2026年6月15日月曜日

6月の白雲

    土曜日(6月13日)は「梅雨の晴れ間」のような好天になった。未明の3時半前には、福島地方気象台から雷注意報が発表された。

午前10時過ぎには早くも西の湯ノ岳~三大明神山の上に白雲が現れた。雷注意報が出るわけだ。

しかし、雷鳴は響くが、雨を伴うかどうかはわからない。いつものことながら「雷鳴だけで終わってほしい」。勝手な願望が広がる。

朝、神谷公民館、次いで近くの忠魂碑と戊辰戦争の追福碑の清掃作業が行われた。公民館清掃は、毎年この時期に行われる。神谷地区の8人の区長が老体を鞭打って草刈りをし、ごみ袋に詰める(今回は袋詰めが主)。

それが終わると忠魂碑と追福碑を清掃する。忠魂碑は平六小の裏山公園にある。そばには「殉国碑」も建つ。

神谷市郎著『神谷郷土史』によると、忠魂碑は大正9(1920)年10月に建立された。忠魂碑には、アジア・太平洋戦争の犠牲者は含まれない。『神谷郷土史』にある戦争犠牲者138柱は殉国碑を含めての数だろう。

いかにも神谷らしいのはふもとの立鉾鹿島神社の境内にある「為戊辰役各藩戦病歿者追福碑」だ。

神谷村は笠間藩の分領だった。江戸後期、今の平六小に陣屋があった。本藩が新政府軍に加わったため、戊辰戦争では隣の磐城平藩をはじめ奥羽越列藩同盟を相手に、孤立無援の戦いを強いられた。

戊辰戦争の記念碑は2つ。1つは、平六小の校庭にある「奉公碑」だ。『神谷郷土史』によると、大正6(1917)年に建立された。戊辰戦争で幕府軍と戦って斃れた人々の霊をまつる。つまりは自藩の慰霊碑だろう。

もう1つが追福碑で、昭和7(1932)年に建立された。やはり戊辰戦争の犠牲者をまつるが、こちらには「各藩」が入っている。

戊辰戦争の結果、周りは「負け組」になったが、神谷は「勝ち組」に入った。「各藩」が入っているのは、勝ち負けなく弔おうという、一種の政治的判断だったのだろう。

 さて、毎年清掃奉仕をしていると、自分の年齢を考えてしまう。小学校の裏山公園へは何段もの石段を登っていく。年々、たどりつくまでに時間がかかるようになった。

よその区は2年で交代が慣例のようだが、わが区は新しい区でもあるので、なかなか次の人が見つからない。私自身が高齢化の先陣を切っている。その矛盾を考える日でもある。

もう1つ、午後には雷雨が来た。午後1時から夕方5時過ぎまで、いわき地域学會の事務局(故義伯父の家)で仲間と2人、会費納入のための振込用紙をつくり、総会資料などとともに封入作業をした。

3時ごろには雷鳴がとどろき、すぐ北側を雷雨が通過した。すると、暗雲はこちら側にも押し寄せ、南の空が灰色になったと思う間もなく、雷雨がやって来た。

    雷雨はやがて去り、また夏のような青空が戻った。午前・午後と久しぶりにフル回転した。終わって、さあ飲むぞ――と意気込んだのはいいが、すでに体力が尽きていて、すぐ眠くなった 。やはりトシである。 

0 件のコメント: