2025年8月16日土曜日

ヒトツバタゴ

        
 日本野鳥の会いわき支部の元事務局長氏から手紙が届いた。昨年末までいわき市に住んでいたが、今は千葉県の娘さんの家に近い老人施設にご夫婦で入居している。

 ネットのいいところで、いわきを離れても毎日欠かさず拙ブログを読んでいる、とあった。

 先日はそのブログにコメントが届いた。2023年6月13日付の拙ブログで八重咲きのドクダミの花を紹介した。たまたま最近それを読んだのだろう。

自分も8年前、いわきで八重のドクダミの花を撮影し、自作の俳句を添えてNHK福島放送局に投稿し、「はまなかあいづ」の中で紹介されたことを思い出したという。手紙には、そのときの写真のコピーなどが同封されていた=写真。

――と、ここまで書いて、ずっと中断したままになった。忙しかったのと、カラ梅雨で酷暑が続いたために、手紙の返信を兼ねたブログはなかなか書けなかったのだ。

8月9日は、起きると室温が26度だった。涼しい。扇風機が要らない。「真夏日」になる前に「宿題」をやらなくちゃ。それでまず、中断したブログの文章と向き合うことにした――。

NHKに投稿された写真と文に添えられていた俳句は「吉相か八重どくだみに足を止め」。そもそもが画像と俳句を募る視聴者投稿欄だったとか。

いわきの自宅付近を散策中、ドクダミの花が咲いていた。なかに八重の花があった。それを見つけたときの心躍る様子が伝わってくる。

手紙では、投稿に使ったハンドルネーム「なんじゃもんじゃ」についても触れていた。「なんじゃもんじゃ」は俗称で、和名は「ヒトツバタゴ」という。いわきには自生しない。

有名なのは明治神宮外苑のヒトツバタゴ。その木は、今は3代目だ。初代、2代と続いた経緯を説明する同神宮外苑の広報文が添えられていた。

 同じ団地内に植えられていたヒトツバタゴに魅せられた元事務局長氏は、家を建てる際、同外苑庭園課から種の提供を受け、自宅の庭で育てた。

 ところが芽生えたのは雄株だったため、造園会社経由で雌株を取り寄せ、見事採種にこぎつけた。

 主のいなくなったいわきの家の庭では今年(2025年)もヒトツバタゴの花が咲いた――知人から満開のヒトツバタゴの画像が送られてきたという。

 ヒトツバタゴの花を見たことはない。ネットにある写真の印象を言うと、花は白く細長い4弁花のようだ。満開時には木全体が白く包まれる。

この花の印象から「なんじゃもんじゃ」になったのだろうか。いやいや、木自体が珍しい。よくわからない。わからないから「なんじゃもんじゃ」の木になったのだろう。

「なんじゃもんじゃ」の連想で、似たような言葉が不意に浮かんだ。「うどんげ」。クサカゲロウの卵で、何かの葉のヘリから垂れるようにして空中に浮かんでいるさまが不思議を誘う。

ついでながら、わが家の庭のドクダミは、今年も、去年も八重はなく、普通の花ばかりだった。

2025年8月15日金曜日

戦後80年

                                               
   8月に入ると決まって故義父の句集『柿若葉』を開く。三回忌に合わせて1999(平成11)年4月に出版した。

なかに「八時十五分車中で合掌原爆忌」がある=写真。その前後には「原爆忌老兵いまだ消えざりし」と「敗戦の記事の破れし古新聞」が載る。

8月。6日広島。9日長崎。そして、15日敗戦。今年(2025年)は「戦後80年」、つまりは「被爆80年」に当たる。

6日の広島平和記念式典はいつものようにテレビの生中継で見た。こども代表の「平和への誓い」、広島市長の「平和宣言」、首相と県知事の「あいさつ」を聞いた。

なかでも知事のあいさつには共感した。(翌日すべての文章が新聞に載ったので、切り抜いて保存し、時々読み返すことにする)

