女性が出現する。先陣を切ったのは、いいところのお嬢さんたち。高等教育を受けていて、物おじをしない。ときに、世間が眉をひそめるようなこともする。明治44(1911)年9月に創刊された女流文芸雑誌「青鞜」が、その牙城だった。

地方にあって、「青鞜」を読むような「新しい女」はいなかったのだろうか。大正14(1925)年にいわきで発行された比佐邦子(クニ)著『御家庭を訪れて』が、良くも悪くも参考になる。いわき地方の知名人の妻・母・お嬢さんなど女性だけ161人が紹介されている。

比佐はどうやら「新しい女」には否定的だったようだ。あるお嬢さんを評してこう書いている。「現代ある一部の女性達が心の深奥な要求を拒み生命そのものに背を向けてゐるやうな婦人解放論者等には見出せない尊さがある」。婦人解放論者とは「青鞜」一派のことに違いない。――

比佐は明治30(1897)年、湯本町に生まれた。山村暮鳥の取り巻きの一人で、上京して結婚後、関東大震災で夫を亡くし、帰郷して平の磐城新聞社に入社した。おそらくいわき地方での女性記者第一号だ。「御家庭を訪れて」は半年ほど磐城新聞に連載された。のちに福島民報社に転じ、年下の同僚と結婚し、昭和12(1937)年、40歳でこの世を去った。

木村が「新しい女」と歩みを同じくし、8歳年下の比佐がそれとは距離をおく。時代というより、個性がそうさせたのだろうか。

 ついでながら、朝ドラ「はね駒(こんま)」のモデルになった相馬出身の礒村春子(1877~1918年)は、「日本の女性記者の草分け」だそうだ。

 この前、いわきの新人女性記者のコラムを読んだ。「学生のころ親戚と私が乗っていた車が崖から落ちた。あの浮遊感と絶望感をずっと忘れることはないだろう。初めて『死』を覚悟した瞬間。こんなにあっけなく死んでいくんだと感じた。幸いたいした怪我もなく無事だったが、そこから少し物の見方が変わったように思う」

そう、3・11でも痛感したことだが、当たり前と思っていた「日常」や「いのち」は、実は奇跡的なほど尊いものなのだ。そのことを忘れずに、「考える足」になって取材すれば、きっといい記事が書ける。

2020年9月26日土曜日

季節には遅れたくない

        
 時代には遅れても、季節には遅れたくない――。夏井川の堤防で、ヒガンバナを見ながら思った。

 家にこもって雑事に追われているうちに秋の彼岸が終わった。カミサンの実家の墓参りをしたり、夏井川渓谷の隠居へ行ったあとに山里を巡ったりはした。が、帰りは夏井川の堤防を利用せずにまっすぐ戻った。

 秋の彼岸明けの9月24日、市役所からの帰りに堤防を通ると、ヒガンバナが咲いていた=写真上1。

いつものペースで堤防を行き来していたら、咲き始めて間もないときに、花に出合っていたはずだ。今年(2020年)はそれが遅れた。もう花が色あせている。「ヒガンバナの花を見ないね」。テレビを見ながらカミサンがいう。「見ない」のではなく、「見に行く」のを忘れていたのだ。たぶん、10日以上は堤防を利用していなかった。

私は、ふだんは夏井川の堤防で「生物季節観測」をしている。たまたま通ったときに、ウグイスのさえずりが聞こえた、ツバメやハクチョウが飛来した、土手のヒガンバナが咲いていた――などと、自分にとっての初鳴・初見日を記録している。

生物季節ではないが、堤防の内側(住宅地)と外側(河川敷)でも、ん?と思うときがある。畑が宅地に替わる。畑と畑の間に草が生える=写真上2。定点観測をしているとわかる変化だ。

おばあさんが草むしりをしていたような、おじいさんがネギの手入れをしていたような……。その畑と栽培者がおぼろげながら思い浮かぶ。おばあさんは入院したのかもしれない、おじいさんは浄土へ旅立ったのかもしれない……。そうして人の姿が消えた畑は、いつかは宅地に替わるのだろう。

河川敷の畑はどうか。大水になると、大量の土砂が堆積する。その土砂を除去しないと水害の要因になる。去年(2019年)の台風19号の大被害以来、市街地そばの夏井川では河川敷の土砂の撤去が進められている。

