2025年8月16日土曜日

ヒトツバタゴ

        
 日本野鳥の会いわき支部の元事務局長氏から手紙が届いた。昨年末までいわき市に住んでいたが、今は千葉県の娘さんの家に近い老人施設にご夫婦で入居している。

 ネットのいいところで、いわきを離れても毎日欠かさず拙ブログを読んでいる、とあった。

 先日はそのブログにコメントが届いた。2023年6月13日付の拙ブログで八重咲きのドクダミの花を紹介した。たまたま最近それを読んだのだろう。

自分も8年前、いわきで八重のドクダミの花を撮影し、自作の俳句を添えてNHK福島放送局に投稿し、「はまなかあいづ」の中で紹介されたことを思い出したという。手紙には、そのときの写真のコピーなどが同封されていた=写真。

――と、ここまで書いて、ずっと中断したままになった。忙しかったのと、カラ梅雨で酷暑が続いたために、手紙の返信を兼ねたブログはなかなか書けなかったのだ。

8月9日は、起きると室温が26度だった。涼しい。扇風機が要らない。「真夏日」になる前に「宿題」をやらなくちゃ。それでまず、中断したブログの文章と向き合うことにした――。

NHKに投稿された写真と文に添えられていた俳句は「吉相か八重どくだみに足を止め」。そもそもが画像と俳句を募る視聴者投稿欄だったとか。

いわきの自宅付近を散策中、ドクダミの花が咲いていた。なかに八重の花があった。それを見つけたときの心躍る様子が伝わってくる。

手紙では、投稿に使ったハンドルネーム「なんじゃもんじゃ」についても触れていた。「なんじゃもんじゃ」は俗称で、和名は「ヒトツバタゴ」という。いわきには自生しない。

有名なのは明治神宮外苑のヒトツバタゴ。その木は、今は3代目だ。初代、2代と続いた経緯を説明する同神宮外苑の広報文が添えられていた。

 同じ団地内に植えられていたヒトツバタゴに魅せられた元事務局長氏は、家を建てる際、同外苑庭園課から種の提供を受け、自宅の庭で育てた。

 ところが芽生えたのは雄株だったため、造園会社経由で雌株を取り寄せ、見事採種にこぎつけた。

 主のいなくなったいわきの家の庭では今年(2025年)もヒトツバタゴの花が咲いた――知人から満開のヒトツバタゴの画像が送られてきたという。

 ヒトツバタゴの花を見たことはない。ネットにある写真の印象を言うと、花は白く細長い4弁花のようだ。満開時には木全体が白く包まれる。

この花の印象から「なんじゃもんじゃ」になったのだろうか。いやいや、木自体が珍しい。よくわからない。わからないから「なんじゃもんじゃ」の木になったのだろう。

「なんじゃもんじゃ」の連想で、似たような言葉が不意に浮かんだ。「うどんげ」。クサカゲロウの卵で、何かの葉のヘリから垂れるようにして空中に浮かんでいるさまが不思議を誘う。

ついでながら、わが家の庭のドクダミは、今年も、去年も八重はなく、普通の花ばかりだった。

2025年8月15日金曜日

戦後80年

                                               
   8月に入ると決まって故義父の句集『柿若葉』を開く。三回忌に合わせて1999(平成11)年4月に出版した。

なかに「八時十五分車中で合掌原爆忌」がある=写真。その前後には「原爆忌老兵いまだ消えざりし」と「敗戦の記事の破れし古新聞」が載る。

8月。6日広島。9日長崎。そして、15日敗戦。今年(2025年)は「戦後80年」、つまりは「被爆80年」に当たる。

6日の広島平和記念式典はいつものようにテレビの生中継で見た。こども代表の「平和への誓い」、広島市長の「平和宣言」、首相と県知事の「あいさつ」を聞いた。

なかでも知事のあいさつには共感した。(翌日すべての文章が新聞に載ったので、切り抜いて保存し、時々読み返すことにする)

「国守りて山河なし」。原詩は中国の詩人・杜甫の「春望」で、五言律詩の最初の1行に「国破れて山河あり」が出てくる。ネット上の解説を借りる。

国は滅びてしまったが、山や川は昔と変わらずにある。戦乱や災害などで国が破壊されても、自然はちゃんと残っている――。

知事はこれを逆転して用いた。「もし核による抑止が、歴史が証明するようにいつか破られて核戦争になれば、人類も地球も再生不能な惨禍に見舞われます」

続けて「概念としての国家は守るが、国土も国民も復興不能な結末が有りうる安全保障に、どんな意味があるのでしょう」。

地球温暖化が言われて久しい。自然環境が悪化し、先々懸念される事態になってきた。「山河なし」は、まずそのことを象徴する言葉としてとらえることができる。

そして、核抑止力を声高に叫ぶ人たちが増えていることへの懸念。「歴史が証明するように、ペロポネソス戦争以来古代ギリシャの昔から、力の均衡による抑止は繰り返し破られてきました。なぜなら、抑止とは、あくまで頭の中で構成された概念又は心理、つまりフィクションであり、万有引力の法則のような普遍の物理的真理ではないからです」

ずっとあった頭の中のモヤモヤが一気に晴れた。そうだ、これなんだ!という、発見にも似た思い。

「自信過剰な指導者の出現、突出したエゴ、高揚した民衆の圧力」。この三つ目の民衆と呼応しあうのは、私もメシを食ってきたマスコミだ。

半藤一利『新版 戦う石橋湛山』(東洋経済新報社、2001年)から、先の戦争の「愛国報道」を拾う。

「当時の日本人が新聞と放送の愛国競争にあおられて『挙国一致の国民』と化した事実を考えると、戦争とはまさしく国民的熱狂の産物であり、それ以外のものではないというほかはない」

メディアはお先棒をかつぎ、国民もまたそれに呼応して愛国を叫ぶ。権力にとっては好都合の状態だった。それを忘れてはいけないということだろう。

「戦後」が「戦後」としてずっとあるためには何が必要か。国民的熱狂には染まらない。まずはその覚悟を持つことだと自分に言い聞かせる。

2025年8月14日木曜日

シベリア学

                                                
    総合図書館の新着図書コーナーに高倉浩樹『シベリア3万年の人類史――寒冷地適応からウクライナ戦争まで』(平凡社、2025年)があった=写真。

著者は社会人類学、シベリア民族誌学を専攻する、いわき市出身の東北大学教授だ。

若いとき、シベリアに抑留されたアマチュア画家と親しくなり、強制収容所の暮らしを記録した絵と文章を、画文集として出版する手伝いをした。

広沢栄太郎著『シベリヤ抑留記 ある捕虜の記録』。絵を残すまでの本人の執念に心を揺すぶられた。以来、時折シベリアのことが頭に浮かぶ。

画家は朝鮮半島で敗戦を迎えたあと、ソ連軍によってシベリアへ抑留される。ラーゲリ(収容所)では過酷な労働を強いられた。食事は粗末だった。仲間はそれで次々と衰弱して死んだ。

