2025年7月31日木曜日

オニユリの夏

                                
   わが家の近くに故義伯父の家がある。飲み仲間が来たときには「ゲストハウス」になる。

  先日、故義伯父の家に行くと、庭にオレンジ色の花が咲いていた=写真。夏の花のオニユリである。

まだ7月下旬。オニユリは8月に満開になる。そんな印象が強いのは、月遅れ盆のころ、新舞子海岸の道路沿いがこの花でオレンジ色に染まるからだろう。

ユリの花は、まずはヤマユリ。隠居のある夏井川渓谷では、近年開花が早まり、7月中旬には「ヤマユリ街道」になる。今年(2025年)もそうだった。

それが終わると、今度は新舞子海岸のオニユリである。月遅れ盆の前に海岸道路を通ったとき、枯れ松が伐採されて草原化した跡地にオニユリが群生していた。

そのときの驚きをつづったブログ(2017年8月13日付)がある。それを要約・再掲する。

――わが家から新舞子海岸までは車で5~10分ほどだ。夏井川河口をはさんで黒松の防風林が伸びている、といいたいところだが……。

 大津波が押し寄せたとき、松林は後背地の家や田畑を守る“クッション”になった。しかし、代償も大きかった。

地中にしみこんだ塩分の浸透圧によって松が根っこから脱水症状を起こした。やがて、遠目にも茶髪が増え、密林が疎林に変わって、とこどころ草原化した。その草原でオニユリの花が満開になった。

震災の年の夏にも海岸の波消しブロックからオニユリが花茎を伸ばし、花を咲かせていた。もともと自生していたのだろう。

 オニユリはむかごで増える。黒松林の草原化という生態変化が、むかごの芽生えを容易にし、群生に拍車をかけたのだろうか。

 オニユリの群生地を観光資源ととらえている石川県の海岸では、オニユリを保護するために官民で草刈り活動をしているという。

いっそ新舞子海岸の一角をオニユリの群生地として保護・保全してはどうか。アマチュアカメラマンがウデを競う新名所になるかもしれない――。

さて、故義伯父の家のオニユリである。去年も、一昨年も咲いていた、という記憶がない。カミサンに聞くと、植えてはいないという。なんと自然に根づいたのだ。

それでは海岸のオニユリを見に行くか、なんて思っているところに、7月30日朝、カムチャツカ半島沖で巨大地震が発生し、津波警報が発表された。

NHKは、始まって間もない「あさイチ」を中断して津波放送に切り替えた。あのときと同じである。

14年前の3月11日午後。激しい揺れがおさまるとテレビをつけた記憶が生々しくよみがえる。

今度もテレビをつけっぱなしにしていた。鉄道が運休し、国道6号が部分的に通行止めになった。新舞子の海岸道路もそうだったろう。津波はいわきにも来たが、被害はなかったようだ。なによりである。

2025年7月30日水曜日

行方不明になった本

                                           
   特別整理期間が終わって総合図書館が再開されると、その前から借りていた本を返し、すぐまた2回に分けて10冊近くを借りた(15冊まで借りられる)。

その返却日がきたので、バッグに詰めて返したあと、また本を借りた。すると、自動貸出処理ができなかった。未返却の本があるらしい。

 窓口で確かめると、谷本真由美『世界のニュースを日本人は何も知らない6――超混沌時代の最前線と裏側」(ワニブックスPLUS新書、2024年)=写真=が、期限を過ぎても未返却だった。

 返却する本は前の晩、貸出期限票で確かめながらバッグに詰めた。確かにそのとき、『世界の――』も入れた。

 いったん帰宅して座卓の周りに積み上げた資料の間から本を探したが、ない。やはり返しているはずだ。

 1時間後、また図書館へ行った。返却本の中に『世界の――」があるかどうか、確かめてもらうためだ。書架にはなかった。図書館にも、やはりない。返っていないという。

「どこかにまぎれ込んでいると思うので、確かめてみてください。こちらも探してはみますが」

 ゆううつな気分で帰宅し、今度は寝床の周りを調べた。すると……。丸まったタオルケットの中から『世界の――』が出てきた。

それでわかった。昼だけでなく夜も暑くて寝苦しいので、寝床では掛け布団の代わりにタオルケット1枚ですませている。

睡眠薬代わりにバッグから『世界の――』を取り出し、寝床で読み始めたらすぐ眠りに落ちたのだ。

本を持ったまま手をタオルケットにのせ、目が覚めたら本だけがそれに隠れてしまったのだろう。

『世界の――』を探しているうちに、寝床のそばから2、3冊、別の本が出てきた。それは枕元におきっぱなしにした。

すると、カミサンがその1冊を手にして、「どこにあったの?」と聞く。カミサンも移動図書館の未返却本を探していた。が、敷き布団と電気スタンドの間に隠れて見えなかったようだ。

翌日、移動図書館のスタッフと連絡が取れた。最寄りの公民館に返せばいい、という(そういう返却システムも整備されている)。

それよりなにより、私は借りた本をすぐ返したい。カミサンも、公民館よりは図書館に返したい、というので、すぐ総合図書館へ出かけ、それぞれ本を返した。

どちらも睡眠薬代わりに寝床に持ち込み、寝落ちして本のありかを見失ったのが原因だった。

たぶん布団の周りには、敷布やタオルケットなどで見えなくなっているものがあるにちがいない。本の栞(しおり)は、探したら何枚か出てくるのではないか。

2025年7月29日火曜日

糠漬けスイカ


 わが家にとっては「高級品」のメロンが、カミサンの知り合いから届いた。お福分けである。

 カットして冷やしたのを食べた。みずみずしくて甘い。そして、やわらかい。室温30度超の茶の間で味わうメロンは、「一服」どころか「一福」の涼である。

食べ残した果皮を見て、カミサンが言う。「糠漬けにしたら」。そうだ、その手もあった。

ウリ科の果菜は漬物になる。トウガンもウリ科の植物だ。漢字では「冬瓜」と書く。「冬まで持つ瓜」ということなのだろうが、旬は夏である。

 ある年の夏の終わり、旧知の篤農家を訪ねると、帰りにおみやげをもらった。なかにトウガンがあった。

トウガンは煮物が定番。それでも食べきれない。皮をむき、種とワタを取って糠漬けにした。

白く硬い生のトウガンが、乳酸菌と塩分のはたらきによって一夜でしんなりした。かすかだがメロンのような甘みがある。まずまずの味だった。

たまたま東京からやって来た客人に、初めて漬けたトウガンを酒のつまみとして出したら、うなった。

秋のハヤトウリも、小ぶりなものは皮をむかずに四つ割りにして、糠床に入れる。24時間、36時間と漬けておく時間を変えた。どちらも漬かっていたが、36時間の方がご飯のおかずにはよさそうだった。

