2025年6月25日水曜日

37回忌追悼イベント

                               
   「舌頭に港町十三番地ひばり逝く」。二日酔いの頭に字余り俳句がポロリと口をついて出た。

美空ひばりさんが亡くなったのは1989(平成元)年6月24日午前零時28分。土曜日だったので、たぶん朝のニュースで彼女の死を知った。

その日の夜、「いわきの里 鬼ケ城」でまちづくり団体関係者の合宿に加わり、夜を徹して酒を飲み、議論した。

そのあと、夜明け前の野鳥の合唱に誘われて外に飛び出した。うっすら明けかけた空の下、バンガローが並ぶキャンプ場をうろつきながら、彼女のヒット曲「港町十三番地」を口ずさんでいた。それが冒頭のへぼ俳句につながった。

それから36年後の今年(2025年)。6月22日の日曜日は、磐越東線小川郷駅前で8時から朝市が始まるのに合わせ、早めに家を出た。朝市で野菜を買ったあと、夏井川渓谷の隠居で少し土いじりをした。

9時を過ぎると郡山行きの、次いでいわき行きの2番列車が通過した。2番列車の前に土いじりをすませたのは、ここ何年かでは初めてだ。

それから1時間余りたって、カミサンから声がかかった。「海へ行こう」。薄磯海岸にあるカフェ「サーフィン」で昼食をとろう、という意味である。

カミサンは部屋を夏座敷に切り替え、私も生ごみを埋め、草をむしったあとはやることがない。じっとしていても汗がにじむ。海風のイメージに誘われて、ここは素直にアッシー君を務めることにした。

ヤマ(渓谷)からハマ(薄磯)へ。平市街経由でおよそ1時間、サーフィンには正午前に着いた。

 私はグリルサンド、カミサンはナポリタン。サーフィンではいつもこのパターンだ。それを食べ終えるころ、先客の女性からスマホで誘われたらしく、地元の女性が来店した。塩屋埼灯台の下を通って来たという。

灯台のふもとには「雲雀乃苑(ひばりのその)」がある。そこが人でいっぱいだった。そうだ! ひばりさんの命日に近い日曜日である。雲雀の苑では追悼イベントが行われているのだ。

ひばりさんは晩年、長い入院生活のあと、いわきの塩屋埼の海をモチーフにした「みだれ髪」と「塩屋岬」で「復活」を果たした。

その縁で「みだれ髪」の歌碑と遺影碑、「永遠のひばり像」が灯台のふもとに立つ。去年10月には、京都太秦(うずまさ)映画村にあったブロンズの「ひばり像」が移設された。

その像が、3・11の大津波で亡くなった人々を悼む姿に見えることから、映画村閉館後の安置先として雲雀乃苑が選ばれたのだった。

これは、見にいかなくては……。しかし、駐車場はどこも満パイだった。カミサンに頼んで、助手席からパチリとやって通り過ぎた=写真。

37回忌である。地元の「歌手」が出演し、じゃんがら念仏踊りが披露されたという。

ひばりさんを偲ぶファンの多さに驚き、歌手としては別格の存在だったことをあらためて実感した。

2025年6月24日火曜日

日陰の花

                                            
   この花=写真=を見るのは3年ぶりだった。しかも、隠居の庭に現れた。変わった植物である。名前はサイハイラン。

6月1日の日曜日に地区の球技大会が開かれたため、夏井川渓谷の隠居へ行くのは1日遅れて翌2日になった。

いつものように菜園の隅に生ごみを埋めたあと、隠居の庭をウオッチングした。枯れてキノコのなる木がある。アラゲキクラゲはと見れば、なかった。

根元には剪定枝が積み重ねられている。そこにもキノコはなかった。ん? 代わりに、菌根共生をするサイハイランがあった。花が咲いていたのでわかった。

3年前の2022年5月中旬、同じ隠居の別の場所でサイハイランが咲いていた。そのときのブログがある。一部を要約・再掲する。

――隠居と道路の境に前週まで気づかなかった花のつぼみがあった。サイハイランだ。前に検索してわかったのだが、サイハイランは「部分的菌従属栄養植物」らしい。

サイハイランは緑色葉を持っているが、薄暗い林床にいるため独立栄養だけで生育は難しいと考えられていた。

そこで研究が進められた結果、ナヨタケ科の菌類と菌根共生をしていることがわかった。ナヨタケ科のキノコはヒトヨタケ、キララタケ、イヌセンボンタケなどだ。

緑色葉を持ちながらも菌根菌に炭素を依存する「部分的菌従属栄養植物」である可能性が考えられるという(谷亀高広「菌従属栄養植物の菌根共生系の多様性」)。

ある年突然、サイハイランが庭のモミの木の下に出現した。それがわが隠居での出現第1号だった

2022年は隠居と道路との境に5株も現れたが、前に出現したモミの木の下には影も形もなかった――。

そのモミの木の下に現れたときにも(菌根共生系とは知らずにいた)、ブログ(2020年6月11日付)に書いた。それも要約して再掲する。

――おやっ、サイハイランではないか。こんな薄暗い庭に生えるなんて、キノコの力でも借りてるんじゃないの?

脳内にナラタケと共生する腐生植物のツチアケビの姿が浮かぶ。ツチアケビは光合成をおこなう葉を持たない。代わりに、養分をすべてナラタケに依存しているという。

 サイハイランもツチアケビと同じラン科の植物だ。ネットで調べたら、やはりキノコと関係があった。

毎年、渓谷を縫う県道小野四倉線のどこかでサイハイランを見る。5月も後半になると県道は緑のトンネルに変わる。薄暗い道端の草むらで淡い紫褐色の花が下向きに咲いている。

2020年も6月7日、車を運転中に目に入った。帰りに写真を撮る。そう決めて隠居に着いたら、庭にあった。庭に生えたのは初めてだった――。

サイハイランは漢字で「采配蘭」と書く。花の付き方が、武将が軍勢を指揮するときに手にする「采配」に似ているからだという。

名前は物々しいが、たたずまいはひそやかだ。6月8日には2本になり、同15日には3本が咲いていた。22日にはそれらしい花茎を1本だけ残して消滅していた。

2025年6月23日月曜日

締め切りだけが人生だ

                                 
   唐詩選の原作を離れて広く日本人に浸透した井伏鱒二の超意訳がある。「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」

 この名句にならって、ときどき口の中でつぶやく言葉がある。「締め切りだけが人生だ」。10年前の拙ブログでも「締め切りのある人生」について触れている。

作家の故清川妙さんのエッセー集『清川妙 91歳の人生塾』(小学館)に、「締め切り」の話が載る。

「心に締め切りを持とう」というタイトルで、「39歳で執筆生活をはじめて以来、ひと月も休まず、締め切りというものと付き合ってきた」として、こう述べる。

「もしかしたら私にとって締め切りとは、ひとつの挑戦なのかもしれない。(略)何も意識しなくても日々流れていく時間を、あえて自分で意識して管理していくこともある」。それに触発されてこんなことをブログに書いた。

