2026年4月3日金曜日

積小為大

                             
   いわき市は今年(2026年)、市制施行60周年を迎える。それに合わせて、地域活動に携わっている市民と若手職員によるプロジェクトチームを組織し、市制100年を目標にしたまちづくりビジョンを策定する。

「いわき31万人のまちづくりビジョン策定プロジェクト」という。サイトにはこんな「前文」が載る=写真。

その後半部分。「だれか偉い人が決めるんじゃない。それぞれの『わたし』の声から、1枚の布を編むように、ビジョンの旗を編んでいきたい」

35年ほど前、同じように市が事務局になって、若手市民が集まり、自由にまちづくりのビジョンを議論した。その集まりを「いわき未来会議」という。

提言策定にかかわった市側の担当者(元係長)、会議の座長(経済人)、メンバーの1人だった私(記者)の3人が若手職員の勉強会に招かれ、当時の会議の様子などを話した。

市が主催する審議会や懇談会などは事務局主導が普通だが、いわき未来会議は、最初こそ事務局から「国際化」のテーマを与えられたものの、2回目「自然とヒトのシナリオ」、3回目「まちづくりにおける市民と行政」はメンバーが選んで提言した。

東日本大震災のあと、市民による対話の場「いわき未来会議」が発足した。フェイスブックでそれを知ったとき、不思議な感慨を覚えた。

35年前の「いわき未来会議」を知っていて、それを会の名称にしたとは思えない。前の未来会議と提言はまったく視野には入っていなかったろう。

提言は、私の中では今も生きている。なかでも2回目は、哲学者内山節の『自然と人間の哲学』をベースに議論した。

平成7(1995)年、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が起きたあと、夏井川渓谷にある隠居の管理人として、週末をそこで過ごすようになった。渓谷の人と自然を通して内山哲学を再認識した。

勉強会では、新旧2つの未来会議の例を挙げて、まちづくりの提言が「次」に接続されていない話をした。

同時に、行政の施策は職員の考えや思いがベースになる。施策と自己表現を結びつけて考えるといい――役所取材から感じたことを、エールとして若手職員に伝えた。

最後に司会者から紙を渡された。「声を編む」ということで、好きな言葉、大事に思っている言葉を紙に書いてくれという。

私は「協働」、座長氏は「たのしんで」、元係長氏は「積小為大(せきしょういだい)」と記した。

そうか元係長氏は「積小為大」を胸に秘めて行政の仕事をしてきたのだな、と遅まきながら納得した。公務員としての自己表現に通じる言葉だろう。

新しい施策への夢・思いがある。それを形にするまでには曲折が待っている。曲折をクリアして施策が生まれる。まさに「積小為大」ではないか。

35年前、思いと時間を共有したという意味では、「戦友」との再会の場になった。3人とも白髪に変わったが、時の隔たりは全く感じなかった。

2026年4月2日木曜日

「好間渠」散歩

                                 
   もう半月ほど前のことだ。春分の日にカミサンの実家(平・久保町)へ行って線香をあげた。

家のそばに「好間渠」(好間江筋)がある。昼食をとったあと、江筋沿いの小道を少し散歩した。

 江筋は3面舗装の農業用水路で、幅は3メートル強だろうか。農閑期だが少し水が流れていた。

 カミサンの実家(ちょっと前まで米屋をやっていた)では、昔、この江筋から敷地内に水を引き、水車の回転力を歯車に伝えて米を搗いた。

 取水口はコンクリート壁面でふさがれてわからないが、家の下にある排水口は四角く切り取られたまま残っている。これも米屋の「水力精米」を伝える遺物には違いない。

 好間地区関係団体会議が平成10(1988)年に発行した『よしま――ふるさとの歴史探訪』にこんなくだりがある。

 「平七軒町から今新田(いまにいだ)へ好間川の上に樋(とい)を架けて水田用水としたので今新田側を『樋場』と今も呼んでいる」

 好間川を軸にして考えると、平・七軒町は右岸域で久保町の北隣、対岸(左岸域)が好間の今新田だ。

これは久保町から七軒町へと北流する江筋からの分水に違いない。あらかじめグーグルアースで確かめていた水路が頭にあった。

やがて分水のための水門に出合うはず、そう踏んで江筋沿いを歩いていると、案の定だった。

カミサンの実家の近所だが、北へと江筋沿いの小道を歩くのは初めてだ。音を立てて流れる分水路にちょっと驚いた=写真。

分水路は江筋からかなり低いところに設けられている。そこへ江筋の水門から水が滝となって落下している。

ネットで確かめると、水門がある場所は久保町ではなく七軒町だった。この水路の先端から好間川をまたぎ、今新田に水田用水を分水していたのだろう。

水門のそばに「きけん 好間二小PTA」の立て看があった。小学校は川向うの今新田にある。

その校庭を借りて、かつては平の久保町と隣接する七軒町、道匠小路の3地区合同の運動会が開かれた。

結婚して子どもが生まれたあと、リレーのメンバーが足りないというのでお呼びがかかり、久保町チームに加わったことがある。

少子高齢化はそのころから顕在化しつつあったようだ。運動会はその後取りやめになった。

七軒町などは平一小学区だが、久保町に隣接する右岸域の西側はほとんどが好間二小学区だ。江筋の水門そばに好間二小PTAの立て看があるのはそのためだった。

わが家の床の間に「好間渠誌」の掛軸(拓本)が飾ってある。記念碑は明治35(1902)年に建立されたらしい。それを読み解くための散歩でもあった。

カミサンの実家の田んぼは、今は学校法人に貸していて、建物が立っている。この分水路のほかに、下好間の田んぼを潤す別の水路もある。2つは好間川の手前で合流する。やはり「現場」に立つといろんなことがわかる。

