2025年4月30日水曜日

谷間のシロヤシオ

                                              
   4月最後の日曜日(27日)。いつもより1時間早く、朝8時過ぎには夏井川渓谷の隠居に着いた。

 渓谷の手前、小川町の高崎地内ではウツギの白い花が咲いていた。「地獄坂」を上って渓谷に入ると、やはり白い棒アイスのような花が待っていた。ウワミズザクラだ。

 周りの森はヤマザクラの花が散って新緑に包まれている。ちょっと前まで空が見通せた渓谷の道路も、淡い緑のトンネルに変わった。

 籠場の滝の近くでは、紅紫色のトウゴクミツバツツジの花。ここもアカヤシオ(岩ツツジ)とヤマザクラの花は散って、「山笑う」から「山滴る」に変わりつつある。

隠居では庭のシダレザクラの樹下に直行した。4月13、20日と、アミガサタケが頭を出していた。27日は?と見れば、やはりあった。この春一番の大きさだ。大小合わせて5個を採った。

それからいつものように畑に生ごみを埋め、庭を一巡りした。アミガサタケ以外は、ふだんと変わらない。草が芽生え、丈が伸びて緑のじゅうたんが広がりつつある。

シロヤシオ(ゴヨウツツジ=方言・マツハダドウダン)はどうか。対岸には白い花はなかった。

少し下流の谷間には「マイ・シロヤシオ」がある。県道を行き交う車からは見えない。隠居からガードレールに沿って100メートルほど進み、木々の間からのぞくと、渓流にこぼれ落ちるような感じで白い花が咲いていた=写真。

シロヤシオは毎年咲くとは限らない。咲いても数が少ない年がある。マイ・シロヤシオは、その開花の有無を確認できる「標本木」でもある。

拙ブログを読むと、9年前(2016年)の4月24日はこんな具合だった。

――隠居へ着くと対岸の急斜面にはシロヤシオの点描画が展開していた。谷間のシロヤシオは、行楽客には木々の緑に遮られて見えない。その木の全体を見るにはガードレールをまたぎ、谷へと下って行かないといけない。足場はよくない。

 岸辺の岩盤に根を張り、天に向かって伸びた幹から枝葉が川になだれるように垂れている。そう、花のかたまりは白いドレスのようだ。

 このシロヤシオに気づいたのは震災後だった。県道をぶらぶら歩いているうちに、木の間越しに白いかたまりが見えた。

一本の木の花の数としては溪谷随一ではないか。ササの茎につかまりながら谷へ下り、ひとり、対岸のシロヤシオの花と対面した。心が洗われた――。

 ブログには、シロヤシオと開花時期が同じトウゴクミツバツツジやヤマツツジ、ウワミズザクラも咲きだしていた。いつもだと、開花を確認するのは新緑に包まれた5月初旬だ。例年より1週間余り早く開花した――ともある。

草木は年々開花を早めているようだ。2021年は4月中旬に開花を確認した。私が渓谷に通い始めた30年間では最速だった。シロヤシオはもう4月下旬の花になったのかもしれない。

2025年4月28日月曜日

ある詩の1行

                                           
 生態学系の本を読み続けているせいか、ふと思い出した詩の1行がある。

 人間の開発圧力が及んで、動物たちが姿を消していく。そのとき、動物たちには人間にサヨナラをいう気はない――そんな感じの詩行だった。

 だれの詩だったか。確かアメリカの詩人だ。ロバート・フロスト? 違う。ゲーリー・スナイダー? それも違う。

 フロストでも、スナイダーでもない、だれか。ネットでアメリカの現代詩人を検索して、記憶がよみがえった。ヘイデン・カルース。

そう、カルースの詩集『雪と岩から、混沌から』(書肆山田、1996年)=写真=の中に出てくる1行だった。

 詩集としてはけっこうな厚さで、沢崎順之助とDW・ライトが作品の選択、試訳と分担しながら、共同で作業を進めた。

 夏井川渓谷の隠居へ通い始めたころ、新聞か雑誌で知り、山村暮らしをしている詩人に興味がわいて本屋に注文したのではなかったか。

 まだ50代前だった。隠居へ行くたびに詩集を開いていたが、そのうち本棚の隅に置きっぱなしになった。

 カルースは1921年、アメリカ・コネチカット州に生まれた。ニューハンプシャー州の山村に生活して詩作を続けている、と本の著者略歴にある。ジャズ音楽を中心にした評論も多いという。

 それ以外の情報は、残念ながらネットでも得られなかった。翻訳詩集が出たとき、詩人は75歳だった。本人とも連絡を取りながら、日本語訳の詩集がなった。生きていれば104歳になる。

 記憶にあった1行は、「随想」という詩の最終行だった。「動物の死を題材にした詩はじつに多い。」で始まる27行の詩で、「この歳月は動物を消滅させる歳月だった。」ともある。

「シカはけたたましいスノーモービルに追い立てられ/ぴょんぴょん跳ねて、最後に生存のそとへ/跳んで消える。タカは荒らされた巣のうえを/二度三度旋回してから星の世界へ飛んでいく。」

「生存のそと」も「星の世界」も動物の死を暗示する。そして、その結語。「動物たちには人間を責める能力があるかどうかは知らない。/しかし人間にサヨナラを言う気がないことは確かだ。」

「サヨナラだけが人生だ」は、作家井伏鱒二の、唐詩選からの「超訳」だが、こちらはある意味で自然と人間の対立を象徴する。

もともと動物たちは人間にサヨナラを言うような存在ではないにしても、カルースが文字にして示すと心が波立つ。

「人新世」がいわれる現代、「生存のそと」へと消えてしまうのは、次は……という思いになる。

40代後半で乱開発の警鐘に触れ、70代後半でさらに事態は深刻の度を増したという思いを深くする。

2025年4月26日土曜日

新ゴボウ

                                
    日曜日は夏井川渓谷の隠居で土いじりをする。その帰り道、食材を調達するために平窪のやさい館へ寄ることがある。私は「カゴ担当」だ。

4月20日はナメコ、ポン菓子、キュウリ、カブなどと一緒に、細くて短い新ゴボウを買った。

カブとキュウリは糠漬けの材料だ。今年(2025年)の漬け始めはカブ。そして、今はキュウリも加えて交互に、あるいは同時に漬けている。

新ゴボウは水曜日の午後、カミサンが細切りにして味を付けながらサッとゆでた。それが終わったところへ楢葉町の知人がやって来た。

知人はいつも手製の食べ物か食材を持参する。今回はゴボウのきんぴらだった。カミサンからその話を聞いて驚いた。なんという偶然!

