2019年7月31日水曜日

続・味噌かんぷら

先日、「味噌かんぷら」の話を書いたら、歴史を研究しているいわき地域学會の先輩からメールで情報が寄せられた。「山梨県にも『せいだのたまじ』というじゃがいもの味噌煮があります。中井清太夫に関わる一品です」
 先輩は小名浜に住む。小名浜は江戸時代、幕領だった。代官が治めた。中井清太夫はその一人。天明8(1788)年から寛政3(1791)年までの3年間、小名浜代官を務めた。

 小名浜へ来る前は、甲斐国(山梨県)の上飯田や甲府、石和・谷村の代官職にあった。天明の大飢饉対策として、幕府の許可を得て九州からジャガイモを取り寄せ、村人に栽培させたという。のちに山梨ではジャガイモを「セイダユウイモ」(あるいは「セイダイモ」)と呼ぶようになる。小名浜でもジャガイモの栽培を奨励した。清太夫はその後、関東代官を経て飛騨に赴任する。

岐阜県高山市で年2回発行されていた総合文芸誌に「文苑ひだ」がある。第13号(2017年7月)に、高山出身でいわき在住の峠順治さんが調査レポート「ジャガイモ考――いわきの方言にも『センダイイモ』があったよ」を掲載した。

 高山周辺の年配者は今もジャガイモを「センダイイモ」と呼んでいるそうだ。江戸時代の代官(幸田善太夫説と中井清太夫説がある)が導入したとされる。峠さんの友人が生前、同誌に「センダイイモ」という方言は中井清太夫に由来するものだと書いた。それを受けて峠さんが探究を続けた。
 
 いわきの資料では、清太夫由来の「セエダエモ」だけで、「センダイイモ」は見当たらなかった。ところが、『日本植物方言集成』(八坂書店)に、「センダイイモ」に近い「センダイモ」がいわきの方言としてあった。「『センダイモ』という呼称は、石城(浜通り南部)即ち幕領小名浜地区で流布していたと思われる」と峠さん。

 その高山に、ジャガイモの小芋を使った郷土料理はあるのか――。あった。「ころいもの煮付け」という。

 プロ・アマ問わず、ジャガイモをつくると、必ず未熟な小芋ができる。去年(2018年)は、知り合いからもらったまま置き忘れ、芽が伸びたジャガイモを、味噌かんぷら用にだけ植えて小芋をつくった=写真。

「味噌かんぷら」も「せいだのたまじ」も味噌味だが、「ころいもの煮付け」は醤油味だ。東西の食文化の違いはあっても、未熟な小芋を捨てることなく、大事に、しかもおいしく食べられるようにと、庶民は工夫した。遠く離れた三つの地域だが、清太夫を介して似たような食文化が根づいて郷土料理になった、とはいえないか。

2019年7月30日火曜日

記録的短時間大雨情報

きのう(7月29日)は朝10時から、行政区内の事業所回りをした。9月1日に行われる神谷(かべや)地区市民体育祭の協賛金をいただくのが目的だ。
1週間前、趣意書を持って回ったときには、小雨が降っていた。きのうは雲が多かったものの、太陽が照りつけ、事務所を出るたびにタオルで汗をぬぐった。

おとといから、むくむくと入道雲がわくようになった=写真。「1週間前は雨傘だったけど、きょうは男でも日傘をさしたいくらいだね。入道雲は、子どものときにはワクワクしたけど、こうやって歩くときにはげんなりする」。相方の副区長兼会計さんもうなずく。

ざっと1時間、11時には事務所回りが終わった。家に帰って汗みどろの体を風呂に沈める。それから、茶の間でノートパソコンを開け、届いている情報をチェックする。

いわき市の防災メールに仰天した。昼以降のニュースでもやっていた。気象庁が「福島県記録的短時間大雨情報」を発表した。「いわき市南部付近では、29日午前11時までの1時間に約100ミリの猛烈な雨が降ったとみられる」という。ただごとではない。

ところが、である。ツイッターやフェイスブックには、南部の“大雨現場”からの情報が全くアップされない。そのうち、とまどうような情報も載った。

 夕方、いわきの南部に住む知人にフェイスブックを介して連絡した。1人は「たぶん田人の奥の方では。少なくとも勿来では降ってないです」。もう1人は「田人でも荷路夫ではある程度降ったようですが、大した雨ではなかったと。民家が全くない山間で降ったのでしょうか」。ピンポイント的に豪雨になったのかどうか、地元の人間でさえ「ん?」となるような「1時間に100ミリ」情報だった。

 ニュース(気象庁発表)と現実の、この乖離――。注意を喚起するという点では意味があるのだろうが、生活者の実感からすると、かえって戸惑いを助長するだけではなかったか。

 大学生と高校生の“孫”の父親が、「いわきが『警戒レベル4相当:いますぐ避難』の速報があったとかで、「こんなにポコポコ出してたら狼少年になっちゃいそう」とフェイスブックでつぶやいていたが、今回は特に現実との落差が「ん?」すぎた。精度を上げるためにも、気象庁はいわきの記録的短期間大雨情報を検証してみてはいかが。

2019年7月29日月曜日

「晴れのちドライブ」

台風崩れの熱帯低気圧が東の海上へ去ったきのう(7月28日)朝。予報より早く雨が上がったので、午後の予定を繰り上げて、8時半には夏井川渓谷の隠居へ出かけた。
水曜日(7月24日)にキュウリを摘んでから4日たつ。数は少ないだろうと思っていたら、2株に、25センチから10センチほどの未熟果まで、10本が生(な)っていた。未熟果はあと3日おくと20センチ以上に肥大する。未熟果でも残しておくわけにはいかない。花もいっぱい咲いている。また3日後には取りに行かないと――。

三春ネギの土寄せをした。今年(2019年)は苗の生長が早かったので、例年より半月ほど早い4月下旬に定植した。そのときには約300本あったのが、梅雨に入ると日照不足と湿気がたたって、半分以上がとろけた。きのう数えたら100本もない。

でも、予報には太陽のマークが並んでいる。きのうも土いじりを始めると、太陽が顔を出した。日照不足と多湿にも一区切りつきそうだ。東北南部の梅雨も間もなく明けるのではないか。

2時間ほど土いじりをすると、やることがなくなった。カミサンが昼食のために「山の方へ行こう」という。年に何回か発作的に「山里巡り」をするが、今回は街にも用事がある。隠居の対岸の山陰、川前から天空の差塩(さいそ)を越えて上永井に下り、農家そば屋=写真上=で野菜てんぷらそばを食べた。

