2022年1月31日月曜日

干し柿

                             
 師走後半から先日まで、ときどき晩酌のつまみに干し柿が出た=写真。カミサンの知り合いからのお福分けだ。

 若いころ、四倉町の知人の家を訪ねたら、干し柿の話になった。知人の家では正月、冷凍しておいた干し柿を食べる。干し柿にも「ハレ」と「ケ」があるのかと驚いた。干し柿が出ると、決まってこのエピソードを思い出す。

 もらった干し柿には、外側も中も軟らかいもの、外側だけが硬いものと二つのタイプがあった。一口かじると、なんともいえない甘みが口の中に広がる。どちらのタイプもそこは変わらない。

 わが家の庭の木の主役は渋柿。一度だけ実を収穫し、皮をむいて軒下につるしたことがある。ちゃんと干し柿になったかどうか、記憶があいまいだ。たぶん、あらかたはカビがはえたか、ヒヨドリにつつかれたのだろう。

 近所の故義伯父の家には甘柿がある。家を新築したときに義弟が苗木を買って植えた。「桃栗三年柿八年」。実が生(な)り始めてからは、庭の渋柿は鳥にまかせ、こちらが晩酌のつまみに替わった。

 生食が一番だが、一斉に生るので食べきれない。とろとろになった実は皮と種を取り、タッパーに入れて冷凍した。渋柿で試したのを応用した。

 渋柿も熟せば甘くなる。熟柿は中がとろとろなので、凍らせることを思いついた。それをブログに書くと、既に実行している知人が「100パーセントの柿シャーベット、旨いですよ」とコメントを寄せた。

 以来、甘柿を摘んでは自然に熟すのを待ってシャーベットをつくる。「かき氷」ならぬ「柿氷」だ。

 夏井川渓谷の隠居の近くに放置された柿の木がある。小粒の実が生る。普通の渋柿よりは小さいが、豆柿よりは大きい。

 カミサンが少しいただいて、皮をむかずに3個ずつ、焼き鳥用の竹串を刺して家の軒下につるした。11月から12月、そして1月。柿色が消えて黒茶色に変わった。

不思議なことに鳥は近寄らない、と思っていたら、ある日、竹串3本のうち1本が地面に落ちていた。

ヒヨドリでもやってきて、柿をつついているうちにひもから竹串が外れたのだろう。見ると、皮に小さな穴が開いて、中身が少しなくなっている。皮をつついた跡もある。

 ではと、土曜日(1月29日)の夜、1個を晩酌のつまみにした。ほんの一かじりしたら……。饐(す)えたにおいと酸味が広がった。すぐ吐き出して、水で口をすすいだ。

ちょうど6年前のきょう(1月31日)、この柿の木のことをブログに書いた。1月10日に見たときには、まだいっぱい実が残っていた。人間は柿の実の写真を撮るだけ。たまたま離れたところから望遠で柿の実を撮影していたら、エナガの群れが現れた。ちょこまかと動き回って柿の実をつついていた。

ほぼ3週間後に見ると、朱色の点々が消えていた。みごとに黒ずんだ柿の皮しか残っていない。厳寒期に入って、いよいよエサが乏しくなった。しかたない、まずいけど食べるか――野鳥もそんな気持ちだったのではないか。

2022年1月30日日曜日

「まん延防止」メール

                     
   福島県でも1月27日、「まん延防止等重点措置」が適用された。期間は2月20日までで、いわきなど5市が対象自治体だったが、きょう(1月30日)からは県内すべての市町村に拡大された。それほど感染者が急増しているわけだ。

 いわきのコロナ関連情報は絶えず新聞・テレビ、ネットで確かめる。記事のもとになった市長の会見資料にも当たる。

市からも直接、防災メールサービスで「まん延防止」適用の連絡がきた=写真。こういうサービスは、心理的に問題をジブンゴト化する効果がある。

公共施設の利用制限や市主催イベント等の自粛など、「感染拡大防止一斉行動」を実施している。市民、事業者も感染リスクの高い行動は控えるなど対策を徹底し、感染拡大防止に協力を、というものだった。

なかに「『オミクロン株は重症化リスクが低いので安心だ』というのは、間違ったメッセージです。重症化しないわけではありません」とあった。これが防災メールの言いたいところだろう。

けさの県紙はオミクロン株に感染した疑いのある高齢者が2人死亡したことを1面トップで伝えている。

オミクロン株は、感染力は強いが、軽症で済む――SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のツイッターやフェイスブックに、ときどきそんな情報がアップされる。結果がどうなるかはともかく、現状では悲観もしないが楽観もしない。

まず、若くはないということがある。いろいろ薬を飲んでいる。基礎疾患のある年寄りだから、感染すれば重症化しやすい。

 若い人は軽症で済む率が高いかもしれないが、それを一般化して高齢者も軽症で済む、と勝手に思い込まない。「軽症化」を自分の行動の言い訳にしない――そう自分に言い聞かせている。

人は年齢、あるいは職業などによって見える風景が違う。オミクロン株を風邪の延長でとらえる人もいるが、私はそこまでは踏み込めない。

かといって、過度な警戒はしない。ふだんは家で本を読んだり、調べものをしたりして過ごしている。「巣ごもり」が基本の年金生活者だから、外出自粛をいわれてもそれほど苦にはならない。

とはいえ、人は社会とつながって生きている。区内会や市民団体など、所属しているコミュニティがある。市民団体が2月に予定していた行事はすべて中止になった。これはこたえた。

感染防止一斉行動では、すべての飲食店に営業時間短縮を要請し、市民にも5人以上での会食を自粛するよう求めている。2カ月に1回のペースで宅飲みの集まりに参加していたが、これも第6波が収まるまでは自粛ということになる。

行事は中止か延期。人に会うこともなくなった。外出機会が減って巣ごもりを徹底していたら……。年寄りは車の運転技術が衰えた、人と会うのがおっくうになった、というふうになりかねない。

だからこそ、図書館へ本を借りに行く、堤防でハクチョウをウオッチングする、日曜日には渓谷へ行く、といったことを続けながら、第6波の山が越えるのを待つ。外気に身をさらすことも大切だ。

2022年1月29日土曜日

来たときよりきれいにして帰る

森を巡る。野原を行く。海辺を歩く。自然に身を置くとき、たまに思い出す言葉がある。来たときよりきれいにして帰る――。

東日本大震災と原発事故が起きる前はたびたび森を巡った。目当ては花やキノコ。まずは写真を撮る。食べられるキノコはありがたくちょうだいする。

ところが……。林内の遊歩道に、あるいは思いもよらないようなところに、清涼飲料水の空き缶や食べ物の包装紙などが落ちている。

自然界にはない「アキカンタケ」を見ているうちに手が動くようになった。自然の恵みをいただくお返しに、人間が捨てていったごみを拾って持ち帰る。まずは一つ。一つでいい。ごみが一つ減った分だけ、森の環境はよくなる。

いわきでは6月と10月の年2回、「まちをきれいにする市民総ぐるみ運動」が行われる。それでいっとき、家の周りや道路から空き缶・ビン、プラスチックの容器類などが一掃される。

震災前には夏井川渓谷で「カントリー(缶取り)作戦」を展開する市民グループもいた(今も活動しているかどうかはわからない)。

「田舎の美しい風景を守りたい」。川前町で田舎暮らしを始めた人が渓谷の美化活動を呼びかけたら、手を挙げる人が続出した。「川前発 夏井川をきれいにしてみま専科」というのがグループ名だったと記憶する。