2026年4月1日水曜日

庭の春の花

                               
    日曜日(3月29日)の早朝、茶の間のカーテンを開けると、庭のプラムの木が白い花をいっぱい付けていた。

 前日までは花に全く気づかなかった。咲き始めてはいたのだろう。が、地面の花にばかり目がいっていた。

 プラムは一部が腐朽菌に冒され、キノコが生えた。それで何年か前、幹から左右に張り出していた太い枝の半分を切り落とした。

 キノコはサルノコシカケのように大きくはないが、平べったい姿で残っていた。それを取ったら、また生えてきた。

 キノコの胞子はヤマであれ、マチであれ、ハマであれ、空中を飛び交っている。わが家の庭のプラムもどこかが傷ついていて、胞子の侵入を許してしまったのだろう。

 毎年花を付ける。半身だが、さらに枝が延びて傘状に広がってきた。白く清楚な花びらが目をやさしく包む=写真上1。

 やがては花さえ付けなくなって、そこにもキノコがにょっきり現れるようになるのかもしれないが、今のところはまだがんばっている。

 平・本町通りの街路樹が根元から伐採されたのはいつだったろう。たまたまわきの歩道を歩いたり、一方通行の道を車で通ったりしたとき、赤信号で足が止まる。

なにげなく目をやると、足元の切り株に、やはりサルノコシカケに似た白いキノコが生えていた。街なかの伐採木もキノコの胞子にとっては格好の「菌床」である。

 わが家の庭の話に戻る。地面から緑が次々に芽を出し、花茎を伸ばしてつぼみを持ったなと思うと、黄色い花を付けた。ラッパスイセンだった。

 それがあらかた開花したあと、今度はそれより少し大きなスイセンが咲き出した。プラムの花と同じ日に気づいた。なんと八重咲きのスイセンではないか=写真上2。

  庭の園芸品種はカミサンまかせだ。クリスマスローズが咲き、スノードロップも咲いている。そのなかで1輪、ヒアシンスも淡いピンクの花を付けた=写真上3。

あとは、花ではなく、ミョウガタケの出現を待つだけ。スイセンその他の園芸種に包囲されたためか、近年は芽生えが減った。

暖かくもなってきたので、そろそろ庭に出て、歯を磨きながらミョウガタケをチェックしよう。ヤブガラシは芽が出ていたら摘む。これは生け垣に絡みつくのでほっとけない。どちらも春の朝の習慣だ。

2026年3月31日火曜日

怒涛の年度末

毎年のことながら、年度末はあわただしい。それでも3月前半はまだ静かだった。それが第4週に入ると、行事が連続した。

年度末はいつもこんなものだ。で、前日にはいつもより念を入れて翌日の予定と時間をメモし、頭に入れる。

3月23日は地元の小学校の卒業式があった。市議、PTA会長、同窓会長、学校評議員などとともに臨席した=写真(卒業式のしおり)。

この席ではいつも「少子」時代を実感する。卒業生は2クラスの計45人(男子23人、女子22人)だった。

去年(2025年)の入学式でも同じ思いを抱いた。新1年生は男子15人、女子11人の計26人で、クラスは1学級だけの編成になった。

この日と24、26日の3日間は市役所で会議があった。23日は午後だったが、卒業式が終わるとすぐなので、やむを得ず欠席した。「年寄り半日仕事」である。24日には別の会議が入ったが、こちらも前もって欠席の連絡をした。

通常、役所がらみの行事(会議など)は日程が重ならないよう調整がなされるのだろうが、年度末はどうしても時間的な余裕がなくなる。たまたま複数の委員を引き受けていると、どちらに出席するか悩ましい事態になる。

27日はまた市役所へ出かけ、夜は地元の集まりに出席した。そして土曜日28日は、夏井川渓谷の小集落の総会に顔を出した。日曜日(29日)はそれこそ年度末を締めくくる地元の行政区の総会が開かれた。

あわただしい1週間だったが、25日はたまたま予定がなかった。それに合わせて、4月から東京で学生生活を始める上の孫と昼、カミサン手製のカレーを食べた。

カレーはカミサンが用事で出かけるときの作り置き、あるいは来客があるときの定番料理だ。孫だがいちおう客人として扱った。

あれこれしゃべっているうちに、15年前の「あのとき」の話になった。孫は4歳になる1カ月前だった。

巨大地震のあと原発事故が起きた。私ら夫婦と息子一家が車2台を連ねて中通りの南端、西郷村の国立那須甲子(なすかし)青少年自然の家に避難した。

割り振られた畳敷きの大部屋で、大人はすることもなく壁によりかかり、あるいは横になっているしかなかった。

そんなある日、孫が発した言葉が今も忘れられない。確か夫婦であのときの揺れの大きさとテレビで見た大津波の被害、それに続く原発事故を話していたときだ。

「地球が怒ったんだよ」。びっくりして孫の顔を見た。以来、3・11を思い出すと、決まってこの言葉が脳裏をよぎる。

19歳になろうとする今、あえて聞いてみた。避難したときのことはうっすらと覚えている。自分の発した言葉には記憶がない。当然だろう。むしろ、それを聞いてホッとした。

怒涛の年度末。とはいえ、巣立つ孫と向き合い、震災の話をしたのは初めてだ。

   自然災害を含めて世界がいちだんと危うくなっている。その危うさを自覚しながら生きていってほしい。それこそ地球が怒らないために。ジイバアは切にそう思うのだった。 

2026年3月30日月曜日

アカヤシオ開花

                                        
   3月28日付の全国紙と県紙に、いわきの加路川のイワナから基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超える放射性セシウムが検出されたという記事が載った。

加路川は夏井川の支流で、その合流部・片石田(小川)の県道小野四倉線沿いにあるハクモクレンの開花と、そばの橋の直下にあるバショウの巨大な枯れ葉の話をブログに書いたばかりだ。

 水源は小川町の北方、猫鳴山と吃兎屋(きっとや)山あたりで、本流の夏井川までは10キロあるかないかだろう。

 山をはさんだ西側を江田川(背戸峨廊=セドガロ)が同じように南流して夏井川に注ぐ。

 加路川流域の住民にとっては、集落の裏山の陰を流れる江田川は「セドガロ」(背戸の加路川)だ。そのセドガロに小川出身の詩人草野心平が「背戸峨廊」と漢字を当てた。

 その後、いつの間にか「セドガロ」が「セトガロウ」、漢字を当てただけの心平が「背戸峨廊」の命名者と誤認されるようになった。間違いをブログで言い続けていたら、最近は原点に戻りつつある。

私が論拠にしたのは、心平のいとこの草野悟郎さんの文章だった。悟郎さんは初代の小川中校長で、長らく平二中校長を務めた。

現役時代、新聞に書いた文章に関して、人づてにコメントをもらったことがある。尊敬の念もあってつい「さん」付けになる。

悟郎さんは昭和62(1997)年、随筆集『父の新庄節』(非売)を出す。そこに前述したセドガロの話が載る。

「この川の上流はもの凄く険阻で、とても普通の人には入り込める所ではなかった。非常にたくさんの滝があり、すばらしい景観であることは、ごく限られた人々、鉄砲撃ちや、釣り人以外には知られていなかった」

 釣り人とはむろん渓流釣りの人間である。その意味では、夏井川渓谷もそうだが、支流は渓流釣りのフィールドだろう。

 新聞記事に戻る。イワナは3月まで禁漁期間で、解禁を前に地元漁協の組合員が試験的に捕らえ、県農業総合センターで検査したら140ベクレルが検出された。

 このため、県は夏井川水系のうち、籠場の滝~愛谷堰頭首工の間(支流を含む)でのイワナの捕獲を控えるよう、自治体や団体に要請した。ただし、小玉川はダムから上流部はこの要請から外された。