それから街へ戻り、カミサンが買い物をすませると、またやることがない。暑い家に帰るよりは涼しいところへ――。

薄磯海水浴場=写真下=に寄ったあと、震災後に新しくできた高台団地のふもとに、これまた震災後、防波堤のそばから移転新築した喫茶店「サーフィン」で一休みする。ママさんがカミサンの顔を見るなり、「けさ、あんたが来るんではないかと思った」という。ママさんはパッチワークをやる。その縁でカミサンとは震災前からの知り合いだ。ママさん手づくりの小物入れをもらったようだ。
日曜日、久しぶりの太陽に誘われて、山へ行き、街へ戻り、海辺に立った。なにかへのうっぷん晴らしのような、「晴れのちドライブ」。さすがに、いわきは広い。

2019年7月28日日曜日

捕虜収容所通訳兵の小説

吉野せいの作品集『洟をたらした神』に収められた作品の注釈づくりをしている。「麦と松のツリーと」に、好間の炭鉱で働かされた連合軍の捕虜たちが登場する。
その注釈に欠かせない資料がある。古河好間炭鉱の捕虜収容所の実態について調べたPOW(プリズナー・オブ・ウォー=戦争捕虜)研究会・笹本妙子さんのレポートだ。「麦と松のツリーと」も引用し、さらに通訳N氏の娘さんから提供された当時の写真も掲載して詳細を極める。

いわきの捕虜収容所は湯本にもあった。こちらの捕虜は常磐炭砿で働かされた。この捕虜収容所についても笹本さんが詳細なレポートをまとめている。

最近、思い立って図書館の蔵書を検索し、2冊の本を借りた=写真。1冊はデリク・クラークという人が書いた『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人――知られざる日本軍捕虜収容所の真実』(ハート出版)。もう1冊は同人詩誌「第二次 ERA」第5号。生前未発表だった福島県生まれの詩人菊地貞三(1925~2009年)の小説「ひとりのときに」を掲載している。

注釈づくりは、横道にそれたり脱線したりする面白さがある。それで、注釈そのものが広く深くなる。今回は特に「発見」する歓びを味わった。

『英国人捕虜――』は東京の収容所の話だが、クリスマスの行事が「麦と松のツリーと」を補完してくれる。小説「ひとりのときに」は、終戦間際の昭和20年4月、菊地が大学出の幹部候補生=通訳兵として赴任した湯本の捕虜収容所での体験を描いた。

タイトルが「ひとりのときに」とは少し感傷的ではないか、と思いながら読み進めたが、ラストシーンでその意味が分かった。

まずはこの文章から――。「この三月、東京は米軍のB29の大編隊の爆撃を受けて、下町など相当の被害を受けたという。/それどころではない。つい先ごろ、この近くのT市さえ空襲された」

 T市、すなわち平市(いわき市平)。平空襲のことだ。3月の東京大空襲と同じ日、B29が1機、鹿島灘方面から平市街に現れ、100発の焼夷弾を投下した。平・西部地区の紺屋町・古鍛冶町・研町・長橋町・材木町などで294軒が炎に包まれ、16人が死亡、8人が負傷した。

平ではこのあと、敗戦間近の7月26日朝、つまりおととい、B29爆撃機1機が投下した1発の爆弾で平第一国民学校(現平一小)の校舎が倒壊し、校長・教師の3人が死亡、60人が負傷した。さらに7月28日深夜、つまりきょう、北から侵入して来たB29爆撃機3機が大量の焼夷弾を投下し、平駅前から南の田町・三町目・南町・堂根町など約6ヘクタールを焼き尽くした。

「ひとりのときに」にB29が現れたときの様子が描かれる――。収容所にはカナダ、イギリス、オランダ兵など600人近くが収容されていた。B29が上空を通過すると、捕虜たちは建物から表に出て「空を仰ぎ、思い思いに叫び、手を振る」「俘虜収容所に空襲の脅威はない。収容所の所在位置は敵機も知っているし、俘虜もそれを心得ている」。

収容所には塀が設けられたが、それは捕虜の逃亡を防ぐためではなく、周辺住民の投石などから捕虜を守るためだった、という古参兵の打ち明け話も――。

外国人捕虜、監視する側の日本兵、通訳兵、捕虜収容所周辺の住民と、多様な視点から戦争と捕虜収容所の実態に迫る。

 捕虜たち自身が主催する音楽会が夜、食堂で開かれる――。ラストの曲は「ソリチュード」(孤独)。アメリカで大ヒットした歌で、戦場では「オランダ兵でもみんな歌って」いた。歌が始まると、大合唱になり、食堂から広い庭へと捕虜たちが歌いながら出ていく。「俘虜たちは、あちらに二、三十人、こちらに十五、六人というふうにかたまり、あるいは立ち、あるいはしゃがみ、松の幹によりかかり、思い思いの姿勢で歌い続けた」

♪イン マイ ソリチュード(ひとりのときに)……。小説のタイトルはその歌のことばだった。映画を見ているようなラストシーンだ。

ネットで歌を検索して聴いた。菅原洋一の「知りたくないの」が思い浮かんだ。デューク・エリントンが1934年に作曲したジャズスタンダードだとか。今度はこっちの方へ寄り道してみるか。

2019年7月27日土曜日

「むすめきたか」が来た

 室温が32度を超えたきのう(7月26日)の夕方、日が差しているのに雨がぱらついた。庭に出ると、東の空に大きな虹がかかっていた。北側では二重になっていた=写真下。そのあと、消防署から「日曜日の自主防災組織リーダー研修会は台風のために中止します」という連絡が入った。けさは小雨が上がって、全天が鉛色。台風の影響はあるのかないのか。
 さて、これも私のなかでは虹のような出来事だった。おととい、マルト草野店が改装オープンしたので、買い物に行った。店内の配置はそう変わっていないが、出入り口が1カ所になった。

レジ待ちの列に並ぶと、そばの棚に見覚えのある小瓶があった。いわき昔野菜の小豆「むすめきたか」を使った水羊羹(ようかん)だ=写真右。「むすめきたか」がやっと草野に来たか――。うれしくなって一つ買った。税抜き350円と、やや割高感はある。が、いわきの新しい土産品に、という希望が膨らむ。

水羊羹は、いわき遠野らぱん(遠野町)が製造・販売している。今年(2019年)2月10日、いわき昔野菜保存会が中央台公民館で昔野菜フェスティバルを開いたとき、社長の平子(たいらこ)佳廣さんが新商品として売り出す段取りになっていることを明かした。現物も試供した。さっぱりした味だった。それから半年近く、やっと身近なスーパーで買えるようになった。

「むすめきたか」は小粒で早く煮える。嫁に行った娘が里帰りしたとき、すぐに煮て食べさせることができるので、いつかそう呼ばれるようになった。フェスティバルでもらった「むすめきたか」を、女性客が来たとき、その場で煮て食べさせたことがある。量にもよるが、30分でやわらかくなった。