メロンもキュウリと同じウリ科の植物だ。外果皮は硬くて食べられない。が、内側の果皮は糠漬けにできる。

包丁で外果皮をカットし、甘みが薄く、硬くなって食べ残した内果皮を糠床に入れる。

食べ残しだから内果皮は薄い。すぐ漬かる。昼前に入れたら、夕方には取り出す。ご飯のおかずというよりは酒のつまみだ。

口に入れやすいサイズにカットして冷凍した=写真上1。晩酌をやりながら、これをつつく。メロンの甘さと、内果皮のほどよい硬さ、そして塩味が口の中で絡み合う。ま、量も少ないし、珍しい「冷果」には違いない。

数日後、今度は別ルートで小玉のスイカが届いた。これも冷やして食べた。赤く熟した中身と外果皮の間に白い内果皮がある。小玉なのでそう厚くはない。1センチあるかないかだ。

これも外の皮をカットして、糠床に入れた。夜になっていたので、翌朝6時に取り出し、メロンと同じように一口大にカットして、冷蔵庫に入れた。これも晩酌のつまみにした=写真上2。

スイカのほのかな甘さ、くせのない歯ざわり。硬いものが食べづらくなった年寄りにはむいている。メロン同様、こちらも量は少ない。やはり珍味だ。

   ま、畑の肥やしになるか、食べきるか、どちらかだから、たまには遊びとして酒のつまみをつくってみた、という話。 

2025年7月28日月曜日

最後の刺し身

                                
 毎週日曜日の夕方、刺し身を買いに行った魚屋さんが7月25日で店を閉めた。持病の腰痛が悪化しての廃業である。

 若いときはしょっちゅう職場から飲み屋へ直行し、何軒かはしごをした。30代に入って間もないある日、やはり街で飲み会があった。そこから若い仲間と家の近所のスナックに流れて二次会をやった。

そのとき出てきたカツ刺しがすこぶるうまかった。「こんな新鮮な刺し身をどこから手に入れるの?」

草野の魚屋さんからだという。ママさんは車に乗らない。電話で注文すると届けてくれる。

魚屋さんは車で5分ほどの国道沿いにある。知らなかった。で、それから日曜日の魚屋さん通いが始まる。

夏場はむろんカツ刺しオンリーだ。秋になるとこれにサンマが加わり、カツオが切れる冬場はタコ、イカ、イワシ、メジマグロなど、あるもので盛り合わせにしてもらう。

先代はいうまでもない。跡を継いだ息子さんからも、その都度、魚や海の話を聞いた。魚はもちろんだが、海のことはまったくわからない。毎回、蒙(もう)を啓(ひら)かれた。

2代目は、私よりは一回り若い。こちらがヨボヨボになっても、日曜日は刺し身が食べられる。

それを全く疑わなかった。が、7月最初の日曜日、6日。「7月25日で店を閉めます」。突然の廃業宣告だった。

日曜日は、あと2回、13日と20日しかない。20日は参院選の投票管理者になった。カツ刺しを食べるのは前日の19日土曜日か、翌日の月曜「海の日」だ。

迷っているところへ、若い仲間から連絡があった。7月25日に飲みに行く。それで決まった。

選挙の前の晩、一日早く刺し身を買いに行き、併せて最終日の7月25日にも刺し身を盛り付けてもらうことにした。

この40年間、東京方面から友人が泊まりに来たり、仲間が飲みに来たりすると、決まって「カツオパーティー」を開いた。

そもそもは子どもが小さかったころ、わが家に何家族も集まって「カツオパーティー」を開いたのが始まりだった。

大人はアルコールと談論を、子どもたちも食事をして、庭で線香花火をやったり、店の文庫(地域図書館)で絵本を読んだりして楽しんだ。

画家や陶芸家、新聞記者や市職員、カミサンのPTA仲間と子どもたち、総勢20~30人が居間と庭にあふれた。

それもこれも、新鮮なカツ刺しが手に入るからだった。その意味では、25日はそこからの刺し身の食べ納め、ラストパーティーだ。

前日にマイ皿2枚を持っていき、当日夕方4時半には刺し身を受け取り、40年余のお礼を述べる。

客人が「ゲストハウス」(近所の故義伯父の家)に到着するとすぐ、いわれを説明して冷蔵庫から刺し身を出した。

カツオをメーンに、スズキのあぶり、ヒラメとえんがわ、タコが盛り付けてあった=写真。

これを2皿。この魚屋さんの刺し身はもう終わり。いささかの感傷も加わり、しみじみと楽しい気分になる。昵懇にしていた魚屋さんの店じまいにふさわしい、いい飲み会だった。

2025年7月26日土曜日

「先に行って待ってるわ」

                                 
 漫画家やなせたかしと妻の暢(のぶ)をモデルにした朝ドラ「あんぱん」は、梯久美子の評伝『やなせたかしの生涯』(文春文庫、2025年)を読んだこともあって、つい実人生を重ねながら見てしまう。

 最近また、この本を読み返している。茶の間の座いすのわきに資料を積み重ねて置いている。その上に読みかけの本が10冊余り。その中の1冊で、朝ドラと連動するようにピンポイントで本を開く。

 7月第4週は、「若松のぶ」が「柳井嵩(たかし)」より先に上京するところから始まった。

 2人とも「高知新報」の記者である。「のぶ」の方が少し早く入社した。共に「月刊くじら」の編集部に所属している。

 7月第4週初回、21日。職場で2人きりになった「のぶ」と「嵩」が向かい合う。すると、評伝にある言葉が思い浮かんだ=写真。

「先に行って待ってるわ」。それを言うのはこのシーンしかない。絶対ここで言う。そう思って待ち構えていたら、案の定だった。

正確には高知弁だったような気がするが、この決め台詞にはしびれた。2人は上京して一緒に暮らすようになる。それを暗示する言葉でもある。

「のぶ」の上京からしばらくたって「嵩」も上京するのだが、そのためには「高知新報社」を辞めなくてはならない。大地震でふんぎりがついた。

史実では、1946(昭和21)年12月21日午前4時19分ごろに発生した「昭和南海地震」である。

震源は和歌山県南方沖で、M8.0の巨大地震だった。高知県と徳島県、和歌山県を中心に、死者・行方不明者は1443人、損壊家屋はおよそ4万戸に及んだ。

これは評伝の記述。「まだ夜の明けない四時過ぎに、嵩は激しい揺れで目をさました。だが、野戦重砲兵だった嵩は、ドカン! ドカン! と大地を揺らす砲撃の響きに慣れていた。行軍の経験から、どんな環境でも眠れる体質になっていたこともあり、揺れがおさまったらまた寝てしまった」

同僚記者たちはすぐに出社して取材を始め、「嵩」が職場に到着したころには、もう原稿が出来上がっていた。

自分はジャーナリストとして不適格――。そう悟って嵩は退職することを決め、暢を追って上京する。

 ドラマでは、「のぶ」が上京したと思ったら(21日)、すぐの大地震である(23日)。やがて「嵩」も上京し、再会した「のぶ」に赤いハンドバッグを贈り、同時に愛を告白する。