そのころ、小川町商工会などが主催して「夏井川渓谷紅葉ウオーキングフェスタ」が開かれた。地元集落の住民が案内人になった。週末だけの半住民である私も案内人に加わった。

夏井川第二発電所のある対岸へ渡り、「阿武隈高地森林生物遺伝資源保存林」の遊歩道約2.5キロを往復した。スタート地点にある水力発電所も、ウオーキング参加者に限って公開された。折り返し地点では上流から岸辺に流れついたごみを拾い集めた。

「みなさんはきょう、森を巡る際の鉄則を実践しました。それは、『来たときよりきれいにして帰る』です。きょうは森も喜んでますよ」。班を解散するときに案内人としてそう締めくくった。

ハマの場合も事情は変わらない。令和2(2020)年に「とよまの灯台文化祭」が開かれたとき、「とよまの灯台倶楽部」部長のO君を紹介された。

O君らは海岸の美化活動も続けている。先日、薄磯海岸を歩いたとき、牛乳瓶のかけらが半分、砂に埋まっていたのを見て彼らの活動を思い出した。

そのままにしてはおけない。拾って周りを見ると、やはりプラスチックの容器などが半分埋まった状態であった。

ふだんは防波堤から海を眺めて終わりなのだが、この日はカミサンがさっさと砂浜に下りて貝殻を拾い出した。

   しかたない。砂浜に下りたら、ごみが目に留まった。そのとき不意に、「来たときよりきれいにして帰る」という言葉がよみがえり、四つほど拾って家に持ち帰ったのだった=写真。 

2022年1月28日金曜日

「旅屋おかえり」

                              
 金曜日(1月21日)までは全く知らなかった小説だ。原田マハ『旅屋おかえり』。それがこの1週間、波状的に押し寄せてきた。

 朝ドラからの流れで金曜日の「あさイチ」を見ていたら、プレミアムトークに原田さんが登場した。今は作家だが、以前は美術館のキュレーターをしていた。美術をテーマにした作品が多い。

 その程度の知識しかない。しかし、カミサンが図書館から借りてくる「芸術新潮」にはよく名前が載っている。なんとなく気になる作家ではあった。

 番組では、原田さんの生い立ちから今日までを追い、度胸と直感の転身や好きな本などを紹介した。同時に、BSプレミアムで4夜連続、『旅屋おかえり』を原作にしたドラマが放送されることも――。バンセン(番組宣伝)だったかと思いながらも、旅=移動の楽しみを語る原田さんには共感を覚えた。

 私も毎週、移動の楽しみを味わっている。日曜日ごとに夏井川渓谷の隠居へ行く。片道30分のドライブだが、冬は途中でハクチョウに出合う。渓谷では四季の変化に触れる。近距離でも遠距離でも、その本質は変わらない。移動の積み重ねが人生の旅を豊かなものにする。

 プレミアムトークから3日後の月曜日(1月24日)。カミサンが『旅屋おかえり』(集英社文庫)を差し出した=写真。たまたまその何日か前、知り合いが「読んだから置いていく」と持ってきた。カミサンがやっている地域図書館(かべや文庫)の1冊になったばかりだった。

奥付を見たら、2014年9月第1刷、2020年11月第23刷となっている。ロングセラーの本ではないか。

 冒頭、「移動の楽しみ」に触れている。「気がつくと、今日もまた旅をしている。/旅が好きだ。『移動』が好きなのだ。移動している私は、なんだかとてもなごんでいる。頭も心もからっぽで、心地よい風が吹き抜けていく」

小説を読み始めて2日目の火曜日(125日)夜7時。BSプレミアムでドラマ「旅屋おかえり」が始まった。25~26日は秋田編、27~28日は愛媛・高知編だ。

売れないタレントが旅の代行屋になり、依頼人に代わって東へ西へ行く旅物語だ。安藤サクラが珍道中を見事に演じる。最後は涙のハッピーエンドが待っている。

「おかえり」は「お帰り」の誤読を誘うが、主人公の名前の4音略語だ。本名「岡林恵理子」、芸名「丘えりか」、通称「おかえり」。こうした“仕掛け”のきめ細かさが、小説が読まれる理由のひとつなのかもしれない。

水曜日(1月26日)にはさらに別の驚きが待っていた。全国紙に『旅屋おかえり』の大きな広告が載った。「あさイチ出演で話題沸騰」「38万部突破」。なんというメディアミックスだ。

きょう(1月28日)が特集ドラマの最終日。突然、「あさイチ」で種をまかれた『旅屋おかえり』が、あっという間に胸に根をはやした。

2022年1月27日木曜日

今年の“初ガツオ”

                      
 日曜日の夜は刺し身と決めている。1月23日にいつもの魚屋へ行くと、「カツオがあります」。「おっ、“初ガツオ”だね」。店主は最初「えっ!」という表情をしたが、すぐニッコリして応じた。「そうですね」

 初日の出や初詣、初縁日といったように、その年最初の行事や自然現象には「初」が付く。それと同じで、1月下旬に早くも今年(2022年)最初のカツ刺しを食べた=写真上1。

ちょっと前にも書いたが、この冬は師走に入っても市場に生ガツオが入荷した。カツオがなかったのは12月19日だけで、そのときには白身の魚の盛り合わせにした。

年が改まった1月は9、16日とメジマグロを食べた。カツオがなくてメジがあれば、店主は黙ってそれを刺し身にする。

拙ブログによれば、「メジマグロですが」といわれて、初めてメジ刺しを口にしたのは震災前の冬だった。

マグロの赤い刺し身はほとんど食べない。が、冬、たまたま入荷したピンク色の「メジ刺し」を口にしたら、“トロガツオ”に引けを取らないうまさだった。カツオの次にメジが好きになった。

メジをつついていると、いつも遠い日の記憶がよみがえる。若いころ、正月になると1年先輩の家に飲みに行った。そのとき出てきたごちそうがピンク色の「マグロの刺し身」だった。今思うと、メジだったのだ。

そのころはホンマグロの子どもをメジマグロという、なんてことも知らずに、ただ「うまい、うまい」と言って食べていた。

1月はだからメジでもかまわない、そんなつもりで行ったら、“初ガツオ”があった。高知産だという。メジはわさび醤油で、カツオはやはりわさびも混ぜたにんにく醤油で食べる。ニンニクのかけらが大きかったので、すりおろすと量が多い。舌がヒリヒリした。

例年は2月3日(2018年)、同7日(2016年)と、立春前後に最初のカツ刺しを口にしていたのだが、去年(2021年)は今年より早い1月17日だった。この調子だと、1年中カツ刺しが食べられるようになる?