 遠野らぱんの広報担当者でもなんでもない。が、保存会の一員としては、商品化された「むすめきたか」の水羊羹を食べて応援したくなる。東京方面へ出かけるときにはいい土産物になる。それ以上に、この商品が売れて、生産者が増えれば、小さいながらも経済的な好循環が生まれる。

現に、「むすめきたか」とルーツを同じくするだろう常陸太田の「むすめきた」は、地元の「種継人(たねつぎびと)の会」の努力もあって、栽培農家と地元の和菓子屋・パン屋・ケーキ屋・カフェなどが契約を結び、新しい商品開発などを進めている。

行政に頼っていては、いつまでも自立できない。補助金の切れ目が事業の切れ目になってしまう。自律的な仕組みが根づけば、いつでも虹の橋は架けられる。「むすめきたか」の水羊羹、ぜひ根づいてほしいものだ。

2019年7月26日金曜日

「味噌かんぷら」を今年も

ジャガイモを「かんぷら」といった。「味噌かんぷら」はだから、ごくありふれた日本の家庭料理だと思っていた。が、主に福島県限定の郷土料理らしい。
 カミサンの知り合いが新ジャガを持って来た。中に味噌かんぷらにするとうまそうな小芋があった。カミサンが早速、味噌かんぷらにした=写真。

調理時間を短縮するため、小芋は皮のままレンジで2回「チン」した。あとはサラダ油でさっと小芋を炒(いた)め、味噌と砂糖、醤油を加えて味を調えるだけ。醤油の代わりにみりんを、というケースもある。ありあわせのものでいいのだ。

 去年(2018年)は、味噌かんぷら用にだけジャガイモを“栽培”した。おととし、知り合いからもらったまま、置き忘れていたジャガイモがあった。春先には芽が伸びていた。捨てるのはもったいない。夏井川渓谷の隠居の菜園に植えた。2カ月半がたって地上部の葉が枯れたので、小芋を掘り取り、味噌かんぷらにした。

今から二十数年前の平成7(1995)年3月、『いわき市伝統郷土食調査報告書』が刊行された。市観光物産課(当時)がいわき地域学會に調査・編集を委託した。写真付きのレシピ集だが、ページ下段に掲載されている「ひとくちメモ」がおもしろい。筆者は歴史や民俗に詳しかった故佐藤孝徳さん。伝統郷土食の調査委員長でもあった。さながら、「いわきの食の文化誌」を読んでいるような趣がある。

春の「葉玉葱(ねぎ)の油炒め」に合わせた「ひとくちメモ」では、野菜の油炒めを取り上げた。醤油ではなく、味噌で味付けするものが大部分として、「代表的なものに、ジャガイモの油炒めが一年中作られた」と記す。

 その作り方として、①小さなジャガイモを、皮をむかずによく水洗いする。大きなものは二つ割りにする②鍋に食用油を多めに入れ、ジャガイモをよく炒める③そこへ砂糖・味噌を入れ、多めに水を差してよく煮る④汁気がなくなるまで煮込む――。多少の違いはあるが、味噌かんぷらである。
 
味噌かんぷらは福島県民、特にシルバー世代にとっては忘れられない、子どものころのおやつだ。同時に、大人にとっては新ジャガとともに出てくる梅雨時の酒のつまみでもある。去年も、今年も酒のつまみを楽しんだ。

味噌かんぷらは、しかし、今も食べている家は限られるのではないか。昭和62(1987)年に刊行された農文協の『聞き書 福島の食事』には、味噌かんぷらは出てこない。「大豆の油味噌」止まりだ。当たり前すぎて取材からこぼれ落ちたか。あるいは、すでに食べられなくなっていたか。

味噌かんぷらというより、「味噌ジャガ」と言い換えた方が、若い世代には親しまれるかもしれない。味噌の風味に包まれたジャガイモの油炒めは、ほくほくしてうまい。

2019年7月25日木曜日

ネギが心配

 きのう(7月24日)、久しぶりに青空が戻った。けさも晴れている。7月に入って、起きたときに晴れていたのは5、11日の2日だけ。それ以来の青空だ。5時半前、東の空が赤く染まってきた(6時過ぎには、しかし、すっかり雲に覆われた)。
 きのうは午後1時過ぎ、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。庭の一角で自家消費用に栽培している2本のキュウリの花が咲き、実が生(な)りはじめた。3~4日に一度、実を取りに行かないと肥大する。先週はそれを怠った。日曜日(7月21日)に行くと、キュウリがヘチマのようになっていた。

それに懲りて、きのう、隠居へ車を走らせた。平地では日が差して暑くなった=写真上=が、渓谷に入るとまだ路面がぬれている。V字谷の帯状の空は、相変わらず鉛色の雲に覆われたまま。キュウリは、万年筆くらいのが2本と、径5センチくらいに丸まったのが1本生っていた。

キュウリより心配なのが三春ネギだ。今年の梅雨はしとしと長く降り続くタイプ。そうなると、砂漠生まれのネギは病気になりやすい。おととい、こう書いた。「太い苗は持ちこたえているが、貧弱な苗はこの梅雨で根が酸欠状態になったのか、半分ほど消えてスカスカになった」。3日たったら、これがさらに悪化していた。しおれて、とろけかかっている葉が増えた=写真下。
 おとといの晩、阿武隈高地の実家の兄とケータイで話した。最近、スマホに替えたという。娘の夫の力を借りて、なんとかかんとか私のブログを読めるようになった。その感想を兼ねた情報提供だった。

三春ネギのふるさと、阿武隈高地の山里でも、ネギに「さび病」や「べと病」が出始めているそうだ。わが隠居のネギは、もはや“凶作”覚悟。「食べる」より「種を残す」――に切り替える必要がありそうだ。

阿武隈の山里では、土中の多湿による酸欠を防ぐため、8月の暑い盛りに一度、ネギを掘り起こして斜めに植えなおす「やとい」という作業をする。8月を待たずに掘り起こし、浅く寝かせて「曲がりネギ」にするしかないか。

2019年7月24日水曜日

緑の文化財

 いわき地域学會の第348回市民講座が土曜日(7月20日)午後2時から、いわき市文化センターで開かれた。樹木医で同會幹事の木田都城子さんが「人と地域と文化財」と題して話した=写真下。
 主に、天然記念物について解説した。動物、植物、地質鉱物など、それぞれに指定基準がある。最近、拙ブログで「川前のカツラ」について書いたので、緑の文化財=植物の指定基準に興味を持った。