詩人の石原吉郎も抑留を体験した。仲間が亡くなる前、ラーゲリの取調官に対して発したという最後の言葉を記している。

「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

「あなた」とはソ連のスターリニズムそのものだったろう。そしてそれは、今のロシアにもいえることではないか。

画家は鉛筆で小さなザラ紙に数百枚のスケッチを描きためた。それを、帰国集結地ナホトカの手前で焼き捨てた。没収されるのがわかっていたからだった。

復員するとすぐ2カ月をかけて、2年半余の強制収容所生活を50枚の絵と文にまとめた。

 それから四半世紀がたって、当時、いわきの先端的なギャラリーだった「草野美術ホール」で個展を開いた。「シベリヤ抑留記」も展示した。

記者になりたてだった私は、取材でかかわったのを機にホールのおやじさんらと画集出版の話に加わり、編集を担当した。

2016(平成28)年8月、高専の仲間4人でサハリン(樺太)を旅した。対岸シベリアのアムール湾とウスリー湾にはさまれた半島の先端・ウラジオストクと、その東方にあるナホトカの港も巡った。

同級生の一人が学校を出ると、船で横浜からナホトカへ渡り、さらにシベリア鉄道を利用して、北欧のスウェーデンにたどり着いた。

彼はそこで仕事を見つけ、家庭を築き、死んだ。その原点がナホトカだった。ナホトカでは若いときの同級生を思い、シベリアから帰国するいわきの画家の幻影を追った。

これらシベリアがらみの極私的体験がよみがえり、さらにシベリアの今を知りたくて、新着図書を手にした。

 人類史的研究の本題はこれからじっくり味わうとして、地球温暖化が進むと「寒冷地」はどう変化するのか、まずその章を読んだ。

 永久凍土の融解で地面の凸凹が大きくなり、道路などのインフラに影響が出ている。川面の凍結期間が縮小し、「冬道路」としての利用期間が減った。「解氷洪水」が増大している――という。しかも、それらはほんの一例らしい。

 地球温暖化は地域温暖化であり、シベリアではそれが大地と暮らしのひずみとして現れている。なんということだろう。

2025年8月13日水曜日

「白骨」の森

 万緑の夏。確かに山は緑一色だ。が、谷間の木の1本1本がわかるところまで近づくと、ため息が漏れる。

 いわき市平の平地から「地獄坂」を超えて夏井川渓谷に入り、磐越東線の江田駅付近まで進むと、対岸(右岸)の森に「白骨」が目立つようになる。

 白骨は立ち枯れて白くなった木の幹である。この立ち枯れ木が年々増えている印象が強い。

 どんな木が枯れたのかはよくわからない。が、この30年見続けてきた結果として、二つだけはっきりしていることがある。

 一つは松枯れ。阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きた1995(平成7)年初夏から、渓谷の隠居に通い続けている。そのころは、対岸のアカマツはまだ元気だった。

ところが、そのあと次第に変化が現れる。常緑の松葉に黄色いメッシュが入り、「茶髪」に変わったと思ったら、樹皮の亀甲模様もやがてはげ落ち、白い幹と枝だけの「卒塔婆」になった。

「針葉樹は酸性雨に弱い。夏井川渓谷の松枯れはそれだろう」「松くい虫が原因」。専門家の意見は分かれたが、結果として渓谷では大きな松がほぼ消えた。

それで松枯れはいったん収まったが、東日本大震災の前後からまた変化が現れた。松枯れ被害を免れた若い松に茶髪が目立つようになったのだ。

隠居の対岸、一番手前の尾根のてっぺんにある一本松が最近、茶髪に変わった=写真上1。これからまた渓谷では松枯れが始まるのだろうか。

それと、もう一つ。渓谷では「ナラ枯れ」が広がりつつある。最初に気づいたのは2020(令和2)年8月の月遅れ盆のころだった。

平野部から高崎地内に進み、これから渓谷に入るというあたりで、広葉樹の葉が数本枯れていた。夏なのに、なぜ? 日本海側で発生した「ナラ枯れ」が太平洋側でも目立つようになったのだった。

ナラ枯れは、体長5ミリほどのカシノナガキクイムシ(通称・カシナガ)が「犯人」だ。雌がナラ菌やえさとなる酵母菌などをたくわえる「菌嚢(きんのう)」を持っている。雄に誘われて大径木のコナラなどに穿入(せんにゅう)し、そこで産卵する。菌が培養される。結果として木は通水機能を失い、あっという間に枯死する。

カシナガの幼虫は孔道内で成長・越冬し、翌年6~8月、新成虫として一帯に散らばるので、被害もまた拡大する。

渓谷の県道沿いでも、崖側、谷側と両方で大木がナラ枯れを起こし、倒木・落枝の危険が増した。

 事故の未然防止のために伐採された崖の大木もある。さらには先日、逆さになって崖の金網に引っかかっているものがあった=写真上2。途中から車が通れるように切断されている。その直径だけでも30センチ近くはあるようだ。

    しかし、車が通れるからいい、ではすまされない。いつ落下するか。ちょうど車が通ったときに、ドサッときたら……。毎回ひやひやしながら通る。 

2025年8月12日火曜日

初めてのお使い

                               
    接骨院に通っているカミサンが本棚を片付けているうちに無理をしたらしい。数日前から左足に痛みが走り、日曜日(8月10日)は朝からベッドで横になっていた。腰痛と関係しているのだろう。