 記事を読んだ日、隠居のある集落で集まりがあった。連絡がきて私も参加した。籠場の滝は隠居の手前にある。

 イワナを釣らないように行政がいう夏井川の籠場の滝の下流をパチリとやった=写真上1。

 川の表情と同時に確かめたいものがあった。マチのソメイヨシノが開花した。ならば渓谷のアカヤシオも咲いているはず。

 籠場の滝の対岸を見ると咲いていた=写真上2。やはり平地のソメイヨシノ、渓谷のアカヤシオ、これは開花がシンクロする。

 隠居の対岸でも午後の日が当たる尾根筋のアカヤシオはかなり開花していた。江田と牛小川の中間、椚平の対岸はピンクの点描画がはっきり分かった。渓谷にも春が到着した。

2026年3月28日土曜日

「生老病」まではきた

                               
   「生老病死(しょうろうびょうし)」は仏教でいうところの「四苦」。「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」の四苦を合わせると「八苦」。四苦八苦の中身がこれである。

 後期高齢者になった今は、「生老病」まではきた、あとは「死」が待つだけ、という思いがある。

 でも、「苦」ではない。「生老病」だって、振り返れば「苦」とは思わない。「死」は体験したことがないからわからない。体験してもだれかに伝えるわけにもいかない。でも、「死」とはどういうものか、できれば体験して伝えたい、という思いはある。

 「病」で思い出す言葉がある。学校を飛び出して4年後、Jターンして新聞記者になり、結婚して、平屋の古い市営住宅に入ったら、目の前に恩師の家(教員住宅)があった。その恩師の造語である。

 恩師は退職後、瑞宝小綬章を受章した。同級生に電話をかけて都合のつく人間だけが集まり、いわきで祝う会を開いた。

恩師は謝辞のなかで、自分の近況を造語で紹介した。1つは「無病息災」にひっかけた「三病准息災」、もう1つは「晴耕雨読」にちなんだ「晴耕工雨読」だ。いずれも四字熟語ならぬ五字熟語である。

三病は脳こうそく・肺がん・心臓病。食事療法を主に闘病を続けてきた結果、毎晩ではないが好きな清酒を楽しめるまでに回復した。息災とは言い切れないものの、それに近い状態ということだった。

もうひとつの方は、家庭菜園だけでなく、日曜大工も好きだからだという。そして「読」は、戦争体験者なので主として昭和史関係の本を読んでいるということだった。

 祝う会から17年。そのころの恩師を超える年齢になったこともあって、最近はよく「三病准息災」を思い出す。

 それに、と思う。「死」が親しくなりつつある。すぐ上の先輩、同学年の仲間、すぐ下の後輩と、同年代の訃報が続く。

 1月には、大手出版社の編集者だったカミサンの同級生が急逝した。先日、遺族からのはがきでそれを知った。

 秋には土地のサツマイモが届き、こちらからは米かサンマを送る。11月に電話をしたり、かかってきたりしたのが最後になった。

 「死」が待つだけとはいえ、草野心平も言っている。「死んだら死んだで生きていくのだ」。生きているうちは老いを楽しむのだ。

その先人に、まど・みちおがいる。『まど・みちお 人生処方詩集』(2012年)=写真=に、ちょっと違った「死」が書かれている。1連5行で3連の詩である。毎日、「今日」が生まれて死ぬ。「一日」の生と死を見送り続けている。

それを受けていう。「ボクらがボクらじしんの死をむかえる日に/あわてふためかないようにとあの/やさしい天がそのれんしゅうをつづけて/くださっているのだと気づかぬバカは/まあこのよにはいないだろうということか」

 現実を直視しながらも、簡単には沈まない。日常を書き続ける、その先にある「死」も――。重いものを軽く。その感覚で「生老病死」と向き合う。

2026年3月27日金曜日

特別の回覧袋

                                
 年度末の3月は、役所から「健康のしおり」が届く。隣組の回覧網を通じて各戸に配る。これが1年を通して最大の難物だ。

 わが行政区は隣組が約30ある。世帯数は最大15、ならせば10世帯前後で、ふだんの行政資料、たとえば「広報いわき」などは世帯配布だが、回覧袋として普通の大型封筒を再利用できる。「健康のしおり」は、それでは間に合わない。なにしろ1冊65ページもある。

「健康のしおり」が届くと、まずは回覧袋の準備から始める。前に印刷所勤務の班長さんから、折りたたみ式の大型封筒を寄贈してもらった。廃棄処分をするというので引き取った。これを使う。

「マチ付き封筒」というものらしい。開くと側面が3センチ以上に広がる。「マチ」とは側面部、遊び・奥行きなどのことのようで、折り畳み式だから15世帯分の「健康のしおり」もなんとか入る。

2024年から使っているので、残存数は少なくなってきたが、返却分も含めてまだ余裕はある。

普通の大型封筒しかなかったときには2袋が必要な隣組もあった。これをテープで縛り、中層住宅の場合は、1階の郵便受けではなく、班長さんの部屋の前まで届けた。

戸建て住宅だけならそう問題はない。が、中層住宅が全体の半分を占める。しかも中層住宅に3人はいた区の役員が、高齢と体調不良を理由に欠員になってからは、周りの戸建て住宅の役員がこれを代行している。

去年8月1日付の文書は、世帯配布が市からの3種類と地元の1種類の計4種類で、紙袋の厚さは最大3センチ超に膨らんだ。

これでは中層住宅の1階に設けられている郵便受けのすき間(投入口)には入らない。

班長さんの自室の前まで持っていかないと――となるのだが、2階はともかく、3、4階は、心臓のクスリを飲んでいる人間にはこたえる。で、中層住宅の3、4階はカミサンが配達を代行してくれた。

この例があるので、今回(3月13日付)も頼むしかないかと覚悟を決めた。ところが、である。カミサンが「健康のしおり」をパラパラやると、「紙が薄くなったみたい」という。

確かにそうだ。ページ数は変わらない。が、なんとなく薄くなった感じがする。地元の資料として5種類(世帯配布1、回覧4)が加わったが、どの班(隣組)の資料もマチ付き封筒に入った=写真。

中層住宅に住む班長さんの郵便受けには、幸いカギがかかっていない。ふたを開けて少々無理をして突っ込むと入った。

これまで2回、郵便受けのすき間に入らない厚さのときがあった。2回ともふたを開けて入れた。その経験から、今回もカミサンを動員せずにすんだ。年度末はいつもこれがすんで「ヤレヤレ」となる。

2026年3月26日木曜日

新釈・養生訓

                                                
 大活字本の『養老訓』(養老孟司著)を読んでいて、貝原益軒(1630~1714年)の『養生訓』に興味を持った話を前に書いた。

 益軒は江戸時代前期の本草学者・儒学者で、70歳で福岡藩の役を退いてから著述に専念し、『養生訓』などを著した。

当時は平均寿命が40歳未満だったとかで、その倍以上、84歳まで生きた健康長寿の見本のような人である。

まずは蓮村誠著『新釈養生訓――日本人が伝えてきた予防健康法』=写真=を図書館から借りて読んだ。

ざっと目を通しながら、子どものころ、よく祖母から言われた言葉を思い出す。「メシを食ってすぐ寝ると牛になっつぉ」。阿武隈の山里の昭和30年代、私が小学生になったころの記憶である。