夜、食卓にゴボウの煮物ときんぴらが並んだ=写真。味比べをするつもりはない。が、どうしても比較してしまう。どちらもやわらかかった。それだけでホッとする。

ゴボウにゴボウだから、そう簡単には器がカラにならない。翌日もまた、晩酌のおかずになって出た。それでも余った。

こんなときに義弟がいたら、と思う。ゴボウに限らない。もっと早くおかずの器がカラになるのではないか。

隣家に住んでいた義弟が彼岸へ旅立って半年になる。それからわが家の食事の風景が変わった。

義弟の不在を、私は漬物の消費量から感じてきた。「食べるだけの人間」だが、漬物は私がつくる。

冬は白菜漬け、春~晩秋は糠漬け。糠漬けはカブから始まって、すぐキュウリに移り、その後はキャベツやニンジン、ハヤトウリ、大根などと季節に応じて変えていく。

 義弟は私より1歳年下だ。同じ団塊の世代で、食べ物の好みが似ている。ご飯には漬物を欠かさない。

 今は白菜漬けから糠漬けに切り替えて1カ月といったところだろうか。その糠漬けの減り方がこれまでと比べてずいぶんゆっくりになった。

   一つには、私ら夫婦の食べる量が減ったこと。二つ目は義弟が亡くなって、食卓を囲む人間が1人少なくなったこと。それでごはんとおかずの消費量が減ったのだ。

 ゴボウのきんぴらも煮物もこれだけやわらかいと、歯の悪かった義弟も普通にかむことができたのではないか。

 冬の白菜漬けも、春の糠漬けも空気に触れている時間が長くなると、酸味が増す。私はそれをあまり好まないので、ますます食べる量が減る。

 ま、それはさておき、今度新ゴボウが手に入ったら糠漬けにしてみようか。あれだけやわらかいのだから、漬かりも早いはずだ。食べる量は減っても、食欲そのものはそう変わらない。

2025年4月25日金曜日

わが家の庭にもアミガサタケ

                                 
   春になって少し暖かくなると、朝、庭に出て歯を磨く。地面からヤブガラシの芽が出ている。それを、歯を磨きながら摘む。マサキの生け垣も歯を磨きながら観察する。ミノウスバの幼虫がいれば、葉ごと除去する。

今年は4月20日の朝、この「ながら観察」を再開した。2日目も、庭に出て歯を磨きながら、地面をながめていると――。

ん? 春のキノコのアミガサタケがひっそりと1個、地面から頭を出しているではないか=写真。

 なんという偶然、いや僥倖(ぎょうこう)だろう。たまたま「ながら観察」を始めたばかりの人間の目に、今が採りごろの食用キノコが待っていた。

眼福を独り占めにするわけにはいかない。カミサンを呼んで、アミガサタケの立ち姿を、指をさして教える。

 前日に夏井川渓谷の隠居の庭で、アミガサタケの幼菌を収穫したばかりだ。今度は平地のわが家で、いながらにしてキノコ狩りを体験するとは。

 実は8年前(2017年)にもわが家の庭にアミガサタケが発生した。そのときのブログを一部省略して再掲する。

――4月14日朝、カミサンの用事で運転手を務め、帰って庭に車を止めた。「あらっ、キノコ!」。カミサンが助手席から降りるなり叫ぶ。急いで回り込む。庭の花壇のへりにアミガサタケが頭を出していた。まだ幼菌だった。

アミガサタケは優秀な食菌だ。春、空き地や人家の庭、路傍などに生える。夏井川渓谷では、友人の家やわが隠居の庭でも見られる。

市街のわが家の庭に現れたのは初めてだ。渓谷の隠居の庭からなにかをレジ袋に入れて持ち帰り、袋をひっくり返して葉っぱや土を捨てた中にアミガサタケの胞子が含まれていたか。

 アミガサタケは、柄も頭部も中空だ。丈はまだ5センチにも満たない。頭部の網目の間のくぼみ(ここに胞子が形成されるそうだ)は黒っぽい。その色が、頭がどう変化するのか。1週間は観察してみる。そのあとバター炒めにしてもいい。

渓谷を、街を、野原を、杉の花粉ばかりか、キノコの胞子が飛び交っている。空に浮かんでいる胞子は見えないが、胞子の存在を想像することはできる。

その空に、胞子に比べたらとてつもなく大きいツバメが飛んでいた。今年初めて見た。地面も空も春である――。

 庭で枝葉を広げている木は柿やカエデ、ヤツデその他だ。どの木と共生関係にあるのかはわからない。

が、地中には規模こそ小さいものの、アミガサタケの菌糸網がひっそりと生きているのだろう。

あるいはただ単に、「旅する胞子」が偶然、わが家の庭に根付いたか。いずれにしろ、アミガサタケ1個だけでも、小さな自然の大きな豊かさを思わないではいられない。

翌日も、歯を磨きながら地面に目を凝らすと、マサキとヤツデの根元に、隠れるようにして1個が見つかった。2日続けての僥倖ではあった。

2025年4月24日木曜日

「愉英雨」ってなに?

                               
   NHKの朝のニュースで気象予報士が「愉英雨」という言葉を取り上げていた。「ゆえいう」。なに、それ? 「花を楽しませる春の雨」のことだという。

4月23日は朝から雨の予報だった。「愉英雨」の言葉に刺激されて庭を見ると、ちょうど雨が降り出したところだった。

再開して間もない朝の習慣に従って、傘をさしながら庭で歯磨きをした。ヤブガラシの芽を2本摘んだあと、つぼみを膨らませていたエビネが一輪開花したことに気づく。

エビネにとってはまさに「愉英雨」だ。むろん、ほかの草木にも恵みの雨にはちがいない。せっかくだから、きょうは「愉英雨」の勉強をするか――。

まずは写真だ。歯ブラシを置いてカメラを首からぶら下げ、傘をさしながらエビネをパチリとやる=写真。

「愉英雨」は初めて聞く言葉だった。音読み言葉だから漢語? それとも和語? ネットで検索すると、お笑いタレントで漫画家の矢部太郎さんの文章が最初にあらわれた。

「愉英雨の英は花を意味して、春に咲く花々を愉(たの)しませ、喜ばせる雨のことです」。

なんと矢部太郎さんは気象予報士でもあったのだ。その知識を生かして、家庭画報に「雨のことば」を連載していた。

それはさておき、ネットからは「愉英雨」の原典も、出典も判然としなかった。こうなったら、わが家にある辞書に当たるしかない。

漢和辞典で「英」は「花」であることを確認する。さらに、高橋順子・文/佐藤秀明・写真『雨の名前』(小学館、2002年第6刷)に当たると、「愉英雨」があった。

 花を楽しませる春の雨というほかに、「俳句の季語『山笑う』は、樹々の固い芽がやわらかくほどけるさまを言いえて妙」というコメントが添えられていた。少しイメージが広がったが、それ以上はやはりわからない。

 この「愉英雨」と同じページに「養花雨(ようかう)」がある。花曇りのころに、春の花に養分を与えるように降る雨のことをいうのだとか。「育花雨(いくかう)」とは同意語、ともあった。

『雨の名前』から、漢字が3文字で音読みの春の雨の名前を拾うと――。「杏花雨(きょうかう)」。二十四節気のひとつ「清明」に当たる4月5日ごろ、つまりアンズの花が咲くころに降る雨のことだという。

