東日本大震災とそれに伴う原発事故のあと、市民は災禍をどう受け止めたのか、朝日の新聞歌壇をウオッチしたことがある。
被災者自身の作品が登場するのは2011年4月に入ってからだった。それからさらに1カ月後の5月16日、いわき市在住読者の短歌「ペットボトルの残り少なき水をもて位牌(いはい)洗ひぬ瓦礫(がれき)の中に」(吉野紀子)が掲載された。
短歌の評。「小名浜の人、仏壇にあった位牌を瓦礫の中から拾い上げた。飲み水も乏しい中でペットボトルの水で洗う。絆への切実な思いが伝わる」(馬場あき子)
作者の吉野さんはカミサンの高校の同級生だ。カミサンとのやりとりのなかで知ったのだが、吉野さんは、もともとは俳人だ。
震災直後はなぜか、俳句ではなく短歌が生まれた。それを新聞歌壇に投稿すると、複数の選者が選んだ。年間の優秀作品に贈られる「歌壇賞」にも選ばれた。
自分自身の体験ではなく、大津波で壊滅的な被害を受けた豊間方面へ出かけたときの実景を詠んだそうだ。
巨大地震は東北地方の沿岸部に甚大な被害をもたらした。その惨状は五七五では詠みきれない、プラス七七が必要だったのだろう。
吉野さんの作品を選んだ一人、馬場あき子さんがこの3月で半世紀に及ぶ朝日歌壇の選者を辞した。そのインタビュー記事が先日掲載された。
併せて載った「朝日歌壇の歴史」のなかで、東日本大震災の項に吉野さんの作品が引用されている。
馬場さんの「歌の心得」として、「歌の種は体の中に自然に埋まってくる」「心に収めていると出てくるんです。日頃生きていることは全てネタだと思えばいい」というくだりに目が留まった。
この言葉から浮かび上がってくるのは日常をやり過ごさない、日常を大切にする、ということだろう。
手前みそながら、私もブログを書くにあたっては「日常を記録する」ことを基本にしている。
非日常をニュースとして伝える仕事をしてきた。で、退職してからは逆に、日常の中にブログのネタを見つけるようにしている。
アメリカの写真家ソール・ライター(1923~2013年)は、ニューヨークの街角で、誰に見せるでもなく「日常にひそむ美」を撮り続けた。
ソール・ライターだけでなく、歌人としての馬場さんの姿勢、心得にもバイブレーション(共振)がおきた。
馬場さんが6歳のとき、実母が亡くなった。継母はいわき出身の人で、継母を詠んだ歌が中山雅弘さんの『いわき諷詠』で紹介されている=写真。「ままはははやさしかりにき小名浜に貝焼き食べてなつきゐしわれ」
併せて、震災後に詠んだなかから一首。「ははと遊びし水石山はたすかりて地震のあとにほととぎす鳴く」
吉野さんの短歌も、『いわき諷詠』に載る。それもあって、新聞の評にあった「小名浜の人」が、今は新たな意味を持って迫る。
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