2020年10月12日月曜日

浅川藤一の「殉職之碑」

                                   
 元巨人軍投手江川卓の「ファミリーヒストリー」(NHK)で、古河好間炭鉱の採炭指導夫・浅川藤一の「殉職之碑」が取り上げられた。いわきの炭鉱に精通している人はともかく、われわれ一般の市民には知られていない碑だ。

 好間の菊竹山で開墾生活を始めた詩人三野混沌(吉野義也)と結婚し、家業と養育に「血汗」を流した吉野せいは、晩年、短編集『洟をたらした神』を出す。同著は昭和50(1975)年、田村俊子賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。

 なかに「ダムのかげ」がある。炭鉱の坑内で出水事故が起きる。採炭指導夫の「尾作新八」は同僚を助けるために避難を知らせるベルを鳴らし続け、ひとり帰らぬ人となる。私は、『洟をたらした神』の注釈づくりをしているなかで、尾作新八のモデルは浅川藤一、という確信を得たので、そのことを、『洟をたらした神』をテーマにした市民講座でしゃべったり、拙ブログで書いたりしている。

「ファミリーヒストリー」で、江川の母親が生まれたばかりで浅川の養女になり、なったとたんに浅川が殉職したため実家に復籍したこと、浅川の「殉職之碑」があることが紹介されたときには、想像もしなかったできごと・つながりに仰天した。

ぜひ、碑を見たい。同じように、碑に注目した若い仲間のM君がいる。拓本をとりたい――。M君のネットワークのなかで土地を所有する会社と連絡が取れ、きのう(10月11日)、課長さんの案内で碑の前に立った。拓本の許可ももらった(社有地のため、ふだんは立ち入りが禁止されている)。

碑は目測で高さ2.5メートル前後、幅1メートル強、厚さ17センチくらいの御影石だ=写真上。当時は、炭鉱の施設が軒を並べるはじっこに碑が建立されたのだろうが、閉山から何十年もたつ今、周りはすっかり雑木林に変わってしまった。

コナラ、クヌギ、リョウブ、エゴノキらしい樹肌の若い木が見られる。少し離れた空中にはアケビの実が生(な)っている。ガビチョウが近くに来て鳴いた。碑の周りはきれいに刈り払われていたが、下生えのササは2メートル前後に伸びている。案内されないと碑にはたどり着けない、そんなヤブと林の中にある。

碑と対面したあとは、M君が拓本をとるのを見物した。台風14号と秋雨前線の影響で土曜日(10月10日)は終日、雨。翌日曜日のきのうは曇天。M君は晴れていれば、湿拓・乾拓両方をやるつもりだったらしいが、乾拓だけになった。

碑文が乾いた画仙紙に白く写し出される=写真下。碑文の内容と解釈は後日に回すが、浅川の最後の様子が、いわば当事者である会社の責任者の文章から浮き彫りになってくる。「千古本炭礦ノ守護ニ任セラレル」というくだりには、複雑な気持ちになった。

画仙紙を張ること4回、約2時間。最後の文字を写し取り、紙をはがすのと同時に、小雨が降り出した。なんというタイミング! 「浅川藤一さんが雨を遮ってくれていたんだ」とM君。

坑内で出水事故が起きたのは昭和4(1929)年8月、碑が建立されたのは、それから5年半後の昭和10(1935)年2月。最後に刻まれた所長の肩書から、炭鉱は、正式には「古河石炭鑛業株式會社好間鑛業所」という名前だったことがわかる。

図書館のホームページで、昭和10年2月の常磐毎日新聞を見たが、碑建立の記事はなかった。あとでまた、ほかの地域新聞をチェックしようと思う。

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