「迎梅雨(げいばいう)」。陰暦3月の雨で、古く中国の江南で言われていた言葉だそうだ。

 意味は省略するが、「洗街雨(せんがいう)」「洗厨雨(せんちゅうう)」には古代中国の大帝についての記述がある。「杏花雨」にも、古代中国ではアンズの花が愛でられた、とある。

 それからの類推。「ゆえいう」という音の連なりは、日本語としてはなじまない。古語としてもそうだろう。

ということは、これもまた古代中国の文献かなにかに記録されている文字ではなかったか。しかし、手元にある漢和辞典には、「愉英雨」はなかった。

2025年4月23日水曜日

北イタリアのシュロ

                                           

  気候変動は、私たちが住んでいる地域の環境に直結した問題でもある。

 猛威を増した低気圧や台風、洪水、酷暑、豪雪、竜巻、……。異常気象による自然災害が多発し、人間の生命と財産を脅かす。

いや、「人新世」が招いた気候変動に人類自身が翻弄されるようになった、というべきか。

 地球は、地域はこれからどうなるのか――。その手がかりを知りたくて生態学者などが書いた本を読み続けている。これは、4月19日の拙ブログ「タネをまく生物」の続き。

 ソーア・ハンソン/黒沢令子訳『温暖化に負けない生き物たち――気候変動を生き抜くしたたかな戦略』(白揚社、2024年)=写真=に、こんな例が紹介されている。

 海水温の上昇で南の海にすむヒマワリヒトデが苦しんでいる。ヒマワリヒトデはそれで北方の海に生きる道を開いているようだという。

 「かつては凍てつくほど冷たかったベーリング海の水温は、今では温暖化の影響で、生息を阻む大きな障壁ではなくなり、ヒマワリヒトデはアリューシャン列島全域とその向こうの沿岸に新たに棲みつけるようになった」

 開発の手が入らなかったために、鳥類の昔のデータと比較検討ができるペルーの山地では、「絶滅のエスカレーター」がフルスピードで上昇しているという。

 1985年には普通に見られた、高い標高に特化した種のうち半分近くが姿を消した。残っていた種も個体数が激減し、生息地も頂上の直下に限られていた。

 「そもそも山はピラミッドのように上に行けば行くほど狭くなるので、どんな動植物が移動してこようとも占有できる面積は狭くなり、最終的にはなくなってしまうかもしれない」

 クリス・D・トマス/上原ゆう子訳『なぜわれわれは外来生物を受け入れる必要があるのか』(原書房、2018年)にも、同様のことが書かれている。

 「動植物はおよそ17キロのスピードで、北極または南極へ向かって移動している。(略)それが、人間が引き起こした温暖化が1970年代の半ばに明確になって以来、毎年、毎日続いている」

 アルプス山脈の南麓、スイスとイタリアにまたがる「マッジョーレ湖」周辺の話。「野生のシュロが実をつけるほど大きくなったところはどこも、下層は次の世代の葉でまったくのジャングルになっている」

 わが家にも鳥がタネを運んできたのか、実生のシュロがある。マッジョーレ湖畔のシュロも、最初は中国か日本から運ばれた園芸種だったにちがいない。

 やがて「湖の土手を縁取る森でおおわれた暖かい斜面はほとんど全部青々としたシュロの林になるだろう」というところまで占有しつつある。

「マッジョーレ湖は人新世からの絵葉書だ」。こんな文章に出合うとつい地球の未来について考え込んでしまう。

2025年4月22日火曜日

2年ぶりのアミガサタケ

                                
   4月20日の日曜日、夏井川渓谷の隠居で土いじりをしたあと、庭を一巡りする。

満開のシダレザクラの下では、背をかがめて地面に目を凝らした。春のキノコのアミガサタケが出ているかもしれない。

シダレザクラは隠居と地続きの庭、畑のそばの空きスペースにある。南側は石垣になっている。地下に張り巡らされた菌糸網は、それで北側のスペースに、半円状に広がっているはずだ。

 去年(2024年)はアミガサタケの姿がなかった。枝葉が枝垂れる内側では、もう子実体(キノコ)は発生しないのかもしれない。

 畑の脇には植えたハーブと雑草が茂り、草を刈るだけのスペースが広がる。菌糸網は、しょっちゅう掘り起こされる畑を避けて、そちらへ伸びているのではないか。

そう判断して、枝葉の外縁部に沿って進むと、あった。アミガサタケが点々と、9個も。

 毎年4月は隠居へ行くたびに、アミガサタケを探す。今年は6日、13日と空振りだった。去年に続いて不作か――半ばあきらめかけていただけに、小躍りしたくなった。

「あった!」。思わず声に出すと、そばでヨモギを摘んでいたカミサンがびっくりして顔を上げた。「なにが?」「アミガサタケ!」

まずは地べたに這いつくばるようにしてカメラを向ける。そのあと収穫し、ヨモギにアミガサタケを添える=写真。それだけで満たされた気分になる。

東日本大震災に伴う原発事故の影響で、隠居の庭が全面除染の対象になった。事故から2年後の冬、庭の土を入れ替えた。

アミガサタケはもう出ないだろうと思っていたら、平成28(2016)年の春、シダレザクラの樹下に子実体が現れた。

両者はどうやら共生関係にあるらしい。除去された表土より深く菌糸が残っていたようだ。

発生を確認した4月の日曜日の記録が残っている。早い順からいうと、11日、19日、21日、22日、23日、24日で、だいたい下旬に集中している。今年は20日だから、例年並みの出現か。

この日、いわきキノコ同好会会長の冨田武子さんの告別式が執り行われた。前日、葬儀場に出向いて焼香し、遺影と対面した。

キノコ同好会に入ってざっと30年。一貫して冨田さんの「キノコ学」に触れてきた。アミガサタケを摘みながら、そのことを思い出した。

同好会の総会・勉強会は年末に行われる。勉強会はほとんど冨田さんが講師を務めた。日本特用林産振興会公認の「きのこアドバイザー」でもあった。

食毒を知って終わり、ではキノコのほんとうの魅力がわからない。色や形の面白さ、腐朽と共生という働き、地球の植物と菌類の切っても切れない関係などを学んで、自然観が変わったといってもいい。