 ――2007年秋に会社を辞めて、やっと「締め切り」のない生活を楽しめると思ったのも束の間、年が明けると次第に落ち着かなくなった。

ちょうどそのころ、若い仲間から「ブログをやりましょう」と声がかかった。アナログ人間なので、デジタルの知識・技術にはうとい。

全部セットします、文章を打ち込むだけでいいです、というので、2008年2月下旬、「新聞コラム」の感覚で「ネットコラム」を始めた。

一日に1回は自分に「締め切り」を課する。一日をその「締め切り」を軸にして編集する。

しかし、それだけが「締め切り」ではない。回覧物を配る、所属する団体の書類をつくる、案内はがきを印刷して投函する。そういったことにもすべて「締め切り」がある。

締め切りが終わったら、次の「締め切り」がやってくる。その繰り返し。締め切りが自堕落になるのを防いでいるのかもしれない――。

原稿だけではない。年度が新しくなると、区内会に各種の依頼・要請が届く。これも期限、つまり締め切り付きだ。

回覧の文章を作って隣組に配るのだが、やはり期限=締め切りを明記せざるを得ない=写真。

前年度までは広報資料の配布が月に3回あった。この4月からはそれが1、15日の2回に替わった。

回数が減ったのはいいのだが、期限(締め切り)の関係で月2回の回覧では間に合わないものも出てくる。

たとえば、一斉清掃。今年(2025年)は6月8日だったが、1日に市から提供を受けたごみ袋を、回覧網を通じて配るとその日までに間に合わないかもしれない。

で、5月20日、臨時に回覧網を使って配布した。これも実施日=期限を逆算してのことだ。

6月は、1日の「広報いわき」などの配布のほかは、予定がない。つまり、15日は配布が休みになった。

一時的に締め切りから開放されるとはいえ、なにがあるかわからない。回覧配布回数が減れば減ったで、「締め切りだけが人生だ」という思いが強まる。やはり、地元の回覧物があって、15日前後に配布した。

2025年6月21日土曜日

すべてが歌のネタ

                 
   東日本大震災とそれに伴う原発事故のあと、市民は災禍をどう受け止めたのか、朝日の新聞歌壇をウオッチしたことがある。

被災者自身の作品が登場するのは2011年4月に入ってからだった。それからさらに1カ月後の5月16日、いわき市在住読者の短歌「ペットボトルの残り少なき水をもて位牌(いはい)洗ひぬ瓦礫(がれき)の中に」(吉野紀子)が掲載された。

 短歌の評。「小名浜の人、仏壇にあった位牌を瓦礫の中から拾い上げた。飲み水も乏しい中でペットボトルの水で洗う。絆への切実な思いが伝わる」(馬場あき子)

 作者の吉野さんはカミサンの高校の同級生だ。カミサンとのやりとりのなかで知ったのだが、吉野さんは、もともとは俳人だ。

震災直後はなぜか、俳句ではなく短歌が生まれた。それを新聞歌壇に投稿すると、複数の選者が選んだ。年間の優秀作品に贈られる「歌壇賞」にも選ばれた。

 自分自身の体験ではなく、大津波で壊滅的な被害を受けた豊間方面へ出かけたときの実景を詠んだそうだ。

巨大地震は東北地方の沿岸部に甚大な被害をもたらした。その惨状は五七五では詠みきれない、プラス七七が必要だったのだろう。

 吉野さんの作品を選んだ一人、馬場あき子さんがこの3月で半世紀に及ぶ朝日歌壇の選者を辞した。そのインタビュー記事が先日掲載された。

 併せて載った「朝日歌壇の歴史」のなかで、東日本大震災の項に吉野さんの作品が引用されている。

馬場さんの「歌の心得」として、「歌の種は体の中に自然に埋まってくる」「心に収めていると出てくるんです。日頃生きていることは全てネタだと思えばいい」というくだりに目が留まった。

この言葉から浮かび上がってくるのは日常をやり過ごさない、日常を大切にする、ということだろう。

 手前みそながら、私もブログを書くにあたっては「日常を記録する」ことを基本にしている。

 非日常をニュースとして伝える仕事をしてきた。で、退職してからは逆に、日常の中にブログのネタを見つけるようにしている。

アメリカの写真家ソール・ライター(1923~2013年)は、ニューヨークの街角で、誰に見せるでもなく「日常にひそむ美」を撮り続けた。

ソール・ライターだけでなく、歌人としての馬場さんの姿勢、心得にもバイブレーション(共振)がおきた。

 馬場さんが6歳のとき、実母が亡くなった。継母はいわき出身の人で、継母を詠んだ歌が中山雅弘さんの『いわき諷詠』で紹介されている=写真。「ままはははやさしかりにき小名浜に貝焼き食べてなつきゐしわれ」

併せて、震災後に詠んだなかから一首。「ははと遊びし水石山はたすかりて地震のあとにほととぎす鳴く」

吉野さんの短歌も、『いわき諷詠』に載る。それもあって、新聞の評にあった「小名浜の人」が、今は新たな意味を持って迫る

2025年6月20日金曜日

断片をつなぐ

                                
 いわき市は平市街の東方、夏井川の堤防からの眺めである。2月には湯ノ岳の上にあった夕日が、今はずっと北の閼伽井嶽と水石山の上にある=写真。

 夕方、わが家から街へ行くとき、街から帰って来るとき、たまに夏井川の右岸の道路を利用する。そこから見る夕日が美しい。

 日没の位置は今が「北限」だろう。6月21日、1年のうちで最も昼が長い夏至を迎えるからだ。

春分あるいは秋分の日、日の出・日の入りは東西の線と重なる。春分のあとの夏至までは、日の出・日の入りの位置は北にずれる。そのあと、秋分から冬至までは逆に南に移る。

知識としてはわかっていても、住んでいる場所に当てはめるとどこがそれなのか、実はよくわかっていない。

個別・具体の断片をつないでいったとき、平の東部から見る太陽の軌跡が体感できる。

私の場合は、ブログに書き残しておいたおかげで、日没の南限と北限の位置が具体的に見えるようになった。

一つひとつはピース、つまり断片でしかない。が、つないでいけば実際的な知識になる。

各地に「種まき桜」があるように、日没の位置で田植えや稲刈りの時期を計る「田植え夕日」や「稲刈り夕日」があるかもしれない(と、これは単なる妄想だが)。

ノンフィクション、とりわけ自然科学系の本を読んでいると、それまでに得た知見 に断片的な知識が加わって、より確かなものになっていく。雑学の妙でもある。

たとえば、中西朗『渡り鳥から見た地球温暖化』(成山堂書店、2005年)。「はしがき」にこんな意味のことが書かれていた。

ハクチョウの繁殖地が温暖化の影響で暖かくなると、ハクチョウの食べ物である水生植物や昆虫が豊かになる。すると、生まれてくる若鳥が増える。

その結果、越冬地への飛来数が増える。越冬地もまた温暖化ですみやすくなっている、という。

これまでのハクチョウの雑学的な知見に新たな知識のピースが加わって、ハクチョウの生態が前よりはよく見えてきた。

前に紹介したギリシャ語の「カイロス」についても、新たな知見を得た。井上章一・磯田道史『歴史のミカタ』(祥伝社、2021年)の冒頭部分。磯田さんが「クロノス時間」を紹介したあと、「カイロス時間」についてこう述べる。

