2026年4月3日金曜日

積小為大

                             
   いわき市は今年(2026年)、市制施行60周年を迎える。それに合わせて、地域活動に携わっている市民と若手職員によるプロジェクトチームを組織し、市制100年を目標にしたまちづくりビジョンを策定する。

「いわき31万人のまちづくりビジョン策定プロジェクト」という。サイトにはこんな「前文」が載る=写真。

その後半部分。「だれか偉い人が決めるんじゃない。それぞれの『わたし』の声から、1枚の布を編むように、ビジョンの旗を編んでいきたい」

35年ほど前、同じように市が事務局になって、若手市民が集まり、自由にまちづくりのビジョンを議論した。その集まりを「いわき未来会議」という。

提言策定にかかわった市側の担当者(元係長)、会議の座長(経済人)、メンバーの1人だった私(記者)の3人が若手職員の勉強会に招かれ、当時の会議の様子などを話した。

市が主催する審議会や懇談会などは事務局主導が普通だが、いわき未来会議は、最初こそ事務局から「国際化」のテーマを与えられたものの、2回目「自然とヒトのシナリオ」、3回目「まちづくりにおける市民と行政」はメンバーが選んで提言した。

東日本大震災のあと、市民による対話の場「いわき未来会議」が発足した。フェイスブックでそれを知ったとき、不思議な感慨を覚えた。

35年前の「いわき未来会議」を知っていて、それを会の名称にしたとは思えない。前の未来会議と提言はまったく視野には入っていなかったろう。

提言は、私の中では今も生きている。なかでも2回目は、哲学者内山節の『自然と人間の哲学』をベースに議論した。

平成7(1995)年、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が起きたあと、夏井川渓谷にある隠居の管理人として、週末をそこで過ごすようになった。渓谷の人と自然を通して内山哲学を再認識した。