祖母が『養生訓』を読んでいたとは思えない。が、地域全体に『養生訓』をベースにした戒めのようなものが浸透していたのではないか。

『養生訓』は江戸時代のベストセラーだったから、その教えが全国に浸透し、世代を超えて受け継がれ、だれもが知る俗訓になった。『養生訓』の現代語訳と解釈を読み進めるほどに、そんな思いが強まる。

「予防健康法」と副題にある。予防健康とは病気にならないように努めることだろう。庶民は庶民なりに実践し、「牛になる」ことがないように戒めてきた、少なくとも守ろうとしてきた。

「外邪」と「内欲」が出てくる。「外邪」は「風・寒・暑・湿」、つまりは体を取り巻く環境のことで、後期高齢者はこの外部要因には敏感にならざるを得ない。

今はまだ「寒」がこたえる。「風」にも注意が要る。厚手のジャンパーにマフラー、パッチ、長そで。シャツのボタンは一番上まできちっと。

「光の春」になればシャツの一番上のボタンをはずす、ストーブを消す。日によって、あるいは朝・昼・晩と調整する。「寒さの冬」はこの逆で、「乾」にも注意が必要だ。足のかかとには保湿用の軟膏を塗る。

「内欲」は「飲食・色欲など」のことで、たとえばアルコールについていうと、若いときは浴びるように飲んだが、中年には少し控えめになり、60代以降はドクターの忠告もあって、グッと抑えてはいる。

というわけで、『養生訓』を読む前からそれを実践せざるを得ない年齢になってはいた。だから、やはり「ごもっとも」となることが多い。

「からだは毎日少しずつ動かしなさい。長時間、楽な姿勢で座っていてはいけません」

 日中はこたつに足を入れて「在宅ワーク」と称してパソコンと向き合っている。体を動かすのはトイレと食事のときぐらい。これでは養生にならない。

 「食後は、数百歩歩くようにします」。食後はともかく、軽い散歩(1日1500歩程度)なら今のままでいい、ということになる。

 軽い運動と散歩。これが今、一番心がけないといけないことのようだ。と同時に、益軒はなぜ『養生訓』を書いたのか、成功体験がそうさせたのか、という思いも深まる。ま、古典には違いないが。

2026年3月25日水曜日

簡単キムチ

                                
   自家製の白菜漬けはすぐ甕(かめ)の中で産膜酵母に覆われ、酸っぱい古漬けになってしまう。こうなると味が落ちる。

 古漬けでもなんとかうまく食べたい。それで思いついたのが、市販の「キムチの素」をまぶして酸味を包むことだった。

効果はテキメン。これでエンジンがかかり、次につくった白菜漬けはそのままのものと、キムチの素をまぶしたものと、最初から両方を食卓に出した。

といっても老夫婦2人だけだから、毎回食べる量は限られる。どちらもなかなか減らない。

 家の中では最もひんやりしている北側の階段の下に甕を置いている。が、白菜にまぶす食塩を控えめにしていることもあって、水が上がったと思ったらすぐ表面が濁ってくる。産膜酵母である。これが現れたら水の表面はたちまち白い膜に覆われる。

 1回に2玉を漬ける。1玉を8つ割りにして井桁に組み、食べるときには1切れずつ取り出す。全部食べるのに3週間前後はかかる。これをひと冬に4~5回は繰り返す。

昨冬までは、キムチの素は頭になかった。最後は強い酸味に辟易しながら食べた。

たまにスーパーから小さな容器に入った白菜キムチを買う。余ったタレに古漬けを刻んで混ぜ込むと、酸味が消えた。キムチの素を売っていることもわかった。

で、その後は古くなるとキムチの素をまぶすようにしている。甘辛でいったら、スーパーの白菜キムチは甘くて、キムチの素は辛みが強い。が、まぶす量を加減すれば辛みも緩和できる。

中之作で買った白菜と大根をそのままにしておいたら、白菜の外皮が腐ってとろけ始めた。大根も株元が黒ずんできた。

それらを取り除き、細かく刻んで浅漬けにした。翌朝にはもう食べられるまでになった。

産膜酵母を避けるには? この切り漬けをすべて容器に移し、冷蔵庫にしまって小出しにして食べることだろう。

そうやって、そのままのものと、キムチの素をまぶしたものと二つを用意した=写真。どちらもまあまあの味だった。

もう4月も近い。白菜は大玉を買って来るのではなく、4分の1、あるいは半分でもいいから、細かく刻んですぐ食べられるように切り漬けにする。

それをつなぎにして、4月には糠漬けを再開する。といっても古い糠床は虫が湧いたので捨てた。新しくつくる。

準備を兼ねて、沢村貞子の『わたしの献立日記』(新潮社、1988年)をパラパラやっていたら、沢村家では糠床をかき回すときに、夏場はビオフェルミンの錠剤を10粒、春秋は5粒ほどをまぜるとあった。

びっくりである。薬局で売っているものを糠味噌に利用する、という発想はなかった。どんなものか、そのへんをちょっと勉強してみようと思う。

先日、チェーン展開の薬局のチラシが新聞に折り込まれていた。中に「新ビオフェルミンS錠」が載っていた。

なるほど、薬局のチラシも糠漬けの材料調達の参考になるのか。買う、買わないは、じっくり考えてからにする。

2026年3月24日火曜日

泣いたり起きたり

                                
   朝ドラ「ばけばけ」の主題歌は「笑ったり転んだり」。で、その逆をブログのタイトルに付けてみた。「泣いたり起きたり」

歌詞に「泣き疲れ眠るだけ」とある。ま、「泣いたり笑ったり」「転んだり起きたり」の慣用句をもじっただけだが。

NHKは祝日になると、平日とは異なる番組を流す。3月20日の春分の日。早朝6時過ぎにテレビをつけたら、ニュースではなくトーク番組をやっていた。

 朝ドラ「ばけばけ」の主題歌を歌うハンバートハンバートに、「ばけばけ」の出演者が加わって、主題歌の誕生秘話などを紹介していた。「ハンバートハンバート『笑ったり転んだり』を語ったり」で、再放送だった。

朝ドラの演出スタッフがハンバートハンバートに主題歌を依頼する。注文は一切つけない。

小泉八雲の妻セツが書いた『思ひ出の記』を読み、ゆかりの土地(松江など)を巡って触発されたものを作品にしてほしい――それだけだった。

 依頼したスタッフの胸中には、詩人山之口貘(沖縄出身、1903~63年)の詩「賑やかな生活である」があった。そんな詩の世界をイメージしていたが、そのことは口には出さなかった。

