2013年8月31日土曜日

夏草の茂る庭

夏井川渓谷の埴生の宿。庭に雑草が生い茂っている=写真。家の前はときどき草を引くから目立たない。が、その先は足を踏み入れるのがためらわれるほどだ。例年、梅雨入り前後に知り合いの造園業者に頼んで草を刈る。今年もきれいに“散髪”した。それからわずか2カ月余。ひとり大鎌を振るうだけでは間に合わなくなった。

農村景観が美しいのは、人間が絶えず周りの自然に手を加え、安定した状態を保っているからだ。その基本が草刈り。草刈りがいかに大変か、大変な草刈りを農家が何代も受け継いでやっているのはなぜか――庭の草に埋まるたびに“哲学”するのが癖になった。

前にも書いた文章なのだが――。日々、人間は自然にはたらきかけ、自然の恵みを受けながら暮らしている。ときには大きなしっぺ返しをくらうとしても、自然をなだめ,畏れ敬いながら、折り合いをつけてきた。その折り合いのつけ方が景観となってあらわれる。

農村景観、あるいは山里景観は、人間が自然にはたらきかけることによって初めて維持される。「自然は寂しい/しかし人の手が加わると暖かくなる」(民俗学者宮本常一)のだ。

人間が営々と築き、守ってきた美しいムラの景観が、人の手が加わらなくなったらどうなるか。たちまち壊れ、荒れ始める。生活と生産の基盤が崩れていく。自然災害なら再建が可能だが、原発事故ではそうはいかない。原発事故の罪深さがここにある。

〈いやしくも川の工事をしようとするものは、まずそれをそこの川に訊き、山の工事をしようとするためにはそこの山に訊いて、その言葉に従ってするということが、いわゆる成功の捷径でありましょう〉。「捷径」は近道のこと。戦前、長野県で教鞭をとった三澤勝衛(1885~1937年)のことばである。

『三澤勝衛著作集 風土の発見と創造 4暮らしと景観/三澤「風土学」私はこう読む』(農文協)で、哲学者の内山節さんが紹介していた。

「三澤風土学」の流れのなかでとらえることのできる本と言えば、私には内山さんの一連の著作、なかでも『自然と人間の哲学』(岩波書店)が思い浮かぶ。最近読んだ藻谷浩介・NHK広島取材班の『里山資本主義』(角川ONEテーマ21)もその1冊に加えよう。

〈雨も、雪も、風も、寒さも、さては、山も河も、なにも自然という自然に悪いものは一つもないはずであります。善悪はただ人間界だけの問題であります〉(三澤勝衛)。混然一体となっている自然の営みと人間の営みとを切り離し、自然を対象化して改変する西洋流の自然科学には限界がある。

三澤地理学の「風土」とは、大地の表面と大気の底面(宮沢賢治のことばでいえば、気圏の底)が触れあうところ。その風土はそこだけの、ほかに同じところがないローカルなものだ。それが、私の場合は夏井川渓谷の無量庵。その庭でさえ、一人の人間には手に負えないほど広く、大きい。ましてや身の丈を超えた山、川、大地、地下水、海、となると。

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