「国守りて山河なし」。原詩は中国の詩人・杜甫の「春望」で、五言律詩の最初の1行に「国破れて山河あり」が出てくる。ネット上の解説を借りる。

国は滅びてしまったが、山や川は昔と変わらずにある。戦乱や災害などで国が破壊されても、自然はちゃんと残っている――。

知事はこれを逆転して用いた。「もし核による抑止が、歴史が証明するようにいつか破られて核戦争になれば、人類も地球も再生不能な惨禍に見舞われます」

続けて「概念としての国家は守るが、国土も国民も復興不能な結末が有りうる安全保障に、どんな意味があるのでしょう」。

地球温暖化が言われて久しい。自然環境が悪化し、先々懸念される事態になってきた。「山河なし」は、まずそのことを象徴する言葉としてとらえることができる。

そして、核抑止力を声高に叫ぶ人たちが増えていることへの懸念。「歴史が証明するように、ペロポネソス戦争以来古代ギリシャの昔から、力の均衡による抑止は繰り返し破られてきました。なぜなら、抑止とは、あくまで頭の中で構成された概念又は心理、つまりフィクションであり、万有引力の法則のような普遍の物理的真理ではないからです」

ずっとあった頭の中のモヤモヤが一気に晴れた。そうだ、これなんだ!という、発見にも似た思い。

「自信過剰な指導者の出現、突出したエゴ、高揚した民衆の圧力」。この三つ目の民衆と呼応しあうのは、私もメシを食ってきたマスコミだ。

半藤一利『新版 戦う石橋湛山』(東洋経済新報社、2001年)から、先の戦争の「愛国報道」を拾う。

「当時の日本人が新聞と放送の愛国競争にあおられて『挙国一致の国民』と化した事実を考えると、戦争とはまさしく国民的熱狂の産物であり、それ以外のものではないというほかはない」

メディアはお先棒をかつぎ、国民もまたそれに呼応して愛国を叫ぶ。権力にとっては好都合の状態だった。それを忘れてはいけないということだろう。

「戦後」が「戦後」としてずっとあるためには何が必要か。国民的熱狂には染まらない。まずはその覚悟を持つことだと自分に言い聞かせる。

2025年8月14日木曜日

シベリア学

                                                
    総合図書館の新着図書コーナーに高倉浩樹『シベリア3万年の人類史――寒冷地適応からウクライナ戦争まで』(平凡社、2025年)があった=写真。

著者は社会人類学、シベリア民族誌学を専攻する、いわき市出身の東北大学教授だ。

若いとき、シベリアに抑留されたアマチュア画家と親しくなり、強制収容所の暮らしを記録した絵と文章を、画文集として出版する手伝いをした。

広沢栄太郎著『シベリヤ抑留記 ある捕虜の記録』。絵を残すまでの本人の執念に心を揺すぶられた。以来、時折シベリアのことが頭に浮かぶ。

画家は朝鮮半島で敗戦を迎えたあと、ソ連軍によってシベリアへ抑留される。ラーゲリ(収容所)では過酷な労働を強いられた。食事は粗末だった。仲間はそれで次々と衰弱して死んだ。

詩人の石原吉郎も抑留を体験した。仲間が亡くなる前、ラーゲリの取調官に対して発したという最後の言葉を記している。

「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

「あなた」とはソ連のスターリニズムそのものだったろう。そしてそれは、今のロシアにもいえることではないか。

画家は鉛筆で小さなザラ紙に数百枚のスケッチを描きためた。それを、帰国集結地ナホトカの手前で焼き捨てた。没収されるのがわかっていたからだった。

復員するとすぐ2カ月をかけて、2年半余の強制収容所生活を50枚の絵と文にまとめた。

 それから四半世紀がたって、当時、いわきの先端的なギャラリーだった「草野美術ホール」で個展を開いた。「シベリヤ抑留記」も展示した。

記者になりたてだった私は、取材でかかわったのを機にホールのおやじさんらと画集出版の話に加わり、編集を担当した。

2016(平成28)年8月、高専の仲間4人でサハリン(樺太)を旅した。対岸シベリアのアムール湾とウスリー湾にはさまれた半島の先端・ウラジオストクと、その東方にあるナホトカの港も巡った。

