2021年1月31日日曜日

猫がマタタビを好むワケ

                     
「猫にまたたび」ということわざがある。非常に好きなもの、あるいはそれを与えたら効果が著しいことのたとえに使われる。

 マタタビの枝葉を猫に与えると、顔をすりつけたり、体をこすりつけたりする。のどをゴロゴロ鳴らす猫もいる。そのワケを岩手大や京都大(別の記事では名古屋大も)の研究チームが解明した。「蚊よけ」のため、というのが「結論」だ。

 新聞=写真=によると、マタタビに含まれている成分の一つ、ネペタラクトールに猫が反応した。この成分は蚊を寄せ付けない効果を持つ。研究チームは「マタタビ反応は寄生虫や病気を運ぶ蚊から身を守る重要な行動」と結論付けた。しかし、「ネコがマタタビで酔ったようになる陶酔状態の関連性はわかっていない」という。

 10年前、つまりは東日本大震災がおきたとき、わが家に猫が3匹いた。よぼよぼの「チャー」と若く元気な「レン」の茶トラ雄2匹、それにターキッシュアンゴラの雑種らしい雌猫「さくら」だ。さくらは不妊手術のせいか、ぶくぶく太ってしまった。

ほんとうに「猫にまたたび」なのか、山からマタタビの枝葉を採って来て確かめたことがある。チャーとレンは反応したが、さくらは見向きもしなかった。

最初の記録は震災前の2009年6月中旬。チャーがのどを鳴らして恍惚感にひたった。以来、マタタビ反応が面白くて、ときどき採って来ては与えた。

マタタビの葉を花瓶に生けたとき、レンが葉をむしゃむしゃ食べ始めたのには驚いた。猫の食生活がキャットフード一辺倒になってなにかが狂い出し、マタタビの匂いだけではあきたらずに、より強い刺激を求めて葉を食べるようになった? いや、ストレスがたまっていたので精神安定剤の代わりに服用した? 若い雄猫の行動にはいろいろ考えさせられた。

次の記録は4年後の2013年7月。そのレンでさえ、マタタビの葉にそっぽを向く。さくらもクンクンにおいをかいだあと、やはりそっぽを向いた。「猫にまたたび」どころか、ただの「猫とマタタビ」だった。

ネコ科の動物は繁みに潜んで獲物が来るのを待つ。繁みには蚊が多い。蚊よけ効果のあるマタタビの枝葉を顔にこすりつけるワケはわかった。しかし、媚薬に酔ったようになるワケを、ほんとうは知りたいのだ。

「猫にまたたび」は、人間が猫を観察して気づいたことだろう。人間がたわむれに与えたというよりは、猫がどこからかくわえて来て、人間の前でゴロニャン、ゴロニャンとやった。枝葉の正体はとみれば、マタタビだった――というわけで、「猫にまたたび」という言葉が社会化されたのではないか。

 そこからの想像だが――。野生の猫が獲物を狙うために「蚊よけ」としてスリスリやったのが、ペット化する過程で実用性が薄れ、しかし獲物を狩るという本能を失わないために、「陶酔」感を伴うスリスリに代わっていった、なんてことはないか。進化か退化かはともかくとして。

 マタタビの蚊よけ効果がニュースになって1週間後、今度は化粧品に使われるシリコーンオイルに蚊よけ効果があることを、花王の研究チームが実験で確かめた、という記事が載った。こうなると、「猫にまたたび、人間にシリコーンオイル」か。いや、「猫にまたたび、人間にもまたたび」でもいい。

 蚊にチクリとやられた最初の日と最後の日を記録している人間としては、読み捨てにできない記事だった。

2021年1月30日土曜日

民家でクラスター

                     
  車ですぐのインド料理店へ米の配達を兼ねて、カレーを買いに行った。はやりの言葉でいうとテイクアウトだ。

 昼前に店を開け、ランチタイムが終わると、夕方5時に再開するまでひと休みする。これがいつもの営業形態だが、4時半ごろ行くと、店の前に看板が立っていた=写真。「ただ今/お持ちかえりのみ/ご提供中です」。店内での食事はストップしているのだという。1月いっぱいはそうするような話だった。

 なぜ? 私もそうだが、コロナが近づいている、という危機感がある。コロナはウイルスだから目には見えない。が、発生が急増し、知っている場所でクラスターがおきるなど、感染が次第に可視化されつつある。そうした状況を踏まえて、テイクアウトだけに切り替えたのだろう。

 いわき市は昭和41(1965)年に14市町村が合併して誕生した。当時は日本一の広域都市だった。小豆島を除いた香川県とほぼ同じ、つまりは市なのに小さな県並みの広さだ。

 大きくは、夏井川流域(北部)と鮫川流域(南部)に分けられる。北部の人間にとって、南部の出来事はどこか遠いまちの話にしか思えない。しかし北部の出来事は、それがコロナなら即・自分の問題につながる。

 コロナ感染に関する行政の発表は、「40代」など大まかな年齢・職業・性別にとどまる。一方で感染者が発生した場合、デマや中傷を避けるためにみずから明らかにする事業所もある。北部では、マルト四倉店、道の駅よつくら港がそうだった。

広野町へラーメンを食べに行った帰り、再開した道の駅へ寄って川内村でつくられた梅干しを買った。まちのスーパーで売っている梅干しは口当たりをよくするためなのか、甘酸っぱい。これがいやで、塩・赤ジソだけで鮮やかな赤紫色にする昔からの梅干しを買うようにしている。今は道の駅でしかお目にかかれない。