刺し身の上には一片のナンテンの葉、あるいはパセリが彩りに添えられる。パセリは、義弟も私も嫌いではない。早いもの勝ちだ。

ある日、カミサンとハウス園芸直売所へ行ったとき、パセリのポット苗を買った。一つは家の台所の軒下に、もう一つは夏井川渓谷の隠居の玄関わきに定植した。

軒下のパセリは勢いがいい=写真上2。あまり手をかけなくても増えるというので、私のような人間には向いている。

先日はてんぷらになって出た。口直しには欠かせない。胸の内にも、そこにパセリがある、いつでも摘める、という安心感が根づいた。

2022年1月26日水曜日

野焼き

                     
 1月23日の日曜日は、夏井川渓谷の隠居へ行くのをよした。金曜日の朝、平地にも雪が吹っかけた。庭に止めてある車の屋根が白くなっていた。渓谷の道路はどうか、白いかもしれない、というのが一つ。

 もう一つ。土曜日の夕方、カミサンの親友の訃報が届いた。それもあって、カミサンは「隠居へは行きたくない」という。

 では、一日、カミサンのいうとおりにしよう。そう思ったが、行った先で「あそこへ」「ここへ」と言い始めたので、やはり途中から考えを変えた。

 昼前、薄磯海岸のカフェ「サーフィン」へ古い雑誌(「私の部屋」)を届けるというので、アッシー君を務めた。

ママさんはパッチワークをやっている。店内の装飾も独特だ。インテリアなどを扱った「私の部屋」ならママさんの仕事の参考にもなる。前々から約束していたようだ。

 中神谷から薄磯への道は二つ。内陸(県道小名浜四倉線)を行くか、海岸(県道豊間四倉線)を行くか。近くの六十枚橋から右岸堤防を利用して海岸道路を行くことにした。

平野部の夏井川では河川敷の立木伐採と土砂除去工事が行われている。なかでも六十枚橋から河口にかけては変貌が著しい。堤防を行くのは一種の“定線観測”だ。

同橋を渡り、右岸堤防に折れると、河川敷の枯れヨシ原に炎が見えた=写真。堤防の土手にも火が入り、至る所で黒く焦げている。消防団員とポンプ車が出ていた。大字でいうと、上・下大越だ。毎年この時期の日曜日に野焼きを実施している。

ヨシは春に芽を出し、3メートル前後まで丈を伸ばす。震災前、そこでツバメの集団ねぐら観察会が開かれた。

 日本野鳥の会いわき支部が、支部創立50周年を記念して発行した『いわき鳥類目録2015』に、元支部長氏の「観察メモ」が載る。

「日が落ちる前の夏の夕方、数万羽のツバメが空一面で乱舞し、その後、急降下しヨシ原の上を群れ飛ぶ姿に、息を呑むほど感動しました。その塒(ねぐら)は2008年、夏井川河川敷ヨシ原にありましたが、その翌年には仁井田川河川敷に塒を移し、今日に至っています」

 23日はさいわい風もなく、しのぎやすい一日だった。堤防からは白い煙が幾筋も立ち昇り、河口のサイクリング公園や海岸には親子連れの姿が多く見られた。

 海岸道路では確かめたいことがあった。前の週の日曜日未明、というより真夜中、津波注意報が発表された。

 それよりほんのちょっと前、海岸道路で交通死亡事故が起きた。道路を南下すると、滑津川河口近くのガードパイプに花束などが添えられていた。川に沿うT字路を右折するとすぐ、いわき新舞子ハイツだ。

若いころ、警察回りをしていたので、死亡事故が起きると「現場」を確かめたくなる。なぜ事故が起きたのか、死んではだめだ――。一部黒ずんだ路面からメディアが伝えた事故の写真がよみがえり、何とも言えない気持ちになった。

2022年1月25日火曜日

オスマン帝国外伝

                                   
 阿武隈高地の田村市には、征夷大将軍坂上田村麻呂にまつわる伝説が多い。大半は大滝根山を本拠地とする賊(鬼)の首領、大多鬼丸(おおたきまる)との戦いに関するものだという(田村市ホームページ)。 

 私は大滝根山の北西麓の町で生まれ育った。小学校のころに伝説を知り、田村麻呂は正義、大多鬼丸は悪――という考えが刷り込まれた。

 ところが、大人になって「正史」とは別の「郷土史」に触れ、見方が一変する。大多鬼丸は侵略者から民を守るために戦って死んだ地元の豪族だった。

 伝説の鬼とは中央の権力に抵抗する地方の英雄、阿武隈ではその先住民のリーダーだ。となると、阿武隈の人間は「まつろわぬ鬼」の末裔ということになるか。

 なぜこんな話を持ち出したかというと、BS日テレで毎日、「オスマン帝国外伝――愛と欲望のハレム」を見ているからだ。

私の頭にしみついていた「世界史」はヨーロッパ中心史観とでもいうべきもので、それ以前に大きな力を持っていたイスラム世界の歴史がすっぽり抜けている。

14世紀から20世紀初頭、小アジアからバルカン半島、地中海にかけて支配し、キリスト教世界を脅かしたイスラム教スンニ派の大帝国があった。

それがオスマン帝国。大多鬼丸が鬼から英雄になるように、オスマンの側に立てば世界史もまた違って見える。

テレビでは、16世紀、オスマン帝国の黄金時代を築いた皇帝スレイマンと、元キリスト教徒の奴隷身分から皇帝の寵姫(ちょうき)となり、やがて正式な后(きさき)となったヒュッレムを軸に、骨肉の後継争いと愛憎劇が展開される。

ドラマを見ているだけではよくわからない。前のシリーズが放送されたとき、カミサンが買って読んでいた『オスマン帝国英傑列伝』(幻冬舎新書、2020年)=写真=を手元に置いている。話がこんがらかると、ときどき開く。むろんドラマはフィクションだから、史実とは異なる。

『オスマン帝国英傑列伝』では、ヒュッレムに1章を割いている。「美貌より快活さを魅力とした魔性の女」「スレイマン、イブラヒムとの緊張の三角関係」「西太后やマリー・アントワネットとならぶ悪女に描かれた理由」といった見出しが並ぶ。

 「ヒュッレムは、同時代から現在にいたるまで、稀代の悪女として描かれてきた」。しかし、と著者はいう。「悪女であると伝える史料ばかりが伝存しているため、こうしたイメージを否定することも難しいが、すくなくとも一方的な評価を下すべきではなかろう」

 悪女はなぜか人々の心をひきつける。トルコでは2011~14年に放送され、人気を博した。「トプカプ宮殿を舞台に、豪奢な衣装を身にまとったハレムの人々の、華やかでいて陰湿な、激しい人間模様が話題を呼び、トルコのみならず全世界で大ヒット」したという。

本筋とは全く関係ないが、このところ、ピンポイント的にコーヒー豆の話が出てくる。カフェはこの時代、トルコの首都から始まったようだ。いわきのカフェ、あるいはカフェーの歴史を勉強したばかりなので、併せて起源を検索したらわかった。

2022年1月24日月曜日

いわきの「カフェー、バー」下

                     
 いわき地域学會幹事の小宅幸一さんは『いわき発・歳月からの伝言』というタイトルで、「いわきの百科事典」づくりを進めている。あいうえお順に、10年をかけて毎年1巻ずつ発行する計画を立てた。第1巻は令和2(2020)年秋、第2巻は同3年師走に発売された。

1巻は「あ~お」までの「あ行」を網羅した。が、2巻は「か」でいっぱいになった。「か行」だけで計3巻になるらしい。10年どころか、「生きている限りは出し続ける」覚悟でいる。

1月22日に開かれたいわき地域学會の市民講座では、自著を紹介しながら、第2巻に収めた「カフェー、バー」について解説した=写真。

大正時代の西洋料理店「乃木バー」の話から始めた。それについてはきのう(1月23日)、拙ブログを再掲しながら紹介した。

勉強になったのは「カフェ」と「カフェ―」の違いや歴史的な変遷だ。大正時代になると、カフェは大衆化した「喫茶店」と、主として女性が給仕して酒を提供する「カフェー」に分化する。「バー」という言葉も登場する。「乃木バー」はこの時代に誕生した。

新聞は時代の流れや世相を色濃く反映する。カフェ、あるいはカフェー、バーに関する記事と広告は貴重な史料だ。

いわき総合図書館には、元私設図書館三猿文庫」の資料が収められている。同文庫の特徴は、いわきの地域新聞や出版物、近代の雑誌創刊号などを数多く保存していることだ。いわきの近現代史、あるいは地域メディア、文学を研究するうえで欠かせないライブラリーになっている。