畑は、田んぼは、人の手が加わっているからこそ美しい。人の手が離れたら、荒れて寂しい自然に還(かえ)るだけだ。

季節の移り行きとともに、人間と自然の接点で観察を続けていると、時代の、社会の動きが見えてくる。だからこそ、時代には遅れても、季節には遅れたくない、と思ったのだろう。

そういえば、夏井川を横断するサケの簗場(やなば)も完成していた。対岸で生簀(いけす)をつくっているのを前に見ている。この連休中に仕上げたのだろうか。9月前半までの残暑から一転、朝晩、ひんやりとする日が増え、サケが遡上(そじょう)する季節を迎えた。

2020年9月25日金曜日

震災土蔵を改修へ

           
 秋の彼岸にカミサンの実家(米屋)へ線香を上げに行った。母屋の奥に土蔵がある。東日本大震災で正面のなまこ壁が一部はがれ落ちた。9年半がたって、ようやく改修が始まった=写真。

まずは災後の拙ブログから――。わが家の場合は、地震でコンクリートの基礎が割れ、道路に面した側が沈んだらしく、戸がきちんとしまらなくなった。2階の部屋の床と壁にもすきまができた。全面改修は無理なので、災害救助法に基づく住宅の応急修理制度を利用して、補助金の範囲内で改修をした。

「半壊」の判定を受けた離れ(最初は書庫、最後は物置)は、損壊家屋等解体撤去事業を利用して解体・撤去した。今は庭の一部として、カキの実の落下を避ける車の臨時駐車場になっている。

カミサンの実家の土蔵は、解体するところまでは傷んでいなかったようだ。いよいよ壁などを改修する段になって、義弟が業者を選んだ。わが家を改修した大工氏だった。浜に自宅と作業場があり、本人はかろうじて津波から逃れた。自宅は残ったものの「全壊」の判定を受けた。

大工氏とは若いときに知り合った。結婚後は仕事に没頭し、何年かに一度、知人の美術展のパーティーで会うくらいだったが、震災直後、今は大学生になった“孫”の父親と宅飲みをしているうちに、大工氏の話になり(父親も知り合いだった)、電話で無事を喜び合った。それだけではない、近所に避難中だったので、すぐ付き合いが復活した。

その大工氏がカミサンの実家の土蔵を直すというのだから、人のつながりというものはわらない。

義弟が土蔵の前まで案内して説明してくれた。入り口の上からせり出している屋根をヒノキの柱が支えている。「いつのまにかこんな立派な柱が立っていた」。前は壁からほんのちょっと離れたところに柱があった。それから見るとスケールが大きい。寺の本堂の上がり口を覆う「向拝(こうはい)」を連想させる造りだ。合掌してから土蔵の中に入るような、そんな厳かさがある。

 震災にも負けずに残った土蔵が知り合いの手でよみがえる、という意味では喜ばしい、のだが……。大工氏は、父親が宮大工だった。本人も寺社の改築などを手がける。腕は間違いない。それだけに材料や様式にもこだわる。施主としては予算内に収まるかどうか気になるところだろう。

「なまこ壁は?」「しない、何千万もかかるから」。そのへんは大工氏も承知しているはずだが、よくよく相談、いや念を押した方がいい。

 これも拙ブログから――。9年半前の震災では、わが家の向かいの家の土蔵が解体された。3・11で傾き、1カ月後の4・11と翌日の震度6弱でさらに大きなダメージを受けた。真壁の土蔵を板で囲い、瓦で屋根を葺(ふ)いた、重厚だが温かみのある「歴史的建造物」だった。幹線道路沿いには、ほかに土蔵は見当たらない。歩道側の生け垣とよく合い、独特の雰囲気を醸し出していた。土蔵の前を下校中の小学生が通る。絵になる光景だった。

 もうひとつ。カミサンの小川町の親類の家にも白壁の土蔵があった。扉の両脇と高窓には「こて絵」が施されていた(高窓は「巾着」、扉の右側の壁には「俵と白鼠(ねずみ)」、左の壁は……忘れた)。門外漢ながら、贅(ぜい)を尽くした土蔵を見るたびに圧倒されたものだ。この土蔵も3・11で被害を受け、解体された。

土蔵が新しく造られるということはもうないだろう。だから、改修・保存へと踏み切ったのは英断といっていい――と、ここまで書いてきて思い出した。義弟自身、家業を継ぐまでは企業に勤める建築士だった。