 スタッフが出来上がった作品を試聴すると、思い描いていたイメージとぴったり重なった。聞いているうちに涙が流れたという。

 ああ、心に響いたのだな、と思った。最終回前の最後のバンセン(番組宣伝)だとしても、そこからドラマづくりが始まったのだ、そういう信頼関係がドラマづくりの根底にあったのだ、という感慨がわいた。

 山之口貘の「賑やかな生活である」の冒頭部分が紹介される。「誰も居なかったので/ひもじい と一聲出してみたのである/その聲のリズムが呼吸のやうにひゞいておもしろいので/私はねころんで/思ひ出し笑ひをしたのである/(以下略)」

 貧乏でも貪(どん)しない。「ひもじい」と口にした自分を、その言葉の響きを、もう1人の自分が面白がる。

 ハンバートハンバートの「笑ったり転んだり」にも、日常を客観化しながら、それに押しつぶされまいとする意思が感じられる。

出だしからしてそうだ。「毎日難儀なことばかり/泣き疲れ眠るだけ/そんなじゃダメだと怒ったり/これでもいいかと思ったり/(以下略)」

前にその2番目の出だし、「日に日に世界が悪くなる」を紹介した。「野垂れ死ぬかもしれないね」「帰る場所などとうに忘れた」といったフレーズは、長年放浪生活を続けた山之口貘の人生とも重なる。

スタッフが流した涙は、主題歌と貘の貧乏暮らしの詩が共振したからだろう。ついでながら草野心平と山之口貘は詩友であり、酒友でもあった。

NHKはこの日の夕方6時過ぎから、また「ばけばけ」のスペシャルトークショーを放送した=写真。

おかげで山之口貘の詩と、「ばけばけ」の歌詞に、同じ日の朝と晩、じっくり向き合った。

2026年3月23日月曜日

ハクモクレン開花

                                 
 3月22日の日曜日は、光は春だが空気はまだ冬だった。髪の毛を切ったので、マフラーをしていないと首筋がスース―する。それでも夏井川渓谷の隠居へ車を走らせながら、沿道の春をチェックした。

 まずは三島(小川)のハクチョウ。「1羽もいないといいが」。念じながら三島橋と、小川江筋の多段式取水堰を横目に過ぎると、対岸の水辺に白いかたまりが一つ。上流の中央にも同じく白いかたまりが一つ。こちらはすぐダイサギとわかった。

 手前の白いかたまりはハクチョウだった。長い首を水中に突っ込んでモグモグやっている。水草を食べていたのだろう。

 首を出したところをカミサンがパチリとやった。あとでデータをパソコンに取り込み、拡大すると後ろにカルガモが3羽いた=写真上1。

 残留コハクチョウの「エリー」だろうか。だとしたら、今年(2026年)もシベリアへは帰れなかったことになる。

 小川の里を抜けて片石田の直線道路に入る。夏井川に合流する加路川の橋の手前、右手の広場にあるハクモクレンが一気に開花していた=写真上2。

 ここには車のスピードを落として「チラ見」するものがもう一つある。橋の上流すぐ下、なぜだかわからないが(人が植えたにちがいない)、バナナの葉っぱより大きな葉を付ける草本がある。たぶんバショウ。

 夏場はあおあおと大きな葉を広げている。冬にはこれが枯れて黄土色になる。渓谷までの沿道の不思議の一つではある。

片石田のハクモクレンが開花したとなれば、いわき駅周辺のハクモクレン(街路樹)も開花しているはずだ。

 隠居からの帰り、平のマチに入ると、レンガ通りのハクモクレンが白い花を付けていた。するとソメイヨシノも間もなく、という連想がはたらく。

 以前は公園のソメイヨシノが咲いて、マチのハクモクレンが咲く――そんな順序だったような記憶があるが、この2~3年は同時、あるいはハクモクレンが先行する。

それよりなにより、マチのソメイヨシノと渓谷のアカヤシオはほぼ同時に咲く。その開花が間近い。

さらに、もう一つ。マチからの帰りに堤防を利用すると、いつものネギ畑からネギが消えていた。やっと「冬ネギ」の収穫が完了したのだ。何もない畑を見てなぜかホッとした。

2026年3月21日土曜日

平成元年の未来会議

                                 
 40代から50代にかけて、いわき市が開く審議会や懇談会のメンバーになったことがある。

 なかでも記憶に残っているのは「未来会議」と「総合型図書館整備懇談会」だ。正式な名称は忘れたが、たまに当時の議論とメンバーの顔を思い出す。

議論が楽しかったというのが一つ。もう一つは、自分たちの身の丈に合った提言内容だったことが懐かしい理由だろう。

市民が利用しやすい図書館を――。自分たちで提言した総合図書館を、私自身、オープンと同時に利用している。

図書館へ行って本を借り、調べものをして感じるのは、休館日や開館時間などの提言がよく生かされているということだ。

つまりは、自分の暮らしと密接につながる総合図書館ができたこと、そのための考え方などを「協働」でつくりあげたという実感がある。

ある日、ひょんなことからこの2つの組織を思い出した。いったい何歳のときにかかわったのか。ネットで情報を探ると見えてきた。

「未来会議」は平成元(1989)年から同3年まで続いた。私は満40歳だった。3つの提言を終えて解散するときには満42歳になっていた。

「総合型図書館」の方は平成13(2001)年から翌年にかけて開かれた。つまりざっと10年後、満52歳前後のことである。

 先日、久しぶりに総合型図書館への提言書=写真=を読んでみた。ここでは前に書いたブログの文章を引用する。

 ――「基本理念」のなかに〈「個」のある図書館、「輪」をつくる図書館〉というフレーズがあって、次のような文言が添えられている。
 「思い思いに過ごす『自分の椅子』のある図書館。ここは、人と人、人と情報とが出会う交差点。この新たな図書館が、いわきの文化をはぐくみ、人々の暮らしの質を高め、街のにぎわいをつくる」

総合図書館が平成19(2007)年10月25日、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」のオープンと同時に、中核施設として開館した。

奇しくも同じ日に私はフリーになった。すぐさま図書館通いが始まった。以来、仕事に、趣味に「自分の椅子」を利用している。

といって、何時間もいるわけではない。空想の「マイチェア」がいつもそこにある。そう思わせる規模、環境、空間ができた。

「ラトブ」は街のなかの「街」であり、「知の森」であり、仕事に必要な「もう一つの椅子」である。少なくとも私にはそんな存在だ。今日も「知の森」に分け入るつもりでいる――。