  平日には平日の、日曜日には日曜日の家事がある。三度の食事の用意、これは毎日のことだが、日曜日はさらに夏井川渓谷の隠居での土いじり、刺し身の買い物が加わる。

カミサンが分担していた家事のすべてを、そして「さくらネコ」のゴン=写真=のえさやりも含めて、「お願いね」という。

 この日は朝から曇天で、時折、小糠雨が降った。隠居へ行くのは断念し、一日家で文章読みの「仕事」を続ける。

 朝は卵焼きと味噌汁が定番だ。おかずはほかに糠漬けと市販の味噌漬け。ご飯は前日の残りがあった。冷や飯である。味噌汁はつくらない。卵は焼かずに、卵かけご飯にした。

 ほかに、サンドイッチや牛乳などが冷蔵庫にある。カミサンが何か食べようと思えばなんとかなるだろう。

 昼は、カミサンの注文でコンビニからおにぎりとサンドイッチ、トマトジュースなどを買って来た。

サンドイッチは私、おにぎりとトマトジュースはカミサン。カミサンはしかし、トマトジュースを少し飲んだだけで、またベッドに戻った。

どちらも後期高齢者だ。今のところ自分の足で動き回り、自分の手で食事も仕事もできる。

介助・介護はいずれ必要になるかもしれないが、現時点ではまだ遠い話だと思っていた。

が……。突然、カミサンが歩けないほどの痛みに襲われた。カミサンの仕事が、それでこちらに回ってきた。

とにかく三度の食事の用意が大変なことがわかった。しかも、すぐその時間がくる。夕方には、あらためて声がかかった。「刺し身を買って来て」

いつもは魚屋さん(7月25日で店を閉めた)であれ、スーパーであれ、夫婦で行く。今回はひとりだ。

刺し身のほかに、欲しい飲食物を書いたメモを渡される。リポビタンD、カロリーメイト。ほかにアイスクリーム。「『はじめてのおつかい』みたいだね」と言って送り出された。

コンビニはともかく、スーパーへはアッシー君として行き、買い物かごを持ってついて回るだけだった。それを全部自分でやらないといけない。確かに、初めてのお使い、ではある。

どこに何があるかわからない。必要なものにたどり着くまで時間がかかる。レジもセルフではなく対面レジを選んだ。

夜、「モモが食べたい」というので、皮を付けたまま出そうとしたら、むくように言われる。

モモは種が大きい。リンゴみたいに真っ二つにはできない。すこし考えて、種をギリギリで迂回するように包丁で果肉を切った。皮を指ではがすと果肉がボロボロになる。あわてて皮も包丁でカットした。

主婦は三度の食事の用意だけでエネルギーと労力を費やす。そのことを、身をもって知る。これが連日となると……。ま、先のことは考えないようにしよう。

2025年8月9日土曜日

眼鏡のレンズを新調

                                 
   今度は目か。何度も引用して恐縮だが、江戸時代中期に生きた尾張藩士で俳人の横井也有(1702~83年)の狂歌が頭をよぎった。

「皺はよるほくろはできる背はかがむあたまははげる毛は白うなる」「手は震ふ足はよろつく歯はぬける耳は聞こえず目はうとくなる」

 先日、遠近両用レンズを新しくした=写真。この何年か、度数が合わなくなっていた。車を運転するときには眼鏡をはずした方がかえってよく見える。しかし、いつまでもそんなことをしているわけにはいかない。

 レンズが合わなくなっていると感じたのはいつだったか。2年前、後期高齢者として初めて運転免許を更新した。そのころから眼鏡をはずしたり、かけたりしていたのを覚えている。

 そうこうしているうちにレンズの曇りが取れなくなった。眼鏡用の布でふいても、ティッシュペーパーでやっても、きれいにならない。きれいにしようとすればするほど、曇りが拡大するようだった。

レンズはコーティングされている。そのコーティングがはがれるとそうなる、とネットにあった。

新しいレンズにしよう。7年前に眼鏡を新調した店で視力を計り、それに見合った遠近両用のレンズを選ぶ。

眼鏡の汚れを取るにはクリーナーでシュッとやり、指で軽く回したあと、ティッシュペーパーで泡をふき取る――。

最初からティッシュペーパーでこするのではなく(それ自体レンズにはよくないそうだ)、泡をふき取るのに利用する。スタッフが実演するのを見て、なんとレンズによくないことばかりしてきたことか、と反省する。

也有の自虐ネタではないが、肉体の老化が止まらない。今年(2025年)は歯の治療をした。経過観察中の歯もある(いずれまた行かないといけない)。

それに続く目だ。新しいレンズにすると、驚くほど世の中がはっきり見えた。ピントが細かいところまで合って明るい。

「プ」と「ブ」、「6」と「8」と「9」がはっきり区別できる。すると、頭の中のもやもやも晴れた。

次はなんだ? 也有の狂歌を反芻していたら、すぐ思い当たった。「耳」である。「毛は白うなる」である。

ひげは3日ごとに電気カミソリを当てる。若いころは毎日剃った。日をおくと、もみあげからあごにかけて、すぐ黒くなった。それが3日たっても目立たない。

ちょっと伸びたのを鏡で見たら真っ白だ。これでは昔話に出てくる「翁(おきな)」と同じではないか。

白いひげは、日常生活には別に影響がない。が、耳はトンチンカンの原因になる。別用のついでに立ち寄った90歳の「お姉さん」に、カミサンが耳の聞こえがおかしい話をした。すると、「長生きするわよ」。なんともうれしいような、悲しいようなコメントが返ってきた。

2025年8月8日金曜日

生きものだって暑いのだ

                                
 平七夕は雨に縁がある。とはいえ、8月6日はやはりきつかった。5日のような「べらぼうな暑さ」ではなかったが、室温は30度を超えた。朝から茶の間で扇風機をかけて文章読みの「仕事」を続けた。

 庭に面したガラス戸も玄関も、ほかの部屋の窓もすべて開けっぱなしにしている。庭の虫たちからみると、茶の間は庭の延長でしかない。

 庭の柿の木のセミは、今年(2025年)は鳴き出すのが遅かった。音も例年よりはかぼそい。酷暑が影響しているのだろうか。

 この時期になると、庭から茶の間に飛び込んで来るセミがいる。この夏はしかし、まだ現れない。代わりにアオスジアゲハがやって来た。

 茶の間をヒラヒラ飛び回っていたかと思うと、床の間の小さな仏壇に止まった=写真上1。

 アオスジアゲハは、庭のイボタノキの花が満開になる5月下旬、吸密に現れる。が、今年は姿を見なかった。

 黒い翅(はね)に、縦に貫くように青緑色の筋が入っている。この模様に引かれて毎年、庭に現れるのを待つ。「遅いなぁ、遅いなぁ」。そう思っていたところへやっと現れたのだった。