   それを聞いて「のぶ」が「嵩」に飛びつき、愛を受け入れるところで7月第4週が終わった(25日)。

 ついでにその後の史実を言うと、2人はやがて中目黒の焼け残りのアパートに住むようになる。

いわきにJターンして新聞記者になるまで、私も中目黒の古い木造住宅の2階で間借り生活をしていた。中目黒らしいマチが登場するのかどうか、いよいよ目が離せない。

2025年7月25日金曜日

太陽でやけど

                                  
   滋賀県の小学校で6年生62人が水泳の授業中、尻にやけどを負ったというニュースには仰天した。

プールサイドにマットがある。そこに座っていたら尻が赤くなった。軽いやけどという診断だった。前もって水をまいたそうだが、太陽に熱せられたマットには効果がなかったのだろう。

別の日には、1歳の女の子が滑り台で尻にやけどを負った。そのことを伝えるテレビにまたまたびっくりした。

熱中症だけではない。「危険な暑さ」が至る所にひそんでいる。プールサイドや滑り台での尻のやけどはほんの一例に過ぎない。

若いころ、同業他社の色白の記者が海水浴場を取材し、「日焼け」を超えて、「太陽でやけどした」とこぼしていたことがある。それを思い出した。日焼けもまた、太陽によるやけどにはちがいない。

これもおそらく暑さと長時間の座位がもたらした異変の一つかもしれない。

7月20日、参院選の投票管理者として、近くの小学校体育館に詰めっきりになった。

朝6時半、校庭に出て青空を見上げる。ちぎれ雲が面白かった=写真。この日もまた、山田で最高気温が32.7度と猛烈な暑さになった

投票所の体育館も扉と2階の窓を開け、扇風機を何台もフル回転させたが、午後になると汗がにじんできた。この状態は室温が30度前後になったことを意味する。

扇風機をかけても室温が30度を超える茶の間で「在宅ワーク」をやっている。デジタル温度計の数字と空気の熱、汗のにじみ具合の「3点セット」で、なんとなく暑さのレベルがわかるようになった。それで投票所も30度を超えたのではないかと思った。

パイプいすに座り続けること12時間。その日はなんともなかったが、翌日になると臀部(でんぶ)が少し痛い。

下着のヘリがくっきりと筋になっている。どうもそのへんから痛みが発しているようだ。

次の日もまだかすかに痛みがある。下着のヘリの跡は少し薄れたようだが、元に戻ったわけではない。

「不活発症候群」といってもいいほど、猛暑続きのために家の中ではいつもゴロンと横になっている。

この長年の習慣と老衰で体全体の筋肉の質量が落ちている。ちょっとした段差につまずく。階段を下りるときには手すりをつかむ。

それで、パイプいすに座り続けていると、なにか変調をきたすかもしれない。そう予感して、実は尻当てのクッションを持っていった。助かったが、それでも下着の食い込みが起きた。

さらに、一番鈍感なところだからか、汗ばんでいるのにも気づかない。まさかとは思うが、「あせも」のような症状が併せて出たのかもしれない、

その日から3日目、7月23日にはやっと下着の跡も、痛みも消えた。子どもと年寄りは、皮膚が、筋肉が弱いという点では共通しているのだろうか。

2025年7月24日木曜日

「コウノトリ」その後・下

                                 
   草野心平記念文学館の小さな企画展に刺激されて、心平のコウノトリの詩を読んだ。小さな企画展で紹介された詩は3篇。「幻の鳥の一列」「コウノトリ自身」と、「新年の白鳥」だ。

「幻の鳥の一列」はこのタイトルの「上」で取り上げた。小川の夏井川に飛来したコウノトリの連想から、いわきにも昔はコウノトリが生息していたのではないかと思わせる詩だ。

「コウノトリ自身」はそれと違って、シルクロードのプハラにあるモスクのてっぺんに営巣したコウノトリへの「疑問」をテーマにしている。

まずはこちらの誤読から。作中に出てくる「プハラ」は、「プラハ」の誤植ではないか、最初そう思った。

プラハはチェコの首都。コウノトリといえば、ヨーロッパの鳥と錯覚するのは、テレビの自然番組の影響だろう。

しかし、向こうのそれは「シュバシコウ」といって、アジアのコウノトリよりは一回り小さい種らしい。

そこから誤読をほぐす。プラハではなく、やはりプハラ。ウズベキスタン第2の都市の名前だという。

それを確信したのは、年の若い知り合いがフェイスブックに昔の文章を載せていたからだ。

シルクロードの記事で、ウズベクの都市の名前としてプハラが登場する。で、プラハではなく、やはりプハラだったか、と納得。

さらに図書館から心平の詩集『太陽は東からあがる』(彌生書房、1970年)を借りて、「コウノトリ自身」の詩=写真=を読み、プハラと心平のコウノトリについての疑問がよくわかった。

心平の誕生日は5月12日だ。1968年のその日、心平はウズベキスタンのサマルカンドにいて、作家総会のクラブで数人の文学者から誕生日を祝ってもらった。

その席で心平がこんなことを尋ねる。「どうしてモスクの。あんなすべっこいドームを殊更にえらんで巣をつくるんでしょうねコウノトリってのは。あんなまんまるいてっぺんに枯木を集めて。」

すると、一人の文学者が言った。「それはね。ミスタア・クサアノ。/も一度プハラへ行ってコウノトリ自身にきくんだね。」

どっと笑いが起きたが、コウノトリ自身に聞くことはできない。でも、もう一度行ってコウノトリを見たかった、砂嵐にも揺るがない枯木の巣には「頑丈な合理」があるに違いない――心平はそう思いつつ振り返る。

コウノトリがあちこちのモスクのてっぺんに巣をかけ、「ゆんゆん」と飛んでいるのもいた。

盛んだった昔のシルクロードを、プハラを、そしてコウノトリの今昔に思いを馳せるところで詩は終わる。

今、プハラのモスクにコウノトリはいるのかどうか。ネットで探ると、実際のコウノトリではなく、コウノトリをデザインしたはさみばかりが現れる。現実のコウノトリがすむ環境は、どうも昔とは違っているらしい。

2025年7月23日水曜日

「コウノトリ」その後・上

                                            
 「白鳥おばさん」から残留コハクチョウの近くにコウノトリが飛来したという情報が届いたあと、草野心平記念文学館のホームページにそのコウノトリの写真がアップされた。

 白鳥おばさんと地元に住む文学館の館長氏が、別々にだが偶然、同じ個体を目撃した。文学館ではコウノトリと残留コハクチョウの写真に、草野心平の詩「幻の鳥の一列」「コウノトリ自身」「新年の白鳥」を添えて、小さな企画展を開いている。