第一に、「名木、巨樹、老樹、畸形木、栽培植物の原木、並木、社叢(しゃそう)」。次に、「代表的原始林、稀有の森林植物相」。ほかに10項目の基準項目が並ぶ。川前のカツラはこの「巨樹」に該当する。が、いまだに無指定なのはなぜか。

 国の天然記念物に指定されているいわき市の植物は、「中釜戸のシダレモミジ」(渡辺町=昭和12年)と、「沢尻の大ヒノキ(サワラ)」(川前町、昭和49年)だ。

沢尻のサワラは、樹高が約34メートル、目通り幹回りが9.5メートル。日本最大のサワラで、それ自体森のような巨樹である。樹下に立つと、たちまち巨樹の存在感、生命力、霊性に包まれ、心が浄化される。推定樹齢800年。前にも書いたが、なにか思い屈するものがあるとき、会いに行くと木霊(こだま)に慰撫される。元気がよみがえる。

川前のカツラは、このサワラよりはスケールが小さいが、巨樹としての風格は十分備えている。国指定天然記念物の「赤津のカツラ」(郡山市湖南町)と比較しても遜色がない。

質疑応答の時間に入ると、受講者への紹介も兼ねて質問した。「川前のカツラは、JR川前駅に通じる橋の上流約40メートルの夏井川右岸にある。無印(無指定)なのが不思議だが……」

木田さんは、直接、川前のカツラに言及したわけではない。が、やりとりのなかで、川岸にあることが指定を難しくしているのかもしれない、という思いがわいた。

 川は暴れる。濁流が堤防を越えたり、壊したりすることもある。すぐ応急工事に入らないといけない。指定にも解除にも時間がかかる天然記念物は、堤外(河川敷・河畔林・川など)にはない方がいい、ということだろうか。しかし、法の趣旨は川岸だろうと川の中だろうと尊重されるべきだから、これは私の早とちりかもしれないが。
川前のカツラの鮮明な写真が11年前の拙ブログに載っていた。それを再掲=写真上=して、考える材料の一つにしたい

2019年7月23日火曜日

キュウリが生る、ヤマユリが咲く

 おととい(7月21日)の日曜日は、朝、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。昼には北茨城市へ向かう。街と谷の間を、追われるように往復した。
  前回、隠居へ出かけたのは13日の土曜日。キュウリを摘んだ。花が何個か咲いていた。その花が8日たって実を結んだのはいいが……。生(な)りたてを除いて、30センチ前後に肥大していた=写真上。

花が咲いて実が5センチほどに生長したものは、3~4日後には20センチ近くになる。それからさらに収穫が遅れると、ヘチマのように肥大する。梅雨寒をいいことに、「週2回は摘む」という経験則を忘れていた。

肥大キュウリにはびっくりした。が、道端のヤマユリ=写真下=には心が躍った。渓谷を縫う県道小野四倉線は、ヤマユリを残してあらかた草刈りが終わっていた。
阿武隈高地で生まれ育った私の記憶では、ヤマユリは「水浴(あ)び」「セミ捕り」「入道雲」「梅雨明け」と結びついている。

標高500メートルほどの阿武隈の山里では、ヤマユリが咲くころ、夏休みが始まる。プールがなかったので、子どもたちは毎日、川へ水浴びに出かけた。里山でセミを追った。青空には入道雲、道端にはヤマユリの花――。

標高200メートルほどの渓谷では、ヤマユリは夏休み前に開花する。とはいえ、この梅雨寒だ、雨にぬれて心なしか花が冴えない。

それより心配なのが三春ネギの苗。太い苗は持ちこたえているが、貧弱な苗はこの梅雨で根が酸欠状態になったのか、半分ほど消えてスカスカになった。早く日光が欲しい。

さて、肥大したキュウリをどうしたものか。キュウリは肥大すると皮も厚くなる。昨晩、まず1本を、カミサンが皮をむいてもみ漬けにした。アクセントに少し緑を残したが、これが硬い。ここまで肥大したら、「きゅうりもみ」には皮は要らない。

 きゅうりもみをつつきながら晩酌をしていると、セミの記憶がよみがえった。まず、ニイニイゼミが鳴く。ついで、アブラゼミとミンミンゼミ。渓谷では、これにヒグラシが加わる。わが家の庭ではしかし、もう7月下旬だというのに、ウンともスンともいわない。

2019年7月22日月曜日

入江明日香展を見に北茨城へ

入江明日香(1980年~)という美術家を、先週金曜日(7月19日)まで知らなかった。いわき市の隣、北茨城市の茨城県天心記念五浦(いずら)美術館で土曜日、企画展「入江明日香―心より 心に伝ふる 花なれば」が始まった=チラシ写真(右側は館内限定)。その情報が同美術館のフェイスブックにアップされた。
するとこれは全く偶然だが、カミサンが「日曜日に五浦美術館へ行こう」という。いわき駅前のラトブで企画展のチラシを手に入れた。それに刺激されたらしい。

チラシには大正~昭和時代に活躍した高畠華宵風の少女が描かれている。が、ただの乙女ではない。写真左のチラシでは、左手に革の手袋をはめ、タカらしい猛禽を止まらせている。青い目をした乙女が実は鷹匠だった――かどうかはともかく、39歳なのに一筋縄ではいかない銅版画家だということはわかる。

 初日に続いて二日目も午後1時半から、作家本人によるギャラリートークが行われるというので、それに合わせて出かけた。

「江戸淡墨大桜」にしぼって書く。図録に「岐阜県にある伝説の大桜を描いた。二度死にかけたというその大桜をいつか描こうと思っていた」とある。国の天然記念物に指定されている「根尾谷淡墨桜」をモデルにした横長の超大作(六曲一双屏風)で、「桜といえばお花見ということで、樹の下には、七福神をはじめ様々な人々の楽し気な宴会の様子を描いた」。ひしめく花の間には鳥たちも。

 ギャラリートークで作者の遊び心を知る。七福神の宝船が右隅に描かれている。船に乗っているのは、しかし4人だという。ほかの3人は絵の中に隠れている。2人はすぐわかった。もう1人は? どこにまぎれこんでいるのか、わからない。ということは、それを探す楽しみもある。

 ついでながら、人と花と鳥だけでなく、キノコもどこかにひそませたら楽しみが倍加するのだが、それはなかった(ようだ)。

ギャラリートークには、およそ100人が集まった。技法的にはしろうとだからわからないが、銅版画を基本にしながら、「江戸淡墨大桜」だと、花びらをつくって張っていく(コラージュする)。膨大な数と気の遠くなるような時間がかかる。しかも、遊び心を忘れない。フランスに留学して江戸時代の浮世絵に引かれたとかで、遊び心の源泉はそんなところにあるのかもしれない。