未来会議では①国際化②自然とヒトのシナリオ③まちづくりにおける市民と行政――の3つの提言をした。

最初の国際化は事務局から提案されたが、あとの2つはメンバーが提起して自由に議論した。

自然とヒトのシナリオでは、哲学者内山節さんの本をベースに、自然を利用しながら守っていくための認識を深めた。

「まちづくりの本をつくろう」となって、四国の四万十川を訪ねたこともあった。こちらも提言書を読んで思い出した。

2026年3月20日金曜日

「他人の空」

思い立って図書館から『新選飯島耕一詩集』(思潮社、1977年)=写真=を借りて読んだ。

目当ては「夜あけ一時間前の五つの詩他」。しかし、それは入っていなかった。若いころ読んでよくわからなかったが、表現としては「現代風」と感じた記憶がある。

作品がネットに紹介されていた。そのなかに「砂粒たちの夜あけ一時間前の/青い爆発」とある。

今も何のことかはわからない。ただし、意味以上に新しい言葉の関係を築こうとしていることは理解できる。

 「他人の空」と題した詩。このタイトルはなんとなくわかる。自分の住む世界の空とは思えないという違和感。シュールレアリスト詩人には、戦後の日本がそう映ったのだろう。

実は最近、夜明け前1時間の空に「なんだろう、これは」と思うことがあった。すっかり早寝早起きになって、未明の4時半には玄関の戸を開けて新聞を取り込む。ついでに庭へ出て天を仰ぐ。「観天望気」の「観天」である。きょうは曇天か。

星が見えない。でも、ネットでいわきの天気予報をチェックすると、その時間も「晴れ」のマークになっている。星が見えないのは、なぜ?

 夜明け前1時間の空を細かく表現するとこうなる。人間のいる庭はまだ夜で暗い。空は全体としては暗いが、天のドームだけは灰色に近い。

 晴れているのに星の見えない時間帯がある。考えれば当たり前だが、ネットで検索すると「天文薄明」という言葉がヒットした。

 日の出前・日の出後1時間ほどの空の薄暗さを指す。太陽はまだ地平線の下にあるか、地平線に沈んだばかりだ。大気中の微粒子がその角度からの日光を散乱し、空が薄暗く(薄明るく)見える現象をいうそうだ。

 春夏秋冬、日と月が変わり、季節が変わっても、未明の4時半前後に新聞を取り込む習慣は変わらない。

 夏至のころは玄関の先が明るくなり、冬至のころはまだ暗い。春分の日と秋分の日のころはその中間だ。

今年(2026年)は3月20日が春分の日だ。前日に見ると、夜明け前の玄関はガラス戸がほんのり灰色がかっていた。

 ついでながら、「天文薄明」にたどり着いたあとも検索を続けて、ふだん使っている言葉の違いに触れた。

 「かはたれ」と「たそかれ」。どちらも意味は同じだろう。「かはたれ」は「彼は誰」、「たそかれ」は「誰そ彼」。

「たそかれ」は夕方の薄明を指し、「かはたれ」は朝方の薄明を指すのだとか。私は「黄昏」も「かわたれ」も同じ夕暮れの言葉として使ってきた。

ま、それはどうでもいいことだが、「観天望気」は暮らしの基本で、週末だけの土いじりでも大事になる。

腕時計に縛られた生き方から解放されて18年。今は身体的な実感がより大切だという思いがある。

   19日の薄明は、地平線に近いところ、民家の黒い屋根の上もほんのり白んでいた。それがはっきりわかった。夜が明けると霧状の雨。しかし、これもすぐやんだ。今年(2026年)は、雨はまだまだ足りない。 

2026年3月19日木曜日

「草野心平と川内村」展

                                
 「おもしろい」というか、「懐かしい」というか。そして、「何か新しいものは?」という興味が交錯して、すぐ見に行った。

 いわき市立草野心平記念文学館で企画展「草野心平と川内村」=写真(チラシ)=が3月14日に始まった。

 翌15日の日曜日、夏井川渓谷の隠居で土いじりをしたあと、文学館へ出かけた。たまたま居合わせた学芸員が解説してくれた。

作品展示協力者のなかに旧知の人がいた。村の元教育長氏(村職員時代、『川内村史』の担当者だった)で、天山文庫設立60周年を記念した企画展である。

「川内村史」は発足して間もないいわき地域学會が編纂事業を引き受けた。昼間は自分の仕事があるアフターファイブの研究者の集団だ。休日になると、たびたび村へ出かけ、役場の担当者の案内で調査を繰り返した。

私もその一人として、江戸時代の俳人佐久間喜鳥を軸にした俳諧ネットワークと、川内村と草野心平のつながりを調べた。

通史では「幕末の川内の文芸」(近世第5章)と、「川内と草野心平」(現代第3章)を担当した。

 それもあって、拙ブログに心平と川内村のつながりを書いている。主な部分を要約・引用する。

――心平と川内村を結びつけたのは、一つにはモリアオガエル、二つにはモリアオガエルのことを昭和24年2月1日付の読売新聞福島県版に書いた心平のエッセーに反応して、村の禅寺(長福寺)の坊さんが心平に誘いの手紙を書いたからだ。

昭和28年、心平は初めて川内村を訪れる。以来、川内詣でを繰り返し、モリアオガエルの繁殖地「平伏沼(へぶすぬま)」で歌を詠んだり、村内の小学校の校歌をつくったりする。

で、村議会は心平を名誉村民に推戴することを決めた。褒章は年100俵の木炭。心平は木炭のお返しに蔵書3000冊の寄贈を決め、うち2000冊を、木炭を運搬して来たトラックに載せて村へ届けた。

困ったのは坊さんだ。一時、寄贈本を寺で預かっていたが、いつまでもそうしているわけにはいかない。

村役場にかけあった結果、仮称「心平文庫」の設立が議会で決まった。今の「天山文庫」はそうしてできたのである――。

 企画展はこの通史を反映していた。展示物は軸装・額装された心平の書と絵、詩碑拓本、はがき類(長福寺所蔵)を中心に、村教委所蔵の書(校歌)と写真などで、村史調査の折、実見したものが多かった。