 そのことを7月7、15、18日のブログに書いた。これはその続編。というか、書きたいことが次々にわいてくる。

 白鳥おばさんの手紙にコウノトリのスケッチが添えられていた。このスケッチもブログで紹介した。

すると、それを読んだ人が、コウノトリのくちばしはカギ形ではないことを教えてくれたという。後日、スケッチの間違いをわびる手紙が届いた。

年寄りの目にはくちばしが曲がって見えたのかもしれない。くちばしの曲がった絵を描いて送ってしまい、恥ずかしい――そんな内容だった。いえいえ、そんなことはありませんよ。

手紙には、白鳥おばさんのもとに届いたコウノトリの写真(コピー)が同封されていた=写真。6月13日に夏井川左岸、つまり国道399号から撮影した、と記録にある。

写真で見るコウノトリのくちばしは、確かにカギ形ではない。長くてまっすぐだ。そして、黒い。足環も見える。

タンチョウヅルは見たことがない。が、コウノトリと同様、テレビの自然番組ではおなじみだ。コウノトリはタンチョウヅルほど大きくはないが、白と黒の配色などは似ている。

どちらも大きい、ということで本題。写真のコウノトリと、コウノトリをテーマにした心平の「幻の鳥の一列」を読んで考えさせられた。

「うすむらさきむらさきの雪がふり。/極くおだやかにふりつづき。/一羽一羽一羽一羽一羽。//(ここ阿武隈の山脈=やまなみ=に巣でもつくらうといふのだらうか。)/枯枝をくはえたコウノトリの一列が。/一羽一羽一羽次々に。/むらさきの雪のなかから現れてくる。」

阿武隈の山並みが出てくる。ということは、小川あたりの実景を詠んだものにちがいない。

その数は「一羽」が5回繰り返されることから、少なくとも5羽はいたか。しかも、枯れ枝をくわえて飛んでいく。

コウノトリがどこかで営巣している。そう思わせる情景が、かつては小川の里でも見られた、ということなのだろう。これはいわきの野鳥研究史上、「大発見」ではないか。そんなことを思いながら、白鳥おばさんの2回目の手紙を読み終えた。

国道から眼下の「エリー」(残留コハクチョウ)にくず米をまいてやると、大きなコイ12匹が争うようにパクつくという。水面下ではコイも生きるのに必死なのだ。

2025年7月22日火曜日

朝のルーティン

                                 
 朝は起きてご飯を食べるまで、やることが決まっている。まず、茶の間のカーテンとガラス戸を開け、玄関先から新聞を取り込む。風呂をわかす。台所の糠床をかき回す。

 朝風呂に入るのは現役のころからの習慣だ。職場から帰るとすぐ晩酌を始める。酒を飲んだら風呂には入らない。在宅ワークの今も、「風呂より晩酌が先」を守っている。

 そのあとは茶の間に陣取り、新聞折り込みのチラシを数え、パソコンを開いてメールをチェックする。

 月曜日はさらに、家の前にある集積所にごみネットを出す。雨になってもこれは変わらない。

 そして最近は空を見て、晴れていれば庭に止めてある車の運転席と助手席の窓を開ける。

車を乗らない日はまずない。夏場は特にドアを開けた瞬間、熱気に襲われる。それがイヤで始まった朝のルーティンだ。

 車の窓が開いていれば、ヤブカが入り込んで待っている。車に乗り込んだ瞬間、目の前を蚊が飛び回る。

 カミサンが助手席にいれば、すぐうちわで追い払う。チクッとやられる前に風を起こして吹き飛ばすのだ。

先日は、イナゴが運転席に迷い込んでいた=写真。田んぼ道ならともかく、街なかでは放り出すわけにもいかない。

そのまま乗せて用をすませたあと、放っておいたら夕方には姿を消した。車にはえさはない。あきらめて庭へ戻ったか。

車の窓開けは暑さ対策の一つにはちがいない。夕方にはもちろん窓を閉めて、ドアも開けられないようにする。

それはそれとして、7月20日の日曜日は朝のルーティンを一部省略した。7月第3月曜日の「海の日」を含む3連休のど真ん中。参院選の投開票日で、近くの投票所(小学校の体育館)の管理者を仰せつかった。

前夜は早めに寝て、4時には起きた。朝食も早めにとり、6時過ぎには投票所へ行って、スタッフの市職員と顔を合わせた。

夜7時を過ぎると、私ともう1人(立会人=別の行政区の区長)の2人で借り上げタクシーに乗り、開票所の総合体育館まで投票箱(厳重に施錠されている)を運んだ。

ただただパイプいすに座っているだけの12時間。昼のルーティンである、横になっての本読み・昼寝が頭をよぎるものの、むろんそんなことはできない。

日曜日の刺し身は、この「公務」のために一日早く土曜日に買って食べた。魚屋さんは前にも書いたが、7月25日で店を閉める。

その最後の日、若い仲間が遊びに来るので、「刺し身のラストパーティー」を開くことにして、マイ皿2つ分の予約をした。

今度も刺し身は食べきれなかった。投票所へ出向く前、残ったカツ刺しをご飯のおかずにした。一晩たっても鮮度は落ちない。

「40年に及ぶ日曜日夕方の魚屋さん通いは、これで終わりか」。朝6時前、そんな感慨を振り切りながら、「公務」に就いたのだった。

2025年7月19日土曜日

曇天でよかった

                                
 福島県に2回目の熱中症警戒アラートが発表された日(7月18日)、東北南部の梅雨が明けた。

 6月14日に梅雨入りが発表されたものの、しとしとジメジメは長くは続かなかった。いや、猛暑続きだったといってもいい。典型的な「カラ梅雨」だ。

 例年、7月には行政区内の事業所を回って、地区市民体育祭の協賛金をお願いする。

まずは趣意書を届けながらあいさつをする。1週間後、今度は芳名簿を持って集金にお邪魔する(2回訪ねるのは、決裁までに1週間ほどかかる事業所があるからだ)。

 あいさつは9日、集金は16日。つまり、水曜日。週半ばの事業所回りは、前からの慣例でもある。

 私と一緒に回るのは行政区の会計さん。ここ数年、同じコンビでやっているので、待ち合わせ場所と時間は例年通りと決め、資料その他をそろえて当日を待つ。

 去年(2024年)までだと、酷暑で日程を変えるようなことは考えもしなかったが……。今年はどうも暑さの質が違う。そんな不安に襲われた。

 とにかく「カラ梅雨」で危険な暑さが続いている。9日には福島県に今年初めて、熱中症警戒アラートが発表された。

 それを前日の8日に知って、会計さんに「1日順延」を伝えた。大正解だった。9日は危険な暑さ、翌10日は曇天だった(そのことは7月11日のブログに書いた)。

 それから1週間後。天気を気にしながら、水曜日16日を迎えた。雨も覚悟していたが、幸い今度も曇天だった。暑さにやられることもなく、スムーズに集金を終えることができた。