さて、どうするか。アミガサタケを縦に二つに割ってバター炒めにする。コリコリして癖がない。夜、故人の冥福を祈りながら、ありがたくいただいた。

2025年4月21日月曜日

中通りは夏日

                                              
 4月の前半が終わったばかり。寒の戻りもある時期なのに、4月18日は「季節外れの暑さ」になった。

 福島県の中通りは、二本松の27・8度を最高に、郡山26・9度、福島26・7度、白河25・7度と夏日を記録した。

 浜通りのいわき地方は小名浜で21・7度、内陸の山田で23・4度と、中通りほどではなかったが、やはり気温が上がった。

 この日午前中は茶の間で仕事を続けた。着ているものは前日までと同じ「準冬服」だ。

 早朝はさすがにひんやりしている。こたつにスイッチを入れたが、石油ストーブは我慢した。「もう灯油は買わなくてもいいのではないか」。胸の中で別の自分がいう。

 時間がたつにつれて「寒さ」の感覚が薄れていく。そう、体内の気温センサーは「暑さ」よりも「寒さ」に敏感らしい。

 午後、庭に出ると、立っているだけで汗ばんできた。現役のサラリーマンなら背広を脱ぎ、ネクタイを緩める暑さだ。当然、若者は半そでシャツになっていることだろう。

 黄色いタイプのイカリソウの花=写真=をながめているうちに、「これはたまらない」そんな気分になった。

薄手のジャンパーを脱ぎ、ついでに毛糸のチョッキもとなったが、夕方の気温低下を見越して、それは思いとどまった。

 ついでにあたりをぶらつく。生け垣のマサキの根元にヤブガラシの赤い芽が出ていた。また「芽むしり」の季節が巡ってきた。

 そういえば、と次々に連想がはたらく。先日、生け垣を見ていたら、若葉が一部、消えていた。ミノウスバの幼虫がすでに孵化し、かたまりになって葉を食害している。

 これから次々に幼虫が見つかる。その都度、幼虫ごと葉を除去する。そうしないと、生け垣が丸裸にされる。生け垣の意味がなくなる。

 侵略的外来生種であるフランスギクも茎をのばしてきた。これも根元から引っこ抜いた。

 寒くて控えていたが、春から初夏は朝、歯を磨きながら庭の植物や虫たちを観察する。

この時期のいつもの習慣で、合わせて「芽むしり仔撃ち」をする。それを怠ると、あとで痛い目に遭う。

が、自然の息吹は人間の思惑より早まっているようだ。人間が茶の間にこもっているうちに、ミノウスバの幼虫は早々と孵化した。ヤブガラシもあちこちから芽を出した。

 年に一度は庭師が入って「整髪」していた民家の「庭園」がある。空き家になった今は、木々の枝葉が茂り、地面も草で覆われつつある。わが家の庭も同じで、放置すればすぐ荒れる。

 それはともかく、テレビは盛んに「熱中症に注意を」と呼びかける。まだ4月後半、と思うのは、老体が「寒さ」を引きずっているからで、マチはすでにハナミズキが開花して初夏の装いに変わった。

2025年4月19日土曜日

タネをまく動物

                                            
   庭の草木を眺めていて、ふと思うことがある。これも、あれも、植えた覚えはない。風がタネを運んで来たか、鳥が排泄したフンにタネが混じっていたか。

最初に不思議に思ったのはヤツデだった。天狗の内輪のような葉を広げた植物がある。なんでそこにあるのだろう。

それからもう何十年かたつ。あらためて庭のヤツデを数えたら、大小10本近くあった。3年前には7本だったから増殖中、というわけだ。

ある会合で、マンリョウも増えているという話になった。家に帰ってすぐ庭を見たら、芽生えから20センチほどに育ったものまで十数本あった。

ほかには、シュロとシロダモ(らしいもの)、トベラの幼木が各1本。これらは冬でも葉をつけたままだ。

人間が介在した木はわかる。カミサンが、夏井川渓谷の隠居の庭からカエデの実生を持ち帰り、庭に植えたのが、今ではそばの柿の木をおびやかすほどに生長した。

自然の芽生えにはまちがいなく鳥が介在している。主な「播種者(はしゅしゃ)」は、庭にひんぱんにやって来るヒヨドリだろう。

先日、図書館から『タネまく動物』(文一総合出版、2024年)=写真=を借りて読み、その推測が的外れではないことを知った。

小池伸介・北村俊平編著(きのしたちひろ・イラスト)で、サブタイトルは「体長150センチメートルのクマから1センチメートルのワラジムシまで」と長い。

ヒヨドリの「種子散布」行動に絞って書く。ヒヨドリが食べる果実の種類は断トツの210種。2位のキジ119種、3位のツグミ117種をはるかに上回る。

高木のヤマザクラやミズキなどはもちろん、林床の低木、草本類の果実も丸飲みにする。

タネを運ぶ範囲は300メートル弱。果実を丸飲みしてからタネまじりの糞を排出するまで10~30分、行動圏は1・3~6・4ヘクタールで、タネを排泄するまでにはこの行動圏を端から端まで十分移動することができる。

直線距離では129~286メートル。つまり、食べて出すまでの最長距離は300メートル弱、ということになる。

石川県にある大学のキャンパスの事例では、トベラの果実(タネ)を食べて排泄するまでの距離は100~250メートルだった。

トベラは主に海岸に生息するが、公園などにも植えられる。海岸からわが家まではおよそ5キロ。

ヒヨドリの食餌(しょくじ)行動と排泄時間を考えれば、わが家の近くにある公園、あるいは民家の庭でトベラの赤い実を食べて、わが家の庭で排泄した、ということが考えられる。

 わが家があるのは、住宅が連なるとはいえ、もともとは旧街道沿いの畑だったところ。古くからの家は庭が広い。屋敷林もある。丘陵も近い。野鳥にとってはえさ場と休み場を兼ねたスポットが点々とある。

もともとは海岸にあったトベラが、ヒヨドリたちを介して点々と内陸に向かい、そのひとつがやがてわが庭に根を張った――そんな移動の物語が読み取れる。

2025年4月18日金曜日

甲は貝殻

                                 
  ある日の夕方、「イキのいいのが入ったから」と、楢葉町の知人が小さなイカを持って来た。

 知人はいつも自分でつくった料理を持参する。カミサンには願ってもない夕食のおかずだ。

 今回は調理前の新鮮な食材が届いた。「ちょっと来て」。台所で下ごしらえをしていたカミサンから声がかかる。

 なにか手伝えということだろうか。行くと、イカ本体のほかに細長くて白い骨のようなものが並べてあった=写真。

骨のようなものはイカの中から出てきたのだという。長さは8~9センチで、先端からほんの少し針のようなものが突き出ている。どこかで見たことがあるような形状だ。

イヤリング、あるいはピアス? 釣りをするときの浮き?(まさか、このイカの骨からヒントを得たわけではあるまい)

すぐ茶の間に戻り、「小型イカ」「細長い骨」などをキーワードに、ネットで検索する。と、「コウイカ」「甲は貝殻」といった言葉が現れた。

コウイカの「コウ」は「甲」、甲は貝殻の名残で、「浮き」の役割を果たしている、という。

魚介類なら「市場魚貝類図鑑」だ。それによると、イカはもともと貝だった。貝殻を付けたままでは速く泳げない。それで貝殻を捨てることにした。貝殻の名残の甲を持っているのは、コウイカ、シリヤケイカ、カミナリイカなど、だとか。