いわきでは普通のアゲハと思っていたが、南方起源のチョウである。地球温暖化の影響で北上を続けているのだとか。

その2日前の8月4日。座卓で資料の整理をしていると、パソコンのそばに体長2センチほどの小さなカマキリが来て止まった=写真上2。

 庭から飛び込んできたのだろうが、なにかの拍子に潰してしまわないとも限らない。ここはそーっと玄関前の鉢植えに引っ越し願った。

 名前の知らない蛾もよく座卓に現れる。その都度写真に撮るのだが、種の同定が難しい。しかし、翅(はね)の色とデザインには引かれる。

 毛皮を着ているネコたちもこの酷暑には苦労しているようだ。このごろよく現れる「さくらネコ」のシロは、車の下に潜り込んで日差しを避けていた=写真上3。

同じ「さくらネコ」のゴンは、玄関前に置いた石うすの上で休んでいる。あちこち探して見つけた石のひんやりスポットなのだろう。

 仏壇のアオスジアゲハの話に戻る。そこで休むこと1時間半。アオスジはまた茶の間をヒラヒラ飛び回ったあと、玄関から庭へ出ていった。

 虫であれ、ネコであれ、この暑さにはげんなりしている。おまえさんたちも大変だな。そんな思いもわく異常な暑さだ。(この文章をアップした8日、今度はスズメバチがやって来た。これだけは困る)

2025年8月7日木曜日

今年の最高室温

                                 
 8月5日の暑さはかなりきつかった。8月は文章読みの「仕事」が入る。朝食後、茶の間でそれを始める。が……。

 どうも前日までの暑さとは違う。10時半にデジタル温度計を見ると34.3度だった。もうそこまで!

 「仕事」の合間にメモを整理し、雑用をこなす。そうして迎えた昼、温度計は35度を超えていた。

 1時近くには35.7度になり、さらに温度計を見続けていると小刻みに上昇して、ほどなく36.0度に達した=写真上1。

 もう、限界! 道路向かいの奥にある故義伯父の家に避難する。エアコンを備えた部屋がある。そこで「仕事」を続けた。

 そちらは室温27度に設定してある。部屋を閉め切ると涼しくなって汗が引いた。いやあ「仕事」がはかどること、はかどること。

 30度を境に、超えるとブログの文章入力はやらない、と決めている。というより、頭がボーッとして何もやる気が起こらない。故義伯父の家では、本当に久しぶりにすっきりした状態で文章を読んだ。

 そのまま4時間余り。気が付いたら6時近くになっていた。きょうはこれで終わり――。エアコンを止め、戸締まりをして家に戻ると、カミサンが「マルトへ寿司を買いに行こう」という。

台所でガスを使い、夕食の準備をすると、汗だくになる。「きょうはやりたくない」という気持ちはわかる。

言われるとおりにアッシー君を務めて家に戻り、晩酌を始める。熱い料理は一つもない。

前の晩の豚肉炒めの残り(冷蔵庫に入れておいた)、朝の味噌汁の残り(これも冷蔵庫で冷やしておいた)=写真上2、生のキュウリと味噌。焼酎と一緒に飲む水のボトルにも氷がいっぱい入っている。

「冷製味噌スープ」はなかなかいける。ナメコ、タマネギ、ミョウガ、ネギ。酷暑の晩はこれもよし、である。

わが家の茶の間の温度が36度を超えたのは、ブログによれば2020(令和2)年8月11日以来だ。

今年(2025年)はむろん初めてで、5年前は36.1度がピークだった。今回は、カミサンによれば36.4度まで上がった。

この日、群馬県伊勢崎市で最高気温が41.8度になり、国内最高気温を更新した、とテレビが報じていた。

熱中症の危険と仕事の能率を考えれば、日中は何日か故義伯父の家で過ごすしかないようだ。

2025年8月6日水曜日

異常な暑さ

                                
 台風の影響で雨が降っても、すぐ「危険な暑さ」に戻った。8月7日は立秋だが、このままではほんとうの秋がくるのはずっと先だろう。

 猛暑、酷暑、うだるような暑さ――。私が新聞記者だったころは、夏の暑さの「表現」はこんなものだった。

 ところが今は、これに「危険な暑さ」が加わった。先の日曜日(8月3日)、夏井川渓谷の隠居でラジオをつけたままにしておくと、ニュースのたびに「命にかかわる危険な暑さ」を繰り返していた。

 テレビはどうか。一目で暑いとわかる映像がつくからか、表現としては「危険な暑さ」止まりだった。この映像の有無が、ラジオとテレビの表現の違いになったか。

 年寄りは、暑さには弱い。エアコンをつけずに我慢して熱中症にかかり、救急車で運ばれたというニュースが繰り返される。それで亡くなる人もいるから、「命にかかわる危険な暑さ」にはちがいない。

 エアコンをつけて涼しい環境で過ごす、水分と塩分を補給する、といわれても、人間は若いときの慣習からなかなか抜け出せない。

 私は学生時代、運動部に所属していた。それが尾を引いているのか、暑くてもつい我慢、と自分に言い聞かせそうになる。暑さ対策の始まりは我慢しないことだ。

日中は扇風機を「強」にして回転させ、風を起こしながら、茶の間でゴロンとなっている。本を読む。あきたら「数独」をやる。この二つだけでもすぐ時間がたつ。

数独は3月になって始めた。毎週、新聞に問題が載る。ネットには無料のサイトがある。

紙に9×9のマス目を書き込み、万年筆で問題の数字を書き写す。鉛筆で解くのは、間違ったときに消してやり直すためだ。

5カ月がたった今は、中級レベルまではなんとかこなせるようになった。が、それでもこの暑さである。頭の働きがさらに鈍くなって、ミスが目立ち始めた。

最初は順調に、あるいはゆっくり、そして途中で行き詰まりながらも、なんとか完成する。

その一方で、しょっちゅう失敗もする。どこで間違ったかもわからない。中級編、たまに上級編に挑戦するようになっても、事情は変わらない。

先日の失敗にはのけぞった。最後の2マスまでこぎつけたところで、同じ列に「1」がふたつ並んでいることに気づいた=写真。「あ~、あ~」である。鉛筆で書き込んだ数字をすべて消し、また一からやり直した。

カミサンが薬をもらいに行った薬局でいわれたそうだ。熱中症予防を心がけるように、「異常な暑さ」だから――。

確かに異常な暑さではある。「経験したことのないような暑さ」だし、「過去に例のない危険な暑さ」だ。

8月5日は午後、室温が36度を超えた。さすがに耐えられないので、近所にある故義伯父の家に避難し、エアコンをつけて文章読みの「仕事」を続けた。こんな暑さでは息抜き(数独)だって難しい。