 心平の没後1年を記念して、川内村では平成元年、天山文庫の下の阿武隈民芸館(現在は天山文庫を含めて「草野心平記念館」)で、「草野心平とかわうち」展が開かれた。

 その図録をながめてから出かけた。書と絵が重なるのは仕方がない。それがかえって懐かしさを呼んだ。

 たまたま同文学館ボランティアの会事業として、常設の「居酒屋」の前で心平随筆の朗読会が行われた。それも聴いた。

お土産の「するめそーめん」は晩酌のつまみにした。珍味である。心平流にいえば「口福」。これを2日続けて楽しんだ。

2026年3月18日水曜日

灯油も急騰

                               
 アメリカとイスラエルのイラン空爆がホルムズ海峡封鎖を招き、原油が急騰した。するとたちまち、ガソリンと灯油が高騰した。

 15年前の「原発震災」ではガソリン不足に見舞われた。それもあって、車の燃料計の表示が半分になると給油する。車のガソリンはまだ半分以上残っている。問題は灯油だ。

灯油は冬場の暖房に欠かせない。茶の間にヒーターとストーブ、台所にストーブ、店のわきの文庫にストーブがある。そのため、玄関には常時ポリ缶を置いている=写真。

 毎回18リットル入りのポリ缶4つを車のトランクに積んで買いに行く。今はセルフでタッチパネルを操作し、1万円札を入れて、ピストルのようなノズルを握る。

 前回は3月2日に入れた。領収書を見ると、4缶72リットルで8424円だった。リッター当たり117円だ。

その半月後(3月16日)。ネットで18リットル当たりの値段を確かめ、1万円札では足りないとわかったので、プラス千円札を投入した。

給油をすませて領収書を見ると、費用は10656円だった。リッター当たりでは148円である。いきなり31円の値上がりだ。合計では前回より2132円も多くかかった。

灯油のしずくを垂らさないよう、ポリ缶にノズルを差し込み、給油を終えたあと、レシートを見てはらわたの煮えくり返る思いになった。

いくらなんでも、である。ここまでの急騰は暴力的ではないか。この原因は何なんだ。関係のない庶民を巻き込んで、何をしたいんだ。

これから世の中、どうなるのか。前にも書いたが、朝ドラの歌に出てくる「日に日に世界が悪くなる」である。この歌が現実の状況とシンクロする。

いやでも思い出すのは昭和48(1973)年の「オイルショック」だ。これも前に書いた。オイルショックを機に、いわきがどうなったか。市民の生活、企業の活動に大きな影響が出た。今回もまた混乱が続くのではないか。

「三寒四温」を繰り返しながら春に向かう時期、日によってはヒーターを止める、ストーブを止める、といった時間が増えてきた。いや、これからは意識してその時間を増やさないといけない。

灯油を買ってきた16日がそうだった。昼過ぎから4時間ほどはストーブを止めた。節約、節約。これを呪文のように唱える。車で出かけるのも抑え気味にしないと。

しかし、我慢にも限度がある。17日は朝、節約ムードでいたものの、石油ストーブだけではやはり寒い。背に腹は代えられない。朝ドラの主題歌が流れるころにはヒーターにも点火した。

ロシアのウクライナ侵攻以来、世界は身勝手な理屈に振り回されているのではないか。どの国の、だれが、なにがこんな危機と困難を生んだのか。その本質を知りたくて、最近はフランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドの本を読んでいる。

2026年3月17日火曜日

ホケベキョ

                                 
 3月も半ば。15日の日曜日は予定が2つあったので、少し早く夏井川渓谷の隠居へ出かけた。

 9時前には着いた。菜園に生ごみを埋め、ネギの苗床の草をむしっていると、どこからかかすかに「ホケキョ」、ややおいて「ホケベキョ」の声。ウグイスの初音(はつね)だ。

 例年、渓谷で初音を聞くのは4月に入ってからだ。「まだ3月半ばではないか」。続く「ホケベキョ」には「おお、『方言』が代々受け継がれてるな」。

 ウグイスの初音は、3月の終わりごろに下流のわが生活圏で聞き、そのあと渓谷で聞くというのが「定番」だった。

 平地の夏井川では、河川敷の立木伐採と土砂除去が行われた結果、ウグイスが止まってさえずる木(ソングポスト)がなくなった。

 それで最近は「定番」が通用しなくなった。にしても、3月半ばに、しかも渓谷でウグイスの初音を聞くとは。とにかく早い。

自然の移り行きと人間の暮らしが交錯し、共振しながら、歳時はめぐる。カミサンはこの日も、隠居の下の庭でフキノトウを摘んだ。私は上の庭で辛み大根を引っこ抜いた。

そのあと、下の庭へ行って地面に目を凝らした。何カ所かにフキノトウが残っている。

ホッとした瞬間、枯れ草色の丸いかたまりが目に入った。メジロか何かの鳥の古巣だ。これを回収する。この日の収穫は、古巣を合わせて3つ=写真上1。

 それともう一つ。マチから小川町に入ったあと、三島の夏井川にハクチョウが何羽残っているかをチェックした。

 3月初めは100羽くらいいた。次の日曜日(8日)にはざっと40羽。そして15日は、10羽前後だった=写真上2。

草野心平記念文学館へ行き、いわき駅前の総合図書館に本を返したあと、堤防を利用して帰宅した。

塩(平)の越冬地には、ハクチョウの姿はなかった。何羽か残っていたカモも見当たらなかった。

近くのネギ畑を見ると、残ったままだった13列が8~9列に減っていた。ようやく終わりの掘り起こしが始まったのだろう。

 翼を傷めて三島にとどまったコハクチョウの「エリー」は、この春もとどまるのか。それとも、傷が癒えて仲間と一緒に北へ帰るのか。まだ10羽ほどいるので、エリーの有無はわからなかった。

 帰ってくれよ。いないでくれよ。今の時期になると、そんな思いが膨らむ。春になればハクチョウはいわきから姿を消す。これが一番なのだから。

2026年3月16日月曜日

再び「硫黄島の日章旗」

                              
   いわき市暮らしの伝承郷の常設展示室で、硫黄島で戦没したいわき関係者の日章旗=写真=と、皇室に献上されたのと同じ「じゃんがら人形」を見た。

「じゃんがら人形」については土曜日(3月14日)、経緯を含めてブログに書いた。

日章旗についても9年前、初めて見てブログ(2017年3月18日付)に書いている。そのときの文章を抜粋・引用する。

――太平洋戦争末期の昭和20(1945)年2月19日、米軍が硫黄島に上陸を開始する。それからおよそ1カ月後の3月17日、大本営は同島守備隊の玉砕を発表する。

伝承郷のロビーに展示された日章旗の解説文によれば、戦いが終わったあとに米兵が日章旗を持ち帰り、平成18(2006)3月、硫黄島で行われた日米合同の戦没将兵追悼式でアメリカから返還された。

旗には「縣社飯野八幡神社」「縣社子鍬倉神社」「閼伽井嶽」といった文字が墨書されている。

戦前、平・祢宜町(七丁目)にあった田辺製作所(軍需関連の鉄工所)の従業員らの名前が記されている。

戦地へ赴く人間に職場の同僚または友人が名前や短歌を寄せ書きし、贈ったものと推測されている。

引き取り手のない遺品は靖国神社に奉納される。で、平遺族会が「所持者ゆかりの地のいわきに」とはたらきかけて、アメリカ大使館から日章旗の引き渡しを受けた。

父親が硫黄島で戦死した年長の友人らが尽力したのだろう、遺族会がいわき市教委に寄贈し、伝承郷で保管されている。

3月の硫黄島の戦いを思い起こし、死者を追悼する意味合いを込めた展示でもある。

わが両親のきょうだい(オジ・オバ)は合わせて7人。うち1人は母親の実家の鴨居に飾られた軍帽・軍服姿の遺影で知っているだけだ。母の兄である。

鴨居のオジは硫黄島で戦死した。母は「兄が夢枕に立って言った」ので病死、と信じ込んでいた。

同島の戦いでは、日米双方に2万人を超える戦死傷者が出た。福島県人も854人が亡くなっている。硫黄島の戦没者は、大多数が玉砕を報じられた3月17日が命日である――。