コウイカだとすると、成体は20センチ前後になる。ちょうだいしたのはずっと小さい。ネットに出てくる「ピンポン玉」の大きさに近い。

春に生まれた「新イカ」は、夏には5センチ前後になるという。どうやらこの「新イカ」らしい。

「市場魚貝類図鑑」で再確認する。関東では、生まれて間もない「新イカ」を非常に珍重する。高値がつくので、スーパーなどには置いてないことがあるそうだ。

煮つけになって出てきた。やわらかくて歯ごたえがある。ほのかな甘みと旨みが口内に広がる。

ほかにも、いろいろネットをサーフィンしてわかったことがある。コウイカの甲の形状についてぴったりの表現があった。サーフボードに似る。なるほど、手のひらに入るサーフボードのミニチュア版だ。

貝殻の甲の連想でいえば、頭足類のアンモナイトとイカは共通の祖先をもち、オームガイはこの頭足類の最古の祖先と考えられているのだとか。

野鳥は卵を産むために、貝殻を背負ったカタツムリを捕食する。そのことを知って以来、自然界では炭酸カルシウムが循環する、という考えが頭から離れなくなった。

コウイカの甲の炭酸カルシウムも循環する。インコなどの副食として利用されるという。うまく回っているものだ。

2025年4月17日木曜日

大熊に本物のクマ

                                 
  朝、いつものように新聞をめくって見出しを追う。ん⁉ なんだ、これは。浜通りでクマが初めて捕獲された⁉ それも、いわき市に近い大熊町で。4月16日の県紙には仰天した。

町の有害鳥獣捕獲隊がイノシシによる被害を防ぐため、国道288号沿いの山林に罠(わな)を仕掛けた。

捕獲隊が14日朝9時ごろ見ると、罠の中にツキノワグマがいた、というのだ。罠の中とあるから、箱罠と思ったがそうではなかった。翌17日の全国紙には「くくり罠」とあった。。足がはさまって身動きが取れなくなっていたのだ。

くくり罠はイノシシ用としては一般的らしい。箱罠は、つまりは檻(おり)。いわきの山中で見たことがある。そんなに大きいものではない。

罠猟はともかく、クマが捕まっ た場所にまた驚いた。町の広報によると、捕獲場所=同町野上字湯ノ神は南北に伸びる阿武隈高地の東端、太平洋へと続く平地の里山ではないか。

10年前、田村市の実家へ行くのに、震災後初めて大熊町経由で国道288号を利用した。

いわきからは「山麓線」経由で国道288号に折れる。その国道288号に出てすぐの里山が湯ノ神であることを、地図で知った。

大熊でも標高の高い西方の山間部かと思ったら、ずいぶん人里に近い。そんなところまでクマが入り込んでいたのだ。

「阿武隈の山にはクマはいない」。昔からそういわれてきたが、近年はあちこちで姿や足跡が目撃されるようになった。大熊町のクマ捕獲は、「いない」ではもうすまされない「事実」を示す。

いわきはどうか。これまでの出没例としては、①平成24(2012)年7月31日、川前町上桶売字大平地内でクマの足跡を確認②令和2(2020年)6月11日、川前町下桶売字荻地内で住民がクマを目撃し、翌日、直径6~7センチの足跡を確認――というものがある。

ほかに、同じ阿武隈高地の中通り=田村市船引町で令和3(2021)年初夏、ツキノワグマがイノシシ用の罠にかかった。

大熊の例は、広く阿武隈高地をクマがはいかいし、ついには浜通りの里山に現れたという点で衝撃的だ。

よりによって、大熊で――という思いもよぎる。大熊町のマスコットキャラクターがクマだからだ。

国道288号を西へ向かって進むと、田村市との境でこのマスコットキャラクターと出合う=写真。

町によると、「おおちゃんくうちゃん」という愛称がついている。「おおちゃん」はサケを、「くうちゃん」はナシとフルーツのキウイが入った籠を手にしている。いずれも町の特産物だ。

阿武隈の山里では、これから本格的な山菜採りのシーズンに入る。たまたま迷い込んだだけの、一過性のできごとなのかどうか。次は生息というところまで事態が進むのかどうか。大熊に限らず、夏井川渓谷の集落でもクマに注意が必要になった。

2025年4月16日水曜日

55年前の万博

                                
   大阪・関西万博が4月13日に開幕した。それを伝える新聞記事=写真=を読みながら、55年前にやはり大阪で開かれた万博のことを思い出していた。

21歳のときだった。開幕から3カ月ほど万博の駐車場でアルバイトをした。

宿舎は会場の近くにあった。宿舎と職場(駐車場の事務所)を往復しながら、ときに会場のパビリオンを巡り、休みの日には会場内の「万博中央口駅」から電車で大阪の街へ遊びに出かけた。

叔父が東京で駐車場を経営する会社に勤めていた。その会社が万博駐車場の仕事を引き受けた。

叔父の家の近所で間借りをし、ぶらぶらしていた私を見かねて、叔父が大阪でのアルバイトを勧めた。東京を離れたかった私は、この話に乗った。

大阪万博は昭和45(1970)年3月14日から9月13日までの半年間開かれた。記録によると、入場者総数はおよそ6400万人に達した。

「同僚」には語尾に「――ずら」がつく静岡県人が多かった。当然、宿舎は一緒だった。これに、会場近くから通勤する地元の仲間が加わった。

仕事が終わると、仲良くなった人間とよくパビリオン巡りをした。出入りが自由だったのは、駐車場スタッフのカードか証明書のようなものを持っていたからだろう。

もう記憶はちぎれてすりきれているが、岡本太郎作の「太陽の塔」(高さ70メートル)には圧倒された。特に鳥のようなてっぺんの「黄金の顔」、唇をひん曲げた正面の「太陽の顔」は、今もありありと思い浮かぶ。

開幕して間もない4月26日、この太陽の塔で騒ぎが起きた。塔の黄金の顔の右目部分に男が籠城(ろうじょう)したのだ。「ハイジャック」ならぬ「アイジャック」事件で、私ら駐車場スタッフもニュースで事件を知って、あとで見に行った。男は大型連休中の5月3日につかまった。

時代のキーワードは、新左翼・ロックアウト・投石・機動隊・催涙ガス……などで、男もそうした風潮に影響されたようだ。

よく訪ねたパビリオンはスカンジナビア館だった。レストランでの飲み食いが目的だった。展示物では、メキシコ館の「巨石人頭像」に圧倒された。

そのころ、詩誌の「現代詩手帖」だけを読んでいた。投稿を始めてすぐ大阪へ移った。関東に住む親友から手紙が来て、投稿欄に作品が載ったことを知る。

それを機に、駐車場での仕事を途中で切り上げ、暮れには友人と2人、パスポートを持って沖縄をさすらった。翌春にはJターンをして長い髪を切り、地域紙の記者になった。

さて、極私的思い出話の締めくくりは、大阪・関西万博の想定入場者数だ。2820万人だという。55年前の半分以下ではないか。経済も、人口も右肩下がりの時代を象徴している、としかいえないのだがどうだろう。

2025年4月15日火曜日

スズメが減っている?