地域新聞はあらかた電子化されて、いつでも、どこからでも図書館のホームページにアクセスすれば閲覧できるようになった。私はこれをしょっちゅう利用している。

小宅さんもこれらの史料を取り入れ、当時の税制、取り締まり状況などをからめて、いわきの料飲業界の歴史を追った。

カフェーは「平和産業」だ。戦時色が濃くなると姿を消す。昭和12(1937)年12月ごろのカフェー業界について、当時の「磐城新聞」は地元警察の、次のような見解を伝えている。

「東京等でも漸次喫茶店への転向者が続出してゐるさうだ。地方では純喫茶でトテモ商売にならぬだらうから、勢ひおでん屋とか此種飲食店へ商売替えするわけだ。マアこれが新時代の要求なんだらう」

そして、戦後。高度経済成長の息吹とともに、酒文化が多様な展開をみせる。パブ、キャバレー、クラブ……。カフェーという言葉はもはや時代遅れになった。

バーとは異なったスナックも登場する。その写真に私と同僚、友人が写っていた。撮影者も同僚だ。

小宅さんとは資料の貸し借り、情報の交換をしあう間柄なので、こうしたときにはそれこそ信頼と信用の間でことを進める。写真の入手経路も承知している。

撮影年月からすると、私は40歳だった。職場が飲み屋街に接してあった。毎週のようにスナックに通った。で、その写真をめぐって私が当時の状況を説明し、それに対する応答があって、また盛り上がったのだった。

2022年1月23日日曜日

いわきの「カフェー、バー」上

                   
    いわき地域学會の第366回市民講座がきのう(1月22日)午後、市文化センターで開かれた。24日の月曜日からはコロナ第6波の影響で、同センターをはじめ市内の公民館が休館する。その意味では当面、最後の講座になった。

小宅幸一幹事が「カフェー、バー~『いわき発・歳月からの伝言2』から」という演題=写真=で、いわきの酒場と酒文化の歴史を話した。

最初に、大正時代に平で営業していた「乃木バー」が紹介された。講座が終わって質疑応答に入り、やはり乃木バー関連の質問が出た。私もブログで乃木バーについて書いたことがある、まずはそのブログ(2012年4月14日付)の抜粋から――。

『目で見るいわきの100年――写真が語る激動のふるさと』(郷土出版社、1996年)に、「カフェタヒラ」と「乃木バー」が載る。撮影は共に「平・大正14年」だ。乃木バーにも、カフェタヒラにも「西洋御料理」の看板がかかる。

平成24(2012)年3月下旬、スペインからふるさとの内郷に帰っている知人を訪ねた。3・11からちょうど1カ月後の4月11日、強烈な直下型地震がいわきを襲った。庭に亀裂が走り、レンガ造りの蔵も縦にいっぱいひびが入った。

母屋も蔵も解体することになって、電話がかかってきた。いわき市暮らしの伝承郷へ寄贈できる民具があるかもしれない。都合、3日通った。

乃木バーの“遺品”が出てきた。フォークやナイフ(さびている)、ナイフを包んだままのナプキン、大正10(1921)年6月、11年11月の通い帳、12年9月の買い物帳のほか、封書・はがきなど数点をあずかった。

知人の話では、祖父は獣医。東京の女性と結婚し、麻布で父親が生まれた。そのあといわきへ帰り、乃木バーを出した。祖母が実質的に切り盛りしていた。乃木バーの乃木は、自分たちが住んでいた麻布=乃木希典の生誕地に由来するものでもあったか。

ナプキンのロゴマークがしゃれている。ナイフとフォークを丸くかたどったなかに、右から左へ4行、「西洋御料理/乃木バー/電話三六九番/平郡役所通り」とある。通い帳には食パン・クリームパン・バターパン、清酒などの品が、買い物帳には焼き豆腐・豆腐・生揚げ・長ナス・椎茸などの食材ほかが並ぶ。

バーというからアルコールを出したのだろうが、主体は“洋風料理”ではなかったか。知人の、東京出身の祖母はかなりハイカラな人だったと思われる。

乃木バーの所在地がナプキンや手紙からわかった。平三町目1(元・佐川洋服店)。石城郡役所は、今の銀座通りの北、常磐線を背中に抱えた並木通り沿いにあった。

大震災から1年余、知人・友人の家の解体・ダンシャリに何度か立ち会った。今度も伝承郷へ届けるもの、古着リサイクルを手がけているザ・ピープルに届けるもののほかに、いわきの文化史を彩るものが出てきた。

2022年1月22日土曜日

久しぶりの対面

                     
 この前の日曜日(1月16日)は、夏井川渓谷の隠居へ行く時間がずれこんだ。いつもは朝9時前に家を出る。それが10時半になった。

 未明に津波注意報が発表された。それに引っ張られて、ネットで情報を探っているうちに時間がたった。それがひとつ。

 もうひとつは、前週の木曜日(1月13日)に雪雲が山を覆っていたこと。雪が降ったとしても、その後の晴天で道路は乾いただろう。しかし、日陰に雪が残っていないとも限らない。早い時間に渓谷へ行くのがはばかられた。

 結果からいえば、隠居まではもちろん、上流のJR磐越東線川前駅周辺まではなんの問題もなかった。その先は行っていないのでわからない。

 この日朝、小川・三島に残留したコハクチョウ「エレン」にえさをやっている「白鳥おばさん」のSさんから電話がかかってきた。

「Mさんのところに古米7袋が届いた。ハクチョウのえさが不足している時期なのでありがたいと言っていた」

Mさんとは、三島の夏井川のそばに住んでいて、冬場、飛来したハクチョウにえさをやっている「白鳥おじさん」のことだ。

 正月に入って間もなく、野鳥の会のTさんから私に電話がかかってきた。野鳥の会に古米提供の話がきた、三島でえさをやっている人にどうだろう、連絡がとれないか。Sさんに連絡して、Mさんの電話番号を聞いてTさんに伝えた。

 すると、ほどなくTさんからMさんに届けることになった、という連絡が入った。白鳥おばさんからの電話は、いわばその「続報」だ。Mさんからのお礼の意味もあるようだった。

 それから1時間半後、三島のハクチョウたちを視野に入れながら進むと、国道399号のガードレールからえさをやっているSさんがいた。ここは新年のあいさつを兼ねて情報を交換しないと――。

 じかに会うのは何カ月ぶりだろう。確か8月下旬に顔を合わせて以来だ。ハクチョウたちが大挙飛来してからは、エレンがどこにいるか、さっぱりわからなくなった。

 Sさんが、そこにいるのがエレンと眼下のハクチョウを指さす。しかし、カメラを向けているうちに、どれがどれだかわからなくなった。このなかの1羽がエレンということになる=写真。

 電話を介してかかわった古米の話に決着がついたうえに、エレンとも久しぶりに対面した。爽快な気分でSさんと一緒に眼下のハクチョウとカモたちを眺めた。

Sさんは和裁の腕を持っている。カミサンとはそちらの話になった。エレンのえさ代もそこからねん出しているという。

そして、翌17日。今度はTさんからMさんに古米を届けたという電話が入った。最初は100キロという話だったが、実際には200キロだったとか。

しかも、Mさんは下流の塩~中神谷で残留ハクチョウにえさをやり続けた故馬目さんを知っていた。「白鳥おじさん」はつながっていたと、感無量の様子だった。

2022年1月21日金曜日

図書館は時間短縮

 きのう(1月20日)の続き――。同日昼前、いわき駅前のラトブに入居している総合図書館から本を借りてエレベーターを待っていると、職員が後方の掲示板にポスターを張り出した。