勉強会では、新旧2つの未来会議の例を挙げて、まちづくりの提言が「次」に接続されていない話をした。

同時に、行政の施策は職員の考えや思いがベースになる。施策と自己表現を結びつけて考えるといい――役所取材から感じたことを、エールとして若手職員に伝えた。

最後に司会者から紙を渡された。「声を編む」ということで、好きな言葉、大事に思っている言葉を紙に書いてくれという。

私は「協働」、座長氏は「たのしんで」、元係長氏は「積小為大(せきしょういだい)」と記した。

そうか元係長氏は「積小為大」を胸に秘めて行政の仕事をしてきたのだな、と遅まきながら納得した。公務員としての自己表現に通じる言葉だろう。

新しい施策への夢・思いがある。それを形にするまでには曲折が待っている。曲折をクリアして施策が生まれる。まさに「積小為大」ではないか。

35年前、思いと時間を共有したという意味では、「戦友」との再会の場になった。3人とも白髪に変わったが、時の隔たりは全く感じなかった。

2026年4月2日木曜日

「好間渠」散歩

                                 
   もう半月ほど前のことだ。春分の日にカミサンの実家(平・久保町)へ行って線香をあげた。

家のそばに「好間渠」(好間江筋)がある。昼食をとったあと、江筋沿いの小道を少し散歩した。

 江筋は3面舗装の農業用水路で、幅は3メートル強だろうか。農閑期だが少し水が流れていた。

 カミサンの実家(ちょっと前まで米屋をやっていた)では、昔、この江筋から敷地内に水を引き、水車の回転力を歯車に伝えて米を搗いた。

 取水口はコンクリート壁面でふさがれてわからないが、家の下にある排水口は四角く切り取られたまま残っている。これも米屋の「水力精米」を伝える遺物には違いない。

 好間地区関係団体会議が平成10(1988)年に発行した『よしま――ふるさとの歴史探訪』にこんなくだりがある。

 「平七軒町から今新田(いまにいだ)へ好間川の上に樋(とい)を架けて水田用水としたので今新田側を『樋場』と今も呼んでいる」

 好間川を軸にして考えると、平・七軒町は右岸域で久保町の北隣、対岸(左岸域)が好間の今新田だ。

これは久保町から七軒町へと北流する江筋からの分水に違いない。あらかじめグーグルアースで確かめていた水路が頭にあった。

やがて分水のための水門に出合うはず、そう踏んで江筋沿いを歩いていると、案の定だった。

カミサンの実家の近所だが、北へと江筋沿いの小道を歩くのは初めてだ。音を立てて流れる分水路にちょっと驚いた=写真。

分水路は江筋からかなり低いところに設けられている。そこへ江筋の水門から水が滝となって落下している。

ネットで確かめると、水門がある場所は久保町ではなく七軒町だった。この水路の先端から好間川をまたぎ、今新田に水田用水を分水していたのだろう。

水門のそばに「きけん 好間二小PTA」の立て看があった。小学校は川向うの今新田にある。

その校庭を借りて、かつては平の久保町と隣接する七軒町、道匠小路の3地区合同の運動会が開かれた。

結婚して子どもが生まれたあと、リレーのメンバーが足りないというのでお呼びがかかり、久保町チームに加わったことがある。

少子高齢化はそのころから顕在化しつつあったようだ。運動会はその後取りやめになった。

七軒町などは平一小学区だが、久保町に隣接する右岸域の西側はほとんどが好間二小学区だ。江筋の水門そばに好間二小PTAの立て看があるのはそのためだった。

わが家の床の間に「好間渠誌」の掛軸(拓本)が飾ってある。記念碑は明治35(1902)年に建立されたらしい。それを読み解くための散歩でもあった。

カミサンの実家の田んぼは、今は学校法人に貸していて、建物が立っている。この分水路のほかに、下好間の田んぼを潤す別の水路もある。2つは好間川の手前で合流する。やはり「現場」に立つといろんなことがわかる。

2026年4月1日水曜日

庭の春の花

                               
    日曜日(3月29日)の早朝、茶の間のカーテンを開けると、庭のプラムの木が白い花をいっぱい付けていた。

 前日までは花に全く気づかなかった。咲き始めてはいたのだろう。が、地面の花にばかり目がいっていた。

 プラムは一部が腐朽菌に冒され、キノコが生えた。それで何年か前、幹から左右に張り出していた太い枝の半分を切り落とした。

 キノコはサルノコシカケのように大きくはないが、平べったい姿で残っていた。それを取ったら、また生えてきた。

 キノコの胞子はヤマであれ、マチであれ、ハマであれ、空中を飛び交っている。わが家の庭のプラムもどこかが傷ついていて、胞子の侵入を許してしまったのだろう。

 毎年花を付ける。半身だが、さらに枝が延びて傘状に広がってきた。白く清楚な花びらが目をやさしく包む=写真上1。

 やがては花さえ付けなくなって、そこにもキノコがにょっきり現れるようになるのかもしれないが、今のところはまだがんばっている。

 平・本町通りの街路樹が根元から伐採されたのはいつだったろう。たまたまわきの歩道を歩いたり、一方通行の道を車で通ったりしたとき、赤信号で足が止まる。

なにげなく目をやると、足元の切り株に、やはりサルノコシカケに似た白いキノコが生えていた。街なかの伐採木もキノコの胞子にとっては格好の「菌床」である。

 わが家の庭の話に戻る。地面から緑が次々に芽を出し、花茎を伸ばしてつぼみを持ったなと思うと、黄色い花を付けた。ラッパスイセンだった。

 それがあらかた開花したあと、今度はそれより少し大きなスイセンが咲き出した。プラムの花と同じ日に気づいた。なんと八重咲きのスイセンではないか=写真上2。

  庭の園芸品種はカミサンまかせだ。クリスマスローズが咲き、スノードロップも咲いている。そのなかで1輪、ヒアシンスも淡いピンクの花を付けた=写真上3。

あとは、花ではなく、ミョウガタケの出現を待つだけ。スイセンその他の園芸種に包囲されたためか、近年は芽生えが減った。

暖かくもなってきたので、そろそろ庭に出て、歯を磨きながらミョウガタケをチェックしよう。ヤブガラシは芽が出ていたら摘む。これは生け垣に絡みつくのでほっとけない。どちらも春の朝の習慣だ。