「カイロスはギリシャ神話の『機会の神』で、彼の頭髪は前髪だけで後頭部は禿(は)げている」。で、通り過ぎたら後ろ髪、つまりチャンス(機会)はつかめない。

「カイロス時間は何かのきっかけで発現する機会です。そのきっかけは戦争・災害・疫病の他に、技術発展が行き着くところまで行った時も含まれます」

まったく考えもしなかった、歴史家的「カイロス時間」の見立てである。これを断片のままにしておくと、今の私では理解しきれない。これまでの知識とつなぎながら、じっくり考えてみることにする。

2025年6月19日木曜日

道路をふさぐ木

                                 
   わが生活圏のいわき市平中神谷地内を起点、山形県南陽市を終点とする国道399号は、いわき市小川町上小川地内で平地から山地に分け入る。

二ツ箭山麓を過ぎたあと、山中の最初の小集落が現れる。横川(小川町)だ。夏井川の支流・加路川沿いにある。

横川集落から399号を折れて「母成(ぼなり)林道」を行くと、やがて山陰の夏井川渓谷(江田地内)に出る。渓谷が通行止めになったときの迂回・避難ルートでもある。

5月29日、この横川地内で崩落事故が起き、399号が全面通行止めになった。集落のちょっと先が現場で、林道の利用には支障がないらしいと知って、少し気持ちが落ち着いた。

崩落現場のずっと先、川内村といわき市を直結する「十文字トンネル」を少し行ったところに「獏原人村」がある。

そこの主人がいわきの契約者に鶏卵の宅配をしている。全面通行止めになって以来、「富岡を経由している」とこぼしていた。

事故からすでに3週間(6月19日現在)。十文字トンネルを利用すれば平までは40分といったところだが、今は下川内~県道富岡大越線~山麓線の大回りルートを余儀なくされている。

何年か前、田村市の実家への往復に、このルートを利用したことがある。そのときの感覚からいうと、直行ルートの倍、1時間半はかかるかもしれない。

さて、崩落事故の原因だが、報道によると、吹き付けが行われたモルタル内部の岩が風化し、土砂化して崩れたらしい。399号を管理している県いわき建設事務所はそうみているようだ。

夏井川渓谷の県道小野四倉線も、モルタル吹き付けののり面が多い。同じ工法なら、内部の岩も風化して土砂化する可能性があるのではないか。

もともとが「落石注意」の標識が立っているV字谷で、モルタルの上にワイヤが張られているところもある。

近年はナラ枯れが進み、沿道でも立ち枯れの大木が見られるようになった。倒木・折損枝のほかに、大人のこぶし大から買い物かご大の石まで、よく道端に寄せられでいる。住民は、がけの上には浮き石があるともいう。これに、岩の風化という新しい心配のタネが加わった。

倒木・折損枝は渓谷だけで起きるのではない。木があればどこでも起きる可能性がある。

6月15日の日曜日は、渓谷の入り口、高崎地内で若木が折れ、県道の片側をふさいでいた=写真。

まだ供用が開始されていない広域農道と県道が交差する付近だ。こんなところで? いや、だからこそどこでも油断はできない。

横川の全面通行止めは、応急工事が進められており、27日には規制が解除される(ただし片側交互通行)。

本格的な復旧工事は先にしろ、川内村の住民、そしていわき市の戸渡の住民も、もうちょっとで不便な迂回から開放される。

われら夫婦も、日曜日は片側交互通行のような気持ちで渓谷の細い道を行き来するとしよう。

※追記=399号は21日午後3時、予定より6日早く片側交互通行として利用が再開された。

2025年6月18日水曜日

まるで梅雨明け

                                
 梅雨入りしたばかりだというのに、梅雨が明けたような猛暑になった。極端な天気の変化に体がついていけない。6月15日の日曜日はこんな具合だった。

前日の14日昼前、東北地方の梅雨入りが発表された。南部の梅雨入りは平年より2日遅く、前年より9日早い。

同日午後には雨になり、翌日曜日になってもやむ気配がなかった。予報では、10時ごろには雨が上がるというので、小雨の中を夏井川渓谷の隠居へ出かける。

 すると、北西の方角が少し明るくなり、雲のすき間に青空がのぞくようになった。平から小川へと進むにつれて雨がやみ、小川江筋の取水堰がある三島橋付近から見える山には、湯気のような水蒸気がたなびいていた=写真。

 ところが、である。渓谷の隠居に着いたとたん、また雨になった。雨ではなにもできない。ネギの溝づくりは来週以降にする。

カミサンは傘をさして高田梅を収穫した。カミサンの知り合いがこれを梅干しにしてくれる。そばかすがあっても大丈夫だという。収穫がすむとすぐマチへ戻った。

 午後は一転して雨雲が去り、青空が広がった。すると、気温が急上昇した。今季初めて茶の間のガラス戸を開け、扇風機を回した。蚊取り線香もたいた。

 いわき市南部の山田では最高気温が29.9度と真夏日の一歩手前、小名浜でも25.8度と夏日になった(両地区は16日も夏日、17日はさらに暑くなって、小名浜はなんと6月観測史上最高の34.5度にまで達した)。

 日曜日の夕方、いつものように魚屋へ刺し身を買いに行く。神谷地区に隣接する草野地区の住民が言っていたそうだ。

「今年(2025年)は夏井川の水が多い、神谷で圃場(ほじょう)整備をしていて、水を使わないからだろうか」

中神谷地区の圃場整備はかなりの面積に及ぶ。県のホームページによると、対象面積は64.8ヘクタールで、今年はここでは稲作を中止している。つまり、小川江筋の水は使わない、ということになる。

 私はマチへ行った帰り、堤防を利用して夏井川を見る。この時期は流域の水田に水を供給してやせ細り、場所によっては川底をさらしている。

 今年はちょうどそこ(左岸域)で工事が進められているため、5月下旬から堤防を行き来できなくなった。

 堤防に出れば下流・草野地区の住民と同じ感想を抱くかもしれない。で、翌月曜日、国道6号の夏井川橋のたもとから犬猫病院まで、いつもの堤防を車で走ってみた。

確かに、この時期にしてはたっぷり水が流れている。「川中島」がどこにもない。雨が多いのもあるが、やはり中神谷の圃場整備が大きいのかもしれない。

「水が多い」。下流の住民にとっては、そばを流れる夏井川を見て暮らしているからこそわかる変化だった。

2025年6月17日火曜日

ファザーズデイ

                                      
 自宅の庭で花を育て、「オープンガーデン」として公開している女性がいる。あるところでカミサンと顔を合わせ、親しく話すようになった。

 先日、庭から摘んだ花を束ねて訪ねてきた。カミサンが茶の間に飾りながら、ひとこと。「ファザーズデイだって」「おっ!」。思わず感激した。父の日のプレゼントに花とはしゃれている。