 1月24日から開館時間を短縮する、という内容だった。「休館はしないんだ」。思わず念を押すと、「そうです」。別の利用者も休館しないことを確かめて、ホッとした表情になった。

 コロナの第6波がいわきにも押し寄せた。新しい指標でレベル3になったため、市は24日から対策を強化する。これまでだと、公共施設は「原則休館」だったが、一定の条件を満たす施設については、一部利用制限(開館時間の短縮など)を行ったうえで開館を継続できるようにした。

20日朝の時点では、どの施設が開館・休館するかは、情報がなくてわからなかった。が、2月に「内郷学講座」の講師を頼まれていた。会場は内郷公民館だ。主催する市内郷支所から中止の連絡が入ったので、公民館は「一斉休館」を覚悟していた。

市文化センター(中央公民館)が会場のいわき地域学會の市民講座も当然、影響を受ける。1月22日の講座は大丈夫だが、2月19日は無理だろう。仮に利用制限を行って開館継続になったとしても、開催自粛の方向で検討するつもりでいた。

街から戻ってメールをチェックすると、図書館から「お知らせ」が届いていた。「市の新型コロナウイルス感染症の新指標が『レベル3』に引き上げられたことに伴い、開館は継続のうえ、開館時間の短縮を行う」

総合図書館は通常、夜9時まで開いているが、3時間短縮して6時まで、地区図書館も1時間短縮して6時までになる。わが家では移動図書館も利用している。こちらも前回までは休止だったが、今回は運行する。

図書館はこれで一件落着でも、公民館などはどうなるのか。昼食後、ネットで検索すると一覧が出てきた。

 主な施設の休館は、市立公民館37館・市文化センター・生涯学習プラザ=写真。24日から「当面の間休館」では、市民講座の自粛どころではない。

 美術館・草野心平記念文学館・考古資料館などは、利用制限をはかったうえで開館継続だ。第5波までのコロナ対策、とくに図書館など公共施設の一斉休館はこたえた。調べものができない、読みたい本が借りられない、というストレスがたまった。

去年(2021年)秋、ブログにこんなことを書いた。仙台市図書館の取り組みをホームページで確認し、共感を覚えた。休館は休館だが、書架への立ち入り、貸出・返却ができる。一斉休館ではなく、利用者のことを考えて風穴を開けるくらいの突破力が、いわきにあってもいい。

カミサンが運営している地域図書館(かべや文庫)も、年配の女性の利用が増えている。コロナ禍がなければ毎月、移動図書館を通じて本を取り替える。こちらも運行を再開できないものか、と。

  少なくとも市の対策は前より進化した。一般の年金生活者については、同じ「巣ごもり」でも平常に近い質を保てるようになった。 

2022年1月20日木曜日

第6波がきた

 いわきにもコロナの第6波がきた。オミクロン株による感染が急増していることから、市は1月24日から「レベル3」(対策を強化すべきレベル)への引き上げを決めた。

ただし、これまでのレベル3では、公共施設は「原則閉館」だったが、一定の条件を満たす施設については、一部利用制限(開館時間の短縮など)を行ったうえで開館を継続できるようにした(どこが開館し、どこが閉館するのか――それを知りたいのだが、現時点ではわからない)

 私が属しているいわき地域学會は、市文化センター(中央公民館)を会場に年10回、市民講座を開いている。今年度は延期・再延期を経験した。1月は22日に開く。2月は19日だ。

 1月はかろうじてセーフ。小宅幸一幹事が「カフェー、バーの歴史を考える」という演題で、いわきの酒場と酒文化の歴史を話す。

 問題はそれ以降だ。市民講座はもちろんだが、2月に講師を頼まれている「内郷学講座」がある。

 市がレベル3の方針を固めた18日午後、市内郷支所の担当者から電話があった。2月17日の夜、内郷公民館で開催を予定していた内郷学は中止が決まったという。

 私の演題は「吉野せい『洟をたらした神』を読み解く~内郷をどう描いているか」。去年(2021年)秋からいろいろ調べてきて、まとめの段階に入っていたのだが、しかたがない。

 地域学會の2月の市民講座は、まだ講師を決めていない。会場の文化センターからも19日現在、連絡はない。

高齢受講者が多い講座なので、ここは感染防止を優先して2月の開催を見合わせようと思う。1月の講座のあとに開かれる役員会に諮って決める。

ほかにも関係する団体がある。先日、行政区の役員会を開いた。3月末の定期総会について諮ったところ、去年同様、リアル(対面)ではなく書面審議で実施することが決まった。

図書館はどうなるのか。とりあえず臨時休館もありうるとみて、返却日の近い本を返し、借りられる限度(15冊)に近い本を借りるつもりだが、今のところ告知はない。

ホームページには、ラトブビルの設備点検に伴い、総合図書館が2月8日に臨時休館になる、という案内があるだけだ。(1月19日付でお話し会中止の案内が載った。施設そのものは開いているということだろう。)

内郷支所から連絡のあった日の夕方、図書館への行き帰りに夏井川の堤防を利用した。立木が伐採され、堆積した土砂が除去されてだだっ広くなった河川敷では、ハクチョウの大集団が草をついばんでいた=写真。ここへの飛来はこの冬が初めてだ。

きょう(20日)が返却日の本が5冊ある。それを返して別の本を借りる。帰りは無論、堤防からハクチョウをウオッチングする。白い集団がいっとき憂き世を忘れさせてくれる。

   けさの県紙は、1面トップで福島県が「まん延防止等重点措置」の適用を政府に要請する考えを明らかにしたことを伝えていた。状況はいちだんと厳しさを増している。 

2022年1月19日水曜日

阪神・淡路大震災27年

        
 海底火山の大噴火に見舞われたトンガは今、どうなっているのか。メディアによれば、国外との通信がほぼ途絶えている。近隣諸国からの情報では、火山灰が屋根に15センチも降り積もり、降灰で水が汚染された。飲料水の確保が大きな課題だという。

 いわき市はオーストラリアの港湾都市・タウンズビルと国際姉妹都市を締結している。その町から東方の南太平洋にニューカレドニア、バヌアツ、フィジー、トンガなどがある。

いわきでは過去に2回、太平洋・島サミットが開かれ、東日本大震災から2年後の2013年には地球市民フェスティバルや太平洋諸国舞踊祭を組み込んだサンシャイン・フェスタが開かれた。

いわきの男性と結婚したトンガの女性がいる。彼女を介してトンガを知った市民は多い。私もそうだ。彼女は舞踊祭でも国のチームに加わって踊った。

きょう(1月19日)の県紙に彼女が載っている。親族や友人と連絡が取れず、不安を募らせているという。

さて、1月16日未明に防災ラジオで津波注意報の発表を知り、午後2時に解除されるまでは、トンガと海のことで頭がいっぱいだった。阪神・淡路大震災から27年がたつことをすっかり忘れていた。

1月17日の朝、新聞を手にして軽く失望する。「まだ『阪神大震災』か」。去年(2021年)もそうだった。おととしも、いやずっと前から1月17日になると、同じ感情がわいた。

 朝日は「阪神・淡路大震災」、共同通信の記事を掲載する地方紙は「阪神大震災」。朝日も以前は表記が「阪神大震災」だった。去年のブログの抜粋を載せる。今年も去年と全く同じ思いになったので。

――朝日新聞の見出しに「おやっ」と思った。1月17日付1面で「阪神・淡路大震災」を使っている。朝日はいつ「阪神大震災」から「阪神・淡路大震災」に表記を替えたのか。

NHKは「阪神・淡路大震災」で通している。が、新聞は「阪神大震災」だ。なぜ「淡路」を省略するのか。「阪神大震災」では淡路島に被害がなかったことになってしまわないか。