 やっと常設展示されたか、という思いがまずわいた。次は日章旗の持ち主を特定して返還すること。そのための常設展示だろう。

 若い仲間が、いわき市立図書館が収蔵し、デジタル化した地域新聞などをキーワードで検索できる特化型エンジン「いわき文献案内」をつくった。

学芸員がそれを利用すると、日章旗に記された人物の1人がヒットしたという。私もやってみたら計3人の住所がわかった。いずれも平の町内だった。

田辺製作所に関しては「平市七丁目 田辺機械製作所」、そして「平駅前」(白銀)と「平市五色町」がヒットした。

同一だとすれば、工場は移転を重ねたことになる。これはこれで調べてみる価値がありそうだ。なにはともあれ、明3月17日は硫黄島の玉砕発表の日。

2026年3月14日土曜日

「じゃんがら人形」余話

                                 
   図案家鈴木百世(1901~42年)が創案した「じゃんがら人形」を、ブログで何度か取り上げた。これは、その余話――。

先日、いわき市暮らしの伝承郷で皇室に献上されたのと同じ「じゃんがら人形」を見た=写真。カミサンのアッシー君をしたら、常設展示室に案内され、学芸員の説明を受けた。

上皇・上皇后陛下が皇太子・妃時代の昭和36(1961)年、小名浜(当時磐城市)で開かれた放魚祭に臨席した。

そのとき、旧平市から皇室に郷土民芸品の「じゃんがら人形」(13人組み)が桐のケースに収められて献上された。

「じゃんがら人形」は粘土を素焼きにして着色したもので、戦後の昭和27(1952)年、百世の妻恭代が1年をかけて再生した。

平(現いわき)駅前の「いづみや」が郷土の民芸品として売り出した。この人形制作は恭代が老齢を理由にやめるまで続いた。

2年前、遺族が百世の遺品を市立図書館と暮らしの伝承郷に寄贈した。いわき民報でこれを知り、「『図案家鈴木百世の仕事と思想』を紹介する企画展を、ぜひ早く」とブログに書いた。

総合図書館で去年(2025年)秋から、令和7年度のいわき資料常設展「デザイナー鈴木百世(ももよ) 知る人とぞ知るいわき人」が開かれている(5月24日まで)。

関係資料として、「じゃんがら人形」(13人組み)のモノクロ写真が展示された。それを見て驚いた。

1年半前に亡くなった義弟の遺品に「じゃんがら人形」(5人組み)があった。それとデザインが同じだった。

その後、昭和36(1961)年5月29日付のいわき民報で、皇室に献上されるまでの経緯を知った。

「じゃんがら人形」は昭和50年代の終わりごろまで制作されたというから、義弟が手に入れたのはそのころだろう。

そして、ここからは伝承郷での話。写真のコピーと新聞の写真で見ていた、献上品と同じ人形に心が揺さぶられた。何セットかつくられたのだろう。遺族からの寄贈品を模様替えの一環として展示したのだという。

若い学芸員から丁寧な説明を受けたのには、別の理由もあった。朝起きると私のブログを読むという。それで、「じゃんがら人形」の周辺情報には触れていたようだ。

そして、もう一つ。義弟の遺品よりはなんとなく小ぶりのように感じられた。いったん帰宅して、義弟の遺品を持ってまた訪ねた。

学芸員と一緒にチェックすると、5人組みは大人の親指大なのに対して、13人組みは小指大と一回り小さい。

やはり違っていた。献上品ということで、人数、大きさ、すべてに工夫を重ねたのだろう。これもまた眼福ではある。

この「じゃんがら人形」のいわれなどを盛り込んだ説明文があると、百世と「じゃんがら人形」、そして妻恭代の物語がより深く理解できる。老爺(や)心ながらそう思った。

2026年3月13日金曜日

15年の歳月

                                 
   日に日に世界が悪くなる――。朝ドラ「ばけばけ」の主題歌「笑ったり転んだり」が流れると、このフレーズが胸の中で立ち上がる。

アメリカとイスラエルがイランを空爆した。するとイランはホルムズ海峡を封鎖した。

原油のほとんどを中東から輸入する日本はこれからどうなる、と思う間もなく、ガソリンが高騰した。

先日(3月3日)、近所のガソリンスタンドで給油したときには、リッター153円だった。

3月12日にスタンドの前を通ったら、表示が「178円」になっていた。いきなりリッター当たり25円の値上げである。これはきつい。

3・11ではガソリン不足が問題になった。「原発震災」のためにタンクローリーが入って来なかった。

 車で避難するにもガソリンがない。身内の協力でなんとか少量を調達し、那須山系の村にある教育施設にたどり着いた。

 帰りは帰りでガソリンの残量とリッター当たりの走行距離を計算し、最短コースをひやひやしながら戻った。そのあともなかなかガソリンが調達できなかった。やっと入るという日に行くと、車の列ができていた=写真(2011年3月24日撮影)。

 それはまあ、直近(といっても15年前だが)の記憶だ。53年前の昭和48(1973)年10月に始まった第4次中東戦争を契機にオイルショックが起きた。

震災後、当時のいわき民報の師走1カ月間の見出しをチェックしたことがある。前に書いた文章を引用する。

大手企業は節電10%を実施、市の新年度予算は物価高に対応して経常経費を5%アップ、公共事業は抑制、常磐共同火力発電所は12%減産、飼料高騰に低利融資……

狂乱物価の波は翌年も続き、日本経済は戦後初めてマイナス成長を記録した。「高度経済成長」がこれで終焉した。今度は低成長下でまた狂乱物価が起きるのではないかと恐れる。

実はあれから15年の節目ということで、メディアの影響もあって、3月11日をはさんでこの何日か、あのときの惨状に思いをめぐらしていたのだった。

内陸なので津波被害は免れたが、原発事故には震えた。それで長男一家と一緒にいわきを離れた。

あの時のガソリン不足は原発事故のためだった。今度は戦争だ。戦争でガソリンが急騰し、原油そのものも輸入量が激減しかねない。

やはり、日に日に世界は悪くなるばかり、なのか。哲学者内山節さんの『文明の災禍』(新潮新書)を思い出す。

カバーの惹句にこうある。「産業革命以来、『発展』のため進歩させてきた末の技術が、いま暴走している。(略)私たちが暮らしたかったのは、システムをコントロールできない恐ろしい社会ではない。『新しい時代』は、二百年余り続いた歴史の敗北を認めることから始めることができるのである」

これは原発に対する評価でもある。が、戦争もまた「文明の災禍」、そして「歴史の敗北」そのもののような気がする。

※追記=3月15日、いつものガソリンスタンの前を通ると、レギュラーが「193円」になっていた。