 この10日から16日までの間、曇天のあとに天気は回復して危険な暑さが戻っていた。

13日の日曜日には、ヤマ(夏井川渓谷の隠居)へ行き、ハマ(薄磯・豊間)で昼食をとり、防波堤から海をながめた。海開きを待ちきれずに、人々が海水浴を楽しんでいた=写真。

 実質的には、東北南部はもうずいぶん前に梅雨が明けて、酷暑の夏に入っていたようなものだ。

 たまたま事業所回りの日に限って曇天になった。その偶然を喜びながら、梅雨が明けた18日、会計さんと協賛金・芳名簿・領収書の控えなどをまとめたあと、地区体育協会の事務局である公民館にそれらを届けた。

前にも書いたが、ルーティンだからといって、事前の日程を優先させたら、救急車を呼ぶ騒ぎになったかもしれない。

体育祭は8月最後の日曜日に開催される。市長選があるために9月最初の日曜日から前倒しになった。

時期的にこれでいいのか。温暖化、そして少子高齢化。50年近く前に体育祭が始まったときと、時代は、社会環境は激変している。曲がり角にきていることはまちがいない。

2025年7月18日金曜日

オキナグサ

                                 
 草野心平記念文学館では、長期開催の企画展とは別に、施設内の通路壁面を利用した無料の「小さな企画展」を開いている。7月11日に「コウノトリと帰らない白鳥展」が始まったことを、15日のブログに書いた。

小川町三島地内の夏井川に残留しているコハクチョウと、そこに飛来したコウノトリの写真を展示し、併せて心平の詩を配して、両者が響き合うような効果を出している。

そしてこれは、コウノトリの写真展に先行して開かれた「心平の愛した花々 春の花編」のなかの、オキナグサの話だ(現在はコウノトリ展と同時に、「心平の愛した花々   夏の花編」を開催中)。

 長期開催の企画展「吉村昭と磐城平城」が開幕した翌日曜日(7月6日)、新しい催しとして始まった小さな企画展も見た。そこにオキナグサの詩と写真があった=写真。

 それを見た瞬間、宮沢賢治の童話「おきなぐさ」と、かつては山頂にオキナグサの群落がみられたという矢大臣山が頭に浮かんだ。

 35年前にそのことを書いた文章がある。かつて勤めていたいわき民報で月に1回、「イワキランドの霧」(全9回)と題して、いわきから姿を消したオオカミ、カワウソ、シカなどの生物を取り上げた。

 オキナグサはその3回目で、矢大臣山について聞いた話をベースにしている。それを要約して紹介する。

「うずのしゅげを知ってゐますか。」。賢治の「おきなぐさ」はこの1行から始まる。「うずのしゅげ」はオキナグサのことである。

その作品の概略とオキナグサの生態や形態に触れたあと、矢大臣山から消えたオキナグサについて、次のようにつづっている。

 ――私は野生のオキナグサを見たことがない。かつてそこに生えていたという矢大臣山にのぼった折、明るく開けた頂上の草原に見たのは、ほかの山野草の盗掘跡だった。1980年ごろまでは確かにそこにオキナグサの群落が見られたのだという。

 空に飛び立った銀毛(種)が生き抜く確率は、ほとんどゼロに近いそうだ。死ににゆくようなものだ、とある植物学者はいっている。

そういういのちの哀れさを知ってか知らずか、阿武隈中部の県立自然公園からは、盗掘によってオキナグサが絶滅した――。

 さて、心平の詩では、「上小川村」の「根本」に出てくる。「左うぐひす。/右うぐひす。」のあとに、すぐ「おきなぐさやきんぽうげ咲く。/細い橇道。」と続く。そこは地元の人間しか知らない二ツ箭山への小道だろう。

この詩が書かれたのは戦後すぐ。そんな時代、人間の生活が匂うような裏山にもオキナグサが咲いていたのだ。

今も変わらないのは「左うぐひす。/右うぐひす。」。それを口ずさみながら、心平のオキナグサを幻視する。幻の花になって久しい現代、できることはそれしかない。

2025年7月17日木曜日

「ばくだん」の記憶

                                          
   平窪(平)のやさい館へ行くと、決まってまとめ買いをするお菓子がある=写真。商品名は「ぽりこん」。原材料はアメリカのとうもろこしだ。

 小学生のころ、阿武隈の山里にやって来ては、道端に長ひょろい機械を据えて「ばくだん」をつくる人がいた。

 道路(現国道288号)は時折車が通るだけで、まだ子どもの遊び場だった。「鬼ごっこ」をやり、「馬乗り」をやり、「だるまさん転んだ」をやった。そんな時代だから、「ばくだん」も道路でつくることができたのだろう。

「ばくだん」製造業者は町内の人だったのか、よそから来た行商人だったのか。今はもうはっきりしない。

「ポン」と大きな音を出すと、とうもろこしがはじけて、親指くらいの大きさの白い食べ物ができた。それが「ばくだん」。

白くて粒の小さい「ばくだん」もあった。原料は米。「ばくだん」製造業者が原材料、つまりとうもろこしや米まで持って来た記憶はないから、それぞれの家で材料を用意したのだろう。

テレビが普及し、アメリカの食文化に触れるようになって初めて、「ばくだん」が「ポップコーン」であることを知った。

その懐かしさから「ぽりこん」を食べるようになったわけではない。カミサンが仲間とのお茶菓子用に買ったのを、ためしに晩酌のつまみにしたら、うまかった。

理由は簡単だ。口どけがいい。歯が弱くなった年寄りも、難なく食べられる。とにかく食べやすい。これが第一。それに、ほのかな甘みと塩味があって、飽きがこない。

ただし、これだけだと単調なので、コンビニから焼酎とともに買って来た「ペッパーベーコン」を混ぜてみた。すると、味と歯ごたえに変化が生まれた。

この食べ物は、ブラックペッパーを効かせてカリカリに揚げたベーコンのようなもので、1センチ大にカットされている。

味と歯ごたえの変化が気に入って、今は「ぽりこん」に「ペッパーベーコン」をミックスしたものを酒のつまみにしている。

「ばくだん」を食べていたのは、まだ永久歯が生えそろわないころだった。硬いものは、子どもにはちょっと無理だった。

永久歯が抜けたり、弱くなったりしてきた今は、理由は逆だが、小さい子と食べ物は共通するのかもしれない。

「カリッ、フワ」。「ペッパーベーコン」をかみ砕くときには、口を緩やかに動かすことを意識している。でないと、はずみで歯が欠けそうな気がするのだ。それだけを注意して、もぐもぐやる。