2020年9月24日木曜日

毒キノコが南からやって来た

        
 長梅雨のあとは雨なしの酷暑が続いた。梅雨キノコは順調だったろうが、秋キノコはどうか。今までの例だと、秋の前半は酷暑と少雨で不作、10月に入ってから、ということになるのかもしれない。

いわきキノコ同好会(冨田武子会長)は年末に総会・懇親会を開く。懇親会は情報交換の場でもある。「秋キノコの発生が10日から15日ほど早まっている」「全体的な傾向としては、今までの経験則が通じなくなっているようだ」――年に一度、定点観測・採取による知見を学ぶ。

今年(2020年)のキノコ界はどうか。7月下旬に思わぬところ(こけむした岩場)でアミタケと遭遇した。アミタケは主に9~10月に発生する。梅雨期にも、それ以外の時期にも現れる。震災前の記録を見ると、梅雨期の採取は9~10月に次いで多い。今年、梅雨キノコは順調だったのでは、と推測するワケがこれ。

それに比べたら秋キノコは期待できない、風の便りも届かない、と思っていたところへ、友人から電話が入った。「家の裏にキノコが生えていた。シメジか。現物を持って行く」

届いたキノコは、傘の裏がひだではなく管孔(かんこう)だった。「シメジではないね、イグチ系のキノコ」

あとで図鑑に当たるため、庭に広げて写真を撮る=写真上1。傘の色や柄の形などもわかるように並べる。ニガイグチの近縁種にウラグロニガイグチがある。それらしかったが、断定は避ける。ウラグロニガイグチは、人によっては食中毒症状を起こすので、最近は毒キノコに分類されている。

それから間もない土曜日(9月19日)、いわき民報に毒キノコのオオシロカラカサタケの記事が載った=写真上2。

オオシロカラカサタケは南方系のキノコで、日本では関西を中心に分布している。同好会の冨田会長によると、いわき市内ではこれまで、ハウス内での発生は確認されていたが、野外では未確認だった。それが初めて、泉町の住宅の庭やナス畑で確認された。中毒例が非常に多いキノコだという。

昆虫が専門の仲間によれば、いわきは寒地性生物(北方系)と暖地性生物(南方系)がともに生きる混交地域だ。いわきの平地・里山・山地、河川・池沼・湿原などの四季に息づく昆虫・動物たちを観察・撮影していると、暖地系の北上・山地から平地への寒地系の適応など、混交度合いがいちだんと進んでいるという。

北上中のものは、甲殻類ではクロベンケイガニ。茨城県の大洗あたりが北限だったのが、いわきでも見られるようになった。いわきを北限とする蝶のアオスジアゲハ、モンキアゲハ、ツマグロキチョウ、ウラギンシジミ、ムラサキシジミ、ツマグロヒョウモン、ホソバセセリ、チャバネセセリなども、年々分布を北に広げている。

地球温暖化の影響で、今まで姿を見せなかった南方系のいきものが、いわきの海で、山野で確認されるようになった。オオシロカラカサタケはその一例。いわきをエリアにした“南北混交”の実態は絶えず流動している。古い混交観をアップデート(最新化)すること――それをまた実感した。

2020年9月23日水曜日

小板橋弘展

                            
 月が照らす穏やかな海の波打ち際近く、孤島がでんと立っている。島の上3分の2は段状に草が生え、てっぺんはキノコの傘のように緑で膨らむ。松らしい木が数本生えている。手前の砂浜には釣り人がひとり、青い釣り箱兼イス?に座って釣り竿を握る。わきには焚(た)き火が赤々と燃え、煙が一筋たなびいている。

 絵=写真=のタイトルは「月夜」。「冬の月光の中、凪(な)いだ海で独り釣りをする人。静寂三昧(ざんまい)の時。」という言葉が添えられている。作者は北茨城市の山里に住む小板橋弘さん(61)だ。

孤独がしみる絵なのだが、なぜか心が洗われる=写真。寂寥(せきりょう)の極致だからこそ、静けさが見る人の心にエネルギーを注入する。小板橋さんは岩絵具を使って作品をつくる。油絵とは違った、淡くやわらかい色彩が温かい。それもまた寂寥を穏やかに包みこむ。

 いわき市立美術館で9月12日~10月25日まで「メスキータ展」が開かれている。1階ロビーで同時開催をしているのが、ニュー・アート・シーン・いわきの「小板橋弘展」だ。