 今は社会人になった「孫」がいる。その親から毎年、父の日のプレゼントが届く。それを除けば、身内でもない人からプレゼントが届くのは初めてだ。

 その翌日だった。「孫」の母親が安否確認を兼ねて、父の日のプレゼント(日本酒の大吟醸)を持参した。花と日本酒を並べてみた=写真。

 カミサンがいきさつを説明しながら、小さなピンクの花を指さして。「『ファザーズデイ』っていうんだって」

 「なに⁉ 『ファザーズデイ』って花の名前なの? 父の日のプレゼントじゃなかったの?」「違うわよ」

 大誤解も大誤解、早とちりだった。少し考えればわかることだ。私はその女性を知らない。当然、向こうも私を知らない。知らない他人から父の日のプレゼントが届くはずもない。

 でも、せっかくの「ファザーズデイ」だ。この花について少し調べてみた。ミニバラだという。

確かに花は小さい。直径で1センチちょっとだろうか。ミニバラの花径は3~5センチが普通らしいから、超ミニといってよい。

花は白地の先が淡いピンクに染まったような色合いで、それがスプレー咲き、カップ咲きになっている。

まずはスプレー咲き。1本の茎から複数の花が咲く咲き方だという。カップ咲きは文字通り、ティーカップのような形をした咲き方だそうだ。

 花は「ファザーズデイ」だけではない。名前はわからないが、アジサイっぽい花、スイカズラに似た花、ネコジャラシのような花と、いろんな形がある。色も白、サーモンピンク、黄緑、薄紫その他と多彩だ。

これらの花があんばいよく組み合わさって、優しく落ち着いた雰囲気を醸し出している。

事前に「父の日」を意識したことはない。いつもプレゼントが届いて、「そうか、きょうは『父の日』だったか」と気づく。

ところが、今年(2025年)は「ファザーズデイ」のおかげで6月15日が「父の日」であることをあらかじめ承知していた。

前日の土曜日には、昵懇(じっこん)にしている別の知人から、「父の日」のプレゼント(大福)が届いた。

誤解もまた人生である。おかげで「がっくり」きたあとは、甘い日曜日を迎えることができた。

2025年6月16日月曜日

春の「清掃デー」

                                
   いわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動は毎年、春と秋の2回行われる。

初日(金曜日)は「清潔な環境づくりをする日」、2日目(土曜日)は「自然を美しくする日/みんなの利用する施設をきれいにする日」、そして最終日の日曜日は住民が出て家の周辺の道路などをきれいにする「清掃デー」だ。

今年(2025年)の清掃デーは6月8日に行われた。わが行政区では早朝6時半から1時間、住民が出て清掃活動を繰り広げた=写真。

 区内会の役員と保健委員を兼務している。清掃デーでは、参加人数とごみ袋の数を、調査票を兼ねたはがきで市に報告しないといけない。

 まずは参加人数を把握するために区内を一巡する。さらに1時間半後、指定の集積所を巡り、ごみ袋の数をチェックする。

 出されたごみは、燃やすごみ・草花類・剪定枝・燃やさないごみの四つに分けて数える。

そのためにあらかじめ自作の「調査票」を手に巡回し、それぞれの合計をはがきに書き込んで投函する。こうして朝8時には、保健委員としての務めが終わる。

 清掃デーと地区の球技大会が同じ日に開かれた年がある。そのときは7時から準備に入る球技大会を優先するしかない。

清掃デーの参加人員を大急ぎで確かめ、ごみ袋の数については代わりの役員とカミサンに頼んだ。

今年は、6月1日に球技大会が開かれた。雨天の場合は1週間延期というのがこれまでの慣例だったが、人数集めが難航するようになったことから、今年は雨天即中止が決まった。清掃デーとダブらないだけ、気持ちが軽くなった。

朝一番で一斉清掃が終わり、いつもの時間に夏井川渓谷の隠居へ出かけた。道々、人が出て側溝などを清掃していた。

作業開始の時間はそれぞれの行政区が設定する。7時始まり、あるいは8時始まりというところもあるのだろう。作業を終えたあとに「ごくろう会」をするところもあるに違いない。それぞれの地域の特性が感じられる光景だった。

私が現役のころは土曜日に隠居に泊まり、翌早朝、地元の住民とともに渓谷の道路を歩いて空き缶などを拾ったものだ。

が、区内会の役員になってからは地元に張り付くしかない。渓谷の住民にはその旨を伝えて了承してもらった。

 昼過ぎに帰宅すると、指定の集積所からはごみ袋が消えていた。いつも素早い対応に感心する。あとは土のう袋だけだ。こちらも後日、回収された。

 それとは別に、6月14日には地区の8行政区長も参加して、公民館の草刈り・清掃作業が行われた。

区長たちはそのあと、近くの丘の上にある「忠魂碑」と、公民館の向かい、神社の林内にある「為戊辰役各藩戦病歿者追福碑」の周りを清掃した。4月から続いていた新年度のあわただしさも、これで一区切りがついた。

2025年6月14日土曜日

また残留ハクチョウが

                                  
     日曜日に夏井川渓谷の隠居へ行く途中、小川町の三島地内を通る。国道399号に沿って夏井川が流れている。

正確には、道路側(左岸)が上平、対岸(右岸)が三島だ。ハクチョウの越冬地でもある。

ちなみに、大字としての上平は「うわだいら」と言い、それに続く字名の上平は「かみだいら」と読む。字名としてはほかに光平・下平がある。

 ハクチョウたちは3月に入ると徐々に数を減らし、下旬には姿を消す。ところが、3月後半から4月中旬になっても1羽が残留し、今もとどまっている=写真。

4月に入れば姿を消すだろうと思っていたのだが、日曜日に通るたびに、腹ばいになって休んでいたり、歩いていたり……。

「ダウンジャケット」を着たまま、日本の蒸し暑い夏を過ごさなければならないのだぞ、おい。姿を見るたびにそんなことを思って胸がざわつく。

それだけではない。越冬地を含む一帯で夏井川の改修工事が行われている。「令和元年東日本台風」でいわき地方は水害に見舞われた。その復旧と国土強靭(じん)化事業だ。

越冬地のすぐ上流でも岸辺の竹林が伐採されて姿を消した。すっかり見晴らしがよくなって、日差しを遮るものは何もない。

竹林は真夏、残留コハクチョウのエレンの避暑地になったこともあったような……。まさか、エレンではないだろうな。残留したハクチョウがエレンなら、白鳥おばさんから電話があるはずだが。

 渓谷を過ぎて扇状地を蛇行してきた夏井川は、三島地内で道路の擁壁を洗いながら右へ大きくカーブする。その屈曲部に小川江筋の多段式の取水堰がある。

 三島側は緩やかな浅瀬になっている。ハクチョウにとってはこの浅瀬が越冬に適した場所なのだろう。

 2021年の春、ここに1羽がけがをして残留した。毎日えさをやっている白鳥おばさんは「エレン」と名付けた。

その年の11月、白鳥おばさんから電話がかかってきた。エレンが飛べるようになったという。「来春はみんなと北極圏へ戻れるんじゃないかな」。しかし、エレンは春になってもとどまった。