刺し身が肴(さかな)の日曜日以外は、この「ミックス菓子」を焼酎のつまみとして常備している。

「ばくだん」といった方が団塊の世代には通じるのだろうが……。物騒な呼び名なので。今はささやくようにしか使えない。

2025年7月16日水曜日

「地域」の前に「流域」がある

                               
   いわき地域学會が発足したのは1984(昭和59)年秋。私も誘われて入会した。

その3年後、会員を執筆メンバーに、当時私が勤めていたいわき民報でいわき市内を流れる夏井川、鮫川、藤原川の「流域紀行」を連載した。

続いて、水源の「あぶくま紀行」、河口=沿岸部の「浜紀行」も手がけた。これらはいずれも単行本になった。

いわきは広い。広いいわきをてのひらにのせて語れるような方法はないものか――。ゴルフ場とごみ処分場の建設計画が持ち上がり、水環境問題が起きたとき、いわきを「行政区域」ではなく「流域」で見ることを提案した。

いわきは、大きくは夏井川(北部)・藤原川(中部)・鮫川(南部)の三つの流域からなる(便宜上、大久川や仁井田川ほかの河川は3流域の一部として扱った)。そこに人口が密集した平・小名浜・勿来の3極がある。

それぞれの流域にはハマ・マチ・ヤマがある。3極3層の地域構造。それを、わかりやすく、総合的にエッセーとして紹介しよう、いわきを深く考えるテキストをつくろう、という狙いで「いわき5部作」ができた。

その後、東日本大震災に伴う1Fの原発事故でも、風だけでなく水(川)の視点が必要になった。平成の時代が終わり、令和に入ると、今度は水害問題が起きた。

2019(令和元)年10月、台風19号がいわき市を直撃し、支流の好間川・新川を含む夏井川水系に大きな被害が出た。

2023(令和5)年9月には線状降水帯が大雨をもたらし、主に新川流域の内郷地区で床上・床下浸水が相次いだ。

令和元年東日本台風の甚大な被害などを踏まえ、国交省は「流域治水」の考えを打ち出した。

堤防整備、ダム建設・再生などの対策をより一層加速するとともに、集水域から氾濫域にわたる流域のあらゆる関係者で水災害対策を推進する、というものだ。

行政区の役員に就くと、充(あ)て職で夏井川水系河川改良促進期成同盟会のメンバーになった。

平成から令和へ、河川行政への要望活動がいちだんと強まった。それだけではない。先ごろ開かれた定時総会で組織の拡充が決まった。

具体的には、内郷地区(新川・宮川流域)の行政区などがメンバーに加わり、予算に反映されたのである。

総会ではそのための議案などが提案された=写真。歴史のある期成同盟会としては珍しいことだろう。

 行政区の年会費も併せて見直し、世帯数が100未満は1500円、100以上は3000円と、それぞれ500、1000円減額された。これも珍しいことにはちがいない。

 予算書を見ると、土地改良区を除く行政区は、これまで平・小川・好間などの51区だったのが、新たに32区を加えて83区に拡大した。

地球温暖化に伴い自然災害の規模が甚大化しつつある。それを物語る組織拡充ではある。

2025年7月15日火曜日

写真のコウノトリに会う

                             
   いわき市小川町三島地内の夏井川にコハクチョウが1羽残留している。そこへ6月下旬、コウノトリが現れた。草野心平記念文学館のスタッフが偶然、この大型鳥を撮影した。

7月11日から文学館の「オタクロード」(休業中のレストランへの通路)で、小さな企画展「コウノトリと帰らない白鳥展」が開かれている(8月31日まで)=写真。

 コウノトリ飛来の話は、先日のブログでも紹介した。残留コハクチョウにえさをやっている「白鳥おばさん」から届いた手紙で飛来を知り、その直後に文学館がコウノトリの写真をSNSにアップした。

 文学館では7月5日から8月31日まで、夏の企画展「吉村昭と磐城平城」が開かれている。

 最初の日曜日(6日)にこれを見たあと、写真のコウノトリに会いに来ることにした。それで13日の日曜日、また文学館を訪ねた。

 コウノトリを撮影したのは館長氏だという。たまたまその館長氏から話を聞くことができた。

 前職はいわき駅前のラトブに入居している総合図書館の館長だった。定年で退職後、地元にある文学館の館長職に就いた。

 休日に三島の夏井川の近くを通ったら、前方に大きな鳥が現れ、岸辺に着陸する態勢に入った。

 館長氏はここでピンときたのだろう。急いで家に戻り、望遠レンズを持ち出して、大型鳥を撮影した。残留コハクチョウのそばにいるところも写真に収めた。

その撮影データを基に、小さな企画展を開いたというわけだ。あいさつ文にこうある(要約)。

コウノトリが飛来したのは6月28日。草野心平の詩に「幻の鳥の一列」があり、阿武隈の山並みに飛んでいくコウノトリが出てくる。幻といっても今ほどではなかったのだろう。

現在は、兵庫県などが中心となって保護・増殖が進められ、2025(令和7)年には、野外のコウノトリの個体数は500羽に達すると見込まれている。小川に飛来した個体も足環をしているので、どこかで放鳥された1羽だろう。

そして、三島に飛来したときの様子――。コウノトリは上空から残留コハクチョウを見つけたのか、ハクチョウめがけて着陸態勢に入り、近くに降り立った。

コウノトリは羽繕いをしたあと、少しずつコハクチョウに近づくのだが、コハクチョウは後ろに引いて2羽の距離は縮まらない。

さて(これは私の感想)――。三島にはこのごろ、アオサギも岸辺にいる。コウノトリはアオサギより一回り大きい。が、コハクチョウとはたぶん大きさはそう変わらない。足が長い分、大きく見えるのだろう。

写真に併せて、心平の詩「幻の鳥の一列」のほか、「コウノトリ自身」「新年の白鳥」が紹介されている。

「白鳥おばさん」は残留ハクチョウに「エリー」という名前を付けた。館長氏は、それには少し驚いたようだった。

2025年7月14日月曜日

酷暑にこそ糠漬け

                            
    福島県にも7月9日、「熱中症警戒アラート」が発表された。で、外回りの予定を急きょ、翌10日に順延した話を7月11日に書いた。

予報通り、9日は猛烈な暑さになった。茶の間で静かにしていたとはいえ、病院の入院患者よろしく、ずっと横になっているわけにはいかない。

もちろん座いすを倒して本を読むことはある、パソコンにブログの原稿を入力するのも、早朝から昼にかけての仕事の一つだ。

それとは別に、台所の糠床を再生させる――そう決めて、前日に引き続き食塩をパラッとやって、糠床をかき回した。

このところずっと食塩も、糠(ぬか)も補給せずにきた。すると、この暑さも手伝って、乳酸菌の動きが活発になったらしい。

キュウリはたちまち緑色が失せて、古漬けのような茶色に変わる。食べては塩気が足りない。「味のない古漬け」では食べ物にならない。

たまたま月曜日(7月7日)の夕方、晩酌をしているところに若い仲間がやって来た。古漬けのようなキュウリを見るなり、「食塩を足して乳酸菌の活動を抑えなくちゃ――」。

やっぱり、そうか。茶の間の室温は朝から30度を超える。ときに、34度にもなる。台所も似たようなものだ。窓と戸を開け放っても、室温はあまり下がらない。

糠床は、夏場は北側の階段の下に移すのだが、そちらはほかのものでふさがっている。今あるところで乳酸菌の活動を抑えるしかない。

というわけで、糠床に食塩を加えたあと、隣の直売所からキュウリを調達した。試し漬けである。

まずは午前10過ぎに3本を糠床に入れる。夕方5時前に取り出すと、見た目はほどよい感じで、塩味もまあまあだった=写真。やはり食塩が不足していたのだ。漬けていた時間はざっと6時間。