年が明けると、今度は同じ四倉の訪問看護ステーションでクラスターが発生した。場所を知っている、勤めている人間も知っている、ということもあって、一気にコロナ禍が身近になった。インド料理店がテイクアウトだけにしたのも同じような思いからだろう。

カレーをテイクアウトした晩、チビリチビリやりながら夕刊を見ていたら、「民家でクラスター発生』という見出しが飛び込んできた。20代の男女7人が家で会食したら、5人が感染した。

コロナ問題が深刻化して以来、2カ月にいっぺん、街で開いていた仲間数人の飲み会を、「家飲み」に切り替えた。2月の開催をどうするか、仲間と相談して1カ月延期を決めたばかりだった。

感染するリスクはできるだけ少なくする。それだけの話だが、万一感染してあらぬうわさやデマをふりまかれてもよろしくない。二重の意味合いがあって2月の「民家飲み会」は見送った。

2021年1月29日金曜日

企画展「映画館の記憶」

        
 いわき市立草野心平記念文学館で企画展「映画館の記憶――聚楽館(しゅうらくかん)をめぐって」が開かれている=写真(図録)。3月28日まで。

 4年前の平成29(2017)年、平のティーワンビルがオープン15周年を迎えた。同ビルに入居する市生涯学習プラザは4階エレベーターホールとロビーの壁面を利用して、開館15周年の特別展「写真に見るいわきの映画館――娯楽の王様映画の記憶」を開いた。同ビルは、聚楽館の跡地を利用して建てられた。この特別展も見ているので、聚楽館の資料や写真を中心に構成した文学館の企画展には既視感があった。

 文学館でやる以上は「いわきの映画館と文学」といったコーナーもあるのかと思ったが、それはなかった。ここは自分で組み立てて(前にブログで書いたことを再構成して)、外野から勝手に企画展を補充することにする。

 吉野せいの短編に「赭(あか)い畑」がある。戦前・戦中、悪名をとどろかせた“特高”が登場する。せいの夫・混沌(吉野義也)が理由もなく特高に連行される。そんな息苦しい時代の物語だ。

 なかに、夫婦の友人である地元の女性教師が「子供を全部混沌に押しつけて私を誘い、夜道を往復二里、町まで歩いて『西部戦線異状なし』を見て来た」話が出てくる。せいの作品集『洟をたらした神』のなかでは唯一、せいが時間をつくって娯楽に興じる、なにかホッとさせられるエピソードだ。

『西部戦線異状なし』は1929年、第一次世界大戦の敗戦国ドイツ出身の作家、エーリヒ・マリア・レマルクが発表し、世界的なベストセラーになった反戦小説だ。この作品を、翌年、アメリカのユニヴァーサル社が映画化した。

せいの作品の末尾には「昭和十年秋のこと」とある。これに引っぱられて遠回りしたが、図書館のホームページでデジタル化された常磐毎日新聞をめくっているうちに、昭和6(1931)年9月10日付(9日夕刊)の「平館」(掲載図録写真の一番上、右側)の広告に出合った。

広告には、「西部戦線異状なし」の上映は10日から4日間限り、料金は20銭とある。「エリック・マルア・ルマルケ 世界的名作の映画化」。人名表記が今と違うところがいかにも戦前の新聞広告らしい。

 次女梨花を亡くしてから8カ月余りたった時期だ。せいはまだ32歳で、新聞や雑誌の懸賞小説にも応募している。自分の創作のために、よりよい刺激を求めて女性教師の誘いにのったのだろう。9月10~13日で土曜日は12日だった。女性教師の仕事を考えれば、おそらくこの日の晩、2人は出かけた。

 広告を探索している過程でもう一つ、ソ連映画「アジアの嵐」が同6年3月9~11日、平館で上映されたのを知る。予告記事が同8日付に載っていた。

 活字になったせいの日記に「梨花鎮魂」がある。次女梨花の死の1カ月後、昭和6年1月30日に書き起こされ、4月28日まで書き続けられた、せいの赤裸々な内面の記録だ。

 3月10日の項に「渡辺さんへ顔出しして墓参に行って来た。梅の花真盛りであった。混沌ぶどう剪定。夕方から『アジアの嵐』を見に出平したが、見ないで帰って来た(略)」とある。「出平」したのはせいか、混沌か。

 せいは前々日、義兄方の祝儀で小名浜へ泊まり込みで出かけた。家を留守にしたばかりでまた夕方、映画を見に出かけるなんてことが、幼い子を抱えた母親にできただろうか。出かけたのは混沌だったのだろう。

平館は大正6年(1917)、活動写真専門の劇場として平・南町に開館した。近年は割烹金田が駅前から跡地に移転して営業していたが、震災後は海鮮四季工房きむらやいわき店に替わった。

2021年1月28日木曜日

コロナワクチンの共同開発企業

        
 ニュースでは報じられていたかもしれない。が、作家多和田葉子さんの「ベルリン通信」(1月26日付朝日新聞)を読むまで全く知らなかった。米国の製薬大手、ファイザー社とコロナワクチンの共同開発をしたのは、ドイツのベンチャー企業、バイオンテック社だ。同社を創業・運営しているのはトルコ系移民の夫妻だという。