2025年8月5日火曜日

コウノトリと鶴のはさみ

 シルクロードのコウノトリについて検索すると、プハラ(ウズベキスタン)の特産品として、「コウノトリのはさみ」が次々に出てくる。

 それほどプハラのコウノトリは市民に浸透し、愛され、生活の一部を占めているのだろう。

草野心平の詩に「コウノトリ自身」がある。前にも紹介したが、プハラのコウノトリはなぜ丸いモスクのてっぺんに営巣するのか、サマルカンドの作家にそれを聞いたときのやりとりを題材にしている。

たまたまその日は心平の誕生日だった。お祝いの乾杯をしたあと、心平が尋ねる。「どうしてモスクの。あんなすべっこいドームを殊更にえらんで巣をつくるんでしょうねコウノトリってのは。あんなまんまるいてっぺんに枯木を集めて。」

「それはね。ミスタア・クサアノ。/も一度プハラへ行ってコウノトリ自身にきくんだね。」。文学者の一人が答えると、どっと笑いが起きた。

 ネットで検索したのは、コウノトリの生態・形態を知るためだった。おかげで「なぜはさみなのか」も検索の対象に加わった。

 これはネット情報からの引用。プハラの人々は金の糸で刺繡(ししゅう)された民族衣装を着用する。コウノトリのはさみは、この複雑な刺繍に欠かせない道具として生まれた。

 プハラはオアシス都市である。水路や池があって、コウノトリが多く生息している。コウノトリは幸せを呼び、豊作をもたらす鳥として喜ばれ、いろんなものにそのデザインが使われているという。

 拙ブログを読んだカミサンが、小さな革ケースに入っているはさみを取り出して、「これがそう?」と聞く=写真。

 おお、コウノトリのはさみではないか! 「そうだ、これだ」。そのときは小躍りしたが、「でも、これは東京の木屋(きや)のものよ」という。

 プハラのはさみではない? とすると、この鳥はなに? まずは日本橋木屋のホームページに当たる。

 すると、カミサンのものと同じはさみが現れた。はさみには「KIYA」の刻印が入っている。商品データとして、「刺繍鋏(ししゅうばさみ)・鶴型・革ケース付き」とあった。

 形はプハラのコウノトリのはさみとそっくりだが、デザイン化した鳥はコウノトリではなく、鶴(タンチョウヅルかどうかはわからない)だった。

 全長は9センチ弱。親指と中指をはさんで古着の糸を切るのに使うそうだ。もうずいぶん前から使っていて、先日は街の刃物屋さんに研ぎに出した。

 糸切り用の和ばさみは、子どものころよく見た。母や祖母が針仕事をしていると、必ず手元にあった。爪も伸びると、それで切ってもらった記憶がある。

 和ばさみはコウノトリ型(鶴型)ではなく、U字型をしていた。それから見ると、鶴型のはさみはいかにも洋風、そしてシルクロードの匂いがする。 

2025年8月4日月曜日

どこへ買いに行くか

                      
 入道雲は午後に現れると思い込んでいたが、そうではない。日によっては午前中から西の山並みのはるか上に突っ立っている=写真。

 朝起きるとまずは温度計を見る。茶の間の温度が30度を割っていれば、今のうちにブログの入力を、となる。

 30度を超えていたら、もうやる気がない。扇風機をフル回転させて風を起こし、そのなかで静かに横になっている。だいたいは本読みか数独をして過ごす。

 しかし、日曜日はちょっと違った動きになる。早々と夏井川渓谷の隠居へ向かう。そのときいつも、夕方に刺し身を盛り付けてもらうための「マイ皿」を車に積み込む。

 ところが……。行きつけの魚屋さんが店を閉めて最初の日曜日、7月27日は、マイ皿を用意するどころではなかった。刺し身をどこへ買いに行くか。朝起きるとまず、そのことが頭に浮かんだ。

 営業を終える日、最後の刺し身を盛り付けてもらったあと、平だと「○○」と「○○」がある、と教えられた。前もってお勧めの魚屋さんを尋ねておいたのだった。

 いわきの人間は、カツオの鮮度にはとりわけ敏感だ。生臭くなったカツオは口にしない。

 私は阿武隈の山里で育った。夏になると、食卓にカツオの刺し身が出たが、なんとも色が悪い。それに少々酸味があった。カツ刺しはしかし、そんなものだと思っていた。

山里へは小野町から魚が入ってきた。小野町へは小名浜か江名に揚がった魚が届くのだろう。

いわきの学校で学び、東京から戻って就職し、結婚して初めて新鮮なカツ刺しを食べた。カミサンの実家のすぐ近くにある魚屋さんの刺し身だった。

さらに、子どもができて今の家に引っ越してからは、草野の魚屋さんとの付き合いが始まった。魚屋さんには恵まれた、というべきだろう。

日曜日のカツ刺しをやめるわけにはいかない。とりあえず、最後に教えられた西の魚屋さんへ行ってみることにする。

夕方、外出したついでに魚屋さんへ寄った。1人用か2人家族を想定したパック詰めがほとんどのようだった。それはどこのスーパーでも同じだろう。

カツオ1パックと、マグロその他の盛り合わせ1パックを買った。2つの値段を合計すると、いつもの魚屋さんに払う金額よりは少し高い。

味は? まあまあだ。問題はその量で、今までの魚屋さんの場合だと、カツ刺しだけならマイ皿に30切れ近くはあった。1切れ50円前後だろうか。新しい魚屋さんのカツ刺しは厚くて大きい。それもあって1切れ80円弱になる。

次の日曜日(8月3日)は東の魚屋さんへ足を運んだ。こちらのカツ刺しも厚くて大きい。1切れに換算すると90円くらいか。いわきではそれが普通なのだろう。

1切れの量の違いはある。が、今までかなり安く提供してくれていたのだ。そのありがたさに、店がなくなって初めて気がついた。

2025年8月2日土曜日

あとの時間の長いこと

                         
   わが行政区は、集合住宅を戸建て住宅が取り囲むような配置になっている。戸建てと集合が半々くらいで、隣組の数は28、隣組に加入しているのはざっと290世帯だ。

ここの行政嘱託員をしている。定期的に届く市の回覧文書を隣組ごとに振り分け、紙袋(わが家に届いた大型封筒を再利用)に入れて、行政区の役員さんと、自分が担当する隣組の班長さん宅に届ける。