気象庁は地震名として「兵庫県南部地震」と名づけた。政府は災害名として「阪神・淡路大震災」という呼称を決めた。地元の神戸新聞は共同通信に従わずに「阪神・淡路大震災」で一貫している。

朝日はいつから阪神・淡路大震災を使い始めたのか。ネットで調べると、2017年には両方の記述がみられる。私は、神戸新聞に倣うべきだと思っているので、やがて阪神・淡路大震災に統一するなら歓迎したい。

読売、毎日、産経、日経、共同、時事通信は阪神大震災のままだった。淡路抜きがどうにも解せない――。

 今年(2022年)もネットで確かめた。地方紙は「阪神大震災」=写真。読売など全国紙もそうだった。共同、時事も。なぜそうなのか、どこかに「断り書き」がないものか。

2022年1月18日火曜日

「パレスチナ・オリーブ通信」

                               
 カミサンが店(米屋)の一角でフェアトレード商品を売っている。その一つがパレスチナのオリーブオイル、オリーブ石鹸、ザアタル(ハーブミックス=香辛料)だ。合同会社「パレスチナ・オリーブ」(皆川万葉代表)から取り寄せる。

去年(2021年)秋、皆川さんからカミサンに電話が入った。世界的なコンテナ不足で、注文した品物の入荷が遅れる――。それが新年に入ってやっと届いた。

「パレスチナ・オリーブ通信」=写真=が添えられていた。商品の説明や現地の様子などのほかに、海上輸送の混乱と、4月入荷分からの値上げについて補足説明をしている。

「コロナ禍の影響で、コンテナ不足、アジアの港の混雑、海上運賃の高騰が起きていると言われている一方で、日本の経済力の低下や円安も影響しているようです。つまり、コンテナの『取り負け』や、コンテナ船が日本の港へ寄らないということが起きているそうです」

海上輸送の混乱は、現象的にはコロナ問題が主因だろう。しかし、根っこには日本の経済力の低下という問題が横たわっている――深く考えさせられる指摘だ。

値上げは海外の物価高と円安から。「どんどん円が安くなっているのでニュースを見るのが怖いです。日本だけが給与が下がり、『安い国』になっていく、構造的な問題なのでしょう」

今まで言われてきたのは、円安だと輸出が伸びて景気がよくなる、輸入は値段が上がって国内物価が上がる、つまり好景気になるがインフレも進む、というものだった。

ところが、新自由主義が浸透した結果なのか、かつての経験則は通用しなくなった。企業は内部留保を増やしても、従業員の給与を抑える。非正規社員を増やす。結果、平均年収は20世紀の終わりより下がっている、という状況になった。

アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を書いて、高度経済成長期の日本的経営を高く評価したのは1979年。

「日出ずる国」は今や「日没する国」になりつつあるのか――などと、パレスチナ・オリーブ通信を読みながら、つい日本の歩みにわが半生を、団塊の世代の来し方を重ねてしまうのだった。

 さて、私は30年以上オリーブ石鹸を使っている。 若いときは洗髪にシャンプーを使っていた。ところが、すぐ頭がかゆくなり、フケがこぼれ落ちる。たまたまシリアのアレッポの石鹸に切り替えたら、フケもかゆみも止まった。

足裏も洗うと徐々に「薬効」が現れた。若いころから右足裏の皮膚がボロボロはがれたり、かかとが角質化してひび割れたりしていた。右足の小指と薬指の間がジュクジュクして裂け、痛痒かった。これが治まりつつある。

もうひとつ、商品とは別の感慨。同社は東日本大震災と原発事故のあと、仙台市から関西を経て山梨県甲府市に活動の拠点を移した。パレスチナ・オリーブ通信を読むまで知らなかった。通信には、3月下旬、仙台市に戻る、とあった。地元はなにかと心強いにちがいない。

2022年1月17日月曜日

津波注意報

                               
 いわき市から行政区に貸与されている防災ラジオが茶の間にある。緊急時には自動的に音声が流れる。

日付が1月15日から16日に変わって間もなく、ラジオからチャイムが鳴った。続いてすぐ、「津波注意報」「避難を」「海岸付近には近づかないで」。チャイムと男性の声が繰り返される。

 15日午後1時10分ごろ、南太平洋のトンガ諸島で大規模な海底火山噴火があった。気象庁によると、日本沿岸では午後9時ごろから若干の海面変動がある可能性はあるものの、被害の恐れはない――。

市の防災メールサービスと同じ情報をテレビが報じていた。安心して眠りについた3時間後、夜の静寂が破られた。スマホにはエリアメールが入っていた=写真。

 日本列島の太平洋側に津波注意報、奄美・トカラ列島には同警報が発令され、岩手県もほどなく警報に切り替わった。小名浜港では15日午後11時54分に70センチの津波が観測された。

 わが家は海岸線からおよそ5キロ内陸にある。布団から抜け出してパソコンの防災メールを開き、テレビとネットで状況を確認してから、再び床に就いた。

 朝起きるとまた、テレビとネットで情報を探った。初歩的な疑問が二つ生まれた。一つは、メディアによって火山島、あるいは海底火山とあるが、どちらなのか。もう一つは、なぜ気象庁は初期の段階で若干の海面の変動にとどまると判断したのに津波が起きたのか。

 火山島なら噴火口は大気中に突き出ている。その噴火から日本に到達するような津波が発生するものなのかどうか。海底火山なら噴火による崩落もあり得る。それが津波を引き起こしたというならわかるが……。

 ネットにアップされているメディアの情報では、テレビ朝日の解説が腑に落ちた。通常の津波とは全く異なっている。「津波かどうかわからない」という気象庁の見解も伝えていた。

 朝の段階では、それ以上の情報は得られなかった。この日は日曜日。日中はいつものように夏井川渓谷の隠居へ出かけた。帰ってまたネットをサーフィンして、やっと納得のいく解説に出合った。

 東北大の今村文彦教授が、NHKの取材に対して「噴火に伴う“空振”が原因ではないか」とこたえていた。

 噴火後、日本では急激に気圧が変化した。このあと、大きな潮位の変化がみられた。噴火に伴う空気振動によって、近くの海面がいったん下に押さえられ、元に戻る形で盛り上がり、大きな潮位の変化を引き起こした可能性がある。

 さらに、潮位の変化が引き起こされたために、遠地の海中でおきる津波より到達が速かったと考えられる。

 通常の津波と異なっているという気象庁の見解と重なる。要するに、観測史上例のない“空振”による津波――。これについてはいずれ検証がなされることだろう。

 津波注意報は市民生活にも影響を与えた。アクアマリンは臨時休館、小名浜港の遊覧船は運休、道の駅よつくら港は同様に営業見合わせになった。

 活字メディアはどう報じているか。切り抜きをしたくなるような記事があるといいのだが……。

2022年1月16日日曜日

短編選『小鳥たち』

                                
 きょう(1月16日)未明に突然、防災ラジオが鳴った。津波注意報が出た、海岸付近からすぐ避難を――。トンガ諸島の海底火山が噴火し、その影響で津波が日本にも到達した。小名浜港では70センチの津波を観測したという。11年前のあのときを思い出して心がざわついた。ということを前置きにして本題へ――。

 サイズはほぼ新書大。表紙には森の中で少年が何かを拾っているような絵。総合図書館の新着図書コーナーに、アナ・マリア・マトゥーテ/宇野和美訳『小鳥たち――マトゥーテ短編選』(東宣出版、2021年)=写真=があった。もしかしたらキノコが出てくるかもしれない。とっさにそんな期待がわいて借りた。