 多和田さんはシュピーゲル誌を引用して夫妻を紹介する。妻のテュレジの父親は1970年代にイスタンブールからドイツへ移って、地方の小病院で外科医として働いた。夫のシャヒンは4歳のとき、トルコからドイツへ移住した。父親は自動車工場で働き、家族を養った。シャヒンは医者になり、ドイツで生まれ育った医学生のテュレジと出会い、結婚する。

 2人は2001年に最初の会社を、7年後にマインツという小さな町にバイオンテック社を起業し、癌(がん)や感染症の治療に取り組んできた。

 ここからは、私が40歳前後のころの話――。外国、特にトルコからドイツへの移民が多いことを知る。その流れは、第二次世界大戦後の1960年代に始まる。ドイツ国内の労働者不足を補うためだった。

 外国人労働者の受け入れには、難民受け入れがそうであるように、いろいろ問題が派生する。外国人労働者に対する敵意がある。外国人労働者もまた疎外感や差別感を抱く。

 そのころ、外国のルポルタージュやコラム集を集中して読んだ。そのなかの1冊、ギュンター・ヴァルラフ/マサコ・シェーンエック訳『最底辺 トルコ人に変身して見た祖国・西ドイツ』(岩波書店、1987年)には衝撃を受けた。そのとき書いた文章を拙著『みみずのつぶやき』から引用する=写真。

                 ※

日本語に翻訳されている外国のノンフィクションは、大半がアメリカの作品といってよいだろう。ヨーロッパ、特にドイツの作品となると、そんなわけでめったにお目にかかれない。ところが、それにすごいものがある。

故ミヒァエル・ホルツァハの『これもドイツだ』。犬を連れ、1マルクも持たずに<自分自身>を探して街中をさまよい歩いた、半年間・2500キロの旅の記録である。文無しの放浪者に扮した彼の目に、祖国ドイツはどう映ったか。豊かな福祉国家の谷間、底辺からの報告がアメリカの軽いコラムを読み慣れた脳みそにショックを与える。

そして、ギュンター・ヴァルラフの暴露ルポ『最底辺』。カツラと色つきコンタクトレンズでトルコ人に変身した彼を待ち受けていたのは、民主主義国家ドイツの人種差別と人間軽視だった。ドイツ経済(広くヨーロッパ経済)をどん底で支える移民労働者たちの世界に潜入、先進社会の繁栄の影を鋭くえぐった問題作として、ドイツでは超ベストセラーになったという。

飽食ニッポン――その最底辺に忍び寄る同じ影。とりあえず、明治中期の下層社会ルポ、松原岩五郎著『最暗黒の東京』で、闇を見る目を鍛えてもいいだろう。ボブ・グリーンなんかは忘れて。(1988年12月9日)

                 ※

あそこで、ここで。コロナ禍が現実味を帯びて近づいている。だからこそというべきか、巣ごもりを続けている身には、移民夫妻の物語が闇を照らす灯台のように思われた。

宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言った。移民であろうとなかろうと、世界全体の幸福のために優秀な頭脳を使う、という点では、夫妻は賢治と同じ星を見ている。

きのう(1月27日)朝のテレビは、日本時間の同日早朝、世界のコロナ感染者が1億人を超えたことを伝えた。日本でも遅まきながら、ファイザー社など3社が供給するワクチンを確保し、接種を始める見通しがついた。

2021年1月27日水曜日

台風19号 53 11年ぶりの伐採

                     
 夏井川の下流左岸、平中神谷地区の河川敷で行われていた除草・伐採作業が終わった。するとすぐ対岸、平山崎地区でも河川敷の竹やヤナギの伐採が始まった=写真上1。

山崎地区では前にも、県道移設を兼ねて大がかりな河川改修工事が行われた。当時の様子はどうだったか。新聞だといちいち紙をめくって記事を探さないといけないが、ブログだとキーワード検索で簡単に確かめられる。こういうときにはデジタル技術のありがたさを痛感する。

 ブログを始めたのは平成20(2008)年2月下旬。当時は朝晩、首からカメラをぶら下げて夏井川の堤防を散歩した。花・雲・畑・けがをして残留したハクチョウ・その世話をするおじさん……。これはと思ったら、即シャッターを切った。その絵解きを兼ねて、毎日、ブログを書いた。それが今は自分にとっての“備忘録”兼“データベース”になっている。

 ブログで最初に河川工事を取り上げたのは同20年9月20日。対岸の小高い丘に浄土宗の名刹・専称寺がある。そのふもと、同じ浄土宗の古刹・如来寺までの間で拡幅工事が行われた。県道甲塚古墳線を田んぼの中に付け替え、古い道路を河川敷にするという大改造計画だった。
 下流、国道6号(旧常磐バイパス)の夏井川橋下で行われた土砂除去工事と連動していたようだ。地元住民によると、そこで除去した土砂を新しい道路の盛り土に利用した。

 次に取り上げたのは同年11月27日。対岸の堤防へ出かけ、工事の標識板を確かめた。3枚あって、1つは「(夏井川筋)河川拡幅工事」(平成20年3月21日~11月27日)、残る2つには「(夏井川筋)広域基幹河川改修工事」(平成20年8月18日~21年2月10日)と書かれていた。