 小板橋さんの来館に併せて、月曜日(9月21日)午後、メスキータの「だまし絵」を見てから、小板橋さんに会った。

 小板橋さんは栃木県で生まれた。「海に憧れサーフィンに熱中した。『豊間の海は良いよ』という誘いにのって初めていわきの海を訪れたのが18歳の時。そんな彼の作品には海をテーマにしたものが多い」(図録)

画家として自立することを決めた平成3(1991)年、電気もないいわき市川前町の山奥にアトリエを構えた。私は4年後の平成7(1995)年から、週末、夏井川渓谷の隠居へ通うようになった。それまで住んでいた画家が引っ越し、空き家にしておくのはもったいないと、故義父に管理人役を申し出た。

 小板橋さんの家は、渓谷で夏井川に合流する中川の上流の集落、外門(ともん)からさらに山に入ったところにあった。それこそ「ポツンと一軒家」の世界だったろう。隠居の前住者である画家と昵懇(じっこん)だったこともあり、一度、私たちが隠居の庭でバーベキューをしていたときに、婚約者と一緒に合流したことがある。小板橋さんは平成9(1997)年、結婚を機に川前から北茨城に移り住んだ。それ以来だから、四半世紀ぶりの再会になる。

 冒頭の絵の話に戻る。小板橋さんがこの絵を描いたのは平成14(2002)年。その後、同23(2011)年3月11日、東日本大震災がおきる。島の上半分が崩落し、そばにあった小さな島は地盤沈下とともに水没した。北茨城の「二ツ島」は一つになり、さらに大きく欠けた。

ウ(鵜)の生息地として国の天然記念物に指定されている、いわき市泉町下川の照島も、震災で「ソフト帽」(台形)が「とんがり帽子」(三角形)に変わった。

作品の評価とは関係のない話だが、少なくとも絵の題材やカメラの被写体として知られた風景が天変地異で激変するのは悲しいことだ。人の記憶もまたそれに合わせて崩落する。心象風景であっても、小板橋さんの「月夜」はかつてそこにこんな島があった、ということを今に伝える。

2020年9月22日火曜日

道路の中央から朝日が

                    
    夏井川渓谷の隠居でキュウリやナスを栽培すると、日曜日だけでなく、週半ばの水か木曜日にも取りに行く。でないと、実が大きくなりすぎる。

平日は、それなりにやることがある。朝食前に戻って来るよう、5時半前後に出かける。今の時期、晴れた日には日の出と重なる。真横から日が当たる。帰りには真ん前から日が差してくる。きょうもあまねく照らしてくれるのだ、ありがたいと思いつつも、この時間、車を運転するとまぶしくて困る。

キュウリは役目を終え、秋ナスが最後のエネルギーを振り絞って実を付けている。先週の水曜日(9月16日)、早朝5時25分、ナスを取りに家を出た。田んぼ道を平六小前で左折すると、ややねじれながらも東西に伸びた道路の先、低く垂れこめた灰色の雲海から朝日が顔を出し始めた=写真上1。あまりのタイミングのよさに、つい車を止めてパチリとやった。

現役のころは、季節のニュースやコラムを書くのに「俳句歳時記」が欠かせなかった。土いじりを始めると、太陽や月などの天体の動きを反映した農事暦も参考にするようになった。

そこから「太陽は1分、月は1時間」というおおざっぱな目安が生まれた。正確には潮汐表に当たるが、きょうの日の出の時間は、あしたの月の出の時間は――と、暮らしのなかで考えるにはそれで十分だ。

つまり、夏至(今年は6月21日)から冬至(同12月21日)までは、日の出はおおよそ1日1分遅くなる。冬至から夏至まではその逆。月の出は、おおよそ1日1時間遅くなる。そんなおおざっぱな感覚で太陽と月に向き合っている。

平六小前の道路はほぼ東西に延びる。ということは、春と秋の彼岸前後には道路の中央から太陽が昇り、西の方角の山に沈む。9月16日は「レイライン」(光の道)的なものをタイミングよく経験したことになる。(追記:今朝確かめたら、道路は真東ではなく、やや北に寄っていた。1週間前は道路中央から太陽が出たが、きょうはやや南から現れた)

いわき観光まちづくりビューローがインバウンド事業の一環として「いわき聖地観光」に力を入れている。「観光」は中国の古典・易経の「国の光を観(み)る」に由来する。レイライン観光とは文字通り、「土地の光を観る」ことだ。

秋分の日のきょう(9月22日)、小名浜の日の出は5時24分である。この日、閼伽井嶽の常福寺では本堂に朝日がまっすぐ差し込む。それは計算された“神秘”でもある。その日、その時間、そこにいたからこそ体験できる感動が人に伝わり、また人を呼ぶ。

