2025年5月7日水曜日

道端のツツジの花

                                 
 全体が花で覆われている。しかし、1週間後には葉が出て赤と緑の「まだら」になっているのではないか――。

そのとおりになった。夏井川渓谷の隠居へ行く途中で見た植栽のツツジ(サツキかもしれない)のことである。

ゴールデンウイークが始まる直前の4月27日。ツツジの花の美しさに見ほれて、隠居からの帰り、車を止めてカメラのシャッターを押した=写真。以下はそのときの様子。

平のわが家から渓谷の隠居までは車でざっと30分。田んぼ道から国道399号へ出ると上平窪の台地になり、坂を下るとすぐ小川町下小川に入る。

左手に小川小下小川分校の跡地が見えてくる直前、道端のツツジの花の列が目に飛び込んできた。

口の広い背負(しょ)いカゴがふせられ、すべて赤い花で飾られている――そんな第一印象だった。

 街で見慣れた民家のツツジは出合うタイミングが悪いのか、花の間に緑の葉が散らばっていて、赤やピンクの色と緑色の「しみ」でまだら模様になっている。ところが、ここのツツジは、チラッと見た限りでは緑のしみが一つもない。

 ここまで赤一色なのは、手入れが行き届いているからにちがいない。園芸には興味のない人間にも、花を咲かせる人間の思いが想像できた。

 翌年またちゃんと咲かせるには、しおれた花を根元から摘んでおくこと。だれかにそう教えられて、庭のツツジの手入れをしたことがある。しおれ花の数の多さに、一度やって音を上げた。

 それともう一つ。作家の角田光代さんがつづった短文を思い出した。月刊の「文藝春秋」に彼女が文を書き、カメラマンの平間至さんが写真を担当した大手不動産会社のコマーシャルだ。「ささやかさ」というタイトルがついていた。

日常のなにげない風景を支えているのは、実はだれかの無償の行為である、そんな趣旨の、詩のような短文だ。

「差し出されたお茶とか、/てのひらとか。/毎朝用意されていたお弁当とか、うつくしい切手の貼られた葉書とか。/それから、歩道に咲くちいさな赤い/花とか、あなたの笑顔とか。」が前半。

後半は「私たちは日々、だれかから、/感謝の言葉も見返りも期待されない/何かを受け取って過ごしている。/あまりにもあたりまえすぎて、/そこにあることに、ときに/気づきもしないということの、/贅沢を思う。幸福を思う。」と続く。

緑のしみが一つもない見事なツツジの花の列に、「歩道に咲くちいさな赤い花」が重なり、「感謝の言葉も見返りも期待」しない人間の無償の行為が浮かび上がってきた。

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