 それから1年ちょっとあとの同22(2010)年1月30日のブログには、こうある。

しばらく鳴りをひそめていた重機がうなり出した。場所は如来寺の近辺。ショベルカーが掘り起こした土砂をダンプカーが積んで運ぶ。前年秋にはひっきりなしに行われていた作業だったが、いつの間にかダンプカーの姿が消え、重機もそこにあるだけ、という状態で越年した。その工事が1月下旬に再開された=写真上2(ちょうど11年前の1月27日朝に撮影した。場所は写真上1とほぼ同じ)。

同年3月21日には、塩と中神谷の境で行われていた護岸工事にも触れている。

それから11年――。山崎の河川敷には大水のたびに土砂が堆積し、草が茂り、ヤナギがわんさと生えた。こちらの中神谷でも土砂がたまり続けた。川には中島ができた。

温暖化の影響もあって、大雨になると川は大蛇のようにのたうち回る。仮に拡幅・改良したときの姿を維持しようとすれば、定期的な除草・伐採・土砂除去が必要になる。問屋はしかし、そう簡単には卸してくれない。草木が茂り、土砂がたまったところへ、おととし(2019年)秋、台風19号が襲来した。

 自分のブログを読み返して思うのは、河川敷の自然の回復力はすさまじい、ということだ。ヤナギは特にすごい。岸辺に林立し、やがて大木化する。その大木の列が消えてみると、それはそれで寂しいものだ。

自然だけの世界ではただの「洪水」も、人間のいる世界では「水害」になる。自然と人間の綱引きはこれからも続く。

2021年1月26日火曜日

車のほぐし方

                     
  1月24日の日曜日は、朝起きると、降ってはいないが地面が濡れていた。鉛色の雲が空を覆っている。雨模様だ。降ったりやんだりの一日になるのか――

日曜日は夏井川渓谷の隠居で過ごす。今は厳寒期、行ってもやることはない。天気も悪い。前の晩、「寒いから行きたくない」とカミサンが珍しくごねた。「では、文学館だけにするか」。いわき市立草野心平記念文学館で、土曜日(1月23日)から企画展「映画館の記憶――聚楽館をめぐって」が開かれている(3月28日まで)。それを見たら街へ戻って買い物をすることにした。

神谷~中塩~平窪と田んぼの中の道を行く。湯ノ岳~三大明神山~二ツ石山~鶴石山=写真、閼伽井岳~水石山、二ツ箭山がうっすらと雪化粧をしていた。冬から春先、南岸低気圧が東進すると、「サンシャインいわき」も雪に見舞われることがある。この冬2回目の“雪山”だ。

しかし、この雪は太陽が顔を出すとすぐ消える。その程度の薄化粧だが、東北というよりは北関東の気候帯、それも海に近い平地の人間には、どこか北国の山のように映る。

文学館は小高い丘の上にある。道路にも周りにも雪はなかった。街に戻って図書館へ行き、イトーヨーカドー平店へ寄った。

この大型店は2月28日で閉店する。各テナントが売り尽くしセールを繰り広げていた。店に併設している立体駐車場が込んでいたのはそのためだろう。いつもは2階か3階に止められるのだが、5階まで上がった。用をすませて車に戻り、エンジンをかけようとしたら……。差し込んだキーが動かない。ペダルも踏み込めない。

 10日ほど前にも駅前のラトブ地下駐車場で同じ“症状”がおきた。このときはどういうわけか、いったん外へ出てまた中に入ると、キーが回ってエンジンがかかった。それをヨーカドーでも試したが、ウンでもスーでもない。

 車のことならディーラーのTクンに聞くのが一番。この四半世紀、車の購入も車検もすべてTクンにまかせている。「車のホームドクター」だ。電話をすると、たまたま休日で家にいた。ヨーカドーまでは近い。すぐ向かうという。

 Tクンがやって来て運転席に乗り込み、キーと一緒にハンドルを動かすと、一発でエンジンがかかった。「ハンドルがロックされていた」という。

どういうこと? あとで検索してわかった。自動車の盗難を防ぐための仕組みで、キーを抜いたときにたまたまステアリングロック(ハンドルロック)の誤作動がおきた。要は、車がかたまってしまった。

そうなると、エンジンをかけるためにキーを差し込んでも動かない。それを解除するには、キーと一緒にハンドルを左右に動かすことだという。なるほど。ドアをいくら開け閉めしてもキーは動かないはずだ。

ラトブでもヨーカドーでも駐車の仕方には癖が出る。3台止まれるスペースがあれば、柱のすぐ近くに止める。そのとき、タイヤが真っすぐになっていないことが多い。そういう運転習性も関係するのだろう。

硬直した車のほぐし方を実地に学んだ、というよりは無知すぎた。街なかだからまだよかったものの、渓谷の隠居で同じ“症状”になったら、連絡することさえためらわれる。

師走に車検を受けたが、Tクンからは「そろそろですね」ともいわれている。車も人も年を取ったか。

2021年1月25日月曜日

翼を持った隣人たち

                      
 子どもが小さかったときには、日曜日になると平の石森山へ、夏井川の下流域へと、撮影を兼ねてバードウオッチングに出かけたものだ。今は庭に来る野鳥や、車で出かけたときに目の前に現れた野鳥をパチリとやるだけだ。

 野鳥は翼を持った隣人。ごみ集積所の袋を破って生ごみを食い散らかすカラスはやっかいだが、あらかたは人間と一定の距離を保ってつきあってくれる。鳥から見ると、自分たちの領域を侵食し、脅かす存在が人間ということになるのだろうが。