 21の短編が収められている。1編1編はたしかに短い。が、作品によっては最後にどんでん返しが待っている。

 作者のマトゥーテ(1925~2014年)は、20世紀スペインを代表する作家のひとりだそうだ。

「そこで描かれている現実は、おそらく苛酷で悲しく、死が身近にあり、時に目をそむけたくなるくらい痛ましい。だが、マトゥーテは同情や感傷や甘さをさしはさまず、判断をくだすこともなく、淡々とそれを描く」(訳者あとがき)

たとえば、最初の作品「幸福」。村に医師が着任する。宿屋はない。役場の職員に案内されて、気がふれているとうわさされている女性の家で最初の夜を過ごす。

医師は女性の息子の部屋に案内される。息子の話になる。息子はおじのところで靴屋見習いをしているという。「クリスマスに帰ってきたら、会ってくださいね」

翌朝、医師を迎えに来た職員が、下宿先を確保したことを伝える。と、医師はすっかりこの家が気に入ったらしく、「わたしはどこにも行きませんよ」。

役場の職員は理由を聞いて、切なげに告げる。「息子さんはいないのですよ」。病気で「もう四年も前に死んだのです」。

本のタイトルにもなった「小鳥たち」は、主人公の女の子と森番の息子の夢のような物語だが、息子もまたこの世にはいない。「木の上から落ちて頭が割れちまったのさ」

この短編選はどうやら児童文学の範疇に入るらしい。図書館の分類では、「一般・その他の国の文学」になっているが、本には「はじめて出逢う世界のおはなし」と銘打ってある。そのシリーズの1冊だ。

キノコは残念ながら、ざっと読んだかぎりではどこにも出てこない。ま、そんなものだろう――自分を慰めていたら、フェイスブックの「きのこ部」というグループに、キノコが登場するテレビアニメ「錆喰いビスコ」が紹介されていた。1月10日、読売テレビやBS11などで放送が始まったばかりだという。

どんなふうにキノコが使われているのだろう。ここは原作に当たるのが一番だ。総合図書館に瘤久保慎司『錆喰いビスコ』(KADOKAWA)が7巻まである。1巻は「貸出中」なので、とりあえず2、3巻を借りてきた。

こちらは「ティーンズ文庫」。つまり、中・高生向けのライトノベルだ。表紙のイラストからしてアニメっぽい。

ときどき科学ではなく、文学の森で「キノコ狩り」をしたくなる。『小鳥たち』では出合わなかったが、ネットの森で『錆喰いビスコ』に遭遇した。キノコが介在しなければ、目に触れることもなかった本だ。これからじっくり読む。

2022年1月15日土曜日

虚空蔵菩薩の初縁日

        
 朝7時に花火が2発。9時にも2発上がった。まだ正月前半の13日。考えられるのはわが区から二つ先の区(平・塩)にある福一満虚空蔵菩薩の初縁日だ。

 10時過ぎに用があって街へ出かけた。旧道から国道399号(旧国道6号)に出ると、ほどなく虚空蔵尊のそばを通る(同じ境内に熊野神社がある)。

 後続車がないのを確かめて減速する。やはり、そうだった。境内の奥には紅白の幔幕。国道側では大きな穴から火と煙が立ち昇り、参拝者が風上に立って暖をとっていた=写真(助手席からカミサンが撮影)。

 国道に面して幟が立っていた。立て看板には「丑寅(うしとら)生れの守護本尊/福一満虚空蔵菩薩/正月十三日初縁日」などと書かれている。火を見守っているマスクの男性は知り合いだった。

 神谷地区(旧神谷村)は8行政区からなる。塩もその一つ。区長協議会の場でいろいろ情報を交換する。それで虚空蔵菩薩と地域のかかわりが、なんとなく頭に入っていた。

 帰りは正午近くになった。いつもなら神社の南方、夏井川の堤防を利用するのだが、初縁日の様子を脳裏に焼きつけるためにまた国道を通った。

 中神谷に住んで40年余になる。区が違うので、塩地区の正月のイベントは見たことがない。この日、この瞬間は、川にいるハクチョウよりも人間の営みが大事――そう思って眼福にあずかった。

 午後は昼寝をし、午後2時半からはBS日テレの「オスマン帝国外伝――愛と欲望のハレム」を見る。前はカミサンがそばで見ていても興味がわかなかったが、だんだん権力と人間の愛憎劇に引き込まれていった。

今ではNHKの大河ドラマを超える大河ドラマと勝手に解釈している。というわけで、この時間には何も手につかない。

終わって、また外出した。旧年中からの約束だった白菜漬けを後輩のところへ届ける。この冬は最初の白菜漬けが塩分過剰で失敗した。2回目は食塩を減らしたのでまあまあだったが、人に上げるほどの出来ではない。

3回目、塩の振り方を株元へ、ではなく、株元から葉先へと変えてみた。それがよかったのかどうか、やっと進呈してもいいかなというものができた。

後輩は滑津川下流域に住む。家の前の畑で片付け作業をしていた。塩の虚空蔵菩薩の話をすると、やはり地元の虚空蔵尊で集まりがあったらしく、日中はそちらへ手伝いに行っていたという。ネットで確かめたら、田んぼが広がる先の森にお堂があった。

畑にある白菜と大根をもらったあと、同じ道を戻る。晴れていれば、二ツ箭山~三森山の稜線が見えるのだが、中腹まで雪雲がかかっていた。雪が吹っかけているのがわかった。

この3日間、浜通りには珍しい風雪注意報が出されていた。「小正月」のきょう15日は静かな朝を迎えた。

1月中旬の日曜日には毎年、ある寺の境内で「初観音」に併せてフリーマーケットが開かれる。コロナ禍が起きるまではカミサンも参加していた。

コロナの第6波がいわきにも及び、またまたそれぞれに行事の中止や延期を判断しないといけない時期に入った。

2022年1月14日金曜日

飼い主が見つかる

                     
   今度の朝ドラ「カムカムエヴリバディ」は時代とともに主役が代わるらしい。広報資料などを読むと、祖母・母・娘の3世代100年のファミリーストーリーだそうだ。

戦争をくぐり抜けた安子(上白石萌音=祖母)の時代が終わって、今は高度経済成長期の昭和30年代、るい(深津絵里=母)が物語の中心だ。そのあとは、ひなた(川栄李奈=娘)の時代に移る。

るいは岡山から大阪へ出てきて、ひょんなことからクリーニング店に住み込みで働くことになった。

近所に映画館がある。館主が店に時代劇のポスターを持って来て張る。トランぺッターに、追っかけの女性が「ハワイの若大将」の映画チケットを見せて一緒に見ようと誘う。

昭和30年代の阿武隈の山里――。町に2軒の映画館があった。家(床屋)に映画ポスターが張ってあった。無料券も届いた。それを使って、中学生になりたてのころ、よく映画を見た。

加山雄三の大ヒット曲「君といつまでも」は高専2年のとき、平の映画館で「エレキの若大将」を見て覚えた。わが青春前期と朝ドラのるいの時代が重なる。

前置きが長くなった。まだ阿武隈の山里にいたころ、路線商店は地域の暮らしと密接につながっていた。クリーニング店はもちろん、米屋、八百屋、魚屋、お菓子屋、豆腐屋……。職住が同じだから、町内会の行事も、祭りも、消防団活動も一緒だった。