                                 
   岩波書店のPR誌「図書」3月号は、巻頭で小特集を組んだ。「環境を読む、私たちを知る」を通しタイトルに、解剖学者の養老孟司さんら5人が寄稿している。

小林彩さん(生態学)は「スズメからの問いかけ」=写真=と題して、スズメが減っていることを報告した。

スズメは、もともとは木のうろなどに営巣していたのだろうが、至る所に人間が住み始めた結果、家の軒下や瓦屋根のすき間などをすみかにして生き残る戦略をとってきた(と私は考える)。

ときに稲作の害鳥扱いを受けながらも、人間の暮らしを利用し、人間とつかず離れずの関係を保ちながら、子孫を増やしてきた。その意味では最も人間と関係の深い野鳥にはちがいない。

通りの家の軒下に巣をつくる夏鳥のツバメも、ごみ集積所を荒らすカラスも「翼を持った隣人」だ。そのなかで人間に身近なスズメが減っている? なぜ?

小林さんが島根に住んでいたころ、地元の古老から、スズメが減った話を聞いた。日本自然保護協会の事務局に務めて、そのことを思い出す。

同協会は毎年、調査報告書を発行し、5年に1回は「とりまとめ報告書」を出す。2024年10月に最新版のデータが公開された。そのなかで、里山でスズメが減っていることが明らかになった。

その要因の一つとして、小林さんは人間の「自然に対する働きかけの減少」を挙げる。

農山村では、人間が自然を利用しながら、自然を守ってきた。周囲の森や川、田畑を含めた農山村景観はそれで維持されてきた。

この里山環境に大きく依存してきた生きものは数多い。ところが昨今は、多くの中山間地で田畑の耕作放棄が進み、草地や周辺林は管理する人がおらずに放置されている、という。

その結果、農地や草地の森林化が進み、放置された森林も構成する植物の種類が変わってきた。

「人間が手を入れることによって保たれていた、明るい環境に生息する生きものたちの減少」が起きた。人間の側が里の自然から遠ざかることで、里の自然が荒廃したのだ。

哲学者内山節さんは『自然と人間の哲学』のなかで、自然と人間の関係を、自然と自然、自然と人間、人間と人間の3つの交通が影響し合ったものとして論じている。

スズメの減少は、つまりはこの自然と人間の交通の変質がもたらしたものだ。小林論考を読んで納得した理由が実はここにある。

東日本大震災に伴う原発事故で、双葉郡を中心に多くの人が避難を余儀なくされた。人間のいなくなった里からカラスやスズメも消えたのではないか――。あのとき、そんな心配がよぎったのだった。

2025年4月14日月曜日

花冷え

                                 
   日曜日は夏井川渓谷の隠居へ出かけて土いじりをする。とはいえ、年度替わりの時期だけに、いろいろ用が入る。

3月30日は午後に区内会の総会があった。午前中だけでもと思ったが、やはり気持ちの切り替えが難しい。隠居へ行くのをよして総会に備えた。

4月6日は朝、ちょっと隠居へ出かけてすぐ街に戻り、ギャラリーいわき泉ケ丘その他を巡った。

同13日は朝のうちに街で用を足し、買い物をしてから隠居へ出かけた。いつもの流れとは逆のパターンだ。

街ではソメイヨシノが満開になり、背後の丘陵はヤマザクラの花でピンクに彩られている

渓谷にも春を告げる花が咲く。アカヤシオ(岩ツツジ)だ。磐越東線でいえば、江田~川前駅間、椚平から牛小川までの右岸(北向き斜面)が、この時期だけ点々とピンク色に染まる。

隠居の対岸のアカヤシオは満開だった。6日は3分咲き程度だったので、予想した通りの展開だ。

それとは別に、隠居の庭にある2本のシダレザクラもほぼ満開になった=写真上1。近くにあるサクラの若木も花をいっぱい付けていた。

シダレザクラは知人から苗木を2本もらって植えた。育ったら幹にハンモックをかける――そんな夢を描いたものだが、今では見上げるほどに大きくなった。

サクラは孫の小学校入学祝いにと、義弟が10年ほど前に買ってプレゼントしたものだ。

4月13日はなによりもまず、このシダレザクラと対面するために出かけた。1週間前はまだつぼみだった。

あいにくの曇り空、そして寒い。「花曇り」どころか、「花冷え」だ。首筋から寒さがしのびよる。

アカヤシオの花見客もほとんどいない。たまに車が1、2台、錦展望台に来て止まるだけ。この寒の戻りではさもありなん。

私らも花を見ただけで早々に隠居を離れ、わが家に戻って遅い昼食をとった。

1週間前はカメラにメモリーカードを入れ忘れて撮影ができなかった。13日はドライブ中にカミサンが何コマかパチリとやった。

そのうちの1枚がこれ=写真上2。1週間前は三島(小川)の夏井川に3羽のハクチョウが残留していた。13日は1羽だけだった。

前に残留し、いったんは北へ帰ってまたやって来たエレンだろうか。いや、エレンとは違う個体かもしれない。いずれにしろ、日曜日はこのハクチョウから目が離せない。

2025年4月12日土曜日

ちょっとした不注意

                          
 カメラはいつもそばに置いてある。家にいるときはこたつのわきに、車を運転中は助手席に。

 夏井川渓谷の隠居では、土いじりの合間にカメラを首から提げて庭を一巡りする。タテハチョウが日光浴をしていればパチリとやる=写真。フキノトウの群生も、アセビの花も……と、被写体には事欠かない。

 そうやって撮影したデータをパソコンに取り込んだときのこと。パソコンからカメラのメモリーカードを引き抜くのを忘れて、そのままカメラを持って出かけた。

日曜日(4月6日)、早朝。渓谷に春を告げるアカヤシオ(岩ツツジ)の花が咲いているはず――。

 思った通りだった。さっそくカメラを向けてシャッターを切る。と、何か変な文字があらわれた。「メモリーカードが入っていません」

 しまった! カードをパソコンに差し込んだままだった。きょうは写真を撮れない。そう考えると花を楽しむどころではなくなった。急いで帰宅し、カメラにメモリーカードを戻して、やっと気持ちが落ち着いた。

 撮影データをパソコンに取り込むようになって何年になるだろう。ちょっとした不注意には違いないが、老化も加わってそうなったか、なんて考えた日の翌日――。

カミサンが近所から帰って来て告げた。仲良くしている90歳のおばさんが、家でイスから転げ落ちてけがをしたという。

病院へ行ったら、骨に異常はない。しかし、背中のあたりに痛みがある。再検査をしたら圧迫骨折ということだった。

すぐ義弟のことを思い出した。義弟は去年(2024年)11月に亡くなったが、その1年前、わが家の南隣の自宅で転んで背中を強打し、圧迫骨折をした。入院して、特製のコルセットで胸部を固定しながらリハビリを続けた。