次の日、近所の知り合いから家庭菜園のキュウリが届いた。夕方、さっそく3本を糠床に入れる。翌朝5時には取り出した。およそ12時間漬けていたことになる。

ん? 表面の緑色は残っているにしても薄い。味は、まあまあだ。ということは、漬け過ぎか。

6時間と12時間。そして、この猛暑。塩分だけに絞っていえば、今は6時間で十分のようだ。

つまり、朝入れたら昼には取り出す。それが今の時期、糠漬けのキュウリとしては一番の食べ方らしい。

カミサンは、糠が古くなっていることも関係しているはずだという。その糠をどこから調達するか。

カミサンの実家では米屋をやめたものの、まだ玄米は残っている。自家消費用として精米しているので、糠は出る。それをしばらくは使えるという。

いずれにせよ、小さな営業と小さな暮らしが結びついてこその食文化だ。日曜日の魚屋さんの刺し身も同じで、暮らしの豊かさはそうした小さなネットワークの中で成り立っている。いや、「成り立っていた」と今はいうしかない。

2025年7月12日土曜日

トンチンカンの日々

                                
   50代のころはいずれそうなるだろうが――というヨユウで読んでいた。江戸時代中期に生きた尾張藩士で俳人の横井也有(1702~83年)の狂歌である。

  「皺はよるほくろはできる背はかがむあたまははげる毛は白うなる」「手は震ふ足はよろつく歯はぬける耳は聞こえず目はうとくなる」

毎朝庭に出る。あるとき、白い点が目に入った。クチナシだ=写真。白いのはクチナシの花だけでいい。狂歌を読んだあとにはそんな心境になる。

後期高齢者になった今はゲンジツとしてこの狂歌が刺さる。頭髪から始まって、目、耳、歯、そして足と、老化が止まらない。

 若いときから右耳の聞こえがよくなかった。それが昂(こう)じたのか、このごろは人と話をしていて、右耳に手のひらを当てたくなるような衝動に駆られる。

 亡くなった義弟がそうだった。隣家に聞こえるほど音量を上げてテレビを見ていた。私はまだそこまではいっていない。通常の音量だが、少し上げたくなる気持ちはある。

 テレビだけではない。聞こえの悪さのほかに、「誤認」によるトンチンカンも増えてきた。

 拙ブログに残っている記録をみると、南米の「イグアスの滝」が「イグアナの滝」になり、「スーラー野菜湯麺(タンメン)」が次の日には「ソーラー野菜湯麺」に変わっていた。

 いずれもカミサンからけげんな顔をされ、すぐ言い間違いを指摘されて、「アハハ」と笑ってお茶を濁した。

「ダイソー」を「ダイユー8」と聞き間違えたこともある。車を走らせるとすぐ、カミサンから「方向が違う」といわれた。

カミサンの「口」が頭と違ったことをしゃべり、私の「耳」が勝手に言葉を解釈したのかどうか、そのへんはよくわからない。

先日もトンチンカン問答が起きた。私が会議で外出中、高校1年の孫が父親とやって来て、カミサンに告げたそうだ。

「あした、桜丘(おうきゅう)祭だって」。「桜丘祭」とは高校の文化祭の名称だ。男女共学になる前は女子校で、カミサンも、カミサンの母親も、孫の母親もそこで学んだ。

カミサンにとっては懐かしい母校の文化祭である。「行くからね」と、アッシー君の私に伝えたのだった。

ところが、私にはそれが「アシ、オッタ」と聞こえた。孫はサッカーをやっている。練習か試合中にけがをしたのか!

私が眉を吊り上げ、目をむいて大声を出したために、カミサンがびっくりして復唱した。「あ、し、た、オウ、キュウ、サイ」。

それを聞いて安心し、大笑いになった。トンチンカンは笑い飛ばすしかないのだ。

トンチンカンがもたらす笑いは老夫婦にとって天の恵み――。まど・みちおさんが103歳で出した詩集『百歳日記』(NHK出版生活人新書、2010年)のなかで、そんな意味の詩を書いていた。

先日は「オロナイン」を「オロナミン」と言い間違えて笑われた。カミサンもラッキーセブンにひっかけて、「平成7年7月7日」と言う。「令和、ね」。お互い様なので、やんわりと訂正してやった。

2025年7月11日金曜日

熱中症警戒アラート

                          
   6月最後の日曜日(29日)。平地の平から夏井川渓谷の隠居へ向かうと、あちこちに「7月の花」が咲いていた。ネムノキである。

沿道では暦が7月に替わると決まってネムノキが満開になる。すると、隠居の庭にあるネジバナも――。7月最初の日曜日(6日)。ねじれたピンクの花がやはり、庭に咲いていた=写真。

東北南部は、梅雨入りが発表されたとたん、真夏のような猛暑が続いている。薄曇りの日でさえジメジメして暑い。扇風機をかけても室温は連日30度を超える。

7月9日には今年(2025年)初めて、福島県に「熱中症警戒アラート」が発表された。

この日は朝9時、区内会の会計さんと2人で地域の事業所を回り、8月末に開かれる地区市民体育祭への協力をお願いする予定でいた。

ところが、突然の熱中症警戒アラートである。予定に入れたからといって、猛烈な炎天下、1時間も歩き回ると体調を崩しかねない。救急車の世話にならないよう、急きょ、会計さんに連絡して一日順延を決めた。