「若手アーティストの中でもトップランナーのひとりとして、人気急上昇中」だという。作品と作家の話に触れて、ジャンルを超えた絵のおもしろさを知った。それこそが人気の秘密なのだろう。

2019年7月21日日曜日

目玉焼きごはんとナメコ汁

 このところ毎朝、ごはんに目玉焼きがのる。7月に入って急にカミサンがやりはじめた。故永六輔さんがよく食べていた“目玉焼きごはん”だという。NHKの「サラメシ」で取り上げられたそうだ。
 永さん流の目玉焼きの作り方はこんな感じ(カミサンだから自己流も入るが)――。フライパンを斜めにして、白身を薄く長くのばす。砂糖と醤油を振る。白身の縁が焦げかけたら、火を止める。黄味はまだ半熟だ。その黄味に長くのびた白身をかぶせてごはんにのせる。

 できたてだから、舌がやけどするくらいに熱い。フーフーいいながら食べる。そのあと、箸で黄味を崩す。すると、今度は熱い“卵かけごはん”に変わる。一つの卵で二つの味を楽しめる、というわけだ。

 金曜日(7月19日)の朝は、目玉焼きごはん、ナメコと豆腐の味噌汁に、3種類のキュウリの漬物がそろった=写真。

原発震災後、野生キノコは口にできなくなった。それがきっかけかどうかはわからないが、今までの小粒とは別に、傘の開いた大ナメコがスーパーや道の駅に並ぶようになった。買い物に行けば必ずこれを2袋買う。

 大ナメコはぬめりが強い。ぬめりの正体はムチン。なんといっても、のどごしがいい。食物繊維のひとつで、胃や鼻の粘膜を丈夫にするらしい。同じ大きさのナラタケやクリタケ、アミタケなどの野生キノコの代替品として、このごろは月に10日前後、みそ汁にナメコが入る。

 キュウリは梅雨寒で生育が悪い。値段も高い。が、自前のものだけでなく、知り合いからも「生(な)ったから」と届く。同じ糠漬けでも変化がほしい。一晩漬けてすぐ食べる浅漬け。2、3日漬けておいて塩出しをする古漬け。たまたま手に入ったずんぐりむっくりの昔野菜「小白井きゅうり」は“どぶ漬け”(塩水漬け)に。漬物はすべて私が担当する。パリパリ、シャキシャキ、ほぐほぐ。食感と味の違いを楽しむ。

 この程度の朝の食卓だが、“こだわり”の取り合わせがおもしろかった。目玉焼きにこだわる。キュウリの漬物にこだわる。ナメコにこだわる。それで、食べる前に“記念写真”をと、体が反応した。

2019年7月20日土曜日

孫が書いた詩人の評伝

 きのう(7月19日)、福島民報に自社事業の「民報出版文化賞」が載った。正賞に関根宏幸著『日月(にちげつ) 詩人高橋新二とその時代』(歴史春秋出版、3240円)が選ばれた。
著者は福島市在住で、福島県職員OBの62歳。新二(1906~97年)の孫(娘の子)だそうだ。孫が評伝を書いたことを初めて知った。

 山村暮鳥を中心とした「いわきの近代詩史」は、日本の詩史のなかでも特異な位置を占める。それを戦前の画期とすれば、戦後は中通りの新二や三谷晃一、斎藤庸一らが県内詩壇をリードした。若いころに文学をかじった人間としては、新二も、三谷・斎藤も学ぶべき先輩詩人だ。

 とはいえ、記者になって事件・事故を追いかけているうちに、新二も、三谷・斎藤も頭から遠ざかった。それを思い出させてくれたのが一世代下の知人たちである。

 インターネット古書店を営む若い仲間が、東日本大震災後、いわきで掘り出した新二の詩集『鬱悒(うつゆう)の山を行く』(昭和4年)を持ってきた。昭和40代後半、草野美術ホールで知り合った元美術教師が挿絵を描いていた。詩集を「買え」とも「あげる」とも言わないのをいいことに、手元に置いてときどきパラパラやる。

 それと前後して、FMいわきのPR誌「みみたす」に、いわきの中山間地を探訪するカバーストーリーが載った。2014年4・5・6月号は、田人町・石住地区を取り上げた。鮫川渓谷にある小集落の、石住小・中学校の校歌にまつわる「物語」がおもしろかった。新二が作詞した。

探訪記事の筆者とはその前年、小名浜で開かれた地球市民フェスティバルで、同じFMの旧知の女性社員から紹介されて知った。

彼とはその後、連絡を取り合う仲になる。新二の取材の延長で、福島市に息子の重義(やはり詩人で、元小学校校長)を訪ねた折、詩集『夏の栞 秋の栞』(平成5年)をもらった。それを、「私より隆治さんが持っていた方がいいから」と託された=写真(右が新二、左が重義の詩集)。重義は去年(2018年)亡くなった。

新二―重義とつながったところへ、今度は新二の孫が評伝を書いた。3世代に及ぶ文学の血を確かめるためにも、ぜひこの本を読まねば――そんな気持ちになっている。

2019年7月19日金曜日

なんということを

第一報はネットで知った。その後は、テレビもつけて情報を集めた。京都のアニメーション制作会社のスタジオが放火され、“爆発火災”が起きた。激しく立ち昇る黒煙。死者は次第に数を増して33人に――。なんということをしてくれたんだ。
NHKの朝ドラ「なつぞら」は、アニメ制作現場でのやりとりが佳境を迎えつつある。京都の3階建てのビルの中でも、似たような作業が行われていたのだろう。命を絶たれた若い人たちの、それぞれの人生を思うと……言葉もない。怒りがこみあげる。

夕方、小名浜・冷泉寺住職酒主照之さんの通夜へ行った。放火の犠牲者にも、併せて胸中で合掌した。

高台にある寺は東日本大震災時、津波被災者の避難所になった。私ら夫婦が関係しているシャプラニール=市民による海外協力の会も、震災直後、いわきへ緊急支援に入り、その後5年間、交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。

この間、住職の娘で知人の“しんぼっち”(副住職)とカミサンが連絡を取り合い、シャプラのネットワークと真言宗の寺のネットワークを生かして、みなし仮設のアパートや戸建て住宅で孤立している津波被災者や原発避難者に生活用品の提供などを行った。それで、住職夫妻とも顔を合わせるようになった。

支援活動が一段落したあとも、住職夫妻が本や食器などを持って来た。カミサンがそれを必要とする人に提供し、あるいは換金してシャプラの活動資金に充てた。

その後、住職が体調を崩し、奥さんがひとり、車でやって来るようになった。最近では1カ月前、住職が読んだだろう本を持ってきた。中から4冊ほどを選んで手元においた=写真。支援うんぬんの前に、年金生活者としてはリデュース・リサイクル・リユースを実践するしかない。面白そうな本があれば手に取る。