カミサンの友人や知人も、自宅で、外で転んでひざや肩を骨折し、入院した――そんな話が時折、入ってくる。

年をとれば、家庭内での事故が増える。なかでも多いのが、この転倒だ。それもちょっとした不注意で起きる。

座布団を踏み外す、こたつのカバーやわずかな段差に足をとられる、ぶつける。で、4年前には家庭内での転倒事故防止を「年頭の誓い」にした。

老化で弱くなった足腰が、コロナ禍の巣ごもりでさらに弱くなった。するとますます、家の中にあるモノたちが「障害物」になる。その自覚があったからだ。

 40年ほど前に2階を増築したとき、階段に手すりを付けた。そのころは軽い気持ちで「付けておくか」という程度だったが、今はこれが役に立っている。

 転倒事故も、メモリーカードの戻し忘れも、ちょっとした不注意から起きるという点では、根っこは同じ。あらためて老いを自覚し、戒めとしなければ。

2025年4月11日金曜日

ネギの終わり初物

                                                
   隣の行政区に住む知り合いから、「終わり初物」のネギをちょうだいした=写真。

師走に用があって訪ねたら、すぐ畑へ行ってネギを掘り取ってきた。それがいわきの平地で栽培された冬ネギの「初物」だった。

久しぶりに「終わり初物」という言葉を聞いた。

「初物」は文字通り、シーズン最初に収穫・採取、あるいは買って口にする野菜・果物・山菜・キノコなどのことだ。

「終わり初物」はその逆で、収穫・採取・消費はこれで終わり、というときに使う。

たとえば、ワラビ。渓谷では4月末に初物が手に入る。摘まれたワラビからはまた子ワラビが出る。これをまた摘む。そうして夏がくると、次の年のことを考えて「終わり初物」にする。

春に冬ネギが終わり、初物になるのはたぶん、ネギの種まき時期と関係する。春になるとネギはとうが立つ。新しいネギの種まきも待っている。

私は、夏井川渓谷の隠居で昔野菜の「三春ネギ」を栽培している。採種・播種・定植・収穫というサイクルを経験するなかで、同じ夏井川流域でも山間地と平地とではネギの種まき時期が違うことを知った。

三春ネギは、地元の人の話によると、昔の国民の祝日「体育の日」(10月10日)が種まき時期の目安になる。種まきまでは夏に採った種を冷蔵庫で保存しておく。

それに対して平地のネギは、年を越した4月10日に種をまく。千住系の「いわき一本太ネギ」を栽培している「師匠」に教えられた農事暦だ。

知り合いのネギも立派な太ネギだった。初物をちょうだいしたときのブログがある。それを抜粋する。

――さっそくネギジャガの味噌汁にして味わう。太ネギは硬いというイメージがあったが、思った以上に軟らかかった。

夏井川渓谷にある隠居の庭で三春ネギを栽培している。田村地方から入ってきた昔野菜で、ある家に泊まった朝、ネギジャガの味噌汁をすすって驚いた。昔の記憶がよみがえった。

私は田村郡の山里で生まれ育った。ネギジャガの味噌汁が好きだった。そのネギと同じ味がした。甘くて軟らかい。

ネギづくりの参考にしているのは、平地の夏井川沿いにあるネギ畑だ。わが家からマチへ行った帰りによく堤防を利用する。

 いつもチェックする畑がある。今季は師走に入っても、収穫が始まる気配はなかった。中旬になってもそのままだった。

 暮れの12月29日に通ると収穫が始まり、年が明けた1月5日には3分の2が消え、9日には3列しか残っていなかった――。

 知り合いからネギをちょうだいしたのは、師走に入ってすぐだった。それでさっそく、カミサンにネギジャガの味噌汁をリクエストした。

それから4カ月。まずは焼いて、味噌をつけて食べた。ほくほくして甘かった。これがほんとの「いわき太ネギ」なのだろう。

2025年4月10日木曜日

緑の募金

                                
 年度末に集中した行事をなんとかこなし、気ぜわしさから解放されたのも束の間。4月に入るとすぐ「緑の募金」が待っている、というのがこれまでの流れだった。

 行政嘱託員と区内会の役員を兼ねているので、月に3回は市から回覧資料が届く。新年度が始まって2回目の回覧日(4月10日付)には各隣組に宛てて文書をつくり、区内会としての締め切り日を設けて、依頼のあった「緑の募金」の取りまとめをお願いする。

昨年(2024年)の場合は次のような文書を回覧した。「『緑の募金』運動への依頼が届きました。緑の羽根は集金袋に世帯分だけ入っています。1本取って善意の募金をお願いします。5月15日までに、担当役員さんへ募金者名記入簿と一緒にお届け願います」

4月1日のいわき民報に、家庭での「緑の募金」を今年度から廃止するという記事が載った。「広報いわき」4月号にも次のような「案内」が掲載された=写真。

家庭や地域の負担軽減などを考慮し、自治会を通した家庭募金は廃止する。ただし、個人・企業などで引き続き協力できる場合は、市林業振興課または各支所窓口、もしくは本庁舎と各支所に設置の募金箱にお願いする。

「家庭募金は廃止」と知って、肩の荷が少し軽くなった。回覧までには準備が要る。隣組宛ての文書の整理とコピー、集金袋への緑の羽根の封入。回覧後もまた、名簿と募金の回収が待っている。

隣組の班長交代に伴い、区内会の連絡網は一新したばかり。「広報いわき」(毎月1日付)などは班長宅に届けて終わり。つまり流れとしては一方的だが、募金関係はさらにそこからの集約がある。

募金は強制ではない。あくまでも個人の判断による。人によっては経済的な負担になる。区内会の役員や隣組の班長にとっても、事務的な負担感は否めない。そうしたことが家庭募金廃止の背景にあったのだろう。

「緑の募金」は、前は「緑の羽根募金」と言っていた。私が子どものころは、胸に緑の羽根をつけていた(と思うのだが、記憶はあいまいだ)。古い人間なので、やはり「緑の募金」よりは「緑の羽根募金」といった方がピンとくる。

国土緑化推進機構によると、「緑の羽根募金」運動は昭和25(1950)年に始まった。その後、戦後50年の節目に当たる平成7(1995)年に「緑の募金法」が制定された。

この募金を活用し、ボランティアやNPOなどを通じて、国内外で森づくりや人づくりをはじめとするさまざまな取り組みが進められている、ということだった。

いわき民報によれば、福島県内では福島市や郡山市では、家庭募金を取り扱っていない。時代の趨勢なのだろう。

2025年4月9日水曜日

1年生は1学級

「少子高齢社会」がいわれて久しい。ちょっと前までは一般論としての認識だったが、今は自治会(区内会)単位、あるいは学区単位でこれを実感している。

 4月7日に地元の小学校で入学式が行われた。区内会の役員をしているので、3月の卒業式に続いて、来賓として臨席した=写真(入学式のしおり)。

 新1年生は男子15人、女子11人の計26人で、クラスとしては1学級だけの編成だという。

 来賓の多くは同じ小学校の卒業生である。新1年生からみれば、おおむね祖父母の世代といっていい。家族にたとえるなら、祖父母―父母―1年生の3世代が一堂に会したことになる。