8月1日付の文書は、全戸配布が市からの3種類と地元の1種類の計4種類で、紙袋の厚さは最大3センチに膨らんだ=写真。

これでは集合住宅の1階に設けられている郵便受けのすき間(投入口)には入らない。

班長さんの自室の前まで持っていかないと――となるのだが、2階はともかく、3、4階は、心臓のクスリを飲んでいる人間にはこたえる。

年度末の3月に全戸配布される「健康のしおり」(65ページ)も、「行嘱泣かせ」ではある。

隣組によってはひとつの紙袋では間に合わない。印刷所に勤めている、ある隣組の班長さんから、開くと側面が3センチほどにふくらむ大型封筒の寄贈を受けた。これが役に立った。

で、集合住宅の3、4階は? カミサンが配達を代行してくれた。今度もカミサンの力を借りた。

今年度から回覧文書の配布回数が月3回(1、10、20日)から2回(1、15日)に減った。

行嘱の負担が減るのはいいのだが、年間を通じた配布件数と量はそう変わらない。それどころか、ここにきて年4回、全戸配布の「アリオスペーパー」が加わった。

初回が1カ月前の7月1日付だった。奇数月は、県の広報「ゆめだより」はない。が、偶数月で「アリオスペーパー」の発行が重なる10、4月は、回覧文書がどのくらいの厚さになるか、ちょっと心配だ。

8月1日付ではその心配が現実になった。広報いわき、県の「ゆめだより」、そして今年度後期の公民館市民講座案内(28ページ)。これに地区市民体育祭のプログラムが加わった。

いつもはひとりで配るのだが、最大15世帯の隣組の紙袋は、片手で持つのがやっとというくらいに重い。

 そのうえ、この猛暑続きである。夏場は7時前、今回はそれより2時間も早い早朝5時、新聞配達よろしくカミサンを車に乗せて出発した。

3~4階建ての中層住宅では、郵便受けの開閉ができるところはそこに入れ、それができないところは自室の前に置く。

 結果的に3階2カ所、4階1カ所。これをカミサンに頼んだ。正味40分。5時40分には家に戻った。

 農家では、夏は朝飯前に一仕事をする。日中は野良には出ない。それと同じで、朝食後は茶の間でゴロンとしていた。「昭和の家」ではこれが一番。

7月最後の日。一仕事を終えたという思いからか、それからの一日が長かった。あまりにも長いので、つい慣習や制度の変更(文書配布の回数減)には一長一短がある、なんてことまで考えてしまった。

2025年8月1日金曜日

渓谷から見える風車

                                           
    阿武隈の山々のスカイラインにまた一つ、ニョキッと風車が立った=写真。夏井川渓谷にある隠居の少し手前、磐越東線の江田駅を通過し、江田の次の集落・椚平(くぬぎだいら)に入ったとき、山側にチラッと「輪のないベンツマーク」が見えた。

そのときはそのまま隠居へ向かった。川前の神楽山(808メートル)にできた風力発電施設の風車に違いない。

行きずりのドライバーなら、「ああ、風車が見える」で終わっただろうが、隠居の飲み水の水源にできた風車である。

とうとう立ったか――。まずはそんな感慨がよぎった。それからすぐ、オディロン・ルドンの一つ目の巨人の絵が頭に浮かんだ。

巨人はギリシャ神話に出てくるキュクロプス。手前に横たわるニンフをのぞき込むように、山の向こうからヌーッとキュクロプスが姿をあらわした絵だ。不気味だが、ユーモラスな感じがしないでもない。

輪のないベンツマークはその点、簡素なものだ。が、まさか谷間から風車は見えないだろうと思っていただけに、ニョキッと立っているのを見たときにはショックだった。

拙ブログの過去記事によると、2014(平成26)年11月、経産相と福島県の新知事が会談し、福島県内で発電された再生可能エネルギー買い取りを東電に求めることを明らかにした。東電の送電網を活用して、関東方面に送電する、と県紙が報じていた。

風力発電施設の風車はしかし、阿武隈高地では震災前から立っていた。2010(平成22)年に隠居から「スーパー林道」(広域基幹林道上高部線)を利用して、川内村の天山文庫へ出かけたとき、大滝根山の手前の尾根に風車が林立していた。

磐越道を利用して郡山市へ行ったとき、小野町付近から大滝根山と矢大臣山の間に風車の列が見えた。たぶんそれだろう。

稜線の異変は、そこだけではなかった。川内から大滝根山を越えようと、県道富岡大越線を進んでいたら、すぐ右手の山の上に巨大風車が現れた。高さは約100メートル、3枚の羽も長さが40メートルはあるらしい。

震災後はそれこそ県の産業復興計画「イノベーション・コースト構想」に基づいて、建設計画が目白押しになった。そして今や至る所で輪のないベンツマークが見られる。

スーパー林道は神楽山の中腹を縫って南北に伸びる。隠居から駆け上がると、川前・外門の集落を過ぎたところで、風力発電施設への道を知らせる看板に出合う。そこの風車が回り始めたのだろう。

戦後、大滝根山の頂上に進駐軍のレーダー基地ができた。やがて、自衛隊に施設が移管された。稜線に突起物がある――物心づくころからそれを見てきた私は当たり前に思っていたが、古老はそうではなかった。

まっさらな大滝根山ではなくなった、景観を汚されたと、腹立たしい思いでいたのだった。どうも風車に対しては、レーダー基地への古老と同じ感覚のようだ。

2025年7月31日木曜日

オニユリの夏

                                
   わが家の近くに故義伯父の家がある。飲み仲間が来たときには「ゲストハウス」になる。

  先日、故義伯父の家に行くと、庭にオレンジ色の花が咲いていた=写真。夏の花のオニユリである。

まだ7月下旬。オニユリは8月に満開になる。そんな印象が強いのは、月遅れ盆のころ、新舞子海岸の道路沿いがこの花でオレンジ色に染まるからだろう。

ユリの花は、まずはヤマユリ。隠居のある夏井川渓谷では、近年開花が早まり、7月中旬には「ヤマユリ街道」になる。今年(2025年)もそうだった。

それが終わると、今度は新舞子海岸のオニユリである。月遅れ盆の前に海岸道路を通ったとき、枯れ松が伐採されて草原化した跡地にオニユリが群生していた。

そのときの驚きをつづったブログ(2017年8月13日付)がある。それを要約・再掲する。

――わが家から新舞子海岸までは車で5~10分ほどだ。夏井川河口をはさんで黒松の防風林が伸びている、といいたいところだが……。

 大津波が押し寄せたとき、松林は後背地の家や田畑を守る“クッション”になった。しかし、代償も大きかった。

地中にしみこんだ塩分の浸透圧によって松が根っこから脱水症状を起こした。やがて、遠目にも茶髪が増え、密林が疎林に変わって、とこどころ草原化した。その草原でオニユリの花が満開になった。