 エレンは三島から下流に流されたこともあった。が、その後、奇跡的に復活し、北へ帰った。

2023年の年末、白鳥おばさんから電話がかかってきた。「エレンが戻ってきた。ずっと見てきたので間違いない」

そして、去年(2024年)。春にはエレンを含めて残留するハクチョウは1羽もいなかった。それが今年、また1羽が残った。けがをしていて飛べないのだろうか。

 エレンなら、上のくちばしが付け根まで黒いだけでなく、付け根の黒い部分に黄色い斑点がある。くちばしを見ればエレンかどうかがわかる。しかし、道路側からは確かめようがない。

エレンであってもなくても、ハクチョウが日本の夏を過ごすのはきつい。そのことだけは変わらない。

2025年6月13日金曜日

大熊で「ジイ」に会う

                                                  
 「大熊で『ジイ』に会う」といっても、私ではない。カミサンだ。大熊町から近所に避難していたお年寄りのことである。身内から「ジイ」と呼ばれていたので、私たちも「ジイ」と呼んでいた。

 そのジイが2019年秋、同町の大川原(おおがわら)地区にできた復興住宅に引っ越した。

 もともとの家は帰還困難区域の中にある。町内にはそれを告げる看板が立つ=写真。町へ戻るとき、「自分の家に帰るわけではない」といっていたのが忘れられない。

引っ越してから11カ月後。なにかの用事でいわきに来た。カミサンが家の前でばったりジイに会った。家に招き入れ、お茶を飲みながら帰還後の話を聞いた。

写真2枚を置いていった。1枚は復興住宅の前に植えられたヒマワリの写真だった。いわきでもそうしていたように、「花咲かじいさん」ぶりは健在のようだ。

 ジイとは別に、やはり近所で避難生活を送っている女性とカミサンが昵懇(じっこん)になった。

ある日、女性の車に同乗して、カミサンが大熊町を訪ねた。女性の家はジイと同じように帰還困難区域にある。

 女性の用事がすんだあと、2人で大川原の復興住宅にジイを訪ねた。カミサンがジイと再会するのは4年半ぶりだ。

 最初はピンとこなかったようだが、平の避難先の話をすると思い出した。家の中に招かれ、近況を報告し合った。

 カミサンから聞いた話で「ついに」と思ったことがある。車の運転免許を返納したという。

 平から大熊へ戻ってからも、常磐道を利用していわきへ買い物に来た。前に平で会ったときにはこんな話をしていた。

「車がないとどこへも行けない。運転免許を更新したばかり。さすがにもうダメ、といわれるかと思ったが、あと3年は大丈夫」と笑った。

 そのころ、拙ブログでおおくままちづくり公社が発行した「大川原マップ」に触れていた。

――大熊の大半はまだ帰還困難区域、そして事故を起こした1Fの周辺、国道6号から東側はあらかた中間貯蔵施設だ。

町の西部と中部の南半分、中屋敷(ちゅうやしき)・大川原地区だけが避難指示を解除された。

大川原地区復興拠点はその中のほんの一部、山麓線と常磐道の間にはさまれた小さなエリアにすぎない。

その時点での大熊の復興の流れを「年表」風に振り返ると、2019年3月31日、常磐道大熊ICが開通。同4月10日、中屋敷・大川原地区の避難指示が解除。同5月7日、大川原の復興拠点にできた町役場新庁舎が業務を開始。

2020年3月5日、JR大野駅周辺の避難指示を解除、一部地域の立ち入り規制が緩和される。常磐線浪江富岡間が開通、9年ぶりに全通するのに併せ、大野駅も同14日に再開した――。

今回もジイからお土産をもらった。100歳を超えてもかくしゃくとしているという。その意味では、免許返納は「一大決心」だったのだ。

2025年6月12日木曜日

特別整理期間

                                            
 いわき市立6図書館で順次、図書の特別整理が行われている。この時期恒例の休館で、5月12~17日の四倉を最初に、内郷、常磐、勿来と続き、6月9日からは14日まで小名浜が休館中だ。

 小名浜まではいずれも6日間の休みだが、最後に行われるいわき総合図書館は6月16~27日の12日間だ。期間が長いのは、ほかの図書館より蔵書数が飛び抜けて多いからだろう。

 総合図書館はいわき駅前のラトブに入居している。わが家からは車で10分ほどだ。家にある本を探すより、図書館から借りて来る方が早い――そんなケースが増えてきた。新着図書もチェックしたい。というわけで、総合図書館へはたびたび出かける。

 本を読まないと落ち着かない年寄りには、やはり長い休館はこたえる。毎年のことながら、特別整理に入る前にはいつもより多く本を借りる。食料の「買い出し」ならぬ本の「借り出し」だ。

個人で借りられるのは最大15冊、期限は通常14日間で、休館を見越して6月5日に6冊を借りた=写真。貸出期限票には、返却日は7月1日とあった。休館の12日を加えて26日間、手元に置ける。

読みたい本をメモした紙片が手帳に何枚もはさんである。まずは図書館のホームページで本の有無をチェックし、あれば貸し出しが可能かどうかを確かめる。

 エマニュエル・トッドの『西洋の敗北』は、いつチェックしても「貸出中」だ。今回も借りられない。

まずは詩集を4冊。藤川幸之助『手をつないで見上げた空は』『満月の夜、母を施設に置いて』と、ウクライナの詩人で画家の『シェフチェンコ詩集』、そして新着図書コーナーにあった金子光晴の『老薔薇園』を借りる。

ほかには、レイチェル・カースン『われらをめぐる海』、ダイアン・アッカーマン『感覚の博物誌』。この6冊でほぼ1カ月をもたせる(後日、また2冊を借りた)。

岩波文庫の『シェフチェンコ詩集』(藤井悦子編訳)は2022年10月に出版された。同年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻して戦争が始まる。その8カ月後に出た。

シェフチェンコ(1814~61年)の名はロシアの侵攻後、初めて知った。彼が生きたのは150年以上も前だが、今のウクライナの状況と重なる作品を残している。

特に、詩集の最初と最後の詩が暗示的だ。まずは冒頭の「暴かれた墳墓(モヒラ)」。「静けさにみちた世界 愛するふるさと/わたしのウクライナよ。/母よ、あなたはなぜ/破壊され、滅びゆくのか。」で始まる。

そして、ラストの「遺言」冒頭。「わたしが死んだら、/なつかしいウクライナの/ひろびろとした草原(ステップ)にいだかれた/高き塚(モヒラ)の上に 葬ってほしい。」

 この「遺言」は広く知られているらしい。どちらにも「モヒラ」が出てくる。訳注には、ウクライナのステップ地帯に点在する古代の墳墓、とある。このモヒラあたりから探ってみるか。

2025年6月11日水曜日

「街角」を楽しむ

                                         
   いわき駅前の平・三町目で6月8日、「三町目ジャンボリー」が開かれた。一方通行の本町通りを「歩行者天国」にし、手づくりの菓子や工芸品などを展示・販売するブースが並んだ。

区間はざっと80メートル。歩行者は車のない通りでのんびり、ゆっくり歩きながら、ブースをのぞいてあれこれ品定めをし、売り手との会話を楽しんだ。新しいかたちの「路地売り」でもある。