同級生の一人が学校を出ると、船で横浜からナホトカへ渡り、さらにシベリア鉄道を利用して、北欧のスウェーデンにたどり着いた。

彼はそこで仕事を見つけ、家庭を築き、死んだ。その原点がナホトカだった。ナホトカでは若いときの同級生を思い、シベリアから帰国するいわきの画家の幻影を追った。

これらシベリアがらみの極私的体験がよみがえり、さらにシベリアの今を知りたくて、新着図書を手にした。

 人類史的研究の本題はこれからじっくり味わうとして、地球温暖化が進むと「寒冷地」はどう変化するのか、まずその章を読んだ。

 永久凍土の融解で地面の凸凹が大きくなり、道路などのインフラに影響が出ている。川面の凍結期間が縮小し、「冬道路」としての利用期間が減った。「解氷洪水」が増大している――という。しかも、それらはほんの一例らしい。

 地球温暖化は地域温暖化であり、シベリアではそれが大地と暮らしのひずみとして現れている。なんということだろう。

2025年8月13日水曜日

「白骨」の森

 万緑の夏。確かに山は緑一色だ。が、谷間の木の1本1本がわかるところまで近づくと、ため息が漏れる。

 いわき市平の平地から「地獄坂」を超えて夏井川渓谷に入り、磐越東線の江田駅付近まで進むと、対岸(右岸)の森に「白骨」が目立つようになる。

 白骨は立ち枯れて白くなった木の幹である。この立ち枯れ木が年々増えている印象が強い。

 どんな木が枯れたのかはよくわからない。が、この30年見続けてきた結果として、二つだけはっきりしていることがある。

 一つは松枯れ。阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きた1995(平成7)年初夏から、渓谷の隠居に通い続けている。そのころは、対岸のアカマツはまだ元気だった。

ところが、そのあと次第に変化が現れる。常緑の松葉に黄色いメッシュが入り、「茶髪」に変わったと思ったら、樹皮の亀甲模様もやがてはげ落ち、白い幹と枝だけの「卒塔婆」になった。

「針葉樹は酸性雨に弱い。夏井川渓谷の松枯れはそれだろう」「松くい虫が原因」。専門家の意見は分かれたが、結果として渓谷では大きな松がほぼ消えた。

それで松枯れはいったん収まったが、東日本大震災の前後からまた変化が現れた。松枯れ被害を免れた若い松に茶髪が目立つようになったのだ。

隠居の対岸、一番手前の尾根のてっぺんにある一本松が最近、茶髪に変わった=写真上1。これからまた渓谷では松枯れが始まるのだろうか。

それと、もう一つ。渓谷では「ナラ枯れ」が広がりつつある。最初に気づいたのは2020(令和2)年8月の月遅れ盆のころだった。

平野部から高崎地内に進み、これから渓谷に入るというあたりで、広葉樹の葉が数本枯れていた。夏なのに、なぜ? 日本海側で発生した「ナラ枯れ」が太平洋側でも目立つようになったのだった。

ナラ枯れは、体長5ミリほどのカシノナガキクイムシ(通称・カシナガ)が「犯人」だ。雌がナラ菌やえさとなる酵母菌などをたくわえる「菌嚢(きんのう)」を持っている。雄に誘われて大径木のコナラなどに穿入(せんにゅう)し、そこで産卵する。菌が培養される。結果として木は通水機能を失い、あっという間に枯死する。

カシナガの幼虫は孔道内で成長・越冬し、翌年6~8月、新成虫として一帯に散らばるので、被害もまた拡大する。

渓谷の県道沿いでも、崖側、谷側と両方で大木がナラ枯れを起こし、倒木・落枝の危険が増した。

 事故の未然防止のために伐採された崖の大木もある。さらには先日、逆さになって崖の金網に引っかかっているものがあった=写真上2。途中から車が通れるように切断されている。その直径だけでも30センチ近くはあるようだ。

    しかし、車が通れるからいい、ではすまされない。いつ落下するか。ちょうど車が通ったときに、ドサッときたら……。毎回ひやひやしながら通る。 

2025年8月12日火曜日

初めてのお使い

                               
    接骨院に通っているカミサンが本棚を片付けているうちに無理をしたらしい。数日前から左足に痛みが走り、日曜日(8月10日)は朝からベッドで横になっていた。腰痛と関係しているのだろう。