ネットにアップされていた東北運輸局の広報資料によると、きのう(9月21日)ときょうの2日間、いわきで外国人4人を招いたモニターツアーが行われている。きのう午後1時過ぎ、カミサンの実家へ行くために飯野八幡宮(平)の前を通ったら、それらしい一行が境内にいた。けさは、5時には閼伽井嶽の常福寺に集合して、日の出を見る予定のようだ。未明の東の空には星が輝いている。天気はまあまあのようだから、自分の目で「光の道」を確かめられるのではないか。

さてさて、秋分の日で思い出すのは2012年、シルバーウイークを利用して訪れたアンコールワット(カンボジア)だ。秋分の日にはちょっと早い9月18日、早朝と夕方の2回見学した。

アンコールワットは真西を向いて建っている。そのため、春分の日と秋分の日には建物中央の尖塔から朝日がのぼる。そして、密林のはるか西のかなたに夕日が沈む。「光の道」はしかし、雨季の雲に遮られて見ることができなかった。

2020年9月21日月曜日

続・マイクロツーリズム

コロナ禍で広まった言葉のひとつに「マイクロツーリズム」がある。私がときどき敢行する「山里巡り」、これもマイクロツーリズムに入るだろう。

今年(2020年)夏の例でいうと、月遅れ盆が明けた8月16日、区内会で精霊送りの行事をすませ、夏井川渓谷の隠居で土いじりをしたあと、川前―三和(差塩・下市萱)―好間を巡った。下市萱の直売所「三和ふれあい市場」でカミサンがナスや漬物・梅干しを買った。併せて、沿道のナラ枯れの状況をチェックした。

9月は13日、大久町の新谷窯工房へ新作展を見に行った。ついでに、ナラ枯れの様子を確かめようと、山麓線(県道いわき浪江線)を木戸川まで北上し、平地の国道6号に出て「ここなら笑店街」を訪ねた。ここでもカミサンがキュウリなどを買った。

きのう(9月20日)の日曜日は――。4連休とともに秋の彼岸に入ったので、カミサンの実家の墓を掃除し、花と線香を手向けたあと=写真、夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。「昼食は?」「小野町で」となって、県道小野四倉線を駆け上がった。

1年前、夏井川渓谷の隠居~小野町~平田村~三和(いわき)~自宅というルートで山里巡り、つまりはマイクロツーリズムを楽しんだ。そのとき初めて、小野町のイタリア料理店でピザを食べた。今回もそれと同じ店、ルートで車を走らせた。店の前の駐車場がふさがっていた。正午過ぎだから空いている方がおかしい。それだけ人気の店であることがわかる。

ではと、以前入ったことのある郊外の食堂でラーメンを食べた(念のためにいうが、あの有名店ではない)。自動車道が近いせいか、横浜・郡山・会津と車のナンバーもさまざまだった。

昼をすませたら、あとは決まっている。あぶくま高原道路を利用して平田村の道の駅へ直行し、買い物をした。駐車場がほぼ満パイになるほど込んでいた。みんなマスクをしている。今さらながらに不思議な光景だ。

道の駅がそんな具合だから、国道49号も込んでいた。日曜日なのにトラックが何台も走っている。(あとで知人から聞いたが、国道6号も込んでいたようだ)

ナラ枯れはどうか――。好間・大利(閼伽井嶽側)の沿道に茶髪の大木があった。8月16日には気がつかなかった。さらに下って好間町内に入ると、好間高校の裏の山が赤く染まっている。高校の裏には好間川が流れ、すぐ山になっている。山は切り崩されて工業団地ができた。吉野せいの作品集『洟をたらした神』に登場する菊竹山だ。菊竹山の注釈にナラ枯れを加えないといけなくなった。

平市街の西部、カミサンの実家のある久保町から松ケ岡公園の方へ向かうと、踏切から左手に見えるトンネルの右上、ここにも茶髪の木があった。「県社」(子鍬倉神社)の西端斜面に生えている大木だ。低地の集落の周辺、街なかの丘あたりの森がカシノナガキクイムシにやられていることを知る。

 同時に、今度の4連休は「制限緩和」もあって人の移動が広範囲に及ぶはずだから、2週間後、コロナの感染状況がどうなっているか、3密対策を続けながら注視する必要がある。 