祖父母(以上の世代)に当たる私は、いわゆる「団塊の世代」なので、同級生がいっぱいいた。阿武隈の山里でも小学校は1学年3学級、中学校では5学級にふくらんだ。

それがたぶん、児童・生徒数としてはピークだった。当然、街場の学校はそんなものではなかったろう。自分の記憶からしても、新1年生が30人を割るというのはショックだった。

ここは平市街の近郊農村と初期のベッドタウンといったところ。新1年生の親の世代あたりまでは1学年2学級というのが普通ではなかったか。

私が入学式に初めて臨席したのは、12年前の平成25(2013)年。そのころから入学する児童の数は漸減していた。

クラスの定員は、最大40人がメドだったように記憶する。私たちの場合はそれ以上いて、教室には余裕がなかった。

現代では、学年合わせて40人余り、年度によっては40人を割るところまで数が減っている。今年(2025年)はさらに30人を下回った、というわけだ。

 翌8日は、1年生にとっては集団登校の初日だ。どんな様子か確かめたくて、登校時間に家の前に出た。

 カミサンによると、黄色い帽子をかぶった子、つまり新1年生は5人いた。前日、ほかの来賓とも話したが、それぞれの地区で入学した子どもの数が話題になったらしい。

隣接する区の新1年生は7人と5人ということだった。これにわが区の5人を足すと、26人のうち3区内会で17人を占める。新1年生がゼロの区内会もあったに違いない。

 若い世代がいないから、子どももいない。いるのは高齢者――。昔からの農村部はそんな状況らしいということも、役員の問わず語りで知った。

 集団登校初日の午前11時前、今度はたまたま家の前にいた。真新しいランドセルを背負い、黄色い帽子をかぶった1年生が、途中まで出迎えた保護者と一緒に帰って来るところだった。

カミサンが声をかけると、はにかみながらうなずいていた。初々しさにこちらもほっこりした。 

2025年4月8日火曜日

田んぼのくろ塗り

                             
 自然の移り行きに合わせて、田んぼがすき返され、畔(あぜ)の「くろ塗り」が始まった。今はトラクターでくろ塗りをするらしい。

 家から少し離れた田んぼ道を行くと、表面(天端)の半分とのり面が黒くつるつるしている畔があった=写真。ほかの田んぼでも、ところどころ畔がきれいになっている。

 トラクターでのくろ塗りは、何年か前から見かけるようになった。最初は何をしているのかわからなかったが、あとで同じ道を通ると畔ののり面がきれいになっていた。

成形されたあとがきわだって美しい。で、どうやるのか、どんな機械を使うのか、ネットで探ってみた。

それによると、トラクターに、外形が漏斗(ろうと)に似たくろ塗り用の機械を取り付け、それを回転させながら、のり面と天端を同時に成形していく、というものらしい。

 4月最初の日曜日(4月6日)、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。1週間前の日曜日は用事があって渓谷へは行けなかった。まずはアカヤシオ(岩ツツジ)の開花を確認しなくては――。

 いわきの平地でソメイヨシノが咲き出すと、渓谷のアカヤシオが開花する。30年ほど渓谷へ通い続けて学んだ経験則だ。

 今年(2025年)もその通りになった。江田を過ぎ、椚平に入ると右岸の山がピンクで彩られていた。それがアカヤシオの花。

 籠場の滝の周辺では、谷の方までアカヤシオの花が見られる。わが隠居と展望台のある牛小川は、前山が3分咲きというところだった。奥山を含めた見ごろは今度の日曜日(4月13日)だろう。

 沿道のソメイヨシノは花が満開に近かった。が、雨にたたられたせいか、花びらの色がいまひとつさえない。

 集落の背後の小丘陵はしかし、ヤマザクラの花で淡いピンクの点描画になっている。

 三島(小川町)のハクチョウはとっくに北へ帰ったと思っていたら、3羽が砂地に上がって「朝寝」をしていた。

どこか南で冬を過ごしたハクチョウが北へ帰る途中に一休みをしている、といった雰囲気だ。

というわけで、沿道には春の花があふれ、くろ塗りのすんだ田んぼが増えてきた。趣味の菜園でも事情は変わらない。わが隠居の菜園では、今年はジャガイモを植える。

いや、時期的にはもう植え終わっていないといけないのだが、食べきれずに残って芽を出したジャガイモが家にある。捨てるのはもったいない。

菜園の一角に埋めれば、やがて小芋ができる。それを掘り起こして「味噌かんぷら」にする。

くろ塗りのすんだ田んぼの畔を見ながら、春の土いじりと、それがもたらす夏の食べ物が思い浮かんだ。

2025年4月7日月曜日

元知事の本を再読

                     
 歌手で俳優のいしだあゆみさんが亡くなり、テレビが追悼番組を流しているさなかに、佐藤栄佐久元福島県知事の訃報に接した。3月半ばのことだ。

 同年代のいしだあゆみさんの大ヒット曲「ブルー・ライト・ヨコハマ」は、20歳前後のころ、毎日のように耳にした。今でもイントロが流れると、メロディーが脳内に鳴り響く。

 元知事は、現職のころはメディアを介して動向を知るだけだった。その後、知事を辞し、司法との闘いを経たあと、何度か顔を合わせたことがある。

 東日本大震災の直前、2011年3月6日に友人が元知事を招いて、いわき市平の高久公民館で講演会を開いた。

 友人の文章によると、元知事は講演のなかで「いずれ日本の原子力政策はつまづく」と語った。「いずれ」どころか、5日後に大震災が発生し、原発の苛酷事故が起きた。

 その1年前にも、やはり友人が元知事を招いて講演会を開いた=写真。演題は「『地方自治』を語る――『知事抹殺』からみえてくるもの」だった。

元知事は2009年9月に平凡社から『知事抹殺――つくられた福島県汚職事件』を刊行する。その出版を踏まえたものだった。そのときの拙ブログを要約・再掲する。

――元知事はどんな理念・哲学に基づいて「地方自治」を推し進めてきたのか。その一つが首都機能移転問題だった。

これに関する朝日新聞「論壇」への投稿「新首都は『森に沈む都市』を目指せ」に目を見張った記憶がある。

講演では、元知事自身の「思想形成史」に興味を持った。高校時代に、旧ソ連によるハンガリー侵攻が起きる。

大学時代には60年安保があった。30歳のときにチェコ事件が発生する。早くから政治に関心を抱いていた。民主主義と人権にかかわるものに無関心ではいられなかったのだろう。

それと並行して『岩波茂雄伝』を介して藤村操を知り、E・H・フロムの『自由からの逃走』などを読む。

さらには、青年会議所時代に安藤昌益を知り、自分で学問をつくりあげた個性に引かれていく――書物から得たものを咀嚼し、血肉化していく知的な営為はなかなかのものだ。

少なくとも、思索を深め、理念・哲学を形成する生き方から、私は元知事が「慎み深く、考え深く」を実践しようとしている人だ、ということが理解できた――。

元知事の訃報に接して、この本を再読している。恐れていた原発事故が現実に起きたことを踏まえていうのだが、知事としての思想と行動は県民の「安全・安心」に立脚したものだった。読み進めるにつれて、その思いを強くする。