震災の年の夏にも海岸の波消しブロックからオニユリが花茎を伸ばし、花を咲かせていた。もともと自生していたのだろう。

 オニユリはむかごで増える。黒松林の草原化という生態変化が、むかごの芽生えを容易にし、群生に拍車をかけたのだろうか。

 オニユリの群生地を観光資源ととらえている石川県の海岸では、オニユリを保護するために官民で草刈り活動をしているという。

いっそ新舞子海岸の一角をオニユリの群生地として保護・保全してはどうか。アマチュアカメラマンがウデを競う新名所になるかもしれない――。

さて、故義伯父の家のオニユリである。去年も、一昨年も咲いていた、という記憶がない。カミサンに聞くと、植えてはいないという。なんと自然に根づいたのだ。

それでは海岸のオニユリを見に行くか、なんて思っているところに、7月30日朝、カムチャツカ半島沖で巨大地震が発生し、津波警報が発表された。

NHKは、始まって間もない「あさイチ」を中断して津波放送に切り替えた。あのときと同じである。

14年前の3月11日午後。激しい揺れがおさまるとテレビをつけた記憶が生々しくよみがえる。

今度もテレビをつけっぱなしにしていた。鉄道が運休し、国道6号が部分的に通行止めになった。新舞子の海岸道路もそうだったろう。津波はいわきにも来たが、被害はなかったようだ。なによりである。

2025年7月30日水曜日

行方不明になった本

                                           
   特別整理期間が終わって総合図書館が再開されると、その前から借りていた本を返し、すぐまた2回に分けて10冊近くを借りた(15冊まで借りられる)。

その返却日がきたので、バッグに詰めて返したあと、また本を借りた。すると、自動貸出処理ができなかった。未返却の本があるらしい。

 窓口で確かめると、谷本真由美『世界のニュースを日本人は何も知らない6――超混沌時代の最前線と裏側」(ワニブックスPLUS新書、2024年)=写真=が、期限を過ぎても未返却だった。

 返却する本は前の晩、貸出期限票で確かめながらバッグに詰めた。確かにそのとき、『世界の――』も入れた。

 いったん帰宅して座卓の周りに積み上げた資料の間から本を探したが、ない。やはり返しているはずだ。

 1時間後、また図書館へ行った。返却本の中に『世界の――」があるかどうか、確かめてもらうためだ。書架にはなかった。図書館にも、やはりない。返っていないという。

「どこかにまぎれ込んでいると思うので、確かめてみてください。こちらも探してはみますが」

 ゆううつな気分で帰宅し、今度は寝床の周りを調べた。すると……。丸まったタオルケットの中から『世界の――』が出てきた。

それでわかった。昼だけでなく夜も暑くて寝苦しいので、寝床では掛け布団の代わりにタオルケット1枚ですませている。

睡眠薬代わりにバッグから『世界の――』を取り出し、寝床で読み始めたらすぐ眠りに落ちたのだ。

本を持ったまま手をタオルケットにのせ、目が覚めたら本だけがそれに隠れてしまったのだろう。

『世界の――』を探しているうちに、寝床のそばから2、3冊、別の本が出てきた。それは枕元におきっぱなしにした。

すると、カミサンがその1冊を手にして、「どこにあったの?」と聞く。カミサンも移動図書館の未返却本を探していた。が、敷き布団と電気スタンドの間に隠れて見えなかったようだ。

翌日、移動図書館のスタッフと連絡が取れた。最寄りの公民館に返せばいい、という(そういう返却システムも整備されている)。

それよりなにより、私は借りた本をすぐ返したい。カミサンも、公民館よりは図書館に返したい、というので、すぐ総合図書館へ出かけ、それぞれ本を返した。

どちらも睡眠薬代わりに寝床に持ち込み、寝落ちして本のありかを見失ったのが原因だった。

たぶん布団の周りには、敷布やタオルケットなどで見えなくなっているものがあるにちがいない。本の栞(しおり)は、探したら何枚か出てくるのではないか。

2025年7月29日火曜日

糠漬けスイカ


 わが家にとっては「高級品」のメロンが、カミサンの知り合いから届いた。お福分けである。

 カットして冷やしたのを食べた。みずみずしくて甘い。そして、やわらかい。室温30度超の茶の間で味わうメロンは、「一服」どころか「一福」の涼である。

食べ残した果皮を見て、カミサンが言う。「糠漬けにしたら」。そうだ、その手もあった。

ウリ科の果菜は漬物になる。トウガンもウリ科の植物だ。漢字では「冬瓜」と書く。「冬まで持つ瓜」ということなのだろうが、旬は夏である。

 ある年の夏の終わり、旧知の篤農家を訪ねると、帰りにおみやげをもらった。なかにトウガンがあった。

トウガンは煮物が定番。それでも食べきれない。皮をむき、種とワタを取って糠漬けにした。

白く硬い生のトウガンが、乳酸菌と塩分のはたらきによって一夜でしんなりした。かすかだがメロンのような甘みがある。まずまずの味だった。

たまたま東京からやって来た客人に、初めて漬けたトウガンを酒のつまみとして出したら、うなった。

秋のハヤトウリも、小ぶりなものは皮をむかずに四つ割りにして、糠床に入れる。24時間、36時間と漬けておく時間を変えた。どちらも漬かっていたが、36時間の方がご飯のおかずにはよさそうだった。

メロンもキュウリと同じウリ科の植物だ。外果皮は硬くて食べられない。が、内側の果皮は糠漬けにできる。

包丁で外果皮をカットし、甘みが薄く、硬くなって食べ残した内果皮を糠床に入れる。

食べ残しだから内果皮は薄い。すぐ漬かる。昼前に入れたら、夕方には取り出す。ご飯のおかずというよりは酒のつまみだ。

口に入れやすいサイズにカットして冷凍した=写真上1。晩酌をやりながら、これをつつく。メロンの甘さと、内果皮のほどよい硬さ、そして塩味が口の中で絡み合う。ま、量も少ないし、珍しい「冷果」には違いない。

数日後、今度は別ルートで小玉のスイカが届いた。これも冷やして食べた。赤く熟した中身と外果皮の間に白い内果皮がある。小玉なのでそう厚くはない。1センチあるかないかだ。

これも外の皮をカットして、糠床に入れた。夜になっていたので、翌朝6時に取り出し、メロンと同じように一口大にカットして、冷蔵庫に入れた。これも晩酌のつまみにした=写真上2。

スイカのほのかな甘さ、くせのない歯ざわり。硬いものが食べづらくなった年寄りにはむいている。メロン同様、こちらも量は少ない。やはり珍味だ。

   ま、畑の肥やしになるか、食べきるか、どちらかだから、たまには遊びとして酒のつまみをつくってみた、という話。 

2025年7月28日月曜日

最後の刺し身

                                
 毎週日曜日の夕方、刺し身を買いに行った魚屋さんが7月25日で店を閉めた。持病の腰痛が悪化しての廃業である。

 若いときはしょっちゅう職場から飲み屋へ直行し、何軒かはしごをした。30代に入って間もないある日、やはり街で飲み会があった。そこから若い仲間と家の近所のスナックに流れて二次会をやった。

そのとき出てきたカツ刺しがすこぶるうまかった。「こんな新鮮な刺し身をどこから手に入れるの?」

草野の魚屋さんからだという。ママさんは車に乗らない。電話で注文すると届けてくれる。

魚屋さんは車で5分ほどの国道沿いにある。知らなかった。で、それから日曜日の魚屋さん通いが始まる。

夏場はむろんカツ刺しオンリーだ。秋になるとこれにサンマが加わり、カツオが切れる冬場はタコ、イカ、イワシ、メジマグロなど、あるもので盛り合わせにしてもらう。

先代はいうまでもない。跡を継いだ息子さんからも、その都度、魚や海の話を聞いた。魚はもちろんだが、海のことはまったくわからない。毎回、蒙(もう)を啓(ひら)かれた。

2代目は、私よりは一回り若い。こちらがヨボヨボになっても、日曜日は刺し身が食べられる。

それを全く疑わなかった。が、7月最初の日曜日、6日。「7月25日で店を閉めます」。突然の廃業宣告だった。

日曜日は、あと2回、13日と20日しかない。20日は参院選の投票管理者になった。カツ刺しを食べるのは前日の19日土曜日か、翌日の月曜「海の日」だ。

迷っているところへ、若い仲間から連絡があった。7月25日に飲みに行く。それで決まった。

選挙の前の晩、一日早く刺し身を買いに行き、併せて最終日の7月25日にも刺し身を盛り付けてもらうことにした。

この40年間、東京方面から友人が泊まりに来たり、仲間が飲みに来たりすると、決まって「カツオパーティー」を開いた。

そもそもは子どもが小さかったころ、わが家に何家族も集まって「カツオパーティー」を開いたのが始まりだった。

大人はアルコールと談論を、子どもたちも食事をして、庭で線香花火をやったり、店の文庫(地域図書館)で絵本を読んだりして楽しんだ。

画家や陶芸家、新聞記者や市職員、カミサンのPTA仲間と子どもたち、総勢20~30人が居間と庭にあふれた。

それもこれも、新鮮なカツ刺しが手に入るからだった。その意味では、25日はそこからの刺し身の食べ納め、ラストパーティーだ。

前日にマイ皿2枚を持っていき、当日夕方4時半には刺し身を受け取り、40年余のお礼を述べる。

客人が「ゲストハウス」(近所の故義伯父の家)に到着するとすぐ、いわれを説明して冷蔵庫から刺し身を出した。

カツオをメーンに、スズキのあぶり、ヒラメとえんがわ、タコが盛り付けてあった=写真。

これを2皿。この魚屋さんの刺し身はもう終わり。いささかの感傷も加わり、しみじみと楽しい気分になる。昵懇にしていた魚屋さんの店じまいにふさわしい、いい飲み会だった。

2025年7月26日土曜日

「先に行って待ってるわ」

                                 
 漫画家やなせたかしと妻の暢(のぶ)をモデルにした朝ドラ「あんぱん」は、梯久美子の評伝『やなせたかしの生涯』(文春文庫、2025年)を読んだこともあって、つい実人生を重ねながら見てしまう。

 最近また、この本を読み返している。茶の間の座いすのわきに資料を積み重ねて置いている。その上に読みかけの本が10冊余り。その中の1冊で、朝ドラと連動するようにピンポイントで本を開く。

 7月第4週は、「若松のぶ」が「柳井嵩(たかし)」より先に上京するところから始まった。

 2人とも「高知新報」の記者である。「のぶ」の方が少し早く入社した。共に「月刊くじら」の編集部に所属している。

 7月第4週初回、21日。職場で2人きりになった「のぶ」と「嵩」が向かい合う。すると、評伝にある言葉が思い浮かんだ=写真。

「先に行って待ってるわ」。それを言うのはこのシーンしかない。絶対ここで言う。そう思って待ち構えていたら、案の定だった。

正確には高知弁だったような気がするが、この決め台詞にはしびれた。2人は上京して一緒に暮らすようになる。それを暗示する言葉でもある。

「のぶ」の上京からしばらくたって「嵩」も上京するのだが、そのためには「高知新報社」を辞めなくてはならない。大地震でふんぎりがついた。

史実では、1946(昭和21)年12月21日午前4時19分ごろに発生した「昭和南海地震」である。

震源は和歌山県南方沖で、M8.0の巨大地震だった。高知県と徳島県、和歌山県を中心に、死者・行方不明者は1443人、損壊家屋はおよそ4万戸に及んだ。

これは評伝の記述。「まだ夜の明けない四時過ぎに、嵩は激しい揺れで目をさました。だが、野戦重砲兵だった嵩は、ドカン! ドカン! と大地を揺らす砲撃の響きに慣れていた。行軍の経験から、どんな環境でも眠れる体質になっていたこともあり、揺れがおさまったらまた寝てしまった」

同僚記者たちはすぐに出社して取材を始め、「嵩」が職場に到着したころには、もう原稿が出来上がっていた。

自分はジャーナリストとして不適格――。そう悟って嵩は退職することを決め、暢を追って上京する。

 ドラマでは、「のぶ」が上京したと思ったら(21日)、すぐの大地震である(23日)。やがて「嵩」も上京し、再会した「のぶ」に赤いハンドバッグを贈り、同時に愛を告白する。

   それを聞いて「のぶ」が「嵩」に飛びつき、愛を受け入れるところで7月第4週が終わった(25日)。

 ついでにその後の史実を言うと、2人はやがて中目黒の焼け残りのアパートに住むようになる。

いわきにJターンして新聞記者になるまで、私も中目黒の古い木造住宅の2階で間借り生活をしていた。中目黒らしいマチが登場するのかどうか、いよいよ目が離せない。