 警戒アラート当日の9日。早朝5時に起きて窓を開けると、すでに空は青い。隣の駐車場に止まっている車は、早くも朝日を反射していた。

 恐ろしい明るさ――。そんな言葉が頭に浮かんだ。そして、「よかった、一日延ばして」とも。

事業所回りを予定していた朝9時台のアラート予報は「厳重警戒」だった。年寄りが外出するような状況ではない。

毎年協賛金のお願いに回っているので経験的にわかるのだが、ちょっとすくんでしまうような日射量だった。

雪国には「雁木(がんぎ)づくりの商店街がある。台湾には建物の1階部分をくり抜き、歩行者が通れるようにした「騎楼(きろう)」がある。

雁木は冬の雪対策だが、夏は日よけにもなるという。騎楼も雨(台風)だけでなく、日よけも兼ねる。

いずれにしても、日よけがあって、風が吹き抜けるスペースが欲しい。家の前にそれがあれば、一日そこで過ごしてもいい。

そう思うくらいの酷暑が続く。実際、9日はべらぼうな暑さになった。外出するなら日傘を、なんてことも考えた。

 さて、一日順延をした10日だが、起きると曇天で、茶の間の室温も30度を割っていた。

朝9時台のアラート予報は、「厳重警戒」よりは1ランク低い「警戒」だ。「警戒」では、運動や激しい作業をする場合、定期的に、そして十分に休息をとる、というのが留意すべきことのようだ。

 風は東から吹いていた。涼風である。しかし、国道を歩きながら事業所を回ると、汗がにじんでくる。ざっと4千歩、1時間。曇天、涼風でもくたくたになった。いや、その程度ですんだ、というべきか。

ルーティンはルーティンとして、自分たちの年齢・体調(というより回復力)を考えれば、一日順延で「大正解」だった。

2025年7月10日木曜日

手書きの効用

                                              
   東日本大震災の1年前だった。マチの商店会とラジオ福島が共催して、平・一町目のT1ビルでチャリティーセールを開いた。

文房具店のブースでは万年筆の無料診断が行われた。ちょうどいい機会なので、インキの出が悪い万年筆を診てもらった。

ペンドクターが問診をしたあと、「これはソフトペンですから、力を入れたらインクが途切れたり、二重になったりします」といって、古くなったペン芯を交換し、カートリッジインキを1本差し込んでくれた。

 すると、万年筆が生き返った。すらすら字が書ける。交換した部品も、カートリッジインキも無料だという。

悪いので、ブルーの12本入りカートリッジインキを買った。こちらもチャリティー価格で100円引きだった。

その後何度かカートリッジインキを買い替えた。それが切れたので、先日、同じ文房具店へ買いに行った。12本入りはどこにも見当たらない。しかたがない、5本入りを3箱買った=写真。

それからほどなく、全国紙にメーカーの全面広告が載った。斎藤孝明治大学教授が「手書き」を大切にする理由をつづっている。

キャッチコピーにそれが出ている。「書くことで、先人の精神を/身体に刻む。それが学びです」

ほかに、「手書きの文字が伝えるのは/単なる『情報』だけではない」「自分で知識を“捕まえ”にいく、/能動的な行為に意味がある」とも。

「身体に刻む」ことの重要性は、体験的にわかる。拙ブログに書いた文章を再構成して紹介する。

――アナログ人間である。その人間がデジタル社会のなかで何を心に留めているかというと、メモは「手書き」で通すこと、これだけ。

書くということは、自分の脳内に文字を浮かび上がらせ、腕から手、指へと伝え、鉛筆あるいはボールペンを使ってそれを紙に記す、きわめて肉体的な行為だ。その行為の繰り返し、経験が体に蓄積されて次に生かされる、と私は思っている。

私は、パソコンを「外部の脳」、自分の脳を「内部の脳」と区別して考える。キーボードをたたいて、外部の脳に文章の処理を任せるようになってから、内部の脳はすっかり書くことから遠ざかった。

人間の脳は、使わなければ退化する、パソコンやスマホが普通になった今、人間の脳はこれから小さくなっていくのではないか、といった危惧を抱かざるを得ない。それを避けるために、意識して実践しているのがメモ(日録)の手書きだ。

「書く」ことをやめて、外部に映る漢字を「選ぶ」だけになった結果、漢字がどんどん自分の脳からこぼれ落ちていく。

書く習慣が薄れると考える力も衰える。アナログ人間だからこそわかるデジタル文化の落とし穴といってよい――

万年筆のカートリッジインキを買い、斎藤教授の文章を読んで、あらためて手書きの効用を胸に刻む。

2025年7月9日水曜日

早くもヤマユリの花が

                                  
   自分の「原風景」にはちがいない。が、幼いころの記憶にとらわれていると、現実を見失ってしまうのではないか。毎年、ヤマユリの花を見ながら、そんなことを思う。

阿武隈高地のほぼ中央、田村市の山里で生まれ育った。夏休みになると、毎日、大滝根川で水浴びをし、館山の奥の雑木林で「おっかけっこ」をした。ちょうどそのころ、林道ではヤマユリが咲き出す。

梅雨が明ける。夏休みが始まる。青空に入道雲がわく。それと前後して、ヒマワリではなくヤマユリが大輪の花を咲かせる。私の小学校時代の夏の原風景だ。

それが今はどうだ。夏井川渓谷でも7月の声を聞くと、すぐヤマユリが咲く。温暖化の影響か、開花時期が早まっている。

ちょうど1年前、渓谷のヤマユリについて、ブログにこんなことを書いた(2024年7月9日付)。

――7月7日はいつものように、夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをした。といっても、体感ではこの週末で最も暑かった。

畑の日陰を求めて穴を掘り、生ごみを埋めると、もう息が上がった。15分で作業を中止し、早々に隠居を離れた。

どうやら内陸部に行くほど気温が上昇したようだ。あとでデータを確かめると、中通りでは猛暑日のところが相次ぎ、浜通りでも隠居から近い阿武隈山中の川内村は36・7度だった。

こんな暑さの中で土いじりをすること自体無謀だが、一方では「ヤマユリが咲いているはず」という期待もあった。

小川町の平地ではすでに咲き出し、渓谷でもつぼみが白く大きくなって開花する寸前のものがあった。

籠場の滝の近くまで進むと、まだ小さくあおいつぼみが散見された。その先、少し開けたところで一輪、ヤマユリが咲き、かたわらでつぼみが大きく白くなっていた――。

今年(2025年)も去年と全く同じ状況になった。7月6日の日曜日、籠場の滝を過ぎると、渓谷で最初のヤマユリの花に出合った=写真。

2年前の2023年は、7月9日が日曜日だった。ブログによると、夜明けに雨が降ったあと、曇ったり晴れたりしながら気温が上昇した。朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけたが、風がそよとも吹かない。これはこたえた。

この年は植物の目覚めが早かった。いや、その年も、というべきだろう。渓谷の「花ごよみ」が早まっている。

4月のアカヤシオが3月に咲き、5月のシロヤシオが4月に咲く。ヤマユリも咲き出すのは7月後半だったが、近年は7月前半に開花することが多い。

やはりこの年も9日には咲いていた。渓谷はその週半ばには「ヤマユリ街道」になったことだろう。

ブログによれば、これまで渓谷で最も早く咲いた日曜日は7月8日(2018年)だ。今年はそれをさらに2日早く更新したことになる。とにかく早い。そして、暑い。暑い。暑い。