 私のフィールドは自宅の庭のほかに、①夏井川渓谷の隠居の庭②夏井川下流の堤防③その他(車で出かけた先々)――だ。鳥は自由に空を移動する。どこにでも現れ、どこにでも行く。その意味では、鳥の世界のほんの一部を見ているだけにすぎない。

 それでも、チリも積もればなんとやら、ピンボケを含めて撮影した鳥の写真はけっこうな枚数になる。そのなかから去年(2020年)10月以降に撮影した5枚を紹介する。

 最初はエナガ=写真上1(1月10日=夏井川渓谷)。隠居の庭に小群で現れた。たまたま望遠を車に積んでいた。それで撮った。

 次はオオバン=写真上2(1月6日=滑津川河口、いわき新舞子ハイツそば)。鹿島ブックセンターへ行くのに県道小名浜四倉線を利用した。同川を渡ったとき、水面が凍っていたように感じた。後日確かめに行ったら、ただの光の反射だった。そのとき1羽、真っ黒なオオバンが泳いでいた。

 3枚目は冬鳥のジョウビタキ雌=写真上3(1月3日、平・下高久)。学校の後輩を訪ねて、“ドラム缶焚き火”を楽しんでいたとき、マキの山の上に現れた。マキを割ると中に幼虫がひそんでいることがある。それを狙っているのだという。

 メジロはこのごろ、よく庭に現れる。茶の間から望遠で撮ったのがこれ=写真上4(12月17日)。しぐさがおもしろい。目の周りの白いリングもかわいい。

 最後はウミウの一群=写真上5(10月2日)。夕方、夏井川の堤防を通っていたとき、前方を海へと向かっていた。「く」の字になって飛んでいる姿が珍しくて、普通のカメラで撮ったのを拡大した。

2021年1月24日日曜日

在宅ボランティア

        
 コロナ禍はボランティア活動にも影響している。夫婦で関係しているシャプラニール=市民による海外協力の会も例外ではない。

 バングラデシュやネパールでの支援活動の一助に、国内で「ステナイ生活」を展開している。未使用切手や書き損じはがき、使用済み切手を送ってもらい、活動に役立てる。2018年度の場合は約2万件・5800万円に達した。活動資金調達の面で重要なプロジェクトになっているという。

 換金するまでには、東京事務所に届いた荷物を開封し、仕分けする作業がある。それをボランティアが支えている。しかし、新型コロナウイルスによる「緊急事態宣言」下、ボランティアの数の確保が難しくなった。職員だけでは追いつかない。各地域の連絡会に作業をお願いできないか――そんな内容のメールが届いた。

いわき連絡会としては、コロナがなくても東京へ手伝いに行くのは難しい。しかし、「在宅ボランティア」ならできる。カミサンがすぐ電話して、未使用切手を送ってもらった=写真上1。

 やり方は簡単だ。碁盤目状になっているA3台紙がある。切手を50枚張ることができる。それに同じ金額の切手を張っていけばいい。液体のりで張るか、切手裏面を水に濡らして張るか、それだけを注意する。台紙が足りないようなら、それをコピーして使えばいい。余った切手は返送すればいい。

 わが家では、切手張りには慣れている。2カ月に1回、いわき地域学會の市民講座の案内(手紙ないしはがき)を出す。宛て名のラベル張りのほかに、手紙の場合は切手張りがある。だいたいカミサンがやってくれる。その延長で台紙に張っていけばいい。

私が「在宅ワーク」をしているそばで、たちまち台紙1枚を残して張り終えた。きょう(1月24日)はこれから、残りを張るためにコンビニで台紙をコピーしてくる。

 年が明けたこの時期は「ステナイ生活」の仕分けの繁忙期だ。作業協力お願いのメールが届いた翌日、福島民報の「情報ナビTime」(1月21日付)にシャプラの記事が載った=写真上2。「余ったはがき 働く少女支援へ寄付を」という見出しで、書き損じの年賀はがきや余った年賀はがきが海外支援に生かされることを紹介している。

 いわき連絡会を知っている友人・知人は、年間を通じて使用済み切手や書き損じはがきを届けてくれる。つい先日も、「あとで届けます」と元職場の後輩から連絡があった。

シャプラは東日本大震災が起きるとすぐいわきへ緊急支援に入った。その後も5年間にわたって交流スペース「ぶらっと」を運営し、生活~心のケアも含めて支援活動を続けた。その恩に報いなければ、というほどのことでもない。在宅ボランティアはすぐできる。こういうボランティアのかたち・回路がもっと前からあってもよかった。そうすれば、もっと早くから協力できたのに、とは思う。

2021年1月23日土曜日

「浦島太郎人生」

                     
 ゴキブリを大事にすることが自然環境を守ることにつながる――。アクアマリンふくしまの安部義孝館長はそう強調する。身近な生きものたちとの共生へと暮らしの質を切り替えよう、ということだろう。

安部さんはいわき地域学會の顧問でもある。同学會の第359回市民講座が1週間前の1月16日、市文化センター大会議室で開かれた。「私のフィッシュストーリー・浦島太郎人生」と題して、安部さんが話した=写真。会員ら25人が受講した。

 安部さんは最初、上野動物園水族館に勤めた。のちに葛西臨海水族園、アクアマリンふくしまの立ち上げにかかわる。自身の「水族館人生」を振り返りながら、コロナ禍を機に自然とのつきあい方を見直そう、と訴えた。そのなかで強調したのが冒頭のゴキブリ愛護論だ。