  平日には平日の、日曜日には日曜日の家事がある。三度の食事の用意、これは毎日のことだが、日曜日はさらに夏井川渓谷の隠居での土いじり、刺し身の買い物が加わる。

カミサンが分担していた家事のすべてを、そして「さくらネコ」のゴン=写真=のえさやりも含めて、「お願いね」という。

 この日は朝から曇天で、時折、小糠雨が降った。隠居へ行くのは断念し、一日家で文章読みの「仕事」を続ける。

 朝は卵焼きと味噌汁が定番だ。おかずはほかに糠漬けと市販の味噌漬け。ご飯は前日の残りがあった。冷や飯である。味噌汁はつくらない。卵は焼かずに、卵かけご飯にした。

 ほかに、サンドイッチや牛乳などが冷蔵庫にある。カミサンが何か食べようと思えばなんとかなるだろう。

 昼は、カミサンの注文でコンビニからおにぎりとサンドイッチ、トマトジュースなどを買って来た。

サンドイッチは私、おにぎりとトマトジュースはカミサン。カミサンはしかし、トマトジュースを少し飲んだだけで、またベッドに戻った。

どちらも後期高齢者だ。今のところ自分の足で動き回り、自分の手で食事も仕事もできる。

介助・介護はいずれ必要になるかもしれないが、現時点ではまだ遠い話だと思っていた。

が……。突然、カミサンが歩けないほどの痛みに襲われた。カミサンの仕事が、それでこちらに回ってきた。

とにかく三度の食事の用意が大変なことがわかった。しかも、すぐその時間がくる。夕方には、あらためて声がかかった。「刺し身を買って来て」

いつもは魚屋さん(7月25日で店を閉めた)であれ、スーパーであれ、夫婦で行く。今回はひとりだ。

刺し身のほかに、欲しい飲食物を書いたメモを渡される。リポビタンD、カロリーメイト。ほかにアイスクリーム。「『はじめてのおつかい』みたいだね」と言って送り出された。

コンビニはともかく、スーパーへはアッシー君として行き、買い物かごを持ってついて回るだけだった。それを全部自分でやらないといけない。確かに、初めてのお使い、ではある。

どこに何があるかわからない。必要なものにたどり着くまで時間がかかる。レジもセルフではなく対面レジを選んだ。

夜、「モモが食べたい」というので、皮を付けたまま出そうとしたら、むくように言われる。

モモは種が大きい。リンゴみたいに真っ二つにはできない。すこし考えて、種をギリギリで迂回するように包丁で果肉を切った。皮を指ではがすと果肉がボロボロになる。あわてて皮も包丁でカットした。

主婦は三度の食事の用意だけでエネルギーと労力を費やす。そのことを、身をもって知る。これが連日となると……。ま、先のことは考えないようにしよう。

2025年8月9日土曜日

眼鏡のレンズを新調

                                 
   今度は目か。何度も引用して恐縮だが、江戸時代中期に生きた尾張藩士で俳人の横井也有(1702~83年)の狂歌が頭をよぎった。

「皺はよるほくろはできる背はかがむあたまははげる毛は白うなる」「手は震ふ足はよろつく歯はぬける耳は聞こえず目はうとくなる」

 先日、遠近両用レンズを新しくした=写真。この何年か、度数が合わなくなっていた。車を運転するときには眼鏡をはずした方がかえってよく見える。しかし、いつまでもそんなことをしているわけにはいかない。

 レンズが合わなくなっていると感じたのはいつだったか。2年前、後期高齢者として初めて運転免許を更新した。そのころから眼鏡をはずしたり、かけたりしていたのを覚えている。

 そうこうしているうちにレンズの曇りが取れなくなった。眼鏡用の布でふいても、ティッシュペーパーでやっても、きれいにならない。きれいにしようとすればするほど、曇りが拡大するようだった。