2020年9月20日日曜日

「敬老会開催中止のお知らせ」

        
 あした(9月21日)は敬老の日、あさっては秋分の日――。それでカレンダーの数字が日曜日から3日間赤いわけだ。敬老の日は「9月15日」、が体にしみこんでしまった人間には、平成15(2003)年、ハッピーマンデーによる9月第3月曜日への変更がいまだにしっくりこない。

 しかし、土曜日を含めて4連休、前後に有給休暇をとればまとまった休みになる。春の「ゴールデンウイーク」に次ぐ、秋の「シルバーウイーク」と呼ばれるゆえんだ。

シルバーウイークを利用して、北欧に住む同級生の病気見舞いを兼ねて、仲間数人で還暦記念の海外修学旅行を敢行したのは同21(2009)年だった。

 もう11年がたつ。その年の大みそかに、拙ブログで北欧旅行を振り返っている。旅行に行く前の8月、日本では総選挙が行われ、野党の民主党が圧勝した。鳩山由紀夫氏が首相になった直後だったこともあって、同級生一家を通じて実感した北欧の「高福祉・高負担」政策について触れている。

与野党交代とは違うが、日本の首相が交代したばかりの今、やはり北欧型の政策に希望をみいだしたくなる。大みそかのブログから2点ほどを。

――「高福祉・高負担」をなぜ北欧の人々が受け入れたのか、「見・聞・読」で少し分かってきた。日本の政権交代も、北欧の視点で見ると、そんなに不思議なことではない。時代がそれを求めるようになったのだ。自民党が負けたのでもなく、民主党が勝ったのでもない。時代が勝ったのだ。(その後の展開をみると、この解釈は間違っていたようだ)

自然景観としてはノルウェーのフィヨルドに強い印象を受けた。いや、圧倒的な力で胸に迫ってきた。かの国の国民的文学者でノーベル文学賞受賞者のビョルンソンが、ゲイランゲルフィヨルドについて言っている。「ゲイランゲルには牧師は要らない。フィヨルドが神の言葉を語るから」。まさしくそのようなことを、世界自然遺産のネーロイフィヨルドから感じたのだった。(フィヨルドへはもう一度行ってみたい、そんな思いが今もある)――

さて、それから12年目に入ろうという2020年秋の現実は――。金曜日(9月18日)、市役所から情報保護シール付きのはがきが届いた。用件は三つ。「敬老会開催中止のお知らせ」と「敬老記念品の受取りについて」、シールの裏面には「スパリゾートハワイアンズによる敬老祝いの御案内」とあった=写真。

要は、コロナ問題を考慮し、高齢者への感染拡大を防ぐため、今年は敬老会とハワイアンズへの敬老招待を中止する、敬老記念品はレトルトの「フラ女将カレー」で、これは予定通り支給する、というものだった。

「カレーはもらえるのね」。カミサンが自分あてのはがきを見てつぶやく。敬老会にも、ハワイアンズの敬老招待にも行ったことはない。が、せっかくのプレゼントだ、カレーだけはラトブ内にあるいわき駅前市民サービスセンターへ行ってもらってこようと思う。

スウェーデンの同級生は亡くなったが、「高福祉・高負担」のおかげで、医療費や老後の暮らしを心配しなくて済んだ。子どももいったん就職したあと、勉強しなおすために大学に入った。学費も心配しなくていい。(スウェーデンはやり直しがきく社会だ)

地域社会と向き合い、深部に横たわる問題を知るにつけ、「自助」が政治の前面に出てくる今の日本では、生きにくさを感じる人がさらに増えるのではないか――そんな思いが募る。

2020年9月19日土曜日

ナラ枯れの木の幹

                    
 私がいわきのナラ枯れに気づいたのは月遅れ盆の入り、夏井川渓谷の隠居へ出かけたときだった。平地から駆け上がり、これから渓谷に入るというあたりで、森がところどころ“茶髪”になっていた。驚いた。急にそうなったようだ。

以来、1カ月余――。車で出かけるときには、視界に入る範囲で丘や山の様子をチェックするようにしている。

平を軸にしていうと、神谷~夏井川渓谷~三和・差塩(さいそ)~同・下市萱~好間のルート、義弟を乗せて出かけた内郷・労災病院前のバイパス近辺、鎌田から河口までの夏井川の堤防から見える丘陵群、海岸道路、四倉・八茎の山中、楢葉町・木戸川までの山麓線(県道いわき浪江線)沿い、楢葉~四倉の国道6号沿いなどだ。