 ゴキブリは「害虫」のレッテルが張られている。家でゴキブリを見つけると、すぐ「キャッ」となって「シュッ」とやる。農薬や殺虫剤使用がめぐりめぐって環境汚染を招く。安部さんは一時、多摩動物公園昆虫館に籍を置いた。そのときの経験から、ゴキブリがかわいく見えるようにならないといけない、とも語った。

 安部さんの話を聴きながら、昔、カミサンが言っていた、アメリカだったかの“ことわざ”を思い出した。「わが家はウジがわくほど不潔ではないが、ハエが一匹もいないほど清潔でもない」。清潔志向にも限度がある。ゴキブリとの共生から始まるくらいの“ゆるさ”が人間にはあっていい、ということなのだろう。

 当日配られたレジュメから、コロナ問題を語った部分を要約する。「なぜ地球規模で『新型』コロナウイルスが蔓延したのか。環境水族館の考えでは、生物環境の劣化が根底にある。ウイルスを抑制する生物多様性の劣化が地球規模で進行したにちがいない」

 人間は自然を収奪し、快適で便利な暮らしを追い求めてきた。その結果、地球温暖化が加速し、風水害が多発するようになった。それに加えて、2011年には地震と津波の激甚災害が起きた。安部さんは新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)も自然災害だという。

 私はキノコに引かれるものだから、このごろは野菜の種子よりもキノコの胞子から世界を、いのちを見るようにしないといけない――そう思うことがある。安部さんはそれをさらに進めて、ウイルスのレベルから考えよう、といっているようだ。

レジュメの続き――。「環境水族館」アクアマリンふくしまは、「海・生命の誕生」の映像から始まる。46億年前の地球誕生、38億年前の生命誕生、つまりはウイルスと細胞と原子生物の映像だ。

「私たちは、このコロナウイルスの蔓延は、38億年前の先カンブリア紀の生命誕生にかかわる災害であることを再認識しよう」。それが「浦島太郎人生」を生きた安部さんの目下の結論だ。

そういうスケールでモノゴトを考えれば、台所に現れるゴキブリだってかわいい、と思う人間になれるかもしれない。蚊取り線香でいえば、せき込むほど強烈な香りを発するものでなくていい。蚊を殺す必要はない、遠ざけるだけでいいのだ。

2021年1月22日金曜日

「図書館の自由」とは

        
 いわき市立図書館のホームページに「郷土資料のページ」がある。きのう(1月21日)見たら、最初の画面の下部に次のような文章が追加されていた=写真上1。

要約する。①デジタル資料の公開の在り方を検討しているので、一部資料の公開を休止している②令和2年度内をめどに方針を決める③公開を休止している資料は、「いわき民報」と「常磐毎日新聞」④これらの資料は総合図書館の「商用データベースコーナー」での閲覧が可能――。やっと「お知らせ」が載ったか、という思いだ。

私は、詩人山村暮鳥が種をまいたいわきの詩風土に興味がある。同時に、暮鳥ネットワークと交差しながら独自の文学を生み出した、作家吉野せいの『洟をたらした神』の注釈づくりをライフワークにしている。戦前の物語は「郷土資料のページ」にある「磐城時報」や「磐城新聞」などの地域新聞を、戦後の物語は同じくデジタル化されたいわき民報を利用することで調べを進めてきた。

在宅でいわき民報と常磐毎日が読めない=利用できないとなったら、「調べる楽しみ」と「知る喜び」を奪われた、も同然。しかも、公開を停止したことに対してなんの説明もない。

ガマンができなくなって、「公共の利益」を損ねていないか、市民の「知る権利」をおびやかしていないか、ということをブログに書いた。するとコメントが入って、一覧画面の上にある検索欄に紙名 昭和28”(数字は半角英数)」などと入力すると、いわき民報、常磐毎日新聞の消えたページが検索できることを教えられた。

 しかし、このウラワザを使っても、ある時期のいわき民報は利用できないことがわかった。いよいよ疑心が膨らんだ。図書館問題に詳しい後輩のコメントを受けて、図書館から『図書館の自由を求めて』や『「読む自由」と図書館活動』『表現の自由と「図書館の自由」』を借りて読んだ=写真上2。

「図書館の自由」宣言がある。冒頭に「図書館は、基本的な人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することを、もっとも重要な任務とする」とうたう。続いて「この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する」として、①図書館は資料収集の自由を有する②図書館は資料提供の自由を有する③図書館は利用者の秘密を守る④図書館はすべての検閲に反対する――ことを掲げる。

 コトは明白だ。②と④に抵触する、図書館が自分で自分の首を絞めた、と私には思われた。それもこれも説明責任を果たさないからだ、というほかない。

前に、いわき民報の1面コラム「片隅抄」にあった「ある不都合」に触れながら、「『不都合』の想像はつく。(略)図書館はしかし、1本の木を切るのに森の木を全部切ってしまった、角を矯(た)めて牛を殺してしまった――と批判されてもしかたがないのではないか」と書いた。

結論からいうと、その気持ちは変わらない。ボタンを掛け違えた。さらに、著作権者のいわき民報社に何の相談もなかった。今度のやり方については弁解の余地はない。「猛省している」と人づてに聞いた。