 三町目ジャンボリーに参加し、フェアトレード商品を販売したことがあるカミサンは、前からこのイベントを見に行くと決めていた。

 せわしい一日だった。早朝には市民総ぐるみ運動が展開された。このあと、小川郷駅前の朝市をのぞき、夏井川渓谷の隠居で土いじりをして、昼前には街へ戻った。

まずはいわき駅前のラトブに車を止める。ラトブで500円以上買い物をし、あるいは図書館や産業創造館を利用すると、2時間は駐車料金がタダになる。

図書館で本の貸借をすませたあと、ジャンボリーの会場に向かった。駅前大通りでは、歩道の利活用を目的にした「たいらほこみち」も始まった。それと連動した最初の歩行者天国ということだった。

 南北に長い駅前大通りと東西にのびる本町通りが交差した「街角」は、東側が銀行、西側が駐車場とイタリアンカフェダイニング「スタンツァ」で、駐車場前の角で人形、いや仮面をかぶった人間が、ゼンマイ仕掛けのおもちゃのような動きを披露していた=写真。

 旧知の主催者から聞いた話では、演者はいわき市出身の「泉」さんで、パントマイム&人形振りパフォーマーというのが肩書らしい。

 カミサンは親戚の子がやっているブースから洋菓子を買い、さらに別のブースであれこれ品定めをした。

このあと、スタンツァでソフトクリームをなめながら一休みした。入り口では若い知り合いが音楽を流すディスク・ジョッキーを務めていた。

 街なかでイベントを楽しむのはいつ以来だろう。夜の飲み会はすっかりご無沙汰だし、ラトブへはよく行くが、外へはめったに出ない。銀行以外は銀座通りの歩行者天国、三町目ジャンボリーをのぞくくらいだろうか。

ジャンボリーで知った落花生の食べ方がある。スタンツァと同じブースで生木葉ファーム(好間)の野菜が売られていた。勧められるままに生の落花生を買い、3%の塩水でゆでて食べることを教えられた。そのオヤジさんも今は亡い。

 スタンツァで一休みしながら、ガラスの窓越しに通りを行く人をながめていると、やはり店内で談笑していた若い知り合いがあいさつに来た。

 そうか、旧と新、老と青、あるいはいろんなものが混ざり合って、次の何かへとつながる。そんな場所と機会を提供するのが「ジャンボリー」と「ほこみち」なのだ。久しぶりに人のいる「街角」を楽しんだ。

2025年6月10日火曜日

「蚊よけ」でいい

                               
 毎年、蚊に刺された最初の日を記録している。最後の日も記録するようにしているのだが、こちらはちょっと難しい。

震災前は、平均すると刺された最初の日が5月20日前後、最後の日が10月20日前後と覚えておけばよかった。

ところが、近年は最初の日が早まり、最後の日が遅くなりつつある。それだけ蚊の活動期間が長くなったということだろう。

5月20日以前にチクッとやられた最初の日は、記録によると2012年・5月15日、2015年・同14日で、2023年は4月下旬に出現し、5月4日にチクッとやられた。去年(2024年)は4月29日、今年は5月15日だった。

最後に刺された日も10月20日前後から11月にずれ込んできた。2016年・10月27日のあと、2018年は11月6日、2022年は11月後半の19日だった。

今年はしかし、最初に刺された日のあとは、チクッが止まった。蚊の活動も寒暖の変化に連動するらしい。

 夏がきたような暑さになったかと思うと、翌日は冬のような寒さになる。人間が長そでシャツになった日は、蚊も動きが鈍くなるのか、顔の周りをブンブン飛ぶこともない。

 ネット情報によると、蚊は気温が20度以上、なかでも25~30度になると活発に動き回る。それ以上の猛暑になったり、15度以下に下がったりすると、活動は鈍るのだそうだ。

 ちなみに、6月1~9日の小名浜の最高気温は、1、3日が20度を割り、4日(27.0度)と7日(26.4度)は夏日になった。内陸の山田も4日28.2度をピークに、5~9日と連続して夏日を記録した

 わが家も6月に入ると蚊が飛び交うようになり、2日にはチクッとやられた。そのあと、目の前に現れたのをバシッとやったら、手のひらに血がついた。いよいよ蚊取り線香の出番である。

孫が幼かったころ、香りの強い緑色の蚊取り線香をたいているところへやって来た途端、せき込んだことがある。

 以来、香料・着色料が無添加の、天然除虫菊を原料にした黄土色の蚊取り線香を使うようにしている。

しかし、蚊の出現期間が伸びて、それだけでは間に合わない。緑色の蚊取り線香も併せて使っている。

 今年も6月4日、去年の残りの蚊取り線香を使い始めた。同時に、カミサンが生協経由で黄土色の蚊取り線香=写真=を取り寄せた。緑色の線香がすぐなくなったので、今はこちらを使っている。

「蚊取り」線香は「蚊よけ」線香。蚊を遠ざけるだけでいい。ならば、というわけでのどにやさしい方を選ぶようにしている。これからは昼も夜も、蚊よけの煙が絶えない。

2025年6月9日月曜日

小川郷駅前の朝市へ

                      
 夏井川渓谷の隠居の前の道路をぶらついていたとき、1台の車が目の前で止まった。隠居の近くのKさんで、「小川郷駅前の朝市で買って来た」といって、ファーム白石のキュウリを1袋くれた。

 ファーム白石は知っている。若い当主とは設立したばかりのいわき昔野菜保存会でよく顔を合わせた。自然農法で米や野菜を作っていることで知られる。

そこのキュウリである。隠居からの帰り、小川郷駅前周辺を巡ったが、朝市らしい人の出入りはどこにもなかった。

あとで知ったのだが、朝市は、夏場は8時に始まり10時には終わる。11時ごろに行っても、だれもいないわけだ。

その晩、生のまま味噌をつけて食べ、糠床にも入れた。キュウリは約95%が水分なのに、滋味がある。甘みさえ感じられる。こんなうまいキュウリは初めてだ。

というわけで、球技大会があって隠居へ行けなかった6月1日の翌週、8日に隠居へ行く途中、小川郷駅前に寄り道をした。

すると駅の隣、新しいいわき市小川支所の庁舎に併設された地域活性化センターの前で、小規模ながら野菜を売っている男性陣がいた=写真。

支所は移転・新築され、2023年1月30日に供用が開始された。翌年12月1日、活性化センターで「本と盤のフリーマーケット」が開かれたとき、隠居の帰りに会場をのぞいた。

今年(2025年)の5月18日にも、小川郷駅の近くで「小川ヴィレッジキックオフイベント」が開かれた。

地元・平の小学校のスポーツフェスタ(運動会)に顔を出したあと、隠居へ行く前に寄り道をした。前日までの雨で足元はよくなかったが、けっこうな人出だった。

イベントだけの目的で平から小川へ出かけることはない。駅前だから、隠居へ行く前に、あるいは帰りにのぞいてみる――寄り道感覚になれるのはマイカーで移動しているためでもある。