 特に被害が集中しているのは、高崎から江田までの渓谷下流部だった。右岸・塩田地区は“茶髪”が連続している。県道小野四倉線が走る左岸も被害があるのだろうが、がけや木々に遮られてよくわからない。V字谷だから、鳥はもちろん、虫たちも両岸の森を行き来するのは簡単だろう。

 県道そばの大木も何本か葉が枯れていた。9月11日の早朝、渓谷の隠居へ秋ナスを摘みに行った帰り、谷側にあるクヌギと思われる大木の幹を観察した=写真。

ナラ枯れは、カシノナガキクイムシ(通称・カシナガ)が“犯人”だ。カシナガがコナラやクヌギ、ミズナラ、シイ、カシなどの樹木に孔(あな)をあけ、雌の「菌嚢(きんのう)」から植えつけられたナラ菌が繁殖し、幼虫がこれをえさにしてさらに掘削を続け、木くずを外に排出する。

集合フェロモンに誘引されて多数の成虫が集中的に同じ木に穿入(せんにゅう)し、産卵・ふ化した結果、木の通水機能が失われて、あっという間に枯死するのだという。

枯れた渓谷のクヌギは集中攻撃を受けたことを物語るように、上から下まで樹皮が木くずでまだらに白っぽくなっていた。

撮影データを拡大すると、白い木くずのところどころに小さな黒点がある。これが、カシナガが開けた孔? もっと近づいてつぶさに観察すれば、いろんなことがわかるのだろうが、素人には写真を撮るのが精いっぱいだ。

ネットには研究者の論考もアップされている。二井一禎京都大名誉教授の「ナラ類の萎凋病(ナラ枯れ)をめぐる生物関係」が、そのメカニズムに詳しい。

先に書いたことを具体的にいうと――。最初、雄が飛来し、宿主樹木に短い孔道を掘って、集合フェロモンを出す。すると、一斉に穿孔加害がおきる。

雄は孔の入り口で雌と交尾し、雌が辺材へと孔を掘り始めると、孔の入り口付近に陣取り、外敵の侵入を防ぐ。孔道壁に産みつけられた卵がかえり、終齢幼虫が掘削作業を始めると、雌は孔掘りをやめる。掘削くず(木くず)は雄の待つ孔道入り口まで運ばれ、捨てられる……。

なかなか巧妙な仕組みというか、高度な連係プレーではないか。この論考に出合って、カシナガの生態が少しみえてきた。

2020年9月18日金曜日

八茎巡検・余話

                    
   主に日鉄の八茎鉱山跡を巡り、それに合わせて資料をあさったせいか、すっかり「ヤグキ目」になっている。

前の日曜日(9月6日)にいわき市消防本部の4階会議室で、平地区自主防災組織リーダー研修会が開かれた。平消防署が主催した。台風19号がいわき市を襲ってから11カ月。台風シーズンを迎えて、消防から当時の救助活動状況が報告された。

想定最大規模降雨量を「70年に一度」から「1000年に一度」とした洪水ハザードマップ改訂版が、先日、夏井川水系の全戸に配布された。その改訂ポイントもおさらいした。

たまたま会議室を見回したら、奥の壁面に、朱色の屋根と黄色地に赤みを帯びた壁の大きな建物の絵が掛かっていた=写真上1。建物は山の斜面にいくつも連結して立っている。スペインかどこかの山中にある城塞(じょうさい)都市、といっても通用するような洋風の構造物だ。背景の山は近い。その上に広がる空の色も建物の壁の色に似る。一日の労働の終わり、夕焼けに染まる安息の時を表現したのだろうか。

休憩時間に入って、近くにいた若い消防職員に尋ねる。ヤグキ目には、建物は菖蒲平(しょうぶだいら)にあった日鉄の八茎鉱業所で、作者は消防本部経験者(市職員OB)のHさんではないか。「そうですか、自分たちはまったく知らないのです」。それはしかたがない。でも私のなかでは直観的に、市美展市長賞受賞者のHさんとHさんの別の建物の絵が思い浮かんだ。

後日、消防OBの知人から別件で電話がかかってきた。ちょうどいい機会だ。消防本部4階会議室に飾ってある横長の絵について聞くと、図星だった。「ずいぶんデフォルメされてるけどね」。八茎関係の資料をもらったり、図書館から本を借りたりして建物の写真を見ていた人間にも、それはわかる。