そんな関係が8年も続いたからか、“しんぼっち”だけでなく、住職夫妻にも勝手に“同志”的意識を持つようになった。たぶん見ている震災の風景が同じだった。そんな思いにひたっているところへ、京都で突然、大惨事が起きた。理不尽な風が吹きやまない。

2019年7月18日木曜日

小館は大館の支城だった

 先日、いわき市好間町の大館と小館のことを書いた。どちらも同じ丘陵にある。大館は平と好間にまたがっている。戦国大名・岩城氏一族が主に住んでいたのは平・大館で、好間・大館は詰め城(いざというときにたてこもる場所)だった。小館は大館に対してそう呼ばれたのか?
図書館から『よしま ふるさとの歴史探訪』(好間地区関係団体会議、平成10年)を借りて読んだ。両者の関係が少しわかった。同書では平・好間と分けずに、単に大館として扱っている。小館はその支城だった。

「大館は城を持たない館であったが守備範囲は広く、西は小館、南は御台、東は薬王寺、物見ケ岡の点を結んだ中と推察される」。西から四つの切り通し(国道49号バイパス、国道49号・JR磐越東線など)があるが、歴史的には、小館からいわき駅裏の物見ケ岡まで一連なりの丘陵だった。

同書はまた、大館の支城は150~180館あり、主要な館を「岩城四十八館」と呼んでいたという。「特に小館は東西・南北500メートルの台地で大舘の西に位置し、大館への飲料水路の要点にあたり、岩城氏の重臣、好島氏の代々居館で武者落しの地名が伝えられている」。「大」に対する「小」かどうかはともかく、大館と小館は密接な関係にあった。

なぜ大館と小館の関係が気になったかというと、同じころ読んだキノコの本のなかで、画家の安野光雅さんが「わらいたけ」(笑い茸)と「なきたけ」(泣き茸)について書いていたからだ=写真右。

ワライタケは、オオワライタケも含めて幻覚や笑いを引き起こす毒キノコだが、ナキタケは安野さんが創案したものだろう。ワライタケがあるならナキタケがあってもおかしくない――そんな対語的発想で架空のキノコを生み出した。

そこから、大小、陰陽、凹凸……といった対語探しが始まった。「前倒し」と「後ろ倒し」。「後ろ倒し」は、春にNHKのニュースで知った。「先送り」と同義だろう。「前例」に対する「後例」もネットにあった。「後例」はまったくなじみのない言葉だが、「前例」の対語としてはあり、か。

ついでにいうと、地名の上・中・下は川の流れに対応している。上・中・下神谷と夏井川の関係でいえば、上神谷は私の住む中神谷の元上流(川の流路が変わった)、下神谷は下流に位置する。上・中・下平窪(夏井川)、そして上・中・下好間(好間川)も同じ。

ただし、上越・中越・下越は川ではなく、京都(当時の首都)からの距離の遠近によるものだとか。「上京」が京都から東京に変わったように、鉄道や国道の上・下も東京が基準になった。

 大館と小館の話に戻る。グーグルアースで両者の位置関係をみる=写真上。東端、矢印のあるところが好間・大館。北西端、青い屋根が複数見られるところが小館。その距離は高坂の元ゴルフ場をはさんで、およそ3.5キロ。もし尾根沿いに道があるとしたら、切り通しの上り下りを加えて、格好の“山歩”コースになる。

2019年7月17日水曜日

自動車の高齢者講習

 自動車学校で学んだ運転技術の基礎を守っているところもあるが、すっかり自己流になっている。それを認識して運転を――というのが狙いなのだろう。
6月下旬に「高齢者講習等通知書」が届いた。誕生日の半年前、免許更新のための通知がきて、自動車学校で実車講習を受けないといけない、とは聞いていた。

70歳を過ぎた。たまたま11月の誕生日に合わせて、5年ぶりに免許を更新しないといけなくなった。いよいよきたか。すぐ近くの自動車学校に電話した。後日、講習日を連絡するという。しびれが切れかかったころ、連絡が入って、受講日が決まった。免許証、印鑑、眼鏡、受講料5100円を用意するように、と言われる。

日曜日(7月14日)、講習を受けた。動体視力・夜間視力・水平視野の検査も行われた。実車講習には先生と受講者2人が同乗した。受講者は3人単位らしい。この日の受講者は6人、実車教習は2台に分乗して行われた。

 ざっと45年前、同じ学校で教習を受け、車の免許を取った。結婚して子どもが生まれるのと同時だった。カローラから始まってギャラン、アコード(これだけ新車)、パジェロに乗り、今はフィットを運転している。パジェロまではマニュアルだったが、今はオートマだ。

 高齢者講習ではこんなことを指摘された。①発進する際にサイドミラーしか見ていない=ちゃんと身を乗り出して後ろを見るように②「止まれ」の標識があるところで交差点に入ってから止まった=交差点の手前で止まるように――。

あとでテキスト=写真=を読んで、悪いクセを再確認する。ひとつだけ、若葉マークのころから意識していることが書いてあった。免許を取るときの座学だったと思うが、「だろう運転」ではなく「かもしれない運転」をするように――と教えられた。そのころ、新聞記者になったばかりで、原付きバイクで警察回りをしていた。交通事故を処理する警官からも、同じことを教えられたような気がする。

歩道を歩いている子どもがいる。車道にはとび出さないだろう、ではなく、とび出すかもしれない。バスが止まっている。バスの前から人は出てこないだろう、ではなく、急に出てくるかもしれない。半世紀近くたった今も、いちおうは「かもしれない運転」を心がけている

 さてさて、70歳になったばかりだから、75歳以上に義務付けられた認知機能検査はない。講習が済むと、通知書に赤く「高齢者講習済」のスタンプが押された。そうしないと、また講習を受けに来る人がいる。確かに、免許更新までは4~5カ月ある。講習を受けたことを忘れてしまう人もいる、ということだった。

役所の辞令書のような紙に印刷された「終了証明書」をもらった。免許更新時に必要だから、ちゃんとわかるところに保管しておくように、と言われる。カミサンと話して保管場所を決め、共通の記憶とした。

2019年7月16日火曜日

浜通りの日照は平年の半分

5月の半そで・半ズボンから一転して、6月の梅雨入り後は長そで・長ズボンの日が続いている。晴れても長続きしない。鉛色の雲海がとぎれることなく現れる。雨量も多い。
 テレビは、東京の日照不足が深刻なことを報じている。31年前の昭和63(1988)年以来だという。平成5(1993)年にも日照不足が続き、農作物に被害が出た。タイや中国、アメリカから緊急にコメが輸入された。この「平成の米騒動」に触れるテレビもあった。