確かに、時代によって課題は変わる。たとえば、デジタル化された新聞や縮刷版と「忘れられる権利」との兼ね合いをどうするか。これなどはきわめて現代的な問題だろう。臭いものにふた――ではなく、そこまで踏み込んで議論を深めてもらいたい。そうでないと、今回の教訓は、図書館のスタッフが替わるごとに忘れられ、継承されなくなってしまうからだ。

繰り返すが、図書館がきちんと説明責任を果たしていれば、なんの問題もなかったのだ。

2021年1月21日木曜日

月曜日の風景

                      
 日曜日(1月17日)は広野町の中華料理店へ出かけたので、夏井川渓谷の隠居へ行くのは翌日、月曜日になった。

午前中は隠居の畑が凍っているから、生ごみは埋められない。午後2時過ぎに家を出た。当然ながら、学校も職場も工事現場も動いている。ダンプカーが行き来していた。帰りには、下校中の小学生とすれ違った。月曜日の風景は、日曜日とは全く違っている。月曜日だからこその驚きもあった。

冬場、隠居に着くといつもそうするように、台所の流しと洗面所をチェックした。ん? 流しの角に水たまりができている。すぐ上には温水器。水道の蛇口をひねると水が出た。それはいい。そこに接続してある温水器の元栓を開けたら、温水器から水が噴き出した。あわてて元栓をしぼる。すると、温水器から水がドボドボ漏れた=写真上1。

水抜きをしたつもりだったが……。中途半端だった、水が残っていた。10日の日曜日朝、隠居の室温は氷点下8度。前の日の土曜日は、平地のわが家でも風呂場の水道管が凍って水が出なかった。このときにやられたのだろう。

10日は隠居の水道全体が凍っていたから、温水器の凍結・破損には気づかなかった。その後、少し寒気がゆるんだために渓流の氷も融けた。温水器の氷も融けた。それで18日に見たときには流しが濡れていたのだ。

ちょっと手を抜くと、すぐこうなる。夜、「水道のホームドクター」(同級生)に電話をする。「温水器はガス屋さんだな、水道屋は扱えない」。前にも同じケースで電話をしたことを思い出す。そうだった。隠居の燃料はプロパンガスで、同じ渓谷の川前の燃料店に頼んでいる。あとで連絡しよう。

隠居の帰りにJR磐越東線江田駅前の夏井川渓谷キャンプ場に目をやった。月曜日なのに、テントが4張り、焚き火の煙まで立ち昇っている=写真上2。間もなく夕方。そのまま野営するのだろうか。

帰宅して少したつと、客人がやって来た。前日の日曜日に訪れた広野町の中華料理店主だった。新規開店を祝ってラーメンを食べに行った。ちょっとばかりお祝いの品も置いてきた。そのお礼なのだろう。前の夜につくったという「えびちり」をいただいた=写真上3。そこで開業に至る経緯や内郷から通っていることを聞いた。火曜日が定休日と思っていたが、月曜日だったか。あるいは今週だけそうしたか。

人も自然も絶えず動いている。同じことの繰り返しのようでいながら、微妙に変化し、生成している。月曜日は日曜日とは違う――特にそのことを実感する一日になった。

2021年1月20日水曜日

安野絵本が9冊

         
 画家の安野光雅さんが去年(2020年)のクリスマスイブに亡くなった。94歳だった。

故義伯父の家に子どもの絵本をまとめて置いてある。安野さんの絵本を探したら9冊あった=写真。

動物が隠れている『もりのえほん』(1977年)が好きで、時々手に取る。安野さんお得意の“だまし絵”に挑むのだが、しょぼしょぼした目では毎回、探しきれずに終わる。

最初は、子どもが興味を持てばいいくらいの気持ちで絵本を集めた。地域の子どもにも貸し出した。そのうち、大人も夢中になる。いや、その逆もある。大人が読んで楽しかったので、子どもたちにも読ませよう。そうやっていつの間にか絵本が、児童図書が増えた。安野絵本は特にその磁力が強い。

発行順にいうと、『かずのだんご』(1972年)『みずをかぞえる』(同)『ABCの本 へそまがりのアルファベット』(1974年)『かぞえてみよう』(1975年)など。

さらに、『旅の絵本Ⅱ』(1978年)『魔法使いのあいうえお』(1980年)『壺の中』(1982年)『まるいちきゅうのまるいちにち』(1985年=共作)と続く。

上の子が生まれたのは1973年だから、子どものための絵本も、大人の楽しみのための絵本もまじっている、ということになる。

馬車が主力だった時代と現代が交差するイタリアを描いた『旅の絵本Ⅱ』には、禁断の果実を摘んでエデンの園を追放されたアダムとイヴらしいカップルや、磔(はりつけ)にされたイエス・キリストが小さく描き込まれている。

漫然と見ていたのではわからない、聖書のストーリーが絵本にはめこまれているのではないか。あるいは、なにかがどこかに隠されているのではないか。手にするたびにそんな気持ちで絵を眺めるのだが、作者の遊び心=いたずら心は簡単には見破れない。

『ABCの本』は、「ペンローズの三角形」を応用した「A」から始まる。ペンローズとは、去年、ノーベル物理学賞を受賞した一人、ロジャー・ペンローズ(1931年~)、その人。余技が「だまし絵」で、「ペンローズの三角形」のほかに、「ペンローズの階段」が有名だ。