レンズはコーティングされている。そのコーティングがはがれるとそうなる、とネットにあった。

新しいレンズにしよう。7年前に眼鏡を新調した店で視力を計り、それに見合った遠近両用のレンズを選ぶ。

眼鏡の汚れを取るにはクリーナーでシュッとやり、指で軽く回したあと、ティッシュペーパーで泡をふき取る――。

最初からティッシュペーパーでこするのではなく(それ自体レンズにはよくないそうだ)、泡をふき取るのに利用する。スタッフが実演するのを見て、なんとレンズによくないことばかりしてきたことか、と反省する。

也有の自虐ネタではないが、肉体の老化が止まらない。今年(2025年)は歯の治療をした。経過観察中の歯もある(いずれまた行かないといけない)。

それに続く目だ。新しいレンズにすると、驚くほど世の中がはっきり見えた。ピントが細かいところまで合って明るい。

「プ」と「ブ」、「6」と「8」と「9」がはっきり区別できる。すると、頭の中のもやもやも晴れた。

次はなんだ? 也有の狂歌を反芻していたら、すぐ思い当たった。「耳」である。「毛は白うなる」である。

ひげは3日ごとに電気カミソリを当てる。若いころは毎日剃った。日をおくと、もみあげからあごにかけて、すぐ黒くなった。それが3日たっても目立たない。

ちょっと伸びたのを鏡で見たら真っ白だ。これでは昔話に出てくる「翁(おきな)」と同じではないか。

白いひげは、日常生活には別に影響がない。が、耳はトンチンカンの原因になる。別用のついでに立ち寄った90歳の「お姉さん」に、カミサンが耳の聞こえがおかしい話をした。すると、「長生きするわよ」。なんともうれしいような、悲しいようなコメントが返ってきた。

2025年8月8日金曜日

生きものだって暑いのだ

                                
 平七夕は雨に縁がある。とはいえ、8月6日はやはりきつかった。5日のような「べらぼうな暑さ」ではなかったが、室温は30度を超えた。朝から茶の間で扇風機をかけて文章読みの「仕事」を続けた。

 庭に面したガラス戸も玄関も、ほかの部屋の窓もすべて開けっぱなしにしている。庭の虫たちからみると、茶の間は庭の延長でしかない。

 庭の柿の木のセミは、今年(2025年)は鳴き出すのが遅かった。音も例年よりはかぼそい。酷暑が影響しているのだろうか。

 この時期になると、庭から茶の間に飛び込んで来るセミがいる。この夏はしかし、まだ現れない。代わりにアオスジアゲハがやって来た。

 茶の間をヒラヒラ飛び回っていたかと思うと、床の間の小さな仏壇に止まった=写真上1。

 アオスジアゲハは、庭のイボタノキの花が満開になる5月下旬、吸密に現れる。が、今年は姿を見なかった。

 黒い翅(はね)に、縦に貫くように青緑色の筋が入っている。この模様に引かれて毎年、庭に現れるのを待つ。「遅いなぁ、遅いなぁ」。そう思っていたところへやっと現れたのだった。

いわきでは普通のアゲハと思っていたが、南方起源のチョウである。地球温暖化の影響で北上を続けているのだとか。

その2日前の8月4日。座卓で資料の整理をしていると、パソコンのそばに体長2センチほどの小さなカマキリが来て止まった=写真上2。

 庭から飛び込んできたのだろうが、なにかの拍子に潰してしまわないとも限らない。ここはそーっと玄関前の鉢植えに引っ越し願った。

 名前の知らない蛾もよく座卓に現れる。その都度写真に撮るのだが、種の同定が難しい。しかし、翅(はね)の色とデザインには引かれる。

 毛皮を着ているネコたちもこの酷暑には苦労しているようだ。このごろよく現れる「さくらネコ」のシロは、車の下に潜り込んで日差しを避けていた=写真上3。

同じ「さくらネコ」のゴンは、玄関前に置いた石うすの上で休んでいる。あちこち探して見つけた石のひんやりスポットなのだろう。

 仏壇のアオスジアゲハの話に戻る。そこで休むこと1時間半。アオスジはまた茶の間をヒラヒラ飛び回ったあと、玄関から庭へ出ていった。

 虫であれ、ネコであれ、この暑さにはげんなりしている。おまえさんたちも大変だな。そんな思いもわく異常な暑さだ。(この文章をアップした8日、今度はスズメバチがやって来た。これだけは困る)