2021年1月3日日曜日

「東日本大震災から10年」

                     
 元日付の新聞は1年を見通したうえで企画・特集が組まれる。古巣のいわき民報は、元日付の3部で「HOPE」との合同企画「東日本大震災から10年。――あのとき、あれから――」を展開した=写真。

 サーファーたちの組織である「いわき市海岸保全を考える会」が、2011年3月11日から2カ月後に写真集『HOPE』を、さらに1年半後に証言集『HOPE2』を発行した。合同企画は、証言者の「あのとき」を『HOPE2』から採り、いわき民報の紙面で「あれから」を伝える試み、とみた。

 いわき出身の若い社会学者・開沼博さんをはじめ、FMいわきでおなじみのフリーパーソナリティ・ベティさん、JR湯本駅前のコンビニ店長・小林千賀子さん、モーターパラグライダーの空撮家・酒井英治さんら9人が登場する。

 それぞれの震災体験は異なる。それを、本人の原稿ないしインタビューを通して、「私」という一人称の語り口で統一しているところに工夫がうかがえる。

ジャーナリズムの手法としては、記者が話を聞いて組み立てる「物語」(ストーリー)ではなく、本人の「語り」(ナラティブ)にゆだねることで生まれる、読者との「バイブレーション」(共振)をめざしている。つまりは、共感のジャーナリズム。私も次のようなつぶやきに共感した。

「人々の個別の経験は、それぞれが世界史に残りうる価値をもっている。(略)それを後世に残すのは経験を記憶する者とそうではない者との交流に他ならない」(開沼)

「『忘れる』ってことは救われることでもあると思いますが、『忘れられる』ってことは救われないことだと思う」(酒井)

「(震災直後、FMのスタジオに入って)伝えなくてはいけないというより、伝われ、伝われ、伝われと、ずっと念仏のように心の中で唱えていた」(ベティ)

開沼さんがいうように、東日本大震災と原発事故は世界史上、あるいは人類史上かつてない惨事だった。「だった」と書いても、まだ10年しかたっていない。震災復興のメドはついたかもしれないが、事故を起こした原発の廃炉作業は遅々として進まない。

福島県内、それも浜通り沿岸を中心とした被災者は、細部にわたる大災害の記憶は薄れても、おびただしい命と財産の喪失を心に刻んだままだ(と私は思っている)。そうした存在の危機から遠いところにある人々の無関心こそが次の大災害を準備する、という思いもまたふくらむ。

『HOPE2』についていえば、東洋大学国際地域学科の子島(ねじま)ゼミの学生が英訳版を発行した。東日本大震災と原発事故に遭遇したいわき市民や双葉郡の人々、ボランティアなどの証言を、原発計画を進めるアジアの国々をはじめとする世界に発信しよう、という思いが込められている。学生が現地学習を始めたころ、『HOPE』の編集者とともに少しかかわった。そのやりとりの全てが忘れられない思い出だ。

そして、これが私にとっての「あのとき」のひとつなのだが――。震災5日目の3月15日、息子一家、義妹一家とともに、原発避難をした。真夜中、へとへとになって西郷村の那須甲子青少年自然の家にたどり着いた。そのときだったか、次の日だったか。4歳の孫(現在中1)が言ったことばが忘れられない。「チキュウガオコッタンダヨ」

誰が教えたわけでもない。が、白い防護服を着た人たちから放射線量のチェックを受けた。そういったもろもろの異常を感知したのだろう。私にとっては、この孫のナラティブが、「あれから」の原点になっている。

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