彼のだまし絵がマウリッツ・エッシャー(1898~1972年)を刺激した。エッシャーの「上昇と下降」はペンローズの階段を、「滝」はペンローズの三角形を応用したものだと、知人から教わった。安野さんはエッシャーの影響を受けた。それで自作にも「ペンローズの三角形」を取り入れたのだろう。

話は変わるが、夏井川渓谷は晩春から初夏にかけて、森全体がパステルカラーに染まる。早緑(さみどり)色、臙脂(えんじ)色、黄色、薄茶色……。木の芽が吹く時期、私はいつも安野絵本に描かれた山野を思い浮かべる。

安野さんの遊び心は文章、語法にも及ぶ。森毅編著『キノコの不思議――「大地の贈り物」を100%楽しむ法』(カッパサイエンス)のなかで、「わらいたけ」(笑い茸)と「なきたけ」(泣き茸)について書いている。

ワライタケは、オオワライタケも含めて幻覚や笑いを引き起こす毒キノコだが、ナキタケは安野さんが創案したものだ。ワライタケがあるならナキタケがあってもいい――そんな対語的発想、遊び心で架空のキノコを生み出したのだろう。

自分の著書のタイトル『語前語後』(朝日新聞出版)も、「午前午後」をもじったものにちがいない。そのなかで書いている。「ある日、テレビを見ていて、すごくおもしろい番組に出会った。忘れないために書き留めたが、『ピタゴラスイッチ』というもので、以前評判になった『セサミ・ストリート』よりうんといい、とわたしは思う」

ピタゴラスイッチと安野光雅の共通性は、と考えて、ハタと思った。エッシャー的感覚だ。時折、安野絵本に還(かえ)りたくなるのもこれだった。要は、まじめ・不まじめを超えた、「非まじめ」の領域で繰り広げられる遊び心。たった今それに気づいて、一気に木の芽が吹いたような気分になっている。

2021年1月19日火曜日

「阪神・淡路大震災」か「阪神大震災」か

                            
   阪神・淡路大震災から26年がたった。それを報じる朝日新聞の見出しに「おやっ」と思った。1月17日付1面で「阪神・淡路大震災」=写真、社会面で「阪神大震災」を使っている。記事本文にも両方の記述がみられる。

朝日は、いつ阪神大震災から阪神・淡路大震災に表記を替えたのか、あるいは混用を始めたのか。

前は「阪神大震災」一本だった。なぜ阪神・淡路大震災でないのかと、ずっと不満だった。東日本大震災から10カ月がたった平成24(2012)年、阪神・淡路大震災の節目の報道を受けて書いた1月18日付拙ブログを再掲する。

                        ※

阪神・淡路大震災から17年。きのう(1月17日)も朝5時過ぎには起きた。5時46分、神戸からのテレビ映像に合わせて黙祷をする。「1月17日午前5時46分」、そして昨年の「3月11日午後2時46分」。奇しくも同じ「46分」ではないか。そんな感慨にふけりながら、未明に届いた新聞を開く。

ん? 前にも経験した違和感がよみがえる。3・11の直後以来かもしれない。NHKは「阪神・淡路大震災」で通している。が、新聞は「阪神大震災」だ。全国紙の朝日も、共同通信のニュース配信を受ける地方紙の福島民報も。

なぜ「淡路」を省略するのか。「阪神大震災」では淡路島に被害がなかったことになってしまう。それで、政府は「阪神・淡路大震災」としたはずではないか。

インターネットでそのへんのことを探ってみる。気象庁は地震名として「兵庫県南部地震」と名づけた。政府は災害名として「阪神・淡路大震災」という呼称を決めた。明石市は、阪神でも淡路でもないから「兵庫県南部地震」を使用している、ということも知った。明石市のHPを開いたら、そうだった。

では、マスメディアは? 全国紙は押しなべて「阪神大震災」だ。地方紙は共同配信だから推して知るべし。こうなったら、神戸新聞の呼称に従おう。HPをのぞくと、ちゃんと「阪神・淡路大震災」でやっている。神戸新聞も、明石市も被災地の新聞であり、自治体だ。その判断を大事にしたい。

「阪神大震災」を使うマスメディアは、簡単にいえば本社機能が被災現場から遠いことを反映している。その遠さは、東日本大震災でも顕著になってきた。

被災者に寄り添うといいながらも、言論は空中を行き交い、「地上戦」も縮小する――被災地がだんだんしぼんで消えつつある紙面展開になってきた。全国紙では毎日の<希望新聞>だけだ、被災者と実質的につながっている、と感じられるのは。

変な「メディア考」になってしまったが、これはマスメディアへの期待の反映でもある。膨大なカネと人間を投入してニュースを取りに行っているのは、マスメディア以外にないのだ。ああ、つまらない――ではなく、いいぞ、いいぞ、と拍手をおくりたくなるような記事を読みたいものだ。

                       ※

冒頭の話に戻る。朝日はいつから阪神・淡路大震災も使い始めたのか。ネットで調べると、2018年にはまだ阪神大震災だが、前年の2017年には両方の記述がみられる。私は、神戸新聞に倣うべきだと思っているので、やがて阪神・淡路大震災に統一するなら歓迎したい。読売、毎日、産経、日経、共同、時事通信は阪神大震災のままだった。淡路抜きがどうにも解せない。

ついでながら原発事故を含む「東日本大震災」は災害名、地震名は「東北地方太平洋沖地震」だ。