東京はしかし、消費地だ。消費地がそうなら、地方の生産地はもっと深刻だろう。どこかのハウス農家が、キュウリが曲がってしまう、と嘆いていた。福島県の浜通りも「日照は平年の半分」と、きのう(7月15日)、ローカルテレビが伝えていた。

日照不足と低温の影響が徐々にあらわれている、といったらいいか。いわきの直売所やスーパーでも、キュウリが1本50円を超えた。夏井川渓谷の隠居では、キュウリが生(な)りはじめたばかりで、まだまっすぐだが、これから低温の影響で曲がらないともかぎらない。

わが家の庭のプラムは、今年はいっぱい生ったが、どうも水っぽい。カミサンから「早く摘んで」と催促されたが、味がイマイチなので収穫する気にはなれなかった。落果するにまかせた。

農作物だけではない。いわきでは土曜日(7月13日)に海開きが行われた。震災前、いわきには10の海水浴場があった。今年は、新たに久之浜・波立が加わって、四倉、薄磯、勿来の4海水浴場がオープンしたが、この梅雨寒ではカンコドリが鳴いている?

おととい(7月14日)、暮らしの伝承郷へ出かけたら、ロビーで“はせぎ”につるした麦わらを、下からサーキュレーターで乾燥させていた=写真。今度の土曜日、つまり小中学校の夏休み初日、「麦わらの虫かご作り」が行われる。そのための下準備だった。

このまま梅雨が明けたのかどうかさえわからず、「寒さの夏」が続いたら……。冷害で米騒動が起きた平成5年以来の、「令和の米騒動」になりかねない? 26年前は、首都圏の同級生から「米を売ってくれ」と、SOSの電話が入った。そうなっても、まずはお得意さんから、となる。とにかく早く太陽の顔を拝みたい。

2019年7月15日月曜日

いわきの郷土料理展

 きのう(7月14日)は朝、平地区(旧平市)家庭バレーボール大会に顔を出した。神谷地区(旧神谷村)大会でわが区のママさんチームが優勝した。それで、次の大きな平地区大会に出場することになった。区を代表して応援に行った。
 午後には、70~75歳未満の運転免許更新に必要な「高齢者講習」が待っている。前半の戦いを終えたところで帰宅すると、カミサンが出かける準備をして待っていた。「暮らしの伝承郷で『いわきの郷土料理』展が始まったから行こう」

いわき地域学會が、市の委託を受けて市内の伝統郷土食を調査し、平成7(1995)年3月に報告書をまとめた。調査リーダーはハマの江名で生まれ育った故佐藤孝徳さん。私は校正を担当した。

それから15年後の平成22(2010)年、市が昔野菜(在来作物)の発掘調査事業を始めた。27年度までの6年間に発掘・調査と展示、実証圃(ほ)での栽培、フェスティバルの開催、冊子の発刊などを実施した。これにも冊子の巻頭言を書くなどして間接的にかかわった。

初年度に原発震災が発生した。「今、記録しておかないと」。受託したいわきリエゾンオフィス企業組合のスタッフが市内を駆けずり回って、さまざまな昔野菜を発掘した。伝承郷とのコラボも進み、園内の畑で「小白井(おじろい)きゅうり」などが栽培されている。

「いわきの郷土料理」展は、そうした先行調査の知見と栽培の経験を踏まえて企画されたものだろう。時間的にはせわしいが、機会をのがすといつ行けるかわからない。カミサンのいうとおりに車を出した。

 写真展示だが、見ればやはり発見がある。いわきのハマを代表する夏の料理といえば、カツオの刺し身と焼きびたし。この二つが真っ先に展示されている。刺し身はもちろん、醤油とおろしにんにくで。焼きびたしは、昔、食用油をそんなに使えなかったから、焼いてたれに漬けたのだという。ほかにも『伝統郷土食』や『昔野菜図譜』でなじみの食材と料理の写真が並ぶ。

かんぴょうにするユウガオは、機械にかけて外側から削るとばかり思っていたが、薄く輪切りにして内側から外へと手がんなで削っていく。大量に商品を製造するわけではない。手仕事が基本の「自産自消」ではその方が楽なのだろう。

小白井きゅうりは、皮をむいてどぶ漬け(関西では糠味噌漬けのことをいうが、福島県では塩水に漬けることをいう)にする。

この企画展は前日の土曜日、開幕した。きのうはその関連行事として、「野菜の収穫体験」が予定されていたが、あいにくの雨だ。伝承郷のスタッフが代わりに、小白井きゅうり=写真=その他を収穫して持ってきてくれた。

朝から動き回り、座学と実地講習に疲れて帰ると、またカミサンが街へ行きたいという。ならば、帰りは魚屋へ直行だ。「きょうのカツオは今年(2019年)一番の味です、福島県沖で獲れました」。一群がようやく北上してきた。食卓にはこれにもう一品、小白井きゅうりのもみ漬けが加わった。

確かに、カツオの刺し身はうまかった。さっぱりした甘みが口中に広がり、後々まで旨みが残った。それと前後して、やわらかくてシャキシャキしたきゅうりもみを楽しんだ。家を出たり入ったりすること4回。さすがに困憊気味で晩酌を始めたから、カツオも小白井きゅうりもうまさが倍加した。

「いわきの郷土料理」展は9月29日まで。「野菜の収穫体験」(観覧料が必要)は7月21、28日、8月4、11日と、いずれも日曜日午前10時から正午まで行われる。8月14日の月遅れ盆には、いわきの伝統芸能・じゃんがら念仏踊りの唄にも出てくる「十六ささげのよごしとなす汁の振る舞い」が予定されている。

2019年7月14日日曜日

歩道の花壇とごみ屋敷

 最近、平市街の旧国道6号(平大通りと交わる十五町目交差点を境に、東は国道399号、西は県道いわき上三坂小野線)を行き来する回数が増えた。朝、昼、晩と、通る時間も異なる。
ある日の午後、平消防署前の交差点で信号待ちをしていると、歩道の花壇で土いじりをしている人が目に留まった=写真。ポットの花苗を移しているようだった。マリーゴールドらしいが、車からはよくわからない。

 作家の角田光代さんの文章が思い浮かんだ。彼女が書き、カメラマンの平間至さんが写真を撮った。確か「文藝春秋」に載った大手不動産会社のコマーシャルだ。タイトルは「ささやかさ」。

「差し出されたお茶とか、/てのひらとか。/毎朝用意されていたお弁当とか、うつくしい切手の貼られた葉書とか。/それから、歩道に咲くちいさな赤い/花とか、あなたの笑顔とか。/私たちは日々、だれかから、/感謝の言葉も見返りも期待されない/何かを受け取って過ごしている。/あまりにもあたりまえすぎて、/そこにあることに、ときに/気づきもしないということの、/贅沢を思う。幸福を思う。」