手元に若い知人から送られてきた八茎鉱業所の写真のコピーがある=写真上2(建物を中心にトリミングした)。それに比べると、建物がだいぶ簡略化されて描かれている。

現実の風景とだいぶ違う、といっても意味はない。現実は現実、絵画は絵画。画家としてのHさんの心象こそ尊重されるべきだろう。

それはそれとして、デフォルメされたこの絵からでさえ、八茎の鉱山が炭田同様、日本の近代化(都市化と工業化)を支え、担ってきた――そんな歴史の光彩、ダイナミズムを感じ取ることができる。

ちょっと前まで、四倉の町からほんの少し離れた山奥に一大鉱業拠点があった。山道を行くと、突如、赤い屋根と白い壁の建物群が出現する。そのこと自体に人々は度肝を抜かれたのではないか。

今は跡形もない。道路沿いにフェンスが張り巡らされ、立ち入りが禁止されている。大事なのは、「記録」という歴史の落ち葉が積み重なって、どのくらい豊かな腐葉土=「知層」ができているか、だ。

2020年9月17日木曜日

朝ドラ「エール」再開

        
 朝ドラ「エール」の本放送が、月曜日(9月14日)に再開された。福島民報=写真=によると、今回は最終回が11月27日、翌28日(土曜日)に最終週の総集編を放送して番組が終わる。通常は9月末で終了し、10月から新しい朝ドラに替わるのだが、コロナ問題の影響で収録が中断され、2カ月半ほど再放送でしのいだ。

朝ドラが始まる前、キャストが発表され、主役の作曲家古山裕一(モデルは福島市出身の古関裕而)が窪田正孝と知って、あまりにも地味すぎないか――そう思ったものだった。ドラマが始まり、子役から窪田に代わった当初も、その印象は変わらなかった。

ところが、4月が過ぎ、5月に入ると……。地味な顔も、内気な主人公の性格も、そのまま受け入れられるようになった。違和感がすっかり消えていた。

「エール」は、福島市がゆかりの地。同じ福島県内だから、準「ご当地」ドラマのようにとらえているうちに違和感がほぐれたか。それもあるが、毎朝15分間見続けて、主人公が隣組の人間のように思えてきた――実は、これが一番の理由ではなかったか。

3年前の「ひよっこ」(2017年4~9月)は、「奥茨城村」出身の谷田部みね子が主人公だった。みね子が高校を卒業して同じ村の仲間2人と一緒に、集団就職列車で上京する。同じ車両に、いわきの小名浜中学校を卒業した青天目澄子(なばためすみこ)がいた(役名はすぐ出てくるのだが、俳優の名前がなかなか思い出せない)。

独りポツンと座っている澄子にみね子が声をかける。と、就職先が同じ東京のトランジスタラジオ工場だった。そこからがぜん、「ひよっこ」も準「ご当地」ものになった。半年間、みね子や澄子になじんだこともあってか、今もテレビで顔を見ると、背後霊のようにみね子が、澄子が思い浮かぶ。

「北の国から」で知られる脚本家倉本聰さんが、エッセー集『テレビの国から』(産経新聞出版)で、私が朝ドラに感じたことを業界の内側の目で指摘している。

「NHKの連続テレビ小説から、なぜスターが生まれやすいのかといえば、長く見ていると不思議なもので、たとえ芝居がうまくなくても、何かしら良さが見つかって、魅力的に感じられるからです。それは若手に限らず、ベテランも同じ。『この人いいな』『なんか気になるな』と親しみが沸いてくる。それが全8話ぐらいだと、じっくり見る前に終わってしまう」

 なるほど。毎朝15分でも、半年も向き合っていると、なにかしら魅力やいいところが見えてくる、それで親しみがわいてくる――そういうことだったのかと、納得がいった。「エール」では、古山裕一の優しさ、誠実さ、芯の強さなども関係して、窪田正孝がだんだん魅力的になってきたのだろう。

これからは「戦時歌謡」を書き続け、戦後は平和を希求する歌で大ヒットを飛ばす主人公の光と影、理想と現実の葛藤が織り込まれるにちがいない。そこにこそ、このドラマのいわく言い難い味がある、と私は思っている。

 わが家では、朝ドラを見るのは私だけ。カミサンはその時間、なにやかにややっている。「朝ドラどころじゃないわ」。そういわれそうだが、これからはカミサンの耳にもなじんでいる歌謡曲が続々と登場する。それがまたこちらの脳みそを刺激する。