それに、日曜日には小川の「半住民」になる。そんな意識も作用しているにちがいない。駅前の朝市をのぞく気になったのも、理由は同じだ。

8日に寄り道をし、朝市が開いていたのは、しかし偶然だった。これもそこで聞いて知ったのだが、毎週開いているわけではない。

月に2回、第2・第4日曜日の開催だという。開催時間も前述したように、4~9月は午前8~10時、10~3月は午前9~11時だ。

朝市になにか名前が付いているのではないか。ネットで検索すると、「小川の郷『かあちゃんのじまん市』」がヒットした。

「小川郷駅前」その他の情報を加味すると、この朝市がそれだろうか。といっても、売り手は男性2人だったが(1人はファーム白石のお父さん)。

第2・第4日曜日は、これから少し早めに家を出て、小川郷駅前経由で渓谷の隠居へ行くことにするか。

2025年6月7日土曜日

ネコの銅版画

額縁が壊れたらしく、作品がむき出しになっていた。縦15センチ×横12センチほどの小さな銅版画だ=写真。

作者は、カミサンがデザイン事務所に勤めていたころ、新しくスタッフに加わった若い女性、ということだった。

 少し離れたところからは、髪の毛を逆立てたペコちゃんのように見える。が、ちゃんと見るとネコが2匹、相撲でも取るような間合いで対峙(たいじ)している。

 手前で後ろ姿を見せているのは白いネコ。奥で白いネコと向き合っているのはキジトラ。2匹とも胴が異様に長い。

 それもあって、キジトラの胴と足が怒ったペコちゃんの眉と目に、白いネコの胴がひん曲がった口に見えてしまう。

 デフォルメ(変形)は美術の一手法だが、ネコの周りの線刻はシンプルというか、素朴というか、技術的にはやはり若さが感じられる。美大を出たばかりだったのだろう。

 わが家の庭には地域ネコがよく現れる。なかでもさくらネコのゴン(キジトラ)は半住人といってよい。

ほかに、鼻が黒い黒白のハナクロ、そして最近は真っ白なシロがやって来る。茶トラが来たり、真っ黒いネコが現れたりしたこともある。

銅版画とほぼ同じ構図で、手前にハナクロ。奥に茶トラがにらみあっているところを見たことがある。

ハナクロが茶トラにむかって低くうなり続ける。茶トラは茶トラで振り返り気味にハナクロを見続ける。と、次の瞬間2匹が走り出し、隣家のフェンスのそばでだんごになった。

銅版画のキジトラと白いネコも、やがてはうなり声をあげて取っ組み合うのだろうか。そんな展開を想像させる空気感がある。

 現実のネコたちはといえば、白いネコは相変わらずお高くすましている。ハナクロは、私を見るとこそこそ姿を消す。ゴンはすっかり慣れてすり寄って来る。茶トラと黒はこのところまったく姿を見せない。

 おもしろいことに、ネコも毛皮を着ているとはいえ、寒暖の変化には敏感に反応するようだ。

ゴンは、夏のような暑さになると軒下のミカン箱に入って日差しを遮り、冬のような寒さが戻ると縁側のえじこ((人間の乳幼児を座らせておくわら製の保育用具)に入って丸くなっている。

このところ周期的に天気が崩れる。しかも、週末に雨になることが多い。梅雨のような天気に、人間もネコも翻弄されている。

   そうそう、ネコが来る方角も決まっている。ハナクロは西から、白いネコは南の民家か故義弟の庭の方からやって来る。白いネコの本宅はそっちの方にあるのだろう。 

2025年6月6日金曜日

草野心平と糠漬け

                                 
   いわき市出身の詩人草野心平(1903~88年)を調べていたとき、資料として目を通していたはず。昔のいわき民報の記事である。

いわき市に合併する前の平市で講演し、確か糠漬けを例に、夢を追い求めることの大切さを説いていたような……。

自分のブログを読むと、講演したのは昭和27(1952)年12月だった。そこまでわかれば簡単だ。

図書館のホームページに「郷土資料のページ」がある。そのなかの「新聞」をクリックすると、デジタル化された地域新聞など72紙を読むことができる。

いわき民報は昭和21年の創刊から同56年までの記事が収められている。それをチェックすればよい。

昭和27年12月7、9日の上・下で講演要旨が掲載されていた=写真。紙齢2000号を記念して、いわき民報社が主催した文芸講演会だった。演題は「文化というもの」で、その一例として心平はナスの糠漬けを取り上げた。

だれでも色も美しく、うまく食べるにはどうすればいいかを考える。そして、ナスの身になって、ナスにも夢があるとして、こう述べる。

ナスに聞けば、ナスもまた「どうせ食べられるなら、きれいに、そしてうまく漬けたと、だれからも珍重がられるように漬けてもらいたい」と答えるだろう。

ナスの気持ちを尊重し、うまいナス漬けをつくるために創意工夫を加え、いろいろな方法を考慮し、実験しながら、ナス漬けをよくすることを発見していくものなのだ。

つまりは、夢が文化の原動力になる、文化は持続的な夢の発展によって創造される、というのが結論のようだ。

このとき、心平は49歳。川内村を訪れるのはその翌年だから、まだ東京で破天荒な暮らしを続けていた

 心平らしいと思ったのは、「ナスに聞く」、あるいは「ナスの気持ちを尊重する」というところだろう。

故粟津則雄・元市立草野心平記念文学館長(文芸評論家)は、「草野心平のもっとも本質的な特質のひとつは、ひとりひとりの具体的な生への直視である」と述べている。

この直視力は動物・植物・鉱物・風景にも及ぶ。ナスだって人間だ、というわけである。

カブやキュウリだけでなく、タケノコを糠味噌に漬け、フキを、セロリを漬けて思ったのは、だれもが心平のいう「創意工夫」と無縁ではない、ということだ。

やはり、うまく漬けるにはどうするか、漬かったものをどう切るか、入れ物を含めて、いろいろ考える。別の言葉でいえば、たかが糠漬け、されど糠漬け。

文化は生活様式、つまり生活術そのもの。大事なのはやはり、今日の糠漬けをどううまくつくるか、だ。

2025年6月5日木曜日

特別な存在だった

朝は6時ごろから9時ごろまでテレビをつけている。ニュース、朝ドラ、情報番組をさらっと見て、翌日のブログの打ち込みを始める。

 6月3日は「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さん死去のニュースが流れた。亡くなった日は? 3日朝。ほんのちょっと前ではないか。なんという速さだ。やはりミスターは特別な存在だったのだ。

 翌日の活字メディア(新聞)も1面トップで死去を伝え、スポーツ面と社会面で詳報していた。全国紙は社説でも取り上げた。いわき民報も、いわきや市民とのつながりを報じていた=写真。

 高度経済成長時代を象徴する言葉に「巨人・大鵬・卵焼き」がある。その言葉が広まるちょっと前から、子どもながら新聞を読み、ラジオを聞いていた。

相撲は大鵬の前、栃錦と若乃花に引かれ、巨人は川上哲治のあとの長嶋茂雄・王貞治さんに夢中になった。

 1956(昭和31)年4月に町が大火事になり、わが家も灰になった。小学2年生に進級した直後だった。

 家の再建が進む中、近所のラジオ屋の店頭にテレビが据え付けられ、大人に混じって大相撲を観戦した。力道山の空手チョップにも歓声を上げた。

阿武隈の山里にもテレビが普及し始めたが、わが家にはまだラジオしかなかった。ミスターが巨人に入り、最初の試合で国鉄(現ヤクルト)スワローズの金田正一投手に4打数4三振を喫したときは、家(床屋)のラジオで実況放送を聞いた。