頼まれれば店頭にチラシやポスターを張る――という習慣は、街であれ山里であれ、今も変わらない。

わが家(米屋)の店頭にも市立美術館や文学館のポスターが張ってある。年末には近所の知人が「飼い主さん募集中」のチラシを持ってきた=写真。

それから半月ほどたった正月の連休明けに知人が来て、カミサンに報告した。仙台の人が引き取ってくれることになった、という。

ガラス戸から外したチラシを初めて読んだ。今は、若い人はパソコンを使って簡単にチラシをつくる。見出しと写真の大きさ、文字情報をどう配置するか、といったレイアウトにもたけている。

カラー写真で猫の姿がわかる。さらに、猫そのものの情報として、年齢(推定6カ月)・性別(女の子)・特徴(白地に黒混ざり、長い黒尻尾)・性格(人懐こくてそばに来てスリスリする)を簡潔に紹介している。

ほかに、健診状況として①避妊手術・ワクチン接種・虫下し・血液検査などを済ませている②保護猫である③複数の猫を飼っているので飼い主を募集する――といったことが盛り込まれていた。

前にもなにかのチラシが持ち込まれた記憶がある。飼い犬がいなくなった、だったかどうか。

古い人間にはリアル(対面)が一番という信仰のようなものがあるが、もうそんな時代ではない。

若い人はオンラインとリアルを上手に組み合わせて情報を受・発信する。新しい飼い主は仙台の人と聞いて、昔と今のメディア環境の違いを思わないではいられなかった。リアルな「口コミ」ならせいぜい数キロの世界だったのに、と。

2022年1月13日木曜日

わらつと納豆と赤福

                            
 親しくしている後輩がお土産を持って来た。暮れにマイカーで大阪の自宅へ帰った。フェイスブックにアップした写真と動画を見ると、地上300メートルの「ハルカス300」に昇り、奈良の法隆寺を訪ねている。奈良公園ではシカと戯れた。

 半世紀前の修学旅行は東大寺あたりで終わった。いわばその続きで、前に行けなかった法隆寺の方まで足を延ばしたのだという。

実家はいわき市の沿岸域から少し入った農村部にある。今はそこでひとり“帰農”中だ。おかげで、畑の実りがたびたび届く。

 お土産は水戸の「天狗納豆」と伊勢の「赤福」。納豆は家族へのお土産、赤福は関西からのお土産、ということだろう。

 納豆の話になった。関西の人はあまり好まないのでは? 後輩の家族はいわきにいたこともある。納豆に慣れている。むしろ、懐かしい味らしい。

 ただの納豆ではない。わらつと納豆だ。夜、さっそくカミサンがわらつとを開いて小鉢に入れた=写真上1。小粒で歯ごたえがあった。

 カミサンの実家では昔、わらつと納豆を作っていた。もちろん、自家用だ。阿武隈の山里でも、普通に作られていた。

 週末、土いじりをしていて実感することなのだが、稲作社会では米を収穫したあとにわらが残る。これが、むしろやわら布団、わらつと、畑の敷き草と、さまざまに利用された。もみ殻もそうだ。最後はそのまま土にかえる。貴重な生活・農業資材だった。

 昭和30年代の中ごろ、私は小学6年生で、朝、小遣い稼ぎに新聞配達をしていた。そのとき、わらつと納豆を売り歩く子どもとすれ違った。年長者だったか知り合いだったか、今となってははっきりしない。カミサンの記憶でも子どもが朝、売りに来た。

 今なら「児童労働」うんぬんの話になるところだが、どの家も貧しかった。薄暗い冬の朝に自分の小遣い、あるいは家計を助けるために働く子どもがいた。

 天狗納豆の包装紙に「由来」が書いてある。面白いのは鉄道との結びつきだ。明治22(1889)年、小山―水戸間の「水戸線」が開業すると、「天狗納豆」の商標で発売を開始した。

家計を助けるために、少年たちが駅前で納豆を売り始める。すると、水戸のお土産として旅行客の評判になった。このへんが子どもと納豆売りが結びついた始まりか。

 一方の伊勢の赤福は、およそ四半世紀以上前、上の子の大学サークル仲間の一人が伊勢出身だったこともあって、夏休みになるとお土産にもらって食べた。

 夏井川渓谷の隠居を合宿所にして、毎年、仲間がいわきで海水浴を楽しんだ。社会人になっても合宿は続いた。

 赤福は賞味期限が短い。カミサンが、上の子が来たので分け、近所の知人に分けたら2個だけになった=写真上2。

ちょうど晩酌の時間だった。「それしかないから、1個は残してね」と言われれば、むろんそうしたのだが……。あとでガンガン責められた。

2022年1月12日水曜日

小川・三島のハクチョウ

                      
 小川・三島のハクチョウたちを見るのは、暮れの12月30日以来、10日ぶりだった。平市街の下流、塩(新川合流部)からサケの簗場(やなば)の先にかけては、何カ所かに分散して休んでいる。街へ行くたびにウオッチングする。人の姿はまずない。三島ではたいがい、だれかが右岸に立ってえさをやったり、写真を撮ったりしている。

 9日の日曜日は午前10時ごろ、夏井川と国道399号が隣り合う三島を通過した。朝の食事を終え、近くの田んぼへ飛んでいく個体が相次ぐ時間帯だ。

 ちょうど車と並走するように飛び立った1羽がいる。助手席のカミサンがとっさにカメラを向けた。

 撮影データを拡大すると、翼の下の様子がよくわかる=写真。飛んでいるときの足のかたちがおもしろい。空気抵抗を少なくするようにそろえられている。翼の反り具合やくちばしの角度からも空気の流れが感じられる。

 と、これは夏井川渓谷の隠居へ向かっていたときの話。帰りにはまた違った感慨がわいた。

年が明けて何日かしたとき、野鳥の会のTさんから電話がかかってきた。野鳥の会に古米100キロ提供の話があった。ついては三島でえさやりをしている人に提供したい、連絡がとれないか――。

昨春、翼をけがして三島に残留したコハクチョウが1羽いる。朝、えさをやっている「白鳥おばさん」と知り合った。おばさんから電話がかかってくることもある。白鳥おばさんに電話をすると、同じくえさをやっているMさんの電話番号を教えられた。

Mさんには昔、えさやりをしているときに一度会ったことがある。といっても、名乗ったわけではない。そのまま通り過ぎるのも何なので、写真を撮らせてもらった。

Tさんに、白鳥おばさんとのやりとりを踏まえてMさんの電話番号を伝える。と、隠居へ行った次の日、Tさんから電話がかかってきた。Mさんと連絡がついた、喜んでいた、いつ届けるか、というところまできた、という。よかった、よかった。

Tさんは同じ電話で、「私は白鳥」というドキュメンタリー映画があることを教えてくれた。いわきの「馬目さん(故人)と同じだ」という。翼をけがして飛べなくなった1羽のハクチョウに寄り添っている1人の人間を、地元富山のテレビ局が追った。自分をハクチョウと思っている。白鳥讃誉厚温善清居士――馬目さんも最後はハクチョウになった。

平成12(2000)年「左助」が、翌年「左吉」が翼をけがして夏井川に残留する。同15年の大水で平窪から約8キロ流され、そのままそこに定着した。この2羽が呼び水になって、平・塩~中神谷にも越冬地が形成された。

中神谷の対岸・山崎に住む馬目さんは同24年に亡くなるまで、左助・左吉と飛来したハクチョウに毎朝、えさをやり続けた。

私は会社を辞めると早朝、堤防の散歩を始めた。それで、馬目さんとも知り合い、会うと必ず話をするようになった

Tさんは野鳥の会いわき支部報「かもめ」に、「左助・左吉と過した2200日~馬目夫妻の白鳥物語」を書いた。白鳥物語がまた、時と場所を変えて続いている。