「凡事徹底」を社是としている会社へ行ったときと、京都の清水寺の散策路でブロアーを手にして落ち葉を吹き飛ばしている人を見たとき、やはり角田さんの「ささやかさ」を思い出した。

清水寺では思わず作業をしている人に声をかけた。「毎日やってるの?」「そう、第二の人生」。定年で自分の仕事を終えた人が、境内の散策路をきれいにする作業に生きがいを見いだしていた。美観だけでなく、観光客が落ち葉で足をすべらせないように、という配慮もあるのだろう。

ポイントは、「私たちは日々、だれかから、/感謝の言葉も見返りも期待されない/何かを受け取って過ごしている。」。きれいな花壇の向こうには、それを維持している人がいる。その人は別に、そのことを認めてほしくてやっているわけではない

花壇と比較するわけではないが、消防署の先の歩道沿いに「ごみ屋敷」がある。きのう(7月13日)、車で通ると、歩道と家との境にパイプで仕切りのようなものが組まれていた。道路管理者の県が歩道にごみ袋があふれるのを防ぐために“壁”を設けたか。

大家が借家人である老人に退去を求めて提訴――という小さな記事を、前に県紙で読んだ。それも含めて、なにか変化があるのかもしれない。

けさは用があって消防署の近くへ出かける。“壁”がどんなふうになったのか確かめよう(追記=パイプの足場に2階部分から幕のようなものがかけられていた。通りからごみ袋を見えなくする“壁”だったか)。

社会は雑多なものがまじりあって流動している。花壇の手入れも、「ごみ屋敷」の“壁”も、流動する社会の一コマではある。

2019年7月13日土曜日

「陸上はどうだ?」

 6月に開かれた陸上の全米大学選手権――。フロリダ大学に留学しているサニブラウン選手が100メートルで9秒台を出した。桐生祥秀選手のときにもそうだったが、日本人が100メートルで10秒の壁を破ると大ニュースになる。いや、ただの大ニュースではない。歴史的な“事件”だ。
 同月28日、テレビで2人が出場する日本陸上競技大会の100メートル決勝を見た=写真は翌朝の「おはよう日本」から。雨中の闘いになった。1位・サニブラウン、2位・桐生。現時点では、サニブラウンが日本のトップランナーということがはっきりした。

 高専時代、陸上競技部に所属していた。100メートルは速い人間が何人もいたので、縁がなかった。高専大会では、走り幅跳びとマイルリレー(当時は1600メートルリレーといった)に出場した。

 桐生が日本で初めて9秒台のタイムを出したころから、当時の陸上の記憶が少しずつ浮かび上がってくるようになった。2人の孫が小学生になる、下の孫が運動会でリレーに出る、校内の持久走でトップになる、といったことが大きいようだ。

上の孫は、小さいころから病気がちだった。ぜんそくの持病がある。水泳を習い、サッカーの練習をしているが、体育会系ではなさそうだ……と思っていたら、6年生の今年(2019年)、突然、学校の運動会でリレーのメンバーに選ばれた。いわき陸上競技場で開かれた小学校陸上競技大会(平ブロック)では、80mハードルと4×100mリレーに出場した。

80メートルハードルのブロック1位は13秒25、孫は2位の13秒71だった。夕刊のいわき民報に掲載されたほかのブロックの記録を見ると、1位はすべて14秒台。いわきで13秒台は2人だけだったことになる。

先日、親に頼まれて上の孫をサッカーの練習場へ送って行った。そのとき、珍しく上の子が胸を張った。「(80メートルハードルは)総合2位だよ」。学校は違うが、1位の子とは保育園が一緒だったという。いいライバルがいたものだ。

車中でこんなやりとりをした。「中学校では何部に入るんだい。陸上はどうだ?」。サッカー部に入りたいようだが、部はあるのかどうか。

「ジイジも陸上をやったんだ。走り幅跳びとマイルリレー。マイルは400メートル×4。1600メートルだからマイル。400メートルのトラックを一周すると、酸欠で肛門が痛くなったな」。「陸上部もいいか」となってくれたら、“老先輩”としてはシメシメだが。

2019年7月12日金曜日

小館と大館の関係は?

 おととい(7月10日)、きのうと、いっときだが青空が広がった=写真。そんなときに限って家の中があわただしくなる。隣に住む義弟が少し体調を崩したので、この3日間、運転手としてわが家と福島労災病院(内郷)の間を行ったり来たりした。2週間ほど入院することになった。
病室は5階南側。廊下をはさんで北側の病室から水石山(三和)が見える。ついでだから、内郷・鬼越の切り割りを通る市道(東側)と国道49号バイパス(西側)はどこに、と探ったが、廊下からはわからなかった。

 切り割りの49号バイパス沿い、好間側の丘に「小館(こだて)」というところがある。その東方、市道の切り割りから東側は、同じ好間の「大館(おおだて)」。切り割りにする前は、阿武隈高地の東縁から指のようにせり出した一連なりの丘陵だった。

いわき民報が平成7(1995)年に連載した「しんかわ流域誌」のなかで、中山雅弘さんが「戦国大名岩城氏と城下町」と題して書いている。「岩城氏が戦国大名になると、拠点を白土から大館に移します。現在、大館はいわき市平の大館と好間町の大館と二カ所が隣接していますが、岩城氏一族が主に住んでいたのは平の大館で、好間町・大館は詰め城(いざというときにたてこもる場所)です」

アジア・太平洋戦争で捕虜になった連合軍の兵士が、古河好間炭鉱で働かされた。その宿舎が小館にあった。それを知って以来、小館と大館の関係が気になってしかたがない。

たびたび言及しているので恐縮だが、吉野せいの作品集『洟をたらした神』の注釈づくりをしている。「麦と松のツリーと」に、若い捕虜がせいたちの住む菊竹山(小館の向かい山)へクリスマスツリー用の木を探しに来る。モミの木はない。代用として、こじれた若い松を採る。

以来、捕虜収容所のあった小館について、地形・地質はもちろん、戦国時代から近代まで、通しで歴史を押さえておきたくなった。

「詰め城」のあった大館は、南に新川流域を望む。丘の北西端に位置する小館は、北に好間川流域を望む。戦国時代、眼下の領地を見守るように、大きな「詰め城」と小さな「詰め城」があった? つまり、大館に対して小さいから小館? はたまた、それとは関係なく、大館は大館、小館は小館?

考古や歴史の門外漢は、専門的な常識からはずれて好き勝手に空想する、いや、思いつきや結びつき、ひらめきを楽しむ。大館・小館のつながりの有無をいつか中山さんに聞いてみよう。