 1958(昭和33)年4月5日。私は小学4年になったばかりで、学校へ行ったような記憶があるから(といっても、あいまいなのだが)、始業式が終わって帰宅したあとにラジオを聞いたのかもしれない。

 翌59年の6月5日にはわが家のテレビで天覧試合を見た。4対4の同点で迎えた9回裏、ミスターがサヨナラホームランを打った。小学5年生は劇的な巨人の勝利に興奮した。

 ほかにもテレビでよく実況中継を見た。ミスターはいろんな記録も打ち立てたが、汪さんに比べると印象は薄い。

 ラジオのデビュー戦、テレビの天覧試合が象徴するように、ミスターはやはり記憶の人だった。

 テレビで訃報を知り、すぐ頭に浮かんだのは冒頭のような自分自身のラジオ・テレビ視聴史だった。

 電波メディアといえばラジオしかなかったところに、テレビが加わる。ちょうど同じころ、週刊の少年サンデーと少年マガジンが創刊される。

 それらを享受した最初の子どもたちが、「団塊の世代」といわれる私たちだったのだろう。ミスターはテレビ時代幕開けのシンボル、団塊の世代のヒーローだった。合掌。 

2025年6月4日水曜日

国道399号が通行止めに

  
                                              

 いわき市を起点、山形県南陽市を終点とする国道399号は、福島県内では阿武隈高地を縦断するかたちで峠越えを繰り返す。

山への入り口となるのが、県道小野四倉線から分かれるいわき市小川町の三差路(跨線橋)だ。二ツ箭山方面へと折れてすぐ磐越東線をまたぐ。

日曜日に夏井川渓谷の隠居へ行くとき、ここを横目で見ながら直進する。6月1日の日曜日は球技大会があって行けず、翌2日朝、一日遅れで車を走らせた。

すると、その三差路に通行止めの看板が設けられていた=写真。看板には「横川地区土砂崩れ」と理由が書かれていた。

 報道や399号を管理する福島県によると、5月29日、いわき市小川町上小川猪小屋地内でのり面の土砂が崩落し、399号をふさいだ。このため、同日午後2時から全面通行止めになっている。

 猪小屋とは聞きなれない地名だ。ネットで検索すると、横川集落の一角といってもいい場所があらわれた。それで通行止めの看板に「横川地区」と入っていたのだろう。

2011年の原発震災の直後、看板と同じ場所にパトカーが止まり、警察官が立って、399号を利用する車にストップをかけていた。そのことを思い出した。399号の通行止めはそれ以来だろう。当時のブログがあるので、一部を要約・紹介する。

 ――大地震から半月余がたち、夏井川渓谷の隠居のことが気になり始めた。3月29日朝、生ごみの入った容器を車に積んで向かったら、小川の高崎で通行止めの看板にさえぎられた。

ひとまずUターンをし、家で少し用をすませたあと、カミサンと一緒に再度、隠居へ出かけた。

高崎から先には行けない。しかし、う回路がある。二ツ箭山のふもとを巻くようにして国道399号を進み、横川から母成(ぼなり)林道に入って江田に出る、いつもの「災害ルート」だ。

399号の入り口で交通警察隊が検問をしていた。福島第一原発から20キロ圏内への立ち入り規制をするのが目的だ。

他県から応援に来たのだろうか。「江田の先に家がある」といっても、「江田はどこか」。う回路の話をすると了解して通してくれた。

通行止めの原因は磐越東線・高崎踏切から1キロ先という表示だったから、おそらく落石除けのロックシェッドがあるあたりで大規模な崩落が起きたに違いない――。

2022年の秋、峠越えの難所を回避するため、内倉湿原の西側に二つの橋を架け、延長2875メートルのトンネルを掘って内倉と戸渡を直結するバイパスが完成した。川内~いわき間はこれでだいぶ時間距離が短縮された。

今度の通行止めが解消されるまで、川内へ行くには以前のルートを迂回・利用するしかない。

わが隠居のある夏井川渓谷から「スーパー林道」を利用すれば、下川内にはすぐ行けるのだが、「けものみち」では勧められないか。

2025年6月3日火曜日

球技大会が終わった

                                
  「やっと」。あるいは「どうにか」。そんなつぶやきがもれそうな球技大会だった。いつになく事前の連絡・調整が多かったことによる。

6月に入るとすぐ、8行政区による地区対抗球技大会(男性・ソフトボール、女性・バレーボール)が行われる。コロナ禍による中断のあと再開された。今年は6月1日に行われた=写真。

直接、メンバー集めに奔走したわけではない。が、バレーでその役目を引き受けてくれた人は苦労したことだろう。

私は内心、勝手にその人を区内会の「サポーター」と呼んでいる。その人がいるからバレーの出場メンバーがそろい、去年は優勝までできた。今年はさらに、ソフトの希望者にも道を開いた。

地域の少子・高齢化が進み、メンバー集めが年々厳しさを増している。再開後はこの問題が顕在化し、参加を見合わせる行政区があらわれた。

わが行政区でも、メンバーがなかなか集まらない。バレーはなんとか選手がそろったが、ソフトは今年も棄権することになった。

傷害保険の関係で、メンバー表は大会の10日前までには体協事務局(公民館)に提出することになっている。

ソフトをやりたいという個人がいる。サポーターから連絡を受けた時点で、とりあえず参加希望者だけのメンバー表を届けて、他行政区に合流できる道を探った。初めてのことである。

わが区は、大きな行政区が三つに分かれてできた一つで、もう一つの「分家」である隣接する行政区の区長に連絡すると、チームへの合流を快諾してくれた。

実は区長協議会や体協理事会でも球技大会の将来を見越して、「合同チーム」の動きが模索されてはいた。その動きに沿って受け入れてくれたのだった。

棄権と決めたから個人の希望は受け入れない、では前に進まない。個人の気持ちにも沿えるよう、体協・他行政区との連絡・調整を進めて、新しいかたちにこぎつけた。

大会当日の朝は曇天で冷たい東風が吹いていた。そのなかで個人参加の3人とともに、受け入れチームの区長にあいさつをし、試合を観戦した。結果はともかく、3人はチームの一員として試合に出場した。

やはり、ソフトは半数の四つの区が、バレーは二つの区が棄権した。わが区のバレーは1人欠員となったこともあって、初戦で敗退した。今年も優勝をと期待したが、そうは問屋が卸さなかった。

個人参加のための連絡・調整はけっこうな回数になった。私とサポーター、サポーターとソフト参加希望者、そして弁当の手配など、事前のやりとりは去年をはるかに上回った。

大会のそもそもの目的に従って、「勝敗」より「親睦」へ、「対抗」から「合同」へという時代の流れに沿った動きが、初体験の積み重ねが「やっと」「どうにか」に集約されたのだった。